「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

伊藤昭一の庭番小屋

さびしく孤独なソーシャルディスタンス(3)夢の定番

IMG_2186IMG_2187IMG_2194<多摩川浅間神社の境内には、高台に駐車場と見晴らし台がある。上から眺めると、東急東横線の様々な形の電車が見える。また、堰の脇の通路でカップルがくつろいでいる。外出自粛が言われ始めた頃で、往来は少ない。ここから下に降りて川岸に行く。>
IMG_2193IMG_2192<多摩川浅間神社は、古代からの武蔵野地形である立川崖線が途切れたところにあたる。田園調布駅から多摩川駅を経て多摩川の丸子橋に至る、東急東横線沿いが谷状になっていて、最も低い東急東横線の線路とその直ぐ西側の台地とは高いコンクリートの壁で区切られている。そのため、谷にあたるところが平地になっていて、この谷を挟んで、多摩川駅の東側には「田園調布せせらぎ公園」、西側に「多摩川台公園」となっている亀甲山が立ちあがっているように見える。この交差点からの信号を渡ると、崖に階段があって、川岸に出られるのである。>
IMG_2494<ガザニア、鶏頭、シレネ・カロリニアナ、カーネーションなど、ベランダの花は同じように見えるが、ひと月前の4月3日に咲いていたのは、すでに枯れている。これはその後咲いた3代目のものである。5月8日のものである。もし、自分が4月に眠りにつき、5月にこれを観たら、時間が止まったか、1年たってしまった、、と思うかも知れない.。5月8日>
    自分は、多摩川浅間神社下の道路を渡るたびに、日ごろよく夢に出てくる風景の印象のことを思い出す。夢では、或るバス路線に乗ると、東京から少し走っただけのところの停留場で、降りることになる。するとすぐ近いくに森があり、山道が林の奥に続いている。どういうわけか、その道は自分だけが知っているもので、他の人には秘密なのである。道の先には、澄んだ水の渓流がある。ごつごつした岩に水がうち当たって白いしぶきをあげている。そこで渓流の水を飲めるのは自分だけなのである。
IMG_2195IMG_2197IMG_2198<浅間神社前の横断歩道を渡り、階段を下りると、堰の水門に通じる川岸にでる。昨年の台風19号の影響で人間の背より高いところにゴミが引っ掛かっている。>
  そのことを誰にも知られたくなくて、つねに周囲に気を配っている。こうした場面の夢は、自分には定番となっていて、バスに乗っている夢を見始めると、ああ、あの秘密の森にいくのだな、と夢の中で思うほど繰り返し見る定番なのである。目覚めて見ると、夢にある風景は、自分が見たことも体験したことのない土地なのだ。さらに不思議なことに夢ではその場を引き上げようとすると、帰り道が分からず頭を悩ますという場面になるのである。これも夢の定番である。

さびしく孤独なソーシャルデスタンス(2)存在する「無」

IMG_2177IMG_2179<多摩川大橋の下から川崎側をみると、何かが川中に浮いている。老い衰えた眼にはそれがなにかわからず、手持ちのデジカメでそれを撮り、拡大してみて一人乗りのボートだとわかった。なるほど、ボートでぼうっとしているわけだ。コロナで外出自粛といっても、これは孤独であるが文句のない良い遊びである。>
  多摩川の下流と言えば、対岸の川崎市を挟んで、世田谷区から大田区の辺りである。東京と川崎という都会のなかに、野性味あふれた大自然の姿を垣間見せるのが、多摩川散策の面白さである。
  都会の孤独な日々を送る人々は、原始的な存在である川岸を、親愛の情を抱いているに違いない。しかし、暴れる川の激流に切断される枝や樹木そのもの声なき呟き聞く耳を持つ人がどれだけいるか。自分は、それらのうちの、山奥の野生的な世界から、朽ちて激流になされるまでを、想像することで、孤独を慰めることができる。
  ただ水辺に沿って流木の姿を観るつもりで歩けば、どこへ行こうなどと考えずに、結構遠方まで歩いてしまうものだ。
IMG_2429IMG_2434IMG_2469<また、同じ現象をならべたな、と思うかもしれないが、実は左から5月1日の姿と翌日のもの。そして5月4日の花々である。花はしおれたものを取り去ったので、それまで蕾であったのが咲いてきた花なのだ。なぜ、蕾のまま、大きくならずに、花に変わってしまったのか。このことを当たり前と思っている。しかし、人間は自分の存在する世界は、同じく現象が続くと思いがちだ。もし、乗り物の通勤定期を買う時に、心の片隅に妙な心の揺らぎを感じたら、それは、無意識が何かを認知しているからだ。もちろん、それはすぐ打ち消される。>
自分は、こうした現象に、「色は匂へど 散りぬるを/我が世誰ぞ 常ならむ/有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ/ 酔ひもせず」の想いに結び付けて、考えていた。このことで、唯物論的な発想を強めていた。それでも、まだ、自分がその思想で納得てしいたわけではなかった。
  それが、中年をすぎたある時、偶然に仏教に般若心経より古い経典の「金剛経」というものがあると知り、たまたま「金剛道座禅道場」が、歩いていける距離のところにあって、通った。
 ここは、金剛般若経を教本として修業するところであった。そのなかで、「あらゆる現象は、すべて虚妄であり、そこに存在するものではない」という意味の言葉があった。いわゆる「無」である。
IMG_2184IMG_2183IMG_2188<ある日、外出自粛の世情のなか、多摩川の近くの高台の浅間神社に寄ってみた。人影は少なく、疫病退散を祈願するひとであろうか、足早に境内にに向かう一人の中年男性が参拝への階段を上がるのを見た。階段下には、祝詞を書き記した祈願回転装置が回っていた。>
  自分は、「ローソクの科学」(ファラデー)を読み、唯物論を理解していた。しかし、科学は物事が変化する過程を分析するが、なぜそのような存在物が状況によって、他の物質に変化できるのか、については、答えがない。つまり、ローソクはただの蝋と糸であるが、なぜ条件によって、炎を出でるのか、また、条件によって燃えカスに姿を変えられるのか。それが可能な条件は、これと言った定まった現象像を持たない「無」という存在があれば、可能なのだと、気付いたのである。

さびしく孤独なソーシャルデスタンス(1)花々の弁証法

IMG_2418IMG_2421<ガザニア、鶏頭、シレネ・カロリニアナ、カーネーションなど、ベランダでいろいろな花が咲いて、蝶や小鳥がたくさんやってきます。花がならんで三蜜がありますから。4月3日。>
  不要不急の用事で外にでるなと、監視社会がはじまりました。仕方がなくホームセンターで、ベランダ用にプランターと花を買って、並べて置きました。
IMG_2427_1<マスクをして出ないと、他人の視線を浴びますから、していきました。帰ったら、マスクは型崩れがしていないので、ベランダに干して、日光赤外線消毒をしてまた使います。>
  それにしても、デスタンスと言えば、吉田一穂でしょう。
                 ☆
  母  (吉田一穂)

  あゝ麗はしい距離〔デスタンス〕、
  つねに遠のいてゆく風景……

  悲しみの彼方、母への、
   捜り打つ夜半の最弱音〔ピアニツシモ〕。
                 ☆
 ロマンチックなデスタンスが日常用語なってしまいました。いつも時代が言葉のニュアンスを変えるのです。
 時代は時の流れです。そこに、同一律はあり得ません、論理学で矛盾律,排中律とともに三大原理と呼ばれるものの一つ。〈自同律〉,〈同一原理〉ともいい,英語ではlaw of identity。この原理は,主語と述語の関係を基軸にした伝統的論理学では〈AはAである〉と定式化され,自明な命題の代表例。
IMG_2327IMG_2324<このガザニアは、4月19日のもの、15日前に咲いていたいたのとは、別の花が交代で咲いている。>
  この世には時間が止まらない限り、AはAであるという同一律とか、自同律は体験しえないのです。埴谷雄高は、その錯覚を不快と感じたようです(自同律の不快)。ヘーゲルの説いた弁証法の法則は、花の芽の時期に次の変化で、蕾になるための変化が内包されており、その蕾には花になる変化が内包されている。芽のままで存在することがない。このことから、すでに神という存在は、何をするものかを、問いかけているのです。

埴谷雄高「洞窟」&伊藤桂一「形と影」の自己存在観(7・完)伊藤昭一4

 埴谷雄高の人生は、結核にかかって変化した。「結核の最大の収穫はニヒリズムです。結核が、どうしても死を考えさせるわけですね。その先は何か。少年時代は非常に簡単に結論を出してしまうんです、とにかく無ですね。何をしてもしょうがないじゃないかと思い、注射を打ちに行くといって映画を観に行ったりする。」(「埴谷雄高 生命・宇宙・人類」、角川春樹事務所)。

 『そしてスティルネルの「唯一者とその所有」に出会った。これが思想的な影響としては決定的ですね。スティネルの「エゴイスト」は普通のエゴイストと意味が全然違って、「創造的虚無」というのかな、虚無の中に浮いているエゴであって、この「唯一者」のエゴを、国家も宗教も人類も理想も、あらゆるものが支配できない。という考え方ですね。それが結核のぼくにぴったり入ってきて重なってしまった』(同書)。ニヒリズムから、スティルネル的アナーキズムへ移行したという。

 自らの学生時代をこう語る。
「そのころの学校は、60年安保時代と似ていて、非常の左翼的です。しかもぼくが入った日大は、方々の高等学校を追い出された左翼がたくさんいた。このような環境ですから、クラスの中でマルキシズムの研究会をやっているんです」(同書)
 そこで誘われてマルクス主義思想に関心をもった。
――スティルネルにとっての幽霊の最大なるものは国家で、ぼくの中にもその意識がたえずありました。ところが研究会でレーニンを読むと、アナーキストは国家そのものを即座に解体してしまうが、われわれは国家がなくなるまでの間に過渡期の国家を持つ、と言っている。で、本当に過渡期の国家というものはあり得るのかと思って、ぼくは珍しく勉強を始めた。その時に、レーニンの『国家と革命』のタイトルを引っ繰り返して『革命と国家』という論文を書きました。これはプルードンの『貧困の哲学』がマルクスの『哲学の貧困』になったのとちょっと似た関係ですけど。レーニンはうまいこと言ってるんですよ。『国歌と革命』のいっとうしまいに、「あと党の大会を二回ほどやれば国家は死滅する。われわれの孫は死滅した国家をみるだろう」と言っている。その論証の仕方は非常に精密で、思索は飛躍的に奔放で、しかも説得的なんですね。――(同書)。

 埴谷雄高は、その理論に打ち負かされて、マルクス主義思想に傾倒することになった。思索の世界の論理的合理性から、現実の政治活動の現場に赴いたのである。しかし、私はマルクスやレーニンの国家死滅説(眠り込むともいう)というものは、いわゆる夢、ロマンとしてのユートピア説の域を出ていないのではないか、と思う。

 夢はいつか叶う可能性がある。しかし、それはいつのことかはわからない。社会の変革には時間のかかるものと、早いものとの二種類がある。変革が実現しない段階でのビジョンはロマンである。宗教でいえば仏陀やキリストの思想は、当初はともかく、男女平等と階級差別を否定した。しかし、インドのカースト制やその他の国々の男女差別、人種差別はまだ存在する。それでも、そのビジョン向けた変革は続くであろう。

 これと同じに、国家の死滅というビジョンは、ひとつのロマンの段階である。そういう意味で、埴谷雄高はロマンチストであった。マルクスの国家死滅ビジョンは、もともと、羊を連れて国境を越える遊牧民の伝統を背負った思想の反映のような気がしないでもない。マルクス主義は遊牧民の神ヤハウェを源流とするキリスト教と表裏一体の思想をもっているようだ。

 いずれにしても、人間の社会的関係のもとは、人間の自己中心的本質をどう制度的にどう調整するかというところにある。そこに、人間の意識転換の必要性を予感した時に、埴谷雄高は「AはAである」「俺は俺である」という発想に人間社会の限界性を観たのではないか。そこに「自同律の不快」を感じたと読むことができる。そのことによって、小説「死霊」では、人間思弁の限界から脱出し、同時に自己存在観をニヒリズムから脱出させようと試みたように思える。(完)

埴谷雄高「洞窟」&伊藤桂一「形と影」の自己存在観(6)4

 埴谷雄高の作品で「『死霊』をのぞく全文学作品を集めた」と吉本隆明が解説する短編小説集「虚空」(現代思潮社)の奥付には、1960年11月25日初版、1980年1月31日第24刷発行とある。今の時世では信じられないロングセラーとなっている。あとがきで埴谷雄高は、「最初の『洞窟』は戦前の同人誌にのせた古い作品でいまは絶版になった月曜書房刊行の「不合理ゆえに吾信ず」のなかにすでに収められていたものである。』と記している。

 吉本隆明は、現代思潮社「洞窟」の解説で「埴谷雄高の『死霊』をのぞいた中編・短編小説は、あらまし二つの系列にわけることができる。ひとつは、いわば意識の純粋経験ともいうべきもので、『洞窟』『意識』『標的者』などの作品がこの系列にぞくしている。もうひとつは『深淵』『標的者』のように政治思想を展開した作品である。」とする。

 さらに「このいずれの作品も、原体験となっているのは独房生活であり、それにつづく十五年戦争期の、もっとも優れた自殺の方法はじぶんが生まれてきたはずがないと確くおもいこむことだという現実体験にほかならない。日本のマルクス主義思想が、全現実を喪失し、一点にとじこめられたひとりの人間の意識内におかれたとき、それはどのような方法をあみだしたか。
 埴谷雄高のばあいひとつは、無限に想像世界を領有しようとする意識の実験に向った。『洞窟』では、壁に肩をつけると、左肩だけが急速度に冷えてゆき、その冷えが意識内部の凍ってゆくような冷えとかさなり、そのあいだじゅう熱病に冒されたような状態で本質的な不快感、存在がただ存在していることのために感ずる不快感を体験することからはじまっている。」と解説している。

 「洞窟」という短編は、吉本隆明の解説にある部分に続いて、想念をつぎのように表現する。
「《壁のせいかな。いや、奇妙なことだ。》と彼は秘かに呟くのであった。《こいつが俺の思索をとめてしまった。――まあ、俺はそういいたいのだろう。ふむ、待て待て。自分でもしかといえぬ考え――いおうとしていい得なかったことども。こいつを俺はいつからひき摺っているのか。あっは、このろくでなし奴!》」

 「あっは」という間投詞はすでにここに使用されている。だいたいにおいて、人間の抽象概念への思索というのは、どれほどの時間継続されるものなのか。その限界以上にこの主人公は思索をしつづけようとしているのではないか、という疑問を感じるところでもある。

 そのあと、作中の「俺」は、隣の14、5歳の少女とぎこちない出会いをする。その少女が井戸端で唄を低い声で唄っているのを聞くと屈辱を感じる。
「《何て恥知らずな執拗な意志だろう。俺は思いき切り恥知らずなことがやってみたくなったぞ。ぷふい、行きどまりの迷小路につきあたって反省してみるということを知らないこの力に、思い切り頬うちを食わしてみたいのだ!》」

 こうして読むと、思索の過程において、なんら前進や展開の見通しがつかないときに、間投詞の「あっは」や「ぷふい」が飛び出すようだ。そうして、「俺」の存在観の記憶は子供の頃に高見の場所から飛び降りて、足が折れた時の幸福感にあるという話になる。その痛みこそ自己存在の確信を与えたからなのだろうか。

 「自同律の不快」について、ほかでも埴谷雄高はこう語っている。
「『死霊』にも『不合理ゆえに吾信ず』にも出てきますが、自同律の不快ということがぼくの考えの底から離れないからです。これが、ぼくの根本問題ですね。思惟の前提がぼくにとって疑わしく、不快なので、どうしてもぼくの考え方は一種存在論的にならざるをえない。ぼくは『死霊』の解説みたいなことをせざるを得ないときは、必ず社会と存在に並べて、自身に向きあう自身、自分の中の自分といったようなことを持ち出すのですが、ぼくにとって一番問題になるのは、その自身に向きあう自身、自分の中の自分ですね。それを説明すれば、自身になろうとしてなかなかなれない、しかも、なろうとする、その間の凹所、ぼく流の言葉でいうと、跨ぎこし得ざる深淵、をどう埋めるか、飛翔するかの仕事が小説という作業になる」(現代作家入門叢書「埴谷雄高」冬樹社)。これが埴谷雄高の創作の源であった。(つづく)

埴谷雄高「洞窟」&伊藤桂一「形と影」の自己存在観(5)4

(この章より、埴谷雄高「洞窟」の論評にはいるので掲題の作家・作品名の順を入れ替えています)先の伊藤桂一の作品「形と影」が、戦後間もなく「文藝首都」という同人誌を意識して描かれたものであるのに対し、埴谷雄高の「洞窟」は戦前の同人誌「構想」に昭和14年10月号と昭和15年1月号の2回にわたって発表されたものである。
111005 010
 埴谷雄高(1910〜1997)は、立花隆のインタビューに答えて自らの育ちをこう語っている。『ぼくは明治42年の12月に台湾の新竹(しんちく)という所で生まれました。この植民地での体験が、まず決定的ですね。親父が勤めていた製糖工場から台南へ出るトロッコに乗っている時、単線ですからトロッコを線路から下ろして、対向車が通るのを待つわけです。しかし時々坂があって危ない。そういう時に、「バカッ」とトロッコを押している台湾人を殴ったりする。子供ながら、人が人を殴っているのをみるのはいやですね。台湾人にとって日本人が横暴であるという幼い感覚です。年をとってからの反植民地理論じゃなしに、きわめて幼く、素朴なものですが、これが日本人嫌い、遠くひいては、生物嫌い、存在嫌いにまで飛躍する素地を植えつけたのですね。』(「埴谷雄高 生命・宇宙・人類」(角川春樹事務所)。

 埴谷雄高といえば小説『死霊』における「自同律の不快」という独自の感覚を表現したことは、よく知られている。これは「AはAである」つまり「俺は俺である」という認識するが、その先の認識が発展的にできないという意識のありかたが、「不快」であるということのようだ。これを埴谷雄高の台湾における経験が、人間の意識に含まれている差別感や傲慢さを嫌悪させるトラウマになっていたこと。また、当時は不治の病であった結核に罹病したことなどが、「自同律の不快」という思弁に向わせたのではないか、と思わせるのである。

 埴谷雄高の『死霊』は、「この世界にあり得ぬ永久運動の時計台」の存在を示し、「nowhere,nobodyの場所から」「虚妄と真実が混沌(こんとん)たる一つにからみあった狭い、しかも底知れぬ灰色の領域」から出発する」観念的な小説である。その作品のドストエフスキーの影響などは、すでに多くの評論や著者の解説に述べられている。

 ただ、その中に表現されている「あっは、俺は、俺達はそれを、存在の永劫の秘密をついに解き得ただろうか」「そうだ、ぷふい! 確かに解いたのだぜ」という、独特の表現は、同人誌「構想」に掲載された短編「洞窟」において採用さているのである。文芸評論家・沼野充義の評論によると、これは、ドイツ語の間投詞にあるものだそうである。

 「自同律の不快」という概念は、すでに小説の習作の時期において、意識に存在していたようだ。「自同律の不快」という意識は、わたしなりに解釈すると、人間は「俺は俺である」という認識の在り方しかないために、人間存在の限界がある。未来への展望がこの単一的な認識に縛られ、人間の社会形成力の限界があるのではないか、と考えていたのではないか。埴谷雄高は、人間の利己主義に基盤を置いて、共生的な社会の形を発展段階的に捉える社会主義思想に、このような形で自らの思想を展開したのではないかと思う。

 これはマルクス主義では、共産主義社会というものの具体的なビジョンは、その情況における人間の社会的意識によるので、その時代にならないと不明であるとしていることと、無関係でないと推測するのだ。(つづく)

伊藤桂一「形と影」&埴谷雄高「洞窟」の自己存在観(4)4

 そして『ある日、沖に船影が見えた。たぶんそれは戦争と戦争との合間の、僅かな平和を縫って過ぎるどこかの巡洋艦ででもあったのだろう。あるかなきかの島の先端に、これもあるかなきかの奇妙なものの翻るのを、偶然その船の望遠鏡が捉えた。』
 彼が生前に微かな希望をもって建てた旗を見つけて上陸した水兵は、『人間の住んだ形跡のある洞穴を発見するのにさしたる時間も要しなかった。そして、岩と岩の間にある砂地の、いまはもう白骨となっている彼の姿を見出すのにも―。』

 水兵たちは白骨となった彼を『島の王だ。そしてまたもっとも寂しい土民だ。主よ、名もなき孤独者の死に恵みを垂れたまえ。』と祈るが、すぐさま彼の存在に興味を失い、ボートにのって帰艦する。
 すると、12人であった上陸水兵がボートにはその時、13人に存在するのである。

『十三人?――そうだ、いちばんうしろにいた奴は、白い骨の下敷きになっていた影のようなものが、ひょっくり起き上って列のあとに続いたからである。』その影のようなものが呟く。
『――ああ、あそこにいる。あいつも乗せてやるんだった。
 声は海風に吹きちぎられて、誰の耳にも聴こえなかった。そして誰も気づかなかったが、遠ざかっていく黝い島の、その岩の間に微かな燐光を発しながら、骨ばかりの形が、じっとこちらを見送っていつまでも立っていたのである――。』

 ここには人間の尊厳を伴った自己存在観がある。それが、戦記作家・伊藤桂一の作品の独特のヒューマニズムの主張の根源となっているようだ。無名兵士を主人公にした戦争文学は国内外に多い。レマルク(1898〜1970)「西部戦線異常なし」、ノーマン・メイラー(1923〜2007)「裸者と死者」、大岡昇平(1909〜1988)に至るまで、どれも戦争に巻き込まれた人間の尊厳の喪失が描かれているのと対照的である。そこに流れるのは、自己存在への虚しさ、ニヒリズムである。

 ところが伊藤桂一の作品の戦記小説には、詩情が漂うものが多い。根底には、人間の尊厳を維持しつづける自己存在観がある。それが、ニヒリズムを寄せ付けない主張となっている。これをニヒリズムの克服というか、回避と受け取るかは、読者の判断に任されている。ただ、現代人の精神をおおっている個人の敗北意識と閉塞感。このニヒリズムに対する強い反発力がそこに存在する――。伊藤桂一「形と影」の項は、ここでひとまず終わる。(つづく)

伊藤桂一「形と影」&埴谷雄高「洞窟」の自己存在観(3)4

「形と影」の「形」では『自由意志よって、なんの苦痛も周囲への影響もなく、この煩わしい現世から忽然として消滅することができるという、万人の待望を満たすに違いないその魔法への魅力』を語っている。底流には、静かなる厭世思想がある。
 厭世思想は、時代の背景により内容が変化する。明治、大正には、時代の変化の節目にみられる遊民思想(夏目漱石の「虞美人草」「それから」など、時代の荒波の勝ち組であった富裕層の息子たちの反発の表現)、余計者、無用者(太宰治の作品を代表とする立身出世主義の時流からはずれた人たち)の系譜が詩人、小説家によって表現されている。

 伊藤桂一の「形」における厭世思想は、第二次世界大戦が敗戦で終わった日本の軍国主義社会からの逃避であったとも読める。
 それが次のパートの「影」では、その戦争体験が強く反映されている。ここには手堅い物語の構造がある。輸送船の乗員兵士であった男が、敵の潜水艦に撃沈され、無人島に流れ着き、救助を待つサバイバル生活を送るが、救いの船が現れることなく、そこで死す。男の孤独な精神の揺らぎが時間的な経過をもって描写されている。

 にもかかわらず、この作品を詩的な散文に感じさせるのは、随所に宇宙的な時間に漂う存在意識の反映が、ロマンを内包させているからであろう。それは無人島の描写の『人間がこの世に存在しまい前の、清潔な静けさが、じりじりと灼りついてくる熱帯の陽ざしの下に、ある無限の可能に息づきながら燃えていた』という表現にも読みとれる。ここにおいて、人間の存在感は地球上の微粒子のごとくである。そうした人間の孤島における男の存在感は次のようである。

『彼にも思い出すに足る過去があった筈だった。肉親もいた。妻子はなかったが、皮膚には微かな女の記憶い残されていた。幾人かの友もあった。知辺もいた。そして何の関係もないのに、日日懐かしく彼のめぐりをゆきかようていた人間の群集がいた。そうだ、あのすばらしい群集の価値についてさえ、もはやおれはそれを恋う能力さえ失ってしまっているようだ、と彼はしばしば思ったことである。彼は漠然と自分が発狂してしまっているのだとかんじていた』

 人間の存在価値が、家族、友人のほか、周囲の群衆のなかで暮すことにあるという思想が示されている。そうして、そういう社会関係を欲望しなくなったことを感じた男は、自ら精神の病の症状を疑う境地に入る。そこから自分の「影」が現れ、彼と分身との二人の生活がつづく。その世界はすでに死と生の境界であり、じつに清澄な詩的散文で語られる。彼が生きながら死の世界に足を踏み入れるまで「影」は付き添い、彼は全くの孤独をまぬがれていたのだ。(つづく)

伊藤桂一「形と影」&埴谷雄高「洞窟」の自己存在(2)4

 「形と影」は、「形」編と「影」編のふたつのパートからなる。「形」は、40歳近い貧しい男が、孤独な充足感をもって、ぼんやりとしているところで、窓ガラスに這うなめくじを眺めているうちに、なめくじが存在論を語るのを幻聴する話である。
 そこで、エイゼルというなめくじは、処世訓を披露する。「世はかくむなしければ自らを溶きて終らん」というものだ。まさに、なめくじが登場した理由がここにあり、じつにわかりやすい。

 自己存在を「溶けて消失する」というものとするのは、じつにおだやかな存在意識を表現している。このなめくじの溶けてしまうという特性を「幸いなことにぼくたちは、どうやら自分に限度が来ている、このあたりで無に帰るべきではないだろうか、という直感によって自分自身の所在を把握できたとき、思い思いの場処を選んで、そこで自らを溶解してしまうことができます。これはいわば非常に優れた自殺の方法なので……」とし、なめくじは、溶解死したのち生きたくなったら再生ができる存在であると述べる。ちょと、ユーモアさえ感じさせる。

 そして、なめくじが官能的ないきものであり、愛する人を溶解させ、自分の体内に取り込んで同一化するという話をする。「厭世観の緩衝作用としては、直接的には、官能のほかはなにも救いがないんじゃないか。一見相反しているようで、これが不可分な関係にあることは、情死の直前における性的なエネルギーの驚倒的な昇華を考えても理解していただけると思います。ぼくたちの場合もまた、官能それ自身のむなしさを、むなしさとして充分承知はしているのです」。いま読んでも、個人の存在が世界の広いところに溶け込むという、仏教的な思想に近い見解として納得させられる。

 前回の引用においても、「小説講座」の講師をしてきたのは、聴講者に「利用価値」があったからだ、と戦後の活動について独特のイロニーの含みをもたせているが、「形」を敗戦後に帰国してきた孤独の兵士の述懐として読んでも、そこに変わらぬイロニーが籠められている。兵士というのは、戦争がなければ次の戦いの準備をして待つ、というのが仕事なのであろう。その待つという時間に数々の思索と瞑想を重ねた結果の述懐として読むと、社会的な動向や歴史的な環境から分離させ、時代を超えた死生観に従う、冷静な自己存在観が示されている。
 
 「形」は、彼がそうした幻想を視たあと、こう締めくくっている。「彼はさびしい充足感のなかで、一刻自分の幻聴を愛していた。彼が念願していたことは、つまりなめくじに対する親愛の第一段は自由意志よって、なんの苦痛も周囲への影響もなく、この煩わしい現世から忽然として消滅することができるという、万人の待望を満たすに違いないその魔法への魅力だったのである」。この辺は、詩的というより、小説的な感覚によるわかりやすさを重視したまとめになっている。

 たしかにこうした発想は、戦後の日本人の多くが持っていたであろう厭戦的平和思想を代表するのであったであろうと推測する。自己存在の意識という、抽象的な概念について非常に具象的にわかりやすく表現するところに伊藤桂一文学の基本があるようだ。

 しかし、それではまるで抽象的な概念の世界に関心がないのかというと、そうでもないようだ。いつどこであったか、忘れたが、(おそらく小説の講義のなかだとおもう)「詩の世界に没入するとだね、なんというか深い透明な感覚に入ることがある。ぼくは、なんとなく、危険なものを感じて入りこまないことがあるのだがね」という意味のことを語っているのを記憶している。したがって、具象的な作風は意識的なものであると思う。(つづく)

伊藤桂一「形と影」&埴谷雄高「洞窟」の自己存在(1)4

 人間は道具を作る存在であるが故に、自然の存在物や自己存在に関し、目的意識があることを前提に考えやすい。しかし、人間は道具が作られるように、なにかあらかじめ目的があって生まれたのではない。もちろん、生まれてから目的を説くことは可能である。宗教者が、人間が神の御心によって生まれたと説いたところで、何の不思議もない。
 そこで、自分はどのような存在であるか、という自己存在観の表現の事例として、伊藤桂一「形と影」、埴谷雄高「洞窟」という二つの対照的な表現法と自己存在観を比較し、その特徴を明らかにしてみたいと考えた。そのことで「私はどこから生まれどこに行くのか?」という自己存在観を考察するヒントになるかも知れない。(対象作家の敬称を省略します)
 先に述べたように人間は存在目的なく生まれた存在であるから、その自己存在観は人さまざまである。伊藤桂一(1917年〜2016)の作品「形と影」(鳥影社「季刊文科」46号に再掲載)は、そうした自己存在観を詩的に表現している。

 作者はこの作品について、『戦後、文学勉強の再開をはじめてから間もなくの作品で、詩的小説というか、むしろ現代詩の小説表現といったほうがよいような作品ですが、これは私が、戦後の仕事の中心を戦記執筆にしなければという生き残りの責任感もあって、文体の習熟を一段と心掛けねばならなかったからです』(前掲書)と記している(余談だが、文体の習熟には詩的表現の散文化を試みることが効果的であると考える「詩人回廊」の編集精神と重なっている)。
 さらに『私は、詩、小説、短歌等を、戦前満5年間保高徳蔵氏の「文藝首都」という同人誌の中の「投書欄」で勉強しました。この時の功罪は、文芸のあらゆることに基本的に習熟したこと、同じに一方で、手当たり次第に何でも書くという職人的技術にも習熟をかなり重ねていたことでした。簡単にいいますと、文芸一般のすべてに傾倒していて、「形と影」はそのうちのもっともユニークな、ほとんど現代詩の発想と文体でまとめているような作品です』(前掲書)とする。

 ここで、同人誌で勉強し、文芸表現に習熟したことについて「功罪」と表現していることに注目しよう。私は、ここに伊藤桂一という作家が太平洋戦争における「戦記物」を書くことが、使命であり、他の時代小説などを書きこなしていたことは、必ずしも本意によるものでない、という発想があるのではないかと読む。それは次の件でも読みとれる。

『ただ、文学勉強の中心は、現代詩に置いて来ました。文法論として便宜であったからです。私は長く「小説講座」の講師をつとめて来ましたが、聴講者の方たちにとって「利用価値」があったからだと思います。
 戦記は、文体の格調を高くする必要がありましたが、「影」のような作品では通用しませんので、戦記のための文体と処理の方法を考えました。戦記の読者はほとんど戦中世代の人たちばかりでしたから。格調を持し、表現は充分に平易であることを必要とします。そのためには、戦前の「文藝首都」での投書家としての基調勉強が、のちのち大きく役立ってくれました。「形と影」は同じ時期に書きましたので、発想の次元は同じです。』(前掲書)

 このことによって、作家・伊藤桂一は、元来「現代詩」に打ち込んでいたこと。本質は詩人であること。文章における文法論を強く意識していること(これは、日本語の教科書の文法ではない。表現における法則であろう。現在は、表現について法則があることを意識する人は少ないが……)がわかるのである。そして、この作品が命の保障のない危険地帯「戦場」から帰って間もなくの時期であることを記憶しておく必要がある。(つづく)
QRコード
QRコード
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

「詩人回廊」は文芸同志会員がつくる自己専用庭でできています。連絡所=〒146−0093大田区矢口3−28−8ー729号、文芸同志会・北一郎。★郵便振替口座=00190−5-14856★ 
Archives
  • ライブドアブログ