「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

北一郎の庭

三田村鳶魚による「大菩薩峠」(中里介山)の考証(1)

  時代考証での三田村鳶魚といえば、ひと昔前は有名であったようだ。その彼が、中里介山の『大菩薩峠』を考証の面から批判している。
  ところが、だから「大菩薩峠」は、だめかというと、そんなことはない。いよいよこの作品好きになるようなものがあるのが、この批判である。これを読むと、三田村が相当に中里介山を気に入っているように、感じるのはひいきの引き倒しであろうか。
  まず、作品の頁を指定して、具体的に問題点を指摘し、正しい答えを用意している。次のように…。
ーー 一二頁のところで、宇津木文之丞の妹だといって、この小説の主人公である机竜之助を訪ねて来た女がある。
  その言葉に「竜之助様にお目通りを願ひたう存じまして」とあるが、この女は実は文之丞の女房で、百姓の娘らしい。文之丞は千人同心ということになっている。竜之助の方はどういう身柄であったか、書いてないからわからない。
  道場を持っているし、若先生ともいわれているけれども、あの辺のところに、郷士があったということも聞いていない。竜之助の身分はわかりませんが、しばらく千人同心程度としても、「お目通り」は少し相場が高い。
  「お目にかゝりたい」くらいでよかろう。書生さんを先生といえば、かえってばかにしたように聞える。わずかなことのようだけれども、これも各人の生活ぶりを知らないから起ることだと思う。
 それからそこで竜之助のところにいる剣術の弟子達のいうことを聞くと、「賛成々々」とか、「宇津木の細君か」とかいう漢語が出る。これはおよそ文久頃と押えていい話だと思うが、こんなわけもない漢語のようでも、まだザラに遣われている時ではない。ーー
  本を読むことの面白さは、物語を楽しむだけでなく、こうしたものも大変面白い。
  何がおもしろいかというと、もちろん時代考証の理解が深まることは当然だが、このように書いてしまっている中里介山の精神が伝わるような気がするからである。想像力が豊かに湧き出て、どんどん書き進む様子が伝わってくる。(北 一郎)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子(15・完)北一郎4

 パスカルの「パンセ」には、次のような考察がある。
『……人間のそれらの不幸はいずれもたった一つの事から由来すること、その一つのことというのは部屋のうちに休んでいることができないということであることを発見した……』(慰戯一三九)そして、暮らしに不自由しない男が、家で楽しく暮らしてさえいれば、航海に出たり、城を攻めたりしなければ、悲劇は起きないであろう、とする。
 他方、ショウペンハウエルは、人間は苦難と退屈の間を振り子のように行ったり来たりするものだと述べている。人間の退屈する性癖は、活動しないことへの警告だとする。つまり、行動を促し、定位置に存在しないことは、危険を分散するという利点があるということだ。
 その意味で、順子は人間の本質に自然に従った存在なのであった。秋声は順子のもつ情熱的性格にしばしば「真実」を見ているが、まさに的確であった。ただし、真実とはその時代のその価値観によるとしての話だが。
  小説「仮想人物」の書かれた意義は、庸三の苦悩は、秋声にとって、すでに過去であることによって、救済された苦悩に変わり、順子によって得られたその喜びは、失われた時の再現と定着であったろう。秋声は、最後の一行において『そして、その時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』と締めくくっているが、果たしてそうなのであろうか? 登場人物の鮮明な描写の数々を思うと、私にはそれは、彼の韜晦と照れがあるように思える。何故なら、それを書いている間は、意識は過ぎた時間の中を訪ね歩くからである。こうした意識の旅は、おおよそ現実の空虚さを克服し、創造的価値を生んでくれるものだ。 ( 完 )☆(著作・北 一郎)☆
  ーー 引用参考文献 ーー
徳田秋声「仮装人物」(講談社文芸文庫)
秋田魁新報社ホームペ−ジ「秋田・風と土のメッセージ・山田順子」
榊山潤「馬込文士村」(東都書房)
榊山雪「馬込文士村の人々と私(4)」/「季刊・わが町あれこれ」第十四号(南部文学ネットワーク)
山田順子「流るるままに」(ゆまに書房・復刻版)
木村毅「小説研究十二講」(新潮社)
パスカル「パンセ」(上)津田穣訳(新潮文庫)
デューウィ「哲学の改造」清水幾太郎・清水禮子訳(岩波文庫)


徳田秋声「仮装人物」と山田順子(14)北 一郎4

 小説デビュ−の処女作品が「流るるままに」ということもあるのか、山田順子が、如何にも転々と遍歴や彷徨をしたように思われがちであるが、実際はそうではない。それは機転と自信に満ちた行動力の結果であったようだ。
 秋声の「仮装人物」の卓抜なのは、こうした彼女の根源的ところを見事に描出していることである。
 九の章で、庸三が葉子の実家に行った時のことである。葉子の前の夫(モデルは増川であるが作中は、松川)は、その後彼女の実家の召使いの女と結婚する。その女がやってきた時、葉子は自分の子供を増川が取り返しに来たと思い込む。その場面は次のように描かれている。

『葉子はその時少し熱があって、面窶れがしていたが、子供のこととなると、仔猫を取られまいとする親猫のように、急いで下駄をつっかて、母屋の方へ駆け出していった。(中略)
 例の油紙に火のついたように、能弁に喋り立てる葉子の声が風に送られて、言葉の脈絡もわからないままに次第に耳に入ってきた。継母というのが、もと葉子が信用していた召使いであっただけに、頭から莫迦にしてかゝっているものらしく、なにか松川の後妻としての相手と交渉するというよりも、奥さんが女中を叱っていると同じ態度であったが、憎悪とか反感とかいった刺や毒が微塵もないので、喧嘩にもならずに、継母は仕方なく俯き、書生達は書生達で、相かわらず遣っとる! ぐらいの気持ちで、笑いながら聞き流しているのであった。そうなると、恋愛小説の会話もどきの、あれほど流暢な都会弁も、すっかり田舎訛り剥き出しになって、お品の悪い言葉も薄い唇を衝いて、夫からそれへと果てしもなく連続するのであった。(中略)葉子は姐御のような風をして、炉側に片膝を立てゝ坐っていたが、
「おまえなんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えば何時でも取ってみせる。」
 という言葉が彼の耳についた。(以下略)』

 なんとも大らかな自己確信がここに見られる
 順子は単純に、己の美貌を鼻にかけている軽薄な女ではなかったようだ。持てる情熱、情愛の精神、肉体すべてを総合して、傲慢ともみえるほど自分の存在に確信をもっている。
 これはおそらく彼女の生い立ちに、深い関係があるのだと思う。富裕な商家で、おそらく両親の豊かな愛に育まれたのであろう。大勢の使用人は彼女を大事扱ったであろう。そうして育った人間は、健康であれば、自己存在の尊厳に疑いを持たない傾向を持つ。厭味のない自己確信は、傲慢さや自惚れと紛らわしいところがある。性格として、根源的挫折感を持ちにくく、人生的に打たれ強いのである。また、この場面で、彼女が田舎訛りと東京弁を使い分けていたことがわかる。乙に澄ました美人でなく、時に田舎訛りをみせる意外性を持っていた。このようなタイプは、男には魅力的であっただろう。
 もう一つ、秋声は順子の本質を描いている。冒頭の序文にそれがある。

『ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢って、一度だけトロットを踊って見た時、「怡(たの)しくない?」と彼女はいうのであったが……』

 楽しくないのか? 順子の相手の屈託を気にする場面を描いたのは、それが彼女の口癖であり、秋声はそこに彼女の本質を嗅ぎ取っていたのではないか。
 順子は、地方都市に一生住みついて、地味な生活を送ることの出来ない性格であった。派手で、気の浮き立つことが好きなのである。言って見れば、退屈拒否症なのである。自分が退屈を嫌うがゆえに、相手のそれが気になったのであろう。
 この「退屈する」というのは、人間的存在の根源にある。現在のメディアの発達、浸透ぶりはこの人間的特性から生まれたものだ。
 山田順子が後に、銀座でバ−「ジュンコ」のマダムをつとめたというのも、客の退屈を気遣う気質に合致していたであろう。



徳田秋声「仮装人物」と山田順子(13)北 一郎4

 小説「仮装人物」の梢葉子、モデルである山田順子の存在について、秋声は彼女への弁護的な視点を加えて、その特性のすべてを作中に描きだしている。
 彼女の男性遍歴について、世間の評判は良くない。だが、それは時代の見方による。前にも述べたが、地方の裕福な家庭で不自由なく育ち、メディアの発達によって、都市文化の動向を身近にした時、自己表現に意欲的な彼女が、地方に埋もれることを望まないのは、当然であったろう。
 順子の自伝的小説「流るるままに」には、次ぎのような部分がある。
『自己を開く、自己に合った運命の鍵を拾い当て得ずに懊々として生涯を終わる多くの人も有る。かかる人こそなんという哀れさ、不幸さであろう。(中略)しかし、機会は何時か屹度来る』
 時代を越えて、今にも通じる普遍的な欲望がここにある。この自分の人生に華やかなドラマの彩りを添えてみたいという欲望は、現代においても見られる根源的欲望である。現在、でも流行作家あるいは、芥川賞作家になることで、立身出世を果たした、という意識の作家は多いのではないだろうか。
 それにしても、結婚して小樽に行き二児をもうけ、さらに三人目が八か月という身重をもって、女流作家として売り込むため、亭主を連れて秋声を訪ねるという行動力には、驚きではあるが……。実に「翔んでる女性」だった。
 その後、離婚したあとも男遍歴が続く。それは生活をしながら、自分のロマンを実現するため美貌を武器とした遍歴であった。秋声の「仮装人物」には、母を亡くした庸三の幼い娘を可愛がり、懐かれる様子が描かれている。彼女は必ずしも好色や淫乱の女ではなかった。好色なのは、彼女の周り男達で、彼女は強かにそれを利用した。官能的な行動の奥には、違った生活をしたい、何かの中心になりたい。自分に注目をさせておきたいという欲望に動かされていた。どの男も彼女の主体性を奪うことは出来なかった。それは相手が秋声であっても同じである。自分を支援する力があるかどうか、男を選ぶにあったっては『いつも用心深く、抜け目がない』と秋声は作中に記している。
小説の最終は『そして其の時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』
となっている。しかし、順子をめぐる事件の回想と、物語を創る過程には、失われた順子との時が甦り、作者の晩年の空虚さを大きく埋め立てたに違いない。
 それは、常に冷徹さを装う彼の筆遣いが延々と順子の生態を書き記していることに証明されている(彼女との関係の本質は、自ら繰り返し明快に語っているにもかかわらず、である)。
 十四の章で、(ここで彼とあるのは庸三のこと)『恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修業と世の中へ押し出してもらうことが彼女の兼々の願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の焔もその瞬間消えてのも当然だったが……』とあるように、その後も機会あることに、そのことに触れる。
 葉子の功利的な態度への恨みを漂わせた物言いにも受け取れるこの表現は、庸三、つまり仮装人物の意識である。
 その意識を自虐的に描くことで、秋声は『真実』の表現に到達したという構図に読める。
 執拗にこれにこだわる秋声は、「物の見方によっては、真実は様々であるから、自分はそれを書くだけである」という、従来の態度保留から一歩踏み込んでいる。葉子の心を失ったことと、文壇的名声を失った気持ちの二重奏。その真実の程はわからないが、本心は後者の方に比重があったような気がしないでもない。
 もし、そうだとしたら、この作品で第一回菊池寛賞を受賞したのは、本望であったかも知れない。




徳田秋声「仮装人物」と山田順子(12)北 一郎4

 したがって、秋声のほかの作品と同じ作家的態度に納まっているように見えるし、彼の小説における「見た。だからそれを書く」こういう態度保留の姿勢はかえって顕著になっている。ーーその時点で見解を安易を述べないということは、後世の見解が変化しても、それに耐えられると考えていたのかもしれない。
 過去の出来事は当事者にとって、その時々の現在の未来の展望の姿勢によって、意義が変わることを、秋声はよく知っていたのである。こうした手法に紛れてしまうのではあるが、やはり当初の意気込みの成果は、中ごろまでにそれなりに挙げられており、作品としての独自性はゆるがない。
 十九の章の冒頭で、庸三は自分の存在をこう整理している。
『庸三がもしも物を書く人間でなかったら−−言い換えれば常住人間を探究し、世の中の出来事に興味以上の関心をもつことが常習になっていない、普通そこいらの常道的な生活を大事にしている人間だったら、葉子に若い相手ができた後までも、こうも執拗に彼等成行きを探ろうとはしなかったであろうが、彼はこの事件もちょうどここいらで予期どおりの大詰めが来たのだし、自身の生活に立ち還るのに恰好の時期だと知って、心持ちの整理は八分どおりついていながら、まだ葉子の匂いが体から抜け切れないような、仄かな愛執もあって、それから夫へと新しい恋愛を求めて行く彼女を追跡したいような好奇心に駆られていた』
 ここでは、書くことを職業とするゆえに、それが日常の行動をも偏向させるのだという、ほとんど言い訳に近いのであるが、態度保留から抜け出た秋声の自己確認がある。
 この時期、後にノ−ベル文学賞を受賞することになったジイドの「贋金づくり」が昭和二年に日本で紹介されている。これには「贋金づくり」という小説を創作している作家が作中に登場する。読者にその事実を知らせることによって、書くという行為に傾斜が生まれるという新手法がとられている。
 秋声がどれだけそれを意識していたかは不明だが、当時から日本の文壇が世界の文学的潮流と同期していることを示す一例である。
 その意味で、小説「仮装人物」は、その成立の背後に、事件性の内幕を期待する読者向け意識、書き手の過去から現在に至る存在様態の確認、新しい手法に挑戦する作家魂、この三要素の混在した稀書である。
 秋声は他に膨大な作品を産出する作家であったが、これは特別な意味をもつ作品であったろう。たとえば秋声は小説「縮図」において、強権側からの圧力がかかった時点で、ぱたりと筆を止め、その作家魂を後世に見せつけている。しかし、その作品がもし「仮装人物」であったら、どうだったであろうか。そんなことを考えさるさせる。つまり彼はすぐさま発表に結びつかない事態があっても、私的に書き継ぐ可能性をもった作品であったろうと思わせる。これが、この小説の特異性である。




徳田秋声「仮装人物」と山田順子(11)北 一郎4

  「私小説」で、これだけのややこしい書き方をするのは、異端的ですらある。だが進むうちに次第に持ち前の自然主義的手法に沿うようになり、文体の歯切れがよくなってくる。従来の小説手法とまぎれ、庸三の内面的な認識の不確定さの強調は薄れ、外面的な描写が多くなる。
それでもしかし、主人公庸三の記憶の出し入れは、恣意的であり、葉子やその他の人物の視点を取り入れ、事件の多面的観察感をつくりだしていく。これでメディアの報じた事件のもうひとつの側面を照らしている。作中で葉子の気紛れの利己的な様相を描きながら、彼女が時折示す真摯な情熱的姿勢に「真実」を見たように感じる庸三の視線がそれである。この真実という言葉を多用し、仮装との比較を意識させる手法は、いわゆる自然主義的小説とは、性格を異にしているのではないだろうか。
 読み進むうちに、庸三の心理に巻き込まれ、事件の意義づけが捉えにくい複雑なものになっていく。その捉え難さは、奇妙なことに、現実の出来事の捉え難さに似てくるのである。
 これが果たして秋声の当初からの目論見であるのか、それとも文学的追及の結果としてそうなったのか、判別に迷うところである。
小説として「仮装人物」の仕上がりぶりを評すると、中ごろからからは、文学的探求心の低下及び喪失が著しい。単なる事件の裏話を語るにとどまっている。二十の章あたりで、庸三と葉子の関係を新聞に暴露される。葉子は自分が悪く書かれていることに腹を立て、それが庸三の口から出ているのだからという理由で、彼に訂正の発言をしに新聞社に行かせようとするところがあり、ここが破局のクライマックスになっているのだが、ここで、葉子の飼っていたカナリアが鳥籠から逃げ出し、鳥を葉子が追い掛けたという出来事を思い出す。失われた幸福な関係への郷愁を描くところなど、まだ工夫の意欲が見られる。
 だが、後半二十七の章以降、順子との関係が薄まるくだりからは、生彩がない。生彩がないといっても、手法的な観点からすれば、である。普通の自然主義的小説としては、それらしいのである。ちょうど庸三の葉子への情熱が褪め、倦怠を伴った状態については、葉子が男関係がうまくいかなくなり彼のところに一時的に舞い戻って来る場面では、彼女の肌着に汚れが見える様子を描きながら、三十の章では,
『庸三も、彼女が思っているほど葉子の文学にそう大して関心をもっている訳でもなかった。しかし風にも堪えない野の花のような其の情趣や感傷の純粋さは認めない訳には行かなかった』
などの言い回しは、リアルであり冷徹である。ここには、前半の仮装人物意識と真実への対応を描こうとする態度はない。自然主義的手法による物語の終息へ急ぐように読める。
 前半部と後半部の、この微妙な変化は、おそらく体調不良からくる中断の影響もあるであろう。人間にとって、過去というのは固定しきったものではない。常にその人の現在と未来への姿勢によって、意義を変えて姿を現すのである。秋声は前半部において、冒頭で意気込んだように、書き進めるにつれて真実を明らかにするという命題に忠実であった。執拗ないいまわしは、そうした態度のたまものである。しかし、ひとたび中断した後は、その命題をある程度達成したという意識があったのではなかろうか。
そうなると過去は文学的命題探求の意義を失い、物語の材料としての意義しか見出せなかったのではないだろうか。老練な手腕をもつ秋声は、この内面のギャップを巧みに埋めてしまっているような気がする。




徳田秋声「仮装人物」と山田順子(10)北一郎4

 文学にミステリ−を取り入れた先駆者といえば、エドガー・アラン・ポーである。
 秋声の海外作家の関心の強さについては、次のような資料がある。
 前出の作家、榊山潤は最初の夫人が大森で酒場を経営していたが、夫婦仲がうまくいかなかった。そのことは「馬込文士村」に書いている。その後、雪という女性と結婚する。榊山雪夫人の回想記「馬込文士村の人々と私」(「季刊・わが町あれこれ」十四号=南部文学ネットワーク発行)に次ぎのような箇所がある。
          ☆
(前略)徳田先生は私たちにとって、本当の意味でのお仲人でした。先生がある日、榊山が今までの生活からぬけ出して新しい人生に一歩踏み出すために是非手をかしてやってくくれ、私から頼むと、両手をついて下さったので、私もほぼ決まりかけてかけていた話を捨てる決心をいたしました。(中略)
 その頃先生は通称モナリザと呼ばれていた白山の女の人がおそばにいました。ある日、先生のお宅にお邪魔しますと、その頃流行した円本、新潮社の世界文学全集の中のホーソンの、スカ−レット・レター、緋文字というのと、ポーのうずしおや、モルグ街などが一冊になったのが、先生の机の上においてありました。彼女は”せんせ、ホーソンはとても面白いですね、ポーはつまらないけど″といいます。先生はニコニコしながら、そうですねと相槌を打っていらっしゃるのです。女の人が席をはずすと、先生は急に坐り直してホーソンなど通俗作家ですよ。ポーはやはりいい、と手の平をかえすようなことを臆面もなくおっしゃるのです。女の人の意見を正面切手こわすまいというお心づかいがよく分かって、おかしくもあり、なんとなく先生らしいなあ、などと思ったものです。
          ☆
 ちなみに、この白山のモナリザといわれる女は、順子ではない。問題はそれではなく、秋声がポーを高く評価していたことである。
 秋声は恋愛事件以後、そうした新しい外国文学の潮流をにらみながら、時間をかけて「仮装人物の」腹案を練っていたのではないだろうか。
 したがって「仮装人物」の冒頭部は、自然主義作家としての秋声というより、方法意識を剥き出しにした作家、秋声の姿がうかがえる。読みにくいながらも、濃霧のなかを船が進むような、独特の奥行きの深い世界が指し示めされている印象を受ける。少なくとも、出発点にみられたその方法論意識は、書き起こすバネにはなっていた筈だ。
 当時のヨーロッパの文学動向をみると、プルーストの「失われた時を求めて」は大正二年に発表され、その影響をうけて日本では堀 辰雄が昭和八年に小説を手がけて「美しき村」を発表。その後の 「風立ちぬ」は「仮装人物」と同年の昭和十年発表である。
  欧州ではさらにジョイス「ユリシーズ」が大正十一年、ジイド 「贋金づくり」が昭和元年に。ウルフ「燈台へ」、カフカ「アメリカ」が昭和二年にそれぞれ登場してきている。いわゆる前衛的といわれる小説手法の作家が続々と登場している時期なのだ。
 秋声はそのすべての作品を読まないまでも、その手法の噂は知っていたにちがいない。
 そうした手法意識の高まりのなかで、秋声なりに「仮装人物」の構想が練られたのではないかと推測する。作中においても、二十二の章に『その頃葉子は子供が海岸に行っている間を、庸三の古い六畳を居間にして、プルウストやコレットの翻訳などを読み耽り、その隙には我が家のように部屋を掃除したり、庭石に水を打ったりして、楽しげな毎日を送っていたが、子供たちが海岸から帰って来ると彼女の気分もがらりと変わるのだった』とある。他の部分でも、葉子が庸三を相手に文学の話題を情熱的に語るのは、当初は新鮮で魅力的であったとしている。目新しいものを見つける葉子との接触によって海外文学のなかでも、新しい手法の作家の動向を把握していたに違いない。
 プルーストや、ジョイスがいまだに前衛的作家だとすれば「仮装人物」の手法もまた前衛的ではないのだろうか。



徳田秋声「仮装人物」と山田順子(9)北 一郎4

 小説でそのテ−マに関わる「仮装」という「真実」という言葉が早々と出現するのも、テ−マ意識が先行しているところである。
 葉子は出版社の一色と関係しながら、庸三に接近してくると、『執れにしてもそこは庸三に思案の余地が十分ある筈なのに、仮装の登場人物は既に引込みがつかなかった』と書く。この事件での人間のどのような、有様が「仮装人物」であると語る前に、自身を仮装人物として紹介するのである。
 このような経緯を考慮し、小説手法の面から「仮装人物」の冒頭部を読んで見る。
          ☆
『庸三はその後、ふとした事から踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、或る時のダンス・パアテイの幹事から否応なしにサンタクロオスの仮面を被せられて当惑しながら、煙草を吸おうとして面から顎を少し出して、不図マッチを摺ると、その火が鬚の綿毛に移って、めらめらと燃えあがった事があった。その時も彼は、これから茲に敲き出そうとする、心の皺のなかの埃塗れの甘い夢や苦い汁の古滓について、人知れず其の頃の真面目くさい道化姿を思い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、粉飾され歪曲された――或はそれが自身の真実の姿だかもしれない。執っが執っちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。』
 メディアに知られた恋愛事件の当事者として、まずその現実の見解がまだ、不確定であることの念をいれた宣言である。すでに事実は決まっているわけだが、その真実は自分でもわからないので、それをこの小説で追及しようということになる。
 その後にも序文が続き、次の一行で物語がはじまる。
          ☆
『今庸三は文字どおり胸の時めくるような或る一夜を思い出した』
          ☆
 この恋愛事件は過去のものであるから、すべて思い出の中にある。しかし、秋声はそれを時系列で語らない。思い浮かぶまま、回想を重層させて、書きついでゆく手法である。これは、海外の作家、プルーストやジョイスの存在を十分に意識してのことではないだろうか。秋声は、手のうちの出来事を材料に、そうした意識の流れを取り入れる実験を試みている。そう考えると、この小説の非常に歯切れ悪い文体に、納得がゆくというものだ。
 しかも、単に意識の流れの手法の導入に止まらず、もう一工夫の仕込みがあると読むことができる。それが、前の方で指摘した、説明保留、態度保留の表現である。当事者なのに、「どれが本当なのかわからない」と言われれば、読者にすれば「それは、何故だ?」という疑問をもつ。
 私はこれを自己探求になぞらえた「謎の設定」と読むのだ。つまり意識の流れの手法で人間追及を狙い、それにミステリアスな謎の追及の要素を加味したのではないだろうか。




徳田秋声「仮装人物」と山田順子(8)北一郎4

 経歴のなかに「前記の病身の父親に孫をみせるという役目」を果たすために結婚したとある。親というのものは、自己を全的に受容する重要な存在であり、その期待に応えようするのは、平凡であると同時に、自然であった。
 ラジオ放送や、週刊雑誌の創刊など、メディアの発達しつつあった当時、美人コンテストで一等を獲得した彼女が、都会の表舞台に出て活躍してみたいと、思うのは自然である。
それが文学芸術「私小説」と結びついたのは、私小説が純文学として隆盛していた時代であったからだろう。私小説が「私」を語ることであるならば、彼女は材料にこと欠かないと思ったのであろう。まさに美貌の肉体の「価値」は、男に対しては貨幣のように共通の流通性を持つ。男遍歴は、その証明であり、その経過を描くことで、彼女は主体的立場も確保できるのであった。美人はどの地域にも幾人かは存在したはずで彼女だけではない。この時代では順子は美貌を活用するずば抜けたセンスと行動力を持っていた。心の流れからすると、順子は普通の意味で自然主義である。情況への適応力は抜群であった。
 ただ、それが必ずしも「私小説作家」の能力を保証するとは限らなかった。自己の存在が「美貌の肉体」として価値つけられたことに意識が蔽われ、内面的な存在認識への考察が不足しがちだったのかも知れない。「仮装人物」のなかで、庸三は妻を病気で失くした後、もっと文学的に才能のある内面の豊かな女性が頭にあったと記している。順子に心を奪われたものの、彼女が自分の妻に相応しいとは思っていなかった。
 順子は竹久夢二(作中は、夢路)と足立(作中は、一色)の間を縫ったあと、二人の男からプロポ−ズをされていることを庸三に告げにきた。それを受けて田舎に引っ込むか、作家修業に専念するか相談する。
 庸三が結婚して田舎に落ち着いた方が良いと答える。すると順子(作中、葉子)は、結婚なんかしない、と反発する。
『そういう葉子の言葉には、なにか鬱勃とした田舎ものゝ気概と情熱が籠っていた。そして話しているうちになにか新たに真実の彼女を発見したようにも、思ったが、ちょっと口には出せない欲求も汲めないこともなかった』と書く。
 ここで、順子はもともと田舎に引っ込む気などなくて、秋声に作家として世に出られるように、後押しをして欲しかったのであろう。そういうことが出来たのかどうかは、我々には判らないが、暗黙の頼みを、このとき秋声は断った。しかし順子との関係は続けたい。彼女の本音を予感しながら、縁を切れなかった自分を、仮装人物と考えたらしい。
 作品にはこの「仮装」対応するものとして「真実」が用いられているように読める。作中の自己像は「仮装人物」であるが、仮装の下の素顔の作者は「真実」を見つめて語るのだ、という自負があったらしい。




徳田秋声「仮装人物」と山田順子(7)北一郎4

 山田順子の経歴を、秋田魁新報社のホ−ムペ−ジから紹介したが、同新聞社が順子を取り上げているのは、秋田県が彼女の出身地だからである。いわば地元の作家、文化人である。郷土の有名人を、そう一方的な見解だけで紹介していない。「事実」としての彼女の生涯を、豊富なデ−タをもとに簡略に記述、紹介している。そこで、その大概を示してみたい。
          ☆
【山田順子】《妻の座を捨て文学へ―自由奔放に生き抜く》
 徳田秋声と山田順子。「自然主義の大家」と称された、時の文壇の大御所と女流作家にあこがれて上京し、その大家に師事した弟子。当時、秋声五十五歳、順子二十五歳。親子ほどの年の差がある二人は、深い恋愛関係にあった。
 順子は本荘町古雪の裕福な回船問屋に生まれ、不自由なく育った。やがて、当時、本荘からはごく一部の素封家の子女しか入れなかった秋田市の県立秋田高校女学校(現秋田北高校)に進んだ。
 だが幼い頃は虚弱児だったため、外で遊ぶよりも絵を描くことが好きな子だった。しかし、小学一年の時、大好きだった祖母が川で入水したことをきっかけに、芸術的興味は絵から文学へと移っていく。順子は著書「女弟子」の中でこう記している。
「―病身な父に孫をみせるという役目がなかったなら結婚などせず、絵の道を歩むつもりでした。(中略)祖母が挫折した…女心のする人生を、探求する心の仕事の方へと、次第に私は傾いて行ったのです」
 また、処女作「流るるままに」の中には「此の因襲の根深い、窮屈な生まれ故郷を、永久に抜け出す事」とある。文学への傾倒の根底には、閉鎖的な古里の風土から逃れたいとの思いがあったのかもしれない。
 秋田高女時代には、本荘の男友達とともに機関紙(同人誌)「ひどいわ」を編集するなど、創作にいそしんだ。
 当時、既に美人の誉れも高かった。秋田高女卒業後は小樽に嫁いだが、「小樽新聞の素人美人投票には一等に當選」(大正十四年四月十三日付秋田魁新報)している。
 秋声との邂逅は大正十三年三月。順子は小樽で書き上げた長編小説「水は流るる」を携えて夫ともに上京。秋声を訪ねた。二児をもうけてなお、文学への憧憬を抑えられずに書いたその作品は、家庭と文学への夢の間で苦悩する女性を描いた自伝的小説だった。
 いったんは小樽にもどるが出産を経て再度上京。夫の経営破綻をきっかけに離婚し「妻であり母親である前に、一個の人間として生きる」ことを望んだ、イプセンの戯曲「人形の家」の主人公ノラになぞらえて、順子は「日本のノラ」とあだ名された。
「水は流るる」は大正十四年三月、「流るるままに」と改題、出版され、評判となった。しかし、注目されたのは作品の内容ではなく、出版協力者のそうそうたる顔ぶれ。装丁に大正ロマンを代表する画家の竹久夢二、序文に秋声、久米正男、土岐善麿、菊池寛。秋声の口添えで実現した出版だったが、無名の新人作家の処女出版としては破格の扱いだった。
 秋声との恋におちるのは翌十五年。夢二との一時の同棲生活が終わって間もない頃で、秋声の妻・はまが急逝した直後でもあった。「自然主義の大家」と「日本のノラ」との恋愛模様は、新聞の格好のゴシップネタとなった。特に他の男性との艶聞も尽きなかった順子への風当たりは強かった。二人の関係は曲折を経ながらも二年近く続くが、結婚を目前にして終止符が打たれる。
 それから約十年後の昭和十三年。秋声の代表作となる「仮装人物」が刊行された。順子との恋愛体験の全容を描いたこの傑作は「自然主義の極致」と評され、この作品によって第一回菊池寛賞を受賞する。そこにはかつて訪れた本荘の情景も描写されている。「山田順子研究」の著者である高野喜代一さん(七十六歳)=本荘市石脇=はその意義について「順子に対する評価はスキャンダラスなものでしかなかったが、『仮装人物』は彼女が残してくれた貴重な財産だ」と強調する。
 秋声はいわゆる「順子もの」と呼ばれる約二十編の作品群を残している。昭和十年に筆を執った「仮装人物」は「順子もの」の集大成と言われている。秋声の作家人生もまた順子なくして語れないのだ。
 一方、順子は秋声と別れた後、文壇の表舞台から遠ざかっても書き続けた。銀座で小さなバ−「ジュンコ」を開いていた時も、仏教に帰依した晩年も、文学への執着心が途切れることはなかった。順子のおいに当たる山田寛さん(七十四歳)=歯科医師、本荘市中堅町=は、順子が終戦間近の昭和二十年に本荘に疎開して来たことを覚えている。「あか抜けた人だった。家では、ほとんど原稿用紙に向かっていた」
 昭和三十一年夏にも前触れもなく本荘に帰省しているが、その際、市役所に同じ古雪出身の佐藤憲一市長(八十三歳)=当時=を訪ねている。佐藤さんは「順子は古里を懐かしがっていた」と述懐する。 昭和三十六年八月、順子の波乱に富んだ人生は六十歳で幕を閉じた。最後まで書くことに執念を燃やし続けたものの、ついに開花することはなかった。晩年は決して恵まれた境涯ではなかったが、「自分の思う通りに生きた人だと思う」と寛さんは言う。
          ☆
 前記の経歴からすると、山田順子が経済的に余裕のある家庭に育ったこと、本荘の男友達と同人誌を発行、リ−ダ−的存在であったことがわかる。この時期に村で噂の種になるほどの恋愛ごとをし、自らの美貌の威力とその「価値」を実感する出来事でもあったのであろう。「仮装人物」なかにも、それを示唆する話が折り込まれている。
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