IMG_20210813_0001_1_1<「さうんどプレイ」11号。表紙:立山崇(1934--2004)>
 立山崇画伯とは、仕事の打ち合わせだったのか、なんで誘われたか忘れたが、多摩川に近い川崎市あったお宅を訪問した記憶がある。川崎市には岡本太郎という巨星アーチストが、存在していて、立山画伯は、その地での隠れた天才であったのだろう。
 当時の彼に関する知識でわかっていたものは、九州飯塚出身。1956年早稲田大学中退。大沢昌助に油絵師事。1956年、二科展初入選。以後毎回入選。1965年二科展特選。神奈川県展受賞、ロータリアン賞展受賞。1973年、二科展ローマ賞受賞。1979年、伯展最優秀賞受賞ーーなどであった。
  立山画伯が、「さうんどプレイ」誌の表紙に独創的な原画を提供したのには、それなりの理由があったーー。芸術がこの世界で息長く尊重される要因をみると、それはコマーシャルペースに乗ったものが多い。コマーシャルベースで残ることで、時代がたつと、それが芸術となる。日本画しかなかった日本には、油絵も、写真もなかった。それが商業ベースに乗って定着したーーと話してくれたのをきいたことがある。
  DENONブランドのPR誌「さうんどプレイ」は、日本コロムビアのM事業部長とその部下たちによって、音楽の芸術文化性を高めることに結び付けることを、ポリシーにした。毎号の特集記事をその思想に沿って執筆した。その時に北にヒントを与えてくれたのが、同社のO技師であった。
  当時、マーケティングの世界では、オーディオ・セカンドブランドには、語数が多いものが有利とされた。ブランド戦略として松下電器はテクニクス、トリオは、お笑いトリオのイメージがつくと、輸出用ブランドのケンウッド、三菱はダイヤトーン、東芝はオーレックスなど、カタカナの長い名称をつけた。そのなかで電気音響製作所に由来する「電音」を活用したのは、その技術がNHKの放送研究所の技術であったからだ。そこには戦前の中島飛行機の技術者がいたという。DENONのレコードプレヤーやカートリッジはNHKが採用していたからである。プロ用の技術と性能を民間で使っている―これがDENONブランドの柱であった。