2007年02月26日

ブラジル歴代クラッキ列伝 CB編

pereira

サッカー王国のブラジルにあって、ザゲイロ(CBのブラジルでの呼び方)は他のポジションと比べるとだいぶ遜色してしまうが、それでもその長い歴史を紐解けば何人もの偉大なクラッキが存在する。第4弾ではそんな守備の重鎮の彼らを取り上げ、これをもってディフェンシブなポジションを終わりにしたい。

1.ドミンゴス・ダ・ギア
 セレソン史上でも一、二を争う名ディフェンダーだった彼は、1938年大会でディフェンスリーダーとして活躍した。惜しくも優勝したイタリアに負けを喫したが、彼のパフォーマンスは大会ベストイレブンという評価を得た。第二次世界大戦による二回の中断で、ワールドカップとはあまり縁がなかったが、実際彼は再開した1950年大会の直前までセレソンの守備を支えた。プレーが映像に残っていないため、技術レベルは定かではないが、伝説のザゲイロとしての彼の地位は確固たるものである。

2.マウロ
 1962年大会の優勝キャプテン、サンパウロやサントスで長く活躍した。ペレとともにサントスのインターコンティネンタルカップ連覇などに貢献した彼は最もタイトルに恵まれたザゲイロだった。1958年の初優勝メンバーでもあったが、監督のビセンテ・フェオラはベリーニの方がお気に入りのため、出場機会を得られなかったが、実力ではブラジル国内で彼に匹敵できるザゲイロはいなかった。ニウトン・サントスと顔が激似で、集合写真ではよく見分けが付かない(僕だけかもしれないが)。

3.ベリーニ
 1958年大会の優勝キャプテン、バスコで活躍した。イタリア系移民の後裔であった彼は甘いマスクと紳士的な雰囲気で女性ファンから大人気だった。今でこそ慣例となっているが、ジュール・リメ杯を両手で天高く持ち上げるポーズを最初にやった優勝キャプテンは他ならぬ彼だった。ベリーニ曰く、それは周りのカメラマンたちのリクエストに応えたものだったらしい。

4.ブリト
 66年大会と70年大会に出場したファイターである。闘志あふれるプレーでファンから愛された彼だが、能力値はさほど高くなかった。70年大会では自らのパスミスで何度もピンチを招き、失点も喫した。彼が大会後叩かれずに済んだのはひとえにすばらしい攻撃陣がいたからであろう。

5.ルイス・ペレイラ
 写真に写っている、いかついタフガイである。ワールドカップには74年大会に出場しただけだったが、ジャイルジーニョら攻撃陣が不発の中、四位を確保できたのはひとえに彼の奮闘によるものだったろう。頭脳的なチームプレーで「アカデミー」と呼ばれた最強パルメイラスで活躍した後、スペインのアトレティコ・マドリードに移籍。海外で最初に成功したブラジル人DFでもある彼はセレソン史上最高のザゲイロとの呼び声が高い。

6.オスカール
 78、82、86年大会に出場した名CBである。サンパウロで長く活躍した彼は空中戦に滅法強く、黄金のカルテットがカテナチオに屈した試合でも終了直前に惜しいヘディングシュートで救世主になりかけた。最終的にはコンビを組んだルイジーニョが大会ベストイレブンに選ばれたが、ディフェンスリーダーは間違いなく彼のほうだった。

7.エジーニョ
 オスカールと同時代のCBで、同じく3大会に出場を果たした。78年大会で左サイドバックとして活躍した彼は、82年に控えとして屈辱を味わったが、86年大会ではキャプテンとして最終ラインを統率した。顔立ちが今で言うとレオナルド・ディカプリオに似ていて、当時はさぞかし女性ファンも多かったことだろう。ヨーロッパ移籍を果たした彼はジーコと同じチーム、ウディネーゼでプレーした。

8.ジュリオ・セザール
 気まぐれな性格で知られる彼は、ブラジルのザゲイロの中で最もヨーロッパでタイトルを獲得した選手でもある。86年大会の直前に代表でビューを飾った彼は、終わってみれば不動のレギュラーとしてエジーニョと鉄壁のディフェンスを形成していた。黒人特有の抜群な身体能力で空中戦を制し、90年代のセレソン背負って立つ男として期待された。しかし90、94年大会は出場を固辞、早々と代表を引退してしまった。本当に何を考えているのか分からない人である。96年にドルトムントでチャンピオンズリーグを制した彼はユベントスに移籍してもディフェンスの重鎮として活躍し、エメルソン(ボランチの項を参照)と同様、カテナチオの国で守備力を認められた数少ないブラジル人の一人であった。

9.マウロ・ガウボン
 インテルナシオナルでデビューし、いろんなチームを渡り歩いたあと、2001年にグレミオでそのキャリアの幕を閉じ、20年を超す長い現役生活を送った。83年に代表デビューを果たして、86、90年とワールドカップにも二大会出場した彼は、2000年の世界クラブ選手権のときまだバスコの主力選手だったというから驚きである。セレソンでディフェンスリーダーを務めた実績もなければ、ヨーロッパで高く評価されたこともない彼を挙げたのは、ひとえにその長いキャリアを評価してのことである。

10.リカルド・ゴメス
 90年大会に出場し、94年大会は開幕直前に負傷離脱した。ワールドカップに1大会しか出ていない彼がここで選ばれたのはその技術力の高さを評価したためである。名門のベンフィカとパリ・サンジェルマンで活躍した彼の実力はワールドスタンダードを満たすものだった。引退後は監督業に転じ、アテネ五輪予選ではU23代表監督を務めた。ヨーロッパ組を召集できなかったのは確かに痛手だったが、王国にとって予選敗退は許されないことだった。カカ、アドリアーノ、ロビーニョらを擁し、本大会に出場していたらあのテベスのアルゼンチンさえ目じゃないと言われたドリームチームだった。今ボルドーの監督を務めている彼は、フランスリーグで好成績を収めている傍ら、ドゥンガやジョルジーニョの補佐として、その広い人脈を生かした情報網をヨーロッパ各地に張りめぐらし、ブラジル人選手の情報を送り込んでいる。

11.アウダイール
 ミスターローマとも言われ、フラメンゴ、ベンフィカを経た彼は、ローマで現役を引退するまで実に15シーズンも過ごした。彼は間違いなく、ヨーロッパを舞台にもっとも長期間活躍したブラジル人ザゲイロだった。90、94、98年の3回ワールドカップに出場し、優勝と準優勝を一回ずつ経験した彼はマウロ、ベリーニに次ぐタイトルホルダーでもある。94年の優勝に大きく貢献した彼も98年にはさすがに衰えを隠せず、批判もされたが、当時のブラジルで彼を越えるCBがいたかというともちろん答えはノーである。

12.ルシオ
 今のセレソンのディフェンスリーダーであり、カフーのあとを継いでキャプテンの重役を任されている。闘将ドゥンガに高く評価されている果敢な攻め上がりと闘志あふれるプレーは彼の代名詞で、それはセンターフォワードを務めていたユース時代からの癖だと本人は言う。インテルナシオナルで全国選手権ベストイレブンに選ばれたのをきっかけにレバークーゼンに移籍、エメルソン、ゼ・ロベルトと形成したブラジル人トリオはブンデスリーガを席巻した。2002年のCL決勝ではジダンのスーパーボレーに屈するも、意地の同点ゴールを決めて世界の注目を浴びた。それが評価されて今ではバイエルン・ミュンヘンにステップアップし、毎年のようにマイスターシャーレ(ブンデスの優勝トロフィー)を獲得している。そのバイエルンへ移籍した際、直前までローマへの移籍話がほぼまとまっていて、契約しに向かうためイタリア行きの飛行機に乗ろうとしていた彼に空港で突如ミュンヘン行きの指示が下った。ドッキリかと思うほどの珍事件であった。02、06と二大会連続ワールドカップに出場し、前者では3バックの一角として見事5回目の優勝に貢献。大舞台で彼は「ブラジルからはいいCBが出ない」という悪しき伝統を覆しただけでなく、500分を越える連続ノーファウル記録までつくった。CBの選手としては驚異の数字である。今ではクラブの不調で以前の輝きを失っているようにも見えるが、彼ならきっとその不屈の闘志で一際大きくなった姿で帰ってくるだろう。彼がこれからもセレソンの頼れるキャプテンであることに変わりはない。

これから期待のCB:ルイゾン(ベンフィカ)、アレックス(PSV)、ナウド(ブレーメン)、グラッジストン(クルゼイロ)、アウシデス(PSV)

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