2025年05月25日

入院

こんにちわ。梅雨の前触れか、昨日から雨ですね。


そして、やっと止んだようですね。

自宅の近くを少し3〜4分登ったところに堤防があり、風光明媚で、散歩コースにもってこいのところがあります。


春夏秋冬、それぞれ趣があり、歩くコースも、4〜5コース程、選択し、どのコースを散策するかも、楽しみの一つです。


その堤防のコースは当然、川が流れていて、支流、本流と別れ、本流はあの有名な、東海道53次の伏見〜橋本〜枚方〜大阪の六軒屋につながる淀川です。


その支流は時々、晴れが続くと、雨量がなくなり、ほとんど、干上がってしまいます。


散歩をしていまして、一番、気が滅入るのは、自然の営みが、なくなった支流の干上がった川を見ることです。


昨日からの雨で、雨量が増えて、本来の川になっていると思うと、「雨を降れ」と、非常にうれしく思います。



さて、先々週は、4泊5日で、入院していました。


機械に例えるには、どうかと思いますが、歳を重ねてきまして、4昔前は、人生50年〜60年と言われていました。


今は人生、100年時代と言われていますね。


やはり、機械同様、人間もメンテナンスが必要です。



お蔭様でこうして、無事退院しまして、元気になり、パソコンの前で、人生を振り返えっています。


本当に幸せを感じます。


入院して、再度感じる事は、幸せって何なのかなとつくづくと、思います。


しかし、又、しばらくして、時の経過とともに、その折のおもいが薄らいで、生きているのは、当然と、そして、何かと、不足を言いながら、奢り高ぶる心が復活するのですね。


まあ、凡人は、この世におさらばする時に初めて、生かされていることを気づくのではないかと思います。



入院生活で、感じた事は、よく、言います、「心身一如」(しんしんいちによ)の意味合いの深さでした。


つまり、幸せとは、まさしく、心身一如ですね。


つまり、心と身体が、一体と織りなして、初めて幸せを感じる事を。


つまりこの世に生まれてきた目的を、しっかり、おなかに収めていないと、人生は、うたかたのようになるのではと。



又、いつもの大仰な、思いが、浮かんできました。


まあ、あまり、理屈をこねまわさずに、自利他利、他利自利の精神で、これからの与生を、精一杯、命ある限り。



そして、神羅万象に感謝して,何らかのかたちで、世の中に、お役に立ちながら、生きていきたいと、いつもながらの、入院の期間中に、再意識、再認識、再確認した次第です。



前回のコロナの折の入院生活と異なり、今回は家内、娘、そして、縁者の方々のお見舞いを受け、やはり人間は、ジンカン(ひととのあいだ)と書くように、人の思い遣りを、うれしく感じました。

一番下の小5の孫が、退院の時も姫路から来てくれて、入院中のトランクを、持ってくれ、娘の車で、帰宅しました。



心のふれあいの、幸せを感じながら、心身一如として、一気に元気が蘇ってきた、今回の入院でした。


暫く、心身の休養をして、又、再活動を、と思いながら、今回の思いを纏めてみました。


また、機会がありましたら、心身一如についての、私のお思いを述べてみたいと思います。



今回も最後までお付き合いいただきまして、誠に有難うございました。



どうぞ、お身体ご自愛専一に。






senba206 at 12:56│Comments(0)

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔