落第忍者乱太郎版「あの人は今」の話被子植物はいつできた? 「花に終われた恐竜」再論

January 26, 2016

「理科年表」で、周期表が埋まっていく時代をたどる話

 日本の理研で発見された113番元素の命名権が与えられたという話が少し前にあった。まあ重元素なので、あまり目にしたり使ったりする機会はないと思われる。あまりというかほぼ全くというか。オボカタニウムでいいんじゃないでしょうか。
 この113番目の元素もそうだが、現在新たに発見される元素、というのは基本的に原子番号が大きい方の限界附近のものばかりである。かならずしも順番に発見されているわけではないだろうが、基本的にはそうである。原子番号60とか70の元素がぽつんと発見される、ということはない。そのあたりの元素というのはすべて発見されているからだ。
 天然に存在する元素は原子番号順にすべて発見されており、新しい元素が発見されることがあるとすればその先、天然には存在しない(あるいはもしかしたら作られたかもしれないが、すぐに崩壊してしまった)元素を人工的に合成した、というものになる。なので、周期表でみるとこいういった新しく元素が発見されること広がっていく部分、というのは原子番号の大きい元素の先につけたされるような形になる。実際には多少順序が入れ替わることもあるが。いずれにしても、こういう元素が身近に広く利用されていたりする、ということはあまりない。

 そういう発見のされ方をしているので、どうも周期表には「未発見の場所が残っている」というイメージはない。しかし、周期表の穴がすべて埋まりきっていなかった頃はもちろんそうではなかったはずだ。
 それはそんなに昔の話ではない。例えば、これもやっぱり天然にはほぼ存在しないことが知られているけれど、43番元素のテクネチウムが命名されたのは1947年のことである。もちろん、テクネチウムだって不安定な元素なので身近な存在ではないけれど、それにしても原子番号の大きいほうのはじっこではない。それまでは、周期表のど真ん中にぽこっと未発見の穴が開いていたはずなのだ。
 さらに時間をさかのぼれば、まだまだ未発見の元素が多々あった時代というのがあったはずだ。
 では、そのころの周期表というのは、どんな感じになっていたのだろう?

 穴空き周期表というと、真っ先に思い浮かぶのは、メンデレーエフが周期表を作成した当初のものである。なにしろ、当時見つかっていたのは63元素だから、当然かなりの部分が穴ボコになっているわけである。そして、この穴ぼこをあえて穴ぼこのままに残しておき、そこに将来発見されるであろう元素の性質について予言したからこそ、メンデレーエフという化学者の名前が今でも語り継がれている、そういうものであるはずだ。
 ただ、これは今のものとはずいぶん違うかたちをしている(特に希土類)し、そもそも遡りすぎる。一番最初にいきなり戻ってしまうより、もう少し新しい時代で考えてみたい。
 周期表が載っていそうなものといえば、化学の教科書か、事典類か。それもいいけれど、由緒正しい科学に関する資料集の有名どころといえば、理科年表というのがある。理科年表といえば、なにかあったら理科年表、という格言があるくらい(ない)、理系のネタに興味があるならぜひ常備しておきたいアイテムの一つであろう。なにがありがたいって、これは年刊であるということ。うまく過渡期の部分のものを見れば、未発見の元素がぽこぽこと埋められていくところを見ることが出来そうである。

 さて、この理科年表、今手元に2015年版があるのだが、表紙には第88冊とある。さっきも触れたように年1冊刊行である。つまり、第1冊目は単純計算でいくと1928年頃、つまり昭和初期の刊行になるはずである。これなら、まだ未発見元素がありそうだ。

 先ほど、単純に計算していくと第1冊目の刊行昭和初頭になるはず、と書いた。しかし実はこれは正しくない。実際の第1冊目が刊行されたのは1925(大正十四)年なのだ。別にそんな変な話ではなく、単に第二次世界大戦が激化した時期〜終戦直後である昭和19〜21年版が刊行されていないのでその分数字が飛んでいるという話だ。
 まあ、今回の目的の場合、より昔ならそれにこしたことはない。
 ということ1925年版の理科年表をひもといてみる。ひもといてみる、ってそんな大昔の理科年表がデフォで手元にあってたまるはずはなく、図書館で所蔵されているものを閲覧したわけだが。目次をたどると、うん「週期表」というのがある。周期表のことであろう。当該ページをめくってみると……

 まず気づくこととしては、掲載されている周期表が今使われているような長周期表ではなく、短周期表であることだ。よくメンデレーエフが周期表を発見したときに最初に作った、とされるエピソードと共に登場することがある、今で言う1周期分を2周期に分けたものだ。そして代わりに鉄族がはみだしの席×3に置かれている、アレである。
 そういえば、メンデレーエフは希土類の扱いに困ったらしく、そのあたりにはずいぶんたくさんの穴があいていた。今の周期表でもこの部分は欄外にはみだしているわけだが、この1925年の理科年表ではどうなっているのか。
 希土類の部分が欄外にはみだしているのは今と同じ。ただ、周期表本体もそのエリア、つまり8周期目のランタンから10周期目のハフニウム間が開けられて空白になっている。考えてみたら、これも当時の人には悩みの種だったはずである。
 同じく、今では欄外にはみ出しているアクチノイドは分割すらされておらず、ラジウムからそのまま伸びている。ウランはタングステン族であるかのように書かれている。まあ、当時はほとんどアクチノイドは発見されていなかったわけだから、しかたなしか?

 さて、それはともかく。見つかっていない元素はというと…… ありました。周期表にポコポコと穴が開いている。それ以外にも、いちおう元素は記入されているのだが、質量数が空白になっている(まだよくわかっていない、ということだろう)ところもある。
 しかしいくつ抜けているのか、ぱっと見ても良く分からない。今の理科年表もそうだが、周期表とは別に「元素の表」もあるので、ここにを数えてみると83しかない。超ウラン元素を除くと元素の数は92だから、9個の元素をこの表は欠いているというわけだ。

 では、欠いているのは何か。
 これは、表を見て抜けているものを探していくしかない。この表、今と違って原子番号順に並んでいないのでめんどくさかったのだが、まあ幸い周期表の方もあるのであからさまに穴が開いているところは抜けているとわかるし、もれなく抜き出すことができた。

43番元素、61番元素、75番元素、85番元素、87番元素、ハフニウム、ポロニウム、アクチニウム、プロトアクチニウムである。

 まず、前5つの「X番元素」と表記した元素は、表にもないし周期表でも対応する場所には横棒が引いてあって完全に空白となっている。
 いっぽう、残りの4つは周期表にはいちおう、元素記号は書いてある。そこに脚注がついていて、欄外につづりが書かれているのだが、質量数は空白になっている。つまり、前5つは未発見扱い、残りは見つかってはいるものの質量数すらよくわからない状態なので元素表からは省かれている、というわけだ。なぜつづりがかいてあるかということだが、「元素の表」には各元素のつづりが書いてある。理科年表というのは本来はなにかを調べるためのものなので、つづりもそのひとつなのだろうが、これらの元素は「元素の表」から抜けているためにつづりが表示されていない。なので、周期表のほうに書いてあると、まあこういうことだろう。

 というわけで、理科年表が最初に刊行された当初、5つの空白と4つ質量数の空白があることはわかった。では、この後これらの空白は、どのようにして埋められていったのだろうか。

 ここで、理科年表を順番に新しいほうへと見ていってみることにする。
 まず第2冊、つまり大正十五年版である。ここで、質量数が書いてなかったハフニウムの質量数が与えられる。もっとも、元素表のほうにドイツの値として178.3という値が掲載されているのみで(この頃の原子量は米・仏・独の3つの値が載せられている)周期表の方では未だに質量数は空白のままになっている。ハフニウムの発見は1923年だそうなので、第1冊が登場した際はまだ情報が不足していたのだろう。

 そしてその次は第3冊。大正十六年版である。
 …おいちょっと待てという声が聞こえてきそうである。大正は十五年までだろうと。
 これについては、ちょっと話が横道にそれてしまうが補足しておく。今の理科年表もそうだが、基本的にある年を冠した理科年表が発売されるのはその前の年の12月頃である。2013年版理科年表が発売されるのは2012年の12月頃だ。奥付を見る限り、これはこの当時も特に違っていた様子はない(第一冊目だけは1925年の2月に発行されているが、まあこれは例外みたいなものだろう)。つまり、第3冊は大正十五年の12月に発行されたということになる。実際、奥付に大正十五年十二月二十三日という日付が見える。
 ところで、大正は15年まで。これはその通りなんだけど、では具体的に大正天皇の崩御はいつかというと、大正十五年十二月二十五日なのだ。つまりこの理科年表が刷られているころの感覚では当然、「来年は大正十六年」だったと考えられるわけで、実際にそういう風に印刷されたというわけだ。ちなみに、大正十五年=昭和元年、なのでこの大正十六年は昭和二年にあたる。そのため、第3冊めの理科年表は大正十六年版となるわけだ。
 ちなみに、そんなこんなで第4冊目の理科年表以降が昭和表記のものになるのだが、この第4冊目は昭和三年版となる。昭和元年と二年がとんでいるのでどういうことかと一瞬思わされるが、昭和元年は大正十五年に一致するし昭和二年は大正十六年扱いになっているので、これで順番どおりというわけだ。
 こういう事情があったせいか、大正十六年の刊行の定期刊行物(特に、雑誌類)はかなりあるらしく、それ専門のコレクターもいるとのこと(藤倉珊「ごでん誤伝」第19回)。

 というところで、話を戻して周期表と元素に関する話題である。
 大正十六年版の理科年表では、まずハフニウムの原子量が178.3から178.6に改められた。そして、前年までは空白だった周期表のほうのハフニウムの質量数の欄にもこの値が()付きながらも載るようになる。
 特筆すべきことは、周期表の方でこれまで空欄となっていた4つのうちの3つまでがこの年に新元素で埋められた、ということだ。まさに穴が埋められた瞬間というわけだが、その穴を埋めている新元素というのがなにやらへんてこりんである。
 まず、43番元素としてマズリウム(Ma)、61番元素としてイリニウム(Il)、そして75番元素としてレニウム(Re)が追加されたのである。
 これら、いずれも元素表のほうには名前がない。周期表のほうに脚注として元素記号と名前・綴りが記されているのみである。質量数も掲載されていない。しかしともあれ、この時点で、周期表の元素名すら記されていない空白の席は85番・87番元素の二つのみとなった。

 それにしても、である。この新たに追加された元素、まあレニウムはいいとする。今でも周期表に掲載されている元素である。しかし、残りのマズリウムとイリニウムは現在知られている43・61番元素とは名前すら違っているではないか。
 まあそれもそのはず。これらはこの当時に新発見として報告はされたものの、のちに誤認だとわかった元素である。現在は無効名になってしまっている元素名なのだ。それが「理科年表」に載ってしまっているのである。
 このあたりについては詳しく調べたいと思っている話題だが、とりあえず今回はおいておく。ともあれ、これら「現在では通用しない元素」2つは、この年以後しばらくのあいだ理科年表の周期表の中に登場していくことになる。この当時の理科年表の周期表で、もっとも風変わりなところといえばこれら2つの元素かもしれない。

 さて一方、今でも無効名となることなく正式な元素として認められているレニウムも同時に追加されたわけだが、レニウムの発見は1925年。また、マズリウムはレニウムと共に"発見"報告があった元素なのでこれまた1925年のこと、イリニウムの"発見"報告は1926年だから1926年末に発行された理科年表に採録されたのはまぁ、妥当だろう。
 その後誤認と分かった2つの元素は特に新しい情報が追加されないで時間がたっていくのだが、レニウムは違う。本当の発見だったわけであるから。
 大正十六年版では名前しかなく原子量は与えられていなかったレニウムだが、その3冊あとの第6冊(昭和五年版)になると、レニウムの項目には名前だけでなく原子量も与えられるようになる。一方でマズリウムとイリニウムはそのまま。まぁ発見後の追認などがなかったのでどうしようもないといえばない。

 ところで、元素の欄そのものが空白だった元素以外に、原子量が空白だった元素が4つあった、という話であった。ハフニウム、ポロニウム、アクチニウム、プロトアクチニウムである。
 もう少し時代が下り、昭和12年版(第13冊)になると、これらのうちプロトアクチニウムの原子量が追加されるようになった。プロトアクチニウム自体は1910年代には存在が確認されていたので理科年表が最初に発刊した時点で既に名前だけは出ていたわけだが、当時は放射性元素の崩壊過程で作られる元素だということしかわかっておらず、原子量はしられていなかったのである。それで原子量の部分は空欄だったのであろう。とりあえず、ウランからアクチニウムに崩壊する前の中間段階で生成されるものとして知られていて、そのため「アクチニウムの前のもの=プロトアクチニウム」という命名がされた、というわけだ。

 1934年の秋に、A・V・グロッセという学者がやっとが金属状のプロトアクチニウムを得ることに成功した。その一部から化合物を合成して、それを測定することによってようやくプロトアクチニウムの原子量が推定するのに成功したのである。ここでプロトアクチニウムの原子量が与えられることになる。
 しかしその後、しばらくの間新たな元素が追加されることは途絶えてしまう。これからしばらくの間、周期表に新しい追加点はないままに時間が経っていく。つまり、この時点でまだ知られていなかった85・87番元素の詳細とアクチニウムとポロニウムの原資料については空白のままとなるわけだ。

 次の新たな変化が見られるのは、20年近くたった昭和二十六年版になる。第二次世界大戦終了後だ。つまりまあ、そういうことである。
 このとき、ついに本来の43番元素・61番元素であるテクネチウムとプロメチウムの名前が登場。それまで席を占めていたマズリウム・イリニウムの名前はここで脚注に別名として記載されるのみになった。しばらくの間この名前は脚注として生き残っていたが、昭和30年代になると脚注として記されることもなくなって理科年表からその名を消すことになる。30年という数字は誤認元素の記載期間としてはまぁ、長いほうだろうか。
 また同時に、それまで空白だった残り二つの85・87番元素の箇所にもアスタチン・フランシウムが追加された。そして、未だ空白のままだったアクチニウムとポロニウムの原子量も与えられた。アスタチンは1940年、フランシウムは1939年に発見されたということだから、レニウムやハフニウムが発見からまもなく周期表に(原子量が抜けていて不完全だとしても)追加されたのに比べるとずいぶん遅い。戦時中ということもあり情報が伝わるのが遅れたのかもしれない。またこのとき、それまでウランまでしかなかったアクチノイドはキュリウムまで追加された。

 こうして、1951年についに理科年表では原子番号の大きい端以外は虫食いのない周期表がやっと完成したということになる。
このあとは、今のように「後に伸びていく」ばかりということだ。しかし残念ながら、この間に見つかった元素というのも、それほどポピュラーなものはない。ポロニウムはキュリー夫人の伝記などで目にしたこともある人が多い元素かもしれない。ハフニウム、レニウムは放射性元素でないので、工業的には使われていることもある。


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