2008年11月

2008年11月28日

おくりびと

・うまく騙してくれない。
例えば本木扮する主人公が就職するくだりでも、広告の誤植ならそれでも良いが、山崎が書き直すところを見せなくとも良い。観客は「就職した」ということがわかれば先に行きたいのだ。わざわざリクツで納得させなくともリズムで引っ張るほうが良い。

・音響が作為的でしかも、常套の域を出ていない。
感動(してもらいたい)場面では盛り上がり、感傷的な場面ではそれらしく。いつの時代の作品かと思う。

・複数のストーリーの扱いが良くない。
「これ一つで充分一本の映画になる!」と思う話を贅沢にさりげなく挿話として使っているという意味ではない。いくつかのストーリーを並行させるにしてもポイントの置き方が曖昧。捨てることも時には必要。

・お説教、道徳、教訓めいた臭みがある。
説明の必要なし。

・制作している人間の考えを結論としてしまっている。
「死ぬ」とは?「命」とは?「生きる」ということは?それは観た人が考えること。映画を作る人は映画を作ればよい。

・登場人物が類型的
パターン化された人物形成で、山崎、本木、余、吉行をもってしても充分には息を吹き込めていない。

・主人公が仕事をしていて遭遇する複数の出来事が似たり寄ったり。
悲しみ、悔しさ、怒り、反感、焦燥などがつまりは感謝に変化するということなのか?

・長すぎる。


伊丹の「お葬式」や周防の「シコ踏んじゃった」の本歌取りもあったリもするが、残念ながらその部分が浮いているように思う。

映画はウソだ、ということはみんな知っていて観にいく。
現実にありそうだと思わせることと、現実にあリそうなことを見せるということは違う。


滝田洋二郎さん、映画と観客をを信じて下さいな。

部分部分では面白いところもあったが、残念でした。



2008年11月22日

カッターハウスの小顔コース

十一月も残り十日足らずとなりました。
クリスマス、忘年会、新年会などでお集まりの機会も多くなるこの頃、あなたの美しさを一層印象深いものにするため、カッターハウスでは、年末特別小顔トレーニングを致します。

特別講師は、おなじみ、コンテッサ・デッラ・カンタータ。
ぴょんきちさんのお母様でいらっしゃいます。
会員の皆様のため、特にイタリアはミラノから来日なさいました。

がぶがぶ1

「小顔になるためには、咀嚼筋を鍛えることが大切です。
 わしわし。」


がぶがぶ2
「一日一個のボール破壊が適量と思います。あなたの顔面筋は鍛えられついには念願の小顔になられますのよ。わたくしのように。 ばりばり。」


定員になり次第締め切りますので、どうぞお急ぎ下さいませ。



2008年11月21日

ハロー!

電話が鳴った。
「電話回線の変更のお知らせです。」
何かシステムでも変わったのかしらん?

「お客様は今電話とインターネットの料金を払っていらっしゃいますが、回線をうんたらかんたらして、電話料金とインターネット料金をなんとかかんとかして、何年後にはどちらかが今よりもお安く云々。」
??じっと聞いているがよくわからない。

「ところでお客様は現在インターネットはお使いですか?」

はは〜〜ん。
攻撃開始!
「この電話はシステム変更のお知らせですか?それとも勧誘ですか?」
「勧誘ですけど。」
「ならば結構です。」

最初の一言で、決定事項のお知らせかと思う人はいないのだろうか?
そして、「移行」に関する手続きに流れ込んでしまう人もいるのではないだろうか?
似たような電話をもらい、長々と話をされて結局は勧誘と判明して断ったことが何回かある。そんなうっかり人間はわたくしだけだというのなら良いが。

「適合性の原則」ってご存知ですか?
「その品物やサービスがその人にとってどんなふうに必要かつ有効であるかを理解させることなく販売してはいけない。」という原則であり、違反した場合には罰則もあるのですよん。

うっかりするとこれは詐欺ですってば。

こういう無理をして成し遂げてきた経済成長であり、こういう無理をしなければ成長しないところまでわたくしたちは来てしまっているのだ。

大体「今よろしいですか?」の一言もなく電話で自分の言い分を話し続けるのはそもそも失敬です。

NTTさん。
今度電話して来たら、「カッサンドラ先生による電話のマナー教室」の勧誘をしてあげましょうか?



2008年11月20日

男子三年片頬

品とは何か?

困った。

昔すごい人を知っていた。
その職場では、年に一回ぐらい上司が全員にケーキをご馳走してくれた。彼が長い休暇で留守にする前なんかに。
女性達が協力して大きな箱に入った沢山ののケーキを皿にとりわけ、お茶を入れ、上司のオフィスに集まってのテイータイムを楽しんだものだった。
そういうときその人は、ケーキをお皿に載せる前に一個一個を郵便物用のスケールで重さを量っていた。なぜか?
一番重いのをご自分が頂くために。
やはり手作りのケーキには重さのばらつきがあるらしく、彼女の前にはいつもひときわ大きなケーキが鎮座していた光景を忘れられない。食べ物の恨みではありませんが。では彼女は品がないか?
上品な行動とはいえない。さりとて、下品とも言い切れないものがある。
その方は大変に押し出しの立派な、仕事も良くできる女性だったが、つまりは一種の無邪気さから来ていた行動だったと思う。「沢山食べたい!」という一途な望みに従っていただけだったと思う。
あれほどまでに堂々とできる自信がないから自分ではやらない。

森茉莉は頂き物をすると「そんなにしていただかなくても。」と口では言いながら顔は嬉しくて笑ってしまう、と書いていたが、それに共通するかわいらしさのようなものがある。これは本当に、それをする人によって受ける印象が違うものだと思う。

田辺聖子の本に「人間は笑ったときと食べるときにその人のクラスが出る。」というオソロシイ言葉があった。

わーい。

吉田茂は、たった一人の夕食でもちゃんとダイニングルームで威儀を正してお食事したそうな。かっこいいと思うぞ。一人のときでも、というのがポイントだ。
お孫さんは、如何かな?
無理そうな気がする。

タキ・テオドラコプロスは「スタイルというものは、あるか、ないかだ。」というようなことを言っていた。家柄やお金ではない、とも。
チャーチルはあったそうな。

「小早川家の秋」には「品行は直せても、品性は直らない」という有名な台詞がある。

品、スタイル、クラス、言い方は違ってももしかしたらどこかで共通する資質を指しているのではないかと思う


ちなみにタイトルの言葉は、見て字のごとく、男子は三年に一遍ぐらい片頬で笑うぐらいにするものだ、ということらしい。
笑ったらクラスが出て困るからですか?笑ってしまった後は、威厳が失墜して重きを置かれなくなったりしてね。
確かに、おっかない顔なのに笑うとかわいい男子もいる。
あんな笑い方をしなければ良いのにと見ていて思うこともある。

自分の笑い顔を写真などで眼にして、ショックのあまり「残りの人生は石のような顔で生きていこう。」と堅く決心することもある。


よいですか?

これは大きいほうですか?

2008年11月17日

ハンマースホイ

見る人の視線を奥へ奥へと誘い込むのに、入り込まれることを拒否している。初期の風景画からすでにそうだ。そこでは私たちは吸い込まれそうな遠景と、被写体の前にある摺りガラスのような空気の存在を同時に感じてしまう。

誰もいない室内を描いた作品を前にすると、線の微妙なゆがみや揺らめき、光線のリアルさと非現実的な光景に、自分の立っている位置がわからなくなるような奇妙な浮遊感を覚えることになる。たとえ人物が描かれていても、足許と床の境がはっきりとせず、また背景に溶け込みそうだったりもしていて、例えばその人物と共に描かれているカップとかチェロなんぞの方がよほど存在感を放っている。


卓越したテクニックを持っていたハンマースホイにとって、リアルさとはなんだったのだろう。もし、これが彼の見ていた風景だったのだとしたら対象との間に常に拒絶の空気を感じて生きていたのだろうか?
晴れているのに暗い空、憧憬を感じつつ決して届かない遠くの風景。そばにいるのに背中だけの人。光はいつも遥かにあって、太陽は雲の上隠され、海は塀の外にあるらしい。決して交わらない視線(小津の映画のように)。

わたくし達は「絵」を見ているのではない。
彼が解体し、再構築した「世界」を覗かせてもらっているのである。宙吊りにされたままで。


ハンマースホイ2

2008年11月14日

井戸知事とインドの父

これをシンクロニシティといわずになんと言う?

昨夜「映像の世紀」の再放送をぼんやりと眺めていた。
インド独立運動の指導者ガンジーは、第一次大戦の際に占領国である大英帝国に協力を求められそれに応じたということだった。その際にガンジーが言ったこと。

「我々は他国のピンチから利益を得ようとしてはいけない。」

一方
「関東大地震は我々のチャンスだ。」

比べてみるまでもなく、情けなくて涙が出る。


当然ながらガンジーには、インド独立という最終目標に到達するためにはその方が得策だという考えが働いていたことは論を俟たない。
また、英国からは期待していたほどの見返りもなかったという話でもある。
しかし彼は故国の独立を果たした。

目的を達成することと、そのためにでもに恥ずべきことは何もしなかった、ということは同じくらい大切なのではないかと思う。むしろ後者のほうが人間としての誇りには重要な意味を持つのではないか。

「恩を売っとけば」
と井戸くんあたりは言うのだろうけど。






2008年11月13日

給付金といわれても・その二

せっせと働いて得たお金から徴収され、使途も明確ではなかったり、無駄な使い方もされている税金の中からほんの少し返してもらって感謝すると思っているのだろうか?
真面目にこの国の未来を憂えている人間だったら、莫大な費用と手間をかけてそんなことをするよりも、もっと必要なことに使うべきだと思っているのではないか?
数万円でももらえるなら普通の人は嬉しいはずだが、同時に「え?いいのかな?」と思うのではないか?その気持ちに正直になったら、もらって嬉しいとだけはいえない筈だ。借金だらけの日本にそんなことをする金銭的、人的余裕はない。

お役人と一緒になって税金を食い物にしていたらこの国は絶対に滅びる。
第一、本来の目的である「景気刺激策」として効果的と言えるのか?

同じ国庫に対する負担ならば、期限を区切っても、食品と生活必需品にかける税金をなくしたほうがまだ効果があるし、手間もかからないと思う。
それが無理なら、生活保護を受けている人、母子家庭の人、国民健康保険に入れない人などに給付すればよい。生活保護を隠れ蓑にしている人がいることは私も知ってはいる。でも、いいではないか。たとえズルする人が得をしても、本当にもらって一息つける人にも確実に渡るのなら。

必要ないし、はした金だから受け取るつもりのない麻生さん。
必要だし、はした金でもないけれども辞退しようかと思っている。

言われませんでした?子供のころ。
「むやみに人から物やお金をもらうものではありませんよ。」って。

タダほど怖いものはないのだ。

呉れてやったものを返してやると言われても困惑する。
いりません。
その代わり、税金の使途はクリア、明瞭、公明正大にしなさいね。ここでもらってしまっては、使い途に文句も言いにくくなる。

ただし、辞退すべきだとは思わないし、もらう人を批判するつもりも全くない。


源氏物語ーぴょんきち版ー空蝉

方たがえに行った先で一夜をともにした空蝉を、源氏は忘れられない。
空蝉の弟を使いこっそりとその様子を覗き見る。

空蝉2



碁を打っているさまも奥ゆかしいこと

空蝉3


夜更けにもなったことだし忍び込んじゃおうっと。



空蝉


衣を引きかついで眠っている空蝉にささやきかけたら



空蝉4


人違いでした!!

その口は

兵庫県の井戸知事が「関東大震災が起こったらチャンス」と発言したことについて批判が高まっている。
当たり前です。
東京都の石原知事の「他人の不幸を自分のチャンスと称することは日本人の感性になじまない」という発言には「日本人の感性」云々は別にして、今回ばかりは同感する。誰の感性にもなじみません。

井戸知事はもしかしたらこう言えば良かったのかもしれない。
「現在日本の首都機能は東京に一極集中しているが、これは危険も含んでいる。関東に大地震が起こることも想定されている今日、一旦事が起こったら国家が機能しなくなる可能性もないとは言えない。そういうときのために首都機能を分散することも考えなければいけない。兵庫大阪は東京に代わってその任を果たす環境をを備えていると自分は思う。」
言ってよいのはここまでだろう。

そして密かにつぶやく。
「それを示す機会もあればよいのだが。もし関東に大地震が起こったらこちらで首都機能を代行したいよう。その為のインフラも整備したい。失業者の吸い上げにもなるし。その上で、首都になったら経済も活性化するしなぁ。そうしたいよう!」
彼がこっそりとこう思っていることぐらい誰にでも察しはつく。

ところが実際に口にしたのは上記の幼稚かつ品のない言葉だった。

どうしてこうなるのか?

どんな人でも、自分の意見を言うときは意図するところを明確にしなければいけない。考えをいわば立体的に見つめて、疑問さらには疑念を起こさせないように言葉を尽くさなければいけない。そのためにはもちろんよく考えた上で物を言わなければいけないのだが。
何も多弁になれと言っているのではない。
一つの発言に付随してくるものに丁寧に配慮しろということだ。
井戸知事にはこの配慮が決定的に欠落していたということである。このことだけ見ても彼には大人の人間たるものが備えているべき資質を欠いていると言わなければいけない。

全体の文脈を考えないで一つの発言だけをあげつらうのもいかがかと思うが、公人たるものその危険は常に念頭においていなければいけない。

「その口は何のためについているのか!」



2008年11月11日

給付金といわれても

二兆円規模の給付金のための実施本部が発足したんですって。
不況になればなったでお役人は忙しいですこと。

この給付金のための費用が一千億円だそうです。
一千億。二千人分位のお役人の退職金がまかなえますね。一人五千万円で。
あまり景気対策にもならないようなことをするためにお役人の仕事を増やしてあげるよりもこちらのほうが行政改革という目的には適っていると思う。

麻生さんは給付金を「もらうつもりはない」そうです。

あのね。
一人あたりの1万6千円という金額はあなたには何の意味もないはした金でしょう。でも、それがはした金とは言えない普通の人にとっても、そんな金額をプレゼントされて将来に明るい展望が持てる、などという事はあり得ないということをあなたはわかっておいでなのだろうか?

ようく考えて見ましょう。
この金額は、32万円買い物をしたときの消費税額に相当する。四人家族だと128万円です。約一年分の食費ぐらいにはなるのでないか?
つまり、国庫に対する負担としては例えば向こう一年間の食品にかけられる消費税をゼロにした場合と同じなのである。わたくしとしてはこの方がずっとありがたいし、
本来の目的である景気刺激策としてはこの方がはるかに有効であると考える。
如何かな?

どうして、ないないと言っているお国のお財布から膨大な費用をかけてまで二兆円支出して、大して効果もないことをするのか本当に理解に苦しむ。その方がご都合がよろしいことでもあるのですか?

おまけにこんなことが選挙対策になると思っているのなら、非難するほうもされるほうも同じ程度の品性としか言えない。
アホらしい。