2016年12月

2016年12月27日

IT技術によるディスコミュニケーション

ある方に連絡の必要が生じた。

自宅に電話。
お留守。
携帯に電話。
出ないが、メッセージを残した。
加えて携帯メールも出しておいた。

レスポンスは、なし。
次の日外出してお昼頃帰宅したら、家の電話にメッセージ。

電話する。

開口一番
「ワタシ、携帯に出ない人なの。」
そうですか。

用件を済ませる。

しばらくするとわたくしの携帯が、鳴る。

彼女からだ。
出る。

がさがさ、ごそごそ。
もしもし、もしもし、と連呼しても反応、なし。

切る。

また、鳴る。
出る。

「あれ?
 カッサンドラ?」
そうです。

「携帯に着信があったので、とりあえず掛けてみたの。
 じゃ、さっきの件ね?」
そうですよ。
「もう、いいんだ。」
は〜〜い。

また、鳴る。
またまた彼女から。
出る。
がさがさ、ごそごそ。そして
「とりあえず掛けてみる。」
という彼女の声。そばに誰かがいるらしい。

もしもし。
もしも〜し。

反応、なし。




2016年12月24日

鐘の中


「道成寺」
はプロの能楽師が必ず乗り越えなければいけないステップの一つである。

その前には
「猩々乱」
を披いている。

わたくしの知っている
「乱」
は、稽古していない人にとっては、観ていて面白い能では、ないと思う。
とりたててストーリーもないし、面や装束だけ鑑賞して過ごすには
長すぎる。
へんてこな身体の使い方だって、しばらく観ていると
飽きる。そう
「乱」
は、身体に無理な姿勢を長時間取らせるものだ。

しかし、
無理な姿勢とは言ってもそれは
「無意味な姿勢」
では、ない。

能を演ずる上で必要な身体能力を欠いていてはできないものだ。
思うに
「わたくしは、ホレこのように鍛えてきました。
ですから能楽師シテ方としてやっていっていいですよね?」
という意味合いが、あると思う。
多分。

そして
「道成寺」
は身体的にも心理的にももっと、負担が大きい。

心理的な側面から言えばもうこれは、若手の能楽師にとっては
拷問に近いものなのではないかと想像する。

神経と身体を酷使する「乱拍子」
を終えて
これまた恐ろしい速さの
「急之舞」
の後、鐘を見込み、烏帽子を扇で払い
鐘に飛び込む。
ここでもう、極限状態のはずだ。

そして、鐘の中で一人で装束とカシラを替え
面を替える。

一人で。

鐘の中はうす暗いらしい。
中に装備してあるポケットの中から
必要な品を取り出し、狭いところで時間内に支度を、する。
あ、アレを忘れた!
ということも、あってはならない。

普段シテを務める時には
後見やその他の働きの人達が着付けをしてくれる。
シテは偉そうに立っていれば、よい。

でも
「道成寺」
ではたった一人で、しかも相当苦しい環境の中それをする。

鐘は舞台の真ん中にある。
重いものではあるが、外界と隔てるものは布一枚。
見所で待ち構えている人達の熱気だって感じるだろう。
守られているようで、守られて、いない。
見られていないようで、見られている。

鐘の外では狂言方やワキ方によって、容赦なく刻々と時間が流れていく。
ちょっと待って、というわけにはいかない。
鐘が上がったらペットボトルが、落ちていた
などということなぞ論外だ。

たった一人の忙しい孤独な時間。
鐘が上がれば一斉に人々の視線が集中するはずだ。
待ち構えている人たちの気配がひしひしと、迫って来る。
何があっても一人でこの場面を乗り越えなければいけない。
なにが、あっても。

泣いても喚いても、だれも助けてくれない。でも
何回も稽古したのだからうまく行くはずだ。

プロなのだから。

あれを済ませた
これも済ませた
これは、よし!

ああ、そろそろだ。

鐘が、上がる。

****************

こんな時間を克服したという事実が
プロという孤独な道を歩む支えとなるのであろうと
わたくしは想像する。



selber at 15:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 思うこと

2016年12月12日

表意文字

テレビをよく観る人間では、ない。
観ない方だと思う。

それなのにどうしてこうも気になる事が頻出するのだろうか?

NHKの
「SONGS」。
薬師丸ひろ子だった。

高倉健の思い出を語っているところだった。

若いころ高倉健に受けた心遣いや、思いやり
導いてもらったこと、などを語り、今は自分が
「若い人の思い(だったか?)を、すくい取ってあげたいと考えている。」
という内容だった。

字幕が付いている。
「救い取って」
と、なっていた。

これは
「掬い取る」
だろう。
なんなら
「すくいとる。」
のままで構わない。
どう考えても
「救う」
のでは、ない。
前後の文脈からして薬師丸ひろ子は
「汲み取る」
の意味で言っていたのだから。
結果として、救うことになるのかもしれないが。

薬師丸さん、どうお考えですか?

NHKには、視聴者に伝えるという、真剣さが、
ない!
自らの使命を否定している。

問題は、たまたまテレビを付けたらこの番組を放映していたということだ。
わたくしがこの番組を観ていたのはものの数分。

それで、コレだ。



2016年12月09日

声と笑顔 漱石先生

漱石の声は、どんなだったか?

漱石の命日に当たる今日、ニュースで
「漱石のアンドロイド」
について報告されていた。

漱石にそっくりのそのアンドロイドの声は
孫の房之介さんの声を録音し、分析して作った、とあった。

聴いてみると
「ちょっと、違うかな?」
と、思った。

漱石の声については、野上弥生子が
「深くて艶のある、いい声だった。」
と、語っている。
アンドロイド漱石君の声は、テレビで聞く限りではそうは感じられない。
少し、高い感じがする。

でも、この房之介さん、お顔がおじい様にそっくりだ。
ということは、骨格が似ているのだろう。
したがって、声も似ているはずだ。
こんなだったのかもしれない、とも、思った。
もしかしたらね。

そして
アンドロイドに表情をつけるのに苦労した、という件りで
「漱石の笑顔の写真は、一枚も、ないのです。」
というキャスターによる言葉。

あるのです。
有名な写真が。

確かに、漱石自身もほのめかしているように
もしかしたら
「手を加えて」
笑顔に見えるようにしたのかもしれない。
つまり、修正を施した
の、かもしれない。
しかし
この写真の漱石は、確かに笑っている。

ないのです。
と、言い切るのは如何でしょうか?

存在しているのですからね。

大勢のスタッフの中には誰もこのことを知っている人は
いなかったのだろうか?

このような半端なコメントを言わせるぐらいなら
ただ、取材して流すだけの方がまだ
マシというものだろう。

アホウではなかろうか。



2016年12月08日

正確ではない引用で申し訳ないのだが
小さいころ家にあった
「どくとるマンボウ航海記」
を読んでいたら、こんな文章に出くわした。

「たとえば買うのが恥ずかしいものについて
自動販売機があると、良い。
ヤキイモなど。
ちなみにハンブルクのトイレには
ゴム製品のそれがある。」

ほんのコドモだったわたくし。

ゴムでできた自動販売機から
ホカホカした焼き芋が
ぐにょ〜〜
っと出て来るのを想像した。