2017年07月18日

一品当朝図いっぽんとうちょうず
 一品当朝図とは、波涛に鶴を配した図をいいます。
 「一品当朝」とは一羽の鶴が波の打ち寄せる岩上に立つ姿です。
 朝と潮が同音であることから、一品の位に上り朝廷へ出仕するという意味になり、鶴は鳥の中で第一位とされ、一品鳥と称されました。
 また桃が描かれていますがこの桃は、西遊記で孫悟空が盗み食いした桃の実であり、女仙人西王母の桃で、三千年に一度花が咲いて実を結び、その実を食べたものは不老不死というものです。つまり、この桃の実は長寿を象徴しています。
 巨大な大床を飾った、蔵番号の木札が付いた二重の箱に入った巨幅です。60代に入ると文晁には、巨幅の注文が大量に入り一時期この極彩色な鶴の図が多く描かれたものと思われる。

ただいま異常に忙しく、更新ができなかった。

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江戸時代 | 日本画

2017年06月24日

市川其融筆融桜木図
生没年不詳
 名は泰度、字は子高、通称其二、別号に洛々。
 古河藩士にして鈴木其一の門人。
 酒井抱一の蒔絵師として知られる原羊遊斎は古河藩主土井家の御用蒔絵師となっており。羊遊斎の工房は抱一の雨華庵の隣にありその関係も想像される。
 作品は少ないが鈴木其一の作風を少しくどくしたような作風であり平面的なその絵は、工芸品の下絵を思わせるものがある。
 この絵は、あっさりとした作品で落款を隠せば大正期の腕のいい京都の作家の絵かと思える。

すごーーーく忙しいです

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2017年06月13日

 酒井道一1846-1913は明治時代の日本画家、東京生。
 本名は山本箕之助、道一は通称及び号、他に雨華庵、顕真、光阿と称する。
 日本画家・山本素堂の次男、同じく日本画家・山本光一は兄。
 曾祖父に酒井抱一と縁にある儒学者・山本北山がいる。
 幼少より父並びに鈴木其一に琳派を学び、酒井鷺一の養子となって、雨華庵四世を継ぐ。
 日本美術協会、帝国絵画協会会員、シカゴ万博などに出品。
 明治期の平明な琳派画家の代表的人物である。
 江戸のデザインが、世界的に通用するという自信を得たのがこの万博であった。
 この画の明るさは、新時代を切り開いているという自信なのだろうか、私は、明治の絵画の力をこの時代の美術院の大観や春草より琳派のデザインにこそ感じるのだ。

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日本画 

2017年06月04日

加保茶かぼちゃ宗園そうえんこと大文字屋市兵衛筆自画像図
 酒井抱一の門人。姓は村田、名は市兵衛。加保茶宗園、南瓜宗園、宗園、夕顔亭と号す。「大文字屋」の印も使用している。狂歌名は加保茶元成二世。金山卜斎の次子で、二代目村田市兵衛の次女の婿養子となり、三代目村田市兵衛を継いだ。
 吉原大文字屋の楼主。多芸多才の人物で、狂歌を三世浅草庵春村に学び、西山宗因風の俳諧を学んでいる。また、浮世絵は抱一に学び、江戸半太夫に師事して江戸節にも優れ、嵯峨様の書もよくし、野呂松人形にも秀でていた、というこの作品は、画冊の離れであり、軸裏に大文字屋市兵衛とある。
 大文字屋市兵衛は諸代あるが絵筆が立つ人は三代目であるので三代目と考える。簡略な筆さばきに俳味を感じる。二代目市兵衛が、背が低くて小太り頭が大きくまるでカボチャ型、目は猿眼のちょび髭という漫画の主人公のような体形であったので「加保茶元成」という渾名がついて彼の妓楼は彼見たさに大繁盛したといいます。
 酒井抱一の加保茶元成図が残されておりツルンとした表情は、少し抜け目のない剽軽な妓楼主の姿を活写しています。この作品はその自画像です。
 酒井抱一は、その肖像画を残しているが八百善旧蔵であるという。
 また酒井抱一は、大文字屋の遊女を身請けし妻とした、後の小鸞のことである。




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2017年05月23日

 江戸時代後期の画家であるが、この名前は、円山応挙についで良く知られた名前だと私は、思う。
 しかし、どのような経歴の絵師であるのか、また、どのような画を描いていたのか、あまり知られてはいないと私は思う。
 江戸下谷根岸の生れ、祖父の本教は近江大津の下役人であったが経済的手腕を買われ民政家として田安家に仕え治績を残した。
 父麓谷も田安家家臣であったが、世事を好まず漢詩人として名を残した。
 彼の家柄は世代を継いでのそれではなく、また、父は文人としての名は高い、という環境に彼は生れたのである。
 名は正安。はじめ号は文朝・師陵、後に文晁とし字も兼ねた。通称は文五郎または直右衛門。別号には写山楼・画学斎・ 無二・一恕。薙髪して法眼位に叙されてからは文阿弥と号した。
 12歳の頃 父の友人で狩野派の加藤文麗に学んだというが、この人は、伊予大洲藩家老でありその子は藩主となっているほどの名家であった。
 文晁の文の一字は、この人の名から来ている。
 18歳の頃 中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事した。
 この渡辺玄対という文人画家(南画家)は、狩野派などの御用絵師ではなく、民間の画家ながら武家との結びつきが強く、当時江戸詰めの武士たちの手慰みの一つとしての「絵」や「漢詩」サークルの一人であった。
 私は、この渡辺玄対という絵師の在り方が、後の谷文晁のそれと重なって見えてしまう。
 つまり、江戸時代も中期となり安定してくると、文化後進地の江戸にも文化の担い手があらわれ、武士の文化サークルから芸術家が生まれたということであろう。
 そんな意味でも、この渡辺玄対の在りようは重要である、彼らのような江戸の文化人たちは、江戸幕府の基幹思想たる儒学を基としており、絵画においては勢い明清絵画の影響が強くなっていた。これが、いわゆる江戸南画の原点である。
 それにつづく谷文晁は、加藤文麗の江戸狩野、渡辺玄対の江戸南画を原点とし、26歳の時、長崎行において、大坂の古画収集家木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉など関西の著名な画人に合い、また長崎では、清の画人張秋谷より画法を学んだ。
 その画業遍歴は、各地の古画の模写と写生を基礎としながら、画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び、結果として画風の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立した。
 また、田安家の勤めは、26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。
 30歳のとき 田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。
 定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った。
 そして教育者としての谷文晁は、画塾写山楼を開き、そこでは多くの弟子が入門。
 渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによるが、富士山の画もかなり残している。
 写山楼の教育は、弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、模写を中心に講義が行われた。しかし、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だったことは、弟子たちの画様が、一様でないことからも窺える。
 妻の谷幹々、妹・秋香・紅藍らも女流画家として知られる。
 実弟の島田元旦も画を得意としており、養子谷文一、実子谷文二も画技に優れ、谷一門は隆盛した。
 しかし、後継者と目された文一、文二がともに夭折したため写山楼はその後、零落した。
 谷文晁は、江戸文化の絶頂期たる化政期の江戸画壇を代表し、漢詩人亀田鵬斎・画家酒井抱一・漢詩人太田南畝ら当世の文人らとの交流も盛んであった。
 ちなみにこの三人を評して江戸の人々は、「下谷の三幅対」と掛軸になぞらえていました。
 天保11年1841年、歿。享年79。墓所は浅草源空寺、法名「本立院生誉一如法眼文阿文晁居士」。
辞世の句 ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月
この幅は、箱に
御拝領 弘化三年五月十七日 君公御成節○賜
亀山藩 臣 近藤正弼 拝 誌
とあり、また落款に郭河陽筆意とあるが本紙だけで2メートルを越える巨幅で亀山藩主にふさわしい大作といえる。
このところ多忙につき更新がままならない。

昨日、池袋コミカレにてNPO法人江戸琳派継承会の講演をおこなった。
満員の盛況で皆さんに感謝します。




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2017年05月19日

2017年05月16日

柳沢やなぎさわ淇園きえん1703-1758筆朱鍾馗図
 名は、はじめ貞貴、元服後は里恭、字は広美、公美、 代々権太夫と称し、自らは、柳里恭と名乗ることを好んだ。号して淇園、竹渓、玉桂、淇園の号は、40歳頃からか。
 江戸時代中期の武士、文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆者とされるが、彼は文人は余技であり政務官としての人生を全うしたと私は思う。
 柳沢淇園は、柳沢吉保の腹心の部下、筆頭家老・曽根保挌の次男として、江戸神田橋柳沢藩邸に生まれた。
 柳沢吉保は、江戸時代における出世頭の代表であり、徳川綱吉の小姓から15万石の大名にまでのし上がっていった人である、おそらく父・保挌は主君・吉保の権謀術数の手先として東奔西走の動きをした人と思われる。父・保挌は 、柳沢姓を許され、五千石の知行と吉保の一字をも与えられるほどの厚遇を受けた。
 柳沢里恭の名は吉保の子で主君・吉里の一字拝領している。
 彼は、藩邸においてエリート教育を受けた。儒学は十三歳から荻生徂徠や服部南郭に学び、書は細井広沢に師事した。参禅の師、黄檗僧・悦峯道章により中国の文雅を身につけた。
 画技は、幼少より狩野派の画法を学んでいたが、それに飽き足らず長崎派の絵師吉田秀雪に師事し中国画法を学ぶ。初期文人画家・和歌山藩士祇園南海と交流があり画法を受け画譜を贈られている。
 その後独学で元明から将来した古書画や『芥子園画伝』などの画譜を模写し画論を学び、彩色精密な写生画を修めた。
 将軍綱吉が亡くなると主家柳沢氏は大和国郡山藩に転封される。
 このころ、里恭は弱冠20歳で自伝的随筆「ひとりね」を著しているが内容は大人びた人生訓のようなものから色道までで若干上から目線のひねたものを感じる。
 里恭は博学、多才であり武芸百般、詩書画、篆刻、煎茶、琴、笛、三味線、医術、剣術、槍術、弓術、馬術、指揮法などに秀でており、天才であったことは確かである。国学にも通じており本居宣長や上田秋成とも交流があった。
 兄・保誠の家が絶えてしまい、里恭は一旦は家督を継いだが、不行跡で家督相続を差し止めされる。藩からの指示により宇佐美九右衛門と改名、後に曽根図書と再度改名した。
恐らくはそのエキセントリックな奔放さのため幕府に睨まれることを藩が怖れたためと推測される。
 晩年は、藩の渉外を担当し、しばしば財政難に苦しむ藩のため金策に奔走した。
 耽美で趣味的な文人画家は、金子に走る晩年となっていた。
 このところ、日常のひとこまが大きく位置し更新に時がかかってしまいました。






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2017年05月13日

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2017年05月10日

「天皇の美術史ツ廷権威の復興と京都画壇」
という本が全6巻の一巻として吉川弘文館から発売されている。大阪芸術大学教授の五十嵐公一氏を中心として武田庸二郎・江口恒明の三氏によってなされた本である。
 天明の大火を契機に変化した江戸幕府と朝廷との関係を、京の絵師の活動から明らかにしている。幕末史の一冊としても重きのある論考である。
 天明という時期は、江戸幕府にとって重要な転機となった。国内における商業の発展が、米や大豆などの穀物を投機の材料とするいわば国内グローバリズムによってバブル景気をもたらした。いわゆる田沼時代である。
 西の銀、江戸の金という通貨相場の統一を図った田沼意次の政策は物価の高騰をもたらし、借金にあえぐ東北諸藩は勢い交換価値の高い米、大豆を奨励した。折から天明二年は、西日本が米の不作により東北諸藩は備蓄米さえ商人に売り大坂に穀物を送った。
 そして、次年からは冷害が東北を襲ったのである。
 憂国の士・高山彦九郎は、歩いて東北を見聞し書きとめ、飢饉の惨状を京の公家たちに伝え、その恐怖に慄かせたという。また、京において飢えた人々が、これは商人のせいだとして打ちこわしが頻繁におこり、京都御所の周囲を廻り、千度参りをするという、御所千度参りが、始まった。初めは数人だったが、のち数万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。京は人であふれ、後桜町上皇からは数万個のリンゴ、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。
 そして、時の光格天皇は、京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求すした。これが、幕藩体制の崩壊の第一歩であろう、朝廷の窮民救済行動が尊王論の興隆の一因となった。
 天明二年、京都御所は大火によりの焼失し、再建事業が始まるが幕府にはこれまでのように絵師を派遣するほどの財はなく、京の絵師により一大事業を行うこととなる。18世紀には京の絵師たちが自由奔放に民間の需要に応えていたのだが18世紀後半からなぜか今に残された作品をみると硬い絵が多いという理屈がわかる。一大事業バブルに力を注いだのだろう。
 原在中は、御所再建事業に大きく関わった絵師である、残された作品の質は高いが宮中の障壁画の一部のような絵が多くその理由がこの本によって明らかとなった。
今回の絵は、その中でも京琳派風の絵で楽しく描いていることが感じられる絵である。


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2017年04月11日

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2017年04月09日

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2017年04月05日

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2017年03月30日

 高橋廣湖、本名浦田久馬記で、山鹿市松坂町で画塾を営む浦田家の長男として生まれた。
 父は細川家御用絵師矢野良敬に学び山鹿地方で活躍した絵師でした。
 父の画塾で絵の手ほどきを受け、のち南画家にもつき父と同じく地方絵師として歩んでいました。
 ところが彼が21歳の時、当時の著名な名妓・今紫(本名高橋こう)が熊本市の東雲座で舞いの公演中、廣湖は舞台上で華麗に舞う今紫の踊りを毎日通いスケッチしていました。
 絵を見た今紫はその才に驚き上京して東京で学ぶことを彼の父に強く勧め、明治30年に上京し本格的に日本画の勉強を始めます。このことは当時の新聞に美談として掲載され話題をさらったといいます。
 さらに彼はお世話になった高橋こうの養子となり、歴史画の大家・松本楓湖の門に入り、その名の一文字をもらい廣湖と号します。
 これより高橋廣湖の画名で日本美術院展、巽画会、紅児会などなどで活躍しいくつもの賞を受け、歴史画を中心に、仏画、美人画、花鳥画、山水画、風俗画など幅広いジャンルの優れた作品を残しています。
 伝統的な日本画を基本に西洋画の表現を加味した和洋折衷の画風が特徴で、横山大観らとともに活躍したがわずか37歳の若さで亡くなりました。独自な画風に今一歩のところでなくなったので、なんとも惜しまれる才といえます。
 また、近年千住の住民たちがパトロンとして支えたことから千住の画家として注目を集めています。これから名品が発掘される画家だと思います。
 それと、明治初年から、中央画壇でないと活躍が認められないという芸術の中央集権化が始まったということがわかります。

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 西行法師童子に銀の猫をあたえるの図
『吾妻鏡』に出てくる頼朝と西行の話。
 鎌倉において、源頼朝との一夜の会談を終えた西行法師が、拝領した銀の猫を門前で遊ぶ子供に与えて、奥州藤原氏のもとへ東大寺再建の勧進のため去ってゆくときの姿である。
 西行は奥州藤原氏とは血族であり、頼朝との会談は政治的な意味合いもあったという。
 多分、西行は、頼朝に嫌悪を抱いたのであろう。猫がカワイイ。
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2017年03月23日

 江戸の人、唐津藩士の子という、名は宗秀、俗称は茂右衛門、長之助、号は一陽庵、巌岳斎、岩岳斎、岳斎、俳諧を好み五楽という俳号を持ち多くの文人たちと交流する。
江戸の下谷三枚橋(東京都台東区)に住み、桃山時代の巨匠長谷川等伯の末流絵師長谷川雪嶺に絵を学び、雪舟流の漢画から大和絵琳派から仏画までをこなし残された粉本画稿は町絵師としては相当な量をのこしておりかなりの勉強家であった。
 また挿図家としては『江戸名所図会』の挿図を担当、町絵師として最高位である法橋位を、さらに晩年には法眼に叙せられた。
 40代になり、文政元年1818年、唐津藩御用絵師として唐津藩主小笠原長昌に従い唐津に赴いている。
 民間絵師としては、大成功を収めた絵師であろう。
 天保14年(1843年)66歳で没し、浅草の幸龍寺(現在は世田谷区北烏山)に葬られる。弟子に息子の長谷川雪堤、朝岡且嶠。

 讃者の大田蜀山人は、本ブログを参照されたい。






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2017年03月16日

公啓こうけい法親王ほうしんのう1732-1772筆仙人図
 江戸時代中期の皇族、幼い頃は、俊宮と称し、俗名は寛義、良啓とも称す。直仁親王の王子として享保十七年に生まれる。中御門天皇の養子となり。享保二十年曼殊院にはいり、寛保三年親王宣下を受け、翌年得度する。
 公遵法親王の跡をついで宝暦二年、輪王寺門跡、宝暦十二年天台座主となる。明和九年死去、41歳。
 輪王寺宮とは1654年から13代続いた皇族門跡寺院の事。そして、門跡寺院とは、出家した皇族の子息が住職となられる。
 江戸初期、幕府のご意見番・天台僧天海僧正は、天下太平を図らんと公武の融和のため日光山の貫主として親王を迎えようとしました。天海の生前には叶わなかったことですが、1654年後水尾天皇の第三皇子守澄法親王が日光山の住職となられた。
 そして、1655年朝廷からの院宣により「輪王寺宮」の称号が与えられ、以後、法親王が輪王寺住職を勤める事となる。
 歴代輪王寺宮の殆どが比叡山延暦寺の天台座主に着任し、東叡山(上野寛永寺)に住しておられた。ちなみに、東叡山とは東の比叡山ということです。
門跡就任 輪王寺宮 入寂(歳)
1654年 守澄(しゅちょう)法親王 1680年(47)
1680年 天真(てんじん)法親王 1690年(17)
1690年 公辨(こうべん)法親王 1715年(48)
1715年 公寛(こうかん)法親王 1738年(42)
1738年 公遵(こうじゅん)法親王 −
1752年 公啓(こうけい)法親王 1772年(41)
1772年 公遵法親王(再任) 1788年(67)
1780年 公延(こうえん)法親王 1803年(42)
1791年 公澄(こうちょう)法親王 1828年(53)
1809年 舜仁(しゅんにん)法親王 1843年(55)
1843年 公紹(こうしょう)法親王 1846年(32)
1846年 慈性(じしょう)法親王 1867年(55)
1867年 公現(こうげん)法親王 1896年(49)
となり、明治維新までつづく。

 公遵法親王が、寛永寺の麓、現在の根岸薬師寺(台東区根岸2-19-10)一帯に、三千坪の広大な敷地に屋敷を建てそこは根岸御殿(御隠殿)と呼ばれ以後そこは輪王寺宮の安息所となりました。
 またこの根岸の里の鶯の声が雅でないことから公弁法親王は、尾形乾山に命じ都から数百羽といわれる鶯をとりよせ放ったという。鶯谷の地名はそこからの由来であるとも。
 尾形乾山は、入谷の地で作陶を行い根岸の地に琳派の風を持ち込みんだ。
 後に酒井抱一が、根岸に雨華庵を結び俳号を鶯村と名乗ったのも京の雅に憧れてのことであると私は考えている。本阿弥光悦が住んだ京の鷹が峰を抱一は思っていたのでしょうか、文人墨客の地、根岸は今は昔のこととなりました。
 この画は、以前にも一度掲載したが江戸琳派の地・根岸ゆかりの親王の絵は非常に珍しく、しかも京狩野派の力強い線で描かれた傑作であることから、今一度見ていただきたく思う次第。資料的にも美術的にも貴重な作品であろう。画題は、今のところ不詳である。墨色、印章の朱、線の強さどれをとってもピカピカである。
 おっと五百本目であった。






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2017年03月15日

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2017年03月08日

そして
再び文一である。
樹上の枝につかまり柿を咥えようとうかがう面白げな鴉である。
この文一は、あの股裂き落款文一である、印はまだ痴斎と読める。
自らを痴れ者と名乗る若き文一ただものでないと見た。
豪快にして繊細な画風は文晁の跡継ぎとして充分な資質がうかがえる。まさにこの文一の死が写山楼の死となったことがわかる。谷文晁の研究は、未だ山の五合目くらいだあると私は考える。渥美氏は、晩年の文晁の解明を進めておられていたが学半ばで倒れられた、残念至極のことである。

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2017年03月06日

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2017年03月01日

 谷文一は、江戸時代後期の日本の画家である。谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが三十代で夭折した。
 号は痴斎、名を文一郎、通称は権太郎と称した。
 天明七年宮津候の藩医、利光寛造、号して澹斎の次男として江戸薬研堀に生まれる。三歳のころより画を好み谷文晁に師事する。その画法を受け、将来谷文晁の画塾・写山楼を背負って立つ逸材として将来を嘱望された。
 そして、文晁は利光夫婦に懇望して長女谷宣子の養嗣子として迎えた。時に文一十三歳、二人が正式に結婚したのは二十歳の頃のようだが、文一はますます画業に励み円山応挙の門弟渡辺南岳にも入門し円山派の画法も習得した。享和三年1803年、定信の命を受けて文晁を中心に、岡本茲奘・星野文良・蒲生羅漢とともに「石山寺縁起絵巻」の模本製作および欠落した巻の補作を行った。
 押しも押されぬ文晁一門の後継者として文化期の文人たちからの大いなる期待を受けていた。
 文政元年1818年三月八日、32歳の若さで惜しいかな夭折してしまった。
 享年32歳。浅草清島町源空寺に葬られる。妻の宣子はその後薙髪して亡夫を弔った。
 彼の早世は、谷家にとっても、写山楼一門にとっても大きな影響をもたらし、その後の衰退の要因となった。
 文一亡き後、実子文二が跡目を継いだが、天保十一年谷文晁が78歳で亡くなり、この文二も10年後の嘉永三年に39歳で没したあとは、あれほど隆盛を極めた写山楼も明治期にいたるまで谷文晁の顕彰碑すらなく、見る影もなく零落してしまう。偶然のなせる業とはいえ近代につなぐ役割をなした写山楼の本当の顕彰は、未だなされていない。
 晩年の谷文晁の画の解明と谷文一の姿を見つめることがその第一歩であると私は考えている。
 そして、ここで面白い事実につきあたる谷中全生庵の隣にある福相寺という日蓮宗の寺の天井画に文一の銘があるのだ。全生庵といえば明治13年1880年に山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願し、国泰寺から越叟義格を開山に明治16年1883年に創建した寺である。この寺において天井画は文一により描かれたという口伝がある。時に明治の頃の話であるので今掲示する文一とは別人の文一の筆になる画とわかる。
 文一早逝後、子の文逸が絵筆を握っていたことが最近わかってきた。その意味でも福相寺の二世文一筆雲竜図は貴重であろう。
 また、初代文一は、落款において文の交差以下が股裂きにあったような落款が目立つので、私は、一応これを「股裂き」文一と名づけたいと思う。
 まさに、掲載の画は、「股裂き」文一落款の能画である。






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江戸時代 | 日本画

2017年02月25日

鈴木蠣潭桜図3.jpg
鈴木蠣潭桜図4.jpg

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江戸時代 | 日本画
鈴木蠣潭桜図1.jpg
鈴木蠣潭桜図2.jpg

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江戸時代 | 日本画

2017年02月20日

 鈴木蠣潭は、抱一の最初の弟子。文化三年に抱一が蠣潭の元服の祝いを、文化六年より中小姓として抱一に仕えたという。それは、抱一の付き人を務めていた播磨姫路藩士養父春卓の跡目を継ぎというからには、幼少のころから抱一のそばで画才を見出され期待をされてのことと思われる。
 名は規民、通称は藤兵衛、藤之進、 酒井家の家臣の著わした随筆の「等覚院殿御一代」に「藤之進若年より御側に在て画をよくす画名を蠣潭と云ふ」とあり、家中においても名が通るほどの腕前だったことがわかる。
 蠣潭は抱一の画業を補助していたが、文化十四年七月に二十六歳で狂犬病にて急死したため、急遽同門の其一が蠣潭の姉・りよと結婚し鈴木家に入ることとなる。りよは子持ちで其一より少なくとも五歳以上年が上であるといい、いかに蠣潭の死が大きいことであったかが想像される。
 今回掲載の桜図は、伸びやかな枝ぶりと明確な花弁が、蠣潭の瑞々しい才能を感じさせ数少ない蠣潭の作品の中でも優品であるといえる。
 このところ多忙につき更新がままならなかったが、この作品をもって勘弁としていただきたい。

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江戸の風
巨人、大鵬玉子焼きの世代です。つまり、一方向にソレと動く時代に育ったオヤジです。美術といえばルノアール喫茶店もルノアール。ストーンズに目覚め、アングラ劇に感動し、都会に育った中年オヤジです。それが、一念発起なぜ、こんなブログを書き始めたのか、内容をご覧じろ。 メールはこちらです。
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