2020年07月09日

寺井養拙筆一行書1
寺井養拙筆一行書2


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江戸時代 | 
寺井養拙てらいようせつ1640-1711筆一行書

寺井養拙ハ諱。辰。字。子共。維堂と号す。又桂費軒。或ハ臧夫(よしひと)といふ。
蓋し養拙ハ齋号なり。京師京極通竹屋町なる一條革堂の邊に住す。
依て革巷処士の名あり。寛永十七庚辰年に生る。
正徳元辛卯年七月廿五日卒す享年七十二。
洛東二王門通。西寺町専念寺に葬る。法号養拙齋徳誉道頼居士と称す。
其初書を佐々木志津磨に学び。後一家をなす。
唐玄宗皇帝の内閣字府を信用し。内閣府頭書の書を著す・其書体頗る異にして世に養拙流といふ。
専ら招牌(かんばん)を書するを以て名を高くす。和歌を武者小路実陰公に学び。元文中地下の歌学者に名ありて一個の英傑とす。
詩も又絶妙なり。嗣子を子明といふ。
不幸短明にして早世す。門人片岡子玉・三神子水。臼井子中。堀子正。大岡孚齋おの高名なり。其余門生千三百に及ぶと云。
とある。

この一行は、李白の詩の一部という。
降鶴舞海雪
一條革堂とは、平安京左京北辺の一条油小路北に所在した天台宗の寺院で行願寺のこと。その傍らに住むので革巷処士と称した、落款の革巷井子共書とは、要は、革巷井とは寺井のこと、、。めんどくせー奴、、。


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江戸時代 | 

2020年07月07日

竹本石亭筆水墨山水図1
竹本石亭筆水墨山水図2
竹本石亭筆水墨山水図3
竹本石亭筆水墨山水図4
竹本石亭筆水墨山水図5


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江戸時代 | 日本画
竹本石亭たけもとせきてい1822-1888筆林和靖放鶴水墨山水図
 江戸後期-明治時代の日本画家。
 文政5年1月9日生まれ。幕臣。春木南湖の弟子・相沢石湖にまなび、文人画と狩野派、土佐派の画風を折衷した画をえがいた。また国学を井上頼囶に、和歌を林甕臣にまなび、詩文をよくした、というから幕末期の江戸の南画家である。
 明治21年1月1日死去。67歳。名は正興。通称は又八郎。別号に対松堂。
癸丑春月嘉永五年1853年

林和靖放鶴
北宋の詩人である林和靖は、山紫水明の地として知られる杭州の西湖の孤山に庵を結び、二十年の間、一歩もそこから出ずに詩作に興じました。庭には梅を植え、鶴を愛して飼っており、この鶴は放たれても、しばらくすると戻ってくるほど馴れ親しんでいたといわれます。不在の折の来客時は、童子がこの鶴を放し、その悠々と空を舞う様子を見て和靖が戻ってきたといわれます。


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江戸時代 | 日本画

2020年07月06日

狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風左1
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風右1
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風左2
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風左3
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風左4
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風左5
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風右2
狩野探玉斎筆桜紅葉小六曲一双図屏風右3


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江戸時代 | 日本画
森探玉斎生没年不詳筆
雛道具屏風六曲一双桜楓図
 探玉斎の落款があるが、富山藩士として江戸後期にその名がある、が確かではない。
 彼は、江戸時代初期の絵師狩野探幽を慕ったという、絵をみても本格的な筆力があるので、おそらく森探玉斎だと思う。
 富山藩は、寛永16年1639年に加賀藩より分藩された藩で、富山藩の絵師たちは藩の職制のうえで、「御細工人組」というグループに属していた。
 そのものづくり集団が、藩成立当時1639年から藩士として抱えられていた。鋳物師、具足師、錺(かざり)方や彫刻師、塗物師などなど、これらの人々が藩主の武具や調度品、将軍や大名への贈答品、お姫様の嫁入り道具などを、製作したり細工をほどこしたりしていたという、藩の収入となっていたのだろう。
 この作品は、そんな組織の中で、雛人形のための屏風として作られたのであろう、高さは45センチほどしかない。


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江戸時代 | 日本画

2020年06月27日

東條琴台筆水墨山水図自画讃1
東條琴台筆水墨山水図自画讃3
東條琴台筆水墨山水図自画讃4
東條琴台筆水墨山水図自画讃2
東條琴台筆水墨山水図自画讃5
東條琴台筆水墨山水図自画讃6




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江戸時代 | 日本画
東条琴台とうじょうきんだい1795-1878筆水墨山水図
 名は義蔵または幸蔵。名は信耕。字は子臧。通称は文左衛門、後に源右衛門。別号に無得斎、呑海堂、掃葉山房。
 江戸の医家に生まれ、江戸儒学における折衷学派の大田錦城、亀田鵬斎等に学び、大田錦城の弟子であった美濃岩村藩士平尾信従の婿養子に入り、平尾姓を名乗った。
しかし幕府では林述斎が寛政異学の禁を唱え、述斎の出身である岩村藩でも異学への風当たりが強くなったため、折衷学に近い琴台を忌避し離縁に至った。
 のち昌平坂学問所で林家に朱子学を学び、越後高田藩に仕えた。
 嘉永年間、海防論を説いた『伊豆七島図考』で筆禍に遭い、江戸を離れて高田城下で藩校教授を務めた。明治には東京に戻り、新政府下で神官を歴任した。
 孫に下田歌子がいる。
 ヒリヒリするような世渡りである、林述斎の故郷岩村藩に、入るも述斎が嫌いな折衷学のつてであり。越後に赴くも、奥羽戦争に巻き込まれるという次第。晩年は、目を患い失明してしまう。
 この軸には、陽明学者にして古書画鑑定家の杉原夷山1877-1944の箱書があり、なかなかの風格である。壬戌1922年45歳の鑑識である。
 朴訥な、水墨画であるが江戸儒学者の南画の掉尾といえる絵である。



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江戸時代 | 日本画

2020年06月26日

英一蝶筆円窓布袋唐子図1
英一蝶筆円窓布袋唐子図2
英一蝶筆円窓布袋唐子図3


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江戸時代 | 日本画
英一蝶はなぶさいっちょう1652-1724筆円窓布袋唐子図
 本姓は多賀氏、諱を安雄、後に信香。字は君受。幼名は猪三郎、次右衛門、助之進。剃髪後に多賀朝湖と名乗るようになった。俳号は暁雲、狂雲堂、夕寥。名を英一蝶、画号を北窓翁に改めたのは晩年になってからである。
 承応元年1652年、伊勢亀山藩侍医多賀伯庵の子として京都で生まれる。
15歳の頃、父の江戸詰めとともに、一家で江戸へ出て、奥絵師の狩野安信に入門というからそれなりの生活を送るだけの余裕があったことと思える。
 20代、30代は俳諧師としても活動し、人付き合いの良さから吉原に出入りし、幇間、つまり太鼓持ちで大活躍。
 宴会芸に長けていたとみえ、紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などの豪商
も喜ばせたというから、今でいうホストみたいな感じなんでしょう。
 ところが、やりすぎて、幕府の要人の子を唆し、何が何やらということで、島流しになっております、はい。
 12年三宅島で暮らしておりました。ただ、島での生活は、豪華ではなくとも絵をかきまくり、「島一蝶」というブランドで現地妻もいて、まあそこそこにエンジョイしていました。
 そして宝永六年1709年、将軍綱吉が亡くなり、大赦で江戸に戻ります。
 女性との間にできた子を連れて。
 58歳で江戸に戻り初めて「英一蝶」を名乗ります。
 老人パワー全開でこれから描きまくります。
 素地は、狩野ですが浮世の遊びを全知した老人です、このように変わった図様は朝飯前でしょう。
 英一蝶の重要文化財に指定されている「布晒舞図」という絵がありますが、この絵は、お囃子に乗り長い晒し布を地に着けないように踊る女芸人図です。布と女がクネクネと流れていますが骨格が全く感じられません。
 江戸という時代、徳川の平和「PAX TOKUGAWANA」の象徴のような女の姿態と私は思えます。
 シナのヒリヒリするような厳しい美しさより、私は好きです。
 この絵は、布袋の袋から唐子と共に布袋が、「どーしたん」と顔を覗かせている、はい元気、です、と答えたいです。


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2020年06月25日

高橋広湖筆町娘図1
高橋広湖筆町娘図2
高橋広湖筆町娘図3


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江戸時代 | 日本画
高橋たかはし廣湖こうこ1875-1912筆
 高橋廣湖、本名浦田久馬記で、山鹿市松坂町で画塾を営む浦田家の長男として生まれた。
 父は細川家御用絵師矢野良敬に学び山鹿地方で活躍した絵師でした。
 父の画塾で絵の手ほどきを受け、のち南画家にもつき父と同じく地方絵師として歩んでいました。
 ところが彼が21歳の時、当時の著名な名妓・今紫(本名高橋こう)が熊本市の東雲座で舞いの公演中、廣湖は舞台上で華麗に舞う今紫の踊りを毎日通いスケッチしていました。
 絵を見た今紫はその才に驚き上京して東京で学ぶことを彼の父に強く勧め、明治30年に上京し本格的に日本画の勉強を始めます。このことは当時の新聞に美談として掲載され話題をさらったといいます。
 さらに彼はお世話になった高橋こうの養子となり、歴史画の大家・松本楓湖の門に入り、その名の一文字をもらい廣湖と号します。
 これより高橋廣湖の画名で日本美術院展、巽画会、紅児会などなどで活躍しいくつもの賞を受け、歴史画を中心に、仏画、美人画、花鳥画、山水画、風俗画など幅広いジャンルの優れた作品を残しています。
 伝統的な日本画を基本に西洋画の表現を加味した和洋折衷の画風が特徴で、横山大観らとともに活躍したがわずか37歳の若さで亡くなりました。独自な画風に今一歩のところでなくなったので、なんとも惜しまれる才といえます。
 また、近年千住の住民たちがパトロンとして支えたことから千住の画家として注目を集めています。これから名品が発掘される画家だと思います。
 それと、明治初年から、中央画壇でないと活躍が認められないという芸術の中央集権化が始まったということがわかります。


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江戸時代 | 日本画

2020年06月23日

石垣東山筆清正公図1
石垣東山筆清正公図2
石垣東山筆清正公図4
石垣東山筆清正公図5
石垣東山筆清正公図6


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江戸時代 | 日本画
石垣いしがき東山とうざん1805-1876筆
清正朝臣之像図加藤清正図
 文化二年(1805年)越前敦賀の生まれ。通称は東平、東山、敦賀の古名角鹿(つのが)から角鹿東山と号す。
 郷里にて画、和歌、俳句、狂歌に親しみ、京に出て田中日華の門にて絵を本格的に学び、敦賀に帰り藩主酒井家に仕える。
 天保十二年藩主の大坂玉造への定番勤務に随従し、のち大坂に画塾を開く、門人は数百に及び、画技以外にも、狂歌、和歌、俳句を能くし、洒脱な画風は狂歌の影響から来るものと思える。
 著名な弟子として女流画家にして著名な教育者の跡見花渓がいる。明治九年(1876年)歿、71歳。
 江戸時代、三都といわれた江戸・京・大坂には、それぞれ今で言う画壇、つまり絵師社会があった。
 京、そして江戸は、それなりに「ああ、若冲、蕭白、江戸は谷文晁に北斎か」といった感じでうなずきと会話を誘うが、大坂の絵師の話をすると「大坂画壇、なにそれ」で終わってしまう。
 近年、「それは、アカン」ということで大坂画壇を中心とした展覧会が開かれている。とてもいいことである。
 大坂画壇を語ると、こんな短文では無理なので、今回はその中でも忘れられた絵師を取り上げてみたい。
 大坂は、商人が支えた絵画文化である、それが証拠に森一鳳という絵師の売れ筋の画は、藻を刈る舟と人を描いた図「藻刈り舟」図であるが、これがまた「藻刈り舟の一鳳」から「モウかるイッポウ」という駄洒落で売れに売れていたのである。
 これは、大坂商人のパトロンたちが、わかりやすい「面白さ」を求めていたのだろう。関東人である私が、とやかくいうことではないので、とりあえず大坂画壇の一人、石垣東山の作品をみていただきたい、忘れられた絵師であるにも関わらず画力は十分にある。
 自らの箱書がある明治二年65歳の作である。


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江戸時代 | 日本画

2020年06月20日

林閬苑筆唐人物図1
林閬苑筆唐人物図2
林閬苑筆唐人物図3


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林はやし閬苑りょうえん筆唐人物図  文化評論家の呉智英氏は漫画の評論をなさっていて私は、そちらの世界にいたのでかなり昔から存じていた、が最近は何をしているのか。彼の言で「不変のユダヤ 受容の日本」というものがあるらしい、日本人の有様を的確に表しているので私はもっと積極的に「受容する日本」と言いたい。  ユダヤが一神教のことで、日本が八百万神のことと理解すると、外来のものに飛びつく日本人の習性は「さもありなん」である。  また、興味がないモノ「カミ」にはどんなにガイコクで流行っていても見向きもしない。そんな眼でみると、江戸期の唐絵ブームは、「そんなモノ」なんだと私は、思う。  それ故、西洋文明開化になると、唐絵なんて「なにそれ」となってしまうのである。  いや決して江戸期の唐絵師たちを揶揄しているわけではない、むしろ江戸という文化を深化させた人々として私は、尊崇しているのである。  モノにカミを見てきた我々の祖先を尊崇している。 浜田省吾「陽はまた昇る」を何度も聴いている。 https://www.youtube.com/watch?v=Ud3zB29pbg4&list=RDA2hVtGnRKNA&index=7 そんな 唐絵師 林閬苑 である。  林閬苑は、京坂における18世紀後期画壇の一人としてそれなりの名声と作品を残しているのであるが、生没年すら未だに不詳である。  東東洋という仙臺出の京の絵師の言によると安永二年1772年頃林閬苑は30歳ほどであったという。東洋が上京の折り最初の画師は、林閬苑であるという。  名は新、又新、字は日新、号は閬苑、章齢、蟠龍洞、筆飛将軍、通称を秋蔵(秀蔵とも)、閬蔵。大坂の人という。  幼少より画を好み、長じて池大雅の高弟・福原五岳に師事する。このときの同門・黒田綾山755-1814と画友となる。黒田綾山は、高松に生まれ京において福田五岳の門で林閬苑と知り合い、のち山陽筋で絵師として暮らす。  林閬苑は、安永二年1773年から三年ほど京に滞在し相国寺の画僧維明周奎の導きで洛中の寺社の名画を探求しその数、数千百余というから驚くべき集中力である。  大坂道頓堀幸橋付近に居を構え、「筆飛将軍」と自称し、唐絵師として活躍する。しかし、40歳未満で夭折したという、明和三年1766年から安永九年1780年までの作画期間が確認できる。  大胆な筆遣いと濃密な色彩を特長とし山水、花鳥、人物、いずれも明解な画面構成である。もし70、80まで生きていたらどのような画風展開があったかと悔やむべしである。  当時は、人気があったと思え、偽物が多いので注意が必要である。先年展覧会が千葉と大阪であった。  もう一本撮影したがこれを出すね。

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2020年06月17日

山中信天翁筆一行書克己復礼1
山中信天翁筆一行書克己復礼2


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江戸時代 | 
山中信天翁筆一行書
 名は、松寿のちに献、号を静逸、信天翁と称した。尾張の裕福な商家に生まれる。父七左右衛門は、教育熱心な人で、地元で子弟の教育を行っていた。静逸は父の勧めで大坂の篠崎小竹に入門したが、父の死後、家業と共に子弟の教育を継いだ。
 しかし、同じく小竹門学んでいた弟が京都に出て国事に奔走、その最中に急死するという事態に静逸は、三男に家督を譲り、当時のオピニオンリーダーの一人・伊勢の斎藤拙堂に入門する。
 後、京都に出て梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲賓ら勤王の志士と交わり、国事に身を挺した。この頃に文人画の巨匠・富岡鉄斎と知り合い生涯の友となる。安政の大獄では自らの身に危険が及んだために難を逃れて修学院村に身を隠した、この時、岩倉具視と親しくし維新の立役者の一人となる。
 維新後、様々な要職を経て、石巻県知事に就任するも前任者の立場を慮って辞退、52歳で政界を引退、嵐山に対嵐山房にて、詩文の生活を送る。享年64歳。
  いつもながら堂々とした書である、暴れた筆は破綻なく熱情を表現している。絖本という上等な絹に書かれている。
 この人は、それほど長生きではないにもかかわらず残された書画はかなりの数である。新政府のありように嫌気がさした姿勢が、大衆の支持を得たのである。
 しかし、この人が仕えていた岩倉具視は、とてつもない変節の人である、坂本竜馬暗殺の陰の仕掛け人とも目されている。偽の錦の御旗を作った経緯も周知していたはずである。マキャベリスト集団の真っただ中にいた彼が、スッパリと政界から離れていく姿は、公家や下級武士にはない幕末の商人たちの倫理観が窺えて面白い。
 彼にとって、強欲な西欧かぶれの新政府要人が遠い人と思えたのは、商売だけでなく、地元の子弟の教育に力を注いだ父の姿が理想であったに違いない。

 この書は、信天翁としては若書き暴れた感じがない。
「克己復禮」
私情や私欲に打ち勝って、社会の規範や礼儀にかなった行いをすること。▽「克」は勝つ意。また、抑える、約す意。「克己」は自分の欲望や私情に勝つこと。また、わが身を慎むこと。「復」は返る意。「復礼」は礼の道に立ち返る、従うこと。「己おのれに克かちて礼れいに復ふくす」と訓読する。もと、孔子が重んじた「仁」について、弟子の顔淵がんえんに答えた語。


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江戸時代 | 

2020年06月16日

和合神1和合神2
和合神3
和合神4



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江戸時代 | 日本画
作者不詳筆和合神わごうじん図
和合神図
 和合紳は、夫婦和合の神、清より渡来の吉兆図で長派の絵師たちが好んで描いた。
 男神女神互に手を肩にかけ、男の左と女の右の手とに相握る図であり、もとは寒山拾得図の転化したものという。
 葛飾北斎の卑猥な図様版本がある、江戸後期に男女和合の象徴として流行ったものか。
 これは、それより少し古い長の絵師が描いたものと思える。
 忘れられた江戸風俗の一つであろう。


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江戸時代 | 日本画

2020年06月15日

森琴石筆水墨山水図大幅1森琴石筆水墨山水図大幅2
森琴石筆水墨山水図大幅3
森琴石筆水墨山水図大幅4
森琴石筆水墨山水図大幅5



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江戸時代 | 日本画
 日本の明治から大正にかけて大阪で活躍した南画家、銅版画家。
 晩年には文展審査員に任命され、大阪南画の総帥と目される一方、若年期は南画を描くかたわら響泉堂の名で、優れた銅版画を数多く制作した。
 摂津国の有馬温泉で、梶木源次郎の三男として生まれる。
名は熊、後年繁と改める。初号を蘆橋、次に金石、更に琴石と改めた。字は吉夢。別号に栞石、鉄橋、雲根館等も号し、斎号を聴香読画廬。
 父・梶木源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」(と有馬グランドホテル)を経営し、有馬温泉の炭酸水発見者でもある。
 弘化三年1846年大坂で旅館「出石屋」を経営する森善蔵の養子となり、初め鼎金城に、のち忍頂寺静村に南画を学び、大阪南画画壇の重鎮として活躍する。
 浪華南画家の掉尾を飾った一人である。

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江戸時代 | 日本画

2020年06月10日

高崇谷筆仙人図1高崇谷筆仙人図2
高崇谷筆仙人図3
高崇谷筆仙人図4



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江戸時代 | 日本画
 初代高嵩谷1730-1804は、江戸に生まれる。名を一雄、号を屠竜翁、翠雲堂などと称した。画を英一蝶の門人佐脇嵩之に学んだ。
 嵩谷は、一蝶風の風俗画を得意としたが、浅草寺に現存する大絵馬「源三位頼政鵺退治図」は、天明七年1787年の作で代表作のひとつ。根岸永称寺に、墨画竹虎図の屏風があるが、75歳で没し当寺に葬られた。
 また、高嵩谷は二代三代とあり、二代高嵩谷1799-1875は、初代嵩谷の弟子・嵩渓の男、名は丈雄、字は可親、初名嵩嵺、号して一桐斎・致雲堂・隣庵・物々斎等、初め江戸に、のち大阪錫屋町に住し其の地にて歿す。 
 三代は、未詳である。
 おそらく、この絵は二代目高嵩谷の作と思える。
 画題は、英派らしい神社がらみの吉祥図、箱に初午図とある。
初午(はつうま)は、稲荷社の祭の日である二月の初午をいう。初午祭に初午詣する参詣者が訪れる。
絵馬を奉納する氏子らしき男の肩には諸願成就所とある。江戸の絵である。


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江戸時代 | 日本画
海北友竹筆雪舟寿老人図1海北友竹筆雪舟寿老人図2
海北友竹筆雪舟寿老人図3
海北友竹筆雪舟寿老人図4



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江戸時代 | 日本画
海北友竹かいほうゆうちく1653-1728筆雪舟筆寿老人図臨写
 海北友松は、いわずと知れた桃山期の画家であるが、友竹はその孫にあたる、名は道親、のち元貞、通称は権兵衛、号は道香。友松以後海北家は、狩野家に押され町絵師の立場となってしまった、友竹の父友雪が春日局の引き合いで幕府の仕事を回してもらうが、それとて海北家の基盤を固めるほどではなかった。
 もっとも友松以後の海北家の人材がパッとしなかったこともあるのだが。
 それでも、友竹は、柔らかな描線が特徴といえば特徴かもしれない、祖父友松のような切り裂くような描線とはまた違った大和絵風の柔らかな描線の絵が多い。「絵屋」として様々な絵をこなしていく姿が重い浮かぶ、この絵は、雪舟の有名な寿老人を臨写している。印も調査済。
 また、父海北友雪描く、海北友松夫妻像に長文の賛を書いているし、真面目な人であったことはよくわかる。
 海北家は、幕末まで続くが、友雪、友竹、友徳、友賢、豊後にも海北派の絵師がいた、人材としてはこんな所が頭に浮かぶが皆小粒である。海北家は、絵師の家系というより絵屋の方がぴったりするかもれしない。これもまた、京の姿の一つである。

このところ、多々、倉庫から引っ張り出すといちいち調べ直しているので、進まない。
 掲載しないものもあるので、、、。
 カルメンマキの「それはスポットライトではない」を聴いている、浅川マキのそれだけど、これが好き。
 次は浅川マキの「町の酒場で」にしよ。



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江戸時代 | 日本画

2020年06月04日

鏑木雲潭筆水墨山水図双幅右幅1鏑木雲潭筆水墨山水図双幅右幅2
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅右幅3
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅右幅4
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅左幅1
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅左幅2
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅左幅3
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅左幅4
鏑木雲潭筆水墨山水図双幅2-2



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江戸時代 | 日本画
鏑木雲潭かぶらぎうんたん筆水墨山水図双幅
 天明2年1782年-嘉永5年1853年は、江戸時代後期の南画家。名は祥胤、字は三吉。雲潭・實齋・當左生(尚左生とも)と号した。通称は祥蔵。
 儒学者で漢詩人の市河寛斎の次男として生まれる。幕末の三筆の一人市河米庵は実兄。江戸の生まれ。
画を谷文晁に学び、大村藩御用絵師・鏑木梅渓の養嗣子となり自身も絵師として大村藩に仕える。文化年間には藩主大村純昌の命を受けて大村城下に赴任している。山水画・花鳥画を得意とした。子の雲洞も画家。
 芝三田長運寺(港区三田4-1-9)に墓所がある。
 文晁の彩色画の画風をよく受け継ぎ、作風的には真面目な文晁といったところか。
 箱書が非常に面白いので掲載する。

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2020年05月26日

中島撫山筆小点詩書


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江戸時代 | 
中島撫山なかじまぶざん1829-1911筆漢詩書
 中島撫山は1829年(文政12年)4月12日、江戸亀戸に生を受ける。生家は江戸初期以来、諸大名に駕籠を納入する日本橋新乗物町(今日の東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の豪商であった。
 数えで11歳の時、母が亡くなる。14歳の時に出井貞順に入門し、出井の師、亀田綾瀬・鶯谷に学ぶ。19歳で父と死別。安政五年1858年に両国矢ノ倉に私塾「演孔堂」を開塾。明治二年1869年、武蔵国埼玉郡久喜に移住。私塾「幸魂教舎」を開く。幸魂とはさきたま、つまり埼玉の古語である「さきたま」に由来する。
 同地にて83歳で亡くなる。
 中島撫山の墓は神道式で、久喜市光明寺に現存する。また、住居跡に六男の田人(中島敦の父)撰文の記念碑がある。
 中島撫山は教育においても功績を残し、多くの撰文、碑文を残している。
小さな紙片だが、数点私蔵しており、その書はまさに亀田鵬斎→亀田綾瀬→亀田鶯谷→中島撫山という学祖、鵬斎そっくりの書風で、初めて見たときは鵬斎が生き返ったかと思ったくらいである。
 そして、撫山の孫は、小説家の中島敦ということも面白い。中島敦は興味ないが、古典的な作風が江戸の教養からきたものであることが確認できた。
 実は、亀田鵬斎ファンは、埼玉茨城群馬界隈に意外と多い。
こんなことが昔あった。昔の文である。
 先日、鵬斎の子・綾瀬の養子たる亀田鶯谷の展覧講演会に行ってきた。場所は、鶯谷の出身地である茨城県八千代町なのであるが、田園地帯の長閑な処であった。
 書風は、祖父の鵬斎の書に似ている。漢学の最後の輝きの一つであると私は、つらつら考えながら会場に入ると。
 公演会場の体育館の椅子席の前段に亀田鵬斎研究会、「鵬斎」と黒に金字で刺繍の入ったスタッフジャンパーを着た一群が目に入ってきた。
 ヤザワのエーチャンであるなら理解できるが、、、あまりの面白さに思わずデジカメを取り出してしまった。
 面白すぐる、楽しすぐる、僕もぽちい、例えば、
 「長崎派、命、会員番号一番sea」とか、「二番としちゃん」とか、
 「万歳雲谷派、雲一番やまちゃん」とか、
 「京狩野、おこしやす壱番いーちゃん」とか、
 色々な妄想が頭を渦巻いていった。
 そしてこれらの集団が暴力抗争を起こしてなんて活気があって楽しくなりそうである。
 是非、「亀田鵬斎研究会」の皆さん頑張ってください。
 あの、鵬斎スタジャンどうなったんだろ、心配です、、、。


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江戸時代 | 

2020年05月25日

山口雪渓筆水墨山水図1山口雪渓筆水墨山水図2
山口雪渓筆水墨山水図4
山口雪渓筆水墨山水図3



sesson_freak at 17:28コメント(0) 
江戸時代 | 日本画
山口やまぐち雪渓せっけい1648-1732筆水墨山水図 
 字は白隠、梅庵とも号した。雪渓の名は、日本と中国の代表的な水墨画家・雪舟と牧渓から一字づつ採ったものといわれている。
 もともとは、京狩野が彼の出発点で、高田敬輔と同じ近江の出である。この人は、どうも生没年がはっきりせず江戸初期の画家か、程度の理解であったのだが、三重朝田寺の屏風の年号から、江戸中期の画家であることがわかった。
 私蔵している幾つかの絵を見ても室町絵画を手本としていたことがあきらかである。雪渓は、もっと評価が高くてもいい人であると私は、考える。
 40年近く前、朝田寺の地蔵菩薩像を拝見しに伺った時、寺の部屋の一室の襖の隙間から、チラッと屏風の裾が見えた、その画の描き方が、雪渓間違いないので、
「あっ、雪渓だ」と叫んだところ、
住職
「良くわかりますね、どうぞごらん下さい」
 と部屋に通されマジマジと拝見する機会ができた。オリジナリティとは、断片でも眼に入る。好きなんだな、好きな人がいたらわかるでしょ、遠くにいても、、。
「蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち」が現在千葉市美術館でありました。蕭白以前の蕭白的絵師を「第一章蕭白前史」として取り上げている。
 私の好きな、高田敬輔、望月玉蟾、山口雪渓などである。この三者に共通する感覚ってなんであろうか。
 敬輔は、水墨画家であるし、玉蟾は、元信様式の花鳥画を、まま見るし、雪渓は、醍醐寺の桜と楓の屏風を見ると、長谷川派そのものである。
 ここから、見えるものって、要するに京に都があった一時代二時代前の画ではないか。
 思うに、京狩野の画も桃山の気風を代々受け継いでいる。
 江戸狩野の画が、画面に収まろうとする狩野探幽から始まったのに対し、京の画は、四条派は別としても、どこか画面からはみ出ることをよしとする気風が、ずーっと続いていたように私は、思えるのだ。
 それが、文化の本流は、ここであるという京の公家町衆たちの気概から発するものかどうかはわからないが、何か江戸とは違った「美」の流れを感じてしまう。
 久しぶりにこの絵を出してみたのだが、40年前に施した表具の糊シミがポツポツとあり、たもには出さんといかんです。この絵師の紙と墨の使い方には敬服します。
直に見ないと分かんないです。
ホレボレと今見ています。
なんか、涙が止まらない。
浅川マキの「それはスポットライトではない」を聴きながら、、。


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江戸時代 | 日本画

2020年05月21日

谷文晁筆月二代谷文一筆萩図讃  1谷文晁筆月二代谷文一筆萩図讃  2-2
谷文晁筆月二代谷文一筆萩図讃  2
谷文晁筆月二代谷文一筆萩図讃  3



sesson_freak at 23:28コメント(0) 
江戸時代 | 日本画
月に秋草図
谷文晁1763-1840筆月図
二代谷文一1814-1877筆秋草図
秋山御風あきやまぎょふう1795-1866筆俳句讃
 秋田藩士、俳諧師。五代虫二房。阿仁銅銀山の阿仁郡奉行、一世伊藤紅塵、二世吉川五明、三世片岡吾長、四世土肥渭虹に継いで秋田俳諧の虫二房五世を名乗った幕末の有力俳諧師。
 本名宇吉で、応斎、俳聖堂、楪斎、逍遙亭とも号した。
 江戸時代の阿仁町は、鉱山で裕福で文化的にも栄えました。
文晁75歳1837年
二世文一23歳
御風42歳
 御風42歳であるが、讃は後賛かもしれない。
 しかし、秋山御風は、秋田藩の銅鉱山の重役として江戸との行き来はあったというから文晁との出会いは、大田蜀山人を通してあったことであろう。なぜなら蜀山人は、大坂の幕府の銅座の役人であったからだ、蜀の国は、銅の産地であったことから号を蜀山人としている。しかも、文晁は洒脱な俳句を残している。
 ともかくも、文一の印落款と文晁の印は、正しいものであるので、文晁のこの破格な落款も正しいことになる。
 先年、郷土博物館に展示された調布の旧家所蔵の画冊といい晩年の文晁の落款と印章の自由奔放さは、驚くばかりである。
 かつて渥美さんが言っていた我々が鑑識する時の基準を考え直さなければいけない時が来るといっていた。


sesson_freak at 23:26コメント(0) 
江戸時代 | 日本画

2020年05月20日

大橋訥庵筆二行書1


sesson_freak at 16:10コメント(0) 
大橋訥庵おおはしとつあん1816-1862。
 末期の尊攘派の志士、宇都宮藩出身。
 長沼流兵学者清水赤城の子。江戸に生まれ佐藤一斎の門に学び、二十六歳で自ら 思誠塾を開く。日本橋の豪商大橋淡雅の婿養子になる。
幕府の対外策を批判し、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立を主張。攘夷運動を推進し、老中安藤信正の襲撃計画を企てたが、坂下門外の変の直前に捕えられる。
幽閉中に病気となり、宇都宮藩に預けられたが病没。
以前の掲載にこの人の義兄弟の菊池教中の画があるが、教中の思想上の師となるのが大橋訥庵である。
 本職は、木綿問屋であり質屋なのだが、すさまじい過激な質屋である。
 それにしても、よくもまあ江戸の人たちはコロコロと苗字を変えてしまうものである。苗字が錯綜してよくわからなくなるときがある。
 江戸日本橋の豪商佐野屋の義父・大橋淡雅を語る必要がある。
 大橋淡雅1789-1853は、小山の粟宮の医師大橋英斎の子として生まれ、十五歳のとき宇都宮で古着屋を営む菊池介介の養子となり、娘民子と結婚する。
 その後、真岡木綿の問屋となり、関東木綿の大部分を支配、両替商・質屋なども経営し、江戸でも屈指の豪商へと上り詰めた。
 学問芸術を愛し、多くの学者・文人・志士たちのパトロンとなり人材を育てた。
 そして、娘の婿として大橋訥庵がいるが、彼は、坂本竜馬の真逆の考えを持っていた人である。日本「商人国」化批判を続けた。商人国化すれば、日本は、必ず飲み込まれ自らを見失うことになると喝破していた人物である。
 彼は、単なるガリガリの攘夷論者ではなく蘭学者の友もたくさんいたという。
 豪商が、革命を企て、入獄するという面白さである。
 学問のレベルもこの画を見ればわかることであり、いかにも切れる筆さばきである。
 私は、日本をグローバリズムのただ中にすぐさま押し込んだ坂本竜馬が称えられる司馬遼太郎史観であるが、その明治維新そのものを今一度見直す時期に来ていると思う。最悪の出来事は、-融通無碍、良(よ)い加減な日本のやり方を根本から否定するもの-神仏分離である。


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江戸時代 | 

2020年05月13日

江ノ島弁才天図1江ノ島弁才天図3
江ノ島弁才天図2
江ノ島弁才天図5



sesson_freak at 10:10コメント(0) 
江戸時代 | 日本画
騎龍弁財天図
干時寛政十一乙未九月巳巳
江島於本宮開眼之
総別當岩本院
亮康花押
の裏書あるが作者は不詳である。珍品である。
 正治元年1190年、北条時政は江ノ島に参籠し一族の繁栄を祈願、その際に龍神が現れ3枚の鱗を残したといい、これが北条の家紋「三鱗」となったという。
 そして、酒井抱一が、江島神社に奉納した、八方睨みの亀の天井絵が・奥津宮楼門に(今は痛むので模写)があるが、維時享和三年龍集昭陽 大淵献夏林鐘之月 抱一製」の墨書銘があり、享和三年1803年の作とわかる。どっから見ても睨んでるというよくある話である。
 江島は、どうも亀、弁天様、竜神など神様が複雑でよくわからないが、明治以前は、金亀山与願寺という神仏習合の寺名であったらしい。
 江ノ島の信仰は、ようわからないので、江島神社のサイトから引用させていただきます。
 江島神社えのしまじんじゃは、神奈川県江の島にある神社。旧社格は県社で、有名ではあるが式内社ではない。日本三大弁天の一つ。
 社伝によれば、欽明天皇13年552年、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。
 『吾妻鏡』によれば、寿永元年1182年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。
 歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。
 当社には岩本坊・上ノ坊・下ノ坊の三つの別当があり、それぞれ岩屋本宮(現在の奥津宮)・上之宮(現在の中津宮)・下之宮(現在の辺津宮)を管理していた。 その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。
 慶安二年1649年に京都・仁和寺の末寺となってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。
 三坊は競って当社の縁起を説いて回り、参詣者を集めた。そのうちに利権争いが起こり、寛永17年1640年、岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。
明治元年1868年の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊された。明治六年1872年には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、県社に列せられた。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した。
とある、
 この絵は、江戸の物見遊山盛んに行われたのも江戸後期であるので、その真っ盛りに描かれた絵である。不思議な面貌であるが丁寧な描きこみは相応の絵師であることがわかる。裏書から、岩本坊ゆかりの絵であることがわかり大珍品だと私は思っている。


sesson_freak at 10:08コメント(0) 
江戸時代 | 日本画

2020年05月12日

酒井抱一筆金泥芽張り柳図1酒井抱一筆金泥芽張り柳図2
酒井抱一筆金泥芽張り柳図3
酒井抱一筆金泥芽張り柳図2-22



sesson_freak at 04:18コメント(0) 
江戸時代 | 日本画
酒井さかい抱一ほういつ1761-1828筆金泥芽吹き柳図
姫路藩主酒井忠以(宗雅)の実弟として江戸神田姫路藩別邸に生まれる。
 本名忠因、字は、暉真、通称善次、栄八。抱一、庭拍子、鶯邨、屠龍などと号す。
 池田家は、堂々たる譜代大名である。
 また、文芸を重んじる酒井家の家風を受け、若年より俳諧、書、和歌、能楽、茶道、書画をたしなんだ。
 二十代で狂歌や浮世絵などの江戸の市井文化にも手を染めた抱一は、三十七歳で武家生活を嫌い西本願寺の文如上人につき出家する。文如上人の養子となるも、仏家にもなじめず江戸に戻ることとなる。
 画において、京の宗達光琳の琳派様式に傾倒し、江戸に琳派様式を持ち込んだ。江戸琳派と呼ばれる新様式は、近代絵画の先駆けとなる。
 風流で典雅な花鳥画を得意としながらも、風俗画や仏画、吉祥画や俳画などさまざまな主題や作風に対応しうる柔軟性を持ち、多くの文化人との関わりながら、独自の世界を作り上げた。
 しなやかな楊柳が縦長の画面めいっぱいに広がっていて、その輝きは春の黄金色で表現されている。金柳は新春飾りであるが、おそらく対幅もしくは三幅の離れであろう。酒井抱一は、牡丹と菊など草花で両幅を飾った三幅がままあるが、そんな幅かと思える。中幅は何だろう。
 この印は、珍しいものであるが確認できるもので瓢形文詮印である。
 春の気配は気の早い柳は軽やかな芽吹きを見せ、木の近くに立てば、たおやかに揺れる枝一杯、春を孕んだ光の中、柳が風に靡いている。
 黄金色に輝く枝が美しい文化年間の作と思える。


sesson_freak at 04:16コメント(0) 
江戸時代 | 日本画
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江戸の風
巨人、大鵬玉子焼きの世代です。つまり、一方向にソレと動く時代に育ったオヤジです。美術といえばルノアール喫茶店もルノアール。ストーンズに目覚め、アングラ劇に感動し、都会に育った中年オヤジです。それが、一念発起なぜ、こんなブログを書き始めたのか、内容をご覧じろ。 メールはこちらです。
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