「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

北一郎の庭

真田城公園の時空をみるーー何もしない幸せ時間=北 一郎     

112711341131<真田城公園も時代の旅をして、今に至ったわけである。何よりも、真田幸村の作った城はすでになく、徳川時代に再建されたものというのが、時空に隙間を感じるしかない。ただ、お堀も矢倉も戦国時代の緊迫した世相を感じることができる>《参照:真田エリア
  上田市の別府温泉で一晩過ごしたあと、別府駅からのんびり上田駅まで電車に揺られた。乗客は少なかったが、ほとんどがカメラをもった外国人で、車窓から見える田園風景を高級カメラで写していた。どこの何が、写真にするほど珍しいのか、その方向を見ても、よくわからなかった。
  ということは、自分の内面には、何事かでも珍しいものとして観る力を失っているということなのだ。時空のなかの無名者の我が眼よ、世界を新鮮にみる力を蘇らせたまえ。
15298209484351529826607408<上田電鉄別府線の別所駅で単線電車の車内からの風景>
  上越新幹線の用意された切符をみると、あと2時間近く経たないと乗れない。駅前広場には、幾本かの太い樹が立っており、日陰に沿って円形の腰掛台がある。そこで、時間を過ごす。何もしないようであるが、それなりに時間の旅をしてることを感じる。なにもしないことで、焦ることはないのだ。じっとしている幸せも時間もある。
1529817991633<上田駅で新幹線待ちをしていると駅前に水車があった。街中の水車のほうが珍しい。>
《参照:雨の上田城祉で武田系から豊臣系・徳川の地域史をたどる

台湾の高村光太郎!何徳来の生涯と芸術(4)森美根子氏解説

IMG_1204_1IMG_1205_1 <様々な画風に挑戦した何徳来画伯>
 美校を卒業した春、彼は新妻を連れて故郷に帰り、新竹にアトリエを構え、地元の図画教員らと糾合し「新竹美術研究会」を組織する。
IMG_1206<墨文字での意味性と文様風景絵画合一の作風も>
 今にして思えば、当時の台湾美術界は台北を中心に展開していただけに、地方の美術に目を向けその振興に尽くした何徳来の功績は台湾近代美術史上、決して小さくなかったと言える。1980年、実業家にして中国書画の蒐集家としても名高い林宗毅(号・定静堂)が、彼の画業を称賛し、祖父の名を冠した「林維源先生紀念定静堂文化芸術賞」を贈呈したのも頷ける。
IMG_1207_1_1<秀子との琴と絵画の生活は、異郷で暮らす台湾人青年の心に一条の光を灯すものとなった>
 ここで彼の創作を改めて見てみると、師である和田英作の直接的な影響はほとんど見られない。あるとすれば晩年に、和田と同様、富士山の制作に勤しんだことぐらいか。
 作風はーー、
1)平和・愛・生・死などの観念を母子裸像や骸骨を用いて表した寓意的な作。
2)太陽・月・星を題材にして万物の生成を表した作。
3)自作の詩歌を画面に挿入する文字と絵を融合した作。
 4)台湾の風景や四季折々の日本の風景を描いた作。
――の四つに大別される。うす塗りの颯爽とした筆遣いによる作品の数々は、永遠の真理をテーマにしたものであれ、風景を対象にしたものであれ、東洋的なエスプリに満ちていて独特の世界観を創り出している。
 生涯、名利を求めず黙々と創作に励んだ画家は自作について「一枚一枚が私の心の日記」と述べているが、自宅の庭の蝦蟇や黄昏の雑木林や死の床に就いた妻の病室から見たお茶の水の夜景など、対象にむきあう画家の心情が素直に写し出されている。
 また、一気呵成に筆を走らせる躍動感にみちた水墨画の大作は、彼が紛れもなく墨絵の本家本元にルーツをもって台湾の出身であることを物語っている。
 彼の死後、「新構造社」は長年の功績を称えて「何徳賞」を設けたが、台湾の第一世代で目本の美術団体にこれほどの業績を遺した画家は彼をおいて他にない。但し、戦後の生活は叔父を懸命に支えた甥・何騰鯨氏の存在なくしては成立せず、儒教の教えが浸透する台湾社会の原型をここに見る思いがした。(了)
IMG_1194「『何徳来の愛と死』在日台湾人画家の没後33年展」での森美根子氏の解説講演>
 ☆森美根子プロフィール=台湾美術研究家。1954年東京生まれ。1996年、台北県立文化センター開催「民俗風情―立石鐵臣回顧展」の日本側責任者を務めて以降、台湾人画家を紹介する展覧会を多数企画。また数々の展覧会論文を発表。「台湾美術現代の旗手5人展」「台湾の心・台湾の情―廖修平・江明賢二人展」(松濤美術館)、「いま、台湾 台湾美術館」(同)、「立石鐵臣 麗しき故郷『台湾』に捧ぐ」(府中市美術館)などがある。講演も多数。了徳寺大学非常勤講師を経て、一般財団法人台湾協会理事。著書「台湾を描いた画家たち」(産経新聞社)、「日本統治時代台湾―語られなかった日本人画家たちの真実」(振学出版)。
(注) この記事と写真は、2018年春に東京・台北駐日経済文化代表処台湾文化センターにてで開催された展覧会「没後33年 在日台湾人画家 何徳来の愛と死」の会場のおける、企画者・森美根子氏の講演をもとに北一郎が、抜粋編集したものです。

台湾の高村光太郎!何徳来の生涯と芸術(3)森美根子氏解説

IMG_1199_1_1IMG_1202_1<1950年代には、日本と台湾での展覧会を開催。若き時代の記録>
 何徳来が東京美術学校に入学した年は、台湾美術展覧会(官展)がスタートした年で、台湾の美術界にも近代化の波が押し寄せていた。
IMG_1201_1_1_1<1950年代は朝鮮戦争がはじまり、日本は自衛隊の前身「警察予備隊」を創設。ダレス長官が、日本の軍地基地化を公言。米国アチスンが、台湾は、朝鮮戦争に中立を言明した。そうした空気が出ている作品>
 時代の風を感じた彼は同年9月、東京美術学校の先輩で新竹から南部にかけての出身者(陳澄波、廖継春、顔水龍、張舜卿)が組織した研究会「赤陽洋画会」に参加し台南公会堂で作品を発表する。翌年には新竹公会堂で個展を開催し、石川欽一郎主導の「七星画壇」に出品する。
IMG_1203_1<1951年の「夕陽鐘声」と1954年「生興死」の作品>
    つづく1929年彼は、当時の若手精鋭が組織した「赤島社」(「七星画壇」と「赤陽洋画会」が合併)の創立メンバーの一人として、同年夏に台北の博物館で開催された第1回展に、陳澄波・彦継春らと作晶を発表している。
   台湾で見事な活躍ぶりをみせる彼であったが、美校の受験を目指して日本に渡った翌年には関東大震災に遭遇し、その後に養父の訃報に接するという、この世の不条理に人知れず懊悩する日々を送っていた。
  そんな彼のもとに思いもよらぬ良縁が訪れたのは28歳の秋のこと、作曲家・箏曲家として名高い宮城道雄の弟子、木邑秀子と結婚することとなる。秀子との琴と絵画の生活は、異郷で暮らす台湾人青年の心に一条の光を灯すものとなった。(つづく)
(注) この記事と写真は、2018年春に東京・台北駐日経済文化代表処台湾文化センターにてで開催された展覧会「没後33年 在日台湾人画家 何徳来の愛と死」の会場のおける、企画者・森美根子氏の講演をもとに北一郎が、抜粋編集したものです。
IMG_1188「『何徳来の愛と死』在日台湾人画家の没後33年展」での森美根子氏の解説講演>
 ☆森美根子プロフィール=台湾美術研究家。1954年東京生まれ。1996年、台北県立文化センター開催「民俗風情―立石鐵臣回顧展」の日本側責任者を務めて以降、台湾人画家を紹介する展覧会を多数企画。また数々の展覧会論文を発表。「台湾美術現代の旗手5人展」「台湾の心・台湾の情―廖修平・江明賢二人展」(松濤美術館)、「いま、台湾 台湾美術館」(同)、「立石鐵臣 麗しき故郷『台湾』に捧ぐ」(府中市美術館)などがある。講演も多数。了徳寺大学非常勤講師を経て、一般財団法人台湾協会理事。著書「台湾を描いた画家たち」(産経新聞社)、「日本統治時代台湾―語られなかった日本人画家たちの真実」(振学出版)。

台湾の高村光太郎!何徳来の生涯と芸術(2)森美根子氏解説

IMG_1197_1IMG_1210_1<何徳来画伯1930年代の新婚時代(左)と1970年代の晩年の姿>
 「画中有詩」「詩中有画」の如く詩と画が混然一体となる独自の境地を開拓された何徳来画伯は、死の6年前の1980年に、その画業が讃えられて第一回「林維源先生記念定静文化芸術賞」を受賞されています。
 台湾と日本を深く愛し、台日それぞれの地において「芸術のための芸術」との理念を掲げ、命への愛や故郷への思いを表現し、美術の発展と振興に尽くされました。
IMG_1200_1_1<故郷の台湾「新竹」を描く>
 何徳来は1904年、台湾の新竹州淡文湖庄(現・苗栗県造橋郷談文村)に生まれた。新竹は一年をとおして強い風が吹くために別名、風城(風の街)とも呼ばれている。
が、本人の述懐によると、苗栗の郊外に位置する淡文湖は地名に反して湖はなく、当時は大雨が降れば田畑が流されてしまう小さな村だったという。
IMG_1198_1_1<愛する妻との生活で、画風も明るさを増した様子>
 生家は毎日のようにタニシをおかずに芋粥に甘んじる貧農だったそうで、彼は5歳にして大地主のもとに養子にだされている。
 だがこれが彼の運命を大きく変えることとなる。資産家の養父母に大事に育てられた彼は、書房で四書五経をそらんじる日々を送り、やがて東京の小学校にあがるために、養父の親友に連れられ台湾をあとにする。9歳のときだった。
 後年、何徳来本人の回想によれば、絵を好きになったのは、牛込の山吹小学校5年生の図画の時間に赤い提灯を描いた絵が貼りだされ先生に褒められたのが始まりで、更に描く喜びを知るようになったのは卒業後、台湾に戻り台中一中に進んだ2年生のときに油絵で学寮の夜景を描いた、そのときからであったという。
 文献には、当時の作として、天使の後ろに三人のシスターがたたずむ油彩画「聖女たち」(1920年作)が残されている。おそらく西洋絵画の印刷物か何かを見て描いたのだろう。筆の運びに稚拙さはあるものの中世の宗教画を思わせる画面には彼が生涯のテーマとした愛と真理の探究の萌芽がすでに表れている。
 このころから彼は、画家になる夢を抑えきれなくなったようで、家人を説き伏せ東京美術学校を目指している。だが入試一年目は初めてみる等身大の石膏像に度肝を抜かしてあえなく失敗、その後は川端画学校で基礎を学ぶも、翌年の試験中に隣の受験生のデッサンを手直しするという前代未闘の行為が仇となり再び落第、彼が東京美術学校西洋画科に進学したのは1927年24歳の春のことだった。
  在学中は堅実な写生を基礎とし穏健な画風を貫いた和田英作に師事し、洋画の技法を徹底的に学んでいる。同期には、台湾に洋画の美術教育をもたらした石川欽一郎の長男・石川滋彦が、一級下には後年、梅原龍三郎の北京行きに同行し多大な影響を受けた郭柏川がいた。
  当時の石川と郭は岡田三郎助に師事していたが、同郷のよしみで交わりも深かったに違いない。何徳来の絵画の基礎は、三人三様それぞれが切磋琢磨し、しのぎを削ったこの時期に鍛えられたものと思われる。(つづく)
(注) この記事と写真は、2018年春に東京・台北駐日経済文化代表処台湾文化センターにてで開催された展覧会「没後33年 在日台湾人画家 何徳来の愛と死」の会場のおける、企画者・森美根子氏の講演をもとに北一郎が、抜粋編集したものです。
IMG_1188「『何徳来の愛と死』在日台湾人画家の没後33年展」での森美根子氏の解説講演>
 ☆森美根子プロフィール=台湾美術研究家。1954年東京生まれ。1996年、台北県立文化センター開催「民俗風情―立石鐵臣回顧展」の日本側責任者を務めて以降、台湾人画家を紹介する展覧会を多数企画。また数々の展覧会論文を発表。「台湾美術現代の旗手5人展」「台湾の心・台湾の情―廖修平・江明賢二人展」(松濤美術館)、「いま、台湾 台湾美術館」(同)、「立石鐵臣 麗しき故郷『台湾』に捧ぐ」(府中市美術館)などがある。講演も多数。了徳寺大学非常勤講師を経て、一般財団法人台湾協会理事。著書「台湾を描いた画家たち」(産経新聞社)、「日本統治時代台湾―語られなかった日本人画家たちの真実」(振学出版)。

台湾の高村光太郎!何徳来の生涯と芸術(1)森美根子氏解説

IMG_1193_1<身体を鍛えていた台中一中時代の何徳来画伯>
  昭和も終わりに近い1986年2月、東京で一人の台湾人画家・何徳来が静かにこの世を去った。何徳来は東京美術学校に進んで和田英作に師事し、戦前は台湾の新竹地方の美術の振興に努め、戦後は日本の美術団体「新構造社」の運営に尽力するなど日台それぞれの地で活躍した。このたび33回忌を迎えるにあたり、半世紀近く東京の目黒に在住しながら、未だヴェールに包まれたままの何徳来の画業を紹介します。
IMG_1196_1_1<青春時代の孤独と苦悩を思わせる初期作品>
 何徳来画伯は、1904年に台湾の新竹州苗栗県淡文湖に生まれました。1904年という年は、朝鮮・満州の支配権をめぐり日本とロシアの間でおこなわれた帝国主義的戦争で、日本の軍が旅順攻撃を開始し、翌年に日本は奉天を占領、日本海海戦の勝利によって軍事上の勝敗はほぼ決定した年でもあるのです。
  画伯は東京美術学校在学中、和田英作に師事し、1929年に陳澄波、陳植棋らと「赤島社」を組織。1933年には、「新竹美術研究会」を創設。台湾の新竹地方の美術の振興に努められました。
  日本においては八十有余年の歴史を誇る美術団体「新構造社」の創設に尽力されたほか、同団体の「社歌」を作詞作曲。その後「新構造社」が新人の育成を目指すための受賞項目に「何徳賞」を新設したのは、偏に、画伯の偉大な功績を永遠に留めるためでありました。
  また画伯は晩年、亡き妻との日々の暮らしを叙述した詩歌集「私の道」を出版されました。
 ・五歳より母のみ御を裂かれたり百円なりき金のためなり
 ・かの頃よ田螺をおかづに芋粥のそれが暮らしの生家にありき
 ・東京へ留学すると九歳に辮髪切れり雨降る日に
 台湾では、そうした芸術行為が日本近代の詩人にして彫刻家でもあった高村光太郎と近似しているとし、「台湾の高村光太郎」と称する研究者もおられます。(つづく)
(注) この記事と写真は、2018年春に東京・台北駐日経済文化代表処台湾文化センターにてで開催された展覧会「没後33年 在日台湾人画家 何徳来の愛と死」の会場のおける、企画者・森美根子氏の講演をもとに北一郎が、抜粋編集したものです。
IMG_1188「『何徳来の愛と死』在日台湾人画家の没後33年展」での森美根子氏の解説講演>
 ☆森美根子プロフィール=台湾美術研究家。1954年東京生まれ。1996年、台北県立文化センター開催「民俗風情―立石鐵臣回顧展」の日本側責任者を務めて以降、台湾人画家を紹介する展覧会を多数企画。また数々の展覧会論文を発表。「台湾美術現代の旗手5人展」「台湾の心・台湾の情―廖修平・江明賢二人展」(松濤美術館)、「いま、台湾 台湾美術館」(同)、「立石鐵臣 麗しき故郷『台湾』に捧ぐ」(府中市美術館)などがある。講演も多数。了徳寺大学非常勤講師を経て、一般財団法人台湾協会理事。著書「台湾を描いた画家たち」(産経新聞社)、「日本統治時代台湾―語られなかった日本人画家たちの真実」(振学出版)。

都電に乗って飛鳥山公園へ (2)     北一郎

IMG_0937IMG_0938<飛鳥山公園は石が多く置かれている。岩山の風情である。おそらく、どこからみても石の存在感が、非日常性を演出するからであろう。第一、浮浪者もテントを張りにくい。子供が岩の近くのコンクリート台を上り下りしている。それも考えて構築してるらしい>
  春には桜の名所となる飛鳥山に行くには、都電がいいと思っていた。まだ、若い頃、なにかの用事ーたぶん仕事であろうがー王子駅でおりて歩いた記憶がある。半世紀も前のことだ。そのときに、名主の滝というのを見た覚えがある。都会で昔からある滝というのであるから、水は涸れる寸前で、白濁したような色であった。
 いまは、もう少し水量を増量しているであろうが、当時は貧弱で、かつての姿を想像するしかなかった。王子の狐という話もあったくらいだから、山裾の里というイメージに重ねるしかない。
IMG_0939<もう少し高台には、遊園地があるらしい。都電の廃車を利用したようなものが、雑木の間から見える>
しかし、あとになってその近くに飛鳥山があるのを知った。ついでに、そこへ寄ってみればよかったなあ、と思いつつ半世紀である。春先なら桜の咲く期待もあるが、葉の落ちた桜木を見れば想像はつく。岩石の風景はいろいろな想念を呼び起こす。物がモノとして存在するだけなので、意味性が自然であるべきしてある、という風情に、生命体としての人間の生きている自分を考えさせるのだ。
IMG_0940<公園の石の風景が芸術的であるかどうか、考えながら進むと、右に王子駅駅への道標がある。人間の意識では、ことらに向かって進めという意味にもとれる。必ずしもそうではないが、文字に意味を見出す癖があるのが人間だ。>
  坂口安吾は、「不良少年とキリスト」という作品で、太宰治と芥川龍之介の自死したことに、かなりこだわっている。反発している。通常は、人間の意識が死に直面すると生きることへ欲求が増すのである。たしかに、人間的な細胞のシステムでは、常に生き延びるための活動を行っている。肉体の意志はつねに命の継続に向かっている。しかし、その頭脳というか、心は正反対の強制的な死を望んで実行してしまうのだから、不自然である。安吾はこう書く。
  IMG_0941<飛鳥山公園からの鉄道の路線の眺めは、面白い。撮り鉄の人も姿を見せていた。>
 ――生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分かるとか、分からんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに死ぬ方は、ただなくなるだけで、何にもないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことはやるな。いつでも出来るんことなんか、やるもんじゃないよ。ーー
  この言葉が、多くの人の共感を得た時に、それは真実となる。

都電に乗って飛鳥山公園へ (1)     北一郎

IMG_0930IMG_0931IMG_0932IMG_0933<地下鉄日比谷線で三ノ輪駅で降りる。商店街の人に都電に乗りたいのですが、どこに行けば? と聞くと、ビルの間の商店街トンネルを教えてくれた。それがここ。向こうに確かに都電駅らしきホームが見える>
  都内在住70余年。都電に乗ったことがあるような、ないような。要するに、しかとした記憶がないが、都電の停留所が便利な場所は、幾度か行ったことがあるのを微かに覚えている。ということは、記憶にあるほどの最近はまったく乗ったことがないということだ。
IMG_0935IMG_0936<もうここは、飛鳥山公園前を降りたところだ。都電がこんなに混んでいるものだとは、全く知らなかった。運賃が170円では、バスより安い。おまけに路面を走る距離は少なく、電車線路が多いからノンストップで走れる。都電の方が有利だ。>
 まず地下鉄で三ノ輪駅に出た。その手前の入谷駅には今年の夏に朝顔市に出かけて、朝顎の鉢をかっている。しかし、三ノ輪には来たことがない。知り合いは、健康のために毎日二時間は、散歩しているそうである。
 私には、そういうことはできない。しかし、街を観て歩くことはできる。都内のどこでも、わたしにとって、外はこの世の世界が見えるところである。家の中で、ものを書いている時は、ほとんど幻想か妄想の世界にいる。
 それが、外に出ると、現実が目の前に見えている。知らない場所なら、よけい現実を感じさせてくれる。人間は衣食住に足りて、何事もなく日々が過ぎれば、それで充分だ。
 それだから、テレビのニュースでの調査によると、若者たちの意識は、現在の日本の状態の現状維持を望でいて、政治に異論をとなえないのだという。
 もっともな話のようだが、この世界は時間と空間が一方に流れて、変化をしている。いまが、幸せでもそれが続くことはない。時間は変化を強制する。
 いま幸せな人には、不都合かも知れないが、不幸のどん底にある人には、そこから抜け出すチャンスでもある。苦しい時には、とにかく時間を稼ぐことだ。時間が情況を変えてくれるのを待つ。

絵の如く美しい風景から=北一郎

IMG_20171029_164438IMG_20171029_164314
  カナダの風景だという。まるで、絵に描いたように美しい。だが、そうであろうか。絵は自然の色はより遥かに美しいのか。
 昔から、画家たちは、自然の美を驚嘆してやまなかった。そして、自然の美を端的に表現することの難しさを力説してきた。
  自然はすべての人工の美の総和よりも遥かに美しいとしきた。如何に精巧なる絵具も、如何に精巧に配置されたその絵具によつての構図も、自然が有する色彩の美を超えることは出来ない。実際にさう見える時がある。
IMG_20171029_154514IMG_20171029_154308  巧みな自然の風景の画を見せられたものは、たいてい実在の風景のように美しいと嘆美する。有島 武郎は、「新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美する。人間とは誇大する動物である。器具を使用する動物であるといふよりも、笑ふといふことをなし得る動物であるといふよりも、自覚の機能を有する動物であるといふよりも、この私のドグマは更らに真相を穿つに近い。若し何々する動物であるといふ提言を以て人間を定義しようとすることが必要であるならば。
 彼れの為すところは、凡て自然の生活からの誇大である。彼れが人間たり得た凡ての力とその作用とは、悉く自然が巧妙な均衡のもとに所有してゐたところのものではないか。人間が人間たり得た唯一の力は、自然が持つ均衡を打破つて、その或る点を無限に誇大するところに成立つ。人類の歴史とは、畢竟この誇大的傾向の発現の歴史である。或る時代にあつては、自然生活の或る特殊な点が誇大された。他の時代にあつては他の点が誇大された。或る地方にあつてはこの点が、而して他の地方にあつてはかの点が誇大された。このやうにして文化が成り立ち、個人の生活が成り立ち而してそれがいつの間にか、人間の他の生物に対する優越を結果した。智慧とは誇大する力の外の何者であらう。」
  これらの論は、モダニズム芸術論からでたものだ。だが、現代では、人は画家から与えられた主観をみているのだ。この写真も撮影者のいちばん美しいと感じた場面、場所から撮ったものであろう。製作者の主観を投影したものだ。時間は風景を変える。すでにその時は去って、もうこの時は来ない。これは今は主観的世界の残像なのだ。

文章における猥褻表現の定型はあるのか(5)北 一郎

「チャタレイ夫人の恋人」の場面では、コニイの男根崇拝的な描写もある。尾高修也氏は、自らが講師をする作家教室の文芸同人誌「私人」(朝日カルチャーセンター)第92号(2017年6月発行)「D・H・ロレンスの思い出」において、恋人との逢引きの前段において、次のようなシーンを訳している。
――≪だめよ! あなたの体、見せて!≫
  男はシャツを手ばなして、女のほうを向いて、静かに立った。低い窓から射し込む一筋の陽光が、男の太ももと痩せた腹と鮮やかな金赤色の陰毛の小霙から小暗く熱そうに立ちのぼる勃起男根を照らしだした。女はびっくりして怖くなった。そして、ゆっくりと言った。
≪まあ、ふしぎねえ! そこに立ってふしぎだわ! こんなに大きくて! こんなに暗くて、自信を満々で! そういう一物なのかしら?≫
  男は色白のスリムな自分の身体の前面を見おろして笑った。痩せた胸に生えている毛はほとんど黒い暗色だったが、男根が太く反って屹立する腹の根元の毛は金赤色の小さい鮮やかな雲のようだった。
 ≪誇かねえ!≫女が不安そうにつぶやいた。≪君主然としてるわよ! 男が威張りん坊の訳がやっと分かったわ! でもほんとうは、美しいのよ。生きているみたい! ちょっと恐ろしいわ! でも、実は、美しい! これがわたしのところに来るのね≫女は恐怖と興奮で下唇を噛んだ。――
 また、別の個所では――そして彼が「ああ可愛い子だ!」と小さく囁くよう言った時に、彼女内部で何物かが戦いた。そして彼女の心の中の何物かがそれに抵抗して身を固くした。怖ろしい程の肉体の密接さと彼の掴みかかる奇妙な性急さを感じて身を固くした。それでこの時は彼女自身の激情の強い恍惚さが彼女に起きなかった。(中略)彼の腰の動揺は彼女に滑稽に思われた。そして彼のペニスから力が抜けて行く。極点に達した時の一種の不安な気配は、茶番のように見えた。そうだ。これが恋愛なのだ。この滑稽な尻の運動と貧弱な頼りない湿った小さなペニスの萎んでゆくのが。これがあの神々しいものだとは!――
  こうした描写には、ロレンスの小説巧者の技術が感じられる。本来は、コニイの性的な体験は、妹と過ごした学生時代に、すでに体験済という説明が冒頭にある。すでにコニイは、処女ではないはずだが、マイスクリフとのセックスの場面では、まるで初体験のように描写されている。
  この辺が、時により猥褻感によって読者の興味を引くことになっている。このため、猥褻性を感じる人もいるであろう。同時に、それを超えて恋愛の現実的な描写を芸術表現と受け取る読者もいるであろう。
 つまり、猥褻性と芸術性は両立するということである。
 とくに恋愛においては、相手を求めて欲望することと、性的な興奮による欲求とが、重なり合って起きる現象であるため、それを表現するのであるから、精神性と猥褻性が表れるのは当然であろう。  
  もし、性的な欲求だけを満たすには、その欲求を刺激する画像や動画で済む。しかし、人間的な愛の欲望は、特定の相手を媒介者として必要とする。それが恋愛であろう。人間は欲求よりも欲望を満足させることを望むのである。(この項おわり)


文章における猥褻表現の定型はあるのか(4)北 一郎

  作品では、恋愛感情と性感覚の合一について、触れるのであるが、これは小説的な効果として、恋愛の精神性と肉体における性的な接触の関係についての普遍的な側面を示唆しているように読める。
  マイスクリスは、チャタレイ夫人との恋愛が未来性をもたないことを予感し、積極的な喜びにできていなかった。希望をもった恋愛に感じていなかった。しかし、夫人は希望をもたずに恋愛することが出来なかった。お互いにしばらく手紙などやりとりが中心で、たまにロンドンで肉体的な接触がある状況を描く。ふたりの性愛は、――彼女は、彼の短いオ―ガスムが終わってから、自分の働きかけで得る肉体の性の悦びを得ることを、やっぱり求めていた。そして彼もやっぱりそれを彼女に与えたいと思っていた。そのことが二人を結びつけていくのに十分であった。――
 チャタレイ夫人は、これによって盲目的で傲慢な感じの、微妙な自信を彼女に与え、快活な気分をもつようになったと作者は描く。
   恋愛における性的な接触の占める位置は、その渦中にある男女によってさまざまであるが、これは当時の恋愛事情の普遍的な事例であったのであろう。同時に、ロレンスの結婚歴からして、年上の妻であったフリーダをモデルしたのかも知れない。コニイの性感覚を率直に楽しむ風情と、ロレンスの性的な精神性へのこだわりにそれが混在している。
 チャタレイ夫人の夫は兵士であった時の負傷によって車椅子生活である。クリフォードは夫人に性的な関係は夫婦関係に必ずしも必要条件ではないという意見も述べる。
  また、時がくれば自分の性交能力が回復するかも知れない、とも語る。
  性行為に関しロレンスは、マイスクリスの性行為における腰の動きを滑稽な姿だとする。しかし、それによる射精と、それが早く終わったために、チャタレイ夫人のコニイがオルガスムを求めて自らもだえ腰を動かす行為をしたことを示す。
これは物理的には、性的神経が刺激されると生殖器機能により、自動的に血流が生じ膨張しきろうとする力が生じる。そして、膨張への欲求が高まり、頂点を極めて収縮するまでの過程を経る。この純粋な生殖器機能に取りつかれた場合、チャタレイ夫人であっても、心は支配力を失い、肉体の性的興奮のための道具として、マイスクリスのペニスを必要としているにすぎない事態を意識した形で表現している。
  オルガスムの機能には、人間の動物化を伴う自己喪失感がある。いわゆる「官能小説」の猥褻用語はほとんど、この機能を誇張するために、世俗のタブーや羞恥心をかなぐり捨てる様相に集中する。そのために具体的な性器の様子を想像力で誇張することが多い。ロレンスの場合には、想像をさせるが具体的な性器への言及はない。次の段階では、こうした欲望のために行う行動を、チャタレイ夫人にも滑稽感をもって受け取らせている。
  同時に、当時は愛し合う男女の性交時の同時的な自己喪失は、男女の望む一心同体の幸福世界の実現を思わせる。ロレンスのロマンチズムは、このことにこだわることで、一般的読者と、思索的な読者をそれぞれの感受性に応じて鑑賞が可能なようにしたのではないか。そのために、森番とチャタレイ夫人の恋愛関係の実相表現に迫ろうと、多くの性関係場面を描いたのではないか。
QRコード
QRコード
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

「詩人回廊」は文芸同志会員がつくる自己専用庭でできています。連絡所=〒146−0093大田区矢口3−28−8ー729号、文芸同志会・北一郎。★郵便振替口座=00190−5-14856★ 
Archives
  • ライブドアブログ