「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

北一郎の庭

詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(7)

IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
  詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語るの第7回より、コスモス忌の集いの会報『「コスモス倶楽部」N−ro26』に記録された講演録より、以下に抜粋編集したものをを紹介する。
  原満三寿「金子兜太の戦争ー運動体から存在体へ」
  本日は、俳人金子兜太さんが今年二月二十日に、九十八歳で他界しました。そこで、兜太さんの戦争体験とその後の軌跡を兜太さんの俳句に添いながらご一緒にみていただければと思います。話の順序は、まず「金子兜太ブームについて」触れ、ついで兜太さんと「私との関係について」述べ、それから本題に入っていきたいと考えております。
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ーー金子兜太ブームについてーー
  金子兜太さんの生涯は、俳人としてまれにみる輝かしい存在でした。さらに晩年は、「アペ政治を許さない」のボスタrの揮篭者として、戦争反対の先頭にたって活躍し、その豪放嘉落な性格から一般人にも慕われ、金子兜太ブームが興ります。ーー各地の句碑の写真でもその人気の 端を窺うことができます。旬碑は正確な数はわかりませんが、八十基くらいはあるのではないでしょうか。句碑は全国に何千とあり、兜太さんより句碑が多い俳人も数人はおるでしょうが、存命中にこれだけの句碑をもったのは、兜太さんが一番のように思われます。
  いずれも豪快な句碑ばかりです。故郷の秩父には十二基の句碑があり,「兜太句碑巡り」なんていう観光コースもあります.。
basyou sora<芭蕉と曽良像。新庄市ホームページから>
また、芭蕉で有名な最上川には、景勝地の八向神社の側に川を背にした兜太夫妻の句碑が立ち.近くの芭蕉の渡舟場には、芭蕉・曾良の像があり、そこまでのわずかな通りを、兜太さまがお通うになった記念の「兜太通り」というネーミングがついたものもあろほどです。芭蕉もびつくりでしょう。生前の人気は、その俳句や生き様を著した多くの本に紹介されていますが、その死とその後の賑わいを紹介します。
(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
      ☆
 原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(一九九〇〜二〇一四)の同人であった。二〇〇一年一二月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念
■関連情報=俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏

リバーサイド無情 (二・完)  北 一郎4

 IMG_2346IMG_2332IMG_2343<カット写真:伊藤昭一。2020年4月>    


 さすらい人のハウスに、これまたさすらいの野良犬が番犬に座る。
  カシャカシャという、単調なリズム音は、アルミ缶をつぶす作業をしているらしい。
  だからそこは、水と緑にかこまれた川風そよぐ町、リバーサイドハウス。
  奥深い葦原の河川敷。ここに手紙が届くことはないだろう。どこかさびしいのか、男が餌を宙に投げた。舞うのは都鳥、白い羽のユリカモメ。
  川向こうは川崎市。高くそびえて見えるのは、高規格堤防(スーパー堤防)特別区指定。
  だからそこは、水と緑にかこまれた川風そよぐ町、リバーサイドマンション。
  堅い扉の向こう三軒両隣。番犬のいらないオートロック、冷たく静かなエントランス。土地の権利や賃借契約書、固定資産税、私有物に国の支配。
  岸辺に春の光と草いきれ。ノビル、カラスノエンドウ、春女苑。

  ツメクサ、カタバミ、ハハコグサ、イヌフグリ、姫女苑。川面で跳ねるのは鯉であろう。
  川のある下町の、憂き世に、逃れるところがあるのか,川は言葉を持たず流れ去って答えず。
  流木に腰をかけ、缶ビールを飲む。葦の葉影に人影が、その脇にリバーサイドハウスの青い屋根。さてはここはまだ生垣内の領域であったか。
  こけた頬に無精ひげ、人づきあい無用のさすらい人は、欲を捨て、草木とともに、いっさいを無に返し、忘れられないことも忘れて、酒をくれる人がなくても平気、と、思うのは勘違いというもの。
  男は同じ流木に腰をかけ、私の手の缶ビールに視線を投げる。バ
ッグにあったもう、個の缶ビール、どうぞと差し出せば、男は無愛想に受け取った。くだんの男はビールを一口飲んで、おどろくことに口をきいた。
  「今日は良い日和ですね」
  これはどうしたことか。国有地の河川敷、勝手に使うさすらい人は、究極のアナーキスト。束縛逃れたさすらい精神、たかが缶ビールで、世俗的なお世辞を言わせるとは。私にお世辞を強要する権利はないのだ。
  バクーニンは百年前に言ったーー国家は人間の意志の合法的強制者であり、自由の否定者なのだ。国家が善を命令する時ですら、命令するというそのことのために善を無価値なものにしてしまうーー。

  川は言葉葉なく流れ、東京湾河口の羽田空港へ、そしてリバーサイドからベイサイドに消える。
  下流域のところどころに灌木が点在していた。くだんの男は機嫌よさそうにつぶやいた。
  「優雅なもんですよ、あそこの木で、いつでも自由に首吊りができるんです」
         ☆
《参照:北一郎詩集「有情無情、東京風景」文芸同志会
■関連情報=文芸同志会のひろば

リバーサイド無情 (一)  北 一郎

2bdba56d.jpgbankenn<カット写真:伊藤昭一。2007年9月>    


(一)
川のある下町の
向こう三軒両隣
狭く息苦しくもある路地を逃れて
缶ビールをバックに
土手を歩けば
多摩川大橋から下流は
六郷川
六郷橋があって
河岸に青いテントが並ぶ
    (二)
ホームレスと称するものの
国有地河川敷に自由に建てられた小屋
生垣のようなもの
門扉があり玄関道がある
邸宅風のデコレーションは
手づくりの技
川面に映るリバーサイドハウス
向こう三軒両隣はなく
草木の風光
孤独と自由のリスクは
ゲリラ豪雨と台風だ
救助隊のヘリコプター音高く
それでも
十人か十三人が流され消えた夏
名もなき屍は東京湾に出て
弔う人なき宿命の
捜索隊の出動の噂もきかず
         ☆
《参照:北一郎詩集「有情無情、東京風景」文芸同志会

上田城祉のよろけ逍遥記(7)  北一郎

IMG_1498IMG_1497<天正11年(1583)、真田昌幸(幸村の父)が上田城を築くとき、本丸の入口右手の石垣に高さ 約2・5メートル、横3メートルほどの大きな石を柱石として据えた。城内で最も大きな石である。元和8年(1622)、真田信之(幸村の兄)が松代へ移る時この石を父の形見に持って行こうと したが、数万人の人夫の力でも動かなかったというーー解説がある。>
  おりしも、ペシャワールの中村哲医師が、かれと行動をともする5人の村人と一緒のところを、銃撃されなくなったというニュースがあった。以前に、アフガンの地域は、日本でいえばまだ戦国時代のようなものと、いっていたのを記憶している。ただ、中東の政治的な統治には、常に反政府意識があるそうである。これは、統治のやり方が、暴力的なのと、少数の集団の集まりや宗教の派閥があったりして、国家統一に関心が薄いのではにないか。冷遇された人々は反政府勢力となって散在しているらしい。ISという団体がなくなることはないらしい。日本は島国だし、領土の田畑を破壊すると価値がなくなるので、破壊的なことはできるだけ避けようとしてのではないか。やはり日本は特殊な国であるらしい。
  例によって菊池寛の「真田幸村」から引用する。
ーー大阪入城
 関ヶ原の戦後、昌幸父子は、高野山の麓九度かむろの宿に引退す。この時、発明した内職が、真田紐であると云うが……昌幸六十七歳にて死す。昌幸死に臨み、わが死後三年にして必ず、東西手切れとならん、我生きてあらば、相当の自信があるがと云って嗟嘆した。
 幸村、ぜひその策を教えて置いてくれと云った。昌幸曰く策を教えて置くのは易いが、汝は我ほどの声望がないから、策があっても行われないだろうと云った。幸村是非にと云うたので、昌幸曰く「東西手切れとならば、軍勢を率いて先ず美野みの青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかし、それは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって、瀬田へ引き取るのだ。そこでも、四五日を支えることが出来るだろう。かくすれば真田安房守こそ東軍を支えたと云う噂が天下に伝り、太閤恩顧の大名で、大阪方へ附くものが出来るだろう。しかし、この策は、自分が生きていたれば、出来るので、汝は武略我に劣らずと云えども、声望が足りないからこの策が行われないだろう」と云った。後年幸村大阪に入城し、冬の陣の時、城を出で、東軍を迎撃すべきことを主張したが、遂に容れられなかった。昌幸の見通した通りであると云うのである。
IMG_1501<博物館に入ると、撮影可のものがあったのでとった。戦う形としての鎧である>
 大阪陣の起る前、秀頼よりの招状が幸村の所へ来た。徳川家の禄を食はみたくない以上、大阪に依って、事を成そうとするのは、幸村として止むを得ないところである。秀頼への忠節と云うだけではなく、親譲りの意地でもあれば、武人としての夢も、多少はあったであろう。
 真田大阪入城のデマが盛んに飛ぶので、紀州の領主浅野長晟(ながあきら)は九度山附近の百姓に命じてひそかに警戒せしめていた。
 所が、幸村、父昌幸の法事を営むとの触込みで、附近の名主大庄屋と云った連中を招待して、下戸上戸の区別なく酒を強しい、酔いつぶしてしまい、その間に一家一門かねて用意したる支度甲斐甲斐しく百姓どもの乗り来れる馬に、いろいろの荷物をつけ、百人ばかりの同勢にて、槍、なぎ刀の鞘さやをはずし、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪をさして出発した。附近の百姓ども、あれよあれよと騒いだが、村々在々の顔役共は真田邸で酔いつぶれているので、どうすることも出来なかった。浅野長晟之を聴いて、真田ほどの者を百姓どもに監視させたのは、此方の誤りであったと後悔した。
 その辺、いかにも軍師らしくていいと思う。
 大阪へ着くと、幸村は、只一人大野修理治長の所へ行った。その頃、薙髪していたので、伝心月叟(げっそう)と名乗り、大峰の山伏であるが、祈祷の巻物差しあげたいと云う。折柄修理不在で、番所の脇で待たされていたが、折柄十人ばかりで、刀脇差の目利きごっこをしていたが、一人の武士、幸村にも刀拝見と云う。幸村山伏の犬おどしにて、お目にかけるものにてはなしと云って、差し出す。若き武士抜きて見れば、刃やいばの匂、金かねの光云うべくもあらず。脇差も亦然り。とてもの事にと、中子(なかご)を見ると、刀は正宗、脇差は貞宗であった。唯者ならずと若武士ども騒いでいる所へ、治長帰って来て、真田であることが分ったと云う。
 その後、幸村かの若武士達に会い、刀のお目利きは上りたるやと云って戯れたと云う。ーー

上田城祉のよろけ逍遥記(6)  北一郎

IMG_1490IMG_1491IMG_1492<城内唯一の大井戸でもあった。この井戸からは抜け穴があって、白の北方、太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの伝説もあるという。> 《参照:真田神社
  菊池寛は、日本史を材料にして小説化し、読者の教養を高める意味があったらしい。「真田幸村」にはこうある。
   ―  昌幸が、上田城を守って、東山道を上る秀忠の大軍を停滞させて、到頭関ヶ原に間に合わせなかった話は、歴史的にも有名である。
 関ヶ原役に西軍が勝って諭功行賞が行われたならば、昌幸は殊勲第一であったであろう。石田三成が約束したように、信州に旧主武田の故地なる甲州を添え、それに沼田のある上州を加えて、三ヶ国位は貰えたであろう。
IMG_1494IMG_1495IMG_1496<地形的にかなの防御の硬い城であったのであろう。それに広い。上田電鉄の2駅か3駅ぐらいまでは、上田城の範囲で、そのまわりが城下町になっていると、思うとどこからどう攻めたらよいのか戸惑うのではないか。>
ーー真田安房守昌幸は戦国時代に於ても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉隆、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗位の仕事は出来たかも知れない男の一人である。その上武威赫々たる信玄の遺臣として、その時代に畏敬されていたのであろう。大阪陣の時、幸村の奮戦振を聞いた家康が、「父安房守に劣るまじく」と云って賞めているのから考えても、昌幸の人物が窺われる。所領は少かったが、家康などは可なりうるさがっていたに違いない。
 秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、使を命ぜられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う。昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途、また搦手に来り、通らせてくれと云う。昌幸又易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云って感嘆したと云う。
 此時の城攻めに、後年の小野次郎左衛門事神子上典膳が、一の太刀の手柄を表している。剣の名人必ずしも、戦場では役に立たないと云う説を成す人がいるが、必ずしもそうではない、寄手力攻めになしがたきを知り、抑えの兵を置きて、東山道を上ったが、関ヶ原の間に合わなかった。
 関ヶ原戦後、昌幸父子既に危かったのを、信幸信州を以て父弟の命に換えんことを乞う。だが昌幸に邪魔された秀忠の怒りは、容易にとけなかったが、信幸父を誅せらるる前に、かく申す伊豆守に切腹仰せつけられ候えと頑張りて、遂に父弟の命を救った。時人、義朝には大いに異なる豆州かなと、感嘆した。ーー

上田城祉のよろけ逍遥記(5)  北一郎

IMG_1486IMG_1487IMG_1488<上田城の櫓は戦国時代の構造がかなり再現されている。攻め寄る敵方に石を落として対抗する落とし口などもある>
  真田家は、武田勢、秀吉勢という強国に囲まれて、隣国に侵略させない工夫を迫られていた。菊池寛の小説「真田幸村」によると、次のような話になる。
IMG_1489<真田神社は、上田城本丸跡で、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していたという。地元の有力者の寄付により現在の姿があるという。この精神は日本独特のものであろう。>
ーー関ヶ原役の真田
 関ヶ原の時、真田父子三人家康に従って、会津へ向う途中、石田三成からの使者が来た。昌幸、信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。
 昌幸は、勿論大阪方に味方せんと云った。兄の信幸、内府は雄略百万の人に越えたる人なれば、討滅うちほろぼさるべき人に非ず、徳川方に味方するに如しかずと云う。
 茲ここで、物の本に依ると、信幸、幸村の二人が激論した。佐々木味津三君の大衆小説に、その激論の情景から始まっているのがあったと記憶する。
 信幸、我本多に親しければ石田に与しがたしと云うと、幸村、女房の縁に引かれ父に弓引くようやあると云う。
 信幸、石田に与せば必ず敗けるべし、その時党与の人々必ず戮を受けん。我々父と弟との危きを助けて家の滅びざらんことを計るべしと。幸村曰く、西軍敗れなば父も我も戦場の土とならん。何ぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来豊家の恩顧深し、石田に味方するこそ当然である。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、潔よく振舞うこそよけれ、何条汚く生き延びることを計らんやと。信幸怒ってまさに幸村を斬らんとした。幸村は、首を刎ることは許されよ、幸村の命は豊家のために失い申さん、志なればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い各々その理あり、石田が今度のこと、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、幸村と思う所等しければ、幸村と共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよと云って別れたと云う。
 この会談の場所は、佐野天妙であるとも云い、犬伏と云う所だと云う説もある。此の兄弟の激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に斬りかけようとするわけはない。必ず、しんみりとした深刻な相談であったに違いない。
 後年の我々が知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分っていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。
 そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互に救い合おうと云うような事も、暗々裡には黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。
 真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方の玉を出して置く両建と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する所以ではない。真田父子三人家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、十何万石の大名として残った。
 しかし、関ヶ原で跡方もなく亡んだ諸侯に比ぶれば、いくらかましかも知れない。ーー-

上田城祉のよろけ逍遥記(4)  北一郎

IMG_1470IMG_1471IMG_1484<戦国時代の遺跡から出てきたものが展jされている。左の写真は、火縄銃が箱に入れて置き場にしていた様子の再現であろう。>
 台風の直後に上田城公園に行ったのだが、これは旅館を予約してあったので、その日になったということで、途中で千曲川の氾濫した様子などを観ると、あまり気分はこつろがない。しかし、地元にとっては、キャンセルしない客として、役に立つのであろう。
 そのせいか、見物する観光客は少なくなかった。といいて多くもない。東京で外国人で混雑するところが多い昨今では、ゆっくりのんびりできてちょうどよい具合で、ありがたかった。
  近年は、「城を巡る人」が増えていという。全国的に見て、ここ数年は増加のピークは超えた感があるが、とくに上田はNHKの大河ドラマのあとであう。その当時にくらべれば、大幅な減少であろう。
IMG_1472IMG_1477IMG_1483<櫓から見える風景も、混雑していなくよいものだ。また、博物館では、大画面で真田家の俯瞰映像が見られる。歴史の勉強と空を飛ぶようなヴァーチャル感が面白い。>

上田城祉のよろけ逍遥記(3)  北一郎

IMG_1464IMG_1465IMG_1466<まず、南櫓に上ると、小松姫の駕籠がある。ちょっと小振りであるのが、女性向だとわかる。敵を攻撃する格子窓もあり、上の方は、上に上げて支える仕組みで、下の窓は弓、鉄砲などで眼下を狙う仕組みのようだ。本丸のから堀を見張る窓もあり、そこを超える敵を狙い撃ちするらしい。>  
  上田城の南北の櫓を見るには、入場券を買う。そして、櫓に上る。これで2回目の見学だが、今回は階段がが急に感じた。一年前より足元がおぼつかない感じがする。これが、時間の経過というものであろう。
上田城と櫓は、復元したものらしいが、江戸時代に一度取り壊したものを、また復元するというのは、城には人心の求心力をもつところがあるのであろう。
IMG_1467IMG_1468IMG_1469<敵の来襲に備えた櫓だが、おそらく武器の倉庫でもあったのではないか。南櫓と北櫓のつなぎの橋の部分は、こうではなかったろうが、こちらは脚が疲れたので、備えられたベンチで一休みした>
 また、菊池寛の小説では、−−天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿と和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使が板部岡江雪斎と云う男だ。
 北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。
IMG_1447<上田町筋にある真田幸村の解説版。強国の大名徳川家康と羽柴秀吉のせめぎ合いのなか、上州に於ける真田領地の中うち沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一を名胡桃城と共に真田領とするなど、敵に囲まれた小国の苦心の外交をする。現在も、世界のどこかで、似た苦労をしている国もあるはず。>
 江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣範直いのまたのりなおと云う武士が、我無しゃらで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閣に訴えた。太閣は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。
 昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。
 これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡江雪斎を捕え、手枷足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は亡ほろんだではないか。主家を亡して快きか」と、ののしった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも怯わるびれず、「北条家に於て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運の尽くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、半歳を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。
 秀吉その答を壮とし「汝は京都に送り磔にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時丁度奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。
 

上田城祉のよろけ逍遥記(2)  北一郎

IMG_1458IMG_1459IMG_1460<上田城祉の入口はまず、二の丸橋の奇妙な評柱がある(左)。字の読めない人でも、2の丸と箸の意味なのか。広々としたところである。10月21日>
  真田城は1583年真田昌幸が築城。それまで上田に城はなかったようだ。もっとも、現在は徳川時代に再建されたものが基礎モデルであろう。菊池寛の小説によると、上田家は、信濃の名族海野小太郎の末胤で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。
 一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。ーーとある。
IMG_1461IMG_1462IMG_1463<上田城の櫓門の周辺には、観光客の一団が、案内人の説明を聴いていた。そこら入ってすぐに南櫓と北櫓に入りるためのチケット売り場がある。南北櫓の渡りの空間から、上田城下町の見晴らしの良いところがある。わが人生の見通しの暗さを忘れ、一時の時空の旅ができた。>
 上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地であるそうだ。
 武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお前には上田をやると云った。
IMG_1446<真田十勇士の三好清海入道。『真田三代記』に書かれた人物だ。「立川文庫」の『真田幸村』では、猿飛佐助等とともに武者修行のために諸国漫遊をし、18貫もの樫の棒を軽々と振り回し、山賊を退治したり、剣士と渡り合ったりしている。坊主頭の大男で、力は強いが、どこか抜けたところに、愛嬌があって、好ましい豪傑という。子供心に残るキャラクターである。>
 昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田はわが鋒を以て、取った土地である。故なく人に与えんことかなわずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。
 家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。
 それを、昌幸が相当な軍略をもって、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉景勝に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。
 この競合せりあいが、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。
 その後、家康が秀吉と和睦したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。
 家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にてあるまじき也。使の聞き誤りならん。急き帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。
 徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。
 そこで、家康が秀吉に相談すると、
「真田もっとも也、中務が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。
 家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁に引かれて、後年父や弟と別れて、家康にしたがったわけである。ーーとある。

上田城祉のよろけ逍遥記(1)  北一郎

IMG_1444IMG_1457<長野・上田城祉公園には上田駅からすこしばかり歩く。商店街には、戦国鎧のモデルが置かれている。左は上田藩文武学校の跡地で、現在は高校になっている。10月22日>
  上田駅から城址公園まではすこし歩く。付近の横断歩道の信号待ちの時間は長い。よろけ脚では、急がずに行く。上田はNHKの大河ドラマ「真田丸」が2016(平成28)年1月〜12月に放送され、堺雅人や草刈正雄が主演。脚本が三谷幸喜で、なかなかの人気。そのおかげで観光客が増え、ブームになったようだ。
  我々とその先にの世代には、真田幸村と部下の十勇士活躍の講談話が印象にある。NHKのストーリーでは、信州の小さな領主・真田家に生まれた信繁(幸村)は、家族とともに戦国の世を必死にサバイバルしていく。そして迎えた大坂の陣——、知略と武勇を武器に抜群のリーダーシップを発揮、胸のすくような活躍をした真田信繁(幸村)。その波乱万丈の生涯を三谷幸喜が脚本で描く。
IMG_1506_1<上田城址への入口に休憩所のようなものがあって、そこに豊臣方の武将真田幸村の家臣である真田十勇士の看板がある。全部が実在したわけでなく、武勇伝のほとんどは架空のものだそうだ。時代小説作家の柴田錬三郎は、その面白さを「立川文庫」で読み、小説の参考にしたという。十勇士の活躍は、真田昌幸・幸村の九度山配流から大坂の夏・冬の陣までの間。父子を中心に、徳川家康の動静を探りながら縦横無尽に活躍する痛快なおもしろさは大好評を博した。その郎党の顔ぶれが猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・穴山小助・由利鎌之助・海野六郎・根津甚八・望月六郎・筧十蔵である。>
 IMG_1455<町のあちこちに真田十勇士の姿掲示版がたっている。まず、筧十蔵であるがどこにあったか覚えていない。>
 道を歩きながら、真田十勇士の力のなぎった姿をカメラに移すと、妙に孤独感が薄らぎ、次の勇士はだれか、という写す意欲がでてきた。筧十蔵は鉄砲の名手だという。ポルトガル人が種子島にきて鉄砲を伝えたのが1543年。1949年にはザビエルが、キリスト教を日本に伝えている。


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