ドン氏の花月会人脈と自身のリース・金貸し業(富士興業)をバネにして東京に進出してからのことはいずれまた書き込むことにしたい。なにせ、花月会関連で書き込んでいたらだれもコメントしてくれなくなった。唯一最初にコメントをくれたKさん曰く「あんな内容の記事にだれもコメントして関わりたくないよ」らしい。

 ということで、花月会から離れて、パチスロ草創期に話柄を戻したい。これまで大阪の角野、古田、野口、濱野、関東の岡田、里見について、それにまつわる人物も含めて書き込んできた。沖縄の最初のスロットと彼らおよび地元の石原(オリンピア)のことについても書いたが、唯一、そこからすっぽり抜け落ちているグループがある。岡山の「山佐」と「日活」について、である。実はここが、パチスロ創生の大きな(角野とも関係して)原動力になっているのである。パチスロ0号機の最初の風営法認可検定第1号機は、尚球社の「パルサー」だ。もちろんタテ型オリンピアマシンの風営法認可1号機はマックスのジェミニだが、そのあと。なぜ「パルサー」が大阪のパチンコ玉製造メーカーであった尚球社(当時、武田勇吉社長)だったのか。そのあとなぜ、パルサーブランドが山佐になったのか。日活興業、日活製作所との関連は?について書いておかねばならない。

 まず、なぜ「日活興業」(現ネット)であって「日活工業」ではないのか。もともと日活という名前のとおり、日活興業社長の木村義輝は木村3兄弟の長男で、岡山では商工会、JCの会長もやっていて、3男は日活の俳優もやっており、地元で日活の映画館、ボウリング場などを経営していた。だから「興業」。
 米軍基地から排出されたスロットマシンを昭和39年に、最初に東京オリンピックにあわせて「オリンピアマシン」としてゲームセンターに出したのが、大栄商事の機械である(パチスロ時代にもこの大栄商事は販社として存在したが、そのルーツについては沖縄であろうことしかわからない)。そのあとが、ここでも書いた濱野が、沖縄用とゲーム機として出した「コンドル」だ(日電協20年の歩みより)。
 日電協が設立された昭和55年、最初のパチスロ(箱型)スロットマシンが認定された。これが尚球社の「パルサー」だ。東京神田の「みとや」が導入1号店。
 これまでのタテ型(オリンピアマシン)は、リールを止める「歯車のギア」構造といってもいいゼンマイ仕掛けだ。半回転、1回転ごとでギアを外す(あるいは止める)制御で、モーターによるギア停止とリール停止で、そこで7図柄が来ればギアを止めずにずらす半回転式というハード構造だった。もちろん、僕はこの技術的なことはよく分からないから間違っているかもしれないが、おおよその構造だ。ここにオーバーフローの「天井方式」というものが付加される。何枚入ったら出るということで、リセットして天井枚数を設定するというものだが、これはあくまで「抽選方式」とは違う。客の何人目で当たるかもわからないし、ホールも出せるときに出せる、あるいは回収できるというものではなかった。これを、ホールがもっと営業に活かせて商売できるものにする必要が求められた。天井枚数を「出せるときに出せる」ものに変える必要性があった。いわゆるステッピングモーター(パルスモーター)によるコントロール技術だった。いわばそれまでのオリンピアマシンを小型化して、パチンコ島同様の日本に合った遊技機にするにはメカ構造からパルスモーター制御による電子化への技術革新があった。その技術導入で誕生したのがパルサーだ。

 これを実現させたのが、山佐のハード、制御ソフトをやっていた佐藤正隆と、当時に雑誌「トラ技」(トランジスタ技術)にパチンコのカウントシステム、コンピュータ管理についての記事を書いていた鵜飼國夫(当時、東海大教授)である。佐藤もここに記事を書いていた。
 この2人に目を付けたのが山佐の佐野慎一だった。これを一緒にパチスロに導入したのが角野だが、このとき最初にパルスモーター技術に目を付けたのが佐野だったわけである。技術的なことについては僕も素人なので、あらためて取材して、このあとの記事を書き込むことにしたい。