「工場と時計と細胞と」1〜2部について、推敲と編集の段階に入った。 3月25日の文芸同志会通信で北一郎氏がこの作品に触れている。《参照:「工場と時計と細胞と」に読む》 資本主義における所得格差や米国大統領選のサンダース候補の登場やピケティの資本主義論等も持ち出している。
  作品の視点にはヘーゲル弁証法の社会発展論での解析で読み込んでくれている。
  また、幸せな日常を書いたとも伝えられた。不幸を書かない作品だと言うのだ。
  さらに、ネットでの分載についても創作過程の内情や可能性にも触れている。
  三月に一段落し作者よりの報告も行ったが未完成作品の補強を続けている。
  今回、登場人物や場面・視点などを修正して叙事詩作品として検討中である。
  毎週連載で各回毎の場面変換・視点変換で飛び飛びの進行を26回も連続している。
  物語の非継続性や視点の多様化が通読を妨げ良く分からないと言われた事もある。
  北一郎氏は当作品を理解してこの手の表現法には多くの事例もあるとしている。
  私は肝心なのはアッピール度であり刺激的展開かも知れないと考えている。
  現実社会で進む右傾化に切り込むのには、何処が読まれ理解される必要があるのか。
  生硬な政治理論ではなく日常の職場風景の描写からの警告ができるのか。
  小林多喜二の「党生活者」は時代の要請にこたえていると思います。
  現代にはどのような作品化が必要なのか。その実験作品のひとつです。
  回顧調で書かなかったし、多角的な視点を使用したのも初めての事です。
  北一郎が独自解読で、時事問題に絡め触れているが作者の動機と一致している。
  しかし文芸作品である。人物の立ち上がり等が評価されるのであろう。
  細切れの場面では連続的な人物追及は難しくリアリティに欠けてしまう。
  水面下の工夫・妥協が北一郎にはどう読まれるのか課題も多くある。
  今後、北一郎の発言毎に検証し対論も行いたい。
《参照:外狩雅巳のひろば》