『信長公記』大和国の謎 松永久秀の最期に至るまでの謎解き
今回は、これまで探ってきた『信長公記』大和国の謎、新たな情報を取り入れた上で、考えられる見解を示していこうと思います。ポイントとなるものは3つ。一つは、①太田牛一の証言について。彼の記録には様々なパターンが見られる、今一度彼の立場を考えた上で松永久秀の最期について言及したことを検証し探訪の中で抱いた道義心に重ね合わせる。
次いで②「多聞城築城」に対し「蘭奢待切り取りのケース」と照合し検証。双方を対比することに何が足りないのか探る。仮説「騙して築城した」が否定できない状況にあることを確認する。
最後は、③「松永久秀二度目の謀反」に関して、「織田信長の弟・信勝の二度目の謀反」の事例と対比させて考える。「二度目の謀反」という共通項があることから、二つの事件を対比することにより見えていない部分を炙り出そうという試み。織田信長は松永久秀に対しどのように言い放って騙し返したのか?そしてどのように追い詰めたのか?どうやって最後に至ったのか?その間を埋める。仮説のシナリオが成立するかどうか、弟の謀反の事例を元に考えてみる。
これらのポイントをまとめた図式は以下の通り。
◇『信長公記』大和国の謎 解くための問答
①太田牛一の証言
太田牛一の記録を拝見しますと時系列順あるいは伝聞形式の箇条書きが多く見られます、ただ中には同行していると思しき記録、織田信長の考え方や表情さえも窺い知れる内容のものもあります。例えば、高屋城の戦いの件は、太田牛一は織田信長に同行していると読めますし、槙島城の戦いでの足利義昭追放の件では、草稿や文字起こしの段階で関わっていないと知り得ない情報を記録に残している。音読では聞き取ることも理解するのも難しいような内容となっていますので。
『信長公記』では織田信長と同じ時代に生きたその場にいた人の証言として貴重な記録を残している。
けれども信貴山城の戦いの件ではあいまいな表現となっている。
何故あいまいな表現なのかを考えますと、織田信長が直接明言していないという答えになるかと思います。太田さんの立場で考えますと、明言しているケースとあいまいな表現に留まるケースに分かれる。その要因は主である織田信長の明言の有無によって影響を受けていると考えられますから。よって曖昧なケースでは、太田さんが主の様子を見て推し量って考えたものとして考えるべきとの見解に至りました。主が明言してないものを従者が明言できる訳がない、この道理がありますので、そこは推し量って考えるべきだと。そう考えることで、たとえ曖昧な表現であっても十分にヒントに成り得ますので。
松永久秀の最期となる信貴山城の戦いで、太田牛一が理由として挙げたのは、東大寺大仏殿の炎上の件、総大将を務めた信長の嫡男・信忠が鹿角兜を身にまとって攻め立てたので、春日明神の天罰が下った。このような表現をされている。
これらは、古の奈良の都を象徴する神聖なるものとしてのイメージであり、東大寺大仏殿(聖武天皇がお造りになるように命じられた)、奈良の鹿(神聖なる生き物)、春日明神(藤原氏と興福寺に関係)と三つ類推できるものを挙げている。一括して対象となるものを考えると意味合いとしては、「神聖なるもの、或いは、タブー視されるものに手を出したから、松永久秀に天罰が下った」という意味合いになるのであろうと。
そうしますと、その中で考えられる答えとしては「聖武天皇の名誉と尊厳に関わるものを傷つけた行為」が問題視されるのではないか、更に仮に騙して正親町天皇の御綸旨を取り付け、悪用して築城したのであれば、その行為も冒涜行為に該当するのではないか。そのため二人の天皇の名誉と尊厳に関わるため、織田信長は公言することなく表沙汰にせず、当事者である松永久秀本人にのみ分からせた上で責任を取らせる、このような目標を設定し、謀反を起こすよう意図的に仕組み、責任を取らせたのではないか。このような道筋ならば、最後の顛末「自ら猛火の中に飛び込んだ」という結末に合うようにも思えます。よって本質的なところから鑑みて「道義心を問われる案件だったので誅された」というところに行き着いた訳です。
他方、私が多聞城を訪れた際にも「道義心を問われる」ことになりました。理由は聖武天皇の陵墓の扱いについて。巡った地は多聞城の跡地、そして聖武天皇陵、それに加え「若草公民館」。「若草公民館」では多聞城の展示解説があり資料もいただけたので、聖武天皇が埋葬された地、佐保山を多聞城に取り込むことは「良い事なのかどうか」道義心を問われることになりました。
そこが太田さんの残してくれたヒントと合致する。このように思えましたので、その線で掘り下げみよう、そう思う動機になった訳です。では手順通り話を進めていこうと思います。
②多聞城築城と所有権移譲の経緯を探る
<松永久秀の多聞城築城>
多聞城の資料などを拝見してみますと、近年の調査などによりその実態は解明され、城が建ったという既成事実はあるのですが、所有権については、どのように移行したのか不明な点があるように思えました。
正親町天皇の御綸旨があるという理由付けがなされていたのですが、実際に所蔵される西方寺の御綸旨を拝読しますと、東大寺の祐全上人に「南都総墓所」のお役目をお与えになったという内容であることが判明しました。なので直接的に築城の認可を得た訳ではない。ただし武力を行使して奪い取った訳でもないという状況も分かって参りました。それ故に政治的な交渉の元、権利移譲がなされたのではないかと推察されるものであります。
しかしながら、政治的な交渉の中で騙しがあった可能性は否めない。偶然にも多聞城では織田信長が蘭奢待の切取りを行った事例があります。資料も揃っていることから正式な方法で行われた催事だと窺い知れます。よってこの件と対比すれば何が不足しているか詳らかになるのではないか、その思いから対比を試みることにしてみました。
<蘭奢待切取りでの織田信長の行動>
a.事前に許可申請 b.正親町天皇から勅許を得る c.管理・管轄権を有する東大寺と前交渉 d.日取り・場所が決まる e.指定場所の多聞城で切取りの催事 f.切り取った蘭奢待の一部を正親町天皇に献上=結果報告。ここから正式な手法をとっているのだと窺い知れます。
平たく言えば、現代のビジネスでいうところの「ほう・れん・そう」がきっちりなされている。
そのことが確認できるかと思います。
一方、松永久秀の多聞城築城。上記アルファベット小文字の項と対比できるよう順に見ていきます。
<松永久秀の多聞城築城>を<蘭奢待切取りでの織田信長の行動>と対比
a.事前の許可申請は不明 b.勅許を得たわけではない c.元の所有者との交渉があったのかどうかも不明 d.工事の始まりの記録はある e.具体的にどのように人が集められ工事が行われたかの記録はある f.結果報告したのかどうかも不明
このように既成事実はあるのですが、合意に至ったり、正当性を示すものが不足している状況です。
これは先に挙げた「ほう・れん・そう」が確認できない状況にあるのではないかと思います。
さらに政治的な交渉による権利移譲ですと、事前の根回しが想定されますので、事前の申告や通達に反する事、つまり騙して築城を強行したことも疑念として湧く訳です。正親町天皇の御綸旨は直接築城の認可をしたものではありませんから、それを松永が都合よく築城の口実にしたり、悪用することも考えられます。元々は東大寺に関係する寺院が所在していた話がありますので、その土地を明け渡さないと築城できない訳ですから。
このように「松永久秀は自分の権威付けの為に多聞城を築城した」とするならば、関係者を騙して既成事実を作ったことが否めない状況にある、そのことを確認した次第となります。
では最後の項に移ります。
③松永久秀の二度目の謀反、過去の事例と対比して導く仮想シナリオ
当項が今回のキモの部分となります。少々長くなりますのでご容赦下さい。面倒な方は下記の図表を先に参照いただければ幸いです。
松永久秀の二度目の謀反を考える際に、参考にしたのは織田信長の弟、織田信勝(信行)の二度目の謀反の件です。理由は「二度目の謀反」という共通項がありますので参考になると思えたからです。
「織田信勝の二度目の謀反」大まかな流れとしては
1.柴田勝家の密告2.裏取りと調査3.病気と称し弱ったフリをする4.後継ぎを任せる話があると誘う5.居城に呼び寄せる6.弟が見舞いと称し城に出向いたところであべこべに殺害に至る
という話になります。
そこで織田信長の道義を考えた上で、松永の想定事例に当てはめていこうと思います。
<織田信長の道義>弟・信勝は一度目の謀反で許しを得た立場、なのに自己の利得に駆られ謀反を企てた。病気と称し家督移譲の話で誘った。その話に乗ってのこのこ出向いてきた、故に野心があることを自ら証明し、過去を顧みず、今後も家督争いを続ける意思があることも証明、それは諸悪の根源になる。よって誅殺した。双方家臣と領民を抱えていますので争えば数多くの死者が出る。それを未然に防ぐ。
その裏側にあるものを考えますと、まず選択権は弟に在りました、そして自らの立場をわきまえ反省し自重すれば黙認されるチャンスもありました。ところが、良い方の選択はせずに野心があることを行動で示してしまった、故に誅する道理になる。このように考えていると思います。逆に弟が自らを省みて自重し家督を固辞したならば柴田勝家の方が危うかった。柴田も命がけで密告している、だからこそ双方の是非が判断できるよう測り試したのだと思います。
織田信長の傾向としては、相手が利得に駆られて見えなくなってしまう点、そこを逆手にとってやり返す手法、この方法を取ることが織田信長の特徴的な手法になるように思います。
このことから松永の二度目の謀反に対してどのように対処したのか、弟の件はその事例として有効な話であり参考になると考えた話になります。
では松永久秀の二度目の謀反、これを弟・信勝のケースに当てはめますとどういったことが行われたのでしょう?以下の図式<『信長公記』大和国の謎 時系列順・自説による想定内容>でその流れが分かるようにしてみました。
どのように松永久秀を騙し嵌めたのか?図表中のセリフにご注目。「」内は私が想定する織田信長が松永久秀に直接言い放ったと想定する内容になります。道理としては騙して城を築き二人の天皇の名誉と尊厳を傷つけたので、騙し返すことで切り返し、松永がした事の自らの責任を問い、追い詰めた。その結果、『信長公記』にある「自ら猛火の中に飛び込んだ」という結果になる、というシナリオになります。もちろん大和国の統治するために何が最善策か考慮した上で。南都と称される奈良の地、影響力のある寺社勢力に対しても配慮してのことだと思います。
◇『信長公記』大和国の謎 時系列順・自説による想定内容
最初の起点 問題の認識。
多聞城の問題点を認識するのは「蘭奢待の切取り」になるかと思います。
松永久秀が東大寺を騙して城を築いたとするならば、東大寺の側は織田信長に苦情を申し立てるチャンスであり、同時に織田信長も佐保山の地がどのような現状なのかも確認できる場所になるからです。
ターニングポイント
天王寺砦の戦いの際に、若江に松永久秀が参陣した時、これがターニングポイントになるかと思います。この戦いでは松永久秀が先陣を務め、更には織田信長も先陣を務め行動を共にしている。
このことから考えますと、大和国守護である原田直政が討死したことにより、不在となった多聞城の城主の座、大和国守護の後釜の座を松永久秀が狙ったもの、このような参陣の理由としますと、織田信長もその野心を見抜くであろうと思えるからです。
よってその野心を逆手にとって、多聞城の城主復帰をチラつかせ、「大和国の守護を考えてやってもいいぞ」と話を振れば、松永久秀はやる気になるでしょうし、積極的に動く理由に成り得ます。
次いで天王寺砦。包囲していた敵を撃退し天王寺砦で一息つくことになる。
この時に織田信長は鉄砲傷を受けたと記録にありますから、弱ったフリをして天王寺砦の守りが不安であると煽り、天王寺砦の定番を松永自ら「やる」と言わせる。そうしますと「やる」と言った手前、解任するか別の任務を与えない限り、城番から離れられなくなる訳です。故に嵌めて干したのではないか疑念が湧くところなのです。また「弱ったフリ」というところが弟の件と合致しますので、逆手に取った可能性があると思えるところにもなるのです。
その後の展開は『多聞院日記』をはじめ他の資料によるところが大きいのですが、確認していきますと、仮に多聞城城主の返り咲きを願ったとするならば、全て松永久秀の願いとは逆の結果となっています。織田信長は大和の守護は松永久秀のライバルにあたる筒井順慶に任せていますし、多聞城の破却も始めています。しかも破却に関しては松永の息子、松永久通に加担させています。更には城のシンボルの移築も命じています。実はこの移築、多聞城築城に際し遂行された寺の移建をやり返しているのではないかと思わせるものでもあります。「一年間砦を守り切れば多聞城の城主を任せてやってもいいぞ」そのような約束事をしたのなら何の疑いもなく砦の城番に専念することも考えられますから。
織田信長が意図的に松永の息子を加担させたとするならば、「父親には特別な仕事を与えているので相談するな」と釘をさすことも可能。人質を取っていますし、反すれば謀反の疑いをかけられますので。
最後は松永久秀が謀反を起こす際の『信長公記』の記録。始まりは天王寺砦の城番に松永久秀と息子の久通が務めていたところから始まります。松永父子の二人が同じ砦にいること、この点に注目しますと、多聞城の破却が完了し移築も済ませた後、松永の息子・久通に対し、織田信長が天王寺砦の城番を命じたことが窺えます。そうしますと自動的に父親に報告することになる。その結果、松永久秀は事態が大きく変わっていることを息子から聞いて知ることになります。そこで騙されたことに気付く訳です。それ故に職場放棄して信貴山城に籠る、そのことの動機づけに成り得ます。そこで謀反の噂がたつことになりますが、それを受けて織田信長からは真意を問いただすための使者が送られる。
松永の怒りが爆発しているところに、白々しくも物を差し出せば許してやってもいいぞという織田信長の使いが示した条件。けれども、若江での約束も、天王寺砦の約束も全て反故にしている状況、なので明確な返事しない、その理由付けになります。あれは自分の城だと怒りMAXになったところで最後の仕掛け。使者にもう一通手紙を持たせ、去り際に番兵などに渡せば、松永はそれを目にすることになる。使者の安全も考えてのことなのかもしれません。書かれている内容は二人の天皇の名誉と尊厳をないがしろにしたことを糾弾する内容ではないかと、松永本人にとっては自覚があるでしょうから「それがあるから自分はもう許してもらえないのか」と悟る訳です。で気づいた時には城が包囲されて追い詰められていますから。もう無理だと。故に「最後は自ら猛火の中に飛び込んだ。」このような流れなら『信長公記』記述とも合う、そう思えた次第です。
「使者が二通の書を持っていた」という考えは記録に残るかどうかの観点から。最初の一通は使者が帰れないと記録に残せない、一方で最後の方は松永と共に猛火の中に消えますから記録に残せない。けれども松永には悟らせることができ、責任を取らせることもでき、その上で帝の不名誉も表に出ず世に知れ渡ることもない。
いかがでしたでしょうか?私は一般人として、個人の趣味ベースで『信長公記』の旅の魅力に取りつかれて旅を続ける身。生業としている訳ではありませんから何かを実証する立場にはありません。当案件は『信長公記』をベースに地道に現地探訪を積み重ねた結果、感じたことから考えた内容になります。なので絶対だとは申しませんし、あくまでも想定できる事として考えられる内容になります。これが何かの参考になれば幸いですし、そういう考えもあるんだなと思っていただければ幸いです。
総じて考えをまとめますと、考えた案では、信貴山城の戦いの既に3年前に既に松永久秀の命運は決まっていたと思います。長期間にわたって仕組まれたものになりますので、それが見え辛くさせていた要因になるのかなと。さらに名誉と尊厳を守るために、あえて周知するとなく本人のみに分からせた上で責任を取らせる、このような複雑な事情も後世に様々な憶測を呼び、さまざまな解釈がなされ悪評も生まれ、話がややこしくなっていたのかなと思えるところでもあります。「騙して城を建てたので、騙して城を破却する」これが「やり返す」ために織田信長が仕組んだ計略の根幹にあたるように思います。
今回、真摯に向き合った結果見えてきたもの、それは太田牛一が考えていた不可解なロジックが3点あること。一つは、松永久秀の行動の不可解な点。「自ら職場放棄して城に籠った、けれども問いただされても明確な理由も返事もせず自ら命を絶つという謎」。二つ目は主・織田信長について。「普段の主ならば、戦にせよ人を処断するにせよ明確な理由を明言する。けれども当件では、謀反の疑いがあるというだけで、それ以外一切漏らさない。だからおかしい。という謎」。最後は太田さん自身も不可解な想いを抱きながらも当時の風聞と合わせた要因を伝えているという事。逆に太田さんの立場と当時の状況なら『多聞院日記』を見ることも全ての情報を知り得ることも難しい、そのような状況の中で記録を残している訳ですから。同時に分かるのは、意図的に残らないように仕組まれたもの、消滅してしまった物というのは、例え後から予測できたとしてもそれを実証するのはなかなか難しい、そのことも同時に痛感した次第です。
今回の件で自分なりはかなり納得できる内容の謎解きの答えを導き出せたかなと思います。ただし様々な条件付となりますけれども。ある程度のところまで到達しましたので、自分なりの謎解きへのアプローチとしてましては、ここで一旦区切りにしようかなと思うところです。
もくじ→多聞城探訪 もくじ
今回は、これまで探ってきた『信長公記』大和国の謎、新たな情報を取り入れた上で、考えられる見解を示していこうと思います。ポイントとなるものは3つ。一つは、①太田牛一の証言について。彼の記録には様々なパターンが見られる、今一度彼の立場を考えた上で松永久秀の最期について言及したことを検証し探訪の中で抱いた道義心に重ね合わせる。
次いで②「多聞城築城」に対し「蘭奢待切り取りのケース」と照合し検証。双方を対比することに何が足りないのか探る。仮説「騙して築城した」が否定できない状況にあることを確認する。
最後は、③「松永久秀二度目の謀反」に関して、「織田信長の弟・信勝の二度目の謀反」の事例と対比させて考える。「二度目の謀反」という共通項があることから、二つの事件を対比することにより見えていない部分を炙り出そうという試み。織田信長は松永久秀に対しどのように言い放って騙し返したのか?そしてどのように追い詰めたのか?どうやって最後に至ったのか?その間を埋める。仮説のシナリオが成立するかどうか、弟の謀反の事例を元に考えてみる。
これらのポイントをまとめた図式は以下の通り。
◇『信長公記』大和国の謎 解くための問答
①太田牛一の証言
太田牛一の記録を拝見しますと時系列順あるいは伝聞形式の箇条書きが多く見られます、ただ中には同行していると思しき記録、織田信長の考え方や表情さえも窺い知れる内容のものもあります。例えば、高屋城の戦いの件は、太田牛一は織田信長に同行していると読めますし、槙島城の戦いでの足利義昭追放の件では、草稿や文字起こしの段階で関わっていないと知り得ない情報を記録に残している。音読では聞き取ることも理解するのも難しいような内容となっていますので。
『信長公記』では織田信長と同じ時代に生きたその場にいた人の証言として貴重な記録を残している。
けれども信貴山城の戦いの件ではあいまいな表現となっている。
何故あいまいな表現なのかを考えますと、織田信長が直接明言していないという答えになるかと思います。太田さんの立場で考えますと、明言しているケースとあいまいな表現に留まるケースに分かれる。その要因は主である織田信長の明言の有無によって影響を受けていると考えられますから。よって曖昧なケースでは、太田さんが主の様子を見て推し量って考えたものとして考えるべきとの見解に至りました。主が明言してないものを従者が明言できる訳がない、この道理がありますので、そこは推し量って考えるべきだと。そう考えることで、たとえ曖昧な表現であっても十分にヒントに成り得ますので。
松永久秀の最期となる信貴山城の戦いで、太田牛一が理由として挙げたのは、東大寺大仏殿の炎上の件、総大将を務めた信長の嫡男・信忠が鹿角兜を身にまとって攻め立てたので、春日明神の天罰が下った。このような表現をされている。
これらは、古の奈良の都を象徴する神聖なるものとしてのイメージであり、東大寺大仏殿(聖武天皇がお造りになるように命じられた)、奈良の鹿(神聖なる生き物)、春日明神(藤原氏と興福寺に関係)と三つ類推できるものを挙げている。一括して対象となるものを考えると意味合いとしては、「神聖なるもの、或いは、タブー視されるものに手を出したから、松永久秀に天罰が下った」という意味合いになるのであろうと。
そうしますと、その中で考えられる答えとしては「聖武天皇の名誉と尊厳に関わるものを傷つけた行為」が問題視されるのではないか、更に仮に騙して正親町天皇の御綸旨を取り付け、悪用して築城したのであれば、その行為も冒涜行為に該当するのではないか。そのため二人の天皇の名誉と尊厳に関わるため、織田信長は公言することなく表沙汰にせず、当事者である松永久秀本人にのみ分からせた上で責任を取らせる、このような目標を設定し、謀反を起こすよう意図的に仕組み、責任を取らせたのではないか。このような道筋ならば、最後の顛末「自ら猛火の中に飛び込んだ」という結末に合うようにも思えます。よって本質的なところから鑑みて「道義心を問われる案件だったので誅された」というところに行き着いた訳です。
他方、私が多聞城を訪れた際にも「道義心を問われる」ことになりました。理由は聖武天皇の陵墓の扱いについて。巡った地は多聞城の跡地、そして聖武天皇陵、それに加え「若草公民館」。「若草公民館」では多聞城の展示解説があり資料もいただけたので、聖武天皇が埋葬された地、佐保山を多聞城に取り込むことは「良い事なのかどうか」道義心を問われることになりました。
そこが太田さんの残してくれたヒントと合致する。このように思えましたので、その線で掘り下げみよう、そう思う動機になった訳です。では手順通り話を進めていこうと思います。
②多聞城築城と所有権移譲の経緯を探る
<松永久秀の多聞城築城>
多聞城の資料などを拝見してみますと、近年の調査などによりその実態は解明され、城が建ったという既成事実はあるのですが、所有権については、どのように移行したのか不明な点があるように思えました。
正親町天皇の御綸旨があるという理由付けがなされていたのですが、実際に所蔵される西方寺の御綸旨を拝読しますと、東大寺の祐全上人に「南都総墓所」のお役目をお与えになったという内容であることが判明しました。なので直接的に築城の認可を得た訳ではない。ただし武力を行使して奪い取った訳でもないという状況も分かって参りました。それ故に政治的な交渉の元、権利移譲がなされたのではないかと推察されるものであります。
しかしながら、政治的な交渉の中で騙しがあった可能性は否めない。偶然にも多聞城では織田信長が蘭奢待の切取りを行った事例があります。資料も揃っていることから正式な方法で行われた催事だと窺い知れます。よってこの件と対比すれば何が不足しているか詳らかになるのではないか、その思いから対比を試みることにしてみました。
<蘭奢待切取りでの織田信長の行動>
a.事前に許可申請 b.正親町天皇から勅許を得る c.管理・管轄権を有する東大寺と前交渉 d.日取り・場所が決まる e.指定場所の多聞城で切取りの催事 f.切り取った蘭奢待の一部を正親町天皇に献上=結果報告。ここから正式な手法をとっているのだと窺い知れます。
平たく言えば、現代のビジネスでいうところの「ほう・れん・そう」がきっちりなされている。
そのことが確認できるかと思います。
一方、松永久秀の多聞城築城。上記アルファベット小文字の項と対比できるよう順に見ていきます。
<松永久秀の多聞城築城>を<蘭奢待切取りでの織田信長の行動>と対比
a.事前の許可申請は不明 b.勅許を得たわけではない c.元の所有者との交渉があったのかどうかも不明 d.工事の始まりの記録はある e.具体的にどのように人が集められ工事が行われたかの記録はある f.結果報告したのかどうかも不明
このように既成事実はあるのですが、合意に至ったり、正当性を示すものが不足している状況です。
これは先に挙げた「ほう・れん・そう」が確認できない状況にあるのではないかと思います。
さらに政治的な交渉による権利移譲ですと、事前の根回しが想定されますので、事前の申告や通達に反する事、つまり騙して築城を強行したことも疑念として湧く訳です。正親町天皇の御綸旨は直接築城の認可をしたものではありませんから、それを松永が都合よく築城の口実にしたり、悪用することも考えられます。元々は東大寺に関係する寺院が所在していた話がありますので、その土地を明け渡さないと築城できない訳ですから。
このように「松永久秀は自分の権威付けの為に多聞城を築城した」とするならば、関係者を騙して既成事実を作ったことが否めない状況にある、そのことを確認した次第となります。
では最後の項に移ります。
③松永久秀の二度目の謀反、過去の事例と対比して導く仮想シナリオ
当項が今回のキモの部分となります。少々長くなりますのでご容赦下さい。面倒な方は下記の図表を先に参照いただければ幸いです。
松永久秀の二度目の謀反を考える際に、参考にしたのは織田信長の弟、織田信勝(信行)の二度目の謀反の件です。理由は「二度目の謀反」という共通項がありますので参考になると思えたからです。
「織田信勝の二度目の謀反」大まかな流れとしては
1.柴田勝家の密告2.裏取りと調査3.病気と称し弱ったフリをする4.後継ぎを任せる話があると誘う5.居城に呼び寄せる6.弟が見舞いと称し城に出向いたところであべこべに殺害に至る
という話になります。
そこで織田信長の道義を考えた上で、松永の想定事例に当てはめていこうと思います。
<織田信長の道義>弟・信勝は一度目の謀反で許しを得た立場、なのに自己の利得に駆られ謀反を企てた。病気と称し家督移譲の話で誘った。その話に乗ってのこのこ出向いてきた、故に野心があることを自ら証明し、過去を顧みず、今後も家督争いを続ける意思があることも証明、それは諸悪の根源になる。よって誅殺した。双方家臣と領民を抱えていますので争えば数多くの死者が出る。それを未然に防ぐ。
その裏側にあるものを考えますと、まず選択権は弟に在りました、そして自らの立場をわきまえ反省し自重すれば黙認されるチャンスもありました。ところが、良い方の選択はせずに野心があることを行動で示してしまった、故に誅する道理になる。このように考えていると思います。逆に弟が自らを省みて自重し家督を固辞したならば柴田勝家の方が危うかった。柴田も命がけで密告している、だからこそ双方の是非が判断できるよう測り試したのだと思います。
織田信長の傾向としては、相手が利得に駆られて見えなくなってしまう点、そこを逆手にとってやり返す手法、この方法を取ることが織田信長の特徴的な手法になるように思います。
このことから松永の二度目の謀反に対してどのように対処したのか、弟の件はその事例として有効な話であり参考になると考えた話になります。
では松永久秀の二度目の謀反、これを弟・信勝のケースに当てはめますとどういったことが行われたのでしょう?以下の図式<『信長公記』大和国の謎 時系列順・自説による想定内容>でその流れが分かるようにしてみました。
どのように松永久秀を騙し嵌めたのか?図表中のセリフにご注目。「」内は私が想定する織田信長が松永久秀に直接言い放ったと想定する内容になります。道理としては騙して城を築き二人の天皇の名誉と尊厳を傷つけたので、騙し返すことで切り返し、松永がした事の自らの責任を問い、追い詰めた。その結果、『信長公記』にある「自ら猛火の中に飛び込んだ」という結果になる、というシナリオになります。もちろん大和国の統治するために何が最善策か考慮した上で。南都と称される奈良の地、影響力のある寺社勢力に対しても配慮してのことだと思います。
◇『信長公記』大和国の謎 時系列順・自説による想定内容
最初の起点 問題の認識。
多聞城の問題点を認識するのは「蘭奢待の切取り」になるかと思います。
松永久秀が東大寺を騙して城を築いたとするならば、東大寺の側は織田信長に苦情を申し立てるチャンスであり、同時に織田信長も佐保山の地がどのような現状なのかも確認できる場所になるからです。
ターニングポイント
天王寺砦の戦いの際に、若江に松永久秀が参陣した時、これがターニングポイントになるかと思います。この戦いでは松永久秀が先陣を務め、更には織田信長も先陣を務め行動を共にしている。
このことから考えますと、大和国守護である原田直政が討死したことにより、不在となった多聞城の城主の座、大和国守護の後釜の座を松永久秀が狙ったもの、このような参陣の理由としますと、織田信長もその野心を見抜くであろうと思えるからです。
よってその野心を逆手にとって、多聞城の城主復帰をチラつかせ、「大和国の守護を考えてやってもいいぞ」と話を振れば、松永久秀はやる気になるでしょうし、積極的に動く理由に成り得ます。
次いで天王寺砦。包囲していた敵を撃退し天王寺砦で一息つくことになる。
この時に織田信長は鉄砲傷を受けたと記録にありますから、弱ったフリをして天王寺砦の守りが不安であると煽り、天王寺砦の定番を松永自ら「やる」と言わせる。そうしますと「やる」と言った手前、解任するか別の任務を与えない限り、城番から離れられなくなる訳です。故に嵌めて干したのではないか疑念が湧くところなのです。また「弱ったフリ」というところが弟の件と合致しますので、逆手に取った可能性があると思えるところにもなるのです。
その後の展開は『多聞院日記』をはじめ他の資料によるところが大きいのですが、確認していきますと、仮に多聞城城主の返り咲きを願ったとするならば、全て松永久秀の願いとは逆の結果となっています。織田信長は大和の守護は松永久秀のライバルにあたる筒井順慶に任せていますし、多聞城の破却も始めています。しかも破却に関しては松永の息子、松永久通に加担させています。更には城のシンボルの移築も命じています。実はこの移築、多聞城築城に際し遂行された寺の移建をやり返しているのではないかと思わせるものでもあります。「一年間砦を守り切れば多聞城の城主を任せてやってもいいぞ」そのような約束事をしたのなら何の疑いもなく砦の城番に専念することも考えられますから。
織田信長が意図的に松永の息子を加担させたとするならば、「父親には特別な仕事を与えているので相談するな」と釘をさすことも可能。人質を取っていますし、反すれば謀反の疑いをかけられますので。
最後は松永久秀が謀反を起こす際の『信長公記』の記録。始まりは天王寺砦の城番に松永久秀と息子の久通が務めていたところから始まります。松永父子の二人が同じ砦にいること、この点に注目しますと、多聞城の破却が完了し移築も済ませた後、松永の息子・久通に対し、織田信長が天王寺砦の城番を命じたことが窺えます。そうしますと自動的に父親に報告することになる。その結果、松永久秀は事態が大きく変わっていることを息子から聞いて知ることになります。そこで騙されたことに気付く訳です。それ故に職場放棄して信貴山城に籠る、そのことの動機づけに成り得ます。そこで謀反の噂がたつことになりますが、それを受けて織田信長からは真意を問いただすための使者が送られる。
松永の怒りが爆発しているところに、白々しくも物を差し出せば許してやってもいいぞという織田信長の使いが示した条件。けれども、若江での約束も、天王寺砦の約束も全て反故にしている状況、なので明確な返事しない、その理由付けになります。あれは自分の城だと怒りMAXになったところで最後の仕掛け。使者にもう一通手紙を持たせ、去り際に番兵などに渡せば、松永はそれを目にすることになる。使者の安全も考えてのことなのかもしれません。書かれている内容は二人の天皇の名誉と尊厳をないがしろにしたことを糾弾する内容ではないかと、松永本人にとっては自覚があるでしょうから「それがあるから自分はもう許してもらえないのか」と悟る訳です。で気づいた時には城が包囲されて追い詰められていますから。もう無理だと。故に「最後は自ら猛火の中に飛び込んだ。」このような流れなら『信長公記』記述とも合う、そう思えた次第です。
「使者が二通の書を持っていた」という考えは記録に残るかどうかの観点から。最初の一通は使者が帰れないと記録に残せない、一方で最後の方は松永と共に猛火の中に消えますから記録に残せない。けれども松永には悟らせることができ、責任を取らせることもでき、その上で帝の不名誉も表に出ず世に知れ渡ることもない。
いかがでしたでしょうか?私は一般人として、個人の趣味ベースで『信長公記』の旅の魅力に取りつかれて旅を続ける身。生業としている訳ではありませんから何かを実証する立場にはありません。当案件は『信長公記』をベースに地道に現地探訪を積み重ねた結果、感じたことから考えた内容になります。なので絶対だとは申しませんし、あくまでも想定できる事として考えられる内容になります。これが何かの参考になれば幸いですし、そういう考えもあるんだなと思っていただければ幸いです。
総じて考えをまとめますと、考えた案では、信貴山城の戦いの既に3年前に既に松永久秀の命運は決まっていたと思います。長期間にわたって仕組まれたものになりますので、それが見え辛くさせていた要因になるのかなと。さらに名誉と尊厳を守るために、あえて周知するとなく本人のみに分からせた上で責任を取らせる、このような複雑な事情も後世に様々な憶測を呼び、さまざまな解釈がなされ悪評も生まれ、話がややこしくなっていたのかなと思えるところでもあります。「騙して城を建てたので、騙して城を破却する」これが「やり返す」ために織田信長が仕組んだ計略の根幹にあたるように思います。
今回、真摯に向き合った結果見えてきたもの、それは太田牛一が考えていた不可解なロジックが3点あること。一つは、松永久秀の行動の不可解な点。「自ら職場放棄して城に籠った、けれども問いただされても明確な理由も返事もせず自ら命を絶つという謎」。二つ目は主・織田信長について。「普段の主ならば、戦にせよ人を処断するにせよ明確な理由を明言する。けれども当件では、謀反の疑いがあるというだけで、それ以外一切漏らさない。だからおかしい。という謎」。最後は太田さん自身も不可解な想いを抱きながらも当時の風聞と合わせた要因を伝えているという事。逆に太田さんの立場と当時の状況なら『多聞院日記』を見ることも全ての情報を知り得ることも難しい、そのような状況の中で記録を残している訳ですから。同時に分かるのは、意図的に残らないように仕組まれたもの、消滅してしまった物というのは、例え後から予測できたとしてもそれを実証するのはなかなか難しい、そのことも同時に痛感した次第です。
今回の件で自分なりはかなり納得できる内容の謎解きの答えを導き出せたかなと思います。ただし様々な条件付となりますけれども。ある程度のところまで到達しましたので、自分なりの謎解きへのアプローチとしてましては、ここで一旦区切りにしようかなと思うところです。
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