「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

伊藤昭一の庭番小屋

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(17)

 若杉夫人の同人雑誌「雲」の発行の意図を説明を受け、当時のわたしは自己存在への自覚として、孤独性への自負と同時に、それと反対の自己否定、自己嫌悪の感情に悩まされていた,そのニヒリズムの克服の方向性のヒントとなったのである。
 これに対し、川合氏の若杉夫妻との交流では.次に記すような状況にあつた。ここには、すでに新潮社や講談社の発行する読物雑誌に作品を出してる職業作家・若杉大作氏と親しい人々のことは、全く知らなかったのである。
    ☆
  川井清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から
 二度目に若杉家を訪ねたとき、初めて作家の若杉大作氏に会うことができた。
「いや.雑誌の締切りに追われていてね。今朝やっと片ずけたところなんだよ」
  大作氏は丸顔の童顔で,いつもニコニコしていた。歳は五十代前半といっ.たところだろうか。
「うち.の上さんがこんなことを始めて.俺は実は迷惑なんだよ。で、よけいなことはするなと言ったんだが、聞かないんだ。.俺も原稿が売れなかったころ.ずいぶん迷惑をかけているからな.あまり強くも言えないんだ」
  そして,おいそうだよな.と、同意を求めた.
「先生は恐妻家なんですね」
  高須と前田がこもごも.言った。前田は東大の学生とかで,オートバイに乗ってきている、若杉さんはご主人の顔を嬉しそうにのぞきこみ、そうなのよ,、と言つた。
「まあ,そういうわけで.こいつの言うことを聞いて皆でやってみてくれ。小説技法の疑問なんかには、俺もたまには協力して応えてやるから」
 「天の会」は上々の滑り出しにみえた。
 月に.回,石神井公園の三宝寺池のほとりにある 力という茶屋で開かれた集会では参加者が廊下にまではみ出す盛渥であっ.た。
 清二は印刷やにいるというので,さっそくその方面のことを尋ねられたが働きだしたばかりで判るはずがなかった。
 原稿用紙の書き方から始まって,小説とは,随筆とは,詩とは、俳句とは、短歌とは、集会の度にくり返しいろいろな解説や説明があっ.た。総合文芸誌とは実に幅の広いものだと感心したが.一方で困ったことになったな、と思ったのも事実である。清二は小説以外にはあまり関心がない。
 清二は自分は小説が書きたいこと、現在宝石社の推理小説の懸賞募集に応募中であることを話した。
 さいわい、控えが取ってあっ.たので若杉大作先生にみてもらったところ激賞されたので,清一.はすっ.かり舞い上がってしまった.
「これは良いところまでいくだろう.もしかすると……」と保証されたのである。
一月の末になって,室石社から雑誌が送られてきた。「新人25人集」とある。清二の作品が活字になっていた。しかし、まだこれは第一段階で.このなかから当選作品が決まることを清二は知っていた。
 嬉しくはあったが、飛び上がるほどではなかった。
 実際一日干秋の思いで待ったのはそれからのつぎの知らせである。一,月が終わり、二月が過ぎても何の通知もなかった.
 三月末に発売される四月号に結果は発表されていた。
 当選は竹村直伸氏の、”風の便り"、佳作に笹沢佐保氏が人っていた。喰い入るように選評を読むと、清の作品は一口に言って面白みに欠けるという評.だった。.
 ただ、四人の選者のうち江戸川乱歩氏だけが、この作品には創意<オリジナリティ>が見られるとして点を入れてくれていた.。一点も入ってない作品も多かったのである。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(16)

    ☆

 わたしが若杉夫人の家に訪れた時は、夫人がひとり応接間で応対してくれた。
 この出会いは,川合氏の場台とは内容のニュアンスが違っていた.。.
 若杉夫人は.未成年で丸刈り頭のわたしが幼く見えたらしく、その後いつまでも子供扱いされることになった。.
 若杉夫人は、無名人の雑誌と銘打った「天」(川合氏が手記で名づけていたもの。実際は「雲」という)もので、文宇の小さい薄いガリ版の冊子のような本を見せてくれた.。今で.言えば新書版の大きさである..。
 手にとって見ると、女.性の戦後の生活の苫労話が掲載されていた。どれも短く、その場で斜め読みで知る内容を知ることができた。
 詩のことばかりを考えていたわたしは、おそらく「こういう生活的なものもあるのですね」とかを述べたかどうかしたのであろう。当時の戦後の高度成長の始まりの頃は、農村から都会へ働きに出てくる若者で溢れていた。「若い根っこの会」とか、歌声喫茶など、若い男女が交際場を求めてくる団体がほとんどであった。自分は、詩の理解する会を求めて、「文学会」という名の付く会をさがした。見つけても、「朔太郎の詩を手本にしています、とか言っても、何それ? 朔太郎って誰?」とかいう有様だった。それで、同年代では、話が通じない。孤独を深めていった時期だった。.
 そんな時期に、若杉夫人は、あとあとになっても、忘れることのできない話をしてくれたのである。.
「あのね。日本人は敗戦ですべてを失ったでしょう。その後の家庭を支えるために、どれだけ家庭の主婦たちが,苦労したか、あなたは子供でわからないでしょう。飢えをしのぐため、それはそれは、恥も外聞もなく.みんな必死で生きてきたのー。それがね、ここにきてやっと衣食住がなんとかなって、ほっとできる時代になったの。するとね、そうした女性たちは,いままでの生活のための生活はなんであったのか、と心が空っぽになってしまったのね。いろいろな苦労話を誰かに知ってほしいのよ。そこでは私は彼女たちに、いままでの苦労を手記にすることで、空っぽになった心を鎮魂させ、空虚さから脱出してもらおうとしているの」
「苦しみから抜け出したあとは、.心が空っぽになるんですか」
「そうよ、それが空虚さなの。目標が見えなくなって、すべてが虚しくなるの。心が乱れて苦しくなるのよ。でも,不思議なことに、それを書いて表現.することで解消されるのね。だから日本の戦後を苦労して生きてきた女性のたちのために、こうした同人雑誌を発行することを始めたの一ー」
 夫人.の言葉の背後に、無気力になって茫然とする多くの女性の存在を見ることができた。その頃、わたしはたまたまそのような人間的特性にある関心をもつていた。
「書くことで.虚しさが消えるおれも、それで詩を書いているのかな」
 人間は労苦から解放されると、心が空しくなる。心の空虚さが書くことで埋められる。若杉夫人との会話で、彼女の意思である「自己表現.の場を提供することによって,無気力に苦しむ人々を救済し
たいー」という精神をわたしは強く感じた。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(15)

 その頃、わたしはひたすら萩原朔太郎の摸倣詩を書き記していた。模倣と自覚していたので発表意欲はなかった.自分で萩原朔太郎の模倣者として、どれだけ接近したかを自分で確かめれば良かった。
ーー自らの.憂聾の「悲しき慰安ヒとしてーーである。
 それが,高校を卒業後、萩原朔太郎の模倣から脱出し..目分独自の詩というものを書くにはどうしたら良いか、ということを模索していた。そこで、幾つかの文芸サークルの会合に顔を出したが,男女社交の場のような雰剛気のものが多く,、詩の研究.の話をするような会とは出会えずにいた。
 その時期、新聞のサークル募集欄に女性の名の会員募集呼びかけがあ.った。そこで、詩や散文詩に興味があるので.参.加できるかという葉書を出した。
 すると、「私は主婦です.女性として交際相手にはなりません。文学を本気でする気があるなら二度,家に訪ねてきたらどうですか。詩の作品をもっていれば読ませてください」という趣旨のものであった。
 その女性の家は池袋から西武線で..二十分ほどの石神井公園駅から、公園を横切りさらに歩.いて十五分ほどのところにあった。
 川合氏は、かれのは彼の立場から、その当時のことを次のように記している。川合氏はその主婦と電話で連絡をとっていたらしい。わたしの家にはまだ電話がなかったように思う.。
 それにしても、同時期に若杉家に訪問していながら、その印象と対応の仕方に随分と差があるものだと思う。
        ☆
――川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり入形」からーー
 清二は、電話で聞いたとおり西武線の百神井公園駅で下り、バスに乗った.三十分に一本の富士街道ゆきに乗る。
 ずいぶん田舎に来たような気がした。.
 パス停の前に小さな果物やがあり,迎えに来てくれるのを待つあいだに葡萄を包んでも.らった。
 清.二もやっと世闘を意識しだしている。ぽどなく現れた、主催者の若杉さんは色白細面の四十代の女性であった。.電話で「おばさんですよ」と断わったのは.若い娘と期待してくる男性がいるからだそう.だ。.
 案内してくれたのは彼女の自宅だった。ご主入は小説家だというのには.寸びっくりした。
 見せてくれたのはガリ版刷りで、掌サ.イズの粗末な同人誌ではあったが、今どんどん会員が増えてまもなく七十人くらいになりそうだという。
「.そうしたら、もっと立派な木にするつ.もりです」
 若杉さんは”.無名人の雑誌"と銘うち、行く行くは発.表の場のない貧しいひとたちのよりどころとなるような,立派な同人誌にしたいと抱負を語っていた。
 縁側からのぞく小さな庭に大型犬と猫がいた。猫はときどき家の中に入ってきて、若杉さんに餌をねだった。.
 先客の高須という青年がいろいろ文学的な質間をしていたが、若杉さんはそういう問題にはあまり関心がないように見受けられた。.
 書くことによっ.て心を開く,情操を豊かにするといっ.たことが、彼女の関心事なのだろう、と清二は思った。
 茶菓に軽い食事まで御馳走になって、帰途につ.いた。辺りはすっかり暗くなっており.大木の葉の茂.りで星もみえない広場を、高須さんたち.と話をしながら、清二はバスの停留所に急いだ。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(14)

 内山さんは、かれは、わたしが職業訓練教科そっち.のけで本ばかり読んでいるのを見てこう言ったのを覚えている.
 ー「.きみは文学全集をもってきて、本を読んで、ばかりいるね。じっは僕の友達に江戸川乱歩に認められて、雑誌に探偵小説が載った友達がいるのさ.二んど紹介するよ」
 それに,わたしはこう答えた記憶がある。
「そうですか。ただ、おれはこの 年の間に世界史学全集を読破.するつもりなんです.これが終っ.たらお願いします一」
 後日、川合氏と文芸同人誌の仲間として交流か始まった時に、内山さんが、わたしとかれの共通の知人であったことを知るのである.。
 川合氏の自伝的作品「あ.やつり人形」の関連資料をかれのパソコンデータから探して見たところ、それらしきものが見つかった。ここでは、それを「続・.あやつり人形」として記載してみる。.
 わたしが、この自伝に書かれている”無名人の雑誌"と称する文芸同人誌「天」を発行する「天の会」(川合氏の記録による)に入会したのは、一九六〇(昭和三.十五)年頃である。
 川合氏とはわたしは同じ年に入会していたはずであるが、この時点ではお互いに面識がなかった。 かれの自伝からすると、川合氏がわたしより少し前に「天の会」主催者の若杉夫人に面会している。
 ここで断ってお看たいのは、川舎氏の自伝的作品に.記されている人名は、すべて仮名であることだ.したがっ.て自伝的作品の川合清二とは、自らを作自伝的作品中で名乗っているもので、実際の名称ではない。
 川合氏は人物や同人誌サーグルの名称はすべて仮名にしている。若杉夫妻や会員などの名も同様である。わたしは川合氏の作品の表記にしたがい、仮名をそのまま採用して、話をすすめていきたい。
 この時代..又芸同人誌のサークルの多くは、男女交際の場として雨後のタケノコのように生まれていた。わたしは高校圭のクラブ活動で文芸部に所属し、詩を書いていた。.
 あるとき、萩原朔太郎の詩集を大森の古書店で買う機会を持った。詩集は茶褐色に古びているが、いまも手元にある.幾度も転居して、持ち物の多くを紛失しているのに、これは実に不思議なことに思える。
 岩波文庫・..一好達治編「萩原朔太郎詩集」(昭和二十七年一月二十五日第一刷発行・昭和三十二年一月二十日第八刷発行)定価百二十円ーーが.それである。
 わたしが傾倒したのは、この詩集にある朔太郎の以下のフレーズに尽きる。
ーー『「かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとっての神秘でもなく信仰でもない。また況や「生命がけの仕事」であったいり、「神聖なる精進の道でもない」詩はただ私への「悲しき慰安一にすぎない。
 生活の沼地に鳴く青鷺アオサギ肯鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。』〔前掲書より)

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(13)

      ☆

  〜川合清二氏の自伝的作品「あやつり人形」から〜
ー(承前)ー年が変わると、謄写学院の方はどうやらこうやら卒業きることになり、就職先を斡旋してくれることになった.
  涌井印刷所というその有限会社は日暮里駅から谷中の墓地の方角へ坂を上がったところをもう一度、石畳の路を左へ曲がったところである。
   会社といっても家内工業の商店のようなもので夫婦に元気のよいお婆さん、他人といえば清一,ひとりきりであった。
  酒井太郎は大柄の気の弱そうな男であった。それにひきかえ印刷をやコている奥さんの方が強い。涌丼さんはいつも尻を叩かれて得意先を廻っていた。
  ガリ版きりの下請の中に内山さんという若い入がいた。謄写学院の先生と同じ名前なのが記鯨に残った.。
  ある日、清二が帰ろうとすると、仕事を届けに来た内山さんが一緒に帰ろうという。
「良いところに連れていっ.てやろう」
  内山さんが案内してくれたのは音楽喫茶だった。<夜来香>という名のその店はステージがエレベーターになっていて、一階から三階まで上がったり.、下りたりする。目の前で歌と演奏をやってい
るあいだはそれに耳を傾け、行ってしまうと容どうし会話にふけるというシステムである.値段もわりに安.い.。
  清二は小説のはなしをした。
「そうかい。ぼくはいま都の職業訓練所に通って、いるんだが,やっぱり好きな奴がいてね。年中本ばかり読んでいるよ」
そして彼なりのアドイスをしてくれた。
「やっばりものをかこうというからには、.どこかの同人誌に入って、同好の友達を俸ったほうがいいんじゃないかと思うよ.独りで目くら滅法やったっ.て難しいんじゃないかな」
「だけど,どうやって見つけるの」
「良く新聞なんかで読者サークル募集が出ているから,それで探してみたらどうだろう」
  清二はすぐ実行に移した.

      ☆
  川合清二氏の自伝的作品「あやつり入形」はここで、途切れている。川合氏が実行したのは、作家修行のため文芸同人誌サークルに入ることであった。
  偶然の不思議というべきか.ここで、ガリ版切りの下請けのアルバイトをしながら職業訓練所に通っていた内山さんというひとが、職業訓練所でわたしの隣の席にいた人である。わたしは高校を卒業
した後、父親がそれまで、高校通学を休んで家業の手伝いをしてきた事情があ.って、そのことの報酬としてすぐ就職せずに、職業訓練所に入ることを認めてくれていた。そこは通常は社会入で失業したひとたちが,手に職をつけるため,技術習得をする.こころである。
  内山さんは、わたしにとって人生の先輩であった。内山さんはクラス仲間には「予科練に入ったとたんに終戦になってしまってね。それで、兵隊で死なないで、済んだよ」と語っていた。
そういえば、こんなことも.言っていた。
「近所に結婚のお見合い話をもちかけるおばさんが居てね。ぼくにもそろそろどうか、とお見合い写真を家にもってくるのさ.だけど、ぼくがいま失業中ですが……というと『あらま、さようで御座いま
すか』といってね、風呂敷に包んだお見舎い写真を、慌ててまた包み直して、帰っていくのだよ。なんだかわびしい身分さ」

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(12)

              ☆

  ここまでの経過を読んだ私は、川合氏が、日本初のゴッホ展を鑑賞しているーーとあるので、それを手がかりに調べてみた。すると一九五三年に「生誕百年記念ヴァン・ゴッホ展」が日本橋丸善で開催されている.。
  しかし、川合氏の自伝では上野で開催されている。すると.これはその後の一九五八年、上野博物館の「ゴッホ展」というこ.とになる。年代からすると川合氏はニ十六歳のころで.ある。この自伝では、十年ほどの飛躍があるようだ。
  ここでは川合氏はまず、身長の不足による身体的な制約を感じている。入間社会的な共同意識、生存の絆、ヒューマニズムの根底には、身体機能の共通性を前提としている。しかし、我々にとって.機能が同様にみえても.お互いの細部の差異は重要な意味をもつ。.
  わたしが知る眼り、川合氏にとって終生にわたり,駅の切符自動販売機後に登場した銀行のATM装置などは、かなり扱いにくいものであっ.たろう。満員の通勤電車も苦手であった。会社経営を始めてからの駅前までのタクシーと通勤定期券は、かれには欠かせぬものとなった。
  ゴッホの絵をみて,一.「これが芸術というものか」と眺める時に、かれは社会的価値の物差しと、個人の感受性による価値との照合をしていたのであろう。これは個人的力ルチャーと社会的カルチャーの対決の場面に読める。
  川合氏はたしか..会社の経営を始めたころに、ミステリー小説を書き、その作品が江.戸川乱歩.に認められ、雑誌「宝石」の「新入作家二十五人集」という特集に掲載されたそうである。
「でも,その時期に会社の経営が軌道にのり、忙しくなって、あとの作品が書けなかったのですよ」と語っていたものだ。.
  ちなみに、この時期の私といえば、大森海岸の端っこ.森ヶ崎(文字通り大森のさらに先という意味の地名である)の近くに住み、父親の漁業を丁伝いながら私立高校に通っていた。わたしの父親は、戦前は軍鴇工場で旋盤工をしていたが、戦後は東京湾の漁師になった。小中学生の特期はもっぱら父親と船に乗って海に出ていた。中学生になってからは、家業が忙しい時期には学校を休むことがあった。
.  高校に進学しても一年の半分は父親の仕事を手伝うために学校は休まねばならなかった。学校から常に問題視され、教師に呼ばれては退学を宣告されていた。四季折々に、二週間ほど学校に来なくなり.またひょっこり登校してくる生徒の事情は、教師たちの理解を超えていたようだ。それについて語るのは,また機会に譲ろう.。
.  ところで、この時代の風潮を知るのには流行歌が手掛かりになる。一.九五六〔昭和三十一.)年は歌謡曲で、大津美子「ここに幸あり」、若原一郎「.若いお巡りさん」、三橋美智也「リンゴ村から」、「哀愁列車」が流行っ.ていた。.文学作品では、石川達三「四十.八歳の抵抗」、三島由紀夫「金閣寺」、フランクル「夜と霧」、特に五味川純.半「人間の条件」は、発売口には書店に行列ができるほど。小さな出版社であった三一.書房を一挙に大出版社にのしあげた。そんなことを、高校生であった私も記憶している。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(11)

 【川合清二氏の自伝的作品一あやつり人形一から】
 ガリ版書きは清二にとっては面山くも河ともない勉強だった。あまり嫌なことを辛抱してやった経験の無い清二.は初めて我慢して何かをやることを覚えた。
 ヤスリの刻み目によって、A而,B.面、C面.X.画といろいろな種類が有り,それによって文字書き、罫線引き、ボカシ刷りと使いわける。
 内山先生のほかにもうひとりいる、年醗の講帥などは、実に芸術的な使い方で墨絵風の絵を書いて見せた。
 生徒は種々雑多で、二十くらいの女の子から六十過ぎのおじいさんまでいた。いまならさしずめカルチャーセンターといったところだ。器用な生徒はすぐに覚えて、学校あてにくる仕事をこなしてア
ルバイトをする。しかし、清二はさっぱり上達しなかった。
 数カ月はあっという間にすぎた。日本で初めてというゴッホの展覧会が上野の美術館で開催され、炎大下に清二もならんだ。
 鴬谷の駅から陸橋と反対の方向へ歩くと、じきに北から上野公園の敷地に人る。
 ものすごい人の山に、ちいさな清二は鑑賞するのに一苦労した。
 まごまごすると人の背中ばかり見てすぎてしまう。しかたなく人の流れに逆らって、反対から進んで、やっと絵が視界にはいった。
.  いちばん前まで潜り込むと,眼の前にゴッホの絵が迫力を持ってせまってきた。.バックの,画布に絵の具を擦り付けたような盛り上がりのなかに、捩れた黒い模様が点々と散っている。.
.  《ひまわり》にも、《自.画像》にも、後期の絵のすべてに擬じれた点々が現われていた。《アルルの跳ね橋》のあやうい風景の定着、これが芸術というものか、と清二は飽きず同じ絵をながい時間,眺めていた。.
.  内山謄写学院に通いながら、清二は片手間に投稿に精をだした。家に閉じこもっていたころから、ラジオの冗談音楽や失言時代にはハガキを出してはいたが、徐々にもう少し長いもの,小説やエッセイに手をだしはじめた。小説はもっぱら探偵小説である。入院時代から手当たり次築に冒険小説や探偵小説を読んでいたので、見よう見真似で自分にも書けるのではないかと思ったのだ、探偵小説のことを推理小説と呼ぶようになってきた境目の時代である。
.  当時まだ存命であった江戸川乱歩氏が編集する【宝石】という雑誌があった。毎年、九月十五日を締切に短編推理小説を募集していた。九月に入ると、母親には内証で謄写学院を休んで捩じり鉢巻で書いた。
.  自信作であ.つた。
.  締切の日、芝西久保巴町にある、出版社を直接たずねて、応募原稿を持参した。あの《二銭銅貨》や《屋根裏の散歩者》の乱歩先生に会えるかも知れない、と期待して、出かけたがあたりに先生の姿は見えなかった。
. 古色の漂った年代ものの宝石社ビルは、ミステリーの舞台にふさわしい、くすんだ雰囲気であった。
.  乱歩編集長は留守だったが、かわりに雑誌の写真で知っている推理作家のひとなどが数人たむろして、編集置らしい人と雑談をして雑談をしていた。
「応募原稿なら二階の編集局にいるものが預かつてれる」
.  なかのひとりが教えてくれた。清二は床のきしむ旧い階段を上がって係りの人間にしっかり原稿を渡した。これで自分の運命が変わるかも知れない、いや、変わることを期待したい気持ちだった。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(10)

 川合氏の自伝によると、当時、宅配貸本屋のようなものがあったらしい。家で文芸雑誌を読んでいたほうが、社会に出て働くより世間が広くわかったような気がすると書いているのは面白い。川合氏が隣家と家の境界線をめぐり、争いが.あったことは、わたしも後日(一九六〇年代はじめの頃と思う)、かれの母親の桔梗さんから直接昔話として聞いている。
 当時わたしが、日曜日に訪問すると歓待してくれて、昔話にシペリアの寒さや、隣家との確執などの話題があった.
「(隣の住人であった人は)図々しいことに、垣根の境をいつのまにか時間をかけて、何センチかをこちら側に侵入させてくるのですよ。そのまま放置したら、うちの敷地は侵略されて何十年もたったら、法的にそれが認められるというのを狙っているのですよ」と言っていたものだ。気さくで温和な包容力のある、どっしり構えた女性で、その話は幾度も熱をこめて語っていたので、かなり印.象の強い出来事であっ.たのであろう。
 川合氏の筆跡は、直線的で丸みのないきっちりとした特微のある文字形をしていた。それはガリ版文字の修業の影響だったのだ。
 川合氏はここで、病床から立ち上がり、社会のなかに飛びこんで世間の風を浴びたのである。世間は経済成長がはじまっていたが、就職難の状況と混在していた。ハンディキャップのある彼は、手に職をつけることに励んでいたようだ。いやいやながら技術を習得させられた様子である。.それが次に記されている。この時期に、海の仕事からは解放された私もまた、実質的に収入もなく、ぶらぶらしていた。この何もしない時期、無駄な時間を過ごすことを重要視するということで、川合氏と私は言わず語らずの共通点があった。川合氏はよく語っていた。「年に一冊、売れる長篇小説を書いて、その収入で、モナコなど地中海で暮らしたいね」と。「できるなら、いいね、夢だね」と応じていたものだ。

 【川合清二氏の自伝的作品一あやつり人形一から】ーその2−
ーー(承前)ーー
 ガリ版なんて、内職みたいなもので飯が食えるものかどうか心細かったが、贅沢も言ってられない。
 誰かが謄写学腕の広告を持ってきてくれ、清二は通うことになった。期間は一年、卒業後は仕事先を斡旋します、とある。
 場所は下谷二丁め、えきは国電の鴬谷であ.る.見るもの全てが珍しく、清.一は辺りをキョロキョロしながら歩いていった。上野駅寄りを降りて.長い陸橋をわたると、通りをどっちへ行ってよいか分
からず、うろうろと行ったり来たりした。とある路地の入口で入るべきかどうか、思案していると、向こうから釣竿を肩にかついだ、背の高い男が歩いてきた。
 どことなく愛先牛に似た面長でちょっととぼけた顔立ちだっ.た。
「すみません.内山謄写学院へ行くには、ここを入るのでしょうか」
「そうだよ.何なら案内してあげるから私の後をつ.いてきなさい」
 清二は正直にその釣竿おじさんのうしろについて歩いた。
 途中、八百屋のおっ.さんが声をかけてきた.「どうでした.釣大会の成績は」
「いや、へら研では.目分でいうのもなんだが敵なしですよ」
 男は照れもせず自慢をした.清二が聞くと、ヘラプナ釣研究会のことを、略してヘラ研というのだそうだ.。
 ちょっと大きなしもたやの横を入るとき、「.玄関はそっ.ちだから、あんたはそこからはいんなさい」
 なんのことはない,謄写学院の人間だったのである。人学願書をだして,その日は帰ったが、あくる週の指定された日に出かけると.、三十人の生徒を前に教壇に上がったのが、あの釣竿おじさんだったった。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(9)

   ☆
 ここまで川合氏の自伝をたどってきたが、彼は、いわゆるカリエスのため力仕事などの労働が出来ない。それを母親が気を掛けていたのは確かだ。わたしが、川合家にはじめて伺ったのは、高校を卒業後の19歳頃のことだ。高校へ進学してたいたものの、家業が東京湾の漁師であったため、長男であるため私は、家業を手伝う合間に高校に通っていた。家業が繁忙期になると、その方が生活の主体だったので、学校には通わない。当然、学校の出席日数が不足し、年度の中間試験と期末試験の片方は欠席していた。
 一年から三年まで、毎年教員室に呼び出され、進級の条件には出席日数が足りないと、その理由を尋ねられたものだ。そこで家業を手伝っていると、連日通学できない期間があるのだと説明した。
 教師は困惑したした様子で、「そうであるなら君、高校に進学できる立場ではないということなんだけどね」といった。「そうですね。まさか、こんなに家の仕事を手伝わないとやっていけないとは、思っていなかったので」といった。「そうなのか。そりゃ、大変だな」と、教師はちょっと考えて、話を打ち切った。
 しかし、それきり教師から呼び出しはなく、担当教師が変わって2年生に進学した。家業の手伝いは同じだったの。3年に進学する前に教師に呼ばれて、出席日数が不足で、3年生に上がれない、と宣告された。職員会議で退学宣告をすることになる、と言われた。それでも、それ以後の指示はなにもなく、なんとなく3年に進学して、通学することができた。噂によると、悪さをして警察沙汰になる迷惑不良学生がいるが、彼は通学日数が足りないだけで、悪行はなにもない、と庇ってくれた絵画教師いたおかげで、退学命令執行猶予になっていたそうである。
 さらに、ちょうどその年に、父親が漁師を廃業したのであった。それまでよく手伝ったと、しばらく自由にして過ごして良いと、まとまったお金と暇ををくれた。そこで自分は、毎日学校に通って授業をうけることが出来た。そこで図書館から本を借りて読みまくった。なにしろ、ポンポン船の操作と、櫓や櫂の使い方しか知らないのであるから、自分自身がこの世界のどこにいる存在なのかを知りたかった。
 卒業年の担当教師は、東大卒で著名な知識人の親族であった。それは後に知ったことである。私が図書館で借りた本の多くが、社会学系統のもので、その担任教師が自分の蔵書を図書館に寄付していたものであった。それを知った教師は、西欧の宗教と社会構造に関する本と、日本史を社会学的視点からみた解説書をくれた。そのなかに家永三郎の著書もあったのを覚えている。
 高校を卒業しても、家業はなくなってしたので、仕事がなく、職安にいった。普通ならば、卒業前に就活をしておくのが普通だといわれた。仕方がないので、電子機器の組み立ての職業訓練所に通うように紹介された。授業料は不要であった。そこに、1年間通ったが、技術の取得っはそっちのけで、世界文学全集を古本で買って、読みまくった。世界は広いのを知った。だから、辺境にいる自分を題材に詩を書いたりした。
 その訓練教室のとなりの席にいた訓練生が、Uという年上の独身男であった。彼は川合氏の親しい友人であった。しかし、その時はい互いに共通の友人がいることを知らなかったのである。「ぼくの友達にも君みたいに、本を読んでばかりいる作家の卵がいるだよ。こんど紹介しますよ」「そうですか、そのうちに会わせてください」という調子だった。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(8)

 【川合清二氏の自伝的作品一あやつり人形一から】ーその2−
「あと七十八センチ」と姉がいう。
「やっぱり安.い家を買ったのがいけないんだよ」
 いまの基準でいえば、百五平方メートルほどの土地に五十三平方メートルの平屋建で、十八万円の家だっ.た.
「床上まで水がきたらどうするの」妹がいう。「.屋根に上がればいい」弟が答える。濡れないように傘さして、と付け加えた。清二は、通りを眺め降ろしながら,妙にロマンチッグ気持ちになっていた,
 平常は.人だけ取り残された気持ちになることが多いのに、この非常のときだけは、家が運命共同体であるように感じて、そう思ったたのかも簸れない.
 夕方の飛沫で煙った雨のとおりに、いろいろなものが流れていく。そのころはどこのうちでも塀の外側にゴミ箱を備えていたが、そのゴミ箱が真っ先に幾つも流れだしていた。水嵩は一時間に数センチつつ増していたが、ある時間を境に.ひたりと止まった。あとで考えれば、呑川の決壊部分の手当が成功したのだろう.。
 台風が去ってしまうと、清二はまた一人になった。母親と上の姉は出勤し他の姉弟は学校へ行ってしまう。晴れて旨い昼悶、ひとりで家にいると本をよんで時間つぶしをすることが多い.。近所に家々
を回る阿覧雑誌やがあつた。
. 一冊の雑誌を買う三分の一の値段三冊の雑誌が読める。清一.は『中央公論』と『オール読物』、それに『文学界』をとっていた。
. 暇にまかせて、三冊の雑誌の隅まで清.一は読んだ。病気がほぼ全快して、習い事へいったり.会社に勤めたりして一日の大半を外で過ごすようになってからよりも.その頃の<世界>のほうが<広かった>ような気が清一はする。.
. 引っ越してきて最切の大騒動は隣家との地境の問題だつた。戦後のどさくさがまだ続いていた時代である。まわり四軒の建て売り往宅は土地の境の塀がきちんと設けられていなかった.
. 本来四軒均等に土地が分劃されるぺきはずが,、先に入居した一家が勝手に庭に植木を植え、地境の代わりにしてしまった。その植木の列が予定よりだいぶん清二たちの家よりだというので騒ぎになっ
た。隣で飼っているニワトリも軒下まで浸入して来て餌をついばんでいる。
. 購入した不動産やにに掛けあうと、言を左右にして、四軒均等と言った覚えはないといいはじめた。
「土地については、有り形ちのまま、と申し上げました」
 .不動産やの言葉であ.る。.川合家はそれから.二年、この。有り形ちという言葉に悩まされることになる。
 .清二などは敷地が少しばかり、広かろうと狭かろうと、どっちでも良いと思うのだが大人たちにはそうはいかないらしい。
 とくに母親の土地にかける執念は清二から見ると、まさに鬼気迫るものがあった。けっきょく問題は家庭裁判所にもちこまれ、四軒均等に近い形で決着し、測量師立会いのもと、境界線の目印の石を
埋めるまで、母親の全エネルギーはそこに集約された形だった。
 隣家の主人は官庁の外郭団体に勤める五十男だった。最初のうちは母親の加寿子を甘く見て猫なで声で話をはぐらかそうとしていたが、あまりの凄まじさに解決もそこそこに逗子の方へ引っ.越してい
つた。
 カリエスの症伏から開放されると、清二は何か収人の道を考えることを義務づけられる。「ガリ版習ったらどうなの?」というのがまず第一案だった。
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