パイオニアの野口三次は元は外車のセールスマン。外車だから米国などからの輸入会社社員だったのだろう。同じ輸入のゲーム機と出会い、ゲーム機のリース業に転身する。前に書いたがこれを高山辰珠が一緒にやった。野口の会社の販売員だ。その弟が高山富春(現ベルコ、ヤーマ)なのはすでに書いた。たしか「スパコン」というゲーム機が主体だったように聞いている。当時のゲーム機は輸入品がすべてだから、べらぼうに高価だ。当時で50万円〜100万円したとも聞く。つまりゲーム機販売業=リース屋がスタンダードだった。

 大阪の賭博ゲーム機汚職事件についてはすでに書いたが、このとき、主犯格の小島某(この人は公務員で建設省高知出張所の所員だった)と一緒にゲーム機賭博で逮捕されたのが野口だ。罪状は「常習賭博ほう助罪」。ただ執行猶予付きで出てきている。これについては野口本人に確認しないと名誉毀損で告訴されるかもしれないので、あくまで「聞いた話」にとどめておく。ただ、今のパチスロメーカーのオーナー連中の多くは、ゲーム機時代に大なり小なり危ない橋を渡ってきている。当時はそれが犯罪意識にまで精神的に昇華されにくい混沌とした戦後社会の残滓があった。パチンコ機もそうである。ホールが勝手に発射速度を120発に変えたり、天釘を玉が通らないように閉めたり、チューリップ役物が開かないよう細工したりということも行われていたのである。もちろん全部が全部ではない。表面的に歴史を眺めて「パチンコは日本の大衆文化」だと巷間喧伝されるものとは違う、胸を張って言えない時代の上に立って、今のパチンコ産業が成立している。これは風俗営業取締法時代の警察の業界癒着体質とも関係が深い。ホールや組合、メーカー等の警察接待は当然のように全国各地でおこなわれていた。立ち入ったときのおみやげに、タバコ1カートンなどはまだ可愛いほうだ。この関係は昭和60年の風営法大改正後も水面下で続いていた。おそらく、この過去の遺物の大粛清が、昭和64年−平成元年のプリペイドカード導入を契機としたコスモエイティの熊取谷稔、当時の警察庁・平澤勝栄保安課長が表面に立ったあたりからだろう。これについては、いずれまた。

 高山富春はポーカーゲームのリースで儲けて利益を上げる。昭和55年、三共フィーバー登場に併せて、それまでのタテ型オリンピアマシンが現在の「パチスロ」(箱型と呼ばれた)になる。第1号機が「パルサー」(日活興業)だ。後に山佐の代表ブランドになるが、山佐のパチスロ1号機は「プラネット」。で、日活のパルサーをそのまま同じ筐体で機種名も同じで製造したのが尚球社(現・岡崎産業)。この尚球社のパチスロを販売して儲けたのが高山富春である。筐体を尚球社から借りて高山が製造して、大阪茨木市のホールなどに6000台売った。
 野口は高砂の濱野、東京パブコの古田と同じグループだと以前に書いた。ところが濱野と古田は不渡り手形で一時もめている。このとき、野口は6000万円を用意して濱野側に付いた。野口は大阪西区で喫茶店「夢」(台湾語=北京語でゆん)を経営していたが、これを「エース」という名前でスロットマシン店にした。このときの店の名義が実は高砂の濱野の番頭だった吉村だ。濱野や古田が沖縄から引き上げてきて、大阪でなんとか再挑戦しようと始めた第1号店だった。
 ちなみに濱野がグリーンランドという不動産会社を興して白浜にリゾートマンション用地取得、さらに岡山でゴルフ場を計画していたが、オイルショックで着工が遅れて命拾いしたと書いたが、実はこのときの損金を古田が立て替えている。高砂のスロットの販売権は西日本を野口が、東日本を高山がやる、その利益は折半だった。
 なんか、未整理状態で書いてしまった。この複雑な人間関係。アタマも混乱。