レッドスター永遠なれ。
まさかの、引退だった。
阪神の赤星憲広外野手が異例の時期の引退を発表した。
多くの野球ファンに特大級の衝撃を与えた引退発表。
原因はやはり怪我だった。
亜細亜大で井端(中日)と1,2番を組んでいた。
JR東日本でプレーし、シドニーオリンピックのメンバーに選ばれた。
足は速いが、如何せん170?小柄の選手。しかし当時の野村監督に一芸を評価されドラフト4位で阪神に入団。
「新庄さんの穴は僕が埋めます。」(あまりに緊張して、埋められるように頑張りますというつもりだった)。負けん気の強さはプロ入り当初からあった。
有言実行、一年目からセンターのレギュラーを張り、入団から5年連続盗塁王。塁に出てなお観客に視線を注がれる、現在では数少ないプレーヤーだった。
足ばかりが注目された初期だが、その快足を生かした守備の評価も高く、バッティングも日々研究。意外に出塁率も高く、彼の成長はそのまま阪神が描く上昇曲線とも重なった。
恩師にも恵まれた。
プロに入れてくれた野村は赤星の特徴を生かすために逆方向へのバッティングや、広い守備範囲、脚力を生かした野球を徹底させ新人王へと輝かせた。
星野は赤星自身の憧れ(愛知出身)であり、気持ちを前面に出す野球観は赤星にぴったりだった。2003年の優勝を決めるサヨナラ安打の後に頭を抱えられ喜びを分かち合っている場面は記憶に残っている人も多いだろう。
岡田にはその阪神愛を注入されていた。岡田自身阪神に並々ならぬ愛情を注いでいる。上記の二人は外様であるため、阪神への想いをより強くさせてくれた監督である。
引退のきっかけとなったのは9月、横浜戦のダイビングプレーだった。
彼らしく、全力でプレーした結果の悲劇だった。
2007年に痛めた首、椎間板ヘルニアと思われたが症状が重く検査を重ねると中心性脊髄損傷の診断が下り引退という運びになったようだ。
(中心性脊髄損傷:脊髄の不完全損傷の一種で、脊髄の中心部が衝撃によって障害を受けたことによる神経の圧迫。椎間板ヘルニアは片手が痺れるのに対し、両手にしびれや何にも触れられないほどの痛みを感じるのが特徴。)
球団との覚書や引退勧告もあったようだが、結果的には自らの判断だったと考えて良いだろう。
悩みぬいたのだろう、会見では涙はなくすっきりとした表情をしていた。
彼の引退を衝撃的にさせた理由はなんだったのか。
やはりその全力プレーの印象度が大きな要因となっている気がする。
阪神は金本入団によって勝てる集団へと変わっていったと言われている。
怪我はばれなきゃ怪我ではない。その哲学のもとに彼は連続フルイニング出場の世界記録をいまだに更新し続けているが、彼の肉体に対する思いは負け慣れた阪神ナインに多大な影響を与えた。
赤星も大きな影響を受けていた。
2005年には肋骨を骨折してもすぐに復帰した。
打撃だって優秀だ。
9年間で3割越えは5度。特徴がはっきりしているため極端な守備をされてしまいながらもこの数字、野球偏差値の高さや本人の努力がよく伝わってくるデータだ。
守備でも6度のゴールデングラブ賞。肩は比較的弱かったが取ってから送球に移る動作は早く、守備範囲は球界一だった。
また盗塁数に準じて車椅子を贈っていたのは有名な話だ。
ハンディキャップに負けずに球場に来てほしいという彼の思いから始まった社会福祉活動は後にゴールデンスプリット賞として評価されることとなる。
負けん気が強くしばしばファンと口論するが、試合では全力で戦う。ユニフォームを脱げば優しい男。
ファンに愛される理由がよくわかる。
他球団の選手に与えた影響も計り知れない。
今シーズンのゴールデングラブ賞にも選ばれた谷繁捕手(中日)は赤星の足を考えて、セカンドベースの向かって右側に低い球を投げる練習を重ねたと聞く。名捕手さえも一目置く存在だったのだ。
他球団のファンにとっては厄介な存在だったにも関わらず、引退を惜しむ声があとを絶たない。
「もう一度やったら命の危険がある。」
そう言う医師もいたそうだ。
しかし彼は「後悔はしていない。野球人の本能としてやった。」
そんな愚直なまでに勝利を目指す彼の姿を見れないと思うと寂しい。
彼の定位置である甲子園のセンターで最後に行われた車椅子贈呈式では、柔和な表情を浮かべ真黒なスーツに包まれていた。
「新庄選手の穴を埋めるつもりで頑張る」つもりだった選手は、その成績を圧倒的に上回り、彼に負けないくらい甲子園で愛された。
そう、「新庄選手の穴を埋めた」以上の選手だったのだ。
まさかの、引退だった。
阪神の赤星憲広外野手が異例の時期の引退を発表した。
多くの野球ファンに特大級の衝撃を与えた引退発表。
原因はやはり怪我だった。
亜細亜大で井端(中日)と1,2番を組んでいた。
JR東日本でプレーし、シドニーオリンピックのメンバーに選ばれた。
足は速いが、如何せん170?小柄の選手。しかし当時の野村監督に一芸を評価されドラフト4位で阪神に入団。
「新庄さんの穴は僕が埋めます。」(あまりに緊張して、埋められるように頑張りますというつもりだった)。負けん気の強さはプロ入り当初からあった。
有言実行、一年目からセンターのレギュラーを張り、入団から5年連続盗塁王。塁に出てなお観客に視線を注がれる、現在では数少ないプレーヤーだった。
足ばかりが注目された初期だが、その快足を生かした守備の評価も高く、バッティングも日々研究。意外に出塁率も高く、彼の成長はそのまま阪神が描く上昇曲線とも重なった。
恩師にも恵まれた。
プロに入れてくれた野村は赤星の特徴を生かすために逆方向へのバッティングや、広い守備範囲、脚力を生かした野球を徹底させ新人王へと輝かせた。
星野は赤星自身の憧れ(愛知出身)であり、気持ちを前面に出す野球観は赤星にぴったりだった。2003年の優勝を決めるサヨナラ安打の後に頭を抱えられ喜びを分かち合っている場面は記憶に残っている人も多いだろう。
岡田にはその阪神愛を注入されていた。岡田自身阪神に並々ならぬ愛情を注いでいる。上記の二人は外様であるため、阪神への想いをより強くさせてくれた監督である。
引退のきっかけとなったのは9月、横浜戦のダイビングプレーだった。
彼らしく、全力でプレーした結果の悲劇だった。
2007年に痛めた首、椎間板ヘルニアと思われたが症状が重く検査を重ねると中心性脊髄損傷の診断が下り引退という運びになったようだ。
(中心性脊髄損傷:脊髄の不完全損傷の一種で、脊髄の中心部が衝撃によって障害を受けたことによる神経の圧迫。椎間板ヘルニアは片手が痺れるのに対し、両手にしびれや何にも触れられないほどの痛みを感じるのが特徴。)
球団との覚書や引退勧告もあったようだが、結果的には自らの判断だったと考えて良いだろう。
悩みぬいたのだろう、会見では涙はなくすっきりとした表情をしていた。
彼の引退を衝撃的にさせた理由はなんだったのか。
やはりその全力プレーの印象度が大きな要因となっている気がする。
阪神は金本入団によって勝てる集団へと変わっていったと言われている。
怪我はばれなきゃ怪我ではない。その哲学のもとに彼は連続フルイニング出場の世界記録をいまだに更新し続けているが、彼の肉体に対する思いは負け慣れた阪神ナインに多大な影響を与えた。
赤星も大きな影響を受けていた。
2005年には肋骨を骨折してもすぐに復帰した。
打撃だって優秀だ。
9年間で3割越えは5度。特徴がはっきりしているため極端な守備をされてしまいながらもこの数字、野球偏差値の高さや本人の努力がよく伝わってくるデータだ。
守備でも6度のゴールデングラブ賞。肩は比較的弱かったが取ってから送球に移る動作は早く、守備範囲は球界一だった。
また盗塁数に準じて車椅子を贈っていたのは有名な話だ。
ハンディキャップに負けずに球場に来てほしいという彼の思いから始まった社会福祉活動は後にゴールデンスプリット賞として評価されることとなる。
負けん気が強くしばしばファンと口論するが、試合では全力で戦う。ユニフォームを脱げば優しい男。
ファンに愛される理由がよくわかる。
他球団の選手に与えた影響も計り知れない。
今シーズンのゴールデングラブ賞にも選ばれた谷繁捕手(中日)は赤星の足を考えて、セカンドベースの向かって右側に低い球を投げる練習を重ねたと聞く。名捕手さえも一目置く存在だったのだ。
他球団のファンにとっては厄介な存在だったにも関わらず、引退を惜しむ声があとを絶たない。
「もう一度やったら命の危険がある。」
そう言う医師もいたそうだ。
しかし彼は「後悔はしていない。野球人の本能としてやった。」
そんな愚直なまでに勝利を目指す彼の姿を見れないと思うと寂しい。
彼の定位置である甲子園のセンターで最後に行われた車椅子贈呈式では、柔和な表情を浮かべ真黒なスーツに包まれていた。
「新庄選手の穴を埋めるつもりで頑張る」つもりだった選手は、その成績を圧倒的に上回り、彼に負けないくらい甲子園で愛された。
そう、「新庄選手の穴を埋めた」以上の選手だったのだ。
Buffaloesファンとして、友人との付き合いで甲子園に行っても、素直に応援できる選手でした。
僕の友人女性もしたことがあるほど、合コン好きだったそうですが、暫くは身体をゆっくり休めて欲しいです。