1(写真:母校・日大の祝賀会での黒岩さん)

 日本人で過去に五輪へ連続出場した選手は6人。安定的に国内トップ以上の実力を維持した選手のなかで84年ロス大会と88年ソウル大会に出場した黒岩守さんに選手時代を振り返って頂いた。

[五輪連続出場者]
石丸利人(52年ヘルシンキ・56年メルボルン)
黒岩守(84年ロス・88年ソウル)
東悟(84年ロス・88年ソウル)
三浦国宏(84年ロス・88年ソウル)
辻本和正(96年アトランタ・00年シドニー)
清水聡(08年北京・12年ロンドン)

――黒岩さんは大学4年生のときにロス五輪。社会人になってからソウル五輪に出場しました。どういった練習環境で選手を続けていましたか?
「卒業後に国体の関係で鳥取に住民票を1年移して、そのあとにアシックス入社で関東に戻りました。引退後まで話しますと、8年前に退社して、地元の群馬で営業マンをしながら、ボクシングでA級審判をしています」

――いつが全盛期だったと思っていますか。
「難しいですね。冷静さとか、技術、戦略ならソウル五輪のときがベストだったと思いますけど、サラリーマンと並行しての活動でしたので、納得のいく練習はできていなかったです。ロス五輪時代の体力と気持ちを維持できていませんでした」

――とはいえ五輪連続出場は高い安定感の証ではないでしょうか。
「日大での条件付きのマスやスパーで、打つときのバランス強化に重点を置いて練習できたのが、その基礎になったと思います。例えば左手だけとかアッパーだけとか。後輩にいた平仲信明もロス五輪に出て、プロで世界王者(元WBA世界ジュニアウェルター級)になっていますしレベルの高い面子だったと思います」

――黒岩さんの強さはインターハイを1度、全日本選手権を5度制していることでも確かですが、対戦相手から「実はスパーでは弱かった」という声があります。
「そうなんですよ。合宿中は圧倒されることがときどきありました」

――わざと手を抜いて弱点を出させていたという説もありますが?
「いやいや(笑)。それができたら、オリンピックでメダルを取っていましたよ。でも確かに試合では、身体が軽くなる。練習のときよもりいいボクシングをできている自覚がありました」

――ロス五輪代表選考会では現在、プロボクシング協会の会長を務める大橋秀行氏も、準決勝で退けました。
「決勝じゃないから映像に残っていないんですよ。あったら一生の宝になったよなぁ。あの試合が、150戦近いキャリアでベストコンディションだった印象があります。出場選手で一番イヤな相手だと思っていたんですけど、自分のリードがよく当たって採点にも大差がついていた。将来の世界王者では、リーグ戦で玉熊幸人(レパード玉熊)にも勝っています。不得意な長身サウスポーだったのでお互いに有効打は少なかったと思いますが、攻勢が評価されて私が勝ったのかなと思いました。ふたりとも、パンチが重くて勘がよかったです」

――その後に交流は?
「大橋には初めて世界王者になった頃にアシックスのシューズを提供しました。彼から王座を奪ったリカルド・ロペス(メキシコ)にも渡したんですが、ロペスも王者時代にずっと履いてくれてね。白に赤のデザインがお気に入りだったみたいです」

――プロのジムとも交流がありましたか?
「色々と行きましたが、勤務先から近かったロッキージムではロッキー・リン(台湾出身者初のプロボクサー、世界王座挑戦者)が来た頃でしたから、お互いにいいスパー相手になれたと思います。向こうは私のジャブがイヤだったって言っていますけど、自分も4ラウンド以上やると結構もらいました。長丁場でダメージを与え合うという特性を考えると、スピードが武器でパンチの軽い私には、プロでの頂点は穫れないだろうと感じました」

――一番強かった相手は誰でしたか?
「海外では色々いますけど、国内では2年生のインターハイ決勝で戦った瀬川正義さん。一緒にロス五輪に行った間柄です」

――いま振り返ってオリンピックはどんな存在ですか?
「オリンピックをもっと理解して参加したかったと思いましたね。いち競技者として、知識もなく試合をして帰ってきた。それと、当時の関連品を勢いでほとんど挙げてしまったんです。それも今では後悔していますね。オリンピックの壮大さに気づいていなかった」

――今のボクシングをどう感じますか?
「ヘッドギアがなくなってよかったと思います。自分はちょうど着用が義務付けられた頃でしたが、とにかく邪魔で仕方なかったから(笑)。今も審判として携われていることが幸せです」