2019年01月
今、下記のような企画が進行している。
北方領土返還の話が遠くで聞こえる中での、企画である。
私は、この作家が埋もれているのを見過ごせずにこの作家の作品を何点か持っている。
そのような事情のもと下記を読んで欲しい。
写真として表紙、中身76頁の一pと奥付を掲載しよう。
タイトル:サハリンを愛した植物画家・船崎光治郎(1900〜1987 年)
サブタイトル:大正期新興美術運動、ロシアそして船崎光治郎
日本における近代美術運動の一つに、「大正期新興美術運動」がある。
これは、日本における1920 年代のロシアアヴァンギャルド芸術に影響を受けた人々の芸術運動の総称である。
1920 年には、ロシア未来派の作家ダビット・ブリュリュックとヴィクトール・パリモフが1922 年には、ロシア構成主義の作家ブブノワが来日し日本の前衛作家たちに大きな影響と刺激を与えた。
柳瀬正夢、尾形亀之助、古賀春江、神原泰、中川紀元、村山知義等は、その中でも著名な作家であるが、彼らが属する未来派美術協会、アクション、第一作家同盟(DSD)、赤人社などの団体が「大正期新興美術運動」の旗艦として活動をしていた。
船崎光治郎は、植物学者・牧野富太郎のもとで植物画の技術を学び、また赤人社に属する作家で、戦前の旧樺太王子製紙工場の援助により樺太において盛んに肖像画、風景画、植物画、そして版画から出版までを遂行し、その画業の全貌は未だ詳らかではない。
その中でも特筆すべき一冊の本がある。
戦争直後の昭和22 年に東京の出版社から「高山図譜」という樺太の植物を木版画にした図譜を、幕末明治期の英国外交官アーネストサトウの子にして植物学者の高田好吉の解説
付きで出版している。物不足と混乱の中、遠く離れたサハリンの草花を思い手刷りの一枚一枚を貼り込み、想像を絶する努力により出来上がった一冊である。
まさに、樺太愛に溢れた一冊である。戦中戦争直後、ロシアとの関わりの中で生まれた絵画は、不幸なものが多いが唯一、船崎のみが文字通り華を咲かせている。美術史的にも、大正期新興美術運動の一人でもあり、ロシアとの友好の中で忘れられない画家の一人である。
ロシアの日本美術の研究者も知る人は、ほぼいないといっていい、今回の企画により顕彰の嚆矢とし、業績研究の大きな歩みとなることを期待している。
おそまきながらのご挨拶です。
年末年始は、東京を離れておりました。
今年は、文晁を掘り下げようかと思います。
昨年は、足立区立郷土資料館にて文晁を見取ったと言われているほど深いつながりのある船津文淵の資料が公開されまことに目出度いことでした。...
この船津家は、鳩ヶ谷の船戸家の分家にあたり、船戸家は室町時代より続く名家で江戸期は名主をつとめていました。
船津文淵は、船戸家の分家で分家は船津などの姓を名乗ったそうです。船津文淵も今は足立区の一画を有する名主で、絵を谷文晁に習い江戸琳派の絵師たちとも繋がりがありました。
船津文淵は、富士講の元祖・長谷川角行の肖像画を描いていて富士講の信者であったことは間違いありません。文晁との繋がりは、深く周辺の絵師たちの作品も多数船津家に残されています。
そして、肝心なことは船津文淵の資料の中に文晁の直に文淵が押した材質を明記した印譜があることです。この中の印には8cm大の大きな印も含まれ54個を数えるます。おそらく存命中は伝承のごとく百個は下らない数があったのでしょう。まさに、文晁の正印なのです。
わが師・渥美国泰さんは、印が未知のものだといって谷文晁作品は偽物であるとは限らないと常々言っていました。
また、国立市本田家の詩画帖の公開もありました。この連載にあげたその文晁の絵と落款の写真を見ればわかる通り、晩年の文晁の自由さは壁に落書きを残したバスキア並みでしょう。
八百善という江戸の料亭の壁に当時の絵師、儒者たちが落書きをしたものを見た事がありますが、それを彷彿とさせました。
谷文晁の実像は、未だに解明できていないのが現状であると私は思います。
私は、小谷三志という富士講の行者(江戸市中から、日本全国に門弟五万と言われていた)の書画を所持しています。三志は鳩ヶ谷において船戸家と深い繋がりがあり、いつかは三志と文晁が繋がる資料が出てくる予感がしております。ちなみに、小谷三志、明和二年1766年-天保12年1841年、谷文晁、宝暦13年1763年-天保11年1841年と二人は、ほぼ同時代を生きていたのです。
そこにおいても、船津文淵の資料の解明は文晁研究が一歩先に進んだと私は思えます。
掲載の画は、石川梧堂讃谷文晁筆紺紙朱達磨。
石川梧堂いしかわごどう。
安永七年1778年山城国淀藩主稲葉正親の五男正春の子、幕臣・石川総詳の養子となる将軍徳川家斉に拝謁し家督を継ぐ。火事場見廻役・火消役を務め、文化十年致仕。嘉永五年1852年死去。江戸時代後期の旗本。書家として知られ、字を錫我・亀我、号を梧堂また知秋庵と名乗った。