「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

北一郎の庭

時代漂流録=総武線秋葉原の青果市場とヤミ市の由来

 昭和20年8月15日の終戦の時点では、まさに東京は焼け野原であった。都内各地にヤミ市が生まれ、食料品や日用品を求める人が溢れ、モノさえあれば何でも売れる時代であった。いわゆる持ち物を売って食品を買うタケノコ生活を支えた。
 秋葉原駅では、近くに神田青果市場が戦前からあった。広い敷地で、のちの移転後の街の再開発の用地になったという。
 そして、秋葉原駅の改札付近は、キセルでモノを運んでくる人々のヤミ市の舞台となったそうだ。これは、地元の古老や起業して成功した社長などから、聞いた話である。いわゆる一般公開の正史とは、少しずれがあるかも知れない。
 戦後を生きぬいたそれらの人々は、無線放送の低周波や高周波の情報で、終戦末期の日本軍の敗北の様子を、詳しく知っていたそうである。おそらく中波かFMの周波数で流されていたのであろう。多くの電気店主から聞いているので、その時点で、電気通信の部品の市場が秋葉原にあり、電子技術者がたちが集まっていたようだ。
 たとえば、現在もオーディオショップ「テレオン」が健在だが、時代が少し下がった頃の鈴木七之亟社長の時代は、店名は「テレビ音響」で、テレビの組み立て上キットを販売し「ピラミッド」というブランドを持っていたそうだ。それが団塊の世代のオーディオブームで「テレオン」という名称が広まったようだ。
 戦中からか、秋葉原の神社や卸売りや小売りの小規模店が存在したと思われる。それというのも、Nという人が、自治会の会長か何かしている時に、昔はテキヤの親分で、戦後になってこの地域とのシマを父親から譲り受けたという話をしていた、という事情通に出会ったからだ。
 戦後すぐの時期に、青果市場の食べ物に引き寄せられて、多くの浮浪者があつまり、総武線のガード下でたき火をして暖をとっていたという。それで、電車の線路を支えるコンクリ―トの橋脚が痛んでしまうので、彼らを追い払うようなことをし始めた。
 そのうちに、青物市場付近の露天商が増えて、人々がそれを目当てに、物を求めて集まってきた。露天商を仕切るシマの親分がいたということだ。
 なかには、いかがわしい連中が不正な手段で露天を広げようとするのを排除し、堅気の人が生活のためにやってくるのを整理などしたらしい。とにかくフリーマーケットの治安維持に力を尽くしたようだ。
 当時からしばらく、秋葉原には飲食店がなかったそうである。それはこのテキヤの親分が、飲食をすれば酒がでる。酔っ払いが徘徊すれば、欲望かられたりする。そうなると、露天商のビジネスがまっとうにできなくなって、堅気の人が居辛くなるということを防ぐためだったという。

時代漂流録=もうひとつの秋葉原電気街の物語

 現在の秋葉原商店街は、電気街と風俗地帯の合体したイメージがこくなっている。それでも、あらゆる電気製品を売るお店がおよそ500軒ほど!秋葉原電気街振興会に加入している店舗だけでも150店舗という世界有数の大規模な電気街のポジションは、維持しているらしい。
 電気店も栄枯盛衰があるが、店名が象徴的な「ラジオ会館」というのは、まだ存在するようだ。私が、コピーライターをしていた時代は1970年代ごろまでだった。
 その頃の仕事で本業以外で忙しかったのは、秋葉原街で市場調査であった。大手家電メーカーから、調査レポートを依頼された。事情はよくわからなかったが、メーカーの営業所の評判や製品価格の値引きの実態を知りたがった。 
 ある広報マンが内密で教えてくれたのだが、メーカー各社の情報交流会が定期的に開催されていて、私の名は商店の事情通として、知られていという。PR「さうんどプレイ」誌の主筆が誰かは、メーカーが秘密にしている筈だったが、「あれ、君がやっているのだろ」と指摘されることもあった。
 そのせいか、販売店に取材に行くと、罵倒されたり、拒否されたりすることが多かった。その頃には、秋葉原以外の郊外や新宿などに大型店ができて、電気街の街のイメージが薄れつつあった。以前は、秋葉原駅からの人流の動向は、路地裏でカウンターをもって調査マンが計測していた。それで、消費者の人気のある店などが、数量化されていた。しかし、メーカーは、それをやめ、街の高層ビルから、監視カメラで録画するようになっていた。
 同時に、販売店でPOSシステムを導入するようにると、自分の仕事はほんどなくなるようになった。秋葉原の歴史については、「秋葉原商店街振興組合」のネットにあるが、それにないもう一つの歴史を伝聞しているので、それを話のタネにしてみようと思う。それというのも、この商店街が歓楽街化したのだが、そうした街につきものの反社会勢力が存在しないのか、定着していないという噂を聞いたからだ。もしかしたら、自分が聞いたことが、事実であったからかも知れないと、思ったのである。

時代漂流録(11)オーディオ専門時代の記憶から

 昔は電子工学専門学校が、池袋や蒲田にあって、(いまの工学院大学の前身だと思う)そこの文化祭のイベントをモノクロカメラをもって記事にする仕事があった。たしか、そのころ、普及型ステレオのレコード針専門メーカー「ナガオカ」の広告代理店をしていた会社から、同社のサファイア針のイメージアップに、その原理をわかり易く一般人に解説する文章をまとめて欲しい、という依頼があった。
 そのためには、人工サファイア蓄針の原理を、人工サファイヤの改札である東芝の技術研究所の博士から、その安価で高性能の原理を教えてもらいに行った記憶がある。
 不思議と、オーディオの世界との縁が切れなかった。そのころは、夜間大学に通いながら、経済学で新しい理論を考え出さなければと、勉強の方に注意が行っていたので、悪く言えば上の空であったから記憶がとびとびなのであろう。
 大学で学んだマルクス経済学に関する経済理論を生かす場が見つからなかった。当てが外れた。が、オーディオと電気設備の仕事で、社員用マニュアルや音楽再生機と音楽性の解説などで、なんとなく仕事をしてるつもりだったが、収入が少なくて実家に生活費を払わない時期もあったようだ。父親から、お前、このところ、食い扶持を入れてないぞ、と催促された記憶もある。
 そのなかでパイオニアという会社には、大森に本社があった時代から、なんだかんだと足を運ぶ用事があった。当時、広告営業で新聞媒体の軒先営業をしているか、代理店をしているらしい人から、アルバイトで専属ライターとして同行するということをしていた。夜間大学生の時代だったので、仮の姿だった。
 そのずっと後に、同社がJR目黒駅近くに本社ビルを建設。経営は創設家の望月家でなく、東芝から来た石塚庸三社長になっていた。目黒に本社ビルが竣工完成したのち、バブル経済になり、不動産価格が上昇、同社資産が大幅増となった、石塚社長がそれを「幸運」と語っていた記憶がある。それ以前から出入りしていたので、同社の各部署の人とは顔見知りになった。
 その頃か、以後か忘れたが、創業者の松本望会長が電波新聞に「回顧と前進」という自伝を連載しはじめた。それは今でもネットで読める。《参照:パイオニア松本望「回顧と前進」
 自分は、同社のオーディオ専門店向けのオーディオ商品の文化性についての啓蒙通信専用の記事を担当していた。自分が思いつくままに、書いた記事から、そのうち使えるものを、広報室長が編集して、販売ニュースとして発行していた。この室長は、当初、愛想のない自分を「生意気な奴だな」と、言っていた。そのうちに、広報部の主催するメディア懇親会に呼ばれて、ジャズコンサートの酒場の集い参加した。ある時は笈田敏男、ある時は阿川泰子などの歌を聴いた。そこでのことを販売ニュースの記事にした。それ以来、室長に気にいれられて親しくなった。
 次第に、同社に通う日が多くなった。ある時、望月望会長の自叙伝を電波新聞が連載しはじめたことも、知っていた。望月会長は、クリスチャンなので、自伝のなかで、丁稚奉公時代に、少しばかかり正義に反した行為をしたことを、懺悔の意味で、そこに記したいという希望があったそうだ。それを編集担当は反対し、不掲載を主張したが聞き入れないので、困っているという話をしていた。「きみ、それどう思う」と室長に訊かれた。そこで、「自伝にはそんことは必要ないでしょう」と答えた。だが、青春時代の出来事を忘れることなく、クリスチャンの精神の懺悔するという会長の気持ちの純粋心に、心を打たれたものだ。

時代漂流録(番外編)=空の風景と名も知らぬ花の空想の香り

IMG_4330<どこからかやってきて、ベランダの植木鉢で咲いた花。11月17日ころ>
  ぼくは、まだ青い希望に満ちた過去のことを思い起こして書いてきた。しかし、ひとつの思い出を記そうとすると、それにつながる沢山の出来事が次々と浮かんできて、どれをどこで区切ってよいもものかわからなくなてしまった。そのうちに、その記憶のつながりをどこで打ち切るかを考えることに疲れて、なにもまとまった文章にならない。困っていた。
  そのとき、毎朝ベランダに眺めるものができた。放置してあった植木鉢に、ひと月ほど前に、何かの芽が出始めていた。おそらく、前にも顔を出して時と共に枯れた雑草の類であろうと注目することがなかった。ところが、その芽はみるみる伸びて、眺めの枝を張り出したのだ。
 そして、ついには花を咲かせたのである。ただの雑草ではなさそうだ。思えば、昨年はこのような花は、なかったし、何も新しく植えたこともない。ただ、鳩や雀、鴉などが、ベランダに遊びに来ているのを見かけたことがある。おそらく、それらの鳥の置き土産の種が、芽をだしたのであろうという見当はついた。
 そのうちに、すぐ枯れるだろうと思っていたら、そうではなかった。枝を増やし花がつき始めると、次々と花が咲き続けたのだ。
IMG_4335  いつ、枯れるかと毎日眺める習慣がついたのである。

時代漂流録(10)オーディオメーカーとマーケティング

IMG_20210813_00_1_1<「さうんどプレイ」12号。表紙:立山崇(1934--2004)。九州飯塚出身。1956年早稲田大学中退。大沢昌助に油絵師事。1956年、二科展初入選。以後毎回入選。1965年二科展特選。神奈川県展受賞、ロータリアン賞展受賞。1973年、二科展ローマ賞受賞。1979年、伯展最優秀賞受賞。2001年二科展、総理大臣賞。>
 立山崇画伯の原風景は、戦場から帰った父親に叱られて、泣いていたその時のこと。「南天の実か何かが成っている頃だった。赤い実が成ってね、緑の.そこにね、ちょうど早朝だったんで斜めに陽の光が射してきたんだ。煙ったように、それが涙で、何というかな、まわりが光で分解されるわけね。キラーっと七色に輝いていたの。ぼくは今でも、南天の木を見ると、それがファッとよみがえる。」そんなことも言っていた。
 当時のオーディオ業界では、団塊の世代向けにマーケティングの専門家が多く活躍していた。市場調査会社も仕事が多かった。その仕事にメーカーは大金を出した。すると、評論家や記者として秋葉原に出向いていた自分などに、その調査結果を裏付けるような事例の取材の依頼がきたものだ。
 内密に個人的に依頼されるので、提出レポートの報酬は、中堅社員の月給程度であった。また、メーカー発売予定の商品が、秋葉原の店頭では、定価の何割ぐらい値引きされるか、などの予測レポートも頼まれた。それらが盛んになったのは、パイオニアが開発した家具調ステレオを得意のスピーカーを左右独立させて並べるセパレート型ステレオが流行して以降で、ファッション化が進んだためであろう。
 コンポーネントユニットでまとめるシステムコンプが流行ると、名称がオーディオ商品と言われるようになった。この傾向は、自動車や家電商品など耐久消費財全般に進み、宣伝業界のファッションに影響されるようになった。家具的な木目調主流だったものが、社会的な色彩の変化に対応するようになった。
 メタリックグレー、シルバーメタリックやレッドトーンなどさまざまな色彩が、年ごとに取り入れられた。そうなると、来年のファッションの色合いも宣伝業界が誘導するようなムードになってくる。自分の仕事のほとんどが、団塊の世代マーケティグ関連で手いっぱいになっていった。

時代漂流録(9)オーディオ文化とその芸術性

IMG_20210813_0001_1_1<「さうんどプレイ」11号。表紙:立山崇(1934--2004)>
 立山崇画伯とは、仕事の打ち合わせだったのか、なんで誘われたか忘れたが、多摩川に近い川崎市あったお宅を訪問した記憶がある。川崎市には岡本太郎という巨星アーチストが、存在していて、立山画伯は、その地での隠れた天才であったのだろう。
 当時の彼に関する知識でわかっていたものは、九州飯塚出身。1956年早稲田大学中退。大沢昌助に油絵師事。1956年、二科展初入選。以後毎回入選。1965年二科展特選。神奈川県展受賞、ロータリアン賞展受賞。1973年、二科展ローマ賞受賞。1979年、伯展最優秀賞受賞ーーなどであった。
  立山画伯が、「さうんどプレイ」誌の表紙に独創的な原画を提供したのには、それなりの理由があったーー。芸術がこの世界で息長く尊重される要因をみると、それはコマーシャルペースに乗ったものが多い。コマーシャルベースで残ることで、時代がたつと、それが芸術となる。日本画しかなかった日本には、油絵も、写真もなかった。それが商業ベースに乗って定着したーーと話してくれたのをきいたことがある。
  DENONブランドのPR誌「さうんどプレイ」は、日本コロムビアのM事業部長とその部下たちによって、音楽の芸術文化性を高めることに結び付けることを、ポリシーにした。毎号の特集記事をその思想に沿って執筆した。その時に北にヒントを与えてくれたのが、同社のO技師であった。
  当時、マーケティングの世界では、オーディオ・セカンドブランドには、語数が多いものが有利とされた。ブランド戦略として松下電器はテクニクス、トリオは、お笑いトリオのイメージがつくと、輸出用ブランドのケンウッド、三菱はダイヤトーン、東芝はオーレックスなど、カタカナの長い名称をつけた。そのなかで電気音響製作所に由来する「電音」を活用したのは、その技術がNHKの放送研究所の技術であったからだ。そこには戦前の中島飛行機の技術者がいたという。DENONのレコードプレヤーやカートリッジはNHKが採用していたからである。プロ用の技術と性能を民間で使っている―これがDENONブランドの柱であった。

時代漂流録(8)コストパフォーマンスという概念の始まり

IMG_20210724_0001_1_1<「さうんどプレイ」誌。立山崇画伯の表紙絵。テーマに対する雰囲気づくりや色彩のト−ンの選び方など、絵画芸術に関する知識を学んだことで、コピーライトの文章について、ヒントもらったものだ。>
 音楽鑑賞とオーディオ再生装置の関係は、奥深いものがある。現実の音楽会のことをナマ演奏と称し、レコードやテープの再生装置としての性能は、臨場感やリアル感で評価されている。「原音再生」の性能を追及する。
 当時、作家の五味康祐を代表とするオーディオマニアとされる人たちは、遮音効果の高いオーディオルームをもち、レコード再生のカートリッジ、レコードプレヤー、プリアンプ、パワーアンプ、スピーカーとそれぞれの部品の優れたコンポーネントシステムを自分の好み合わせ構成する。それを実現すると何百万円もかかる。
 それを日本のオーディオメーカーは、団塊の世代に手ごろな価格のオーディオ製品を普及させるために、20万円から50万円程度のシステムコンポーネントとして販売した。
IMG_20210724_0001_1_2<「さうんどプレイ」誌11号。伊藤毅教授のオーディオの費用対効果のコストパフパフォーマンスのグラフ化したものの説明を掲載した。>
 そのときのキャッチフレーズが、コスト‐パフォーマンス(cost performance)の良い製品というものであった。費用対効果が高いということで、価格の割には性能が良く、良い音がするというお得感である。
 この再生装置の良い音のする製品と費用の関係を数字的に計算している博士がいると聞いた。それが早稲田大学の音響工学博士・伊藤毅教授であった。「イトウカーブ」という音質向上への費用投入と音の良さを感じる関係をグラフ化したもの。低価格の範囲では、安い方に少しの費用を上乗せすると、音の良さの感じは大差に思えるが、高級品の範囲では、かなりの費用を上乗せしても、音の良さの改善度は大差でなくなるという傾向を示している。とにかく、若者層に分かり易い様に、無知さを丸出しにしたインタビュー記事にした。と苦肉の策であった。ところがこれで、技術的に難しい話を大衆向けに分かりやすく説明するライターというイメージがついたのか、専門メーカから技術解説の原稿依頼がふえた。
 若い頃は、耳が良くて、良い音楽再生機器と普通のメロディ再生的な機器の聴き分けができたものだ。コロムビアレコードのオイゲン・キケロの演奏の誰句とダイレクトカッティング版なども持っていたが、欲しがる友人に売ってしまった。このころから、コンピューターの情報処理をテレビ映像やレコードに代わるCDの前段階のパルスコードモジュレーション(PCM)装置などが開発されていた。
  アナログ時代には、海外のテレビ放送を国内に送ると、ぼやけた映像しか映らなかった。それが映像・音声信号の伝送では、信号のデジタル化が可能になった。放送局用の機器メーカーの技術者たちと、アナログとデジタルの違いの解説文を検討したが、結局、その違いを一般人に解説しても意味があるのか? ということになり、ブラックボック化してしまった。レコードとCDの根本的な違いを知らないでも、音楽鑑賞に支障はないのである。

時代漂流録(6)湿度の高い米国東海岸と乾燥の西海岸

IMG_20210201_0001_2_1<「さうんどプレイ」誌。立山崇氏の表紙絵。日本コロムビアのPR小冊子であったが、有名バイクメーカーから広告を出させてお欲しい、という申し込みがあって、関係者を苦笑させた。また、国会図書館から、法律にしたがって納入すべきという要求の電話があったのには驚いた。本誌のエッセイには、当時流行作家の笹沢佐保との恋愛に話題になった冨士眞奈美氏が快く引き受けてくれた。>
 メジャーリーグで、投打2刀流で活躍する大谷翔平が、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地球場での試合では、投手として登板した。しかし、一回ももたず降板した。要因として、地域の湿度が高いことが挙げられる。
 ここにもイースト・コートとウエストコートとの差がある。そこに目をつけ、米国のオーディオのスピーカーシステムには、西海;岸の音質の「;ウエ.ストコースト・サウンド」と東毎岸の音質〔イースト.コース卜・サウンド」という定説があるとした。
パラゴン<爽やかな風が体を吹き抜けるような軽快な響きが魅力のJBLスピーカー>
 カルフォニアに代表される西河岸には、アルテックAー7、JBLなどのように,明るく澄んだ、おおらかさをもった,た音響が人気がある。明るく、伸びやかな抜けの良い音で、若者が好む。
 それに対し、ボストンに代表される「イースト・コーストサウンド」には、AR、KLH、ポザークなどになどに見られるような、.格調高い重享さ、シブミをもった音響で、愛好者が多い。この現象を物語化するのが、仕事である。
 アメリカの文化の雁史は、英国から移民で、まずボストン港に到着し、貿易事業で町が賑わった。ヨーク地方から来た人が、ニューヨークという町の名をつけた。そこから、音楽文化も欧州の古典的重厚なオーケストラの音の響きを大切した。ボストンあるスピーカメーカーKLH、ボザークはニューヨークにある。
ェ―アール<重厚で体の芯を揺さぶるような音響で、聴く人を重厚な世界に導くボザークB−41クラシック>
 JBLは西海岸の中心地ロ.スアンゼルスでつくられ、アルテルテックは、ロスにほど近いアノハイムに本社がある。わが国てでは、どちらかというとウエストコースト的なスビーカーステムが多く紹介されている。このような、歴史を絡めたことで、スピーカの音質と文化の関係を物語にしたのである。
 米国移民の歴史には、17世紀に米国への移民のはイングランド人だったが、中部地方には、オランダ人、スウェーデン人、およびドイツ人がいた。またサウスカロライナや他の地域にはフランスのユグノー教徒が、そして主に南部にはアフリカからの奴隷がいて、さらにスペイン人やイタリア人、ポルトガル人が、各植民地に散らばっていた。1680年以降は、イングランド人に代わって、スコットランド人と「スコッツ・アイリッシュ」(北アイルランドのプロテスタント)が移民の中心となったようであるが、それらを省略、簡素にして説明するのが、マーケティングにおける物語化の手法である。

時代漂流録(6)オーディオで米国の東西文化を知る

IMG_20210627_0001_1_1IMG_20210627_0001_1_3
<立山崇画伯は、自らの画業のほかに、表紙絵のような社会の傾向を観察するのに鋭い感覚を持っていた。北一郎は、団塊の世代のマーケティングデータの収集も仕事にしていたので、その内容把握してイラストを描いてくれた。その一部が団塊の世代のオーディオ鑑賞のイメージイラストである。>
 1960年から70年代の消費は完全に団塊の世代が、あらゆる分野をリードしていた。彼らを高級ハイ・ファイオーディオの世界に導くには、まず、音楽と再生装置との関係を西洋音楽と結びつけて啓蒙する必要があった。
 当時の高級オーディでの音楽再生は、米国メーカーの再生装置が各分野で優秀品が出ており。それをを組み合わせるコンポーネントを購入するのが、マニアとしての誇りであった。まず、アンプではマッキントッシュ、マランツなど。そしてスピーカーでは、JBLのパラゴン、ボザーク、アコースチックリサーチ、KHL、アルテックなどが名機としてとして名を馳せていた。
 そのなかで、ジャズやクラシックを再生機で鑑賞するアメリカの土地風土にからめて、知識をもってもらい、そのハイレベルさが、どれだけ日本の製品が迫れているか。それを啓蒙する物語を、特集記事で書いて欲しいという話がクライアントからあった。
 自分は、日本コロムビアのO技師に、相談した。彼は、その話題はマニアの間では、知られているが、それを短くまとめた評論家はいないという。そして、米国ハイファイメーカの音質について、その特性をメーカ別に教えてくれた。それで、サンスイの新宿ショウルームでJBLの音を聞かせてもらい、秋葉原のテレオン、ヤマギワの試聴室などで、再生音を聴かせてもらい、話を聞いた。
 その結果、米国には東海岸文化と西海岸文化が存在し、それがオーディオ再生機器の音質の違いがあるという設定にした。
 現在、話題の米国メジャーリーグでエンジェルスの大谷翔平選手が、ニューヨークのジャイアンツの試合に登場して、話題になっているが、これは米国東海岸と西海岸とは、時差が3時間あるほどの距離があり、そこには文化風土の断絶があるのが今でもわかる。
 そこで、当時まだ知られていなかった、寒冷気候の東海岸文化と、温暖気候の西海岸文化の反映として、オーディオ装置の音質にボストン的な「イーストコースト・サウンド」とカルフォルニア的な「ウェストコースト・サウンド」があるという物語をしたものだ。

時代漂流録(7)放送局設備の性能がオーディオマニアに

IMG_20210512_0001_1_1<立山崇画伯の個展はちょっと変わっていて、本来の芸術性追求の作品と、別コーナーには画廊が販売できるような、南欧のエーゲ海やモナコの眺望を描いた美しい風景の作品が、手ごろな価格で展示していた。その鮮やか色彩のコントラストは、彼の色彩感覚の鋭さが見事に発揮されていた。それには、新築住宅の壁に洒落た油絵を掛けておきたいというニーズがあるそうだ。彼の地元の川崎市には、岡本太郎というビッグなアーチストがいたので、目立たなかったが、意欲的な立体感のある実験作も多くあったものだ。>
 日本コロムビアのセカンドブランドであるDENONは、NHKなどの放送局向けの機器を製作をしていたことから、マーケティング会議では、オーディオマニア向けに、プロ用機器の機能と性能の音を、家庭で味わえますというイメージ戦略を採ることにした。これをPRするのに「さうんどプレイ」誌が活躍した。同社のダイレクトドライブターンテーブルDPシリーズは、その代表的なものだ。
 この時の特集記事のヒントを考えてくれたのが、同社のO技術者だった。彼は、新聞記者が取材で話を聞くとき、必ずメモをとるものだという。僕の場合は、彼から話を聞きながら、ほとんどメモを取らないでいる。そして、それをヒントに特集記事を書き上がったものに、製品の宣伝文句がない。しかし彼の意図したことは伝えていることは確かで、文句も言えない、という不思議な文章家タイプだと感じたという。
 これは対象物の説明に、商品の良さを強調するより、どうしてよくしたかの経過の物語化をするという、常道なのだが、それをメカニズムの構想で行った結果で、苦肉の策であった。
 そのことを話して、「じつは、自分はスピーカーでもアンプでも、出来上った時に、これで完成したと決定するのは、どいう人なのか? それを特集記事に組み込みたいですね」と言って見た。
 すると、「そういう思いつきは、いいね。しかし企業秘密だからむりだよ」といって、なにかいいたそうにして口をつぐんだ。
 それから、あるとき、歪のごくすくないスピーカーを、志賀博士の指導で開発したから、視聴にこないか」と、O氏から誘いを受け、たしか川崎の工場に出向いた。そこで、試作品の視聴をしたが、なにか情感が乏しい音質に思えた。その感じを告げると、「そうですよ。歪がないだけでは、オーディオ機器として音場の完成がないのです」と、ひとしきりステレオ音場論を教えられた。
 その帰り際、O氏がプリメインアンプPMAシリーズのテスト室をドアを少し開けて覗かしてくれたものだ。奥に年配の男性が、不機嫌な表情で危機の操作をしていた。「あの人が上田剛ですよ。ビッグ・フォアのドラマーの…」という。
 ビッグ・フォアといば、ジョージ川口、(ドラムス))松本英彦(テナー・サックス)、中村八大(ピアノ)、それに上田剛(ベース)でのメンバーで有名なジャズマンである。
 ミュージシャンが、音質の最終チェックをしていたとは……。いつかそのことを絡めて物語にしようと思っていたが、それをすることはなかった。
QRコード
QRコード
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

「詩人回廊」は文芸同志会員がつくる自己専用庭でできています。連絡所=〒146−0093大田区矢口3−28−8ー729号、文芸同志会・北一郎。★郵便振替口座=00190−5-14856★ 
Archives
  • ライブドアブログ