「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

外狩雅巳の庭

マスコミ潮目替わりの凄さ      外狩雅巳

 潮目が替わり貴乃花親方の相撲道の賞賛となっている。
 隠し玉を使いながらマスコミは勝利至上主義を追い詰めている。
 相撲は神事だとゲストに言わせながら。
 巡業での貴乃花のファンサービスと原理主義の使い分けを過去の映像を一部分見せながらの国民操作に感心した。
 文芸同志会通信もミニコミなので学ぶ必要があろう。
 発信を続ける私としても戦略の参考になっている。
 戦意高揚の標語−−欲しがりません、勝つまでは−−を上げるまでもなく国民を地獄に落としたマスコミ−−に今も引きずられる私たちはどうたら良いのか?
 リアルな顔の見える交流を主張し続けた私がこうしてネットに発言する事も大いなる矛盾です。
 それでも、サイバー空間の威力を考えて敢えてここで発言しているのです。
 スマホ世代が明日の日本を担うのです。
《参照:外狩雅巳のひろば

懐かしい人の冨岡氏が「夜間は『中央労働学院』」にコメント

冨吉氏からのコメントを読みました。《参照:私の工場細胞時代!夜間は「中央労働学院」にコメント》。なつかしい過去が甦ってきました。
私は同人誌に書き続けていますが、そこは地域の閉じられた世界です。
インターネットの世界でこその今回のような事が可能なのでしょう。
世界中で閲覧されているサイバー空間の実態を実感しました。
半世紀前の私は、作品「28歳のころ」に書いたような、放浪の日々でした。
羽田空港の近く大田区糀谷で下宿中に、同居人との不和で自立しました。
一人暮らしも長続きせず、部屋に荷物を置き放しで、山谷に飛び込みました。
売血生活の末に、夜学に戻ると、学友の配慮で彼の工場に就職出来ました。
収入が安定して大田区蒲田に二間の賃貸住宅を借りて生活しました。
冨吉君が知っているのは、その大森西七丁目の部屋の事だと思います。
六畳と四畳半の和室。玄関と台所もついています。一人暮では廣すぎます。
一方で僕が寝て、客は奥の部屋で就寝出来ます。彼も安心した生活でしょう。
北平さんが家主です。その後、現在の妻と知り合い誘い込みました。
大家さんに妻が注意され、退居して池袋の妻の実家の離れに住みました。
妻の兄が戻り退居を促され、相模原に家を購入して現在に至っています。
そんな経過が懐かしく思い出されました。冨吉さん元気でなによりです。
《参照:外狩雅巳のひろば



桂林と上海への中国旅行。見ると聞くと大違い=外狩雅巳

   今月の桂林と、来年一月の上海への二つの旅行を計画しました。
 「桂林」観光四日間は、10日から13日まで行いました。
  早朝、成田空港出発予定が四時間も遅延になりました。
  ツアー客の一人が、トランプの影響だと言いました。
  事前に判っているトランプ大統領行程で、民間旅行が遅延になるのだろうか信じられない話です。空港で携帯電話へ連絡が来て待合室でひたすら待機しました。
  携帯電源を止めていた客は連絡不十分で、不参加となってしまいました。   
keierin  桂林は曇り空で観光日和。郷土料理も旨く満足しました。
  各処に国威躍進推進の看板が目立ちますが、市民の実情とは隔離した感想を持ちました。一路一帯で経済大国軍事強国を目指し国民品位向上を鼓舞しています。
  土産物の押売りと偽物自慢に辟易しました。路上占有で市場開催を警察が集団で取り締まるも、居なくなれば再び路上での物売り再開。観光客への執拗な付き纏い押売り。博物館見学・川下り等も盛沢山ある。
  博物館では国宝級書画陶器と称して販売し押し付けてくる。旅慣れた観光客一人が半値に値切った。
  奉仕団体員が市街地清掃中だったが行き交う車は汚れ、信号無視と警笛騒音の落差は三等国だ。赤色大好き国民で赤い服装と赤い旗看板だらけセンスの無い国民。
 大声で喧噪し会い日本語は通用せず、空港等職員との会話も出来ず、迷子になったら最悪だろう。民家はアパートが多い。戸建ては隣棟境界も不明瞭に適当に散在。
  地震日本と違い一階は細く二階三階が広い建物ばかり。倒壊心配不要なのだろう。たまに塀囲いした庭付き家屋もあるが、花も樹も植えない。ガーデニングの習慣も無いようだ。満州生まれで唐詩を諳んじ共産革命を羨んだ事もあった青年時代。
  聞くと見るとは大違い。やはり中国は観光するだけの隣国なのだろうか。
人口大国が本気で世界制覇を発動しているが、高齢者になり気楽に観光旅行に明け暮れる者の旅行記も意味ありかな。





生活の中の同人雑誌活動と社会へ主張から=外狩雅巳

 書きたい事が社会に向けての主張で、そのテーマを小説化する人もある。
 私もその一人だった。そして文芸同人会を結成した。
 零細企業の労働者を遍歴しながら労組結成を行った。
 その体験などを自伝小説として書き同人誌に掲載した。
 「28歳の頃」などを書き連ねて世間に発信していた。
 町田文芸交流会の参加団体の一つ、「民主文学」町田支部もそうだ。
 社会問題を題材にした作品が多数掲載されている。
 作者が社会問題に注目するきっかけが作品化されている。
 貧困差別を自覚し社会運動に入る事が多く書かれている。
 その点では私のきっかけは落差がありすぎるようだ。
 働きながら夜間大学に通う中で突然の遭遇から始まった。
 クラス委員に立候補し当選し学生自治会に接近した。
 自治会単位で参加した全国学生連合の集会があった。
 演壇では盲目の指導者が政治目的の趣旨説明を行った。
 黒田寛一を見たたった一度の機会である。
 マルクス主義学生同盟参加の自治会集会だったのだ。
 共産党から出て革命的共産主義者同盟を創設した人だ。
 その下部組織の革共同革マル派の清水谷集会だった。
 マルクス思想を世界同時革命に繋ぐ理論を支持していた。
 トロッキーの主張として第四インターを称していた。
 過激行動で学問と世間から遁走する自伝小説を書いた。
 「この路地抜けられます」と題して同人誌に掲載した。
 社会問題を書いたのは私だけだが雑誌は継続した。
 そして会は破綻して解散した。主張の合意が無かった。
 合意がある民主文学会の各支部は結束している。
 多摩支部が交流会参加の中で主張を説明している。
 十月会合ではその政治批評も十分に話してくれた。
 二次会では安倍政権批判も聞けたので納得した。
 しかし、その納得が作品納得に届かない不足も話し合った。
 私が個人的不満を書き労働者全体問題に届かず挫折した経過も踏まえ、現代の小林多喜二作品を生み出す困難を話し合い二次会も大いに盛り上がりました。
《参照:外狩雅巳のひろば

私の工場細胞時代!夜間は「中央労働学院」に=外刈雅巳

 雑誌「民主文学」連載中の仙洞田氏作品と私の手記は同時代です。
 東京・大田区羽田のセガエンタープライゼス社での出来事です。
 70年安保闘争の時期に労組創りに奔走した時の事です。過激派が行った羽田闘争も意識した青春の高揚期でした。
 1964年のある日。電柱の組合勧誘のビラに出会いました。カーステレオメーカーであったベルテック社で寮生活中の不満を抱く日々の中でのことです。
 民間下宿借り上げ社員寮で仲間と労働不満を語り合いました。
 その動向を労務担当が察知し、会社が社員寮懐柔策を図り対抗し労組結成しました。
 現場ラインでは成功しましたが事務職員は躊躇しました。事務職員を見染めた作業員女性は、彼と結ばれてしまいました。
 自棄になり中庭でシュピレヒコール気勢等を行いました。
 彼女は半島出身者です、理解すれば結ばれると早とちり。
 賢明な人でした。事務職員との安泰な生活を選びました。
 群馬県への企業移転に賛同せず、整理退職に同意しました。
 ビラで相談した全国金属大田地域支部との出会いでした。
 失業保険で食い繋ぎながら職探しを行いました。また、基礎学習で夜間は「中央労働学院」に通いました。
 職安でセガエンタープライゼス社の募集を見つけました。
 入社し製造ラインで精勤しながらチャンスを伺いました。
 ついに機会到来。労働者への待遇不満の蠢きがあります。
 製造事業部・製造一課。現場の華で働く私の日々です。
 古参労働者の不満を聴きました。彼等は職場の要です。
 共に語り、彼等を地域支部へ連れてゆきました。
 支部執行委員長・幸田一栄氏は総評名物の組織者です。
 生ニンニクを齧りながら組織活動に奔走する活動家です。
 セガ分労組非公然活動中に三ケタの組織を集めました。
 分会書記長の私も西條委員長も共産党員となりました。
 党が無ければ労組は無原則的になると説得されました。
 小林多喜二「党生活者」読書中の私は率先入党しました。
 そして、学校では同級生の仙洞田君を誘いました。
 失業中の彼を人事課長に紹介しました。
 精勤中の私を信じて採用した課長を欺いたのです。
 公然化後の団体交渉で人事課長と対面しました。
 好人物の彼の顔をまともに見る事が出来ませんでした。
 誠実で原則的な彼はセガ社の党責任者に最適でした。
 一夜の過ちで結ばれた現在の妻との事も注意されました。
 夜間大学に進み、革マル派に接近した私は無我夢中でした。
 結論。退学、退職、浮浪者。山谷での売血生活に到達。
 私の小説『血を売る』はほぼ真実を書きました。
《参照:外狩雅巳のひろば

「桂林」と「上海」の海外旅行の動機=外狩雅巳

ここで連載した「古山高麗雄」紹介文を推敲再編集して「相模文芸」に掲載します。
確認と調査のため、様々な戦争記録や手記等を読みました。
父からは、兵士として中国戦線で戦った武勇伝を散々聞かされました。
興味津々でいろいろ質問しましたが、擲弾筒操作を聞き忘れました。
社会人となってからは、古書店等で戦争作品を漁りました。
今回はその繰り返しとなり、図書館で多くを読みました。
『桂林作戦』(佐々木春隆著/図書出版)に詳しく出ています。
参謀ですが、作戦詳細以外に、兵器使用現場を描写しています。
兵士一人の戦死にも、胸を痛める記述などはヒューマンです。
しかし、戦争批判や軍国主義批判までは及んではいません。
読書中。突然、妻が桂林ツアーを提案しました。
定期購読中の『旅物語』を見て上海旅行にも興味を示したのです。
偶然の一致なので、早速11月と1月分を申し込みました。
「桂林」四日間で二万九千円。「上海」三日間は一万八千円です。
格安なので自由時間が多いのが魅力です。見聞出来そうです。
日本軍が戦った現場を歩き、戦記の内容と見比べます。
海外旅行では、トルコ旅行の時は迷子になったのに、夫婦共々懲りません。
その後は、北米旅行も検討中です。
《参照:外狩雅巳のひろば

古山高麗雄論の「相模文芸」誌への投稿と研鑽

 相模文芸クラブの「相模文芸」35号は年末の発行予定です。
 私は、「詩人回廊」サイトで連載した『郷土の作家・古山高麗雄』を発表します。
 相模原市唯一の文芸同人会として活発に活動する相模文芸クラブです。年二回の雑誌発行。月二回の合評会。30余名を組織しています。市民文芸として活動してきたので市出身の作家も紹介する事にします。
 さらに詩歌などを含む市民文芸の現状も調査する事にしました。20以上もある公民館や市立図書館等で現状調査を行います。
 現在文芸交流会の開催地で隣接の町田市でも文学館などを回ります。市役所や公民館職員に尋ねると主旨に賛同してくれます。しかし、市内の文芸愛好家の実情はほとんど把握してはいません。
 特に文学の散文方面は個人的に調査しなければわかりません。高齢化社会の活性化としての趣味の世界でも、文学は未開発です。
 行政は進取の機運に欠けますので調査活動は行いません。個人的努力ですが出来るところまで市民文学を調査します。
 その中から相模文芸クラブ新会員が増える事も期待しています。次世代の文学趣味者へ同人誌活動のバトンを渡したいと思います。
  同人雑誌に投稿の作者の満足をえることも、重要です。同人雑誌作品の批評は、文芸誌やインターネットで行われています。
 秀作を見つけ批評紹介して、世に出す仕事として価値があります。しかし、大多数の同人雑誌と作品は網羅できていません。
 小説の公募に応募しても、落選作品は批評も紹介もなく、作者の満足になりません。作者は直接顔の見える作品感想を貰える文芸同人会に加入します。または、書店・図書館等で自己流に学びます。
 ノベルスの世界では大量の作品が流通しそれを読むことは出来ます。読ませる作品とは何かを、プロの読み物作品の手法に求める人も多いのです。
 読み物作品に学び、似せたような作品が同人雑誌にも多くあります。同人雑誌の合評会でも、読み物としての優劣を語る方向が散見されます。
 同人会の枠を超えて外部との交流を行い、批評力を鍛えたいと思います。私は労働運動で知った中央労働学院の文芸科に通いました。作品提出者を囲み教授も学生も全員発言での徹底討論を学びました。
 これを一般社会に普及させようと文芸同人会を作り実践中です。
 一部の偏った団体の中で通用する作品論ではなく、普遍性を求めました。文芸交流会では伊藤昭一氏の広い視野での分析を期待しています。自作の相対的分析評を求める人の参加を求めています。
《参照:外狩雅巳のひろば

続・雑誌「文芸生活」という時代の因縁=外狩雅巳

  文芸雑誌「文芸生活」で伊藤桂一氏が投稿詩の選者を行っている頃に妻の書いた小説も掲載されていたので前回のこの欄に写真をアップした。
  この昭和55年10月発行誌の「夫帯者」の作者・田中萱が妻の筆名だ。
  この前年に夫婦となった。私は職が定まらず収入の多い妻が所帯主だ。
  それが作品名となった。内容もほぼ実生活が多く盛り込まれていた。
  妻の作品は翌昭和56年の「すばる」四月号にも掲載されている。
  作品名『アドソウルからのメッセージ』で同人誌よりの転載となった。
  筆名は森川あやと変えているがーかわやーを連想させる名だ。    
  題名もよろしくからメッセージに変えられたが筆名変更は拒んだ。
  コピーライターとして広告会社で働く妻の実生活が下敷きとなっている。
  下手な小説を書き続ける夫を助けることが妻の生き甲斐となっていた。
  私も実生活を踏まえた作品を書いてきた。妻の手法からも学んだ。
  『この路地抜けられます』や『十坪のるつぼ』などは全くの私小説だ。
  創作力の無い私は転職続きの実生活こそが作品のネタなのだ。
  妻は数年間は書き続けたがプロになれず筆を折ってしまった。
  私は商業文芸雑誌など縁のない同人雑誌だけで長年にわたり書き続けた。
  一向に上達しないが趣味の仲間雑誌なので楽しく続けている。
《参照:外狩雅巳のひろば

雑誌「文芸生活」という時代の因縁=外狩雅巳

IMG_20170811_0002_1IMG_20170811_0001<昭和55年10月発行の「文芸生活」58号(新文化社)>
文芸愛好者を集めて文芸同人会を結成したのは40年も前から行っていた。
労組活動の中で知った「中央労働学院」に通学中に始めた「未知の会」が最初である。
 その後は家庭生活に追われ中断したが高齢者になり「慧の会」を始め池袋で継続した。
 相模原市に家を購入し移転したので「相模文芸クラブ」を開始して現在に至っている。
 全国の文芸同人誌作品を励ます雑誌「文芸思潮」に送ったら取り上げられやがて常連になった。
  やがて同人誌「文学街」でも作品評を行ってくれたりしたので会の知名度も上がった。
  交流集会もあるので出席したら「文芸同志会」の伊藤代表とも知り合えた。
  メール交信で意見など送る中で「文芸同志会」にも加入しこうしたコメント等を掲載している。
  これも何かの縁だろうと思っていたら。このたび書架の奥から古い同人誌を見つけた。
  昭和55年10月発行の「文芸生活」58号だ。独身時代の妻が所属していたのだ。
  中に主催者の出版物広告がありその序文を伊藤桂一氏がかいている。
  会の規約には主催者の半沢良夫氏が高井有一氏や辻井喬氏等と並んいる。
  妻はここで作品掲載を行った後に「文芸首都」に加入したようだ。
  が、解散になり後継誌「散文芸術」で書いたり「群像」「スバル」等でも参考作品として掲載された。
《参照:外狩雅巳のひろば

ちょっと今から会社を辞めてくる=外狩雅巳

   相模文芸クラブが同人誌「相模文芸」35号の企画を開始した。一つの序章を数人が書き継ぐリレー小説である。
   今月に34号が発行される。暮れの次号発行までに大至急で完成させようとしている。
  高齢化する同人会を牽引するための企画である。現在6人の賛同者で書き継いでいる。
  17年前に創刊した頃の私は五十代の壮年だった。高齢化社会の生き甲斐を考えていた。
  文芸仲間探しに市役所を訪ねた。文化担当者から教えられた一人の文芸愛好者と会結成を準備した。
  彼の友人や公民館ポスター等で集まった十人足らずで「相模文芸」創刊号を刊行した。
  今、彼も創刊同人も既にいない。次々と加入する仲間。17年間で百人以上の文芸愛好者が名を連ねた。
  退会者も多い。同人仲間として長い友情を求めてもいつの間にか去ってしまう。残念なことである。
  と言う私も職場生活は長続きせず堪え性の無い人生を送ってきた。せめて趣味だけでもと文芸を続けた。
  少年期は父親に堪え性が無いと厳しく躾けられたが無反省・無自覚の怠け者なので見限られた。
  勉強を装って雑誌を読み耽っている現場を見つけられて殴られ全裸にされ家から放逐された。
  教師の父親には長男失格なのだ。父親の同僚が親切に職場の世話をしてくれた。
  仙台市の眼鏡販売店員として住み込んだ。ここから始まった職場生活。転職に次ぐ転職の半生記。
   数え上げると20を超えている。その中から深く記憶に残る10社ほどたどってみたい。
   父親は同僚のおせっかいを怒り別の同僚に転職を頼んだ。市内の老舗時計店である。
  丁稚奉公は二年間。新人が入り心に余裕が出来る。自我が大きくなり自立を求める。
  母に頼み退職手続きをしてもらい職安に行く。その日のうちに市内の折箱店住み込み店員となる。
  ここも三年目についに飛び出した。新聞広告で東京の求人を見つけ連絡した。
  上野駅前の新聞店。母親からの連絡で横浜の叔父がきてすぐに退職手続きをして引き取ってくれた。
  綱島の叔父の家から川崎市の昇降機会社に臨時工として通った。それも一年で出ると日吉で自活した。
  夜間高校に通学も可能な会社である。川崎市向河原の高校に入学する。
  学生自治会の役員になり授業料値上げ反対の活動に不成功のため自棄気味に山谷の浮浪者になる。
  港湾労働などに耐えられず売血生活も送る。高校に戻り学友の会社へ入社できた。
  社内寮にも入れたのでこの会社に三年勤務する。夜間大学も受かり渋谷の大学へ通う。
  またも、学生運動に染まり革マル系の自治会役員となり街頭での一揆的暴動を繰り返す。
  日和見な性格なのでまたまた退学・転職・転居を繰り返し最後に大田区の会社で社員寮生活となる。
  労働運動を知り個人加盟労組員となり労働学校にも通う。学友とサークル詩を発行する。
  楽な労働を狙い事務員を転々とする。若いやり手専務の操り事務員で経営幹部の真似事もする。
   結婚したので妻の実家に落ち着く。池袋の義父が抱える貸家の一つに住み猫二匹とマイホーム生活。
   多忙と転職で中断した同人誌活動に戻りたく新聞広告にある池袋の文芸同人会へ入会する。
   主宰が辞めたので引き継いで活動を七年間続ける。その間にも五つほど転職している。
   義兄が男なら自分の家を持てと追い出すので、相模原に一軒家を購入して転居する。
  当然、転職してステレオ会社に入社する。辛抱して五年間も働き続ける。
  高齢になり辛いので退職する。幸運にも東京都に就職できた。通いの都営住宅管理人となる。
  めでたく六十歳で定年退職。年金生活者となり文芸同人誌活動一本で趣味の老後を楽しんでいる。
  まともに仕事が続かない失格者と言っていた人たちも、文芸同人誌の会は続けられない。
《参照:外狩雅巳のひろば
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「詩人回廊」は文芸同志会員がつくる自己専用庭でできています。連絡所=〒146−0093大田区矢口3−28−8ー729号、文芸同志会・北一郎。★郵便振替口座=00190−5-14856★