2022年04月23日

思い出のルーツ

こんにちは。


4月に入り、ここ1〜2週間は,寒暖の差は相当激しかったですね。


生きているというおこがましい事は言えず、生かされているという身体です。
(一例を挙げてみても、一日10万回も無意識に呼吸をして、心臓は頑張ってくれているのですね。)


若くはないので、60兆個の信じられない私の愛すべき細胞は、それぞれ助けあって、体温調整をするのに、必死だっのではと、いとおしく思います。


毎日、無理をしないで、援助しなければ可哀そうではと、思う最近です。

さて、いま、ブログを纏めている時に、私にとっては相当ショックな悲報が、70余年の幼馴染みから、入ってきました。


私の生まれた生家が昨日全焼したとの事。

何回か、ブログで述べましたが、私の両親は 京都の最近は和束茶として有名になった京都相楽郡の和束(わつか)の生まれで、そして、男ばかりの3人兄弟の5人家族で育ち、両兄、二人は和束で生まれています。

その後、両親は大阪に出てきたようで、私が生まれた昨日火災で全焼したとの下町で、私は生まれました。

その館は戦前からの建物で、日本は、後ほど、第二次世界大戦になるという、軍拡化の一途を辿っていた時代です。


そして、近未来に起こるであろう戦争に備え、一億総戦闘の、「勝つまでは負けられません」の精神のもと、日本各地に建てた「向う三軒両隣り」としての、5軒長屋で、それぞれの一個単位を戦術の一環として、戦争に備えた建物です。

今のように、日中でも、人と思えば泥棒と想えという寂しい言葉がまかり通る、鍵をかける時代ではありません。

各、家の入口の鍵は、常に開放されていて、文字通り昭和のプンプン匂いのする時代で、町内会は、皆、家族という下町の人情味のある時代で育ちました。

「向こう3軒両隣」は、自由に行き来し、両隣の人々になると、どちらが自分の家なのかと、、思うほど、行き来した時代でした。


夕飯の準備になると、お互いに調味料が足りないと、チョツトと隣家に借りに行くと時代で、母親の姿が浮かんで来ます。

そんな、まったりした時代でした。


そこで、私は20歳ぐらいまで、両親と兄二人と五人家族の末っ子として、甘ったれとして、過ごしていました。

夏になると当然、当時の事ですから、クーラーとか、確か、扇風機もなく、うちわが唯一の涼風の時代です。

夕方から、家の中は蒸し風呂ですので、三々五々、夕涼みを兼ね、人々が家前に集まりだし、蛾の集まる裸電灯で、床几を出し、何カ所にも分かれて、うちわ片手に、へぼ将棋が始まります。


子供は相撲も始まります。


一年中、時間があると、家前で、幼馴染の10数名の友達と、ビー玉とか、当時バイとかの名前で、ごみ箱の上に、ござをへこませ、その上に鉄製の丸くなった駒を、紐でらせん状にして、ござの中に入れ、どちらかの駒を、ござから、飛ばし、飛ばされた駒の方が負けるという遊びです。


このような話は、私のような年代が最後の昭和の時代で、多分、今の若い方々は、何を言っているのか、想像がつかないと思いますが。


その幼少の思い出の、たくさん、たくさん詰まった生家が、火災で消滅したとの事です。

よく、今まで,戦火にも偶然、免れ、まだ残っていたという、ある意味では、築100年の歴史的建造物ではないかと、身内の身びいきで思ったりする、昭和そのものの、建物でした。


兄にもそして、今は亡き兄の姉さんにも、又、わずかにその当時を知る いとこ等、又、幼馴染にも連絡しました。

一応に、電話越しに、何とも言えない、驚きの声が聞こえてきました。


なにか、こうして、現実にはまだ、信じられないのですが。消滅したとなると、幼少時代と多感な青春時代を過ごした生家です。。


両親との思い出、両兄貴との思い出、幼馴染との、又いとことの、甘酸っぱい思い出。


涙ボロ、ボロではないですが今は何か、私の生きてきた証のルーツが絶たれたようで、寂寥感で、胸がいっぱいです。


ブログを紐解きましたら、2007年9月に生家というブログ名で、20数年ぶりに、生家の前に、夜一人たたずむ、ほろ苦い自分を吐露した、記事があります。



今回は 先日の3月の終わりから、4月にかけての恒例の40余年に亘り開催しています、日本の将来担う、新入社員の合宿研修会についての、コロナ下で、寝食を共にした若者との思いを書く予定でしたが、急遽、生家の悲報になってしまいました。


私事に最後までお付き合い頂きまして、誠に有難うございました。

春のない、季節の分かれ目です。どうぞ、ご自愛下さい。





senba206 at 15:12│Comments(0)

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