やってしまいましたね。確認不足です。こんご回胴史研究会メンバーに必ず確認をとりながら書き込むことにしたいと思います。コメントにある山佐の「坂口某」のことを坂本某と書いてしまいました。
 で、その研究会メンバーから山佐グループ記念誌の資料をいただいたので、山佐、日活、尚球社、角野の関係もふくめて整理しておきたい。回胴の歴史に関わる資料をお持ちの方、研究会を通して、あるいは直接コメントでもいいのでお知らせくだされば有難いと思います。(なんか本格的になってきたような)

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 佐野が山佐産業社長に就任したのが大阪万博の年の昭和45年(1970年)。その約5ヵ月後に先代の一郎が逝去する。先代は材木商で財をなしたが、新見市の佐野商店、新見木材センターがその創業だろうと思う。この昭和45年にはボウリング場も開業している。ガソリンスタンドも経営しておりこれが今もまだ事業継続の岡石(岡山石油販売)だ。佐野とともに山佐の基盤を築いた現執行役員・営業製造本部長の吉国純生は、昭和48年に岡石に入社しているが、一時期、山佐グループが経営する喫茶店の店長もしていたと聞いた。
 日電協設立前の昭和54年末に、佐野は大阪の角野(マックスブラザーズ=過去ログ参照)と業務提携して「ジェミニ」の販売を手掛ける。吉国によればこのときはまだ「社長(佐野)自身も開発に関わらず、このオリンピアマシンに興味を抱いたことがそのあと業界に参画していく切っ掛けになった」と述懐している。この時期、佐野は岡山でホール経営にも手を出してはいたが、業界にはまだ本格的には足を踏み入れてはいなかった。しかし、オリンピアマシンの新たな革新のためのソフトを創りあげようという意識に燃えていて「新時代のレジャー産業への参画」意欲は強かったようだと吉国は書いている。

 翌昭和55年、この11月に日電協が正式に設立されたのだが、山佐はこの年の7月に会社の定款も変えてアミューズメント機械製造販売を追加して、スロットマシン事業を開始する。日電協が設立された同じ11月に、大阪の製造メーカー尚球社と業務提携して、最初のパチスロ「パルサー」を世に送り出す。イラン・イラク戦争、ジョンレノン射殺、モスクワオリンピックの年だ。名称も「パチスロパルサー」と、パチンコスロットを略した名称をはじめて使った。いまもなおこの「パチスロ」が回胴スロットの名称として定着したのも、パルサーが濫觴なのである。

 山佐はパルサーでその開発(ソフト制作)と製造を行う。製造部門で別会社の「中国電波蠧探”堯廚鬚錣兇錣響藁させている。翌年に尚球社からパルサーの営業権を譲受。この中国電波特機事業部は昭和57年に特機産業蠅箸靴篤販したが、その生産規模は当時で月産1,000台くらい。これもあってか、ホールへの販売を日活興業に委任する体制をとった。
 日活興業はこの昭和57年に日電協に加盟。いまの風俗営業適正化法が施行された昭和60年には日電協はその当時(設立時9社)から21社の組合として新たな飛躍をはかっていくまでになっている。ここではじめて、山佐としても実質的にメーカーとして表舞台に出ていくことを決意したことになり、日電協に加盟した。本格的に山佐ブランドの全国展開へ動くことになる。日電協設立時の昭和55年にはオリンピアマシンとパルサーの「パチスロ」含む設置台数は約3万台しかなかったものが、パチスロ普及により昭和60年時点では10万8000台を超えている。翌年には約33万台に急伸長する。

 このため、ホールも今までは1メーカー機種設置(パチンコも)導入で営業していたものが、ファン層多様化もあり、バラエティーに富んだ機種のバリエーションが求められるようになっていた。急速にホールの設置機種におけるバリエーションの必要性がニーズとして求められていった時代。
 山佐はそれまで日活興業に委託販売させていたパルサーに、このとき初めて自社販売網に自社ブランドの「プラネット」を追加して販売拡大と全国営業所拡張=業績増大をはかる。組合や警察への検定申請等の折衝業務に従事していたのもこの頃だ。
 パルサー、プラネットの2ブランド体制は平成元年まで続く。日活はあくまでそこでは山佐グループの一員という役割だったが、この平成元年に日活は山佐から離れて独立して、傘下から離脱する。記念誌による吉国の「山佐イズムの歴史」によれば、このとき佐野は「日活興業は元々製造メーカーなんだから、独立していくのは当然であり自然な姿なんだ」と、彼らを気持ちよく送り出したという。

 以下、その吉国の言葉を借りれば、平成元年に山佐は大幅なハード改良を行う。これまでのパチスロのイメージを一新した「ビッグパルサー」「スーパープラネット」の発表だ。リール図柄の小役であるスイカ、惑星に「目玉」を付けてより親しみやすいものにデザインを変更。あくまで7などの数字配列だったものが、これがその後のパチスロの常識になっていくことになった。現在も山佐のリール図柄で親しまれている「カエル」の原点だ。

 日活の「パルサーXX」も昭和60年にはまだ山佐が代理店契約でその販売を拡充していた。つまりその主導権はあくまで山佐が有していたことになる。この関係を熟知すれば、その後、山佐のメーカーとして表舞台への本格参入と、尚球社との関係が薄れていったことも理解できると思う。