「詩人回廊」

たいして面白くはないけど、退屈しない!!文芸同志会が提供する“コンテンツ文芸” 「詩人回廊」では、不易流行の精神をもって、詩及び詩の素因をもった散文を読む庭園です。それらを寸編小説という名称にしてみました。  不易とは時代が変わっても変えてはいけないもの、流行とは時代が変わったら変えるべきものという解釈ができます。(編集人・伊藤昭一)(連載を続けて読むには、右サイドCategories の筆者の庭をクリックします)

江 素瑛の庭

限りなく透明なブルーハワイにて(8・完)白木屋のなかにブックオフ  江素瑛 4

 叔父に古本屋に連れて行ってもらった。叔父の早足を追っ掛けているうちにドンキホーテの大きい看板が目に入った。元ダイエーを買収した日本の大手スーパだ。その近くの叔父が昔よく行った古本屋は雑貨屋に改装されていた。アラモアナ ショッピング センターにある白木屋のなかに日本でもおなじみなブックオフ古本屋があった。

「ハワイの野鳥と野草に関する本を探していいるのですが・・・」まずほしい本を店員に聞いてみた。
 「その方の本はあんまり置いてないです、専門の本屋さんにあると思います」若い男性店員が探しに行った後、済まなさそうに言った。
「本を買ってくれます?」
「あ 取り扱っていますよ」
私の見せた本を不審な目で見ながら、もう一人の女性店員が寄って来た。
 まず、手づくりの五百円の「詩人回廊2009」を見せた。それははいらないといった。
次に、三年前に土曜美術出版販売で自費出版の詩集「記憶の風」のバーコードを眺めて、「これなら買います。一ドルでよければー」
定価二千円の詩集を一ドルでというと、日本円で百円だ。日本のブックオフより高く買ってくれるのだ。内容より、やはりバーコードが大事なのだ。
 家に着いたら、叔父が本棚から私のほしい本を呉れた。しかも、その夜、ナイウンがハワイの野鳥と野草の本をプレゼントしてくれた。予期しなかった結果だった。

 帰りのチェックインは素早く済んだが、飛行機搭乗前に黒人の検査官に尋問された「何しにハワイにきたの?三日泊まりだけ?日本で仕事しているの?事務所は日本にあるの?」変な質問ばかりされた。
 スニーカーを手に提げ、ビーチサンダルのままで、飛行機に乗ろうとした日本人若いカップルを見て、「靴を履いて下さい」と検査官は矢先を向き変えた。
履物も自由に履けない自由な国。

 こういう機会でなければ、何年間も会っていない叔父の家族達と会うことはなかっただろう。飛行機のなか、叔父一家の暖かい人情を思いながら、うとうとと眠りに落ちる。(完)
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限りなく透明なブルーハワイにて(7)フオートルガーマーケット  江素瑛 4

  頂上から降りたら、麓で叔父らが東京から来た観光客と世間話をしている。私は近くに来ている赤いとさかと赤い顔をしている鳥、赤カーデナルに目を引かれ、カメラで追っていく。ハワイにはどこでも見られる鳥と言われたが、私には珍しい。そのほか、山鳩、プロバーなど人に寄ってきてえさをねだる。市場などでうろうろし、まったく人間と同じ場所で生活している。

  山のふもとで叔父は、わたしの野鳥観察に呆れた顔でじっと待ってくれた。あの表情は生前の私の父とそっくりだった。胸に沁みてくる。父の母がデパートで長い買い物を楽しんでいるとき、隅でうんざりして待っている顔である。あちこちを熱心に案内して、自分の目に映った光景を、私の目にも留めてほしいに違いない。
  その後ハナウマベイーへ案内してくれた。毎週火曜定休の綺麗な海湾、車で入り口に一ドルで入場、十五分以内で出ると入場料が戻ってくるとの事。
低い垣を翻えて、海に近つく、穏やかな海風に吹かれて、大きくて様々な形をしている岩岸を歩く。白い砂浜に色とりどりで点在する人影が見える。ダイビングをする人、シュノーケリングをする人、珊瑚礁、岩に寝そべって、貝殻で海の音を聴く人もいる。
 
 昼はハワイアン料理専門のフオートルガーマーケットに寄った。アメリカンシネマによくある小さな年代の店。胸を晒し、身体に派手なタトウーをしている混血っぽいのハワイアンが、ガードマンのように店外の椅子に腰掛けている。店内はハワイアンフード以外、雑貨、竹たらいに大きめの握りすしも置いてある。
天井には大きな扇風機が吊ある。
客にお手洗の場所をたずねられるのが、もう面倒になっているだろうか「ここには公衆便所はない」との貼り紙があった。

  タロイモのすり身、豚肉の葉包みラウラウ、ココナツのプーディンハウピアなどを買って帰る。酸っぱいさ、と塩っぽさを感じる料理。気候の暑いハワイならではの、長く保存できる味つけなのだ。
夜は叔父の家族達、皆ナイウンの家に集まった。バイキングパーティを楽しんだ。
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限りなく透明なブルーハワイにて(6)ゴウ ゴウ ダイアモンド へッド  江素瑛 4

カルチャーブラザは州政府管轄の、シンの役所に近いので、ついて見学しに行った。シンは叔父と同じ土木技師である、教育部の学校関係の建物、運動場、駐車場などの設備の管理職をやっている。昔、叔父の働いた土地自然水資源関係の役所もある。叔父はビルの二階だったが、シンは四階である。綺麗なステンドグラスがシンの部屋の壁一面を飾る。一人分のオフィス空間に書類がいっぱい積んである。多忙なのがわかる。奥さんのシャロンは近くの役所で働いていて、お昼は一緒に食事するほやほやの新婚一年生である。わたしは会社の水飲み場でボトルに水を入れて、ビルを出た。

 その後、従姉妹のナイウンがシンに代わってビイショップ ミュジンを案内してくれた。カメハメハ家最後の子孫バニースが残ったポリネシアの文化財で、美術工芸品のコレクター チャルズ リーダ ビショップが創設した私設博物館である。ハワイの住民であれば、入場料が割引される。

 ナイウンは叔父の唯一の娘で、聯邦政府関係の建築師の夫がある。一姫七歳、一太郎五歳の母で、眼科病院の、視力・眼底などの検査技師である。小柄ながら家庭的で、テキパキとしたエネルギシュな女性である。車で叔父の家からでも見えるダイアモンドヘッドに案内してもらった。ダイアモンドヘッドは標高七三六メートル、かつて活火山であり、十五萬年前に噴火した後、いまは死火山である。

「あなたがハワイを訪ねてきたお蔭で久しぶりに外へ出かけられたよ」と言っていた叔母も疲れた体で付いてきた。わたしとナイウンは叔父らをおいてとんとんと登っていく、往復一時間半のハイキングコースだ。歩きやすい山路。一段坂を登り始めたところ、Tシャツの宣伝兼ボランティアがいた。
「脇の道に登らないこと、今日は火山噴火の予報はないよ、安心してゆっくり登ってください」、とジョークを交えたガイトぶり。

 赤ん坊を肩に乗せて、年寄りを支え、上半身裸、短パン、ハイヒール、スニーカー、肌色が違う人々、国の違う人々、言葉の違う人々。
「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだ
した」まさに聖書使徒言行録2章4節のような情況である。
この決まったコースに移動する限り、平和を愛する心が同じである限り、みな同じように汗だくだく、同じように微笑みあう。
 登る途中、ナイウンの携帯電話がよく鳴る、ご主人からだ。私を案内するために、子供を夫に預けたせいである。ナイウンは私の携帯に興味があるらしい、わたしが写メールをするときは、とくに興味津々。ハワイに携帯写メールは、日本のように普及していないからだ。 
 黒いトンネルを通ると、山頂に着く。目の前に展開したのはオアフ島を囲む海とその岸辺、積み木玩具になったビル、ワイキキ海岸、クレーター、四方の広大な空間は一瞬凝縮し、身に迫ってくる。
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限りなく透明なブルーハワイにて(5)この樹、何の樹、みんなの樹―モアナルアガーデンパーク  江素瑛 4

 「そこら辺の山が茶色になったな、この間まで鬱蒼としていたのよ、近頃、雨が降っていないからね」と叔母が言った。確かにからっとした空気、身体は汗が蒸発したせいか、水を要求している。
 「友達がハワイに遊びに来た、五日間も便が出なかったよ。水分を多く取って頂戴ね」とまた言った。

 それから死火山パンチボウルにある国立太平洋記念墓地に連れていってくれた。長い階段を登って、高台にいる女神の像は英霊達の魂を慰めるように、優しく見つめている。室内の両側に戦争の軌跡を記録する壁絵がある。階段の下は椅子とテントがきちんと並べられている。セレモニーが開催されるらしい。生前の行軍のように整然と並んだ墓誌。第二次世界大戦、ベトナム戦争、朝鮮戦争などのほか、若くして除役後死んだアメリカの軍人が墓地に入る権利があるという。
どこの墓地でも同じように、よく来る墓参者がいれば、花は絶えず。花のないところには裸石だけが輝いている。  

 モアナルアガーデンパークに行ってきた。
 「この樹、何の樹、みんなの樹――っていう言葉を知らない?日立が年間四十万ドルの出費で広告と維持をしている『日立の樹』だよ」と叔父が言った。
そこに日立グループの看板があり、「モアナルアガーデンパークは日立にサポートされている」とアピールしている。カメハメハ王家の私有地である。園内では一八五○年王家のコテージが隅に淋しくたたずんで、所々巨木が立っている。テントの形をしている日立の樹は、モンキーポードの木、樹齢は百年以上という。
 ちなみに海に近づくと椰子の木が目立つが、陸になると、モンキーポードの木は、街路樹に使っている、その黒ずんだ刀の鞘のような実は、あらゆる所に落ちている。

「昼はなにを食べたいの?ハワイアン フード?」とシンが聞いてくる。
「簡単でいいよ、ハンバーグなどでも」
「じゃ、ハンバーグ買って、ビーチで食べる?」
「ちゃんと食べましょう、カルチャープラザの飲茶がいいよ」決定権を握る叔母が
割り込んできた。誰も反対しなかった。
 カルチャープラザの福臨門海鮮酒家は地元の中国系人の常連が多い。観光客が
よく行く店でもある。安くて美味しい、日本人的な口にも合う甘い味をしていた。

限りなく透明なブルーハワイにて(4)パールハーバーとアリゾナ記念館  江素瑛4

 アリゾナ記念館に入るには、軍のカーキ色のテントを張ってある通路を通って、財布、カメラ以外の荷物持込を禁止され、記録映画上映の時間決めの整理券をまず貰って観賞した。船で太平洋戦争の終結で降伏文書を調印式が行われた戦艦ミズーリのそばを通って、アリゾナ記念館に到着。ちなみにミズーリを参観するには十ドルがかかる。

 一九四一年十二月八日、パールハーバーに駐屯したアメリカ艦隊。その前夜、若い兵士達はギターを、恋人の待っている岸に、バーに、ダンスホールで、息抜きパーティーの後、疲れて熟睡していた・・・。日本空軍はその隙を狙い、夜明けの拂暁攻撃をした。

 沈んだアリゾナ軍艦の上で白い巨大棺のような記念館に、その時死んだ二三四一人の兵士達の名前が壁一面に刻んである。五十六年も経ったいま、錆びて藻の媚び付いたアリゾナ軍艦は海床の一部になり、燃料油が未だ、じわじわと眠っている軍艦から漏出し、絶えずに浮かび海面に漂う。汚く海を汚染し、不思議な現象が見られる。
太平洋戦争は、四年後長崎と広島の原子爆弾で間もなく終わった。長崎と広島で軍人でない一般市民、女性、子供たちが巻き込まれた。約三十万人の死が、アメリカルールで報復された。
 あの時代の唯一の息が続いたかのように浮かんできた燃料油は、地球が生きているかぎり戦争の汚さと非情さを訴えつづけている。
 アリゾナ記念館を出ると、従兄弟のシンが運転しながら、土曜の車の少ないガラガラの街道を走る。

限りなく透明なブルーハワイにて(3)「椰子の実」の島か、ワイキキビーチ  江素瑛 4

 叔父は銀行の用事を思い出し、出かけるので一緒について行った。喫茶コーナのある気楽な雰囲気に満ちた銀行だ。その後、叔母が夕飯の食材を買うため、中華市場を巡った。売りものが豊富で、両側野菜、果物、肉類の売り場を挟み、即席料理を楽しむテーブルが並んでいる。観光客向きの高級中華料亭もあるが、ほとんど庶民的な店が多い。
 荷物が増えたので、叔母は先に帰ることにした。

 叔父とチャイナタウンを歩くと目の前にアロハタワーが見える。海運が盛んな時代に海の玄関だったアロハタワー。今は観光客も少ない。時計台の最上階の展望台。展望台に登る時、先ず手荷物の検査があるのには、ちょっと驚いた。展望台で食事をしているミシシピーから来た中国女性と出会った。船で短期アルバイドをしている。昼は必ずここで弁当を食べるという。そのほか日本人の若いカップル、叔父と私、五人だけの人影の光景には、わびしいものを感じた。

 バスでワイキキビーチに連れていって貰った。ビーチに行く前、まず目に映ったのは、ずらっと並んでいる売店。いろいろな模様を刻んだ蝋燭、風で動かす七変化の風車、買うつもりはないが、楽しませてくれた。七十五歳の叔父は、大分疲れたようなので、叔父と別れて、七時前に家へ帰るよと約束し、ひとりで気ままに散策した。

 娘に頼まれたバニラ石鹸のお土産を買って、その店の庭で観光客向きのレイを作る販売ブーツと、フラダンスのステージがあるのに出会った。ハワイの五月は卒業シーズン、卒業生にレイと風船をプレゼントする習慣があるという。三階ベランダに日光浴とカクテルサービスをするところがあった。建物から出る。海へ向かう。

 旧き時代の良さをそのまま残っているハワイ。高層ビルもある。全体的に、一つの色でいうと緑色だ。海までは深い緑で耀いている。青、緑、藍、エメラルド色の限りなく透きとおる神秘的な海だ。波が騒いでいる。遊覧船。南国の風、椰子の木、思わず島村藤村の「椰子の実」を思い浮かべた。それは、ここから日本へ流れていった椰子の実だったかも。
 サーフインの人を高波に乗せた板、岸辺に林立して息を整えている、色とりどりのサーフィンボート、長々とした海岸、日光浴をする人、海水浴をする人、貝殻が散在する。空き缶などのごみがないのは、さすが世界一の観光地である。白くきめ細かい砂、肌足で歩いても、熱くない五月のワイキキ。

 のんびり歩いているうちに日が暮れた。そろそろ帰らないと心配させるので、バスターミナルとホノルル動物園を目印として、通行人に聞きながら歩く。と言っても、観光客に聞いてもわからない場合が多い。最後に日本人とアメリカ人のカップルが正確な方向を教えてくれた。家に着いたら、叔父が玄関で待っていた。七時を過ぎたのだ。
 叔父が私にくれた部屋。天井に大きな扇風機。窓際に一枚のステンドグラス。朝のあいさつは陽差しではない。不思議な鳴き声の合唱に驚かされる。
 フゴゴ。ゴーゴー。――グヤグヤグヤ。ゴゴゴゴ。――ゴワワゴワワグワーワ。グワグワワ。
 深夜から朝方まで歌い続ける虫たちと、野鳥たちの愉快な会話に目を覚まさせられた。

限りなく透明なブルーハワイにて(2)多民族の島とワイキキビーチ  江素瑛 4

 チーピン叔父の家は一戸建てである。各個部屋の天井に大きな扇風機が付いている。
 熱帯ハワイなのに、風通しが良くて、今の季節に暑さは感じない。
 敷地は約五千平方フィートのほどほどの庭に、マンゴー、レモン、ザボン、ビワ、アボガトなどの果樹、野菜と花が賑う。叔母と二人で使う母屋以外に、料理の修業をしに来たバツイチの四十歳くらいの日本人男性に貸した納屋がある。
 「この間、日本のササニシキの米をくれたわ」と叔母が言った。ハワイ米はぱさぱさして舌ざわりが悪い。

 荷物を部屋に置くともう十一時を回っていた。さっそく叔父らが昼食のためヌウアヌ地域のチャイナタウンを案内してくれた。
 電車のないハワイにはバスが市民と観光客の足になっている、オアフ島のバス便は蜘蛛の巣のように、張りめぐらされている。叔父らの家に近いカピオラニガーデンバス停には、行き先が違う十以上のバス便が走っている。二ドルのトランスファーチケットで、三時間以内で一回乗り換えをすることが出来る。

 機内の朝食に珍しく手巻きすしが出ていた。そのため腹いっぱいなので、昼食はあっさりしたベトナム料理のフォーにした。川辺の店、客が長い列を作って待っている。一時間くらい待って並ぶのかなと、道路わきの緑地に目をやる。所々に小さな人の集まりが目立つ。トランプで賭博を興じているようだ。
 川の反対側に、政府経営の低収入者層の入居する高層マンションが聳え、その下の公園は、ホームレスのたむろする場がある。夜になると、各地域の公園のホームレスがここに集まってくる。歴史的な経過からみると、生活基盤がだんだんと白人など外来人に侵されていくハワイアンは、四十%ぐらいがホームレスになっているという。
うすい塩味のエスニック料理、フオーととり肉、大皿のハーブサラダ、健康食で腹いっぱいになる。一人七ドル前後の安値で、叔母はレジで勘定した後、十五%のチップをテーブルに置いた。

 叔父と叔母は、台湾へ一か月の旅行をしたばかりなので、疲れ気味のようであった。あくびをしながらも、わたしにチャイナタウンを案内する。連なるレストランの通りを歩く、カルチャープラザ(中華文化センター)の近くに、中華民国の国父孫中山の銅像が立っている。孫はハワイの小中学校で勉強した、興中会を組織、清を倒す革命活動に一生を尽くした。その時代の象徴が、いまでも栄えているかのように、綺麗に整理してある。プラザーの広場にアメリカと中華民国台湾の国旗が掲げられている、観音様の廟も設けている。参拝するひとも多い。

限りなく透明なブルーハワイにて(1)多民族の島とワイキキビーチ  江素瑛4

 新型インフルエンザで国内が騒しいさなか、タミフルとマスクを用意して、成田から三泊四日のハワイ旅行をした。シーズンはずれの五月後半に、四万七千円の中華航空券が魅力なのだろうか、機内は満席。半分以上の乗客はマスクを着用していた。ほとんど日本人だろう。
  六時間半の飛行で、機内では絶えず赤ん坊の泣き声が聞こえる。気圧の関係で、耳が痛いのか。うとうとして、朝七時四十四分にホノルルに着いた、気温は二十五度だった。五時間の時差ぼけはなんとか誤魔化して押さえ込むことができた。
 コンベアから荷物を取っている時、警察犬をつれた女性警官が、突然一人の乗客に荷物の検査を要求した。犬がその荷物をしつこく嗅ぐので、荷物を開けた。犬の目当てはなんと大好物のチョコレートだった。
 古き愛らしい空港ホールの税関の出口で、ハワイのオアフ島に三十年以上も住んでいたチーピン叔父が迎えに来てくれた。
「へえー、マスク? どうしたの? そんなにインフルエンザが流行っているの?」と叔父が驚く。
 税関から出ると、乗客は皆マスクを外した。

 二十年前のハワイ政府の統計によると純粋なポリネシア系ハワイ人はわずか一%という。その他の大部分は主に労働者として移民した外国人である。現在は混血の先住民二十一%、白人系二十三%強、日系人二十三%弱、フィリピン系十一%、中国系五%、黒人系一%、である。
 火山活動によって、ハワイ諸島が形成されたという。一七九五年にポリネシア原住民はカメハメハ大王による諸島統一で、王国になり、一八九四年、共和国が成立、一八九八年にアメリカに合併され、第五十州になった。

 もう自家用車の運転を止めた叔父と市営バスで、一時間半かけて家に連れてもらった。ワイキキ行きのバスのなかは清潔で、白人が多く、次は東洋人、混血人、黒人はほんの少しであった。さすか島全体は観光地である、優先席のバス内告示も必ずプリーズの敬語を使っている。
 かつてはローズガーデンと称していたが、いまはカピオラニガーデンと改名したバス停で降りる。公園を通り抜けると叔父の家はすぐだ。公園に黄金の木が輝いている、葉が抜けていて、満開の金片のような花が満開ところである。黄色のさくらの木のようだなあ、わたしは目を疑いたくなり、不思議な感じにさせられた。
(09 5 19)

双子兄弟      江素瑛 4

 彼女が、また病院にやってきた。「あれから、生理がこないのです」。それが彼女のやってきた理由だった。僕はとまどった。
 妊娠を強く望んでいた彼女だが、複雑な家庭事情に迫られて、家族は病院の院長まで、働きかけてきて、強引に堕胎をした。僕は怒りを抑えながら彼女を手術したのは一ヶ月前だった。その時、絶望で涙をのんで帰っていった彼女が、またやってきたのだ。不安そうな顔をして・・・。僕は怪訝に思いながら診察した。
なんと、彼女のおなかには赤ちゃんがいた。何ごともなく手足を活発に羊水をはね返す音の、さざ波のようなささやきが聞こえてきそうだ。闇の葬ったはずの小さな命がそこにいた。
「おなかに、こどもがいます」信じられない思いで、僕が彼女にいった。
「ああ、なんという幸運なの。あの子がおなかに戻ってきたのね。神様・・・」彼女の目が希望をとりもどし、輝いた。
 そうした彼女を見ながら、「双子だったのかも。隠れていたもうひとりを見逃したようだ・・」と僕が呟いた。
 それを耳にした彼女がいった。「そうかしら。そうだとしたら、兄弟をまもるために、猛烈にあばれたのよ。自分のまわりを血の海にして、先生の目をくらましたのだわ。きっとそうよ。私たち大人たちは、こんなに自分勝手なのに。ああ、・・神様の御こころを頂いたのよ。奇跡の小さな命をありがとう。なんと言う強運の子だったのでしょう。これからもこの子に必ず神様の思し召しの助け人が付きます。そして、いなくなった兄弟のひとりには、ありがとう。あなたが守った命は必ず良い子に育てます」
 
神様は満足に微笑んだ、御掌のなかに宿った人々の運命を眺めて。
            (09 8 18)

  隅田川無情        江素瑛 4

 ぱっと輝き広がり、ぱっと散る。夏の風物詩―花火。
 隅田川に沿った白いマンション両国パークハウスの、屋上から見た川開きの花火。江戸時代からの玉屋、鍵屋の競演、いまも毎年さらに賑わう。
 父は大阪帝大医科、母は帝国東邦薬専の出身。終戦後台湾へ帰郷したが、離島の診療所に招聘され再び来日。都会育ちの母と都会志望の父は間もなく千葉、茨城、埼玉、東京に移り、両国に住むようになった。両国国技館の脇にある横綱公園、安田庭園に我が家の庭のように足を運んだ。桜もち、屋形船、問屋。家の近く相撲部屋がある、お相撲さんは大きな身体をゆらし、うろうろする。大らかな下町の人情と情緒を存分に味わえると、父母は両国を誇らしげに語る。
 九年後、父が亡くなり、母は悩み迷った末、両国の家は不動産屋両国橋建物に頼んで賃貸して、冬は日本に、夏は台湾へ、渡り鳥のように往来した。台湾の弟と日本の私が、母の老後を見ることになった。
 ときどき母が、懐かしさからマンションを訪ね、それから両国橋建物に寄る。しかし、そう幾度も花火を見ることはなかった母。父の後を追い、十五年後に他界した

夫婦二人三脚で経営してきた地元の不動産屋。一階建て、昔風の店兼住居である。お婆ちゃんが出てきて、犬が出でくる。店の旦那は、お婆ちゃんは部屋に戻され、犬を叱る。奥方はお詫びに出て、客と対応する。生活臭い人間味のあふれた店だ。
 八年前に九十二歳で天寿を全うしたお婆ちゃんを犬が見守っていたという。犬の情愛に及ばない無情な人間が多いというのに。いま九歳になった犬が相変わらず出たり、入ったり、私の足もとに寄って来たり、吠えたり、人懐っこい。
「婆ちゃんには、こいつが、しゃがんで耳を傾けて、様子をじっとみてくれているだろう、こいつは私より早く死なないと困る。足が弱くなるといけないので、毎朝両手に二キロのおもりを持って、こいつと隅田川の岸を二時間も歩く。夕方小学校帰りの孫たちも寄ってくる、それが大変だよ」と言いながら、顔が輝いている店の旦那。
 お年寄りにとって、家族と一緒に住めることはなによりの幸いである。仕事場と住宅も一緒になれば、もっと理想的である。世間では親を介護施設、老人ホームなどに放りだす風潮のなかで、家族の原点にもどらなくてはならないとも思う。
 時々私は昔を求めて、両国橋建物に立寄ってしまう。お婆ちゃんを語り、母を語る。時のトンネルをくぐったようだ。父も母ももう会えない、いつか親の旧居は他人の手に渡さなくてはならない時も来る
ぱっと咲き、ぱっと散る花火の如く、縁の尽きてしまう儚い人生。(09 7 23)
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