相馬には、会社組織での複雑な関係のなかで、何かが自分を疎外していること、負け犬的な存在にされていることへの不満、怒りがある。しかとは目に見えない曖昧な組織関係のなかで、混沌として敵が誰かわからない。その苛立ちの感情を、肉体の暴力的なエネルギーで解消したいという無意識があるようだ。
 そして、その無意識は、ライバルで恋敵である伊藤を相手にしての柔道の稽古に噴出する。伊藤にはいつもその肉体の力の差で畳に叩きつけられている。そしてその日も――、
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 社内での練習でもいつもそうだった。無理やりつかみこんで来て、腰に乗せる、投げる、そしてのしかぶさってかくる。(中略)今日はその総仕上げだ。京子の目の前で決定的に踏みにじられてゆく。その先に伊藤と京子の結婚があるのだろう。相馬を切り捨てられない京子の心のほんのわずかな部分。そこだけで繋がってきた四年間。昨日の夜の言葉が相馬の頭に蘇ってくる。おれはここでぶざまに負けるべきなのだ。そうすれば本当に自分とのしがらみを切って京子はこの男の胸に飛び込んでいけるのであろう。
 相馬はねじくれた心の苦しさに耐えようとする。なんだったのか自分は。今あの高いスタンドから、腰を引いてヨタヨタと逃げ回っている頭髪も薄くなりはじめたみじめな中年入口のこの俺を、どんな気持ちで見下ろしているのだろう。相馬にはそんな終わり方で、青年時代のピリオドは耐えきれないことだった。
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 このあと、描写は京子の視点になり、負け犬のように伊藤によって畳に叩きつけられる相馬をみる。相馬は激情にかられ反則技で脚をからめて、自分か伊藤の脚を折る可能性のある危険な技に出る。そこから、視線は突然、京子に移動する。

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 その時はじめて京子には相馬が見えたような気がする。(中略)はじめて相馬の全身がはっきり見えたようだ。人生丸ごと足払い一人の男のそのおしまいの姿。
 もつれて一体となって倒れていく二人。脚が折れた音がきこえたようだ。
 見つめ続ける相馬。迎えてはじき返す京子の視線。刺し合った二つの視線のままで時間は止まった。
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 小説は、ここで終わる。時間が止まるというということは、物語が進行しないということである。実に正直といえば正直で、作者は書きたい肉体のエネルギーを表現したので、その後は語る必要がなくなったのである。
 余韻があると言えば、そうであるが、それなら散文詩で充分である。
 物語のある小説の形式に当てはめると、前半から相馬の歪んだ心のへの問題提起は、そのそぶりだけで、対応する物語の回答をもっていない。小説というより、叙事詩としての言葉の舞踏を読まされたという感じがする。 
 ここでもし、この小説を相馬がなぜ本来のスポーツマンシップに沿った正しい倫理観を持てなかったのか、という問題提起に関わっていくように仕向け、そこに相馬ののっぴきならぬ事情が説得力をもって示せれば、読者の同情心を獲得したかもしれない。
 しかし、時間が止まったという詩的表現で済ますことで、長編叙事詩的な表現の範囲を出ることがないと思えるのだ。
 社会が相馬に与えたフラストレーションが、個人の特性いわゆるキャラクターなのか、社会ゆがみの産物なのか、その手がかりが見出せない。(了)
《外狩雅巳「足払い」穂高健一ワールドサイトに掲載中》
IMG_20140503_0001_1<外狩雅巳の短編小説「足払い」は、「2014年・外狩雅巳の世界」(文芸同志会)に収録されています。また、既刊「十坪のるつぼ」(日本文学館)にも収録されています。>《参照:作家・外刈雅巳のひろば