IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で「金子兜太の戦争一一逐動体から存在体へ」を講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
 トラック島でのあらましを要約します。
 着任した島は、半年ほど前に、米軍機動部隊の急襲で為す術もなく航空機二七〇機,艦船四三隻を失っていました.邦入の女性,慰安婦らはすでに帰国させていました。サイパンの日本軍が壊滅した時点で、トラック諸島への補給が絶たれていたのです。
 そんな島で兜太は施設部の工員の二〇〇人を率います。ところがこの工員たちは、日本で食えずに南方にやってきた無頼な連中でした。そんな島の様子を兜太はこう語っています。

「(工員たち)は、先住民カナカ族の娘を暴行し、仕返しに蕃刀で斬殺される事件が続いた。男色が「気に広が
り、若い男を取り合う殺傷沙汰が相次いだ。気に食わないと上司を殺し.自害する工員も出た。私は詩.心のある西沢実陸軍少尉と陸海軍合同の句会を主宰した。『皆を句会で慰めてくれ』と上官に言われていたからだ..」と。(『存在者金子兜太』談)

 そんなある日のこと,兜太が何遍も書き、かならず講演で話す事件がおこります。
 要約しますとこんな事件です。
  武器庫の補給も途絶えたので、工作部が手榴弾を試作した。その実験を兵隊ではなく、兵隊以下の扱いの工員にやらせることになった。その実験で、実験役の工員が起爆のために手榴弾を鉄塊に当てた瞬間、爆発した。体が宙に浮き、落ちた。右腕が吹っ飛び、背中の肉は運河のようにえぐれた。
するとその工員を大きな工員が背中に担ぎ上げて駆けだした。工員の一団も「わっしょい、わっしょい」と伴走した.兜太も一緒に走ってニキロ先の病院に担ぎ込んだがすでに死んでいた。
  普段は身勝手な工員も仲間を本能的に救おうとした。人間の芯は善だ,その入間をいたずらに殺す戦争は悪だ.そう確信した兜太は、この事件を機に戦争を僧むようになった、といいます。
  更に食料が欠乏し、フグやトカゲを食べて病死したり餓死する者が統出します。毎日、五〜六人の餓死者がでた。兜太の部隊では二百人中、五十〜六十人が死んだ。全員が生死の境にいた、と言います。
  そんな中で、四五年に日本は敗戦します。翌年、兜太は米軍捕虜として、春島の米航空基地建設に従事させられます。ところがトラック島での体験を詳述した『あの夏、兵士だったた私』によりますと、「米箪の海兵隊員はとにかく明るい連中が多い。捕虜生活はとても楽しかつた。」などと、述べています。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
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 原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(一九九〇〜二〇一四)の同人であった。二〇〇一年一二月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念
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