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 前回の続き。パチスロ以前のオリンピアマシンがアナログの「ギア式」だったことについては触れた。あやふやだったので、知合いの業界人に再度そのことを確認してみた。このギア式がやはり、いわゆる業界で「リレー式」「リレー制御」と言われていたものである(この確認のため電話したのだが)。このリレー式の頃も天井設定があったのだが、うまく使いこなせていなかったことは前回も書いた。ホールの現場では客の技術が上がってくる。ギアを半回転ずらして7の当たり図柄を外したりしていたのだが、これを客が熟練した技術で7で止めるようになった。いわゆる「目押し」の原点である。
 ここで、メーカーでは「メカ式のままでは客の技術との間で限界がある」ということになり、どうしてもその対策を施す必要性に迫られた。でなければ、ホールの売上と利益にも影響して、ひいては機械も売れなくなる危機感があったからである。草創期のメーカーにおけるこのジレンマが、画期的な日本固有の「パチスロ」誕生に向けた革新へと結びついていくことになる。もちろん風営法認可1号機のオリンピアマシン「ジェミニ」もリレー式だった。リレー式だと、ホールにはパチンコも含めて電気を流せば相当数の電磁気(ノイズ)が反応する。このためオリンピアマシンのギア回転速度も計算どおりにはいかなかったのかもしれない。

 ちなみに、パチスロの1号機「パルサー」は、おそらくリレー制御からCPU(マイコン)であるパルスモーター制御にした「パルス」からのネーミングではないかと思われる。

 このパルスモーター制御方式を雑誌「トランジスタ技術」に論文として発表していたのが当時は東海大学教授で旧通産省工業技術院電気試験所(現・独立行政法人技術総合研究所)の研究員だった猪飼國夫である。この人は「ハードウェアの伝道師」とも言われ、自身のプロフィールには「コンピュータ利用技術の何でも屋さん」と書いているくらいのオーソリティーだ。工学博士。著書にも「メモリIC規格表」「マイコン割り込み技術入門」「インターフェイス回路の設計」「パルス回路の設計」など多数。

 このトラ技に記事を書いていたのが前回に書いた佐藤正隆。この猪飼と佐藤の記事を見てオリンピアマシンの限界を打破する技術転換を考えていた東京大学理工学部を出て岡山に戻っていた佐野慎一だ(あるいは在学中だったのかもしれないが)。早速、佐野はこの2人に連絡をとって協力を依頼する。ちなみに、佐藤はその後、山佐に入社したが、佐藤がみずから師とあおぐのが、“日本一の裏ロム師”と自称して攻略誌などにコラムも書いている広島出身(元は電機屋)の下田一仁だ。この人も一時期はトラ技の常連だったと記憶している。最近は僕も連絡もとらずにご無沙汰を重ねているが、このブログのためにもまたお会いしようと考えている。ちなみに、パルスモーター(ステッピングモーター)のコントロール部分の技術を有していたのが佐藤である。当時アーケードゲームのフリッパーなどのステッピングモーターを手がけていた人物である(フリッピングモーターと呼ばれた)。

 このとき、パルサー開発はあくまで佐野であり、ここに声をかけて一緒に開発しようと引き込んだのがマックスの角野博光だった。佐野とともに開発を行ったのが当時、岡山で昭和42年から映画館とともにパチンコ店も営業していた日活興業(木村義輝)だ。木村と佐野は地元で懇意の仲だったから。最初は尚球社(現・岡崎産業)の「パルサー」の販売会社としてのスタートだったが、開発は佐野と木村が行い、製造とメーカー名義が尚球社だったということである。この日活は昭和60年に「パルサーXX」を出して名実ともにメーカーの仲間入りをする。爾来しばらくはパルサーといえば日活の代名詞になった。
 余談だが、木村の3弟が日活映画の俳優だったことは先に触れたが、次弟(2男)の木村和生はいまも山佐の販社である蠹賚臓碧楴辧Σ山県玉野市と名古屋市)として活躍している。

 初期のパルサーも日活のパルサーXXもすべて、その中身は山佐である。なぜ佐野が表に出なかったのか。これは風俗営業であるパチスロ製造業として出て行くことを、地元財閥の御曹司である佐野が控えていたからである。岡山で佐野の実家は材木商を家計としてその財力を築いていた。材木商だからとうぜん山林も多く所有している。つまり「山」の「佐野」で、「山佐産業」という社名だった。当時は国鉄路線の枕木を多くがここで製造していたようだ。ところが、佐野が東大の大学院3年のときに先代が逝去する。後継者として岡山に戻る。山佐産業はこの頃、材木商とは別にモービルのガソリンスタンドも別会社で経営していた。佐野自身は別に(在学中からかどうかは不明)ゲームマシンのバーリーサービス(最初はバーリージャパン)の関係の仕事もやっていたようで、ここで角野との関係が築かれた。が、ゲームマシンの仕事が軌道にのらずに、ここからオリンピアマシンに食指を転換する。とすれば、当時のオリンピアマシンの欠点に目をつけたのは東大理工学部出身の佐野であれば当然だったといえるだろう。

 ここで佐野の革新意欲が、佐藤と猪飼に目を付けたということになる。実は実家(先代)がガソリンスタンドも展開していたことで、その関係から角野のバーリーサービスを紹介されている。バーリーの日本代理店フランチャイズに佐野がその好奇心と技術で食指を伸ばしたわけである。佐野の業界デビューのルーツだ。

 パチスロはあくまで佐藤と猪飼の協力を得て、佐野がみずから考案し開発したものである。それを先の事情で佐野が「山佐産業」ではなく地元で懇意だった日活の木村に名義貸しして、日活はその仕入れリスク回避で名義料+手数料(ロイヤリティ)を払っていたということになる。では、なぜ、最初の1号機パルサーが大阪の尚球社から出されたか。業界でそれだけのネームバリューを有し、工場も保有して製造には欠かせない部品生産インフラも持っていたからだ。昭和50年から遊技機製造販売にも移行していた。

 なぜ、パルサーがそのあと、山佐ブランドになったか。山佐が初めてこの業界にその社名をメーカーとして出したのが「ニューパルサー」(ニュービッグパルサー)。日電協加盟は他社先発メーカーに遅れること約6年後の昭和60年だ。ニューパルサーにより山佐と日活の縁が切れた。その内情はわからないが、日活はこのため「ビッグバン」という機種を出す。パルサーブランドははじめてその「パチスロ」開発者の佐野のもとに戻されたのである。

 当初から、山佐では佐藤を自社に引き込んでその佐藤がハードと制御ソフト、佐野がゲームの設計値を担当。もう一人、いまは液晶等の開発会社代表である(確認不明)坂本某がリール配列を担当していた。山佐というメーカーの基盤を築いてきたのは、ひいてはパチスロという新規の第2の遊技機の成長を築き上げてきたのがこの3人だといっても過言ではないかもしれない。このあと、さらなる技術革新で角野が果たした役割を別とすれば。