2010年03月16日

二つの遺書 B・C級戦犯たちの思い

 私は去年の8月に横浜の英連邦墓地の追悼礼拝に参加しました。
 その時にお会いしたのが駒井修さんです。駒井さんは毎年岩手から、この追悼礼拝に参加するためだけに横浜までやってきます。駒井さんはどんなに太陽が照っていても、決して帽子はかぶらず、亡くなっていった捕虜の方へ思いを馳せるのだそうです。この日はとても暑い日でした。(荒川)

英連邦墓地 駒井光男さんは戦争中、タイのカンチャナブリ捕虜収容所で副所長でした。駒井修さんの父親です。当時泰緬鉄道の建設作業を急いだ日本軍は連合軍捕虜に労働させ、完成を急ぎました。物資のない中、劣悪な環境の中でたくさんの捕虜が病気などで亡くなりました。
 1943年、イギリス人捕虜が無線で連合軍の放送を盗聴していたことが発覚し、容疑者の捕虜たちを拷問しました。駒井光男さんはこの事件の容疑者として1946年にB・C級戦犯裁判にて死刑判決が下され、同年3月14日に41歳で死刑となりました。

 駒井さんは幼い頃から戦犯の子どもとして差別され、とても苦しんできました。夫の帰りを待っていた母も、駒井さんが高校生のときに病死しています。子ども時代に苦労しながらも、就職して家庭を持つうちに、駒井さんは父の光男さんのことを考えるようになります。そして死刑のきっかけになった事件のことが少しづつ分かってきて、駒井さんの中に変化が生まれます。拷問で殺された捕虜たちにも同じように家族がいて、きっと苦しんでいると思うようになるのです。

 駒井さんは当事者の元捕虜のE・ロマックスさんというが方が今も生きていることを知り、拒否されるのを覚悟で直接会って謝罪したいと考えます。それは実現しました。2007年の「田原総一郎スペシャル処刑台に散った父 時代を超えて届いたBC級戦犯124通の遺書」という番組をビデオで観ることができました。緊張してロマックスさんの家に向かう駒井さんが映っています。少し雑談をしたあと、ロマックスさんと駒井さんは二人きりになり、謝罪はおこなわれました。
 駒井さんの『父をおもうー「戦犯の子」として生きた私の戦後―』という文章をぜひご覧ください。駒井さんの実直な人柄が表れている文章です。
http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm


 私はもっと駒井さんに話が聞きたいとは思いましたが、何しろ岩手にお住まいです。距離がネックと思っていましたが、今度岩手に行くことにしました。

 以下は、駒井光男さんがチャンギ刑務所で残した家族にあてた遺書です。短い遺書ですが、家族を思う気持ちが伝わってきます。


「兄宛 
常二親ノ代リトナリ、妻八重子、子供等ノ面倒ヲ見テ下サル様呉々モ御願シマス。
妻宛
子供等ヲ愛撫シ立派二教育ヲシテ呉レ。家事二関シテハ遺言書二記入シアレバソノ通リ実行シテ呉レル様二。
子供宛
人ニ指サゝレルヤウナ人二ナルナヨ、立派ナ人トナレ。三月十四日ハ父ノ命日デアルゾ。汝等ガ父ノ追善供養ヲナス時ハ父必ズ汝等ト共ニアルデアラウ。」


趙 もう一人、同じチャンギ刑務所で死刑になった趙文相(チョウ・ムンサン)さんのことを書きます。1991年にNHKの『アジア太平洋戦争(4)チョウ・ムンサンの遺書 〜シンガポールBC級戦犯裁判〜』という番組が放送されました。私はたまたまこの番組を観ることができたのですが、こんなにも理不尽なことがあるのかと思わずにはいられませんでした。

 1942年、陸軍省は捕虜の監視員を朝鮮で募集しました。臨時軍属教育隊(野口部隊)で軍事訓練を受けた約3000人の朝鮮人が軍属として南方に送られました。訓練では「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓は習っても、捕虜の取り扱いなどが定められたジュネーブ条約などを習うことはありませんでした。
 趙文相さんは同じく泰緬鉄道での捕虜収容所の通訳や、収容所から労働者を出す仕事をしていました。元々は朝鮮で募集して集められており、監視員はこういった末端におかれていた朝鮮人が担っていました。
 決められた人数を出すためには病気の捕虜も無理やり労働に借り出すこともあり、とくに仕事を忠実に実行していたため、捕虜たちにうらまれる対象となっていきます。

 趙文相さんは捕虜リンチ事件にかかわったという容疑で、1947年2月25日に26歳で死刑になりました。彼は処刑2分前まで遺書を書き続けました。

 以下、趙文相さんの遺書から抜粋します。
 「『あの世ではまさか朝鮮人とか、日本人とかいふ区別はないでしょうね』と金子(金長録)の詠嘆声。浮世のはかなき時間に何故相反し、相憎まねばならないのだろう。日本人も朝鮮人もないものだ。皆東洋人じやないか。いや西洋人だつて同じだ」

 駒井光男さんの無念さと趙文相さんの無念さを、意味がないことだと批判されそうですが、私はどうしても比較してしまいます。それは私が日本人だからなのか、自分でもよく分かりません。
 そしてこの二人の共通点は虐待をしたという罪を認めているところです。命令とはいえ、加害を認めることはとても大変なことだと思います。

参考資料
『戦後補償法 その思想と立法』今村嗣夫 明石書店
『キムはなぜ裁かれたのか』朝日新聞出版 内海愛子
『朝鮮人〈皇軍〉兵士たちの戦争』岩波ブックレット 内海愛子
『日本の戦争 BC級先般 60年目の遺書』アスコム 田原総一郎監修
『「戦場にかける橋」のウソと真実』岩波ブックレット 永瀬隆
『テレビは戦争をどう描いてきたか』岩波書店 桜井均
『テレビの自画像』筑摩書房 桜井均
『BC級戦犯・チャンギー絞首台』紀尾井書房 茶園義男
『BC級戦犯裁判』岩波書店 林博史

『アジア太平洋戦争(4)チョウ・ムンサンの遺書 〜シンガポールBC級戦犯裁判〜』1991年NHK
「田原総一郎スペシャル処刑台に散った父 時代を超えて届いたBC級戦犯124通の遺書」2007年テレビ朝日


Posted by sensouheno at 08:35│Comments(2)戦後補償 | 荒川
この記事へのコメント
韓国・朝鮮人戦犯の補償請求運動をしている「同進会を応援する会」です。記事、拝見しました。当会のブログでも記事を紹介させていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。

http://bcq.blog49.fc2.com/

Posted by 同進会を応援する会(田口) at 2010年03月16日 16:54
コメントありがとうございます。

「同進会を応援する会」のブログ拝見しました。
紹介していただいてありがとございます。
まだまだ勉強中で認識が甘いところがあると思いますが
間違っていたらどんどん指摘してください。

今後とも宜しくお願いしたします。
Posted by 荒川 at 2010年03月18日 20:55

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