2007年10月19日

話を聞くことは、聞いてもらえるという安心感から

去年、授業中も私語が多くて授業妨害を繰り返していたと言われたある男君。
一学期はやっぱり私語が多かった。
些細なことで喧嘩もした。

それが一学期の終わりごろから様子が変わってきた。
私語が激減した。苦手だったノートを書くことも随分とできるようになった。
喧嘩の回数も随分と減ってきた。

なぜ、ある男君が変わったのか?
それは、一学期の私の対応に原因があるのではないかと思っている。
今回の話は、多少(多々かも)我田引水の部分があるので、話半分に聞いてもらえればと思っている。

一学期、喧嘩のたびにその原因を話させた。
初めは「うるせえ」「面倒くさい」「どうだっていい」と言っていたけれど、それでも少しずつ話をするようになった。廊下で20分以上話を聞いたこともあった。
時には他の子の話と食い違って「本当なの?」という部分もあったけれど、「そうなんだ」「そうだったんだ」と話を聞き続けた。

一通り話をさせた後で、「じゃあ、どうすればよかったと思う?」と聞いてみると、初めのうちは「あいつが悪い」「俺は悪くない」を繰り返していたある男君が「俺がカッとなって初めに手を出しちゃったのがいけなかったと思う」と言うようになってきた。

「我慢すればよかった」という言葉の表出も次第に増えてきた。
その事を本人の成長と認め、「成長したね」と本人に伝えると共に、保護者にも伝えて家庭でも誉めてもらえるように電話したりもした。

初めのうちは一度カッとなるとしばらく怒りが収まらなかったある男君だったけれども、廊下に連れ出して話を聞き始めるとみるみる落ち着いてくることが彼の表情からも伝わってきた。
ゆるやかに、彼の中で何かが変わったのだと思う。

そんな時、去年の担任がある男君に近づいてきた。
とたんに彼の表情が戦闘モードに変わっていった。
「ある男!一体何をやったんだ!うちのクラスのいる男を殴っただろ!謝れ!」
近くにいた私もビックリするぐらいの大声で怒鳴り始めた。

実は、いる男君との喧嘩はすでに私が両者から話を聞いていた。
いる男君がある男君に向かって走ってきて、いきなりある男君の持っていた筆箱を叩き落し、「死ね」とつぶやいて走り去ったことが原因だった。
(これはいる男君も私に話して認めていたこと)

「ある男は嘘をつくし、いつも暴力ばかり振るっている。いる男は下級生だ。ある男が悪いに決まっている」去年の担任は私にもそう言った。
「もう、私が両者から話を聞いて指導した後ですから…」と丁重にお断りをしたが、前担任は引き下がらず、ある男を連れて行ってしまった。

その時、去年ある男が私語が多くて、授業の妨害をしていた原因が見えた気がした。
「自分の気持ちを誰も分かってくれない」
ある男はそう思っていたのではないか。
それが、彼の様々な行動(多くは自分に注目して欲しいという願いから)になったのではないだろうか。

一学期、授業中に手を挙げた時、他の子が指名されると大声で答えたり、机を蹴飛ばしたり、椅子を投げたりしたのは、「自分の順番が回ってくる」(自分の話が聞いてもらえる)ということが分からなかったからではないのだろうか…。

自分の話を聞いてもらえる。その安心感が、「順番を待つ」という行為を支えている気がする。「順番が待てれば、その間の私語がとまる」のではないだろうか。

別に誰が担任していても、時が来れば彼は成長したのかもしれない。それは幼さゆえの仮の姿だったのかもしれない。
でも私は、「私語を減らす」のは「(いつになるのか分からないけれど)いずれ聞いてもらえる」という安心感なのではないかと思っている。

もし貴方が、「子どもが親(自分)の話を聞かない」と嘆くならば、一度「自分は子どもの話をどれだけ聞いてきたのか?」を考えて欲しいと思う。
「一日どれぐらい、子どもの話を聞いてきたのか」を自分に問いかけて欲しいと思う。
意外と答えはそんなところにあるような気がしている。
私の思い込みかもしれないし、ある男君が変わったのは、単なる偶然かもしれない。
けれども、「子どもが親(自分)の話を聞かない」と思うなら、一度考えて欲しいと思っている。

(追伸…個人情報に関わるといけないので、ある男君の話の細かいところや、前担任とのやりとりなどに関しては、脚色をくわえて記事にしています。)

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つれづれ日記 

2007年10月17日

言葉を瞳に注ぎ込め

反抗期の子どもの指導は難しい。
指導の言葉をなかなか受け入れない。
時には聞くことすら拒絶する。

聞いていないようでも聞こえているからと指導を続ける人もいるけれど、私にはそれは今の時代に合っていないように思える。

30年ぐらい前に木枯し紋次郎(こがらしもんじろう)の台詞「あっしには関わりねえことでござんす」があり、しらけ世代と呼ばれたけれど、今は小島よしおの「そんなの関係ねぇ!」が流行る時代である。
木枯し紋次郎は「関わりのねえことでござんす」と言いながらも、その後の様子に注意を払っていたし、関わりを持っていた。
でも、「そんなの関係ねぇ!」はその後の関係をバッサリと打ち切っている言葉に思える。
注意されても「そんなの関係ねぇ!」とバッサリ相手を切り捨ててしまうようでは、教師の指導は全く意味をなさない。

だから今は、「俺はお前の心に話しかけているんだ」という強い態度を見せない限り、その言葉は頭に届かないのではないかと思える。頭にすら届かない言葉では、到底その心に響くはずも無いではないか。

そこで最近は、両のほほをしっかりと手のひらで支え、顔を真正面に向け、その子の瞳をじっと見据えて話をするスタイルを取っている。もちろん、そこまでしても瞳が泳いでいる子どもはいっぱいいる。それでも、その瞳に向かって言葉を注ぎ込む。

そうすれば、子どもの心に届くという確信は無い。
しっかり受け止められたという思いもそれほど強くない。
けれど、少しでも子どもの心に食い込みたいという願いがそうさせている。

顔を近づけるのだから、当然大声では話さない。
諭すように、言葉を選びながら落ち着いた声で話をする。
どうかこの子にこちらの思いが少しでも届いてくれと願いながら。

瞳は心の窓と言われています。
今は、その窓をこじ開けてでも言葉を注ぎ込まなくてはいけない。そんな子もいる時代なのだと、私は思うのです。

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つれづれ日記 

2007年10月15日

先人の知恵に学ぼう

「教育とは先人の知恵を後世の人に伝え、育てていく営み」であると私は思っている。その私からすると昨今の傾向は非常に苦々しい。

顕著な例を出すと「大人だって悪いことをしている」という言葉に操られ、「大人なんて信用できない」と平然と言う若者がいる。
別にこれは昔からある傾向ではあるが、通常これは青年期もしくは反抗期の若者が言っていた言葉である。

それが20を過ぎた大人や30代近い人まで似たようなことを言う。
テレビのキャスターは「こんな大人がいたのでは、若者が『大人が信用できない』と言うのも当然です」なんて変なお墨付きを与えていたりする。

大人になれば悪いことをする人がいなくなるなんてことは、ちょっと考えれば幻想であることは分かるはずです。大人に悪い人がいなければ、そもそも刑務所なんてガラガラに成っているはずです。

だから、一部の大人を取り上げ、「だから大人は信用できない」って言うのは、普通は青年期までだろうと思うのです。

そもそも、この流れが大きくなったのは「戦前の日本人は間違っていた」というGHQのプロパガンダが発端ではないかと思う。それによって戦後は「自分のなるべき姿のモデル」を失ってしまったのではないか。

自分がどうなっていけばよいのかが分からず、そこに立ち止まってしまう若者が増えてきたのではないか。そう考えると、フリーターやニートの出現は日本の戦前の文化の全否定に原因があるのではないか?とも思える。

しかし、本当に戦前の日本人は間違っていたのか?戦前は軍国主義の教育がなされていたのか?本当に日本人は悪い人が跋扈していたのか?
それなら、日本は悪の子孫なのか?

戦前は悪と単純に思ってはいけない。日本の先人の知恵をもっと謙虚に学ぶべきであると思う。そして社会は、若者が先人の知恵を安心して受け入れられるようにしてやるべきです。

私は、まず「親のいうことをきくこと」を、当たり前のこととして教えていきたい。
それが先人の知恵を学ぶ第一歩であると思うから。
先人が長年かかって築いてきた日本の文化は、西洋に比べて劣っているものでもなく、これから先も十分通用し、保持することが望ましいと思っているのです。

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日本が失ったもの 

2007年10月13日

教員は職人芸?(2)

私が教員になった頃、「新卒指導教員」なるものがついた。
新任研修もやたらとあったから、その研修に出かけている時に担任の代わりをしてくれていた先生と言ったほうが私の場合は正確だった。

その1年で教員としての質が上がったのか?と言われると
??????ぐらい?がつく。自分自身として何とも手ごたえが無かった。
それでも、子どもには受けていたような気がする。
今思えば単に若いというだけの価値だったと思う。

転機になったのは2年目。雑誌「ツーウェイ」との出会いと、その雑誌にひかれて生の向山先生に会いに出かけたことだろうと思う。
雑誌・教育書を一人読みふけった。参加費も高くて(その当時は「法則化」という名称だった)痛かったけれど、参加してよかったと思った。
それから、年に何度も向山さんに会いに出かけた。
最後に握手をするとなんだかいつも力が湧いてきた。

各地の研究会にも積極的に参加し始めた。
向山さんは実際に授業を見せてくれた。その場にいるような臨場感を持って授業の様子を伝えてくれた。他の授業者のどこが良くて、どこが間違っているのかを瞬時に判断し、伝えてくれた。

この状態はおよそ10年ほど続いた。向山さんのお陰で、各地の様々な人との出会いもあり、新しい刺激と共に学びの機会をいただいた。

弟子入りとまではいかなかったけれど、授業のCDも毎日車の中で聞き続け、いつしか口調までも似てきたような気がしていた。

さて、現在の新任・二年目の人達はどうだろう。
新任研修・二年目研修のレポートや出張に追われ、ろくに子どもと遊ぶ暇も取れないでいる。ましてや、休日にどこかの講演会に参加する暇さえも無い。

教員が職人芸であるならば、それは名人・先達の授業を見て真似ることから始めることになる。それは、貴重な実践練習の場であり、授業の腕を上げる鍛錬の場であろう。

授業名人といわれる人が教育界には何人もいる。しかし、ここ数年でそれら名人が次々と退職している。数年先は、現在の管理職のほとんどが一気に退職してしまう。この先5年で教員の1/3近くが辞めることになるという職場もある。

さて、現在でさえも名人芸と呼ばれる授業法の伝達ができていないのに、この先どうなるのでしょう?レポートの提出は見た目に分かりやすい研修です。けれども、私の経験からすれば、それは質の劇的な変化・向上は望みにくい。
良い実践・すぐれた授業技術を生で見、それを真似る。どこが良いのか、何がいけないのかを理論的にきちんと説明し、細かな動作一つ一つにも意味があることを伝えていく必要があると私は思う。

新任研修に、もっと現任校のすぐれた先輩の授業をもっともっと見せるべきです。その時間的余裕をください。一人の優れた授業を見ることで、二人の優れた実践家が育てば、長い目で見れば教育予算の何倍ものリターンが望めると思うのです。

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つれづれ日記 

2007年10月11日

教職は職人芸?

教員が一人前になるには何が必要でしょう?

それは、書籍を中心とした教育に関する知識を身につけること?
もし、それだけだとしたら大学卒業したらすでに一人前であると認めざるをえないはずです。(大学の教育に問題があるというなら別ですが…)

私自身の経験から言うと「知識だけでは一人前ではない」と思っています。
それは、子どもは一人として同じ子どもはいません。思考パターンだけ考えても、プラス思考の子、マイナス思考の子、不安定で状況により激しくパターンが変化する子など様々なパターンがいます。

何とか類型化しようと思っても、それは砂浜の砂粒がいくつあるか数えるような非常に虚しい仕事となってしまいます。

同様なことが医者について言えるかもしれません。
病気についての知識は大学で身につけるでしょう。けれども、何百、何千という患者を診察することにより、病気が見分けられ治療できるようになって行きます。

人間相手の職業は、基本的には「経験」によって定着し、精度を上げていくものだと思っています。それはあたかも職人芸のようです。

巷で「教育の効率化」が叫ばれ、教員の質を劇的に向上させようとしていますが、それは人間国宝を促成栽培しようとするがごとく、そもそも無理なのではないかと思っています。

経営者からすれば、少ない資本投資で収益が上がることが第一なのでしょうが、伝統芸能に近い(職人芸に近い?)教員の場合、同じ方法でうまく行くとは思えないのです。

教員一人ひとりの給与を上げずに、教員の質を上げ、人員削減すれば経営者は儲けが多くなるのですから大歓迎でしょうけれど、それはそもそも難しいのでは?
給与を上げるどころか、近年ずっと下がりっぱなしで、教職希望者も減少傾向に歯止めがかかっていない状況を正確にとらえていないと思います。

そもそも、日本は教育にお金をかけなくなりました。小泉さんがさかんに「民営化」といった辺りから、その傾向が顕著になったように思います。
安倍さんの教育改革も「お金を出さずに儲けよう」という浅はかな改革案だったような気がします。

教育にお金をかけるべきです。昔のパトロンじゃないけれど、優れた芸術家を育てるためには多少の無駄と思えるところにもお金をかけるべきです。同様にすぐれた教育実践者を育てたかったら、多少の無駄と思いながらも教育予算を諸外国並みにつけるべきです。
国からのお金を減らし、民間のお金に期待していてはいけないと思います。
民間の自由競争に任せれば、弱肉強食の傾向がいっそう激しくなり、日本の基盤から崩れてしまいますよ。

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つれづれ日記 

2007年10月09日

教育勅語の復権を

教育勅語を読んだことのある人はどれぐらいあるのだろう?
すでに失効されて(昭和23年6月19日)約60年も経っているのだから、大半の人は読んだことがないと思う。教員に聞いたところでも読んだことのある人は遠く半数にも及ばなかったから、一般の人で読んでいるのは非常に稀な例だと思う。

しかし、教育勅語に対するイメージは非常に悪い。(と私は思う)
とある教員の集まりで講演者が会場に質問したときに良いイメージを持っているのは約3割で、残りの約7割は否定的なイメージを持っていた。

ほとんどが読んだことがないのにも関わらず、イメージがこれだけ偏っているのは、何らかの先入観を与える情報があったのだと思わずにはいられない。
でも、言葉の端々(例えば「臣民」という言葉)をとらえれば、現代そのままの文として使うには抵抗のある部分もある。原文参照

しかし、その主張しているところは主として「道徳の大切さ」であり、「道義国家日本の伝統」であり、「日本国民としての誇りを継承しよう」という呼びかけを記したものであると思う。

ちなみに教育勅語で示されている12の徳目は以下の通りである。

孝行(こうこう)
友愛(ゆうあい)
夫婦(ふうふ)ノ(の)和(わ)
朋友(ほうゆう)ノ(の)信(しん)
謙遜(けんそん)
博愛(はくあい)
修学(しゅうがく)習業(しゅうぎょう)
智能(ちのう)啓発(けいはつ)
徳器(とくき)成就(じょうじゅ)
公益(こうえき)世務(せいむ)
遵法(じゅんぽう)
義勇(ぎゆう)

どれをとってもみな大切な徳目だと私は思う。現代では忘れられがちな徳目もいくつか入っている。(孝行・謙遜・修学習業・公益世務・遵法・義勇)それぞれの徳目について分からないときには明治神宮のHPを見ていただきたい。

戦後学校が抱えた問題の多く(例えば学級崩壊・学力低下・校内暴力・いじめなど)はこの徳目が身についていれば全く起こらないと言っても過言ではないような気がする。もちろん、教育勅語が制定されていた時期には、「学校では全く問題がなかったか」というとそんなはずはないのであるが、理想とする姿(望ましい姿)としては、なんら間違いではないし、それ自体軍国主義を誘発したり、助長するものではないと思う。

ここで、「教育勅語の復活を」なんて書けば、「それは軍国主義の復活だ」とか「右翼化している」と批判されかねないが、教育勅語の主張する12の徳目については、現代でもその価値は普遍であるし、教育の目的としては適切なのではないかと思う。

昨年、教育基本法が改定されたのだけれども、「これからは道徳教育をさらに重視せよ」という声が上がるのであれば、その時にはぜひとも教育勅語の12の徳目も考慮に入れて欲しいと思っている。

この12の徳目が重視され、教育に生かされるようになることが私の考える「教育勅語の復権」です。
もちろん、語句(先に出した「臣民」など)については現代に合わせるよう改定される必要はあると思いますが、国民が身につけるべき徳目としては、教育勅語の徳目を考慮して欲しいと思っています。

教育勅語を一度も読んだことが無い人は、先に示した明治神宮のHPなどで、口語訳や12の徳目だけでも、一度見ていただけると嬉しいです。

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日本が失ったもの 

2007年10月07日

愚痴の一つも言いたくなる。

ブログだから、下手な愚痴は誤解を招くからなかなか言えない。
それでも、何だか言いたい気持ちになることはある。
それは上司のことだったり、同僚のことだったり、子どものことだったり、保護者のことだったり…。

今時は、どんな仕事をしていても気を使うことが多くて大変だと思う。
責任をとれと言われるから、そんなことにならないように気を使うことが多くて大変だと思う。いろんなことを考えると、どれがベストか分からなくなって、悩み続けることも多い。

ちょっと前なら同僚と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりした時にそういった愚痴は発散できたのかもしれない。
けれども、土曜日が休みになって、一緒に食事をする機会は激減した。飲酒運転の取締りが厳しくなって(自転車でも免職になる)酒を飲む機会は激減した。

発散の場所が限られているのに(他業種の人にはプライバシーの問題があってわずかでももらすことができない)昨今は同業者ですら集うことが少なくなった。

愚痴の一つも言いたいけれど、なかなかいえない。
言わずに済む程度のストレスならば良いけれど、それが日々積み重なると放置できない量になる。
うつ病の教員が年々増えているという統計結果も発表されているけれど、そりゃそうだなぁと頷ける。

みんなはどうしているのかな?愚痴も言わずにスポーツとか読書とか睡眠とかグルメとかで発散しているのかな?
妙に一つのことにとらわれてしまう私は、ストレス発散が下手なのだろう。
あぁ、愚痴が言ってみたい。思い切り愚痴を言ってみたい。


あれ?今日の記事ってやっぱり「愚痴」ばかりですよね。

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つれづれ日記 

2007年10月05日

作文を鍛える

行事があると、子どもたちはその活動に熱中し、自ら動き出そうとする。
自分の中に眠っていたやる気が表出するときでもある。
しかし、それを記録しないとその意欲の記憶はやがて薄れ、忘れ去られてしまう。
その時の自分の姿を自分の言葉で残せたら…。

それが作文指導をしようと思ったきっかけ。
題材は行事の中にある。二学期は行事山積の時ではあるけれど、その瞬間をとらえて作文の技能をアップさせたい。

まずは書き出しをいつにするのかを考えさせたい。
いわゆる「クライマックスより書き始めよ」である。
子どものほとんどの作文は時系列で書かれている。それを変化させることを教えたい。まず、一番書きたいこと。感動の中心を表現させたい。
その後で、それに至るまでの経過を振り返らせるという手法を教えたい。

単に技巧に走るのではなく、より感動を伝えるための手段として。
行事の後の作文。それに力を入れてみたいと思っている。

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つれづれ日記 

2007年10月03日

お子様になっていないか?

最近の傾向として「学校は子どもが主人公だ」とか「子どもが主役だ」というスローガンが聞かれます。まぁ、別にそれ自体間違っているとは思わないけれど、何だか過剰に反応していないかなぁと思うときがあります。

それは行事を行うときに多いです。
例えば卒業式。
ひな壇が無い卒業式はもう10年ぐらい前から増えていると思う。上から卒業証書を授与するというが、「子どもを主役にしていない」ということらしい。
うちの学校は子どもが壇上に乗り、校長先生がフロアから子どもに卒業証書を差し上げている。

「差し上げている」とわざと書いたのだけれど、これでは「いただいた」という感情よりも「受け取ってやった」という感情を引き起こしかねないように思う。
まぁ、趣旨が分かっているならそんな誤解は無いとは思うのだけれど、上から見下ろしている子どもの姿は、私のようなものには非常に奇異に映る。
子ども自身、偉くなったような錯覚をおこしゃしないかと不安にもなる。

優勝旗の授与も同様にうちは子どもが壇上に上がり、一段高いところにいる。それを下から校長が「優勝旗を差し上げる」形になっている。
表現は適切ではないとは思うけれど、「皇帝に貢物を献上している姿」に重なって見える。どうも必要以上に恭しく扱われているように思う。

子どもは未熟であり、未来はどう変わるか分からないけれど、「今は未熟なのだ」という感覚はどこかに必要なのではないかと思う。

先の卒業式の例や優勝旗の授与の例は些細なことだけれど、子どもの心の中に「俺は大人よりも偉い」なんて感覚を無自覚のうちに芽生えさせないだろうか。

学校は「お子様」を作ってはいけないと思う。ある意味「自分の至らなさ」に気づかせ、「大人のようになりたい」「立派な人間になってやる」という意欲を掻き立てる必要があるのではないか。

そういえば、授業を見ていると意見を言った子供に「ありがとうございます」と一々お礼を言う教師もいる。なんで「ありがとう」じゃなくて「ありがとうございます」なんだ?と私は思う。(私は「ありがとう」すら言わないが…)

「ありがとうございました」なんて言った後、それが間違っている場合に「それはハッキリとした間違いです」とズバリ言えるのだろうか?私の言葉の感覚ではそれは言えない。口ごもってしまったり、非常に婉曲な分かりにくい言葉になってしまうように思う。

子どもは少子化だから大事にする。それは良いとして、過剰に敬いすぎていないだろうか?大事にしすぎていないだろうか?

子どもの人権を主張する人には受け入れられないかもしれないけれど、どうもバランスを崩しているように思えて仕方ないのです。

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つれづれ日記 

2007年10月01日

話を聞くこと

話を聞くということは、学校生活をおくる上でとても大切な技能です。
これができないと「言葉による伝達」ができないからです。

でも、最近この「話を聞く」という技能が身についていないように感じます。
つい最近というのではなく、ここ何年かのうちにじわりじわりと弱ってきて、今では「多数派」が「聞く力が弱い」状態ではないかと感じてしまいます。

昔、「耳が二つあるのに、口が一つなのはなぜだと思う?それは、自分の喋るの1つにして、人の話をよく聞きなさいということだよ」ということを言われた。
それぐらい「聞く」ことは「話す」ことより重視されていた。

最近は「コミュニケーション能力の重視」からなのか「話すこと」の重みが増えているように感じる。自分の考えを自分の言葉で話す。ということはよいことだというのは、別に疑うことも無い。
けれども、何の手本もなしに「聞き手に伝わるように話せるようになる」とは、私には到底思えない。
100以上の聞くが1の話すを支えている
そう思っている。

「静かにしなさい」「話をやめなさい」
どうも、こう言わざるを得ない状況が増えているように思う。

昔、「子どもが話を聞かないのは、話にそれだけの魅力が無いからだ」と言われたことがある。けれども、「魅力が無ければ聞かなくて良い」というのは正しいのだろうか?
私はそれは違うと思う。魅力が無くても集団でいるときには聞かなくてはいけない、静かにしなくてはいけない時があると思う。
ましてや、自分が「魅力が無い」と判断すれば他人も「魅力が無い」と判断しているのだろうか?

自分が魅力を感じなければ聞かないというのは、単なる傲慢ではないのか。
自分が話をしたいから話しかけるというのは、単なる我がままではないのか。

つまらない話でも、集団でいる場合は聞くこと。最低でも自分は話さないことがマナーではないのか。自分のクラスは、一部の子を除いてきちんとできるようにはなっていると思う。それでも、まだまだ不十分。

話を聞く。この能力の育成に小学校はもっと力を入れ、時間をかけてもいいのだと思う。そういった意味では「校長の長い訓示」にも、教育的効果があるとさえ思えてくる。(実際にはうちの校長先生の話は非常に短いです)

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つれづれ日記 

2007年09月29日

情報は疑うもの!?

昔、本が高価な贅沢品だった頃。
本に書いてあることはすべて本当だと信じていた。

少したって、週刊誌や雑誌などの安い本が増え、すぐには信じられない記事が載っている本があることを知った。

インターネットやテレビ・ラジオからの情報は無料なのに、どうして疑わないの?

周りを見わたしてみると、怪しい人間がテレビで喋っている。ラジオで語っている。
雑誌に論評を書いている。無料の情報は結構怪しいものが多い。

昔、本が貴重だった頃は、執筆者はごく一部のエリートだった。
けれども、今や書籍のライターは少数精鋭ではなくなった。
ましてやテレビ・ラジオは出ては消えるの繰り返し。

それなのに、どうして人はマスコミを疑わないのだろう。

西に不祥事を起こした警察官がいるといえば、すべての警察官を疑い。
東に不正を働いた公務員がいるといえば、すべての公務員の信用をなくす。
マスコミの意見のすべて信じて、それに過剰ともいえるぐらいに反応しているのに。

どうしてマスコミの情報を鵜呑みにしてしまうのだろう。
ただで入手できる情報ですよ。
フィルター(放送局の都合や思想)を通している二次情報ですよ。

情報教育が盛んに言われるけれど、それは「まず疑うこと」そして、「発信者を見抜くこと」が基本ではないだろうか。

疑うこと。そう、この記事が正しいかどうかはあくまでも読んだ人が判断することが大切だと思います。汝妄信する無かれ。
大人になったら、妄信することなく、気になることは自分で調べて納得していく習慣を育てたいものです。

もっとも、時間がなくて「人の頭で考える」(マスコミの情報を鵜呑みにする)方が楽で良いということもありますけれどね。

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思い出ばなし 

2007年09月27日

宿題で身につくこと

宿題はほとんど毎日出しています。
昔は宿題を出したことが無かったのですが、最近は出さないと苦情も来るような雰囲気なので他のクラスと同じように出しています。

ところで、宿題をすることでどんな力が身につくのでしょう。
漢字?計算力?

私は宿題をやることで身につくのは一番が「強い心」だと思っています。
家に帰れば、たくさんの誘惑が待っています。
マンガの本もあれば、ゲームもあります。
テレビもあれば、ビデオだってあります。

子どもは家に帰れば、たくさんの誘惑に囲まれています。
それらの誘惑に打ち勝たなければ宿題をやることはできません。

また、塾や習い事をしている子は、それらの時間を除いた時間(他の子よりも当然短い)の中から、どれかを諦めて宿題をやらなくてはいけません。

誘惑に打ち勝ち、「楽しいことややりたいことがあっても、それを我慢する」ことが宿題をきちんとやる上でとても大切なことだと思っています。

そうやって自分の心の制御ができるようになれば、「これ以上やっていたらいじめになっちゃう」とブレーキがかけられるようにもなると思います。

私の出している宿題は「その日に学習した教科書の問題をもう一回やる」など難易度的にはさほど高いものではありません。けれども、心を強くするという意味ではそれでよいと思っています。

そして、自分の心が制御できる子は、いじめたりすることも減っていくのではないかと思っています。

たかが宿題。されど宿題。
学校では決して教えられないことを、宿題で教えられるように思うのです。

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つれづれ日記 

2007年09月25日

新総理・福田さん

教員になりたての頃、政治と教育は切り離されていると思っていた。
政治が教育に関わることはほとんど無いのだと思っていた。
教育基本法は普遍であり、影響を受けないものだと思い込んでいた。

それが、間違っていたことはすぐに分かった。
学習指導要領で教える内容は次々と変化した。
今まで教えたことの無かった英語もどんどん入り、教えなければいけないことになってきた。(ちゃんとできないと不適格教員?)
コンピュータもどんどん進出し、事務処理に使うだけではなく、授業で使えなくてはいけなくなってきた。(やっぱり不適格教員?)
土曜日もあっという間に休みになった。

給料も人事院勧告の基準がスルリと変えられ、ベースアップが見送られた。
給与体系も変えられ、昇給が減った。(頭打ちの年齢が早まった)
諸手当も削られた。

これだけは変わらないだろうと思っていた教育基本法もあっという間に変わってしまった。

政治にも関心を持たなくてはいけないなぁと実感した。
けれども、デモや政治的活動などが禁止されている公務員にはどうすることもできないということもある。(このブログで政治批判などをするのは公務員としての立場での活動じゃないからセーフかもしれないけれど)

小泉さん・安倍さんの時代。いろんな人達の生活が激変した。
ワーキンブプア・ニートが出現したのもこの時代だ。

安倍さんと政治的に近い麻生さんではなく、福田さんが総裁になったのだから、ゆり戻しを期待する声もあるだろう。でも、福田さんの政策って基本的に自民党の政策であり、改革の継続で安倍さんや麻生さんとの違いが出るのだろうか?

前回、勝てないと思えたときには出馬せず、今回出馬を決めたらすぐに「派閥の結束」で当選が内定したと言われる福田さんをそのまま信じていいのだろうか?とも思う。

福田さんはチャイナスクール(親中派)とも言われている。拉致の問題にどれだけ食い込めるのか?靖国神社のことはどう考えるのか?

しかし、私が気になるのは「所得格差」「地域格差」を今のまま拡大させるのか、是正するのかです。どうしても、保護者をみていると「所得格差」のために家庭が家族として維持できない状態になっているように思うからです。

どうなっていくのか?きちんと考え、きちんと見ていきたいと思います。
そして、よりよい社会に変わるように祈りたいと思います。

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つれづれ日記 

2007年09月23日

教育と国家

タイトルがちょっと危ない感じがしないでもありません。
でも、教育って人づくりですから、どんな人(国民)を作るのかということですから、大げさに言えば国づくりの仕事が教育だと思っています。

私は『望ましい人間を育てる。』というのが、教育だと思っています。
特に小学校は学力と共に集団生活の中で生きていく方法を教える必要があると思っています。その人間によって社会の一部ができるのではないかと少し妄想しています。

けれども、望ましい人間というのが、実は難しいなぁと思っています。
私個人の考えでいけば、
社会人としてのモラルや規範意識を持っている。
っていうのが、最初に来てその後に学力とか道義を重んじるとかが出てくるわけですが、国が求める順序と親が求める順序とが食い違ったりするわけです。

給料を国からもらっていると考えれば、国の希望する順序にあわせる必要があるわけですし、税金から給料をもらっていると考えれば、納税者の希望にあわせる必要があるわけです。

最近、国というと「軍国主義」みたいに言われることがありますけれど、国が滅びると他国からの侵略に窮することになります。植民地として搾取される可能性も否定できません。

国として、どんな子どもに育てたらよいのか?
そして、目の前にいる子どもの個性をどう伸ばすのが、一番その子のためにもなり、国の利益にもなるのかを考えるのは、結構難しい作業です。

でも、それだけに人が変わっていく姿は、やりがいを感じるときでもあります。
有名人にならなくても、偉人にならなくっても、平凡な市井の人となっても、その人が幸福に暮らせるように、社会が幸福に向かうように願いながら、大勢の子どもと関わりあえる。

たまの休日になると、そんな仕事ができる幸せをふと感じます。


仕事は『原罪に対する償い』とキリスト教など諸外国では考えるようですけれど、日本人のDNAにはそういう意識は低いのではないかと思っています。
「仕事を楽しむ」「仕事の中に生きる価値を見つける」これが日本人のDNAには含まれているような気がします。

最近、西洋的な感覚で仕事をしている人が多いような気がするけれど、日本の美点であり、発展の礎ってのはここにあるように思うので、残していきたいし、受け継いでもらいたいなぁと思っています。

休日でぼんやしているので、なんともまとまらない文章でした。m(_ _)m

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つれづれ日記 

2007年09月21日

粘り強く、粘り強く

子どもは、いろいろな間違いをします。
それは未熟だからです。
でも、いつまでも未熟でいようなんて思ってはいません。成長したいのです。それが絶望的な壁があるように感じるとき、努力することを諦めざるを得ないのです。

そして、自分だけがこの惨めな空間に一人ぼっちで残されるのが嫌だから、他の子が諦めないかと待っている子が現われるのです。「お前も、こっちで遊ぼうよ」って暗い気持ちがささやくのです。

子どもは、努力した成果を感じたいのです。
自分の成長を感じたいのです。
だから、少しの成長をみつけて「ここが成長したよ」と誉めてくれる大人が大好きなんです。
成長を見つけてくれなくても、「今のあなたが大好きだよ」と自分の存在を見つけてくれる人が大好きなんです。

どこかで歯車が食い違って、うまく回らなくなることは誰にだって、どこにだってあります。
けれど、なぜ歯車がうまく回らないのか?それを考えることはプロの仕事です。
ゴミが挟まっているのか?
挟まっているならゴミを取り除く必要があります。
歯車の歯がちゃんとかみ合うようにできているのか?
かみ合わないなら、かみ合うように歯を削ったりする必要があります。

原因を見つけ、修正する。それがプロの仕事です。

家庭環境・生育暦・学年の構成・友人関係…
様々な要素をつぶさに観察し、原因を見つけていく。それは、医者の見立てのような技術が必要な仕事です。
原因を見つけ、それを修理していく。それは、技術者の修理のような仕事です。

4月から、「粘り強く」を呪文のように唱えながら、毎日を過ごしています。
1日平均3回は起こるトラブルの日々。少し良くなったかと思えば、別の問題が発生することの繰り返し。それでも、諦めない。

「あなたじゃなくても、子どもは自然に成長するもんだよ」同僚が冷ややかに笑う。
確かにそうだと思う。ほかっておいても子どもは成長する。

けれど、自分が関わることで、何か+αを育てたいと思っている。
それは単なる自己満足。
でも、それはまた、私がこの世に生きたということをDNAの記憶に刻み込むことだ。

sevenstarslight at 00:02コメント(3)トラックバック(0) 
つれづれ日記 
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