「詩人回廊」

日本の短編小説は特殊で、外国の定義にあてはまらない。韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説の制作へ移してしまった。明治以降われわれが短編の傑作と呼んでいるものは、多くは物語的構成をほのかにもった散文詩であるーーと三島由紀夫が「美の襲撃」で述べています。文芸同志会は「詩人回廊」に詩の素をもつ寸編小説のジャンルをつくりました。(編集人・伊藤昭一)(連載を続けて読むには、右サイドCategoriesの筆者の庭をクリックします)想いをここに掲載してみませんか。

伊藤昭一の庭番小屋

さすらいの生活とニヒリズム4

newsimg1202六郷川(東京・大田区)の水際に青いテントの家が並ぶ。普通はホームレスと称するが、ここは門があり道がある。すると、これはホームではないか。高くそびえて見えるマンションは対岸の川崎市にあるものだ。ただ、ここに手紙が届くことはないであろうと、勝手に想像する。カシャ、カシャと音が聞こえた。奥でアルミ缶をつぶす作業をしているのだ。
 この「さすらい」と「定住」の不安定な構図の風景には心を打たれるものがある。昭和初期にアナーキストたちの支持を受けた詩人・秋山清(1904〜1988)は評論「さすらいの思想」(1972年)で次のように述べている。
 「法律と道徳は双輪の役目をなして、国家権力の下に民衆の生活の自由を掣肘する絆である。さすらいの生活とそれを支えるニヒリズムは、その絆から自分を解き放そうとする思いを持ち続ける。さすらい即アウトローとすることはあるいは短絡すぎるだろうが、アウトロー的な放浪生活というものには、その方向として、脱出しようもない現実の法的人間関係の規範からの逃亡と反抗を秘めた情緒がある」(現代詩文庫1046「秋山清詩集」思潮社)。
    『短日やかせぐに追ひつく貧乏神    一茶』
冬草の六郷川(3)=手作りのリバーサイド・ハウス

虹の森に眠狂四郎の如く塔は立つ4

100217 019都会の喧騒のまだ始まらぬ朝。雪景色の池上本門寺の森に、白い衣装をまとった五重の塔が立つ。
 かすかに読経の響く静寂のなか、カラスが斑雪の参道に黒い影を落とし、飛び交う。一服の掛け軸、墨絵の世界がここ出現した。

111231 018  昭和44年、池上本門寺では、不出世の名優・市川雷蔵の葬儀が盛大に行われた。まるで、その 当り役映画「眠狂四郎」が円月殺法の刃を陽光に煌めかすが如く、500年の歴史を背後に五重の塔は佇立している。


110902 005眠狂四郎は、虚無の刃にて人々の心の中に生きた。虚無の強さが人々を畏怖させる。それは、たしかに実在するように思えるが、ここに長くはとどまらない。虹に閃く円月殺法を視たとして、それを誰に伝えよう。もちろん伝えるべき友はいない。そして再び空を仰げば、虹の詩神は去って空虚な夕空になっているのだ。
眠狂四郎の如く、塔は立つ=東京・池上本門寺

多摩川河川敷ホームレスと都鳥4

81d7df54.jpg厳しい寒さの日。東京・大田区の鵜の木付近の多摩川に出てみた。このあたりの河川敷は整備したグラウンドがあって、ホームレスの居つく余地がない。しかし、対岸の川崎市の河川敷には、ホームレス小屋が点在している。
 そこで、ひとつの人影が水辺に下りてきた。その途端、水鳥の白い乱舞がはじまった。男が昼食を余して、餌にして投げたのであろうか。見ごたえのある光景を生み出していた。舞うのは雅名で都鳥のユリカモメ。実に風流である。
 洪自誠の「菜根談」(角川文庫・魚返善雄訳)には「欲を捨て捨て、草木の世話をし、いっさいソックリ“無”に返す。忘れられないことも忘れて、酒をくれる人がなくても平気」とある。つきまとう洪水のリスクを凌(しの)げば、多摩川下流生活も下流どころか優雅で自由な精神に似る。
 おまけに、土地の権利や賃借関係、税金などを問えば、きっと「そんなの関係ねえ」とでもいうのであろう。与党の国会議員とタッグを組んで国民から血税を召し上げる悪代官のような官僚も、河川敷のアナーキーな人々までは思うようにできないように見える。
優雅で自由な一風景。多摩川河川敷ホームレスと都鳥(08年02月02日)

冬草の六郷川より  伊藤昭一4

六郷 これは2006年12月の風景である。わたしは、こう記している。
スーパー堤防もできた六郷川の岸辺、堤防内のサイクリングロード。上流に多摩川大橋が見える。(撮影:伊藤昭一、29日) 多摩川流域は、昔から洪水の歴史をもつ。太古から見ると、洪水のたびに蛇行を強め、河筋の位置が変わってきたという。予測を超える大洪水に対応して堤防の高さの30倍の幅を持つスーパー堤防が、すでに多摩川大橋・下流地域の西六郷(東京・大田区)に出来ている。以前は巨大すぎるプロジェクトに思えたが、近年の異常気象を見ると、そうでもないように思える。こうした冬草のなかの平和な風景をいつまでも持ち続けたいと思う。
『青空に寒風おのれはためけり    中村草田男』
            ☆
そして2011・3・11東日本大震災に襲われて、過剰護岸対策といわれていたスーパー堤防が再認識されてきた。地球の活動に悪意はない。人類は、大量の犠牲者を出すことで、生き残った人々が自然への脅威から逃れる手段を考えてきた。文明の方向は生き残った人々が決める。その根底には、人間といえども自然に従属せざる得ないと考えるか、自然から自立した自由な存在とするか、それは生き残った人々が決めていく。

文芸の友と生活(20)    伊藤昭一4

 川合氏の記録では、しばらく印刷所でのサラリーマン生活のことが話題にされている。中小企業の会社をつくったり、つぶしたりすることが行われるようなったということは、経済が敗戦後の混乱期から立直る社会情勢にあったのであろう。
 ちょうど1960(昭和35)年6月に朝鮮戦争勃発。7月に金閣寺全焼。12月には、第二次池田勇人内閣が成立し、閣議で所得倍増計画を発表している。現在、中国共産党がこの時代の日本の経済政策を参考にしているという話も出る世界情勢でもある。
 文芸本では、石坂洋次郎「石中先生行状記」、ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」(伊藤整訳)、東大出版部「きけわだつみのこえ」が売れていた。
 わたしは晩年の65歳を過ぎた頃の川合氏に、受給している公的な年金はいくらほどかを訊いたことがある。その時に「本来なら国民年金のみだと74万円程度であるが、会社勤めの時代の厚生年金がそれに加算されて84万円ぐらいですよ」と教えてくれたものだ。
 その時点で、エコープリントの事業経営が、下り坂になっているのを知っていたので訊いたのである。ただ、川合氏の母親は、息子の将来を考えたのであろう、自宅を4室に分割して、そのうちの三室を貸家にしていたので、生活費に不足することはなかったのである。
         ☆
 (承前)<川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から>
 帰宅して母親に話をすると、他人様にお金をだしてもらうなんて、と賛成しない。
「それより、今の会社がつぶれないようにせいぜいお働きなさい」
 怒られてしまった。
「恭市が入院したのよ」
 弟の恭市は大学を中退して、父親の昔の部下がやっている熱海の会社に就職した。職種は圧力ポンプの製造である。現地の寮に入って、ときどき週末に帰ってくる。
 今週あまりにも身体が怠いので、熱海の病院で診てもらったところ、腎臓がかなり悪化しているという診断であった。
 帰京して、すぐ聖露迦病院に入院したが予断を許さぬ病状だそうだ。
「ぼくも見舞いに行こうか」
「これから私達みなで行くからあなたは、留守番しなさい」
 と取り付くしまもない。

 弟は一週間後に急死した。
 清二は近くの写真館に霊前用の写真の引き伸ばしを頼みにいった。 顔見知りの親父さんは、
「弟さんは、交通事故ですか」
 と訊いた。
 弟が死んで、心のよりどころが無くなった感じの母親はしばらく勤めも休んでぼんやりしていた。
 妹はもうそのころは結婚していて、主人の勤め先の茨城県のほうに住んでいた。
「死んだものはしょうがないよ。寿命だったんだね」
 とさばさばしたものだった。
 弟は身長百七十二センチ、清二と違って長身で父親に似て端正な顔立ちであった。火葬場では弟と同年齢の女の子が何人か涙をためながら骨を拾っていたのを清二は眼にした。
        ☆

文芸の友と生活(19)    伊藤昭一4

          ☆
 ミステリー作家志望の川合氏であったが、その志とは別に、しばらく印刷会社でサラリーマン生活を行い、やがて友人の誘いで会社経営に乗り出す。その後、四十数年間にわたりエコープリント株式会社を経営するのだが、それに至る過程が次に記されている。この間、わたしと川合氏は、若杉婦人の主宰する天の会に所属していながら顔見知りにはなったが、それほど親しくはしていなかった。そのため、川合氏が事業経営に乗り出すいきさつについては、この自伝によって知るのみである。
 川合氏とわたしが懇意になったのは、一九六〇(昭和三十五)年以降だと思う。この時期には、わたし達一家七人家族は(両親と五人の兄弟姉妹)大森海岸の端から川合氏の住む蓮沼の隣町の池上に引っ越してきたため、往き来がしやすくなっていた。その頃は、わたしは父親が東京湾埋め立てによる兼業漁業を廃業する後始末を手伝っていて、高校を卒業しても就職をしていなかった。それも一段落して、蒲田に近い町工場に職をみつけていた。
          ☆
(承前)<川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から>
「川合さん、会社の言いなりになんかならないでよ。会社が赤字だとしたら、それは私たちが怠けているからじゃなくて、営業の人間がやたらに無理な仕事を安く、出血受注してくるからだからね」
 タイピストたちは息まく。
 自分には人事管理の能力なんてないのだと投げ出したかった。
 校正の助手につけてくれた女の子と、昼休みに近所の喫茶店にいくと、
「川合さんは最近入った背の高い美人の鶴間さんばかり見ている」
 と、見当ちがいの文句をいわれる。
 清二がそっちばかり見ているのは、鶴間さんが仕事の手をおろそかにして、周りの人間と話したがるのが、気になって仕方がないからだ。しかし、はっきり言えばいったで会社の目付役のように思われるのも、不本意であった。
 三年目に入ると、柏鵬社があと一年しかもたないという噂がながれた。
 涌井さんに確かめると、
「たしかに危ない。一年以内に倒産するか、それを乗り切ってもう一段大きな会社になるか、可能性は半々だね」
 つづけて他人事のようにいう。
「やはり共同経営はうまくいかないよ」

 神保町にラドリオという古い喫茶店がある。シャンソンが好きなママさんが沢山のレコードを集めていた。清二はここに来ると、しばらく無沙汰している愛先生を思い出した。
 沈没船から逃げ出そうとする鼠のように、柏鵬社のだれかれが屯している店だった。営業マンになっていた内山謄写学院長の弟の則彦さんは、友達と別な会社を作る予定だという。
「中澤さんのやり方は拙いよ。わたしならあんな無計画な拡張はやらないな」
 則彦さんは未来への展望に自信ありげである。
 ガリ版やトレース、図面の版下の仕事を得意にしている福島さんは、俺もやってみたいが金がないからなとぼやいた。
 そこで、よせばよいのに清二がじつは、と深田苗二氏の提案した話をした。
「ほう、川合君にそんな良いスポンサーがいるのなら、そのひとに資本家になってもらおうじゃないの。紹介してよ」
「でも、ぼくは会社やるより小説を書きたいんだ」
 清二が自分の夢を語ると、
「ちょうどいい。おれが社長になって、川合君は重役で気楽に好きな小説を書く。これで決まった。いつその深田氏にあわせてくれるかね。早いほうがいいな」
 福島さんは大乗り気でいう。
 彼は郷里で学校の教師をしていたが、組合運動でいづらくなり辞めたという経歴の持ち主だと聞いていた。正義感とそれに伴う挫折を経験している。
「でも、もし深田さんが僕がやるのでなければ出せないといったら、どうしよう」
「だいじょうぶ。もしそうなったら、川合君を名前だけの社長にしてやるよ」
 福島さんは事もなげにいう。
 タイピストも数人集まって、みんながてんでに会社はじめるんじゃあ、わたしたちの就職は選り取り見どりね、と騒いだ。

文芸の友と生活(18)    伊藤昭一4

 川合氏は、同人誌「天」の同人で串間順という女性が『婦人公論』の女流新人賞を受賞したことを記しているが、この女性は二、三年前に別の筆名で長編の大きなミステリー賞を受賞し、世間に再登場している。
 わたしは、滅多に「天」会の会合には参加しなかった。若杉大作氏の指導する小説の研究会にもでなかった。たまたま出席した会合で、顔を合わせた記憶がある。可愛いというより、ちょっと当時の若い女性の感じからは遊離したような、女っぽい雰囲気をもち、ハムスターを連れて遊びながら会話に加わっていた人がそうであったように思う。
 また『新潮』と『小説新潮』の新人賞を二ついちどに取り、仲間を驚かせたという山田光子氏とは、川合氏との交流のなかで顔を合わせている。可愛さもありなかなかの美形である。その後も雑誌「新潮」に短編を発表していて、それらを読んだ記憶がある。
 川合氏が作家修業をせずに、「清二はそうした人々の活躍を文字通り指を喰わえてみていた」と述懐しているのは、この時期にかれが中小企業のサラリーマンから、自分が事業者になるという、生活上の大転換があったからのようだ。
           ☆
(承前)<川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から>
 昭和三十年代に戻る。
 清二の籍をおく新会社の名は、柏鵬社といった。大相撲で柏戸と大鵬が東西の横綱であった時代で、時流に乗った名前をつけたわけである。
 社長は中澤さんで、涌井さんは専務に納まった。
 毎年、倍ばいに従業員が増え、外部のものには急成長の景気のよい会社と思われていたが、内情は火の車であった。
 和文タイピストは全部女性だが、半年から一年にいちどは、ほぼ全員が入れ替わった。給料の問題や働き心地といった面もあるが、一口にいって落ち着かない会社であったのが原因であろう。
 社長も専務も年中ひそひそと私語かわし、各セクションの責任者と会議を開き、社内をうろうろしてはみんなの仕事ぶりを覗きこんだ。
 夕方になると、得意先の人間が顔をだして、社長や専務と飲みにでかける。
 ある程度はどこの会社でも見かける風景だがあまりにもありすぎる会社だった。
 あげくは一日を時間ごとに区分けして、レポートを出せという。労働日報のようなものだった。タイピストがこれに反発してストをするとか辞めるとかいう騒ぎにもなった。
 そのころ、タイプ、校正部門の責任者にされていた清二も社長に呼ばれ、
「これだけ忙しく仕事しても赤字だというのはおかしいので、どこに無駄があるのか、調べるためです。協力してください」
 清二は会社と和文タイピスト連中との間の板ばさみで頭が痛かった。それこそ、小説を書くどころではなかった。

文芸の友と生活(17)    伊藤昭一4

 当時、文芸同人誌「天」の会の活動は、活発であった。川合氏も活動に最も力を入れていた時期でもあったろう。そのなかで、わたしは誌的散文を若杉夫人に読んでもらっていたが、作家志望ではなかったので、川合氏たちの活動に加わっていなかった。そのため、以下に記されているようなことは、まったく知らないのであった。
          ☆
(承前)<川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から>
 メンバーには普通のサラリーマンよりも、呉服やとか板前さん、染色デザイナーなど、多種多様な職業のひとたちがいるのが目立った。
 最初の目的である、小説を書くための勉強の場というより、ともだち付合いを多様化するためのサークル活動の場になってきてしまったのが、清二には残念だった。しかし、けっきょく清二ののちの人生を左右する深田苗二氏に出会ったのも、天の会がサークル活動的な会であったからだ。
 製本業を学生時代から始めていたという深田氏は、いつも天の会の中では浮きぎみな存在であった。
 たいていはお伴のような人間を従えて、自家用車で行き帰りしていた。
 名刺の裏に関係している会社の名前がずらりと並んでいる。全部社長とか重役、あるいは顧問という肩書で、それだけで天の会では異色であった。
 たまたま会合の二次会で隣あわせたとき、清二に話しかけてきて、「川合君は、からだが悪いのだから他人の会社に勤めていると、大変だろう。私が資本をだしてあげるから、自分で印刷業を始めてはどうだい」
 と、言ってくれた。
「ありがとうございます」
 その場は聞き流していたのだが、あとでこの言葉が生きてくることになろうとは、清二自身も考えてもみなかったことだ。
 天の会の会員のあいだでは、深田氏の評価は最低で、
「金持ち面して鼻もちならない野郎だ」
「あいつは女性会員目当ての不純な会員だ」
 などと、糞みそにかげ口を言われた。
「そんなに悪いひとではないよ」
 清二のかばう言葉も、つい弱わ弱わしくなる。
 後年、二回にわたって芥川賞候補になった山田光子も正月の新年会に振袖姿で現れて、目一杯モテていた。
 彼女の初めて書いた作文も、後年の活躍を予感させるものではなかった。清二が会社を自営して代表になり、責任上からも、当分筆を折らなければならなくなった間に、若杉先生宅では小説の研究会が開かれるようになり、急激に上達したという。
 昭和四十年代に入って、かのじょはとつぜん『新潮』と『小説新潮』の新人賞を二ついちどに取り、仲間を驚かせた。
 後年、活躍した女性が天の会にはもう一人いた。
 串間順である。『婦人公論』の女流新人賞を受賞した後、村上龍が《限りなく透明に近いブルー》で『群像』の新人賞を取ったとき、次席に入った。彼女自身の言葉では、悪いときに候補になりましたね、普段なら楽にあなたがとれたものを、と編集部員に言われたそうである。
 清二はそうした人々の活躍を文字通り指を喰わえてみていた。
           ☆
 川合氏とわたしが知り合ったのは、「天の会」の若杉会長が、「あなたは大田区に住んでいるのでしょう。蒲田に川合さんと言うミステリーを書く会員がいるの。入会の時に、わたしの家がわからないと石神井公園駅から電話をかけてきたの。近くのバスの停留所で待っていてもらえって迎えに行ったら、ぽつんと停留所に立っていたのよ。カリエスの後遺症で小柄なの」と言われたのである。相当の書き手だという話をきいていた。
 その頃のわたしは、まだ大森の森ヶ崎の海岸土手下の家に住んでいた。それが、やがて川合氏の住まいのある池上線の蓮沼駅の隣の池上駅の近くに一家で転居することになった。そこは、偶然に川合氏の家から歩いて十分ほどのところであった。

文芸の友と生活(16)    伊藤昭一4

 この時期、川合氏とわたしは文芸同人誌“無名人の雑誌”「天」を発行する文芸同人誌に所属していながら、直接顔を合わすことがなかった。理由のひとつにはその規模の大きさにあったようだ。
 「天」の会では、本誌「天」を毎月発行していたが、会員の提出原稿がそこに掲載できないほど集まり、それと別に「素顔」という雑誌も不定期に発行していた。
 たとえば、昭和三十二(一九五七)年四月に天の会が発行した「素顔」第二号には、若杉夫人が「第一集の同人名簿をみると、八十三名とありますが、現在は百五十名を突破し、会員外の読者を加えると二百名は軽く超えるでしょう」という言葉が記されている。
 ちなみに「素顔」という雑誌タイトルの発案者は川合氏である。その理由として、「人間は仮面をつけて社会生活を送っており、素顔になる場をここにつくろう」という主旨だと当誌のコラムにある。社会生活に馴染んだばかりの川合氏の率直な意見であったようだ。
 ある資料では、「天」の会は、会員総数二百五十人を超え、埼玉支部、城北支部などが設立され、会員の中で作家志望者たちが集まって不定期誌「TAKU」が発行されている。最盛期の新年総会で、上野池之端会館を会場にした年は、わたしも参加した記憶がある。広い宴会場は全国各地より参集した和装、洋装の老若男女で、熱気につつまれていたように思う。
 若杉夫人はわたしにとっても、文学的教養の師であり、第二の母であった。
 一九七〇年(大阪万博開催の年)にわたしは結婚をしたが、若杉夫妻に披露宴でのお仲人をしてもらっている。万博の取材を兼ねて、家内を連れて大阪に行ったものだ。「天」の会に関しては、それ以前から、わたしは川合氏がしていたようには、会合に参加していなかった。休日の自分の都合のよいときに独りで、石神井公園近くの若杉家に訪れていた。
 若杉夫人は個人的にわたしの作風を指導してくれた。そのため、川合氏などのほかの会員より、若杉夫妻の生活ぶりについて知ることが多いと思う。若杉夫人は帰り際に、よく新聞紙に包んだ重みのあるものをコートのポケットに無理やり押し込んでくれた。
 中味はたいてい蒸かしたジャガイモか、サツマイモであった。それに台所にあった味付け塩の小瓶がついている。これがコートのポケットにあると、歩くたびに脚に当り具合が悪いのを覚えている。社会人となって収入のあったわたしには、かなり迷惑なことではあった。しかし、それを想い起こすと、いまでも若杉夫人の慈悲の心に涙ぐみそうになる。
 若杉夫人は、着物姿がよく似合った。顎が細く乙女時代は竹久夢二の描くような品のよい美人であったであろうと思わせた。育ちの良さが好奇心と行動に表れていた。わたしの書き物や会話のなかから東京湾の話や漁師の生活に耳を傾けた。わたしは小柄でさらに痩せていたので、いつも空腹をこらえている貧民の少年のように思い込んでいた。事実、そうであったかも知れない。彼女の同情心の強さは育ちの良さからきていたと今でも思う。貧乏人には意識しないところでの薄情さがある。若杉夫人は女性特有の現実的な処世術と理想主義思想を抱き、バランスのとれた心の豊かな人格者であった。

文芸の友と生活(15)    伊藤昭一4

(承前)<川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から>
 清二の弟が大学に入り、高校を出た妹が就職した。高校時代は社会科や国語、英語などを清二が教えたものだが、二人とも少し縁遠くなってしまった。
 社会生活という面ではむしろ清二の方が世界が狭い。御茶ノ水の大きな大学に通学する弟も一流電気会社に就職した妹も、零細企業で働く清二をいくらか見下す面がないこともなかった。
 そのうちに弟が外泊をくり返すようになった。友達の住まいで徹夜マージャンをしているらしい。
 大学の成績も見る見る落ち、進級できないくらいのひどさだった。母親の怒りと嘆き、弟の反発のあいだに挾まって、清二は妙に醒めていた。
 姉たちのように一方的に母の肩を持つことが出来ないのである。むしろ、世の中にはいろいろな価値判断があって良いと思っている。弟がそこのところを良く判ってやっているのなら、いずれ遊びはやめるだろう。清二の意見はしかし母や姉たちの猛烈な反発をくらった。
 二十になるやならずの弟にそんな分別があるはずがない。ここは怒鳴りつけ、縄をつけてでも、正常なルートに引張り戻さなくては大変なことになるというのである。
「弟に余計な同情は一切言うんじゃないよ。わかったわね」
 清二はそう宣言された。
 弟は母親たちの希望の星だったのである。清二のように自分だけでも生活の糧を得て暮らせるようになれば上等、と思われているのとはちがうのだ。
 弟はやがて家人の過大な期待に耐えかねて、大学を中退してしまった。その間の家庭内戦争の凄まじさは、清二もとばっちりを受けて、はじき飛ばされそうなものすごさだった。
 そんな家庭内戦争から逃げ出すためにも、勤めと休みの日の石神井公園通いは欠かせなかった。家には寝に帰るだけでも、家人は気にしてはくれなかった。
 清二は日曜日になるのを待ちかねて、池袋から西武線に乗った。
 早い時期に同人になった主婦から若杉さんのエピソードを聞く。
 その日、東電のサービスステーションの会場に五時の終わりまぎわに駆けつけた彼女が、誰もいないのを不審に思って尋ねたところ、一時の開始時間から一人も来ないのにも拘らず、若杉さんは端然とひとり広い集会場に腰をかけていたという。
 そのとき主婦は「このひとのために私も頑張らなくては」と思ったそうである。森さんというその主婦は以来“天”の会の熱烈なメンバーの一人になった。
 話に感動するものもいるだろうが、清二の感想は、何だか宗教活動のようだな、と思ったのを覚えている。ただ、若杉さんが多くのひとに文章を書くという行動を通じて愛情を持って接していたことは、清二も認めないわけには行かなかった。
           ☆
 ここに記された時代は、まだ週休二日制が普及するには、遥かに遠い時期であった。日本が高度経済成長をする黎明期であったろう。昭和二十九(一九五四)年頃から三十(一九五五)年代前後のことのようだ。わたしが十九歳で「天」の会に入会してから二年から五年のころの話が、あとさきを混在させながら記されているように思える。
 わたしにとって、とくに興味深いのは、病気で学校教育を受けることが出来ず、独学の川合氏が、戦後の義務教育を受けていた弟や妹に勉強を教えていたということである。しかも、川合氏は弟妹より世間が狭いという実感をもっていた。その自己意識が、以後の社会勉強のためという理由で社交好き、旅行好きになっていったと推察できる。
 後年になって、弟さんは不幸にも若くして病死してしまったという。わたしはその弟さんとは面識がない。わたしが蒲田の川合家に出入りするようになった時には、家を出て独立していたのではないだろうか。
 いずれにしても、わたしが前に川合氏に歩く百科事典と称したのは、こうした博学家であったことによる。
 また、川合氏はその知的な論理家という性格上、日常の家庭の非論理的なもめごとには、辟易していたようであった。わたしは、家庭では五人の兄弟姉妹のうちの長男であったため、家庭のもめごとの調整は日常茶飯事であった。川合氏はよくわたしに「そういう立場って大変だよね」と同情的な発言をしていたものだ。
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