「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

詩流プロムナード

詩の紹介「おぼろな時」 なべくらますみ  読み人・江素瑛

おぼろな時      なべくらますみ 

私の下に まだ妹も弟もいなかった頃/何年前だったかなんて 思い出せない/総てのことが おぼろに霞んでしまった随分昔のこと
幼い私はお寺の大広間でお斎をとっていた/誰がか法事が終わったばっかりだったのだろう/一人おぼつかない手で/箸を操ることに熱中していた/音も声もしない中/動き回るいくつの影が揺れていた/彼らには顔すらがあったかどうか
突然 鈍い音がして/暗い影が倒れ崩れた/隣の円い大きな卓台からだった/箸が落ち 料理に載せた皿が落ち/悲鳴が上がって/現れたのは母と 叔母の姿だった
その日 祖父が亡くなったそうだ/お経を聞き終えてから/何て幸せな大往生という人もいて/同席していた 医者だった叔父の手にも負えない短い時間だった/ということを後に誰かから聞いた
私はその情景をしっかりと覚えている/この時 父や兄 姉たちきょうだいがいたかどうかは分からない/ただ私の後ろの祭壇には/何体もの仏様が立ち/広縁の向こうには 緑色の葉が茂って/眩しく光っているのを/見ていたのだから
 
詩誌「欅」第4号より(狛江市2017年4月菊)ケヤキ自由詩の会。

 読み人・江素瑛
 およそ誰でも、子供の時に、初めて出遭った身内の死の情景は、意味が分からなくても、一生記憶から消えないだろう、作者は祖父の死について、子供の視点でありながら、大人にもよく視えるように、見事に鮮明な風景と描いた。純粋な子供であるが故に、感じ取ったものを隈なく観察していた。そうしてそれは一生の宝ものになるだろう。

詩誌「いのちの籠」第35号における社会批判散文の色濃く

  詩誌「いのちの籠」2017年2月・第35号(戦争と平和を考える詩の会発行)には、詩的リズム性よりも、散文詩リズムを優先するか、リズム性をもたないものが多い。
 「戦争と平和を考える詩の会」での思想をもつということを考えれば当然のことかも知れない。
 そのなかで、巻頭詩の山崎夏代「夏は」は、3つのパートからなる季節になぞらえた人間性への暗喩となっている。強く熱い陽光と乾燥する存在。夏に翻弄される存在。その肌触りをもって、意思的に生きようとする心理を表現している。ーー自分などは日本の夏は、湿潤さの世界に耐えるイメージがあるが、夏に人間性を重ねた「夏代」視線が際立つ。 その他、社会性の強い作品が多い。葵生川玲「チェルノヴイリドーム」は、原発事故を招いた権力の横暴を記す。
 谷口典子「広野のさくら」と望月逸子「湾に架かる橋」では、津波と原発事故による死の町と罪なき民衆の現状をかたる。多喜百合子「水戸の確信犯」は、高速増殖実験炉「常陽」を抱える地元の危機感をしめす。
 小野田まき「やっぱりさようなら原発でしょ」では、国内にある原発の名称をすべて羅列知ることで、現実浮き彫りにする。これらは、印字された言葉をモノとして置き並べて、主張におけるアート的な効果をあげている。
  また、社会評論も多く、まさに詩因を素にした散文集にもなっている。
 表紙に置かれた言葉の並びは下記のようになっている。(北 一郎)
【詩】
山崎夏代、石川逸子、葵生川玲、谷口典子、望月逸子、多喜百合子、小野田まき、麦朝夫、草野信子、芝憲子、坂田トヨ子、堀場清子、柴田三吉、若松丈太郎、崔龍源、大河原巌、森田進、瀬野とし、鈴木文子、酒木裕次郎、池下和彦、河野昌子、白根厚子、八木清道、馬場晴世、内田武司、日高のぼる、島崎文緒、山野なつみ、おだじろう、青山晴江、梅津弘子、伊藤眞司、ゆきなかすみお、築山多門、うめだけんさく、坂本梧朗、佐川亜紀、渡辺みえこ、中村純、佐相憲一、李美子、柳生じゅん子、奥津さちよ、井元霧彦、河野俊一、石村柳三、甲田四郎。
【エツセイ】
中村高春、原子修、葵生川玲、三井庄二
発行所=「戦争と平和を考える会」〒143−0016東京都大田区大森北1−23−11、甲田方。
■関連情報=大田平和のための戦争資料展

詩の紹介 「2月」 大田康成  読み人・江素瑛

    2月    大田康成

冬枯れの並木を
一人さまよう
足下にはふみしめる 
落ち葉もなく
 
動いてゆく わたしの
小さな 影が
明日へのかすかな
予感にふるえる・・・・
すると 突然
梢に 風
春をふくんだ?

いやいや 深く 深く
冬は なお 深く
わたしの胸 深く

(大田康成詩集「蛍」より 2016年12月 群馬県)
読み人・江素瑛
  落ち葉はすでにきれいに掃かれ色彩のない真冬、わたしとわたしの影と枯れ草の上を抜ける木枯らしの中にいる。春の夢を抱いても厳冬の現実と、その心を受け止めなくては・・・・詩は体験と、こころの矛盾から生まれたのです。

詩の紹介 「風に棲む」砂東 英美子     読み人 江素瑛

風に棲む    砂東英美子

季節がたわむ/風が風に洗われ/雨が雨に飛ばされて/みんな居なくなった
そこから私のアマダンが始まる/すべての欲を絶つ/けれどよく見ると/それはすでに始まっていた/意識の届かない処で さらに生すらも
ふと ひとつの扉に手を掛ける/その時ぴたりとその背にあて/銃口が向けられる 知っていましたか/いつでも起きることを
風はいつも光を連れてくる/瞬くと翳が見える/ 光が翳を産むのか/翳が光りを編むのか/アマダンという葛藤の中で悶える
風の手が海馬の底をまさぐる/クリクリと木の葉を舞わせながら/風景に彩を施そうかと思案中だ/銃口が火を吹く前に/寝床を創らねばなるまえ と
風は私の中で遊ぶ/私はいつも撫でながら座している/昨日という草叢の片隅でー

「仙台文学」VoL,89より(H29年1月10日。仙台文学の会)
  読み人 江素瑛
  無駄な言葉はない詩情が溢れる作者の感性。風、雨、光、翳。大自然の風景が絶えずに作者の昔今の心の流れとして行き交い
  「ふと ひとつの扉に手を掛ける/その時ぴたりとその背にあて/銃口が向けられる 知っていましたか/いつでも起きることを」なにかが始めようとすると、なにかに抑制される。こころの赴きが行ったり去ったり、風の流れような感覚の作者の修業である。

詩の紹介 「つもり積り」マエキクリコ     読み人・江素瑛

つもり積り     マエキクリコ

本を読んで/知識を得ても/知ってるつもり、/は捨てる
文を書いて/表現しても/示したつもり、/は捨てる
話しを聞いて/理解はしても/分かったつもり、/は捨てる
人と話して/説明しても/伝えたつもり、/は捨てる
つもりで、騙し/騙されて
現実とずれたつもり、は積り/つもり積りは私を埋める/だから/つもり積り
、を量るべく、/身の丈分だけ/読み書きし/つもり積り、を減らすべく、/
身の丈分だけ/聞き語ろう
詩誌・「トンボ」第三号より( 2017/01/15)杉並区・文治堂書店
読み人・江素瑛
  確かに「つもり」と言うことは人の欲望をふくらませ、希望をもたらしめる。しかしそのつもりは最後まで続けないか能力不足か放棄になることもある。何かが積もっていくのが人生。わたしたちはその繰り返しでこの世に生きてはいけないと作者は指摘します。
  碁の喩えをすると、囲むつもりで囲まれる、取る積りで取られる、なんか嘆きところです。

詩の紹介 「 歩く(機法廖〇該蟆涜紂    ‘匹濘諭江素瑛

歩く《機奸〇該蟆涜

「もう歩けない と電話があり その翌日です」/訃報の葉書に書き添えられた一筆

歩いて 歩いて 歩き続けてきたのだ/町を 地上を 人の中を/人の心を時間を 時代を/どこへ向かって?いいえ 向かう先は わからない/到着地点も知らないままに

歩いて ひたむきに歩いて/もう歩けない とは/まだ 歩きたいという/あなたの意志 意欲

人間の目的地とはなにか/何憶年の歳月を/生き物の地のはてるまで歩き通し 人間の目的地とはなにか/何憶年の歳月を/生き物の地のはてるまで歩き通し/それは/不毛の最果てなのか/荒れ果てた極地なのか/あるいは パラダイスか/歩きたい 歩いて/見極めたかったあなたの焦燥

ひとは/その生を未消化のままに脱ぎ捨てる/もう歩けない とは/その寂しさと 残りの距離への/偉大な長さへの/賛嘆と
「コールサック」88号より(2016 年12 月1日 東京・コールサック社)

読み人・江素瑛
  作者が受け取った訃報に付け加えた一筆が詩の冒頭にある。作者の手紙にはこう書いてある「この詩の訃報の人は周田さんです・・・・考えてみると周田さんは最晩年に急に碁が強くなったのですよ。たしか以前より一目以上は強くなっている。晩年強くなる人なんていないから不思議な気がしています」詩人碁会に時々に会うことがあった彼の最期まで頑張る姿は印象的であった。「歩く」は彼のレクイエムです、安らかに―。
《参照: 詩誌」駆動」70号記事 》

石原吉郎覚書(荻野央)など「人物研究」第38号から

IMG_20161218_0002_1IMG_20161218_0003_1<「人物研究」第38号(近代人物研究会)。編集人:田中徳雄。表紙題字:五十田 敏(三洞)と目次。発行=三朋社。〒270−2253松戸市日暮7−165。>
 人物研究第38号(近代人物研究会)という雑誌が存在することを初めて知った。通常であると、研究対象人物は、データベースの大きな超有名人であれば、それなりに読者が増えると思うが、そういうのは商業誌に任せてしまうのもひとつの方向であろう。
 ここでは、荻野央「石原吉郎覚書」―現在プーチン大統領が来日、日露平和条約をテーマに、北方領土の人口減少化対策としての日本の資金を利用する話もしているようだ。詩人・石原吉郎ぼ時代の北方領土も、労働力不足で、事情はあまり変わっていないのかも知れない。
 それと安宅夏夫「列伝 北大路魯山人を世に出した人々[第四回]京都便利堂四兄弟」が興味深かった。
 詩人・石原吉郎(1515−1877)は、昨年生誕百年で数々の詩誌が特集を組んだことがここに記されている。「現代詩手帳―石原吉郎の百年」、「季刊ビーグルー石原吉郎と戦後史の未来」。それ以前には「群像」2011年9月号特集号で、石原吉郎「ペシミストの勇気について」と「棒をのんだ話」とりあげられ、奥泉洸、山城むつみ、川上未映子による議論があるという。
 「石原吉郎はハルピンで捕らえられ、昭和25年に日本へ帰還するまで、壮絶・苛酷な死と臨在する抑留体験の地獄のような強制労働生活をくぐり抜けた体験は「望郷と海」に収められた14編のエッセイに詳しくつづられている。」とここにあるように、苛酷な体験をもとにした表現力の才能が、他と比較するものがなく、帰国2年後に「サンチョ・パンサの帰郷」でH氏賞を受賞。おそらくH氏賞の権威を高めることに寄与したに違いない。
 この覚書では、第1節「二つの年譜」で、細見和之「石原吉郎」の書でそのテーマで分析していることを紹介。第2節「石原吉郎と北条民雄」において、日記における境遇と自己存在の意識の違いを石原が持ったことが記されている。
 わたしの石原吉郎に対する関心は薄く、たまたまH氏賞受賞詩人・郷原宏の「ペシミストは誰か」=「詩誌「長帽子」70号掲載を新・日本現代詩文庫「郷原宏詩集」(土曜美術社出版販売)に収録したのを読んでからである。ここでは石原の「ペシミストの勇気について」あるトリッキーな論理を展開している。
 郷原宏・関連情報=「詩人碁会」世話人・郷原宏2016年。
 石原吉郎・関連情報= 「バルバロイ!」サイトの「野次馬通信」。
 安宅夏夫「列伝 北大路魯山人を世に出した人々[第四回]京都便利堂四兄弟」は、陶芸家としての名声を維持るために、どれほどの腐心をしたか書かれていて面白い。在日ロシア人であったというから、ここでもロシアとのかかわり合いがある。(北 一郎)


個人誌「空想カフェ」No.22−香りと匂い

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  個人詩誌・空想カフェNo22(発行者・堀内みちこ)は、主テーマが「香りと匂い」になっている。エッセイの散文、散文詩、詩、カットと全作品が堀内みちこである。
  香りと匂いと現代の消臭薬の病的な神経、臭みなど、体験の記憶の中から生まれる気分が、楽しめる。「詩人回廊」の主題である、「誤配されない言葉の詩成分」のサンプルの様な詩誌である。
 「ランボー小論――ランボー詩の香り」では、「びっくりしている五人のちびたち」の訳詩を掲載。当時のフランス社会の風俗や、産業革命による社会構造など。それにランボーの少年時代に想いを誘わせて秀逸。
 エッセイ「スクリーン」NO.17 「父の匂い」映画監督であった父親のタバコの匂いう、コート、ジャケットの匂いの記憶を語る。娘が父親の匂いを記憶するのを読むのは初めてのような気がする。興味深いところもある。
 自分などは、変形物貨物の力仕事の多い物流倉庫で、現場管理で働いていたことがあるが、現場が汗臭くないと、なにか仕事が足りない状況と考えてしまうところがあった。消臭剤の宣伝をみると、不自然さを感じノイローゼの時代と思ってしまう。臭いに敏感さ必要だが、慣れないと介護もできないのではないかーーなんて余計なことも考えてしまう。

詩誌「長帽子」第77号(東京)から

IMG_20161122_0001_1<詩誌「長帽子」第77号>
 巻頭に郷原宏の「テームズの月」が「詩作品」としてある。土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲「荒城の月」は有名になっていたが、明治35年にテームズ川を接岸した若狭丸の上で、たな二人が合うのが実際に顔を合わせた。そこに居合わせた嘲風という男が、晩翠が「テームズの月」という詞を書き、廉太郎が作曲することを勧める。ふたりはそれを肯定するが、廉太郎の短命によって実現しなかったいきさつを小説的散文に描く。
 企画ものとして、<俳句アラカルト2016>がある。
 望月暢孝「グランドピアノ、山本にれ「夏草」、宮本時計草「浮き身ひとつの」、郷原風京「夏から秋へ」、橋本マリ、安宅夏翁「月並み抄」、田村さと子「十一句」、尾端遊子などがある。それぞれの詩人の現在、過去のイメージ力が楽しめる。
  本号の安宅夏夫氏の作品「ある星座からの眺め」については、ネットサイト「関東文芸交流会・掲示板」に荻野央氏が、詳しい解説をしているのを見つけた。
 また、H氏賞受賞者の郷原宏氏は詩人でもあり、碁人でもあることから、詩人囲碁会、文人囲碁会の世話人として活躍している。《参照:「文人囲碁」の集い

小詩集「つぶ」(ぴっぴのくつした) 武田祐子       

IMG_20161118_0001_1IMG_20161118_0001_2<小詩集「つぶ」武田祐子(発行=ぴっぴのくつした)>

 「つぶ」
草むしりをしていて、突然、きがついた
本物の故郷を持つ人はいないのだ、と

あるのはネズミの入ったケージばかり
失った故郷ほど、心痛むものはものはない

スコップで草の根を、ザクッ、と切ると
土埃がきらきら空中に舞う
痛みに目を瞑る

「残像に惑わされてはいけない、お前は粒として生きよ」
体の中から、ご先祖の声が聞こえる


 読み人・北一郎
 ご先祖さまも「粒」であった。誰の先祖であっても、一介の粒でしかない。存在の源には素粒子の集合体がある。自己存在において、粒の集散離合の運動体としてとらえることは、無意識のなかにある。しかし、心が動く時は、それをほとんど忘れている。
 言葉は、そこに置き並べられた文字の列である。そこの意味を読みだすのは、つぶの心である。空中に舞う土埃もつぶの存在の主張でもある。さびしくもあり、気楽でもあるのが「つぶ」的存在の意識であろう。
 詩は読む人の体験に寄りかかっているが、それは書く人の体験との融合であるに越したことはない。
 

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