2007年02月25日

ブラジル歴代クラッキ列伝 SB編

Nilton

第一弾に引き続き、今回はブラジルでラテラウ(翼)とも呼ばれるサイドバックの特集です。ブラジルとアルゼンチンはどちらも攻撃的で有名だが、その最大の違いはラテラウの役割であるといわれます。最近ではサネッティ、ソリンと攻撃的なサイドバックが活躍し、そんな印象は受けないかもしれないが。今回はそんな王国のサッカー史を彩った名ラテラウたちを紹介したいと思います。

1.ニウトン・サントス
 写真の老人である。彼はFIFAが選定する20世紀ベストイレブンにも選ばれた伝説の左サイドバックだった。50年大会から62年大会まで4回連続ワールドカップに出場し、二回の優勝と一回の準優勝を経験した偉大なタイトルホルダーで、ロベカルの原型とも言える、世界のサッカー史上で最初にして最も攻撃的なラテラウでもあった。彼を最初にあげたのは、それ以前のブラジル代表では2バックが主で、ラテラウという定義が存在していなかったからである。58年大会、監督の指示を無視してハーフラインを越えて攻め上がった彼に、ビセンテ・フェオラ監督は激しく怒鳴ったが、ゴールを決めて戻ってきたときには「よくやった!」と手放しで喜んだという。クラッキを擁するチームで優勝監督になるのはいかに簡単かがわかるだろうw 彼はボタフォゴというクラブで長年活躍したが、ベテランの域に達してからは監督補佐的な役割も任された。プロテストを受けに来たガリンシャにドリブルで面白いように交わされ、その才能を認め即入団を許可。後にフェオラ監督にもガリンシャをスタメンにするように懇願。ガリンシャのその後の活躍は言わずもがなである。

2.ジャウマ・サントス
 ニウトンとのサントスコンビでセレソンの黄金時代を支えた偉大なる右サイドバック。ワールドカップには54年から66年までの4大会に出場、二度の優勝を経験している。クラブレベルでは名門パルメイラスで一時代を築いた。強靭な体と果敢な攻撃参加は相手にとって大きな脅威であった。

3.カルロス・アウベルト
 彼に関しては1970年大会のワールドカップアーカイブをご参照いただきたい。

4.マリーニョ・シャガス
 1974年大会に出場した左サイドバック。ブラジルサッカーの低迷期のせいもあり、この時代のセレソンはあまり人々の印象に残っていないが、彼はその金髪をなびかせて左サイドを疾走する姿で多くの女性ファンを虜にした。

5.ネリーニョ
 74年大会と78年大会に出場した右サイドバック。78年大会の直前に代替召集を受けた彼は、ロベカルのバナナシュートを凌ぐスーパーゴールをイタリア戦で記録している。前線の右サイドでボールを受けた彼はワントラップして、まさか狙わないだろうという距離で右足を振りぬいた。アウトサイドキックで蹴られたボールは強烈なカーブをかけてゾフを襲い掛かった。早くて曲がるそのシュートの威力にさすがのゾフも手が届かず。ワールドカップベストゴール集で必ず登場するスーパーゴールだった。

6.レアンドロ
 82年大会で右サイドの風となった名ラテラウ。歴史を語るときに黄金のカルテットの影に隠れがちだが、その黄金のカルテットでさえも彼の攻め上がりのためポジションを左寄りにしたということからも彼の攻撃参加の頻度が推測されよう。続く86年大会も最終メンバーに呼ばれたが、大親友のレナト・ガウーショが夜遊びで合宿所を抜け出したことで規律に厳しいテレ・サンターナが激怒し、メンバーから外したことに失望し、自らもセレソンがブラジルを発つ当日、リオの空港に姿を現さなかった。そんな個性派の彼はフラメンゴでジーコらと黄金時代を築いたのち、CBに転向しても成功を収めた。

7.ジュニオール
 82年、86年の2大会に出場した左ラテラウ兼ボランチ。レアンドロとの左右のコンビでセレソン及びフラメンゴを長年支えた。ロベカル同様、超攻撃的ラテラウで名を馳せた彼はどちらかというとテクニシャンの部類に属し、スピードではなく華麗なテクニックで相手を翻弄した。ニウトン・サントス以降最高の左サイドバックとの呼び声も高い。86年ではファルカンの負傷が完治せず、ユーティリティ性を買われた彼はボランチとしてそのゲームメイク力を遺憾なく発揮した。

8.ブランコ
 86年大会でボランチに抜擢されたジュニオールの後釜を務めた若手が彼である。フランス戦では値千金のPKをもらうもジーコが外し、PK戦にもつれこまれて悔しい敗戦を経験した。続く90、94年大会にも出場し、94年大会はレオナルドにレギュラーの座を奪われるも、ラフプレーを働いたレオナルドが決勝まで出場停止という大ピンチを救い、点の取り合いになったオランダ戦では決勝ゴールの三点目を強烈なFKで叩き込んだ。今ではCBFでユース代表のテクニカルディレクターとして活躍し、若手の育成に全力を注いでいる。

9.ジョジマール
 86年大会、レアンドロの土壇場での辞退を受けて急遽召集されたシンデレラボーイ。というのは、レギュラーの座をエジソン・ボアロから奪っただけでなく、グループリーグの二試合で二つの強烈なゴールを決めたのだ。一つはゴールネットをも突き破らんばかりに打ち込んだミドルシュートで、もう一つは相手選手を3人交わしてのゴールだった。右サイドバックはセレソン史上もっとも美しいゴールを決めるという伝統を、70年のカルロス・アウベルト、78年のネリーニョに続いて守ったのである。

10.ジョルジーニョ
 鹿島アントラーズでも活躍した右サイドバックで、精密なクロサーとして鹿島の全盛期を支えた。今では代表監督のドゥンガの補佐役として重任を任されている。クラブレベルではフラメンゴとバイエルンミュンヘンで活躍し、ワールドカップには90年と94年大会に出場した。後者では優勝を経験したが、決勝戦前半で負傷退場したのをきっかけに、優勝の瞬間をピッチで味わえなかっただけでなく、その後セレソンのレギュラーの座をカフーに譲った。

11.カフー
 ブラジル製ペンドリーノ(イタリアの新幹線に当たる高速列車)、それが長年セリエAで右サイドを疾走した彼のあだ名である。テレ・サンターナ率いるサンパウロで92、93年とトヨタカップを連覇した彼は94年大会のメンバーに呼ばれ、シシーニョ的な存在として国民に大いに期待された。その後パルメイラスに移った彼はスペインのサラゴサに短期的に移籍したこともあったが、彼が最終的に活躍の場を求めたのはカルチョの国だった。ローマではバティステュータらが在籍したシーズンでスクデットの獲得に貢献、37歳を目前にした今なお、ロッソ・ネッロの第一線で活躍している。代表では98、02年と不動のレギュラーとして君臨し、02年はエメルソンの負傷欠場を受けキャプテンに抜擢され、横浜でワールドカップを掲げた。06年はシシーニョの押し上げもあったが、パレイラの厚い信頼を受けた彼はワールドカップ通算出場記録を更新し、敗退の責任者の一人と指摘されてもなお、代表召集に応じる意向を示している。この精神力こそキャプテンに必要な資質なのかもしれないが…w

12.ロベルト・カルロス
 ロベカルの愛称で親しまれている俊足小僧である。93年のワールドユースに18歳で出場し、決勝でフィーゴ率いるポルトガルに惜敗。二人の直接対決は後にクラシコでも何度となく名場面を提供してきた。ワールドユース出場も、17歳でA代表にデビューした彼にとってはおまけにすぎなかったのだろう。94年大会で失意の落選を経験した彼はルシェンブルゴ率いるパルメイラスでさらに一皮剥けて、国内リーグ2連覇に貢献。名実ともにセレソンの6番となった彼は96年にインテルに移籍、97年にはロナウドと入れ替わる形でレアル・マドリードに加入。ここから彼のタイトルラッシュが始まった。独特な助走から繰り出される強烈なFKは時速150キロに迫るとも言われ、100メートルを10秒台で走りぬけ、太もも周り100センチを越すモンスターに成長した彼は、レアルでリーガ、CL(3度)、セレソンでワールドカップ優勝と、個人タイトルのバロンドール(97年に二位)やFIFA最優秀以外はすべて総なめにしたといってもいい。97年に行われたプレワールドカップ大会のフランス戦で、壁を巻く信じられないようなバナナシュートを決め、物理学者たちの間でもそのメカニクスは議論の的となった。ロナウドに次ぐスターとして臨んだ98年大会では惜しくも準優勝に終わり、さらに決勝前にロナウドがひきつけを起したと証言したことで、一時期はロナウドとの関係がこじれたとも言われたが、2002年の優勝やロナウドのレアル移籍で公私共に大親友といえる存在に。06年大会はフランスとの試合でアンリのマークを怠って失点につながったとして大いに批判され、年齢的な理由も加わってセレソンからの引退を発表。カペッロ就任で少し冷遇を受けるが、今でもレアル・マドリードの精神的支柱として、在籍10シーズンの風格を漂わせている。


ブラジルというラテラウ大国の歴史の中には、彼ら以外にもすばらしい選手は枚挙に暇がない。ゴレイロ編が12人だったことから今回も12人に限らせていただいた、左右二人いることを考えれば24人を挙げるべきところだったのだが。

これから期待のRB:ダニエウ・アウベス(セビージャ)、シシーニョ(レアル)、マイコン(インテル)、ラフィーニャ(シャルケO4)
LB:マルセロ(レアル)、アドリアーノ・コレイア(セビージャ)、マクスウェウ(インテル)

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