世田谷城跡保存会

名称 世田谷城跡保存会 発足 平成17年11月1日 会員 50名 活動 世田谷区のシンボルである世田谷城の保存と復元のため、世田谷御所通信の発行、調査研究、 歴史講座、歴史散歩、バス見学会などを行っている。 

ごあいさつ
                    
 私ども、世田谷城跡保存会は、平成17年11月に、地元世田谷区の有志を中心に発足しました。以来、世田谷区の代表的な歴史的遺産として世田谷城の保存について活動をしてきました。
 平成21年2月には、世田谷城の中心に位置する豪徳寺住宅の再建整備について、東京都住宅供給公社に対して、「世田谷を代表する城跡を歴史遺産として保存し、周辺の自然環境の保護も進め、広く世田谷区民をはじめ多くの東京都民に公開、利用する」ことを要請したところ、「保存に関する問題を認識し、十分に配慮して参りたい」との前向きな回答を得て、保存活動の大きな成果を上げることができたとともに大きな転換期を迎えました。
 平成28年4月、新たに河原英俊氏が会長に就任され、新体制の元事業の長期計画が示されました。主旨は講演会やイベントを中心とした現在の啓蒙活動を引き続き行うとともに、研究発表の場として機関誌仮称「世田谷城研究」の発行、そして復元を進めるために研究企画部会を発足して学習活動を推進することを挙げています。さらに河原会長は幅広く会員を募集することをあげています。ご関心のある方はお気軽にご入会、お問い合わせをしてください。
 皆様のご支援とご協力が必要です。よろしくお願い申し上げます。
                              
                 世田谷城跡保存会

           第5回全国城郭探訪記の開催お知らせ

下記により、講演会を開催いたします。みな様、お誘いあわせの上、ご参加ください。

演題  第5回全国城郭探訪記 新潟、関東、中部編
講師  五木田栄一氏(城郭研究家・当会理事)
日時  平成31年4月20日(土)午前10時から
会場  世田谷区ひだまり友遊会館
    世田谷区若林4-37-8
資料代 会員以外の方は500円

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3つ目は37五稜郭です。

元治元年、1864年に築かれた西洋式城郭で蘭学者の武田斐三郎が設計した、星形五角形の特異な城です。函館の街全体を包み込む巨大城郭の予定が予算がなくなり途中で断念したため未完成です。

 

38西洋の城は、王の住む城郭、町人、商人等住人全てを取り込み、巨大な城壁で囲む形態が多く見受けられます。城壁は1020メートルにもなります。

 

それに比べて日本の城は、城主の住む館を城壁で囲み、周りを家来である武家屋敷があり、さらにその外側を商人、町人町が取り囲むという形態になっています。戦争になると、兵隊になるのは農民が大半でした。

五稜郭は大砲のためのスロープがあり、五角形のため死角がないといわれますが、城壁は低く土塁も低くなっています。築城当時は、大砲の砲弾が届かないように堀や土塁が造られましたが、幕末の軍艦は最新式の大砲で打ち込み、函館戦争でアッという間に陥落したのも仕方ないと思われます。土方歳三らの奮戦むなしく、蝦夷共和国総裁の榎本武揚も降伏しました。

 

 近年、39函館奉行所が城内に復元されました。39太鼓櫓もあります。見隠し土塁半月堡塁等、独特の造りがあります。特に刎出石垣はめずらしく、ほかでは九州の人吉城にあります。

 

 隣にある五稜郭タワーからの眺望はすばらしく星形がくっきりと分かります。特に満開の桜の時は絶景です。また真冬の雪深い城跡も見応えがあり、足跡のない土塁の上を歩いた時の感動は忘れられません。

 

 市内を歩くと坂本龍馬資料館、土方歳三最期の地碑があります。そして堡塁のあった立待岬に立つと、旧幕軍の軍艦が戦闘する前に座礁してしまったのも無理もないと思わせる荒波でした。

 

その立待岬に行く途中に明治の43詩人石川啄木の一族の墓があり、そこからの海岸の眺めがまた素晴らしい場所でもあります。さらに近くの山に向かって歩くと函館戦争で戦死した幕府軍800名が眠る44大きな石碑45碧血碑が立ちはだかるように立っていて、感慨深いものがあります。

 

 もう一つ忘れてはいけないものがあります。47函館山の夜景です。世界に誇れる絶景です。夜景で有名ですが、昼間の景色もおすすめです。五稜郭、湯の川温泉、函館港等美しい街並みが、眼下に一望できます。特に津軽海峡と函館湾に挟まれた、市街と両方の海岸線がとにかく美しく、必見です。


続く

 

 北海道アイヌの城は、16~18世紀に自然を利用してつくられ、堀もありますが、祭祀にも使われていたようです。もちろん敵からの防御が目的であるのは間違いないとおもいます。また、白老等のアイヌコタンも城の一部であると思われます。

 

 

沖縄の城、グスクは14世紀頃で歴史はとても古く、アイヌの城と同じで、城内に祭祀の一画もあります。石垣は柔らかい材質の石灰岩で美しい曲線を描き青い海との対比が絶景となっています。余談ですが、沖縄へ行ったのは最近です。なぜなら50年前はまだ外国でパスポートが必要でしたから。

 

さて、九州、山陰は朝鮮、中国とのかかわりも多く、文永、弘安の役の元寇防塁跡、秀吉の文禄、慶長の役での名護屋城、朝鮮半島の和式築城、九州の朝鮮式築城等、多数の城があります。

もっと古い古代の城は、吉野ケ里遺跡で、弥生時代です。福岡の大野城は、大宰府を大陸の攻撃から守るための城です。

ちなみに青森の三内丸山遺跡も堀や土塁が備わり、城郭の形態をなしています。

 

 このように、古代から近代まで様々な城が造られ、戦場となり破壊され、また新たに築城されていきました。

 今回は第1回目として北海道の城からお話ししていきたいと思います。蝦夷地(北海道)はアイヌの国であり、アイヌ語で砦を意味するチャシが約600か所もあります。

 

道内全域、樺太、東北地方にも見られますが、特に根室、釧路等、東蝦夷に集中しています。

一方和人の館12館が道南にあり、アイヌとのコシャマインの乱が勃発、アイヌとの戦乱が続きました。また近代になると松前城、五稜郭等が築かれています。

 

はじめに松前城です。 


1600年の築城ですが、その頃は福山館という陣屋でした。嘉永3年(1850)に松前藩が築城、最後の日本式城郭です。

海上防衛のための大砲が25門備えてあったのですが、背後から旧幕軍土方歳三等に攻められ落城しました。天守は残りましたが、昭和24年に焼失してしまいました。

遺構として残っている本丸御門天守が横に並ぶめずらしい造りになっています。石垣も隙間のない亀甲積みでとても美しいのですが、幕末の激しい戦火で弾痕の跡も生々しく残っています。

 

有名ですが、5月の桜の季節は特に美しく、ぜひ満開の桜の時に見てほしいと思います。

 

 また、本丸には表御殿玄関も移築保存されていて、近年二の門天神坂門も復元され、海からの眺望もすばらしい。近辺の寺には松前藩主の墓所もあるし、城下町もきれいに整備されていて、おみやげ屋ではこれも有名な松前漬けが売られています。

 

次は、勝山館です。

松前から江差に向かうと上の国町という町があり、ここに勝山館があります。14世紀、道南地方に館があり、その一つの花沢館に甲斐武田の一族の武田信広が勝山館を築城しました。

武田信広は若狭武田の出自といわれますが、何らかの事情で青森の南部光政に保護され、蠣崎を領したため蠣崎武田を名乗ったといわれています。

 

享徳元年、1454年8月、蝦夷地に向かい花沢館の蠣崎季繁の養子となり、長禄元年、1457年アイヌが一斉蜂起したコシャマインの戦いで戦功を上げて鎮圧しました。この功績により勝山館を築城して道南地域を配下に置いたとされています。

 

日本海に面した大澗湾は交易で賑わいました。標高160メートルの夷王山という富士山のような美しい小山があり、墳墓となっています。その麓に館跡が広がり、海に向かってゆるやかに下っています。

館跡の中央には海に向かって真っすぐ延びる道路があり壮大な景色になっています。本曲輪と北曲輪の間に大きな空堀があり、木橋が架かっていて、広大な屋敷跡から日本海の美しい海岸線が眼下に望まれるところです。

 
なお近くの江差の港には幕府の35軍艦開陽丸が復元され展示されています。市内にはニシン小屋残り、昔日の繁栄が偲ばれます。

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