スポーツ評論ジュニア

色々なスポーツに興味を持ってます。 コメントいただけるとうれしっす。

2009年12月

小さな魔法使い

華麗な魔法とともにスキンヘッドが駆け抜ける。

今年のクラブW杯で一人の中年が躍動した。
ファン・セバスチャン・ベロン。サッカー好きでこの名を知らぬものはいないであろう。
このクラブW杯で最も目を引いた選手が彼であったと断言できる。

注目の的は間違いなくバルセロナだった。
バロンドール受賞者のメッシの人気は他の追随を許さなかった。決勝ゴールは彼の胸で決められたし、敵を背負ってなお前を向ける俊敏性は世界一の冠に偽りはなかった。
今や世界一のMFの呼び声高いシャビはバルサの中盤に落ち着きとリズムを、闘将プジョルは敵の攻撃に身を投げ出しゴールに鍵をかけ続けた。

試合も途中出場のペドロが終了間際に同点ゴールを決め、精根尽き果てた守備陣をダニエウ・アウベスの見事なクロスがメッシによって沈められた。
エストゥディアンテスも統制の取れた守備、とりわけ戦う姿勢には多くの感動を呼んだことだろう。

両チームのチームカラーを見ていると奇妙な感覚に陥った。
かつては「個人技」の南米vs「戦術」の欧州と呼ばれた。
比較的メディア露出の少ない南米勢は、持ち前の個人技で欧州をねじ伏せる。一方個人技で勝てない欧州組は個を封じるために様々なシステムを編み出し互いに切磋琢磨してきた。
しかし今年見ていると図式が大分変ったように思った。メディアの世界的拡大、スカウト網等色々要素はあるだろうが、両者の関係は逆転していた。

さて話を戻そう、ベロンである。
今大会を見る限り、彼がエストゥディアンテスの要だった。多分彼がいるといないでは相手に与える恐怖感が全然違うだろう。
彼はなにが凄いのか?
的確なコーチングで守備を統制する。正確なパスで攻撃を操る。
その両方でバルサを威圧し続けた。エストゥディアンテスの魂であり続けた。
ピッチの上では常に彼に目がいった。いい位置取りをしていた。対峙したシャビやプスケッツはやりづらかっただろう。


彼のプロキャリアはこのクラブで始まった。
父も在籍したこのクラブでメキメキと頭角を表し、強豪ボカへ移籍。すぐさまイタリアのスカウトに見染められサンプドリアを経てパルマへ。
当時強化策を取っていたパルマはセリエA でも注目されていて、事実UEFAカップを勝ち取る。
良い選手を取る文化が強いイタリアでベロンが次に選んだチームはラツィオ。
このチームは今見直すと本当にいい選手が揃っていた。
同胞のシメオネ、ネドベドやスタンコビッチ。前線にもボクシッチやサラスとリーグ制覇をするに値するチームだった。
(個人的には意外なチームが優勝したな、と思ったものだったが。)
世界一のMFと呼ばれるほどに成長したベロン。右足から繰り出される正確なパスは敵陣をズタズタに切り裂いた。

ここで幸せな2年を過ごした後に名門マンチェスターUの門を叩く。
世界有数の強豪チームに所属することとなった彼の未来は明るいはずだった。
彼を悲劇に陥れたのは怪我と、ロイキーンだった。
組織化された現代フットボールに二つの戦術はいらない。ボールハンターとして稀代の才能を魅せる二人は並び立たず、ボールを足もとで欲しがる両サイド(ベッカム・ギグス)のプレースタイルはベロンの精密なロングパスの威力を半減させた。
時を同じくして行われた02年の日韓W杯でまさかの予選敗退。グループの勝者がイングランドだったことを含めて、この時期にベロンがプレーヤーとして狂っていったのは皮肉だった。

プレミアを制しても、大富豪の力で後に成り上がるチェルシーに行ってもベロンらしさは戻らなかった。
ステップアップの地であるイタリア(インテル)に移っても輝きを取り戻せない。

末は今や2流リーグと言っていい母国へと戻っていった。新陳代謝の激しいサッカー界では「ベロンは終わった」と囁かれ、僕自身プレーヤーとして彼への関心は薄れていった。


しかし、母国で魔法使いは甦る。
エストゥディアンテスに戻った彼は慣れ親しんだ環境で伸び伸びとプレーし、南米王者に輝く。その功績を称えられ、南米最優秀選手に選ばれた。

トップアスリートにとって環境が与える影響は大きいことは当然わかっているが、サッカー選手として下り坂の年齢でこれほどまでに輝けるものなのか?
運動量は確かに落ちている、その穴を頭脳で埋める。
ポジショニングに優れ、仲間を動かす。元々ロングパスが得意なことから視野の広さには定評がある。それをうまくチームに還元し、強化していった。
右足に錆は感じない。止まったボールを蹴らせると依然世界トップクラス、ダイレクトパスの美しさはラツィオ時代のそれだった。
今や代表でもレギュラーとしてアルゼンチンを引っ張っている。

彼が今回世界的コンペディションに出て何が証明できたのだろう?
『まだまだ俺は出来るんだ。』
確かにいまだに彼が一流プレーヤーだという証明にはなっただろう。前述の長所はシャビに勝るとも劣らない。

『アルゼンチンは世界一だ』
マラドーナ監督として来年のW杯で強烈なインパクトを残す可能性は、おそらく0だ。今のアルゼンチン代表はスター軍団ではあるがチームとして機能していなく、ベロンが南アフリカの土地でジュールリメ杯に口づけする機会はないと言える。
母国愛が強い彼が世界一に飢えていたとしても不思議ではない。

しかし、彼はフットボールの魅力に改めて取りつかれ、喜びに任せてプレーしていたように感じた。
フィジカル化が進むヨーロッパサッカー。勝利に対しての多額の報酬からビジネスの要素が強くなっていることがサッカープレーヤーをアスリートへと変えていっている時代とも言える。
そんな中、いまだにテクニックが蔓延る母国に戻った彼が、プレーに対して強く喜びを感じていても不思議ではない。

逆転されても、足を吊って、苦しそうにボールを追うベロンを見て、そう思わざるをえなかった。

赤星の引退

レッドスター永遠なれ。

まさかの、引退だった。
阪神の赤星憲広外野手が異例の時期の引退を発表した。

多くの野球ファンに特大級の衝撃を与えた引退発表。
原因はやはり怪我だった。


亜細亜大で井端(中日)と1,2番を組んでいた。
JR東日本でプレーし、シドニーオリンピックのメンバーに選ばれた。
足は速いが、如何せん170?小柄の選手。しかし当時の野村監督に一芸を評価されドラフト4位で阪神に入団。

「新庄さんの穴は僕が埋めます。」(あまりに緊張して、埋められるように頑張りますというつもりだった)。負けん気の強さはプロ入り当初からあった。
有言実行、一年目からセンターのレギュラーを張り、入団から5年連続盗塁王。塁に出てなお観客に視線を注がれる、現在では数少ないプレーヤーだった。
足ばかりが注目された初期だが、その快足を生かした守備の評価も高く、バッティングも日々研究。意外に出塁率も高く、彼の成長はそのまま阪神が描く上昇曲線とも重なった。


恩師にも恵まれた。
プロに入れてくれた野村は赤星の特徴を生かすために逆方向へのバッティングや、広い守備範囲、脚力を生かした野球を徹底させ新人王へと輝かせた。
星野は赤星自身の憧れ(愛知出身)であり、気持ちを前面に出す野球観は赤星にぴったりだった。2003年の優勝を決めるサヨナラ安打の後に頭を抱えられ喜びを分かち合っている場面は記憶に残っている人も多いだろう。
岡田にはその阪神愛を注入されていた。岡田自身阪神に並々ならぬ愛情を注いでいる。上記の二人は外様であるため、阪神への想いをより強くさせてくれた監督である。




引退のきっかけとなったのは9月、横浜戦のダイビングプレーだった。
彼らしく、全力でプレーした結果の悲劇だった。

2007年に痛めた首、椎間板ヘルニアと思われたが症状が重く検査を重ねると中心性脊髄損傷の診断が下り引退という運びになったようだ。
(中心性脊髄損傷:脊髄の不完全損傷の一種で、脊髄の中心部が衝撃によって障害を受けたことによる神経の圧迫。椎間板ヘルニアは片手が痺れるのに対し、両手にしびれや何にも触れられないほどの痛みを感じるのが特徴。)
球団との覚書や引退勧告もあったようだが、結果的には自らの判断だったと考えて良いだろう。
悩みぬいたのだろう、会見では涙はなくすっきりとした表情をしていた。



彼の引退を衝撃的にさせた理由はなんだったのか。
やはりその全力プレーの印象度が大きな要因となっている気がする。


阪神は金本入団によって勝てる集団へと変わっていったと言われている。
怪我はばれなきゃ怪我ではない。その哲学のもとに彼は連続フルイニング出場の世界記録をいまだに更新し続けているが、彼の肉体に対する思いは負け慣れた阪神ナインに多大な影響を与えた。
赤星も大きな影響を受けていた。
2005年には肋骨を骨折してもすぐに復帰した。


打撃だって優秀だ。
9年間で3割越えは5度。特徴がはっきりしているため極端な守備をされてしまいながらもこの数字、野球偏差値の高さや本人の努力がよく伝わってくるデータだ。
守備でも6度のゴールデングラブ賞。肩は比較的弱かったが取ってから送球に移る動作は早く、守備範囲は球界一だった。

また盗塁数に準じて車椅子を贈っていたのは有名な話だ。
ハンディキャップに負けずに球場に来てほしいという彼の思いから始まった社会福祉活動は後にゴールデンスプリット賞として評価されることとなる。

負けん気が強くしばしばファンと口論するが、試合では全力で戦う。ユニフォームを脱げば優しい男。
ファンに愛される理由がよくわかる。


他球団の選手に与えた影響も計り知れない。

今シーズンのゴールデングラブ賞にも選ばれた谷繁捕手(中日)は赤星の足を考えて、セカンドベースの向かって右側に低い球を投げる練習を重ねたと聞く。名捕手さえも一目置く存在だったのだ。

他球団のファンにとっては厄介な存在だったにも関わらず、引退を惜しむ声があとを絶たない。




「もう一度やったら命の危険がある。」
そう言う医師もいたそうだ。
しかし彼は「後悔はしていない。野球人の本能としてやった。」

そんな愚直なまでに勝利を目指す彼の姿を見れないと思うと寂しい。
彼の定位置である甲子園のセンターで最後に行われた車椅子贈呈式では、柔和な表情を浮かべ真黒なスーツに包まれていた。

「新庄選手の穴を埋めるつもりで頑張る」つもりだった選手は、その成績を圧倒的に上回り、彼に負けないくらい甲子園で愛された。
そう、「新庄選手の穴を埋めた」以上の選手だったのだ。


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