街道

剣街道 マップ

剣街道 マップ

これまでに見てきた剣街道。
今回の訪問先で入手した情報を元にマップを作成することにしました。

<明治期の大阪実測図>
大まかなルートは鶴見区にある「つるぎかいどう碑」の情報を元にしました。
どのルートを通るのかラインを入れてみました。

剣街道1
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成・編集・加筆したものです。)
剣街道2
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成・編集・加筆したものです。)

北からのポイント

A.起点
土居の西、京街道から分岐する道→これは一本道しかないようです。 

現在は太子橋交差点の一つ西の細い道、これが該当する道筋だと思います。

B.東への曲がり
南下して90度東に折れるポイントがあります。
明治期のこの辺りの集落は、貝脇村ですね。

南下する道筋、この道は現在、スーパー玉出千林店ある千林栄通商店街筋ですね。
折れのポイントは千林商店街東口付近、この出口から京阪線の野崎ガードを越えて東へいきます。

C.集落群と神社から国境交差点
上辻村 馬場村は二つ 八幡大神宮 世木村 般若寺村

D.摂津河内国境交差点から南下
般若時村を抜けて下辻までの間は集落が見当たりませんね。

E.下辻
道筋は西よりへと湾曲していきます。
下辻で南へまっすぐ続く道に向かいます。

現在は鶴見神社が道を塞ぐ形になっていますから遷座などがあったのかもしれませんね。

F.古堤街道 橋
東西の道筋、古堤街道があります。
まっすぐの川筋があります。
古堤街道に出ますと直進できません、東へ折れた後、南に向かう橋がありますので、これを越えて更に南下。

G.放出
放出村は街道筋沿いに大きな集落があったと分かります。

H.下今津
明治の地図では阿遅速雄神社は下今津村内にあると分かります。
「つるぎかいどう」顕彰碑の説明では阿遅速雄神社、この辺りまでが剣街道だとの説明でした。

<地理院地図 現代マップ>

剣街道1 地理院地図
地理院地図(電子国土webより引用・加筆編集 25000 淡色地図

<剣街道 1>

≪起点≫旧京街道(国道一号線・京阪国道)太子橋交差点から一つ西の細い道、これが剣街道の北の起点となる道筋だと思います。但し、この道筋の西側にもう一つ蛇行する道筋がありますので、街道筋か井路川筋の可能性はあります。

≪目印≫野崎ガード(京阪線ガード)→八幡大神宮→内環状線(R479)→摂津河内国境交差点(地図上緑〇印)護念寺・両国橋跡(親柱)→両国町公園→R163→花博記念公園・両国町旧町名継承碑→緑地西橋


剣街道2 地理院地図
地理院地図(電子国土webより引用・加筆編集 25000 淡色地図

≪目印つづき≫イオン鶴見店→つるぎかいどう道標・顕彰碑(地図上赤〇印)→西へ折れる→鶴見神社→願正寺(少し北へ)→南へ折れる→ファミリーマート鶴見2丁目店の先・道が分岐(西側が本来の道筋・東側は府道159号線)→放出大橋・寝屋川→正因寺・中高野街道石碑・解説板→阿遅速神社

≪終点付近≫ 
阿遅速雄神社から道なりに西にJR放出駅、府道159号を南下するとJR踏切「放出街道」、
第二寝屋川の橋を渡って南詰付近に三組町旧町名継承碑、長瀬川・新田橋を渡ると森河内、諏訪神社があります。

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ⑦ 剣街道に関する諸説

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ⑦ 剣街道に関する諸説

◆剣街道について

剣街道は明治28年の改修、これによって道筋が整備された街道筋です。
しかし、その後の明治35年に延伸された中高野街道によって、重複する道筋が取り込まれてしまいました。
これによって、中高野街道に取り込まれなかった道筋は一部残っているものの、それまでにあった街道筋はどこからどこまでを指すのか、剣街道についての解釈も諸説あるため不明な点が多いです。

「京街道の土居の西から分岐、阿遅速雄神社のある放出まで」というのが目安の様です。

また別名とされる「放出街道」について、私個人としては「下辻ー放出」間を指すのではないか、との考えから
「剣街道」と同義として捉えて良いかどうか、判断に迷います。

位置づけとしては、明治期に延伸された中高野街道以前の、「摂津河内国境沿いの道」であり、その起源は摂津河内国境の堤道である「剣畷」にあると考えます。

◆明治期の剣街道の諸事情

この地域の明治期の道路整備に於いて、剣街道の改修というものは、道路法に基づく公道としての近代化の第一ステップだったと思います。次いで「中高野街道の延伸」というステップを踏むことで、更に公道として整備・集約化がすすめられました。しかし一方で、二つの整備がわずか7年という短い期間だったためか、道筋の一部同化という結果を招き、それ以前の剣街道については、諸説あって、不明な点が多い街道筋となってしまいました。

江戸時代の幕府が定めた公儀の道「五街道」や明治9年の道路法によって定められた「国道」、これらを除いて、それ以前の道というのは、「俚言的な通称・俗称の道」という側面を持っていました。
例えば、行先で呼び名が変わったり、その土地土地で呼び名が変わったり、区間によって道の呼び名が変わったり、こういうケースが多かれ少なかれ存在していました。現在の公道は道路法によって、路線名および起点と終点が定められています。しかし、当時の道はこの点が曖昧な道が多かった、こうした事情があります。これは、公道の黎明期の事情といえるかもしれません。

◆ポイントとキーワードをピックアップ
そこで、ここでは現地で得られた情報を一堂に並べ、どのような説が混在しているのか、そして何がキーワードとなるのか、こうしたポイントをピックアップするに留めようと思います。


<つるぎかいどう顕彰碑 碑文>
IMG_1703
①起点-終点
起点:京街道・土居の西辺り 終点:阿遅速雄神社辺り(定義は少し曖昧です)
「放出の渡しを渡ってその先、平野狭山方面に向かう」、その先続くかのようなニュアンスです。

②諸説 3つ
a.榎並荘の水囲堤と共に摂津河内国境をなす意味ある街道(東成郡誌)
b.阿遅速雄(別名八剣神社)説
c.佐太の来迎寺縁起に関係ある説

<鶴見の名の由来 鶴見神社解説板>
IMG_1812
この神社がある地は明治時代以前は下辻村でした。冒頭の辻に纏わる話はこのためです。

下辻由来では
①近江国下阪本村比叡辻の農民十七人が本村を開拓>②郷里の名をとって辻村を名乗る>
③当時北にあった上辻村に対して下の辻村と呼んだ>④江戸時代下辻村が正式名称となった
と4ステップで経緯を示しています。

鶴見の由来には
①源頼朝の話②短冊が光る様子からとする説③剣街道が訛って「ツルミ」となった説
三つ挙がっています

IMG_1832
比叡辻説に関わる比叡の八王子山の名を想起させる「八王子神社」の銘
こちらは剣街道の街道筋を辿ってきた際に偶然見つけたものです。

<両国町 旧町名継承碑 鶴見区>
IMG_1686
両国は摂津国と河内国、二つの国を意味します。町名由来はその二国の国境に所在することから。
明治の初頭には旧般若寺村の一部とあります。

※二つの場所にある「両国町」旧町名継承碑
通常、町名継承碑は一つの場所に一つ、これが基本です。しかし、おなじ「両国町」のものが旭区側にもあります。両者の内容も若干異なるようです。

<両国町 旧町名継承碑 旭区清水 両国町公園>
IMG_2480
こちらが旭区清水にある両国町公園。この公園内にも「両国町」旧町名継承碑があります。
ちなみに、この公園は旧剣街道の街道筋沿いにあります。
この街道筋のランドマークになるかと思います。

IMG_2482
鶴見区と異なるところ
1.この碑が所在する地区についての説明
2.「中高野街道を横切る剣井路には両国橋という橋も架設されていた」という文言

ここで、摂津河内国境交差点には<剣井路>と<両国橋>があったことが分かりました。

<両国橋 親柱跡 摂津河内国境交差点>
IMG_2418
両国町公園から街道筋沿い北方面に進みますと摂津河内国境交差点に出ます。
ここに橋の親柱の痕跡があり、そこに「りょこくは」と文字が見えます。
これが<両国橋>の名残となるのですね。
そして、この辺りに<剣井路>があったということになりますね。

<八幡大神宮 旭区 やけずの宮>
佐太の来迎寺との所縁の話
こちらは、鶴見区の「つるぎかいどう」顕彰碑解説の中で挙げられていた剣街道の諸説③に該当します。
来迎寺縁起にある話とは、八幡大神宮と守口佐太の来迎寺の二社に関わる話で、「やけずの宮」とも称されることとなった話の事だと思うのですが、改めて両社の説明を見直しても、何を指しているのか、よく分かりません。

八幡大神宮(大阪市旭区)ご由緒
IMG_2644

浄土宗 来迎寺(守口市佐太)
IMG_0449

良心的に捉えますと、八幡大神宮と上辻の関係が剣街道の一つの説となっている、この事を指しているのかなと思います。下記の上辻町の町名継承碑の中の説明「神の辻→上の辻に転訛」の説のことかもしれません。

<上辻町 旧町名継承碑 旭区清水 北清水公園>
IMG_2469

IMG_2472
上辻の町名の由来について
「京街道から分かれて河内国へ入る道路が上つ道(北の道)、と下つ道(南の道)の二つあることに由来する。
摂津と河内を分ける辻の摂津側の境に上辻村・下辻村の二村があった。
異説として、東成郡当時の村社八幡大神宮の神の辻が上の辻に変わったとするものや、放出の阿遅速雄社への参道にあたる説もある。」と記されています。

このうち異説の話は、剣街道の由来説に関係するものですね。
剣街道顕彰碑での異説③はここでいう「八幡大神宮の神の辻→上の辻に転訛」の説のことなのかもしれません。

来迎寺縁起には「やけずの宮」の話があって八幡大神宮との関係はありますが、上辻村についてまでの言及の有無というものは不明です。ですから、「来迎寺縁起に関係する説」という説明に違和感を感じたわけです。もし改変するなら、「八幡大神宮の神の辻が上の辻に転訛したという説」とすべきだったんじゃないかな、こう思った次第です。

<高瀬川跡 解説 世木の道 土居の道>
IMG_2452

IMG_2453
「高瀬・世木の道」「土居の道」は明治期の大阪実測図ではその道筋を確認出来ます。

①「高瀬・世木の道」は明治時代の延伸された中高野街道の道筋です。
②「土居の道」は京街道(現・日吉公園)から摂津河内国境交差点に通じていた道筋です。

※「土居の道」は「剣街道」と一部重複します
日吉公園から守居神社の南・土居御坊「浄澤寺」を通って土居商店街を抜け、土居公園を経て内環状線を越えて西へ、滝井駅付近で旧道筋が復活、旭区の八幡大神宮前を通って、再び内環状線を渡り、摂津河内国境交差点へと出ます。一部剣街道の道筋と重複しています。
IMG_2538


<織田三好の兵火 高瀬神社解説>
IMG_1133
高瀬神社の境内にある解説には
「天正年間(1573~92)に織田・三好の兵火で社殿は焼かれた」との記述があります。

<阿遅速雄神社 剣街道の由来の一説「八劔神社」説>
IMG_1756

当社の剣に纏わる話を挙げる説があります。その剣とは「草薙剣(熱田神宮)」です。
この所縁から江戸時代「正一位八劔大明神」の神階を賜り、そして八剣神社の別名を持つようになった
これが剣街道の由来だ、とする説があります。

IMG_1760
記念碑には、「草薙剣の話」から記念祭儀に至るまでの簡単な経緯が記されています。

<草薙の剣の話とは>
「天智天皇七年(668)新羅国の僧、道行が熱田神宮より草薙の剣を盗み、祖国に持ち帰る途中難波津にて大嵐に遭遇、漂着して放出村にて神罰だと御神剣を放り出して逃げ去った、後に当社に合祀奉斎された」という話。 ①年代②剣に関わる話③放出の由来に繋がる話がポイント

その後、江戸時代になってこの神社が御神階正一位八剣大明神に叙された。
この記念碑は、この所縁の話から千三百年にあたる昭和43年、関係各位を招いての祭儀を記念して建立されたもの。

<八剣神社 ~余談~>
IMG_0020
同じ八剣神社なら、鶴見区今福にも同じ名の神社があります。

野崎ガード (旭区千林駅千林商店街)
IMG_2466
旭区千林商店街の京都寄りにある京阪線のガードです。
剣街道の考え方では、この道筋が剣街道に該当するという考え方だと思いますが、実際にはこのガードは野崎ガードと呼ばれています。その由来は野崎参りの道からです。つまり、こちらの地元では野崎道として、この道を認識し、こう名付けたという話です。

これを踏まえますと、剣街道なのか野崎道なのか意見が分かれそうな所ですが、冒頭で申しました通り、公道の黎明期には「俚言的な通称・俗称の道」という側面を持っていましたから、同じ道でも、人や場所によって呼び方が変わる、こうした事例がある、ここではその実例として、この野崎ガードを挙げることにしました。

諸説の解明、これは考えてもきりがないですし、まとまらないような気もします
今回現地で得た情報、これは次に生かしていこうと思います。
次は摂津河内国境の江戸期の絵図での対比、この読み解きを考えています。

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ⑥ 摂津河内国境と剣街道を探る

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ⑥ 摂津河内国境と剣街道を探る

次に見るべきポイント、摂津河内国境と剣街道・放出街道について。

探訪当初、そこに「中高野街道」と称する近代に成立した街道筋が通っていたため、そちらを見てきました。
しかし、調べを進めていくうちに分かってきたこと、それは、当地を通る中高野街道は「延伸された明治期の近代の道」であって、見るべき点は、それ以前にあった旧街道に着目すべきだということでした。

中高野街道については、①平野から南へ続く「高野参詣の道」②平野-守口間の「明治期の延伸の道」、二つの時代、二つの概念があることに気付きがありました。そして平野-守口間の道筋は、中世の道に直接つながらないという事も判明しました。

そこで今度は、摂津河内国境、その国境の道筋として「剣街道」と「剣畷」、こちらに視点を移します。
まずその旧街道がどうだったのか、そして、摂津河内国境がどうなっていたのか、これらを紐解くことで、これが江戸時代から天正期まで、どのように遡っていけるのか、ここからはこちらがテーマとなります。

◆剣街道

~鶴見~
つるぎかいどう道標 石碑
IMG_1702

剣街道 街道筋の名残 花博鶴見緑地 緑地西橋より
IMG_1690
これが剣街道の名残となる道筋

両国町 町名継承碑
IMG_1687
両国には摂津国と河内国、二つの国境(くにさかい)の意が込められている。

~放出~
式内御社 阿遅速雄神社
IMG_1755
剣街道の由来の一つに、この阿遅速雄神社への参詣の道が挙げられています。

放出街道 踏切
IMG_1779
「放出街道」と題された道標や石碑は見当たりませんでした。
けれど、踏切の案内にその名が見えます。

◆摂津河内国境

~摂津河内国境交差点 旭区清水 守口市高瀬~

摂津河内国境交差点
IMG_2422
この交差点は、剣街道、明治期の中高野街道、野崎街道の三つの街道筋が交差する交差点です。

「両国橋」 摂津河内国境の名残となる橋の親柱
IMG_2418
「りょごくば」と読めますね。これは両国橋の事だと思います。

IMG_2419
親柱の背面から、正面にみえる道筋が「剣街道」の街道筋です。

護念寺
IMG_2426
浄土真宗大谷派の寺院。世木御堂。
摂津河内国境交差点の北面に隣接しています。
このお寺の境内には橋に関していくつか見るべき点がありました。

御堂前橋
IMG_2434

御堂橋
IMG_2435

橋の欄干と思しき石
IMG_2439

これら橋の親柱や欄干跡と思しき石などを拝見しますと、かつては水路や川があって境内との境界があったことを窺わせます。
同時に、摂津河内国境もこうした水路や川で区切られていたと窺えます。

世木御堂 「護念寺」
IMG_2429
明治期の地図で見ますと、国境は般若時村が該当するのかと思っていましたが、
世木の名から世木村との間にあった、この事がこのお寺の名から見てとれたので印象に残りました。

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ⑤ 中高野街道まとめ

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ⑤ 中高野街道まとめ

守口と森河内、二つの地を結ぶ街道、中高野街道。
この街道の道筋に、中世からの集落が点在する、このことからひょっとして中世の道が存在していたのでは、と探りながらの現地訪問。その中で矛盾や疑問が生まれ、持ち帰って調べてみることになりました。

今回はその結果分かってきた事、これをまとめていこうと思います。
まずは近代(明治期)に転換点があった、これが判明しましたので、この事を中心に記します。

◆平野より北か南か、これで分別される中高野街道の持つ意味

1.江戸時代に一般庶民にまで広まった高野参詣の道、これは平野以南の中高野街道が該当します。
平野の杭全神社、この付近にあった起点、そこから南へと続く道、これが本来の中高野街道です。
いうなれば「元祖・中高野街道」、本来の意味「高野参詣の道」としてはこちらになります。

高野街道概念図
[高野街道解説図 中高野街道と西高野街道合流点解説より 河内長野市楠町]

2.一方、平野~守口間の中高野街道は明治35年(1902)に築造された街道の名称です。
平野から延伸させて守口への道を開通させました。そこで京街道に接続することとなります。
これが新たに延伸された中高野街道です。
しかし、大正3年(1914)には府道守口平野線と改称、中高野街道の公称は新しい名称に変わりました。
つまり、延伸された中高野街道、その公称は、わずか12年間という短い期間だったのです。
しかしながら、この時の名称はその後も残り継承されたようですね。なので俗称といえるかもしれません。
そして現在に至り、今に残るのです。

これが真相のようです。

◆明治期に延伸された中高野街道について

1.改修と延伸の経歴
近代になって延伸された中高野街道、この南北の区間の道路整備は以下のような経歴を辿っています。
①明治28年(1895)剣街道の改修
②明治35年(1902)中高野街道築造(平野ー守口間)
③大正3年(1912)府道守口平野線に改称

最初に近代の道として整備されたのは、剣街道の改修(①)が先でした。最初にこの事実があります。
そして、その7年後に新しい中高野街道の築造(②)と相成ります。
但しこの時、全て新造という訳でなく、その道筋にあった、旧来の街道の一部も取り込んだわけです。
つまり旧街道「放出街道」や「剣街道」はこの時に取り込まれてしまった事になりますね。

これが守口まで延伸された中高野街道なのです。
他方、取り込まれなかった「剣街道」の道筋も存在する。
ですから見方によっては、同じ街道といえますし、厳密に言えば異なるとも言えます。

これが今回分かった真相です。
そしてこの矛盾への気付き、これが今回の謎解きの引き金となりました。

では、この矛盾についてもう少し見ていきましょう。

◆延伸の名残
京街道と接続する延伸された中高野街道の守口の起点となる「十三夜坂」です。
ここと平野を結ぶ区間の街道、これが延伸された中高野街道となります。

ここにある道標に注目です。
その行く先は「野崎・奈良」となっています、そして高野山を示していません。
江戸時代には、この坂道は高野山を目指す道ではなかった、このことははっきりと言えるでしょう。
それが明治以降、延伸された道路であることを物語っているのです。

<京街道 十三夜坂 道標>
IMG_1279
「右 なら のざき みち」とあります。
この道標の設置後、中高野街道が延伸したことを物語っています。
もし高野山への道であれば、ここが「ひらの こうや」となります。
ですが、そうなってない、これが逆説的に言うと、延伸の前の痕跡となるんですね。

◆明治期の地図に見る剣街道と中高野街道の違い

明治42年(1909)大阪実測図をベースに加筆編集しました。
この地図は、平野-守口間の中高野街道が開通して以降の地図となります。
ここに今回のポイントを加筆しました。

自分の為にも、後で疑問に思う人の為にも、ここで整理しておこう、そう思い立った訳です。

◇中高野街道・旧街道の違いとポイント(明治42年大阪実測図)
中高野街道と剣街道違い 明治期 図説
(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成・編集・加筆したものです。)

現在の鶴見区、旭区、守口市のうち、摂津河内国境付近を中心にしています。
加筆部分の説明です。

◇街道
①中高野街道(青) ②剣街道(橙) ③野崎街道(緑)
色分けしましたので道筋が分かるかと思います。

◇交差ポイント(赤点線内)
Ⓐ 摂津河内国境交差点
Ⓑ 下辻村 交差点
街道が分岐するポイントです。

◇つるぎ街道石碑の位置(矢印黄色Ⅰ)
現在鶴見区に設置されている「つるぎ街道」石碑と顕彰碑の位置です。
明治期の地図で何処に該当するか示しました。

意外なほど、ポイントと道が少ない、現在の花博記念公園がスッポリこの中に納まりますから、いかに何もなかったか、逆に言うとこの事が印象に残ります。
その中でこの二点の交差点は非常に目立ちますよね。

さて、街道についてです。
本来②が先に「剣街道」として整備されていました。
交差点Ⓐから北へ続く道、交差点Ⓑから南へ続く道、これらは「剣街道」が先に道筋として存在していた訳です。
そして交差点Ⓑから南への道は「放出街道」とも称します。
これは昔のことですから、「剣街道」「放出街道」の定義は場所によって曖昧だったかもしれません。

そして、延伸した中高野街道①が後から出来たわけです。
そして「放出街道」の道筋と重複しますので、新しい街道に取り込まれてしまった。

一方「剣街道」は橙色の部分だけではなく北へも道が続いていた訳です。
そして、この道筋も後からできた「中高野街道」に取り込まれてしまった。
ですから、剣街道は中高野街道に踏襲された、とも言えますし、一部取り残されたとも言えるのです。
少しややこしいですね。複雑な事情です。説明しづらい道筋、街道とも言えます。

◆地図と経歴を合わせ見ての感想

「中高野街道」についての転換点、これは「明治期の延伸」にあります、ですから、この転換点を基準に定義づければ良いのになと思います。

A.「明治期の延伸された中高野街道」
B.「江戸時代の高野参詣の中高野街道」
この様に呼び分けられないものかと思います。

なぜなら、元祖ともいえる平野以南の「高野参詣」としての「中高野街道」この道が通る地元の人々とってはどうなのだろう?或いは「高野参詣」の道として辿りたい人にとってはどうなのだろう?これを想うからです。

現在の新旧を一緒にした「中高野街道」についての説明には、違和感を覚えます。そして、「守口まで通じていた」とする説明をするならば、「明治期の延伸」については触れる必要があるのかなとも感じます。

しかし、延伸された新しい中高野街道も今や昔。昭和になってからは、内環状線が新たに開通し、平野-守口間の主幹道路の役割はこちらに遷ってしまいました。府道159号線に残る道筋はかつての名残です。

そして、こうした変遷もまた、当地を通る人々にとっては郷土の歴史なのでしょう。明治期の近代化の象徴であった道、それ以前ははっきりしなかった道筋、これが南北を通る一つの道筋で集約化された、これもまた郷土の歴史なんですね。

だからこそ、その違いは明確にした方が良いかな、この様に思います。

◆次の課題
私の中のテーマでは今回分かった事、それは、平野-守口間の中高野街道は中世の道には直接繋がらない。これが明確となりました。

他方、摂津河内国境の道、剣街道、剣畷についてはもう少し見ていく必要があると思います。
訪ねてみて気づいた「両国」というキーワードもありますし、明治期の地図では、集落が見当たらない広大な土地というのは気になるポイントです。これらを合わせもう少し深く見ていきたいと思います。

◆最後に
放出東にある中高野街道の説明です。
放出東中高野街道説明

今回の記事をご覧になられた上で、この説明をみてどう思いますか?
本当にこれでいいんでしょうか?
あとは皆さんで考えてみて下さい。

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ④ 南の訪問先

<摂津河内 中世の道 中高野街道・剣街道を探る> ④ 南の訪問先

鶴見と放出、森河内へ訪ねた後、中高野街道の関心も次第に高まってきましたので、更に南へも足を伸ばしました。河内長野市の千代田駅-滝谷駅間、平野区の喜連の二箇所を訪ねてみました。こちらの訪問先は目的地を絞り、電車を利用して、ピンポイントで訪ねました。

河内長野には中高野街道と西高野街道の合流地点そして解説板に高野街道の概念図があるという情報、一方、喜連には中高野街道の道標があるとの情報を得て、これらを優先して向かう事に。

中高野街道と西高野街道の合流点
IMG_2056

喜連の中高野街道道標
IMG_2319

<中高野街道に対する考え方の違い>
双方の訪問地を見て、中高野街道に限ってみますと、「やはり場所によって考え方が違うのかな」というのが印象に残りました。

分岐する高野街道の概念図
高野街道概念図
河内長野の高野街道概念図では中高野街道は平野が起点となっています。
そして、逆に、この図のある河内長野市を起点に見ますと方々に伸びているのが分かります。
西、下、中、東と高野街道が分岐して伸びています。まるで熊手のようですね。


喜連での解説
IMG_2374
喜連での中高野街道の説明
「北は平野を抜けて北上し、守口で京街道に接続、南は三宅(松原市)を抜けて、東西の高野街道と合流する高野参詣の道」という説明になっています。

さて、河内長野市と喜連での説明、中高野街道がどこまで続いているかという点で、両者の違いを比較しますと、一方は平野もう一方は守口、となります。このように行き着く先が違いますから一見矛盾しているように思えます。そこで、中高野街道の伝え方という点でとらえ、両者の相違を以下のように考えてみました。

<解説での主旨の違いについて>
大阪市では、近代の道路整備の成果を伝える事
河内長野市では、複数の高野街道が通っているため、違いをはっきりさせたい
私なりには、この様な思惑の差があるのかな、との考えを持ちました。

~その他のポイント~

~河内長野市~南海高野線千代田駅ー滝谷駅間

<街道沿いの解説板>
①西高野街道解説②中高野街道と西高野街道の合流点③盛松寺と松林寺

<寺社>
松林寺と春日神社、盛松寺

<街道>
二つの街道が通る付近は峠道。
峠の頂上付近に松林寺、隣接する春日神社と二つのポイントがあります。
街道の合流点は更にその南。
峠道の街道の街並み、所々古い民家が並んで往時を偲ばせる

中高野街道
IMG_2073

西高野街道
IMG_2014

春日神社
IMG_2044

中高野街道と西高野街道の合流点 解説
IMG_2061


~喜連 大阪市平野区 喜連環濠集落・喜連城跡~

中世の環濠集落の面影を色濃く残す町。

<図説パネル>
喜連小学校、北西部の柵沿いに図説パネルがズラリと並ぶ。必見。
古民家や寺院、地蔵尊などの解説パネルも街中に点在。

<寺社>
楯原神社・如願寺・専念寺・寶圓寺など

<環濠の堀>
環濠の堀跡は舗装された道路に面影を残す。
町に点在するマップでその位置を確認できる。

喜連小学校 喜連関連文化財史跡パネル
IMG_2296
喜連小学校北側に飾られている6枚の図説パネルは圧巻。
そして、この道筋が喜連村環濠の南のライン。

喜連を通る中高野街道 
IMG_2376

喜連環濠地区図
IMG_2270

環濠西側のライン
IMG_2352

豊臣太閤桐の家紋瓦
IMG_2307
専修寺の山門の軒丸瓦「豊臣家の五七桐紋」
中喜連の地が豊臣家の天領だったことによるものだそうです。

楯原神社
IMG_2317

忠実に街道を辿っていくのも楽しいです。
しかし、逆にポイントを絞りますと、的が絞れますから、何かテーマがある場合は比較しやすい、今回はそのような事を考えたりしました。
カテゴリ別アーカイブ
ギャラリー
  • 『信長公記』大和国の謎 松永久秀の最期に至るまでの謎解き
  • 『信長公記』大和国の謎 松永久秀の最期に至るまでの謎解き
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
  • 『信長公記』の旅 東福寺~勝竜寺城~寺戸寂照 信長上洛戦関連地を巡る 概要
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

カテゴリー