「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

北一郎の庭

絵の如く美しい風景から=北一郎

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  カナダの風景だという。まるで、絵に描いたように美しい。だが、そうであろうか。絵は自然の色はより遥かに美しいのか。
 昔から、画家たちは、自然の美を驚嘆してやまなかった。そして、自然の美を端的に表現することの難しさを力説してきた。
  自然はすべての人工の美の総和よりも遥かに美しいとしきた。如何に精巧なる絵具も、如何に精巧に配置されたその絵具によつての構図も、自然が有する色彩の美を超えることは出来ない。実際にさう見える時がある。
IMG_20171029_154514IMG_20171029_154308  巧みな自然の風景の画を見せられたものは、たいてい実在の風景のように美しいと嘆美する。有島 武郎は、「新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美する。人間とは誇大する動物である。器具を使用する動物であるといふよりも、笑ふといふことをなし得る動物であるといふよりも、自覚の機能を有する動物であるといふよりも、この私のドグマは更らに真相を穿つに近い。若し何々する動物であるといふ提言を以て人間を定義しようとすることが必要であるならば。
 彼れの為すところは、凡て自然の生活からの誇大である。彼れが人間たり得た凡ての力とその作用とは、悉く自然が巧妙な均衡のもとに所有してゐたところのものではないか。人間が人間たり得た唯一の力は、自然が持つ均衡を打破つて、その或る点を無限に誇大するところに成立つ。人類の歴史とは、畢竟この誇大的傾向の発現の歴史である。或る時代にあつては、自然生活の或る特殊な点が誇大された。他の時代にあつては他の点が誇大された。或る地方にあつてはこの点が、而して他の地方にあつてはかの点が誇大された。このやうにして文化が成り立ち、個人の生活が成り立ち而してそれがいつの間にか、人間の他の生物に対する優越を結果した。智慧とは誇大する力の外の何者であらう。」
  これらの論は、モダニズム芸術論からでたものだ。だが、現代では、人は画家から与えられた主観をみているのだ。この写真も撮影者のいちばん美しいと感じた場面、場所から撮ったものであろう。製作者の主観を投影したものだ。時間は風景を変える。すでにその時は去って、もうこの時は来ない。これは今は主観的世界の残像なのだ。

文章における猥褻表現の定型はあるのか(5)北 一郎

「チャタレイ夫人の恋人」の場面では、コニイの男根崇拝的な描写もある。尾高修也氏は、自らが講師をする作家教室の文芸同人誌「私人」(朝日カルチャーセンター)第92号(2017年6月発行)「D・H・ロレンスの思い出」において、恋人との逢引きの前段において、次のようなシーンを訳している。
――≪だめよ! あなたの体、見せて!≫
  男はシャツを手ばなして、女のほうを向いて、静かに立った。低い窓から射し込む一筋の陽光が、男の太ももと痩せた腹と鮮やかな金赤色の陰毛の小霙から小暗く熱そうに立ちのぼる勃起男根を照らしだした。女はびっくりして怖くなった。そして、ゆっくりと言った。
≪まあ、ふしぎねえ! そこに立ってふしぎだわ! こんなに大きくて! こんなに暗くて、自信を満々で! そういう一物なのかしら?≫
  男は色白のスリムな自分の身体の前面を見おろして笑った。痩せた胸に生えている毛はほとんど黒い暗色だったが、男根が太く反って屹立する腹の根元の毛は金赤色の小さい鮮やかな雲のようだった。
 ≪誇かねえ!≫女が不安そうにつぶやいた。≪君主然としてるわよ! 男が威張りん坊の訳がやっと分かったわ! でもほんとうは、美しいのよ。生きているみたい! ちょっと恐ろしいわ! でも、実は、美しい! これがわたしのところに来るのね≫女は恐怖と興奮で下唇を噛んだ。――
 また、別の個所では――そして彼が「ああ可愛い子だ!」と小さく囁くよう言った時に、彼女内部で何物かが戦いた。そして彼女の心の中の何物かがそれに抵抗して身を固くした。怖ろしい程の肉体の密接さと彼の掴みかかる奇妙な性急さを感じて身を固くした。それでこの時は彼女自身の激情の強い恍惚さが彼女に起きなかった。(中略)彼の腰の動揺は彼女に滑稽に思われた。そして彼のペニスから力が抜けて行く。極点に達した時の一種の不安な気配は、茶番のように見えた。そうだ。これが恋愛なのだ。この滑稽な尻の運動と貧弱な頼りない湿った小さなペニスの萎んでゆくのが。これがあの神々しいものだとは!――
  こうした描写には、ロレンスの小説巧者の技術が感じられる。本来は、コニイの性的な体験は、妹と過ごした学生時代に、すでに体験済という説明が冒頭にある。すでにコニイは、処女ではないはずだが、マイスクリフとのセックスの場面では、まるで初体験のように描写されている。
  この辺が、時により猥褻感によって読者の興味を引くことになっている。このため、猥褻性を感じる人もいるであろう。同時に、それを超えて恋愛の現実的な描写を芸術表現と受け取る読者もいるであろう。
 つまり、猥褻性と芸術性は両立するということである。
 とくに恋愛においては、相手を求めて欲望することと、性的な興奮による欲求とが、重なり合って起きる現象であるため、それを表現するのであるから、精神性と猥褻性が表れるのは当然であろう。  
  もし、性的な欲求だけを満たすには、その欲求を刺激する画像や動画で済む。しかし、人間的な愛の欲望は、特定の相手を媒介者として必要とする。それが恋愛であろう。人間は欲求よりも欲望を満足させることを望むのである。(この項おわり)


文章における猥褻表現の定型はあるのか(4)北 一郎

  作品では、恋愛感情と性感覚の合一について、触れるのであるが、これは小説的な効果として、恋愛の精神性と肉体における性的な接触の関係についての普遍的な側面を示唆しているように読める。
  マイスクリスは、チャタレイ夫人との恋愛が未来性をもたないことを予感し、積極的な喜びにできていなかった。希望をもった恋愛に感じていなかった。しかし、夫人は希望をもたずに恋愛することが出来なかった。お互いにしばらく手紙などやりとりが中心で、たまにロンドンで肉体的な接触がある状況を描く。ふたりの性愛は、――彼女は、彼の短いオ―ガスムが終わってから、自分の働きかけで得る肉体の性の悦びを得ることを、やっぱり求めていた。そして彼もやっぱりそれを彼女に与えたいと思っていた。そのことが二人を結びつけていくのに十分であった。――
 チャタレイ夫人は、これによって盲目的で傲慢な感じの、微妙な自信を彼女に与え、快活な気分をもつようになったと作者は描く。
   恋愛における性的な接触の占める位置は、その渦中にある男女によってさまざまであるが、これは当時の恋愛事情の普遍的な事例であったのであろう。同時に、ロレンスの結婚歴からして、年上の妻であったフリーダをモデルしたのかも知れない。コニイの性感覚を率直に楽しむ風情と、ロレンスの性的な精神性へのこだわりにそれが混在している。
 チャタレイ夫人の夫は兵士であった時の負傷によって車椅子生活である。クリフォードは夫人に性的な関係は夫婦関係に必ずしも必要条件ではないという意見も述べる。
  また、時がくれば自分の性交能力が回復するかも知れない、とも語る。
  性行為に関しロレンスは、マイスクリスの性行為における腰の動きを滑稽な姿だとする。しかし、それによる射精と、それが早く終わったために、チャタレイ夫人のコニイがオルガスムを求めて自らもだえ腰を動かす行為をしたことを示す。
これは物理的には、性的神経が刺激されると生殖器機能により、自動的に血流が生じ膨張しきろうとする力が生じる。そして、膨張への欲求が高まり、頂点を極めて収縮するまでの過程を経る。この純粋な生殖器機能に取りつかれた場合、チャタレイ夫人であっても、心は支配力を失い、肉体の性的興奮のための道具として、マイスクリスのペニスを必要としているにすぎない事態を意識した形で表現している。
  オルガスムの機能には、人間の動物化を伴う自己喪失感がある。いわゆる「官能小説」の猥褻用語はほとんど、この機能を誇張するために、世俗のタブーや羞恥心をかなぐり捨てる様相に集中する。そのために具体的な性器の様子を想像力で誇張することが多い。ロレンスの場合には、想像をさせるが具体的な性器への言及はない。次の段階では、こうした欲望のために行う行動を、チャタレイ夫人にも滑稽感をもって受け取らせている。
  同時に、当時は愛し合う男女の性交時の同時的な自己喪失は、男女の望む一心同体の幸福世界の実現を思わせる。ロレンスのロマンチズムは、このことにこだわることで、一般的読者と、思索的な読者をそれぞれの感受性に応じて鑑賞が可能なようにしたのではないか。そのために、森番とチャタレイ夫人の恋愛関係の実相表現に迫ろうと、多くの性関係場面を描いたのではないか。

文章における猥褻表現の定型はあるのか(3)北 一郎

    猥褻という基準の真実性は、時代によって変化している。
   現代において文章表現の範囲で、猥褻罪の対象となる事例は寡聞にして聞かない。もっぱら視覚的な具象映像・画像での表現であることがほとんどである。
   そのため官能小説の商業的な意味は低下している。ただし、そこでの表現が視覚的具象性への追従が目立つ(こういう自分も、官能小説雑誌でデビューしたが、文章表現の具象性強調についていくことの面倒さについて行けなかったものだ)。
   小説としての形式カルチャーは、すでに時代と共にから並走するに適していないのかも知れない。逆な見方をすれば、小説の必要条件とされていた形式を持たない文学の登場の可能性があるのだ
   しかし、その小説という形式の標準形式をよく守っているのが、D・H・ロレンスだと思う。ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」は、その小説形式のなかで、人間の性に関する意識の一つの表現法として読んで見よう。
   そこで、当時の猥褻裁判で検事が誇張的に主張した部分を、小山書店版から抜粋してみよう。
   自分には、ロマンとしての人間的な性のあり方の一つの表現にと思える。
   まず、起訴状にある「牝犬神」については、訳者の伊藤整の記すように「成功という牝犬神」にクリフォードがとりつかれているーと表現しており、今でいえば、世俗的な作家としての名声と人気という意味にとれる。
   そして、マイスクリスは持ち前の反社会的な孤独癖のために、女性と恋愛をしても、熱烈に女性を愛したい気持ちをもちながら、自分の孤独癖を守るために、うまく行かなかったことが説明されている。そのあとの部分を引用する。
 ――恋人としての彼は、昂奮してすぐ震える性質の男であった。彼の悦びはすぐ高まって終りになった。彼の裸の身体には奇妙な子供じみた頼りなさがあった。彼が自己防禦をするのはただ機智と怜悧さの本能によるのみであった。それらが用をなさなくなった時は彼は身を護るものを二重に失って、成熟しきらない軟らかな身体をした子供があてもなく身をもがいているように見えた。
   彼は彼女の中に、はげしい憐れみと愛慕の思い、野生的な貪欲な肉体の欲を目覚ませたが、彼女の肉体の欲を彼は満足させなかった。彼は何度も悦びに達してすぐ終りになるのであった。そして彼は彼女がぼおっとなり、落胆し、失望しているとき、彼女の腕の中で委縮しながら、またいくらか力を恢復するのであった。
  だがやがて、彼女は彼を持ちこたえさせる方法、彼の喜びが過ぎても、彼女の中で、彼をしっかりと持ちこたえさせる方法をみつけた。すると彼は、彼女に勝手にさせながら不思議に持ちこたえた。彼は彼女の中でしっかりとし、彼女にまかせ、その間、彼女の方は積極的に……野生的に、熱情的に働きかけて彼女自身の喜びに達した。受け身になって固くしっかりとしている彼の身体によって、彼女が激情の満足の極点に達して戦いているのが分かると、彼は妙な誇りと満足感を覚えた。
「ああ、なんていいのでしょう!」と彼女は震え声で囁き、彼に寄り添って静かになった。そして彼は一人切り離され、いくらか傲慢な様子で横たわっていた。――
  裁判での検事の訴状に期待した猥褻度にすると、つまらないですよね。ここで冒頭に戻ってほしい、ロレンスはそれを自覚していたのだ。人間的生活の中に性をみていたことを示すものが、「チャタレイ夫人の恋人」にはある。

文章における猥褻表現の定型はあるのか(2)北 一郎

伊藤整全集(17巻)には「『チャタレイ夫人の恋人』裁判事件」として、その裁判を客観的に記録している。
 まず、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の完訳は小山書店版のロレンス選集の一部として、上下両巻にわけて、両巻とも伊藤整が担当して、上巻は1950年4月、下巻は5月に発行された。それから約2ヵ月後の6月27日、この訳書は、刑法上のワイセツ文書の疑いで全国的に押収され、9月12日ワイセツ文書販売罪(刑法第一七五条)の罪名をもって、出版者小山久二郎および訳者伊藤整が、東京地方検察庁によって起訴された。担当検事は中込隣尚である。ーーと記し、さらに作家たちが弁護に立ち上がったことなどが書いてある。
  そして、検事の起訴状の文言を記している。それによると、
(前略)ーー 公判の第1審第1回公判では、中込検事が起訴状を朗読した。この起訴状は『チャタレイ夫人の恋人』を典型的なワイセツ文書として、たとえばつぎのような表現でこれを攻撃した。
 「たまたまクリフォオドの許を訪問し、両三日滞在中の反社会的で『下司な』憂鯵にさえみえる瘡せた文芸作家マイクリスが、発情期の牡犬の如く『牝犬神』の有夫の婦コニイに迫ると(中略)不用意な遭遇を機会に相互の人格的理解とか人間性の尊崇に関し些の反省批判の暇なく、全く動物的な欲情の衝動に駆られて直ちに又これと盲的に野合しその不倫を重ねる中漸時男女結合の性的享楽は性交の際に於ける同時交互の性的感応最高潮の愉悦を得るにありと悟り、人間の憧憬する美は性交の動態とその愉悦を創造する発情の性器なりと迷信し(下略)」のような表現があった。
 この文章は全体としてこの作品の実質をいちじるしく歪めたものであった。また「牝犬神」という言葉は作品のなかでは立身出世の神の意味につかわれているにもかかわらず、起訴状では好色の神としてまちがってつかわれていた。起訴状の執筆者は、作品を故意に歪めて読んでいることが明らかであったので、第一回公判においてはその点を辮護人側が猛烈に攻撃し、かつ起訴そのものが言論弾圧を目的としたものである点を強調して公訴棄却を要求した。検事側はこれに応じなかった。――(後略)
 起訴状では、マイスクリスが発情期の牡犬のごとく、夫のクリフォードの家に滞在した際、人格的理解や人間性の尊重もなく、動物的な欲情の衝動で、盲目的な野合をし不倫をした。そのことで、男女結合の性的享楽は、性交の性的感応最高潮の愉悦にあると悟り、人間の憧憬する美は性交の動態とその愉悦を創造する発情の性器なりとと迷信したこと(が、書いてあるから)猥褻だということか。
 どうも、これは個人的な好みによって、そう思うかどうかであって、検事はそれを猥褻とする嗜好の持ち主だったようだ。

文章における猥褻表現の定型はあるのか(1) 北 一郎

 このほど、刊行当時の世界的な文学的猥褻書として著名な「チャタレイ夫人の恋人」(D・H・ロレンス)を日本語訳したのが伊藤整の猥褻裁判となった版のものを入手した。小山書店のロレンス選集の第1巻(上巻)と2巻(下巻)である。
 現在の「チャタレイ夫人の恋人」は、伊藤整・伊藤礼の共訳として、新潮文庫から刊行されている。しかし、それはその後発見され、刊行された、いくつかの異なる原本からの翻訳となっているようだ。そこで伊藤礼氏にお願いした。
 日本で猥褻裁判になったものと、同じ本を送っていただいたのだ。
 第1巻には「著者の序文」というタイトルで、末尾には「パリにて一九二九年 D・H・ロレンス(吉田健一訳)という文章がある。
 そこには、作品刊行の背景にある性に対する認識のずれが述べられている。
(前略)――清教徒的精神とその結果として生じる性的な白痴に対して、この頃汽車の中などで乗り合わす現代的な青年たちがいる。彼等は解放され、また進歩していて何事にも目を塞がず、「自分が好きなようにしている。」肉体を恐れ、その存在を否定するかわりに、こういう進歩的な若いもの達は他の極端に走って、肉体を一種の玩具として扱っている。どこか不愉快な玩具ではあるが、それがある間は結構なぐさみになるものなのである。
  彼等は性の問題の重要性を否定し、これを一杯のカクテルも同様に考え、彼等の年長者をからかう材料にしている。彼等は進歩的であって、「チャタレイ夫人の恋人」のような本を軽蔑する。彼等にとってはこの小説は余りにも単純で、平凡なのである。彼等はそこに、彼等が少しも関心を持たない露骨な言葉と、彼等には流行遅れい思われる恋愛観を見るにすぎない。こんな大騒ぎをする必要がどこにあるのだろうか。恋愛は一杯のカクテルに過ぎない。彼等によれば、この作品に示された態度は十四歳の少年のものである。
  しかしながら性的な問題に対していくらかの習慣的な尊敬と、然るべき畏怖を保っている十四歳の少年の態度は、カクテルばかり飲んでいて、なにも尊敬せず精神を紛らわすために人生の玩具、ことに恋愛をもてあそぶことしかできない青年達の精神状態よりもはるかに健全なのである。そういう青年達は遊びに耽っている中に自分の精神も見失ってしまうのである。――(後略)
  ここでは、作者自身が自らの作品を、その問題意識の内容の深みはともかく、若い思春期の人間の感覚のものと、認識している。
  これを翻訳したことで、日本においても、猥褻作品として訳者が起訴されたのであるが、この起訴文が時代を超えた論理性をもっているのである。

三田村鳶魚による「大菩薩峠」(中里介山)の考証

  時代考証での三田村鳶魚といえば、ひと昔前は有名であったようだ。その彼が、中里介山の『大菩薩峠』を考証の面から批判している。
  ところが、だから「大菩薩峠」は、だめかというと、そんなことはない。いよいよこの作品好きになるようなものがあるのが、この批判である。これを読むと、三田村が相当に中里介山を気に入っているように、感じるのはひいきの引き倒しであろうか。
  まず、作品の頁を指定して、具体的に問題点を指摘し、正しい答えを用意している。次のように…。
ーー 一二頁のところで、宇津木文之丞の妹だといって、この小説の主人公である机竜之助を訪ねて来た女がある。
  その言葉に「竜之助様にお目通りを願ひたう存じまして」とあるが、この女は実は文之丞の女房で、百姓の娘らしい。文之丞は千人同心ということになっている。竜之助の方はどういう身柄であったか、書いてないからわからない。
  道場を持っているし、若先生ともいわれているけれども、あの辺のところに、郷士があったということも聞いていない。竜之助の身分はわかりませんが、しばらく千人同心程度としても、「お目通り」は少し相場が高い。
  「お目にかゝりたい」くらいでよかろう。書生さんを先生といえば、かえってばかにしたように聞える。わずかなことのようだけれども、これも各人の生活ぶりを知らないから起ることだと思う。
 それからそこで竜之助のところにいる剣術の弟子達のいうことを聞くと、「賛成々々」とか、「宇津木の細君か」とかいう漢語が出る。これはおよそ文久頃と押えていい話だと思うが、こんなわけもない漢語のようでも、まだザラに遣われている時ではない。ーー
 
 本を読むことの面白さは、物語を楽しむだけでなく、こうしたものも大変面白い。
  何がおもしろいかというと、もちろん時代考証の理解が深まることは当然だが、このように書いてしまっている中里介山の精神が伝わるような気がするからである。想像力が豊かに湧き出て、どんどん書き進む様子が伝わってくる。(北 一郎)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子(15・完)北一郎4

 パスカルの「パンセ」には、次のような考察がある。
『……人間のそれらの不幸はいずれもたった一つの事から由来すること、その一つのことというのは部屋のうちに休んでいることができないということであることを発見した……』(慰戯一三九)そして、暮らしに不自由しない男が、家で楽しく暮らしてさえいれば、航海に出たり、城を攻めたりしなければ、悲劇は起きないであろう、とする。
 他方、ショウペンハウエルは、人間は苦難と退屈の間を振り子のように行ったり来たりするものだと述べている。人間の退屈する性癖は、活動しないことへの警告だとする。つまり、行動を促し、定位置に存在しないことは、危険を分散するという利点があるということだ。
 その意味で、順子は人間の本質に自然に従った存在なのであった。秋声は順子のもつ情熱的性格にしばしば「真実」を見ているが、まさに的確であった。ただし、真実とはその時代のその価値観によるとしての話だが。
  小説「仮想人物」の書かれた意義は、庸三の苦悩は、秋声にとって、すでに過去であることによって、救済された苦悩に変わり、順子によって得られたその喜びは、失われた時の再現と定着であったろう。秋声は、最後の一行において『そして、その時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』と締めくくっているが、果たしてそうなのであろうか? 登場人物の鮮明な描写の数々を思うと、私にはそれは、彼の韜晦と照れがあるように思える。何故なら、それを書いている間は、意識は過ぎた時間の中を訪ね歩くからである。こうした意識の旅は、おおよそ現実の空虚さを克服し、創造的価値を生んでくれるものだ。 ( 完 )☆(著作・北 一郎)☆
  ーー 引用参考文献 ーー
徳田秋声「仮装人物」(講談社文芸文庫)
秋田魁新報社ホームペ−ジ「秋田・風と土のメッセージ・山田順子」
榊山潤「馬込文士村」(東都書房)
榊山雪「馬込文士村の人々と私(4)」/「季刊・わが町あれこれ」第十四号(南部文学ネットワーク)
山田順子「流るるままに」(ゆまに書房・復刻版)
木村毅「小説研究十二講」(新潮社)
パスカル「パンセ」(上)津田穣訳(新潮文庫)
デューウィ「哲学の改造」清水幾太郎・清水禮子訳(岩波文庫)


徳田秋声「仮装人物」と山田順子(14)北 一郎4

 小説デビュ−の処女作品が「流るるままに」ということもあるのか、山田順子が、如何にも転々と遍歴や彷徨をしたように思われがちであるが、実際はそうではない。それは機転と自信に満ちた行動力の結果であったようだ。
 秋声の「仮装人物」の卓抜なのは、こうした彼女の根源的ところを見事に描出していることである。
 九の章で、庸三が葉子の実家に行った時のことである。葉子の前の夫(モデルは増川であるが作中は、松川)は、その後彼女の実家の召使いの女と結婚する。その女がやってきた時、葉子は自分の子供を増川が取り返しに来たと思い込む。その場面は次のように描かれている。

『葉子はその時少し熱があって、面窶れがしていたが、子供のこととなると、仔猫を取られまいとする親猫のように、急いで下駄をつっかて、母屋の方へ駆け出していった。(中略)
 例の油紙に火のついたように、能弁に喋り立てる葉子の声が風に送られて、言葉の脈絡もわからないままに次第に耳に入ってきた。継母というのが、もと葉子が信用していた召使いであっただけに、頭から莫迦にしてかゝっているものらしく、なにか松川の後妻としての相手と交渉するというよりも、奥さんが女中を叱っていると同じ態度であったが、憎悪とか反感とかいった刺や毒が微塵もないので、喧嘩にもならずに、継母は仕方なく俯き、書生達は書生達で、相かわらず遣っとる! ぐらいの気持ちで、笑いながら聞き流しているのであった。そうなると、恋愛小説の会話もどきの、あれほど流暢な都会弁も、すっかり田舎訛り剥き出しになって、お品の悪い言葉も薄い唇を衝いて、夫からそれへと果てしもなく連続するのであった。(中略)葉子は姐御のような風をして、炉側に片膝を立てゝ坐っていたが、
「おまえなんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えば何時でも取ってみせる。」
 という言葉が彼の耳についた。(以下略)』

 なんとも大らかな自己確信がここに見られる
 順子は単純に、己の美貌を鼻にかけている軽薄な女ではなかったようだ。持てる情熱、情愛の精神、肉体すべてを総合して、傲慢ともみえるほど自分の存在に確信をもっている。
 これはおそらく彼女の生い立ちに、深い関係があるのだと思う。富裕な商家で、おそらく両親の豊かな愛に育まれたのであろう。大勢の使用人は彼女を大事扱ったであろう。そうして育った人間は、健康であれば、自己存在の尊厳に疑いを持たない傾向を持つ。厭味のない自己確信は、傲慢さや自惚れと紛らわしいところがある。性格として、根源的挫折感を持ちにくく、人生的に打たれ強いのである。また、この場面で、彼女が田舎訛りと東京弁を使い分けていたことがわかる。乙に澄ました美人でなく、時に田舎訛りをみせる意外性を持っていた。このようなタイプは、男には魅力的であっただろう。
 もう一つ、秋声は順子の本質を描いている。冒頭の序文にそれがある。

『ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢って、一度だけトロットを踊って見た時、「怡(たの)しくない?」と彼女はいうのであったが……』

 楽しくないのか? 順子の相手の屈託を気にする場面を描いたのは、それが彼女の口癖であり、秋声はそこに彼女の本質を嗅ぎ取っていたのではないか。
 順子は、地方都市に一生住みついて、地味な生活を送ることの出来ない性格であった。派手で、気の浮き立つことが好きなのである。言って見れば、退屈拒否症なのである。自分が退屈を嫌うがゆえに、相手のそれが気になったのであろう。
 この「退屈する」というのは、人間的存在の根源にある。現在のメディアの発達、浸透ぶりはこの人間的特性から生まれたものだ。
 山田順子が後に、銀座でバ−「ジュンコ」のマダムをつとめたというのも、客の退屈を気遣う気質に合致していたであろう。



徳田秋声「仮装人物」と山田順子(13)北 一郎4

 小説「仮装人物」の梢葉子、モデルである山田順子の存在について、秋声は彼女への弁護的な視点を加えて、その特性のすべてを作中に描きだしている。
 彼女の男性遍歴について、世間の評判は良くない。だが、それは時代の見方による。前にも述べたが、地方の裕福な家庭で不自由なく育ち、メディアの発達によって、都市文化の動向を身近にした時、自己表現に意欲的な彼女が、地方に埋もれることを望まないのは、当然であったろう。
 順子の自伝的小説「流るるままに」には、次ぎのような部分がある。
『自己を開く、自己に合った運命の鍵を拾い当て得ずに懊々として生涯を終わる多くの人も有る。かかる人こそなんという哀れさ、不幸さであろう。(中略)しかし、機会は何時か屹度来る』
 時代を越えて、今にも通じる普遍的な欲望がここにある。この自分の人生に華やかなドラマの彩りを添えてみたいという欲望は、現代においても見られる根源的欲望である。現在、でも流行作家あるいは、芥川賞作家になることで、立身出世を果たした、という意識の作家は多いのではないだろうか。
 それにしても、結婚して小樽に行き二児をもうけ、さらに三人目が八か月という身重をもって、女流作家として売り込むため、亭主を連れて秋声を訪ねるという行動力には、驚きではあるが……。実に「翔んでる女性」だった。
 その後、離婚したあとも男遍歴が続く。それは生活をしながら、自分のロマンを実現するため美貌を武器とした遍歴であった。秋声の「仮装人物」には、母を亡くした庸三の幼い娘を可愛がり、懐かれる様子が描かれている。彼女は必ずしも好色や淫乱の女ではなかった。好色なのは、彼女の周り男達で、彼女は強かにそれを利用した。官能的な行動の奥には、違った生活をしたい、何かの中心になりたい。自分に注目をさせておきたいという欲望に動かされていた。どの男も彼女の主体性を奪うことは出来なかった。それは相手が秋声であっても同じである。自分を支援する力があるかどうか、男を選ぶにあったっては『いつも用心深く、抜け目がない』と秋声は作中に記している。
小説の最終は『そして其の時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』
となっている。しかし、順子をめぐる事件の回想と、物語を創る過程には、失われた順子との時が甦り、作者の晩年の空虚さを大きく埋め立てたに違いない。
 それは、常に冷徹さを装う彼の筆遣いが延々と順子の生態を書き記していることに証明されている(彼女との関係の本質は、自ら繰り返し明快に語っているにもかかわらず、である)。
 十四の章で、(ここで彼とあるのは庸三のこと)『恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修業と世の中へ押し出してもらうことが彼女の兼々の願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の焔もその瞬間消えてのも当然だったが……』とあるように、その後も機会あることに、そのことに触れる。
 葉子の功利的な態度への恨みを漂わせた物言いにも受け取れるこの表現は、庸三、つまり仮装人物の意識である。
 その意識を自虐的に描くことで、秋声は『真実』の表現に到達したという構図に読める。
 執拗にこれにこだわる秋声は、「物の見方によっては、真実は様々であるから、自分はそれを書くだけである」という、従来の態度保留から一歩踏み込んでいる。葉子の心を失ったことと、文壇的名声を失った気持ちの二重奏。その真実の程はわからないが、本心は後者の方に比重があったような気がしないでもない。
 もし、そうだとしたら、この作品で第一回菊池寛賞を受賞したのは、本望であったかも知れない。




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「詩人回廊」は文芸同志会員がつくる自己専用庭でできています。連絡所=〒146−0093大田区矢口3−28−8ー729号、文芸同志会・北一郎。★郵便振替口座=00190−5-14856★