「詩人回廊」

日本の短編小説は特殊で、外国の定義にあてはまらない。韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説の制作へ移してしまった。明治以降われわれが短編の傑作と呼んでいるものは、多くは物語的構成をほのかにもった散文詩であるーーと三島由紀夫が「美の襲撃」で述べています。文芸同志会は「詩人回廊」に詩の素をもつ寸編小説のジャンルをつくりました。(編集人・伊藤昭一)(連載を続けて読むには、右サイドCategoriesの筆者の庭をクリックします)想いをここに掲載してみませんか。

中原中也の庭

弓町よりー食うべき詩―(7)    石川啄木4

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 そうしてこの現在の心持は、新らしい詩の真の精神を、初めて私に味わせた。
「食(くら)うべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。
 謂(い)う心は、両足を地面(じべた)に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途(みち)である。
 以上のいい方はあまり大雑駁(おおざっぱ)ではあるが、二三年来の詩壇の新らしい運動の精神は、かならずここにあったと思う。否、あらねばならぬと思う。かく私のいうのは、それらの新運動にたずさわった人たちが二三年前に感じたことを、私は今始めて切実に感じたのだということを承認するものである。
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 感動   アルチュール・ランボー  中原中也訳4

私はゆかう、夏の青き宵は
麦穂臑((すね))刺す小径の上に、小草(をぐさ)を蹈みに
夢想家・私は私の足に、爽々((すがすが))しさのつたふを覚え、
吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう!

私は語りも、考へもしまい、だが
果てなき愛は心の裡(うち)に、浮びも来よう
私は往かう、遠く遠くボヘミヤンのやう
天地の間を、女と伴れだつやうに幸福に。

詩に関する話           中原中也(7・完)

 注意せよ、彼は以前には驚くべく観念明晰な男であったが、やがてその観念を自己の裡に位置せしめる底のもの、即ち自然――手を差伸べもしないが手を退きもしないもの、――が人間の裡にあっては恩愛的な作用をつとめる、その作用を、雑念或は意識及び其の惰性によって忘失したのである。その忘失こそ忘失者自身には認め難いのであって、恐るべき近代病の根本性質はそれである。
 けれどもそれらの人も、ヴァニティや倨傲を棄てて、自分自身に克ちさえするなら、たちまちに新鮮な生活はひらけてくる!

 然し此の錯雑した時勢にあっても、いつかな愚鈍で、有難からぬ幸福のお方もあって、その手合では、情けとは迎合性や動物的嗜好などを意味するだけで、つまりまあ気分屋なのである。
 近所が火事であるための驚きと、心の感動と、言換れば偶然と必然とを、混同しない程度に比例して芸術非芸術があるとはシモンズのいう所だ。芸術はさておいて、生活の中ででもそのような手合は困るのであって、それらの人が朝目覚めた時の無念無想、即ち瞑想状態が、精神にも物質にも有益であって、其処にこそ現実があり欣怡のあることに想到されるよう、私一介の馬鹿は希っている。

 作曲家は音域の拡大に、文人は語法の発明に、画家はひとえに方法的な今日、生活はその無味な装美にカラ躁ぎする今日、それもまあよいとして、感覚(受動)方面にばかり忙しく、魂(能動)方面が一向それに伴はない時、その人々が人生を無味だと云ったり懐疑を口にするとしても、慈愛は絶対に存して、蒼空は永遠に曇天よりも晴れやかであろう……。
初出:「白痴群 第六号」1930(昭和5)年4月1日発行

詩に関する話           中原中也(6)

 さて、私は近代病者の一例を御紹介するが、その前に一言前置きしなければならない。近頃人々は、「唯物、々々」と云っているが、彼等がそう云っている時くらい唯心的なものはないようである。
 惟(おも)うに、物と心とは同時に在る。今仮りに「太初に言葉ありき」ということを考へてみるに、そは「太初に意ありき」ということであると同時に「太初に意を聴かされしものありき」ということである。
 即ち実在は人間の思考作用に入り来るや空間化され、そしてその空間化されし実在においては、主語と客語は常に転換され得る。

 之を要するに、物は心を予想し、心は物を予想するのがザインであり、それを展開するものが夢(ゾルレン)である、といふことである。

 そして夢が実践されるは情意的であり、――かくて、情けを否認するは否認者自身の生を否認することであり、生存者が生存を否認することは不可能であり、結局さらば彼の否認とはほんの心理的一事実に過ぎないとなら、さっさと人々は情けを認容し、いわばチエホフの微笑の中に行き、――近代よ、汝の神経衰弱より放たれるがよい。
 かつて彼――一近代病者は、「情けぞ人の命なる」というヴェルレーヌが一詩にふと心惹かれ、惹かれた迄はつつましやかであったが、惹かれ終って彼はそわそわしはじめた。
「どうしたのだ」と訊ねると、羞むともなく羞みながら、「それでは私の場合では何を愛せばよいか?」というのだ。
「貴方が情けを感ずるものを」と答えると、間もなく彼はイライラしだした。
 では彼は情けを持たぬのであらうか? 否! 生きとし生けるもの無情ではない。ただ彼の場合は、情けではないが情けの実質(層)が、かなり錯乱しているのである。
 何よりも彼はもと善良な人で、その善良は今も依然存するが、彼の善良は働きを失っている。

詩に関する話           中原中也(5)4

以下少しく独白めいて、岩野泡鳴を批評しよう。
 彼が刹那主義という時、恰かも私が上に述べた如き趣意にあるように見える。然るに彼は余りに側面的に刹那を考えはしなかったか?
 即ち、彼は刹那が個人精神中で考へ得らることであつて、生活という対人圏に流用されるすべてのものは、必竟「規約」以外の何物でもないことを誤認しはしなかったか? 否寧ろ、棄てて省みなかったではないか?
 蓋し、個人――即ち夢みる動物中の理論なり想像なり幻想なり其他何でもが、他の個人にまで如何に影響するかの其処に生の全ての意味があるのを、その影響以前に於てだけ刹那を考へていた泡鳴は、悲劇、即ち生死合一境――言換れば慈愛の境地を見ることがなかった。
 顧(おも)うに、彼こそ「若い人に同情心は不足勝なものです」と言はれる場合の、その「若い人」である……)

詩に関する話           中原中也(4)4

 自己分析がなされることはそれが必然的であるかぎり結構な状態であるが、その分析の結果が、直ちに行為に移らないで、その分析過程の記録慾となる時悲惨である。
 その記録慾は、分析が繊細であればある程強いのでもあろうが、その慾は昂ずれば、やがて事物から自己を隔離することになる。少なくとも理論と事実とが余りに対立して、人格の分裂となる。
 近来芸術が非常に感覚的であるか又、一方非常に理論的であるかの何れかに偏しているのは、如上の理由に因るのであらう。
 蓋(けだ)し、「生きるとは感覚すること(ルッソオ)」であり、感覚されつつあれば折にふれて、それらは魂によって織物とされる。その織物こそ芸術であって、その余はすべて胃病芸術なのであらう。

 その今いう記録慾――言換れば「回想の時間」。
 すべて回想的に努力されるのは人のヴァニティのためではないか?

 ネルヴァルの発狂、二重意識の相剋による錯乱は蓋し、彼が彼の分析方面に執し過ぎたことが原因ではある。
 又、「人生の躁宴に於ける不安の客」と言はれたボードレールの不安は、私には結局抽象慾の過剰が原因をなしていると思はれる。彼がダンディスムといふも、必竟その抽象慾の一形式ではないか?
 ラムボオに就いても同様なことが云える。彼は自己の感覚の断面々々に執しすぎて、畢にその断面々々が一人格中に包摂される底の実質を失ったのである。
 蓋し、すべて分析過程の保留を願ったり、抽象慾過剰だったり、感覚的断面に執着したりすることは、実行家的精神であって芸術家精神ではない。

詩に関する話           中原中也(3)4

 要するに芸術の泉とは徒然草に、心の鏡が澄んでいれば全ての物が正しく映る云々の裡にあるのであって、東洋人は自然に対しては非常に心澄ませたが、人に対しては未だ澄むことなく、卑下しすぎたり頑なだったりしている。
 現今は欧羅巴もまた同じようであり、唯少し異る点は、各人が自己に閉じ籠って型を造り、それを精練していて己が赤裸々に生きないのが欧羅巴なるに反し、我等の間では、互につけ込み合うことを承認し合っている点であろう。
 人に対して平静、順応的にしてアクティヴに非ざる限り、我等が民族の文学は何時迄も反復に終るであろう。
   二、実践的な覚え書
 凡そ分析なるものは、私には吸気の気持ではなく呼気の気持でなされるものと思われる。而して瞑想とは、その反対に、吸気の気持でなされると思われる。
 私は近時芸術の萎凋する理由を、時代が呼気的状勢にあるからだというように考へる。

 仮りに思想が分析によってはじめて形態を取るとしても、思想の実質は、瞑想そのものではないが瞑想状態にある。

詩に関する話           中原中也(2)4

 誠実たること――即ち愚痴っぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であろう。何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。
 頻繁なる対人圏にあって、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗う」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけである。
 然し今、頻繁なる対人圏と同様に、人を弱くするものがある。それはかの落付のない勉強である。――同胞諸子が堅忍なられんことを!
(とまれ一切物中に於ける、各自我のスペクトルの乱雑が、近時世界の芸術に萎凋を来している。)

 ここにおいて私は少々傍道をしなければならないのであるが、――由来我が文学は言葉を読むと同時に触りを感取するが重要である。
 日本武尊が古事記中に叫ばれた歌は、明かに一呼吸中に歌われたものであつて、一呼吸中のものとしては実に絶品であるが、デヴヱロッピングではない。
 かかる場合にこそ触りは甚だ重要な役割をするのであって、惟うにこれは歌というよりも散文の澄んだる箇所の膨脹したものである。
 言いかえれば人情を包摂せざる範囲の芸術である。なお言いかえれば対人圏の論理、即ち誠実より以前の芸術である。勿論そこに誠実がなくはないが、消極的にあるまでである。
 即ち「在る」として誠実だが「行動する」として誠実ではない。
 即ち精神的であるが魂的ではない。(釈迦は諦観したであらうが、諦観した人として歩いたかどうか私は知らぬ。)
 歩かざる人にある芸術は、竟に一呼吸中の物、及びその延長であり、延長――即ち感傷の根本形式である。
 乃ち、東洋芸術の大部が一色であり、雑多あって多様なき所以である。
 今や我々は東西芸術の契機を見たのだから、従来しばしばあつたように、我等の血液を嘆ずべきではない。(あらゆる道は天に通ずる。即ち意志以外の総てのものは必竟途上の物たるに過ぎない。)

詩に関する話           中原中也 (1)4

   一、序

 近頃芸術は世界全般にわたって衰え、その帰趨を知らない。種々なる主義傾向によって賑わっているとはいえ、各人は衰弱し、独りいては考え込み、人と遇ってはカラ笑いしている。私もまた同様である。然るに今日私は過去五年間の暗中模索、傷ましき躁宴の後に、いささか芸術の泉なるものがよって以て存する所以に想い到った。――どうぞ愚人のたわ言も偶にはよいとして、私の語る所を聴いて貰ひたい。

 ありとある微分値の間を駆け巡り、今日積分値にまで漸く辿りついてみると、案外に道は近きにあるに驚かざるを得ない。
 要するに芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興あるいは、感謝となるもので、而してそれが旺盛なれば遂に表現を作すという順序のものである。
 然るに、事物を対抗的にではなく感受し得るためにはそれ相当の条件がある。(但し私の云うその条件とは、金銭や環境、又は個性なぞと呼ばれているものの裡にあるのではない。)
 さて、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用いられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云う意味は、誠実であるということをも含んでいる。
 顧(おも)うに、十九世紀前半までの芸術は、先づ自然をだけ克服したのだと観れば観られる。その後交通は急劇に頻繁となり、人は竟(つい)に自然をだけ克服する力では、眩ぐるしき対人圏において誠実たり得ず、やがては我を忘れるに到ったのである。我を忘れた時にもなお存するものは、作用に非ずして対象のみであり、かかる時近時の芸術が方法的となり、恰かも結構な骨に紙の肉を張ったようであることは、首肯出来る所であろう。

 谷間の睡眠者     ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー4

OEVRES D'ARTHUR RIMBAUD  Jean Nicolas Arthur Rimbaud
中原中也訳
            ☆
       谷間の睡眠者

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜((ほこ))りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖((すゐせんあやめ))に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。
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