2007年07月
2007年07月25日
2007年07月19日
中林竹洞なかばやしちくどう1776-1853名古屋桑名町に産科医中林玄棟の子として生まれる。幼名大助、字伯明、初号筆樵、又号丈昌。後に字成昌、号竹洞と改める。晩年は沖瞻、又は痴翁といった。竹洞のことを考える時、神谷天遊という名古屋の資産家にして芸術家のパトロンを忘れてはならない、彼がいなければ、中京文人画壇は、ごく淋しいものになっただろう、自分の家に寄宿させ家蔵の中国絵画を直に学ばせたのである、今考えても何という太っ腹な人であろうか。しかも中林竹洞15歳、しばらくして、七歳年下の山本くんがやはり、寄宿生としてやってきた、これが山本梅逸である。人を見る眼もピカ一としか考えられない、もしかしたら寄宿生がゴッチャリいたのかしら。27歳で竹洞は上京し、頼山陽・貫名海屋・浦上春琴などと親交する。典雅な山水を得意としていたが、掲載の山水も淡白な落ち着いた趣きである。写真がどうもうまく撮れなくて申し訳ありません。また、この落款は、竹洞のモノの中で偽物が少ないように思えます。
閑話休題15 美濃唐津茶碗1
今日、世田谷美術館で「青山二郎の眼」という展覧会を見てきた。茶道具から、茶臭さを引き剥がし、ぐい飲みと徳利でズルリと酒を楽しむという骨董スタイルを確立した人と私は、見ている。美術史から入った人は、そんなところが嫌いになるかもしれない、ズルリ・デロリの部分がである。
かつて、骨董が好きになり、骨董屋さんに入ったとき、李朝の堅手のいい茶碗に出会えたのだが、先客の手の温もりが残っていて、買う気になれなかったことがあった。骨董って中古品なのに、この感覚はなんなんだろう。多分、距離感だと思う、モノとの距離の持ち方が、ズルリデロリの先客が触っただけでイヤになってしまうのである。これを称して「眼クソがつく」というと、骨董屋は笑っていた。
話は、変わるが骨董屋というのは、得たいの知れない職業であると思いませんか。以前骨董屋が、「君ねー、美濃の陶工は、麦の穂の芯をだねー、こうやって抜いてそれを高台の糸切りに使うんだよ、それをシッピキといってね」と美濃に一度も行ったこともあるのかないのか、わからないが、さも見てきたように身振り手振りで説明をする。エライもんである。
たまには、茶碗など載せましょう、これは、美濃唐津といって、美濃で焼かれた唐津風の焼き物である。桃山時代、南蛮風のデザインが流行ったことがあり、コップのデザインの向う付け・南蛮人の燭台などが有名であるが、これも元は、南蛮のガラスコップのデザインであろう、もちろん向う付けを今は、茶碗として使っている。おそらく20客ぐらいあったのだろうが、未だかつて見たことのないデザインである。これは、桃山陶器としても珍品であると思う。
今日、世田谷美術館で「青山二郎の眼」という展覧会を見てきた。茶道具から、茶臭さを引き剥がし、ぐい飲みと徳利でズルリと酒を楽しむという骨董スタイルを確立した人と私は、見ている。美術史から入った人は、そんなところが嫌いになるかもしれない、ズルリ・デロリの部分がである。
かつて、骨董が好きになり、骨董屋さんに入ったとき、李朝の堅手のいい茶碗に出会えたのだが、先客の手の温もりが残っていて、買う気になれなかったことがあった。骨董って中古品なのに、この感覚はなんなんだろう。多分、距離感だと思う、モノとの距離の持ち方が、ズルリデロリの先客が触っただけでイヤになってしまうのである。これを称して「眼クソがつく」というと、骨董屋は笑っていた。
話は、変わるが骨董屋というのは、得たいの知れない職業であると思いませんか。以前骨董屋が、「君ねー、美濃の陶工は、麦の穂の芯をだねー、こうやって抜いてそれを高台の糸切りに使うんだよ、それをシッピキといってね」と美濃に一度も行ったこともあるのかないのか、わからないが、さも見てきたように身振り手振りで説明をする。エライもんである。
たまには、茶碗など載せましょう、これは、美濃唐津といって、美濃で焼かれた唐津風の焼き物である。桃山時代、南蛮風のデザインが流行ったことがあり、コップのデザインの向う付け・南蛮人の燭台などが有名であるが、これも元は、南蛮のガラスコップのデザインであろう、もちろん向う付けを今は、茶碗として使っている。おそらく20客ぐらいあったのだろうが、未だかつて見たことのないデザインである。これは、桃山陶器としても珍品であると思う。
横井金谷よこいきんこく1761-1832。栗太郡下笠・現草津市下笠町に生まれた金谷は、浄土宗の僧となり、天明元年、京都北野の金谷山極楽寺の住職となったことから、金谷の号を用いました。与謝蕪村に私淑し、画業を学んでいったといいます。若い頃から放浪破戒の生活を送り、画家としての名が出たのも晩年になってからと考えます。人間らしいといえばそれまでですが、破戒行為は、枯れた人間になるまで続いたことと思います。彼の生まれた下笠村は染紙で有名な青花紙があります、草花から染料を煮出し紙を染めることが村人の重要な収入源となっていました。彼の画には、画面を染め抜いたような山水表現をまま見ることがあります。これは、おそらく故郷の染紙をしのんでのことと私は、考えます。この画も、その表現形式の山水です。湿潤な彼独特の山水です。文化元年、三宝院門跡高演法親王の大峰入りに従い御斧役を務めます。浄土宗徒の彼が何故、真言密教の大峰入りなのか、私にはさっぱり理解できませんが、ともかくそれ以来、彼は「斧行者金谷」の印を画に押すことがあり、この画にもその印が用いられています。彼の作品は、偽物が多いのですが、この印には、余り偽物がないように思えます。それと、蕪村に私淑といいますが、私は、ただ単に売れる画風で描いていたというだけのことのような気がします。もともと筆が器用な人だったのでしょう、晩年の達観した頃の画に見るべきものありということでしょう。天保三年(1832)に72歳の生涯を閉じました。子供が二人いましたが、ともに彼より先に亡くなっています。
次は、中林竹洞です。
次は、中林竹洞です。
2007年07月08日
聖体長養という言葉がある。テレビで、15歳の少年ゴルファーが、マスコミに囲まれさんざんつっつかれているのを見てこの言葉を思い出した。大灯国師宗峰妙超は師の大応国師の下で大悟してのち、師に20年間聖体長養せよと言われ、京都五条の橋の下で乞食の人々の中にいて過ごしたといわれている。聖体長養の真逆のことが社会の隅々で行われている。
ああ、真四角なキャンバスの中にしか描けない人生で、日本の未来に何ができるというのか。この天才少年も、小さなキャンバスの中に閉じ込められてしまうに違いない。そもそも、マスコミに属する人々は、何の権利があって彼を追いかけるのか。最高学府を出たマスコミの人間が、個人のプライバシーを追い詰める、それが正しいことと思っているのか、暗澹とならざるを得ない私である。
もし、これも仕事ですからと言うなら、我々の仕組みにまた暗澹とならざるを得ない。
そうだ、人の姿は、明暗があって人なのであって、ことさらに暗の部分を白日の下にさらしても、人の足をただただ引っ張っている地獄の獄卒と同じであろう。
私の知り合いに、元教育大駒場の美術の教師を永年していらした画家の方がいる。その人の同僚に面白い書道教師がいたと聞いた。
その人は、生徒に新聞紙を使って字の練習をさせていたという、ある時、生徒の母親が「私の子供の字は、新聞紙からはみ出た字が多いので何とかして欲しい」と、
その先生曰く「始めの一筆がこう入るでしょ、次は、こうきますよね、こうきてこうきて、こうきたら、ほらはみ出るしかないじゃないですか、それの何が悪いんですか」と、
母親は、「うーん」と、黙ってしまったそうです。こんな教師ばかりだったら、この社会もいくらかよくなるのですがね。
私は、二画目でもうはみ出してしまったので、「うーん」仕方ないのかな、お父さんお母さんごめんなさい、そうそう、どなたかコメントくださってもいいですよ。
この教師とは、大沢雅休だったと思います。
次は、越前藩絵師渡辺了之の子、渡辺了海です。
ああ、真四角なキャンバスの中にしか描けない人生で、日本の未来に何ができるというのか。この天才少年も、小さなキャンバスの中に閉じ込められてしまうに違いない。そもそも、マスコミに属する人々は、何の権利があって彼を追いかけるのか。最高学府を出たマスコミの人間が、個人のプライバシーを追い詰める、それが正しいことと思っているのか、暗澹とならざるを得ない私である。
もし、これも仕事ですからと言うなら、我々の仕組みにまた暗澹とならざるを得ない。
そうだ、人の姿は、明暗があって人なのであって、ことさらに暗の部分を白日の下にさらしても、人の足をただただ引っ張っている地獄の獄卒と同じであろう。
私の知り合いに、元教育大駒場の美術の教師を永年していらした画家の方がいる。その人の同僚に面白い書道教師がいたと聞いた。
その人は、生徒に新聞紙を使って字の練習をさせていたという、ある時、生徒の母親が「私の子供の字は、新聞紙からはみ出た字が多いので何とかして欲しい」と、
その先生曰く「始めの一筆がこう入るでしょ、次は、こうきますよね、こうきてこうきて、こうきたら、ほらはみ出るしかないじゃないですか、それの何が悪いんですか」と、
母親は、「うーん」と、黙ってしまったそうです。こんな教師ばかりだったら、この社会もいくらかよくなるのですがね。
私は、二画目でもうはみ出してしまったので、「うーん」仕方ないのかな、お父さんお母さんごめんなさい、そうそう、どなたかコメントくださってもいいですよ。
この教師とは、大沢雅休だったと思います。
次は、越前藩絵師渡辺了之の子、渡辺了海です。
私の隠れ里 神奈川県清川村煤々谷
抜隊得勝という禅僧がいる。南北朝の動乱期1327年に相州中村、今でいう中井町に生まれ幼少の頃父をうしない、地獄の苦患を怖れ少年期に疑心を持って過ごしたという、これを聞くとちょっと白隠に似た出家動機である。だが、彼は、本格的な修行生活に入るのは、30歳を越えてからである。
溜まりにたまった疑念を晴らすためか、東北から出雲まで東奔西走の修行と師を求めての旅にあけくれる、雲洲雲樹寺の孤峯覚明においてついに悟るところがあり、抜隊つまり万衆から抜きん出ているという号を授かる。後に、塩山の向嶽寺という大寺を建て庶民布教につとめ寺内に温泉による治療施設をつくる。
私は、この人は、会うととてもじゃないがアクが強くて、イヤーたまんねえなあ、と言うと思う。だがなぜか頭から離れることがない。出家の年齢が遅いことも気になるが、前のめりに生きていく姿が心を捉えて離さないのかなと思う。津久井湖から厚木に向かって降りてくる途中の山中に彼が始めて山中修行をした煤ヶ谷がある。彼のその場所を尋ねてそこに行ったことがある、地元の人に聞くと、国道から細い道を入ったところに寺があったなあと、そして、それらしき寺を訪ねてみた。訪れる人もないのだろう、若き禅僧が出てきたので、抜隊得勝について尋ねるとその通りだと、答えていただけた。抜隊得勝に関するものはないもないという、ただその場所だろうというだけであった。
だが、脇を清冽な水が流れ、山そのものが抜隊得勝のような気がした。
この場所は、近くに大山という大修験場があり、飯山観音という霊場もある。山居とはいえ、何の後ろ盾もない乞食坊主が、自らの存在理由を求めて座するにも勇気がいたに違いない。今でも30歳というとしっかりしろよという言葉が返ってくる、ましてや人間50年の時代である。もし、抜隊得勝に会えたら、、、やっぱり礼拝しよう、この人の書が、この前五島美術館に出ていた、墨蹟に感動するというのは、こういうことかとつくづく思った。
抜隊得勝という禅僧がいる。南北朝の動乱期1327年に相州中村、今でいう中井町に生まれ幼少の頃父をうしない、地獄の苦患を怖れ少年期に疑心を持って過ごしたという、これを聞くとちょっと白隠に似た出家動機である。だが、彼は、本格的な修行生活に入るのは、30歳を越えてからである。
溜まりにたまった疑念を晴らすためか、東北から出雲まで東奔西走の修行と師を求めての旅にあけくれる、雲洲雲樹寺の孤峯覚明においてついに悟るところがあり、抜隊つまり万衆から抜きん出ているという号を授かる。後に、塩山の向嶽寺という大寺を建て庶民布教につとめ寺内に温泉による治療施設をつくる。
私は、この人は、会うととてもじゃないがアクが強くて、イヤーたまんねえなあ、と言うと思う。だがなぜか頭から離れることがない。出家の年齢が遅いことも気になるが、前のめりに生きていく姿が心を捉えて離さないのかなと思う。津久井湖から厚木に向かって降りてくる途中の山中に彼が始めて山中修行をした煤ヶ谷がある。彼のその場所を尋ねてそこに行ったことがある、地元の人に聞くと、国道から細い道を入ったところに寺があったなあと、そして、それらしき寺を訪ねてみた。訪れる人もないのだろう、若き禅僧が出てきたので、抜隊得勝について尋ねるとその通りだと、答えていただけた。抜隊得勝に関するものはないもないという、ただその場所だろうというだけであった。
だが、脇を清冽な水が流れ、山そのものが抜隊得勝のような気がした。
この場所は、近くに大山という大修験場があり、飯山観音という霊場もある。山居とはいえ、何の後ろ盾もない乞食坊主が、自らの存在理由を求めて座するにも勇気がいたに違いない。今でも30歳というとしっかりしろよという言葉が返ってくる、ましてや人間50年の時代である。もし、抜隊得勝に会えたら、、、やっぱり礼拝しよう、この人の書が、この前五島美術館に出ていた、墨蹟に感動するというのは、こういうことかとつくづく思った。