「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

外狩雅巳の庭

私の工場細胞時代!夜間は「中央労働学院」に=外刈雅巳

 雑誌「民主文学」連載中の仙洞田氏作品と私の手記は同時代です。
 東京・大田区羽田のセガエンタープライゼス社での出来事です。
 70年安保闘争の時期に労組創りに奔走した時の事です。過激派が行った羽田闘争も意識した青春の高揚期でした。
 1964年のある日。電柱の組合勧誘のビラに出会いました。カーステレオメーカーであったベルテック社で寮生活中の不満を抱く日々の中でのことです。
 民間下宿借り上げ社員寮で仲間と労働不満を語り合いました。
 その動向を労務担当が察知し、会社が社員寮懐柔策を図り対抗し労組結成しました。
 現場ラインでは成功しましたが事務職員は躊躇しました。事務職員を見染めた作業員女性は、彼と結ばれてしまいました。
 自棄になり中庭でシュピレヒコール気勢等を行いました。
 彼女は半島出身者です、理解すれば結ばれると早とちり。
 賢明な人でした。事務職員との安泰な生活を選びました。
 群馬県への企業移転に賛同せず、整理退職に同意しました。
 ビラで相談した全国金属大田地域支部との出会いでした。
 失業保険で食い繋ぎながら職探しを行いました。また、基礎学習で夜間は「中央労働学院」に通いました。
 職安でセガエンタープライゼス社の募集を見つけました。
 入社し製造ラインで精勤しながらチャンスを伺いました。
 ついに機会到来。労働者への待遇不満の蠢きがあります。
 製造事業部・製造一課。現場の華で働く私の日々です。
 古参労働者の不満を聴きました。彼等は職場の要です。
 共に語り、彼等を地域支部へ連れてゆきました。
 支部執行委員長・幸田一栄氏は総評名物の組織者です。
 生ニンニクを齧りながら組織活動に奔走する活動家です。
 セガ分労組非公然活動中に三ケタの組織を集めました。
 分会書記長の私も西條委員長も共産党員となりました。
 党が無ければ労組は無原則的になると説得されました。
 小林多喜二「党生活者」読書中の私は率先入党しました。
 そして、学校では同級生の仙洞田君を誘いました。
 失業中の彼を人事課長に紹介しました。
 精勤中の私を信じて採用した課長を欺いたのです。
 公然化後の団体交渉で人事課長と対面しました。
 好人物の彼の顔をまともに見る事が出来ませんでした。
 誠実で原則的な彼はセガ社の党責任者に最適でした。
 一夜の過ちで結ばれた現在の妻との事も注意されました。
 夜間大学に進み、革マル派に接近した私は無我夢中でした。
 結論。退学、退職、浮浪者。山谷での売血生活に到達。
 私の小説『血を売る』はほぼ真実を書きました。
《参照:外狩雅巳のひろば

「桂林」と「上海」の海外旅行の動機=外狩雅巳

ここで連載した「古山高麗雄」紹介文を推敲再編集して「相模文芸」に掲載します。
確認と調査のため、様々な戦争記録や手記等を読みました。
父からは、兵士として中国戦線で戦った武勇伝を散々聞かされました。
興味津々でいろいろ質問しましたが、擲弾筒操作を聞き忘れました。
社会人となってからは、古書店等で戦争作品を漁りました。
今回はその繰り返しとなり、図書館で多くを読みました。
『桂林作戦』(佐々木春隆著/図書出版)に詳しく出ています。
参謀ですが、作戦詳細以外に、兵器使用現場を描写しています。
兵士一人の戦死にも、胸を痛める記述などはヒューマンです。
しかし、戦争批判や軍国主義批判までは及んではいません。
読書中。突然、妻が桂林ツアーを提案しました。
定期購読中の『旅物語』を見て上海旅行にも興味を示したのです。
偶然の一致なので、早速11月と1月分を申し込みました。
「桂林」四日間で二万九千円。「上海」三日間は一万八千円です。
格安なので自由時間が多いのが魅力です。見聞出来そうです。
日本軍が戦った現場を歩き、戦記の内容と見比べます。
海外旅行では、トルコ旅行の時は迷子になったのに、夫婦共々懲りません。
その後は、北米旅行も検討中です。
《参照:外狩雅巳のひろば

古山高麗雄論の「相模文芸」誌への投稿と研鑽

 相模文芸クラブの「相模文芸」35号は年末の発行予定です。
 私は、「詩人回廊」サイトで連載した『郷土の作家・古山高麗雄』を発表します。
 相模原市唯一の文芸同人会として活発に活動する相模文芸クラブです。年二回の雑誌発行。月二回の合評会。30余名を組織しています。市民文芸として活動してきたので市出身の作家も紹介する事にします。
 さらに詩歌などを含む市民文芸の現状も調査する事にしました。20以上もある公民館や市立図書館等で現状調査を行います。
 現在文芸交流会の開催地で隣接の町田市でも文学館などを回ります。市役所や公民館職員に尋ねると主旨に賛同してくれます。しかし、市内の文芸愛好家の実情はほとんど把握してはいません。
 特に文学の散文方面は個人的に調査しなければわかりません。高齢化社会の活性化としての趣味の世界でも、文学は未開発です。
 行政は進取の機運に欠けますので調査活動は行いません。個人的努力ですが出来るところまで市民文学を調査します。
 その中から相模文芸クラブ新会員が増える事も期待しています。次世代の文学趣味者へ同人誌活動のバトンを渡したいと思います。
  同人雑誌に投稿の作者の満足をえることも、重要です。同人雑誌作品の批評は、文芸誌やインターネットで行われています。
 秀作を見つけ批評紹介して、世に出す仕事として価値があります。しかし、大多数の同人雑誌と作品は網羅できていません。
 小説の公募に応募しても、落選作品は批評も紹介もなく、作者の満足になりません。作者は直接顔の見える作品感想を貰える文芸同人会に加入します。または、書店・図書館等で自己流に学びます。
 ノベルスの世界では大量の作品が流通しそれを読むことは出来ます。読ませる作品とは何かを、プロの読み物作品の手法に求める人も多いのです。
 読み物作品に学び、似せたような作品が同人雑誌にも多くあります。同人雑誌の合評会でも、読み物としての優劣を語る方向が散見されます。
 同人会の枠を超えて外部との交流を行い、批評力を鍛えたいと思います。私は労働運動で知った中央労働学院の文芸科に通いました。作品提出者を囲み教授も学生も全員発言での徹底討論を学びました。
 これを一般社会に普及させようと文芸同人会を作り実践中です。
 一部の偏った団体の中で通用する作品論ではなく、普遍性を求めました。文芸交流会では伊藤昭一氏の広い視野での分析を期待しています。自作の相対的分析評を求める人の参加を求めています。
《参照:外狩雅巳のひろば

続・雑誌「文芸生活」という時代の因縁=外狩雅巳

  文芸雑誌「文芸生活」で伊藤桂一氏が投稿詩の選者を行っている頃に妻の書いた小説も掲載されていたので前回のこの欄に写真をアップした。
  この昭和55年10月発行誌の「夫帯者」の作者・田中萱が妻の筆名だ。
  この前年に夫婦となった。私は職が定まらず収入の多い妻が所帯主だ。
  それが作品名となった。内容もほぼ実生活が多く盛り込まれていた。
  妻の作品は翌昭和56年の「すばる」四月号にも掲載されている。
  作品名『アドソウルからのメッセージ』で同人誌よりの転載となった。
  筆名は森川あやと変えているがーかわやーを連想させる名だ。    
  題名もよろしくからメッセージに変えられたが筆名変更は拒んだ。
  コピーライターとして広告会社で働く妻の実生活が下敷きとなっている。
  下手な小説を書き続ける夫を助けることが妻の生き甲斐となっていた。
  私も実生活を踏まえた作品を書いてきた。妻の手法からも学んだ。
  『この路地抜けられます』や『十坪のるつぼ』などは全くの私小説だ。
  創作力の無い私は転職続きの実生活こそが作品のネタなのだ。
  妻は数年間は書き続けたがプロになれず筆を折ってしまった。
  私は商業文芸雑誌など縁のない同人雑誌だけで長年にわたり書き続けた。
  一向に上達しないが趣味の仲間雑誌なので楽しく続けている。
《参照:外狩雅巳のひろば

雑誌「文芸生活」という時代の因縁=外狩雅巳

IMG_20170811_0002_1IMG_20170811_0001<昭和55年10月発行の「文芸生活」58号(新文化社)>
文芸愛好者を集めて文芸同人会を結成したのは40年も前から行っていた。
労組活動の中で知った「中央労働学院」に通学中に始めた「未知の会」が最初である。
 その後は家庭生活に追われ中断したが高齢者になり「慧の会」を始め池袋で継続した。
 相模原市に家を購入し移転したので「相模文芸クラブ」を開始して現在に至っている。
 全国の文芸同人誌作品を励ます雑誌「文芸思潮」に送ったら取り上げられやがて常連になった。
  やがて同人誌「文学街」でも作品評を行ってくれたりしたので会の知名度も上がった。
  交流集会もあるので出席したら「文芸同志会」の伊藤代表とも知り合えた。
  メール交信で意見など送る中で「文芸同志会」にも加入しこうしたコメント等を掲載している。
  これも何かの縁だろうと思っていたら。このたび書架の奥から古い同人誌を見つけた。
  昭和55年10月発行の「文芸生活」58号だ。独身時代の妻が所属していたのだ。
  中に主催者の出版物広告がありその序文を伊藤桂一氏がかいている。
  会の規約には主催者の半沢良夫氏が高井有一氏や辻井喬氏等と並んいる。
  妻はここで作品掲載を行った後に「文芸首都」に加入したようだ。
  が、解散になり後継誌「散文芸術」で書いたり「群像」「スバル」等でも参考作品として掲載された。
《参照:外狩雅巳のひろば

ちょっと今から会社を辞めてくる=外狩雅巳

   相模文芸クラブが同人誌「相模文芸」35号の企画を開始した。一つの序章を数人が書き継ぐリレー小説である。
   今月に34号が発行される。暮れの次号発行までに大至急で完成させようとしている。
  高齢化する同人会を牽引するための企画である。現在6人の賛同者で書き継いでいる。
  17年前に創刊した頃の私は五十代の壮年だった。高齢化社会の生き甲斐を考えていた。
  文芸仲間探しに市役所を訪ねた。文化担当者から教えられた一人の文芸愛好者と会結成を準備した。
  彼の友人や公民館ポスター等で集まった十人足らずで「相模文芸」創刊号を刊行した。
  今、彼も創刊同人も既にいない。次々と加入する仲間。17年間で百人以上の文芸愛好者が名を連ねた。
  退会者も多い。同人仲間として長い友情を求めてもいつの間にか去ってしまう。残念なことである。
  と言う私も職場生活は長続きせず堪え性の無い人生を送ってきた。せめて趣味だけでもと文芸を続けた。
  少年期は父親に堪え性が無いと厳しく躾けられたが無反省・無自覚の怠け者なので見限られた。
  勉強を装って雑誌を読み耽っている現場を見つけられて殴られ全裸にされ家から放逐された。
  教師の父親には長男失格なのだ。父親の同僚が親切に職場の世話をしてくれた。
  仙台市の眼鏡販売店員として住み込んだ。ここから始まった職場生活。転職に次ぐ転職の半生記。
   数え上げると20を超えている。その中から深く記憶に残る10社ほどたどってみたい。
   父親は同僚のおせっかいを怒り別の同僚に転職を頼んだ。市内の老舗時計店である。
  丁稚奉公は二年間。新人が入り心に余裕が出来る。自我が大きくなり自立を求める。
  母に頼み退職手続きをしてもらい職安に行く。その日のうちに市内の折箱店住み込み店員となる。
  ここも三年目についに飛び出した。新聞広告で東京の求人を見つけ連絡した。
  上野駅前の新聞店。母親からの連絡で横浜の叔父がきてすぐに退職手続きをして引き取ってくれた。
  綱島の叔父の家から川崎市の昇降機会社に臨時工として通った。それも一年で出ると日吉で自活した。
  夜間高校に通学も可能な会社である。川崎市向河原の高校に入学する。
  学生自治会の役員になり授業料値上げ反対の活動に不成功のため自棄気味に山谷の浮浪者になる。
  港湾労働などに耐えられず売血生活も送る。高校に戻り学友の会社へ入社できた。
  社内寮にも入れたのでこの会社に三年勤務する。夜間大学も受かり渋谷の大学へ通う。
  またも、学生運動に染まり革マル系の自治会役員となり街頭での一揆的暴動を繰り返す。
  日和見な性格なのでまたまた退学・転職・転居を繰り返し最後に大田区の会社で社員寮生活となる。
  労働運動を知り個人加盟労組員となり労働学校にも通う。学友とサークル詩を発行する。
  楽な労働を狙い事務員を転々とする。若いやり手専務の操り事務員で経営幹部の真似事もする。
   結婚したので妻の実家に落ち着く。池袋の義父が抱える貸家の一つに住み猫二匹とマイホーム生活。
   多忙と転職で中断した同人誌活動に戻りたく新聞広告にある池袋の文芸同人会へ入会する。
   主宰が辞めたので引き継いで活動を七年間続ける。その間にも五つほど転職している。
   義兄が男なら自分の家を持てと追い出すので、相模原に一軒家を購入して転居する。
  当然、転職してステレオ会社に入社する。辛抱して五年間も働き続ける。
  高齢になり辛いので退職する。幸運にも東京都に就職できた。通いの都営住宅管理人となる。
  めでたく六十歳で定年退職。年金生活者となり文芸同人誌活動一本で趣味の老後を楽しんでいる。
  まともに仕事が続かない失格者と言っていた人たちも、文芸同人誌の会は続けられない。
《参照:外狩雅巳のひろば

相模原市の作家・古山高麗雄作品の再読に=外狩雅巳

 このテーマの連続しての執筆は、これまでの古山高麗雄作品についての関連情報の調査結果の覚えの為でもあり、最終的には纏めて作家研究紹介文にしたいためです。
 相模文芸クラブの同人仲間に、相談したら市内の作家なら南原幹雄氏もいると教えられました。
 彼は南原氏宅に雑誌「相模文芸」を持参した事もあり同人誌に目を通していただき、歓談されたそうです。
 しかし、古山高麗雄氏についてはよく知らないそうで、調査紹介は大いに有意義であろうと励ましてくれました。
 今回の古山高麗雄論は「相模文芸」誌上での市民への紹介と文芸への注目を狙っています。
 とは言え、文芸視点での作品論は個々の単行本出版時に巻末に論者が書く以上にはならないと思いました。
 ならば、独自の切り口で展開して、古山高麗雄氏と作品の紹介に仕上げる方が良いだろうと思いました。
 そこで、菊池寛賞の受賞作品である戦争三部作を中心にビルマ戦を読み込むことにしました。
 芥川賞受賞作品の「プレオ―8の夜明け」も兵士として戦った後の捕虜収容が舞台なのです。
 復員後の戦後の作品群は、身近なテーマで書かれていますが、兵士時代の作品は現在は忘れられています。
 過去の読書記憶の上に、再度古山作品に挑戦しました。
 兵士の体験などを基にした古山高麗雄作品を読むには、当時の状況の理解が大切です。
 大日本帝国軍隊時代の兵器等の事やビルマ戦の推移なども、現代人には理解するのに大変でしょう。
 皇紀という天皇制伝説から取った年号も時々使用していますので整理も必要です。
 ゼロ戦と呼ぶのは皇紀2600年に正式採用されたので0なのです。2式戦闘機等もそうです。
 38式小銃と呼ぶのは明治38年に正式採用されたからです。ここでは皇紀ではありません。
 山砲のゼロ距離射撃等と書かれていれば兵器の詳細や性能と操作方法も調査しました。
 また、ビルマ戦についても調べました。戦場の軍隊組織も知りました。
 ビルマ戦を行ったのはビルマ方面軍です。通称は森と言われていました。
 古山高麗雄氏の兵士時代は大半が一等兵でした。それが下士官に統率され分隊となっています。
 その上が小隊で中隊・大隊・連隊と膨れ上がり一番上が師団です。
 古山高麗雄氏の高麗は古朝鮮の呼び名です。朝鮮で招集され兵士として第二師団に所属しました。
 第二師団の通称は勇です。師団の集団を戦略的に動かすのが軍で、第28軍に所属しています。
 軍を各地に配備してビルマ全軍30万を森が管轄しています。8個師団、1旅団でした。
 師団には2万人以上もの兵士がいます。点のような一兵士の視点で戦闘を描写しています。
 連発できない銃で、二人の敵兵を撃つ場面の描写と、射殺された死体の描写は読後も残りました。
《参照:戦後と文学!古山高麗雄について(5)外狩雅巳
《参照:外狩雅巳のひろば

相模原で生涯を終えた古山高麗雄のビルマ戦記=外狩雅巳

 昭和45年7月の第63回芥川賞は「プレオ―8の夜明け」の作家である古山高麗雄氏である。
  終戦でサイゴン中央刑務所に入れられた。彼の8号棟における出来事が書かれた小説である。
  前ここで紹介した作品「東林間のブタ小屋」によると相模原市内で暮らし、生涯を閉じている。
  その日常も多くの作品に残している。淡々と描かれている老夫婦の日々は読みやすい文章である。この文体を平談俗語体というのだそうだ。日常の安楽さのなかで、肩の力を抜いた、つぶやきに似た文体は、軽みをおびているだけに、そのさりげなさが、戦争の狂気と異常性を浮き彫りにするのだ。
 45歳で相模原市に移住し、50歳での芥川賞受賞である。
 朝鮮半島で生まれ、仙台第二師団の兵士となり、ビルマで戦いサイゴンの捕虜収容所に入ったのである。
 ビルマでの戦闘体験を書いた作品では、第48回菊池寛賞を受賞している。2000年、80歳の時である。
 当時私は相模原市立図書館でこの戦争三部作を読み、古山作品の愛読者となりビルマ戦記を漁った。
 ――ビルマ戦と古山高麗雄作品――
  先の大戦は日本では太平洋戦争と呼ばれてアメリカとの戦争と理解されやすい。しかし満州事変から続く中国大陸への侵略戦争の結果だとはあまり知られていないだろう。
  日本はそれを国際的に非難され、反発してABCD包囲網との対戦と、位置付けていた。Cはチャイナの事である。
  30万の軍隊でビルマを占領し、中国の雲南省まで攻め、蒋介石軍と戦ったのである。
  圧倒的多数の中国軍に包囲され、全滅した戦いで、生き残った兵士としての記録小説である。
  『断作戦』『龍陵会戦』『フーコン戦記』が、菊池寛賞の対象作品なので、まずここから読み始めた。
  凄惨な戦場描写や、敵兵を射殺する戦闘場面などが、淡々と描写され、読みやすい作品である。
  15対1の差で苦戦する全体像は、辻政信『15対1』(毎日ワンズ社発行)で理解したのである。
  現在は相模原市でも忘れ去られている作家、古山高麗雄氏を掘り起こしたいと思っている。
作者の古山高麗雄は、六十歳を過ぎてから、三千メートル級の山が連なる現地を取材して、これらの作品を書いたそうです。しかもその視点は、現在において、平和に暮らしている、作者にとって、あの戦争体験はなんであったのか。その問いかけに、自問自答しながら、振り返る。単なる、過去の記憶の再現ではない。還暦を過ぎてなお胸に迫る、現在形の問いかけなのだ。
《参照:外狩雅巳のひろば

外狩(とがり)家系と係累について=外狩雅巳

   外狩英紀ーー。弟の子供である。1973年生まれの地質学者の卵である。ネットを開けると外狩雅巳と並んでいる。
  博士課程を経過してやがては学会で活躍する未来に輝いている甥のニュースを感慨深く読んでいる。
  一市民にとっては外狩という珍しい名前は良し悪しである。それが幸いして甥の名をネットで見つけた。
  妹と弟二人の四人兄妹である。自伝小説「青春は陰りて」に書いたが私は15歳で家庭から追い出された。
  それでも妹はいもうとであり弟はおとうとである。事あるごとに連絡は絶やしていない。
  妹がネットを見たらしい。兄いちゃんはまだ書いているのねと電話が来た。彼女も73歳だ。
  満州の地で生まれた二人だ。雅巳は新京で章子は大連で生まれたのだが全然記憶には無い。
  父が復員して弟が二人生まれた。上の弟は仙台で成長し70歳になった。
  73年に生まれたその息子が英紀だ。瞬く間に歳月が過ぎ去り次の世代が活躍する社会になっている。
  父も母も世を去った。もうすぐ私たちも寿命が尽きるのだ。満足して死んで行けるとは思えない。
  妻は六歳下である。人は死んだらゴミになるが口癖で生き急いでいる。子の無い夫婦の終盤。
  弟の子でも外狩の名をネットで見つけるとバトンを渡したくなる。外狩は永遠だと無理に信じている。
  とはいえ私は私である。生きた証を書き残したいのだ。
 《参照:外狩雅巳のひろば》 
■関連情報=外狩雅巳の自分説話(一)京浜工業地帯労働者の光と影

相模原の芥川賞作家としての古山高麗雄=外狩雅巳

 地域文芸同人誌「相模文芸」で活動して17年になる。創刊号から作品掲載を続けているが相模原市については書いていない。
 市民文芸を売りにして来たが文芸同人誌の体裁を整えることに重点を置いてきたようだ。
 全国の同人雑誌に伍して競う事等に奔走して来た。それなりの成果もあり全国に名が知れ渡ったと思う。
 今回は相模原市を眺め市民文芸として何をすればよいかいろいろ考えている。
 相模原市からは芥川賞作家が輩出されている事はあまり知られていないのでそこから始めたい。
 第63回芥川賞を小説「プレオー8の夜明け」で受賞した古山高麗雄(1920年- 2002年)について書こう。
 雑誌「文学界」2000年9月号に掲載されている「東林間のブタ小屋」という作品を読んだ。
 そこには氏の住所なども記されている。相模原市上鶴間となっている。ここで生涯を終えている。
 作品や人生を知るにつけ思わぬ共通点もあり引き寄せられて評論同人誌「群系」に寸評を書いた事もある。
 旧陸軍の仙台第2師団の兵士として激戦場に晒されている。私も仙台出身であり作品にも書いている。
 千台の少年時代。父の子育て方針は自身の軍隊経験で軍歌や軍人勅諭等の暗唱を強いられる日々だった。
 戦争小説に興味を持ったのも自然な成り行きである。出会った作品が辻正信氏の作品である。
 太平洋戦争でビルマまで侵略した戦記である。やがて劣勢となる北ビルマの守備兵たちの苦戦記である。
 「15対1」という題名に引き寄せられて元大本営参謀・辻正信作品を読み継いでいった15歳の日々。
 北ビルマの敗北戦争は戦史にもあまり載らず忘れられた戦場の一つである。
 圧倒的多数の蒋介石の中国軍に押しまくられ玉砕する各地の駐留兵士の物語である。
 生き残った者として冷静に体験を作品にした古山高麗雄氏。
 少年期の脳裏に刻み付けられた強烈な読書記憶が、半世紀後によみがえってきた。
《参照:外狩雅巳のひろば
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「詩人回廊」は文芸同志会員がつくる自己専用庭でできています。連絡所=〒146−0093大田区矢口3−28−8ー729号、文芸同志会・北一郎。★郵便振替口座=00190−5-14856★