「詩人回廊」

日本の短編小説は特殊で、外国の定義にあてはまらない。韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説の制作へ移してしまった。明治以降われわれが短編の傑作と呼んでいるものは、多くは物語的構成をほのかにもった散文詩であるーーと三島由紀夫が「美の襲撃」で述べています。文芸同志会は「詩人回廊」に詩の素をもつ寸編小説のジャンルをつくりました。(編集人・伊藤昭一)(連載を続けて読むには、右サイドCategoriesの筆者の庭をクリックします)想いをここに掲載してみませんか。

江 素瑛の庭

わが郷愁のさまよう台湾の旅(3・完)  江素瑛4

 故郷に帰ればと父と母に会いたい気持ちになる。骨灰になった父と母に、重病の上の弟の事も報告したい。チームの仲間は台北観光、私は台中途中下車、大度山に墓参り。わたしの携帯は海外無用、下の弟は携帯を持ってない。彼は朝二時から起きて、身体洗い着替えなどをしたらしい。今日の待ち合わせで、神経を使ったという。
 昔のように現代風の通信道具でなくても、父と母とわたしと下の弟の団らんができた。帰りの新幹線から降りて、突然、彼に聞かれた,
「さっき風邪を引いたの、咳をしたね」
「いえ日本にいた時もう風邪を引いていたのよ」と返事。
「僕の顔はいつも油汗がいっぱい、僕の身体は嫌な匂いがするかも、僕の傍にいる人は必ず咳をする。それが僕を悩まされる原因だ」
と相変わらず訳のわからない煩悩をかかえている。身内の悩みをわたしに投げるといいのに。どうか、神さまの憐れみと煩悩からの救いを…。

 それから、台北観光を満喫したチームと松山機場に合流。羽田に戻ってほっとした。日本の油蝉の喧しい鳴き声が聞こえてきた。

わが郷愁のさまよう台湾の旅(2)  江素瑛4

1be79aff.jpg《安平樹屋》 昔三十何年間も台湾に住んでいたのに、今回の旅で初めて安平樹屋を知った。台南の大日本塩業の倉庫の旧跡に、ガジュマルの榕樹の気根が木の幹のように成長、無法無天というか、倉庫の屋根を突き抜け、壁にへばり付いていく。異様な野放状態に育った気根のある空間は、ジャングルに迷いこんだよう。この安平樹屋は、海外の植物学者達にも深い興味を引いたようだ。
 敷地が広く、現代化した高層高雄医学大学の付属病院は四十五年ぶり。一目見たいのは、昔のちっぽけな校門。規律になっていた高校時代のストレートの髪を初めてパーマした。後ろの校門に立つほやほやの大学一年生。あのときの細身の少女はどこにいったかしら…、古くて甘いものは、二度と帰ってこない。
 高雄港は開港のために、陸から切り離なされた。旗津半島と旗津海岸公園の海岸を沿い、緩やかな山を登る。熱い陽射しにばて気味である。山の旗后砲台に行く前ガイドさんが言った、
「トイレに行って下さい」行き先はトイレがないためかしら。
 綺麗な海岸線、母根草を摘むおばさんは、「肝臓にいいよ」と。蔓でほかの植物を絡み枯れさせ、岩壁に網のようにへばり殖えていく母根草。砲台を登って言葉に表わせない素晴らしい眺望。帰りぎわにガイドさんがまた言った、
「顔を洗ってください、潮風に付いた塩を洗って下さい」
 旧打狗英国領事館を見学。目立たない古いアイボリーの初期の領事館を通って、浮き彫りになっている花の壁のある狭い路地を登る。
 山間人家に係留される鸚鵡、山腰に静坐する遍路さん、英国領事館の赤いレンガ、台湾語、韓国語、日本語、英語、ともに風景に融け込んでいる。史蹟映画放映室に休息をしている人びと。映画より冷房に一息ついているようだ。熱帯の台湾はやはり暑いのだ。
 高雄港の黄昏、遊覧船の甲板デッキで、カラオケと踊りの宴がはじまる。時をわすれ興じるキャンプのメンバー。水面に一つのペットボトルが浮き沈み、絶え間なく貨物船が往き交う。コンテンナの引き揚げと積み卸し、人々が見とれる光景のなかで一瞬、夕日は水面下へ沈んだ。
 哈馬星(ハマシン)は昔から賑やかなダンタン、日本植民時代に浜線(ハマセン)という鉄道が今の名前になった。今は芸術など文化活動で、哈馬星観光バスも走っている。
 高雄は幾つの夜市があって、露店がならぶ夜市、公衆便所も設けている。夜が更けるまで、賑やかな人波が絶えない。安くて美味しいグルメを堪能している。

わが郷愁のさまよう台湾の旅(1)  江素瑛4

台南神学院  《台南神学院》 韓国、台湾、日本三国の姉妹教会で二年に一度のコイノニァキャンプが夏にあった。台湾南部の高雄に集った。台湾伝道史の軌跡を辿るのが今回の主な目的であった。
  三国のメンバーは九十人、愛河の畔アンバサホテルに泊まった。昔のここは薄暗く、恋人たちが愛を語るスポットであった。今は灯火煌々、近代的な観光地に豹変した。
  中国明朝時代にオランダが台湾を占拠。その拠点の遺跡赤崁楼は赤い建物で目立つ。明が清朝に滅ばされ、武将鄭成功が台湾に転進。1661年オランダ人宣教師 Humbroekが講和交渉を行った。人質になった彼の家族と島民500人が殺された。しかし彼の美しい18歳の娘が鄭成功の十一番目の妻になったという。
e042d1c7.jpg、《新楼病院・現在》   1865年6月16日スコットランド人Dr. Maxwell は台湾南部台南に医療伝道を始め、新楼病院を創立。1876年宣教師イギリス人 Barclayが台湾初めての大学、台南神学院を創立。その史蹟館で蘭大衛医師夫妻の写真に逢った。
  イギリス人David Landsborough(蘭大衛)医師夫妻は台湾中部に彰化キリスト病院を創立。わたしは彰化キリスト病院に就職した当時、二代目の蘭大弼医師は院長兼神経内科部長、夫人高医師は産婦人科部長。
「産婦人科医者になるなら、男の先生と変わらない、甘えることは許せないのよ」と、面接の時の高医師の言葉はいまだに忘れられない。
  カナダ人歯医者のDr. George Leslie Mackayは台湾北部淡水に偕病院を創立。それは私が研修医を務めた台北馬偕医院の前身であった。北部・中部にキリスト教のゆかりのある病院を経て、今年七月三国の姉妹教会のコイノニア・キャンプに参加を許され、三十八年を経て、神の手に導かれ南部の伝道の発祥地を訪れることになったのは、不思議なものがある。
  台湾の島の三大拠点の病院は、着実にキリスト教の医療伝道をひろげていく。

麗櫻姉さん        江素瑛 4

長女のわたし
兄か姉のいる人を羨むばかり

母の異母の兄の娘だという八十歳の彼女が
わたしの書いた母の伝記「祥」がほしいと
人に伝言してきた
ネットで本のことを知ったという

その伝記と
売り残る詩集「記憶の風」を送った
詩集は百冊ほどまだ残っていた
名刺代わりや お土産とお礼として
機会を見て在庫をへらす積りでいた

お礼の電話が来た
仕事中で話せなかった
続いてお手紙が来た
端麗な字
詩のような文体
過去の想いを引きずって私達は今を生きております
過ぎてゆった車窓の景色は二度と見られないでしょう
所詮 生きることは孤独と悲しみの連続でしょうか

なにかにひかれて
手紙の代わりに
わたしは電話を入れた
筋が通った話し方
慶応医大出の夫が他界してから
独居している
子供はいない
伝記の人物は懐かしいわ
御爺ちゃんの写真は昔のままですね
ああ 全部思い出しました
涙が出てきましたよ
つながりのルートはやはり大事ですね
なぜ 人は晩年に
つながりを重んずるのか
落ち葉は根に帰すという
諺の通りなのか

晩年の母の愚痴で書いた本で
同じつながりの姉がいることを教えてくれた
           (2011 12 22)

鴨の秋         江素瑛4

b22f3f7f.jpgインデアンサンマー
カボスの木にすっぱい黄色の実
深秋の宝来公園のぬるい池
鴨が集まった
水面に浮き浮きした波をつくる
まるで狭いダンスホールの
男女のように賑う

集団見合いらしい
鳴き声を交わす鴨がいれば
池岸ひたすら青い草を突く鴨も
茶色のメスと対照に
オスのエメラルドとサファィアの頭は
ますます輝いている
よくよく見ると
ほぼカップルになっている
人が近寄っても
気にかけない
ここは 狩人がいない
サンクチュアリ

長閑な風景に
突然一対の鴨が騒いだ
「いやだ」とメス鴨は大声をあげ 水路から逃げる
「離さないよ」とオス鴨は空路で追っかける
見合いは上手くいかない
喧嘩別れなのか
まわりの仲間は
声を上げはやしたてる
見て見ぬふり
悠々している鴨もいる

なんの騒ぎか
散策の大人も子供も水面に好奇の視線を投げ
まもなく厳しい冬が来る
しばし宝来公園のインデアンサンマー
(2011 11 25)

歩く草には国境がない 江素瑛 4

111021 002
暴風雨氾濫のあと
流されて来た冨栄養のへどろ
白骨のごとくに枯れ木が点在
枝の黒い残肢
巨大な蜘蛛のように
長細い足を張り
獲物を待って
浅瀬に
息も立てずに

葦 赤まんま ツメ草 
外来種 在来種
織られた じゅうたん
多摩川河川敷に根を張り
踏まれれば踏まれるほど
根が深く食い入る
踏まれれば踏まれるほど
子孫がしげる

だれかの長ズボンに
雑草の種がいっぱい付き
とげ系と のり系
われわれは健康のために
足を鍛えるために
彼らを踏んでいるのに
らくらくと彼らが
生んだ素晴らしき知恵で
地球を歩く
河川敷から東京都心に
パスポートもいらずに
羽田空港のコンテンナに
随意搭乗
日本から海外へ 海外から日本へ
かれらには国境がない

(2011 10 21)

スコール   江素瑛 4

真夏の陽ざし 
晴れ渡る青空
日よけ帽子で
うきうきと歩き
なんとなく娘の職場を通りかかり

青い空に入道雲が割り込み
いきなり 雨を呼び込んだ

隅田川の遊覧船
たちまち雨煙につつまれ
くらい川面に波を切り進む 
ふなべりに並んだのれんの中に
飾られた赤い提灯が見え隠れする

堤防遊歩道に駆け足で下りた
ロマンティックな涼亭の佇まい
なんと雨宿りにならないネット状の屋根
日よけもできず
風も雨も通過して滴る
ワッハッハ ワッハッハ

斜めに吹きつける風が
雨脚を河に向かわせ
防護堤の真下には
風も雨も届かず乾いていた
雨よけの日よけ帽子
焦らず 焦らず
スカイツリーを眺め

ホームレスが傘をさして
のんびりと目の前を通って行く
時間のゆとりが裕福な人たち
一時間も待てば
雨があがるだろう


今日の今日も
変哲のない日常の
にわか雨

 (2011 8 3)

ハワイ・オアフ島めぐり2011(4) 江素瑛4

532f252c.jpg ホノルル空港内にはアメリカ赤十字の募金箱があった。東日本大震災のためだった。集まった小銭と紙幣は、赤十字に止まらず、東北地方には届いているのだろうか。
 70%以上の乗客は日本の若い「なでしこ」と「さむらい」。〜行くもビーチサンダル、帰りもビーチサンダル〜 まるでそれが、制服のように平然としている風体である。
2009_0516_013400-DSC01112 帰りの飛行機に隣席は日本人年寄り夫婦、前の席は彼らの娘夫婦と孫、穏やかな七時間であった。
 行く時には、後の席にいたずらの日本の子供がいった。わたしの背凭れに足で蹴飛ばしたり、テーブルを上げたり下がたり、お母さんに叱られ、大泣きしたりしていた。ちっとも寝かせてくれない。わたしは背凭れを後ろへ倒して対抗、悪戦苦戦の六時間であった。幸い時差は五時間ほどで活動に影響なし。

 成田に着いた。幸い出向える人はいない。気楽に歩行のテンポをゆるめた。旅の友のボストンバックは、さらに小さな旅でもしているかのように、ターンテーブルに回されて、持ち主の手に戻る。
ところが、わたしの荷物はなかなか出てこない。似たようなバックは出てきたが、ベルトはしていない。わたしのは赤と青のベルトをしてあった。名刺をタグで付けてある。荷物が誰かに取り違えられたらしい。
2011_0711_082908-DSC01701 昔、義理の妹が日本に来た時、荷物が届かなかったことを思い出した。余程ショックだったらしく、彼女は泣きながら、わたしに電話したことがあった。日本にいる親戚へのおみやげで、私たちを喜ばそうと思って選んだものが入っていたのでしょう。楽しみを分かち合いたいというみずみずしい心。ショックは、その大事な品物が失われたことの落胆ではなかったか。
 しばらく見ていたが、流れるベルト上の荷物は次第に消えた。ついにさっきの似たようなバックだけが残っていた。よく確かめたが、やはりわたしのものではなかった。空港のスタッフもこの荷物に頭を抱えていたらしい。わたしは自分の荷物が出てこないこと、似たものが残っていることを伝えた。
すぐに手配して、探して行ったスタッフ。が、やはりみつからなかったという。取り違えられたり、届かないこともあると彼らがいう。
 荷物のなかに、大事なものが入っていなかったし、なくなってもどうしても困るものがないこともあって、わたしは傍観者のような変な気持ちで経緯を冷静で見ていた。そこには、わたしだけの持物しかなく、ほかの人とのかかわりの濃いものがなかった。歳月は、人との関係を変え、持ち物を変化させる。

 手荷物事故報告書を書く。バックの特徴は、カーキ色と茶色線、赤と青い線のベルト。ブラント名など覚えていない、ブラントに拘らないので。荷物の内容―洋服、本、手提げバック、マカデニア、コヒーなどのお土産、ああ 拾った椰子の赤い実はどうかなあ、書かなくていいか。保険の加入無、連絡先なども記す。
その時、わたしの携帯電話が鳴った。クリニックで留守番をしている主人からであった。
「荷物が失くしたの? 取り間違えのだな。相手の方の連絡が来たよ、家に送ってくれるって、あなたの携帯を教えたよ。お互いに連絡してから決めたほうがいいじゃないのか」
「そうね、間違われた荷物がまた空港内に残っているから」
 それをスタッフに伝えようとした時、「見つかった」と連絡があった。
 スタッフがわたしの荷物を引いてきて、税関を通った。
 今度相手の女性も間違いなく自分の荷物を受け取ったかしら。団体旅行客らしい。二つのバッグは持ち主より少しばかり遠回りの旅をしたのであった。

ハワイ・オアフ島めぐり2011(3) 江素瑛4

18c31d5e.jpg 四時間があれば、バスでハレイワ、ノースショア、ポリネシア・カルチャーセンターター、タートルベイリゾートまで乗り降りながら回ることができる。バス便は一時間二便しかないが、東京にいるわけではないせかせかしないで、バカンスの時間を贅沢に使おうと思う。
 ローズガーテンのバス停に行く途中、「いけない、バス券を忘れた」叔母さんが慌てた。叔父さんは呆れた顔をしても、叔母さんに添いって家にとりに行った。叔母さんはたまにふっと違う方向に行くから。
松本アイス 叔父と叔母はお高齢者優遇の月5ドル乗り放題バス券を持っている。車の運転をやめた叔父には、何よりの方法である。わたしは乗る都度2.5ドルの乗車券を買い、四時間以内に一回トランスファをする。
 アラモナ・センターのバス停52番でバスを待つ。
 そこにニューヨークの大学教授であるベトナム女性が、話しかけてきた。
 「明日からハワイ大学に学会があるの。今日一日はのんびりできるマイ・ハワイなのです」
 海辺に行くのだと片手に2ドルのむしろ、肩にしま柄のバックで、わたしたちに加わった。
 黒人の運転士はバスのハンドルを握る手を、ポップダンスでもしているかのように、リズムをとっている。窮屈な運転席に嵌められている身体をしきりによじりなら運転するのだ。
 それでもバスは走る。ロコの乗客はみな慣れているらしく、穏やかな表情だが、わたしだけは危機を感じて、一秒でも早く降りたい気分である。
2011_0711_110313-DSC01715 ノースショア・ハレイワに通ると、百人くらいの長い行列があった。店から出た客はみな大きなかき氷を持っている。「レインボー」、「松本」などメニューは虹色で記し、目を奪われる。観光客は必ず寄る「松本カキ氷」の店である。
ハワイに生まれの日系人松本さんがハワイに初めのかき氷の店を開いたのだという。
 「Hey! Man—どこからきたの? どこの国の人ですか?」と話し掛けられる。一時間も行列待ちをすると、周囲の客はみな話し相手になる。氷はボリュームたっぷりで、小豆とアイス クリームなど入れても日本の倍の大きさで3ドル。日本の半額である。みな満足げに店の外で美味しいかき氷を口にし、写真を撮ったりする。
 日曜日は閉店するポリネシア・カルチャーセンターではわたしたちは門前払いされた。商売より宗教、安息日を守る島の人は日曜に働かないのだ。それで、がっかりしている若いカップルに会った。実は昨日のコリアンフェスティバルにも行ったという。コリアン系ハワイ人である。お互いに写真を撮りあって、かれらの車に乗らせてもらった。
 道路沿いに幾つでもあるエビ料理の露店。ワゴン車一台で二つの車窓に若い店員が腰を曲げ低い襟から豊かな胸を覗がれて注文と品渡しをする。エビは新鮮で美味。
 タートルリゾートホテルの海浜海水浴場で、ベトナム女性教授のむしろがやっと使い道を果たした。
 帰りのバス車窓から、偶然にホノルルの澄んだ青空に七色のレインボーが橋をかけているのを見た。


ハワイ・オアフ島めぐり2011(2) 江素瑛 4

fca03eba.jpg 朝早くから鳥たちのさえずりが耳をくすぐる。瞼を開く前、しばし彼らのお喋りを楽しむことができる。森林に身をおいたように快い。
 朝の新鮮な乾いた空気に触れ、チーピン叔父さんの家から15分位、広い車道脇の歩道を歩く、ダイアモンドヘッド山から降りる登山客とすれ違う。カピオラ二ュ・コミユー二ティ・カレッジのキャンパスに、毎週土曜日7時半から11時まで農家の産品を売る朝市がある。観光客とロコの人たちで賑わう。
2011_0710_091326-DSC01668 ハイビスカス、蘭の花、新鮮な野菜と南国の果物など、形が不揃いのものも堂々と並べてある。知らない野菜と果物との出合いに好奇心が湧く一方、食べ方と味が未体験で気おくれがする。そこでパンフルーツを買った。言い伝えでは、熱帯気候の人は、働かなくても、落ちてきたパンフルーツを食べ、ごろごろ寝過ごしていたという。
 バナナとカボチャの混ぜた味である。ドリアンによく似ている。一口目は美味しく頂く、沢山食べると飽きる。しかし後にガスが良く出る、便通がいい。叔父さんは自分の庭に植えていないパイナップル、叔母さんはバナナを買った。
2011_0710_094851-DSC01670
 モンサラット・アベニューの並木、垣の間から覗いたホノルル動物園は人影がない。静まっている。どうしたのか、人気のある動物園なのに・・・。子供たちの声が聞こえない。
 ロングボディに広いボンネットの高級車が、動物園の近くに停まった。なかに中年男性。その後から普通な乗用車がついてきて、ダブダブのワンビースを身に纏った美しい西洋女性が降りてきた。
 すらっとした足、魅力的な姿に私の視線が奪われた。次の瞬間、彼女は身体を曲げて車内の荷物を取ろうとした。眩しい白い尻が私の目を釘つけにした。なんとノーパンではないか。
2011_0710_090510-DSC01664 動物園と車道を挟んだカピオラ二―公園に、野球を興ずる子供と体操道具で鍛える親子の動きは遠くから見られる。
 公園ステージの一角に沢山白いテント、7月10日の日曜日に年一度コリアンフェスティバルの開催がある。ブースには韓国の銀行、車の保険会社、物産販売、韓国文化など、韓国の華麗な民族衣装をステージに飾る。ショープレイヤがステージを降りて、観客に迫り、小銭を促す。
「あれは高級なもの乞いじゃ」叔父さんが軽蔑している。
「いや、芸を披露したので、ただでせびるのではないよ」とわたし。
 そういってしまえば政治献金などは、桁が違うもの乞いになるかも知れないではないか。
 行列の長いブースはゲームと景品がある。わたしたち三人はTシャツ、置き時計、ペンライト、蛙のぬいぐるみなど生活に余計なものもゲットした。叔父さんがショーよりゲームが楽しいようだ。ほしい景品があれば、めげなく何回も同じブースに並ぶ。
「去年のTシャツが綺麗だよ」叔父さんが着ている赤いTシャツをわたしに見せた。今年は肌色だけど。
「ワイキキビーチを歩いたの?海に入ったの?サンドウィチを持って、海辺でぼんやりするもいいのよ」
 確か二年前に来たとき、従弟のシンもそう薦めてくれた。今日は花火の日、毎週土曜の夕方にあるので、連れていって貰った。人、人。海辺の駐車場も満杯。夕闇の空に打ち上げられた花火はどこで眺めても輝いて見えるものだ。日本と比べて、一回り小さい花火であった。
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