総選挙、戦争のことなど (5号あとがき)



▷一〇月二二日におこなわれた総選挙の結果について考えてみたい。

   森友・加計学園問題で嘘に嘘を重ねてきた手負いの安倍と追随するグズ官僚たちにたいする大衆の批判がまきおこり、自民党は大敗するかにみえたが、結果は総議席数四六五のうちの六割以上の二八四議席を取る「圧勝」という結果になった。それを受けて安倍は、自分たちの政策が支持され、「安定的な政治基盤の下で、政策を、ひたすらに実行せよ」という国民の信託を得た、という勝利宣言をした。ほんとうは、これで森友・加計学園問題がゆるされ、北朝鮮との戦争に国民の信任を得たといいたいのだろう。

   だが、安倍・自民党がうそぶくほど、大衆は安倍・自民党を圧倒的に支持したのだろうか。べつの数字を挙げてみる。全体投票率は約五〇%。自民党が、投票に行かなかった有権者も含めた全有権者から得た票数は(絶対得票率は)小選挙区が約二五%(四人に一人)、比例区では約一八%(五人に一人)だ。

   これを、町内会規模の、顔を見知った一〇〇人くらいの集団に置き換えて単純化してみる。だいたい二二人くらいが支持しているが、ほかの二八人は支持していないし、残りの五〇人は意思表示していないことになる。意思表示しないということは、だれが政治をやっても白けきった現実は変わらないと考えているか、政治に無関心であるか、政治家に信を置いていないということだ。さらに、支持していると意思表示した二二人ほどの人びとが、表向きは支持しているだけで、心の中では「政治家というのは人間性を棄てたクズのような人物がなるもので、ほかにいないから、自己の財産を保全してくれるなら自民党でいい」と考えているとすれば、いわば「絶対支持者」は限りなくゼロに近づくのではないか。それでも、自分たちは圧倒的な支持を得たと言い得るかどうか。自分たちで気づかないだけで、ほんとうは決定的な不信にさらされているのではないか。これはたんに偏った空想から言っているのではない。思想的な観点から言っているのであって、このほうが現実を言い当てていると思う。むしろ、為政者が「自分は圧倒的に支持されている」と考えているとすれば、それこそが都合のいい空想であり、「自分を疑っていない」という宗教的な蒙昧をあらわす以外のものではないのだ。

   たとえば、為政者が、だれか一人を死地に送りだすことになったとき、そんなことが自分には可能なのかというギリギリの自問に直面するだろう。つまり、自分は指一本動かさないで、利己的にではなく、他者を死地に追いやることが人間にはできるのだろうかという問いだ。この問いは《政治》過程において究極で突きつけられている問いだ。なぜなら《政治》は《戦争》の問題を避けられないからだ。安倍・自民党といえども、この問いを抱えていると思う。もちろん答えは「だれにもそんなことはできない」ということになる。そんなことをすれば、自分の人間性がまず崩壊するだろう。もうひとつの答えは「自分が先に死地に赴く」ということだ。

   そして為政者がそこまでギリギリ《考えること》をしていれば、もしかしたら一人くらいは支持者があらわれるかもしれない。つまり、為政者が「死地に行ってくれ」という指示を発したとき従ってもいいという者があらわれるかもしれない。もし《政治》過程において支持者が一人でもいれば、たいしたもんだということになり、支持されるということはキツイことでもあり、支持するということもまたキツイことだ。ほとんどの場合、自分が「死地に行ってくれ」という指示を為政者からうけたとき、こんなやつのために死ねるか、ということになると思う。この考えによれば、現在、自民党のほんとうの支持者は一人もいない、ということになる。

   なぜこんなことをいうのかといえば、この自問をくぐらなければ政治の(死滅の)ヴィジョンを思い描けないと思えるからだ。そしてこの自問は、考えることも口に出して言うことも禁忌にちがいない。

   もちろん、現在の安倍・自民党にそこまで《考えること》をしている人物がいるとは思えない。野党にもいない。むしろ《考えること》はよけいなことであり、ただ選挙に当選し多数をとることだけが眼目だ。《法》によれば、そのことによって政治権力を牛耳り、行使することができることになっている。そして、だれかを死地に送ることになったとき、自分は指一本動かさないで、共同規範・法にのっとって送り出せばいいのであって、人間にそんなことができるのかという自問は、はじめから回避できる。

   だから安倍・自民党の機能論理にとって唯一の現実は、全体四六五議席のうち二八四議席を取ったということだけであり、絶対得票率が二〇%であるとか、五〇%は意思表示していないということは関心の外にある。というよりも、意思表示しない沈黙する五〇%は存在していないに等しく、意味のない存在だ。また、当選した政治家の人間性はどうでもいいことであり、意味のない事項なのだ。

   だが同時に、ここに支配者(の思想)の大きな錯誤があり、支配者にとって永遠に解けない問題がある。意思表示しない半数の人びとは意味のない存在ではなく、重要な意味をもった存在であり、人びとの遥か上層に覆いかぶさる法・国家が、人びとの生活からあまりにも遠いために、意思表示が届かないと感じ、通じないと考えているのだ。また、法・国家が善くなったり悪くなったりしたところで、自分たちの日々の生活にはなんの関わりもないし、だれにも頼らず自力でやってきたし、やっていこうと考えているのだ。つまり、意思表示しないというのは、覆いかぶさる法・国家に対する、千数百年にわたる大多数の人びとの不信のあらわれであり、遥か上層にのっかっている法・国家がどのように転変しようと関知しないというのは、大多数の人びとのしたたかな自己防衛のあらわれともいえる。重要なことは、意思表示しない沈黙する大多数を《啓蒙》することではなく、その沈黙のなかへ思想として降りてゆくことだ。

   ここ十数年、民主党が政権を取ったときを除けば、総選挙の全体投票率は六〇%を切り、五〇%台の前半で推移している。この趨勢は続くだろう。わたしは無投票を勧めているわけではない。自然史的な趨勢だといっているのだ。これが四〇%に近づき、三〇%に近づき、自民党の絶対得票率が一〇%に近づいたとき、明治以降、壊滅的な戦争に導き、復権し、連綿と続いてきた保守支配層はあわてふためくにちがいない。一〇人のうち一人しか支持者がいないのに圧倒的多数の議席を取っていることが不可解だと、自分たちで気づき、すべての有権者によっても気づかれるだろうからだ。


▷安倍・自民党は五人に一人の割合でしか票を得ていないにもかかわらず、六割以上の議席を確保し、一党独裁政を着々と築いている。表向きは、個々のフトコロが潤うような耳ざわりのいい経済政策を言いふらし、裏では、憲法九条の非戦非武装条項をなし崩しに無効にし、集団的自衛権を法制化して、「国家の存立危機事態」という妄想に引きずられて「有事」を日本国周辺から世界大に拡大して自衛隊を地球上のどこへでも派遣できるようにし、米軍の世界戦略に属国のように従っている。また、警察・検察権力、司法権力、行政権力、経済権力を人事権をテコに牛耳って、あたかも、もうひとりの全能の皇帝のように振る舞っている。そして、膨大な数の官僚(僧侶)たちは誰も異を唱えることをせず、人間性を失った宦官のように安倍・自民党に唯々諾々としている。そのあらわれのひとつが森友・加計学園の問題だ。まさに、日本国は沈みつつある泥舟のようにみえる。また、この情勢に大衆は表向きははっきりとした異議をとなえないで同意しているようにみえる。

   この情勢を「特異な民主主義」「立憲デモクラシーの危機」としてとらえ、民主主義を守るためには、得票数と議席数をバランスのとれた相関にするための仕組みをつくり、憲法違反である首相の(憲法七条による)衆院解散権を制限することがまず必要だと、内田樹は「サンデー毎日」に書いている。そして「立憲デモクラシーという社会契約」が社会に根づいていないことが根本の問題だといっている。また、どこかで「天皇制民主主義」が日本では現実的かもしれないと述べているのを読んで、びっくり仰天したことがある。内田樹ら「知」を重んじる者にいつも感じるのは、どこまでが本気なんだ、ということだ。内田の考えを進めていくと、投票を棄権している五割の人びとは自民党の独裁を利することになることに気づかない、無知で蒙昧な人びとだということになり、啓蒙すべき対象だということになる。ここが自らの精神性が貧弱になる最大のポイントであり、根っこに大衆蔑視がちらついている。

   中野重治の小説『村の家』(一九三五年発表)に、転向して(再び政治活動をしないという上申書を提出して)故郷の村に帰ってきた息子・勉次を老いた父親・孫蔵がたしなめる場面がある。

   …どこぞの誰某は「政友会」にはいっていずれは大臣になるだろうが、人間を捨てているだけだし、群がるのはダニみたいな連中だ。社会には過酷な貧困があり、共産党ができるのもわかるが、レーニンを持ってきても天皇の魅力にはかなわない。おまえが捕まったと聞いたときには、死んで帰ってくるものと思った。「機屋の五郎さん」は我が子を殺して、刑を勤めあげて帰ってきた。おまえは人の子を殺したよりももっと悪いんだ…。

   なぜ孫蔵は勉次が死んで帰ってくるものと思ったのか、なぜ、人の子を殺したよりも勉次は悪いのか。おそらく、勉次は、孫蔵の無意識の強固な禁忌、地方の村に連綿と伝わる禁忌に抵触したのだ。その答えを『村の家』は書いていない。勉次は存在が試される何かに直面して震えている。孫蔵のなかには牢固として動かない岩のように頑迷な大衆がいる。この頑迷なしたたかな大衆は選挙になると「政友会」に投票するかもしれない。だが、「政友会」を支持しているとは言いきれない。また、戦争が始まると赤紙一枚で出立するかもしれない。だが、孫蔵は無知でも蒙昧でもない。無知なのは勉次だ。もし、この孫蔵の像をとらえ、揺さぶることができれば、思想としては勝利なのだ。


▷安倍・自民党は、それが国民の生命財産を守るゆいいつの道だという途方もない嘘を弄して、しだいに北朝鮮との戦争に国民を導こうとしている。八月の末、衆院解散の直前、早朝六時前後に北朝鮮のミサイルが北海道の「上空」を飛び、襟裳岬のはるか東方の海に落ちた。Jアラートなるものが東日本に発令されて、東日本の津々浦々でけたたましい街頭放送が流され、新幹線や列車が止まった。するとその数分後にスーツとネクタイの安倍首相がテレビカメラの前に立って、「これまでにない深刻かつ重大な脅威が高まっている。政府としては、強固な日米同盟の下、いかなる状況にも対応できるよう緊張感を持って、国民の安全、安心の確保に万全を期す。国際社会と連携し、北朝鮮に対するさらなる圧力強化を強く求めていく」という声明を得意げに発した。

   またNHKは、ヘルメットをかぶったアナウンサーが襟裳岬の突端に立って、ミサイルが落ちた方向を指差しているニュースを何度も流した。

   その後、いくつかの詐術が明らかになった。ひとつは、日本の上空を通過したといっても、それが八〇〇キロの高度だったことだ。この高度は真空の宇宙空間で、人工衛星が航行している空間だ。つまり、あたかも住民の上空をミサイルが飛来したかのごとき言い方は虚言であり、「深刻かつ重大な脅威」は妄想であるか作為だということだ。またひとつは、襟裳岬のかなたに落下したといっても、陸地から一〇〇〇キロ以上離れた海上だったということだ。もうひとつは、首相官邸はミサイル発射の情報を事前につかんでおり、その日は未明から国家安全保障会議の面々が顔をそろえていて、「国難」を煽る首相の声明も周到に準備されていたということだ。

  九月には、トランプが「北朝鮮への軍事的選択肢はすでに準備され、実行されれば北朝鮮は壊滅的な結果になる」と警告すると、安倍は「脅威は差し迫っており、対話ではなく圧力しか残されていない」と追随した。つまり、安倍は自力で解決できないから、トランプにひれ伏してしっぽをふり、軍事行動を促しているのだ。トランプが安倍の横に立って「アメリカは日本と一〇〇%共にある」と言ったことが、そんなに嬉しいか。日本はアメリカの属国であることを世界中に知らしめた恥ずべきことではないのか。

   わたしたちは、ニュースソースをもっているわけではないから、国家とマスコミ(とりわけNHK、讀賣、産經など)が流す大本営発表のような情報に振り回されることになる。あたかも、《悪》なる北朝鮮のミサイルが我が地域住民に向かって発射され、《善》なる日本国と同盟国アメリカの軍事力がこれをいつでも迎撃し、国民の生命財産を守っているという虚構にすりかえて世論をミスリードしようとしているが、この「国難」は安倍・自民党にとって選挙を有利に進めるうえで都合のいいものであり、むしろ「国難」は安倍・自民党によってつくられたものだ。つまり、わたしたち地域住民はミサイル爆撃にさらされるべきいかなる原因もつくってはいないのだ。もちろん、北朝鮮の地域住民も爆撃にさらされる原因をつくっていない。原因をつくりミサイル爆撃を呼びこんでいるのは、軍事力(その象徴としての核爆弾)を至上物として信奉するキム・ジョンウンであり、アベ・シンゾウであり、トランプら支配者だ。

   アベは二年ほど前に安保法制を説明するときに、たとえ話をつくったことがある。性悪で乱暴者のAがいて、Bはいつも脅かされている。CはいつもBを陰に陽に守ってくれていた友人だ。AがCに襲いかかったとき、Bはどうするか、何もしないのか。Cになんらかの加勢をするのが友情というものではないか…。正確には思い出せないが、こんな感じだった。現在なら、Aは北朝鮮あるいはキムに、Bは日本あるいはアベに、Cはアメリカあるいはトランプに置き換えればわかりやすいだろう。まるで中学生のケンカのような論理であり、どうしようもなく幼稚なのだ。

   決定的な錯誤がある。個人と個人のケンカと国家と国家の《戦争》はまるで別次元であり、《戦争》では支配者は指一本動かさないで、《法》にのっとって命令するだけで兵士を死地に送り出す。しかし、兵士はロボットではないから、支配者の意思と兵士の意思は同調しないかもしれないのだ。しかも兵士は共同規範以外にほんとうは敵あるいは敵国の地域住民を殺戮するどのような根拠ももっていない。敵国の兵士が自国兵士を殺戮する根拠もおなじようにもっていない。たとえば、自分の父や母のような敵国住民を殺戮できるのかという問題に直面するだろう。そんなことが人間(兵士)にできるのか。つまり、支配者の意思と兵士・地域住民の意思は逆立しているのだ。だから、兵士あるいは地域住民が戦争に駆り出されるべき根拠はどこにもなく、戦うべき根拠は支配者同士の幼稚な意思のなかにしかない。

   支配者は指一本動かすこともないが、生き死にするのは兵士であり、敵国であれ自国であれ、爆弾の下には無辜の人間がいる。どのようなことがあっても《戦争》は回避するのが万人の利益にかなう。そこで空想してみた。日本海の巨大艦船の甲板の上で、幼稚さにおいて似た者どうしのキムとアベとトランプが《武器》(その究極の象徴としての核爆弾)に頼らず、単独で時間無制限の論戦あるいは肉弾戦を思うぞんぶん滅ぶまでやればいいのだ。観客は誰もいない。きっと愉快にちがいない。


▷やはり二年ほど前、国会での安保法制の審議のなかで、「徴兵制の復活」について問われた安倍は、「徴兵制は憲法違反だから、復活することはない。現代の戦争は高度な精密兵器によるものだから、人数がいればいいというものでもなく、その点においても徴兵制の復活はない」と答えた。わたしは啞然とした。啞然としたのは「現代の戦争は精密兵器によるものだ」と平然と言ってのけたことに、だ。精密兵器が炸裂する直下には生身の人間がいるというリアリティの想像力が欠落しているのだ。それを実行すれば相手は死ぬということが分からずに、徒党を組んでそれを実行する小中学生と変わりない。また、ゲームのうえでの殺戮と実際の殺戮との違いが分からない小中学生と変わりない。この幼稚さはキム、トランプ、アベらに共通したものだ。そして、この血が通っていない冷酷さ、幼稚さが、戦争への閾値を極端に低くしている。


▷森友学園の籠池夫婦がいまだ大阪拘置所の独房に拘置されている。すでに四か月を超えている。保釈しない言い訳は「証拠隠滅のおそれ」だ。報道等によれば、籠池夫婦は黙秘を続けているという。

   おそらく昨年まで籠池夫婦は安倍を崇め、安倍のためなら命を投げ打ってもいいと考えていた数少ない支持者だ。言動を見ていると、籠池夫婦はちょっと変わっている好人物と思えた。森友学園の教育勅語を唱える独特の教育に賛同し、シンパシーを寄せた安倍と首相夫人もまた何くれとなく世話をやいて「安倍記念小学校」建設はとんとん拍子で進んでいった。ところが、何かをきっかけにして関係が暗転し、安倍は籠池のことを「しつこい」と評し「嘘つき」呼ばわりをしはじめた。そして、安倍に都合の悪いことを発言しつづける籠池を身ぐるみ剥ぎ取って逮捕投獄し、助成金を騙し取った詐欺罪という罪を着せて黙らせている。これは安倍が直接、間接に最高権力者としての威力を警察・司法権力に及ぼしたものだ。「司法の独立」など空文にすぎない。先の総選挙前には安倍は籠池のことを「あの人は詐欺を犯した人物」とまで言っている。いけしゃあしゃあとはこのことだ。

   もちろん、森友学園小学校建設と助成金交付に安倍あるいは夫人は陰に陽に加担したのだ。籠池夫婦に罪があるなら、安倍夫婦にも罪がある。これに関わったグズ官僚たちは「証拠を隠滅」し、自分を保身するために白痴のように見ざる言わざる聞かざるを決め込んでいる。

   何が言いたいのかといえば、人はこんなふうに他者を裏切れるのか、人は心を痛めずにこんなことができるのか、人間性をいったいどこへ棄ててきたのだ、ということだ。この、おぞましく、酸鼻をきわめる事態は、個々の資質にもよっているが、《国家という宗教》が酸鼻をきわめ、崩壊に瀕していることのあらわれだ。同時に、《民主主義という宗教》が無効であることを意味している。

   なにゆえに、人間性を棄てた幼稚な人物が物言わぬ大衆の上に、不可解にも、皇帝のように君臨し得ているのか、その構造を、《蜘蛛の巣のはった部屋で寝転がりながら》うがちつづけることだけが何事かなのだ。

(一二月八日 )

 

   




   









続・最後の場所5号 2017年の年末に出ます

続・最後の場所5号   2017年の年末に出ます


マチウ書試論をめぐって  4                    

~ドストエフスキーの「大審問官」について~         菅原則生      

 (41ページ)

増補改訂『吉本政枝  拾遺歌集』その二(全二回 ) 宿沢あぐり  

 (34ページ)

後記   総選挙、戦争のことなど(7ページ)             

計82ページ    A5判    800円

京都・三月書房、新宿・模索舎などで

4号からの抜粋ーー少年たちの殺傷事件について

   夜更けに、家にも学校にも居場所のない、精神のすさんだ少年たちが、グループをつくって人けのない河原に集まって、特定の少年をからかい、いたぶり、あげくに無惨に殺傷してしまうという事件がたびたび起こる。背景にある社会の病い、家族の病いをどこまでさかのぼれば事件の根底にふれたことになるのか、とてもむつかしい。マスコミでコメントを述べている有識者は、ただじぶんの人の良さを言っているだけで、うすっぺらな饒舌よりも沈黙のほうがひとを慰めるものだということを知ったほうがいいと思う。マスコミや有識者はじぶんを安全圏に置いてすぐに、被害者または加害者の家庭環境の(精神的)貧困や個々人の精神の病いを根掘り葉掘り追及しはじめる。そして加害者の少年を悪の画像で塗りこもうとする。だが、この少年たちの殺傷や被殺傷は、個々の精神の病いや家庭環境の貧困に還元できないのだ。

   深夜の河川敷というのはいったいどういう場所なのだろう。ひとびとが寝静まり、遠くに走る車の明かりがみえ、月明かりがわずかに足もとを照らしている。野生の小動物の目が草むらのなかでときおり光る。都市の近傍にあるのに、いわば、社会の制度的なもの、道徳的なもの、その追跡からもっとも離れた地上の果てであり、現在では、そんな場所は深夜の河川敷しかないのかもしれない。そして、家や学校や社会で居場所をなくした、心のすさんだ少年たちは、ふきよせられるように深夜の河川敷に集まり、いわば秩序の外側に夢うつつの秩序をつくって遊んでいる。ここで少年たちは無上の解放感や自由感を体験し、また特異な約定をつくり価値観を逆さまにして、じぶんの社会における関係の現実、家族における関係の現実を切断し回避して、死と隣り合わせの無上の団結と連帯感を体験している。

   けれども、この無上の閉じられた観念の共同性の連帯感に波風がたち、ささいな行き違いが起きると、一瞬のうちに血みどろの諍いに発展することになる。なぜならば、個人が、共同性としての個人であり、同時に自然性としての個人、個人としての個人であることが、至上物としての共同性に対する精神的な《裏切り》になるからだ。

   もうひとつある。ひとつの共同性が他の共同性と対立したり、重なったりして、外側から追いつめられたとき、個々のあいだの関係は変貌し、ピリピリし、お互いを猜疑する共同性の崩壊過程に一瞬にしてはいっていく。たとえば、少年Xが寂しがりやで、Aなる共同性の一員であり、かつBなる共同性の一員であったとしたら、少年Xは、Aなる共同性とBなる共同性が対立したり重なったりしている境界の上をあやうく右往左往している存在になる。このとき、少年Xがじぶんが置かれている立場に自覚的になることは、ほとんど不可能だ。なぜならば、世界の一級の思想でさえこの問題を解き得ずに見てみぬふりをしているからだし、少年たちは幼く、聖なる存在だからだ。そして少年Xは身に覚えがないのに《スパイ》や《裏切り者》とみなされて殺傷の対象になっていく。殺傷するほうもされるほうも、感情をもち肉体をもった個人としての個人ではなく、感情も肉体ももたない共同性としての個人だ。

   このことは大人たちが社会において、また世界中の国家と国家が、無意識のうちに大なり小なりやっていることであり、その凝縮された図なのだ。

   一九七〇年代の初めに、わたしたちと同世代の青年たちが連合赤軍なる共同性を組んで演じた集団リンチと、少年たちの無惨な殺傷の構造は同じだ。また、数十年前に、わたしたちの父や祖父が、紙切れ一枚で死地に駆り出されて(繰り出して)行き過ぎた狂暴性を発揮し、支配層が戦争の敗北を宣言し、武装解除の命令を発布するやいなや、狐憑きが落ちたみたいに嬉々として帰郷していった我が兵士たちの《豹変》、昨日までの総玉砕を覚悟した戦争が夢であったように平和を謳歌しはじめた大衆の《豹変》の構造とも同じなのだ。

オウム真理教、森友学園のことなど 4号の抜粋

▷オウム真理教事件から二十二年になる。いちぶの遺族が麻原たちの死刑執行を自分の目で見られないのは納得できないから、死刑が執行されるときは事前に連絡し、立ち会えるようにしてほしいと、法務省に要望しているという。また、弟子たちが先に死刑執行されるのは不合理であるから、麻原をまず最初に死刑にするべきだという有識者がいる。正気の沙汰ではないと思う。

   近親者がたまたま地下鉄に乗っていてサリンによって死亡したことで、癒しがたい悲嘆にくれ、遺族が麻原たちを憎悪することと、死刑の執行に立ち会えるよう法務省に要望することは、まったく次元の違うことだ。また、誰を先に死刑にするべきかを法務省の審議官(僧侶)になったみたいに論議するのは倒錯の極致だ。この人たちが権力を握ったときのことを想像すればいい。

   麻原たちへの死刑という判決が不服であると言っているわけでもないし、麻原の精神はすでに崩壊していて人間の体をなしていないから刑事責任能力がないという意見にくみしているわけでもない。そうではなくて、一生活者がすっと支配者の位置に、あるいは支配者に準ずる公的な位相に移行してしまうことがだめだと言っているのだ。

    遺族は執行に立ち会えば気がすむのかもしれないから、云うことが憚られるが、大切なことなので云わねばならない。また、通じるはずもないから、これは独り言にしておいたほうがいいかもしれない。

   法や国家を善なる至上物とする考え、法や国家を憧憬する考えはすべてだめだ。一生活者の考えから法や国家を至上物とする考えに、階段をのぼるように上昇していくとき、多くの短絡や夢うつつや逆立ちや飛躍を経ているのだが、その過程を消去しているのだ。ほんとうは、一生活者の考えと法や国家を至上物とする考えは《逆立》している。《逆立》とは、自らを束縛し抑圧する法や国家を、知らずしらずに支える自己矛盾のことだ。もっとも抑圧された者が、不可解なことに、その抑圧する法や国家に知らずしらずにもっとも加担しているという、悲しい自己矛盾(倒錯)のことだ。

   最近の裁判員裁判や、検事の隣に被害者の遺族が座って被告人に質問することができるようにした制度など、とても違和感をかんじる。社会を自分たちで守る意識を醸成すること、加害者(鬼畜)に極刑をという被害者遺族の欲求を吸い上げているのだろうが、背景には支配的秩序の社会のすみずみに至るまでの貫徹という支配層のあやしい動機がある。そしてその向こうにあるのは、法や国家を絶対善の至上物と考える意識と無意識だ。この動きに抗うのはとてもむつかしいとおもう。

   先日、巨大な街頭テレビジョンで「テロ防止」のキャンペーンをやっているのをみた。爆発物らしき不審なバッグが人混みの道端に置いてあるのを見つけた若い女性に、ナレーターが呼びかける。「あなたの通報する勇気が命を救う」ーー。たしかにそれで被害を防げればいいと思う。だがこれは、あやしい人物を見たら通報する勇気、あやしい考えをもつ者を見たら通報する勇気をだして、という煽動と地続きだ。

   公務員は国民のしもべだという言い方がある。だが、公務員は国家のしもべというもうひとつの貌をもつ。どちらがほんとうの貌なのだといえば両方ともほんとうの貌なのだ。例えば役所に行ってあれこれと手続きするとき、公務員が親切に教えてくれることがある。けれども自分の土地に軍事基地をつくるというので反対の座り込みをしていると、屈強な機動隊員(公務員)が暴力的に棍棒を持って追い立てる。この機動隊員は悪虐非道にみえる。しかし、彼らの内部では無矛盾なのだ。なぜなら、国民のしもべというのは 《宗教》であり、《宗教》の内部で国家権力のしもべにいつでも転換するからだ。つまり思考停止と飛躍が起こっているからだ。

   敗戦から七十年を過ぎて戦争を知っている人が少なくなっている。それは、人間は《とりかえしのつかないこと》をいとも簡単にやってしまうことができる存在だということを知っている人が少なくなっていることを意味している。

《戦争になれば自分を殺すことも相手を殺すことも応えはしない》

   一九七五年に埴谷雄高と対談した折の吉本の言葉だ。戦争世代は、愉快なこと、楽しいことがあっても心から自分を解放できずに鬱屈や暗さを抱えこんでいる世代だともいえる。だから、酷い事件や《とりかえしのつかない》事件が起こると、戦争世代はその根底におのずと思考を巡らせることができたともいえる。

  なにか事件が起こると、法よりも先に寄ってたかって犯人を鬼畜あつかいし、厳罰に処すべきだとして社会から隔離し排除しようとする風潮は、戦争世代が少なくなっていることと関係があるような気がする。また《自分を殺すことも相手を殺すことも応えはしない》戦争というものの根底を、多くの人が考察し形にしていれば、もう少し現在の情況は変わっていたのではないかと思う。


▷死刑判決を受けて拘置中の土谷正実が、判決後も麻原への帰依を表明しつづけてきたが、麻原が精神病を理由に裁判を回避しようとしているのではないかと思うようになり、麻原への批判を表明するようになった、という記事を読んだ。麻原は死刑判決を避けるために、責任を弟子たちに押し付け、詐病を演じて逃げようとしている、と土谷は考えるようになったというのだ。長いあいだ、強いられた死と向き合いながら、三畳ほどの独房に拘禁されていることを考えれば無理もないと思うけれど、それでは通俗的な転向と同じになってしまう。麻原にたいする信が《裏切られた》と考えたとき、一転して帰依の感情が憎悪に変わったということだと思うが、ほんとうは、生死をかけた信の共同性が崩壊するときの普遍的な問題が個々人に突きつけられているのだ。麻原が詐病をえんじているかどうかはどうでもいいことだ。ただ、《自分を殺すことも相手を殺すことも応えはしない》ということを、なぜ《共同性として》おこなったかが問われるべきなのだ。それ以外に自分の現在を識知することはできない。麻原に、どうしてくれるんだ、卑怯じゃないか、という憎悪をぶつけても、何も解決しない。

   わたしにも同じような経験がある。一九七六年ころ、内ゲバに終始し、大衆から不信の目でみられ、何もすることがなくなり、指導者が共同性から降りたと宣言したとき、指導者を卑怯だと思い、憎悪し、追跡したことがある。指導者が蒙昧であったかどうかが問題ではない。蒙昧だったのはわたし自身なのだ。そのことに気づくまでずいぶん時間がかかった。そして、吉本の敗戦の体験もこれと同じではないかと考えている。

▷大阪の森友学園がらみの報道がさわがしい。日本の政治権力の中央委員会にいる連中の人倫性というのは酷いものだというのが、今さらながらのだいいちの感想だ。自分に累がおよび、政治生命が脅かされるとなると、平気で嘘つき呼ばわりし、裏切り、突き落とす。今に始まったことではないが、それが如実に現れたのが三月二十三日の国会での証人喚問だ。籠池が、安倍昭恵夫人から「安倍晋三からです」と言われて百万円の寄付を受け取ったと証言したとき、自民、維新の議員がざわめきたった。もしこれがほんとうなら、昭恵夫人つきの役人が籠池に送った文書の存在とともに、安倍内閣が吹っ飛ぶには十分だから、安倍とその一党は最高権力をかさにきて、自己保身のために、懸崖に立たされた手負いの籠池の言動を封じ、籠池が《嘘つき》であることを印象づける質問をやつぎばやに発した。維新の最後の質問者は、「きょうの発言を後悔することになるだろう」と恫喝した。

   しかし、わたしには、信義を捨てて自分を裏切った権力者たちと命がけで対峙しようとしている籠池が嘘をついていないことはすぐにわかった。嘘をつかなければならない必然性もない。もちろん嘘をついているのは昭恵夫人であり、昭恵夫人の言い分を信じなければ存在根拠がなくなる安倍とその一党だ。けれども、昭恵夫人は、社会の役に立ちたいだけの、暇をもてあました、明治以降の大ブルジョワジーの娘にすぎない。

   今年の二月くらいから、教育勅語を子どもたちに唱えさせる神がかった幼稚園があり、その学園が安倍晋三の名を冠した小学校をつくるというのでマスコミを賑わせるようになった。その小学校の用地に国有地が破格の値段で払い下げられ、その過程が追及されると財務省の担当者は契約交渉の記録はすべて破棄してしまったと言う。非凡な大学をでた官僚たちは国民のしもべであることを装う国家のしもべであり、自己保身のためならプライドも人倫も捨てて平気で人を裏切ることは初めからわかっていたから、驚くことではない。それよりも、わたしの関心をひいたのは、教育勅語を唱えさせるこの学園と、安倍および(維新をふくめた)その一党が数年前から蜜月状態にあり、その蜜月状態がどこかで壊れ、瞬く間に敵対し憎悪する関係になったことだ。おそらく籠池は、最高権力者安倍とその一党から赦され相通じる関係にいたのだが、何かを契機にして関係が《豹変》し、安倍とその一党から籠池は赦されない《鬼畜》とみなされたのだ。そのことを籠池は、「安倍首相が自分のことを(国会で)しつこいと言った」ことでショックを受け、空気の流れが変わったと感じた、という言い方をしていた。それまで安倍とその一党は、教育勅語を唱えさせる森友学園の教育に感動し、シンパシーを寄せ、隠然たる信の共同性を形成し、籠池側からみれば、昭恵夫人が学園の講演会でしゃべり、名誉校長になり、「神風が吹いた」ようにとんとん拍子でうまくいくようになったと感じていたが、とつぜん暗転しはじめた。最高権力者とその一党は、籠池を嘘つきにしたて、悪者にして切り捨てようとしはじめた。大阪府は小学校開設の認可を取り消し、虚偽の申告をしたとして立ち入り捜査をし、国は助成金の返還と土地を更地にして返すよう迫り、建築業者は籠池の自宅の土地家屋の差し押さえを申請している。籠池は身ぐるみ剥がされて刑事告発されている。政治権力者とその一党は、プーチンやキム・ジョンウンやシー・チンピンやトランプらのファシストをまつまでもなく、平気で冷酷無惨なことをやるだろう。

   籠池が「命を捨てて世の中のためになろうとすることのどこが悪いんですか」とTVカメラに向かって言っていたのが印象的だ。もちろん、どのような宗教であれ、信奉すること自体は自由だ。私立小学校をつくって信奉者の子弟を集めて、私的に「皇祖皇宗が国をはじめ……緊急事態が起これば臣民は公に奉じ……」という教育勅語を唱えさせることも好きにしたらいいのだ。ただ、国が私的な宗教にお墨付きを与え、支援することが問題であり、明るみに出るやいなや、知らぬ存ぜぬで《恥》に蓋をし切り捨てようとしていることが問題なのだ。国民の生命財産を守るべき最高権力者とその一党が、自分たちに逆らっただけで、公然と精神的なリンチをおこなおうとしていることが問題だ。

   南の国境線で威嚇する中国の軍隊の動きをいいことに、あるいは逆に、国境線で中国の軍隊を自らすすんで刺激し、北朝鮮はサリンを持っていると煽動し、憲法改正、治安維持法の復興、皇国日本の再興を憧憬し、権力をほしいままに行使する安倍とその一党が《戦争ごっこ》をやっている。人間の平等とは何か、自由とは何かを考えたこともない、幼稚なファシスト権力者が、なにゆえに民衆の上に君臨し得ているのかを徹底的に考える好機でもある。

   安倍とその一党が夢見る《憲法改正》という《革命》が成就し、神の国、美しい国が成就したとき起こるのは、裏切りと背信と精神的なリンチであり、現在の森友学園問題はその象徴だ。そして、《自分を殺すことも相手を殺すことも応えはしない》戦争というものを知らない権力者と視姦症のような目をした一党、それを憧憬するファシスト行政官僚たちの信の共同性の《戦争ごっこ》を幼稚な《恥》にしているのは、皇国への信が消滅し、朕も臣民もいなくなった戦後七十二年の、民衆が蓄積してきた沈黙の時間だ。


▷英国のEU脱退、米国でのトランプ政権の成立、人類の壮大な希望の実験にみえるEU消滅の危機など、《国家》が熱狂し、歴史が刻々と戦争前に後退している。殺傷も被殺傷も応えはしないという最終的な《宗教》が世界史の前面にせりだしているようにみえる。

                        四月七日、菅原記


 



映画『ハンナ・アーレント』について 3号からの抜粋

   知られているように、ハンナ・アーレントは一九〇六年生まれのドイツ出身のユダヤ人で、三〇年代半ばにナチスによるユダヤ人根絶計画がはじまるとフランスに亡命し、フランスがナチス・ドイツによって攻略されるとアメリカに亡命して、戦後、ドイツにもどらずにアメリカの大学で政治哲学を教えるようになる。
   映画(二〇一二年公開)は、戦後十数年経った一九六〇年ころ、百万規模のユダヤ人を殺戮するために強制収容所に移送する統括責任者だった《戦争犯罪者》アドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報機関によってアルゼンチン・ブエノスアイレスで拘束されたというニュースがアーレントのもとにもたらされるところからはじまる。イスラエル・エルサレムで行われることになっているこの戦争犯罪を裁く法廷と、《極悪》をなしたアイヒマンとはどんな人物なのかを自分の目で見たいと考えていたアーレントに、折りよくザ・ニューヨーカー誌から、この裁判の傍聴記を書くことを依頼される。
   映画では、裁判の場面は実際の記録映像が挿入されている。ここでエルサレム法廷の裁判官は執拗に、百万規模のユダヤ人を強制収容所に送りこみ殺戮した《極悪》に積極的に加担したアイヒマンの精神の内面の《悪意》を立証しようとするがうまくいかないで、苛立っている。これに対してアイヒマンは、裁判官の質問の意味が何のことかわからないとでもいうように、自分はただ命令に従っただけであり、命令に従うことが自分の仕事だった、悪意はあったともなかったとも言えないというように繰り返し答える。アイヒマンは裁判官の質問に対して意図的にはぐらかして答えているわけでもなければ、自分を偽って答えているわけでもない。裁判官はアイヒマンに、あなたに良心はないのか、良心によって自分のなした《極悪》を恥じることはないのかと聞きたいのだ。そして、アイヒマンから悔い改めの言葉を聞きたいのだが、アイヒマンは、良心がないとは言えないが、それよりも自分は、官僚として命令に従順だっただけであり、国家への裏切り者であれば親を処刑することにも加担しただろう、つまり、戦争中にみんながそうであったように、自分もそうであったと言いたいのだ。戦争が自分にとって受難であったように、いま囚われて戦争犯罪を問われていることも受難だと言いたいのだ。そして、自分に罪があるとすれば、命令に従順だったことだというように答える。
   これを傍聴したアーレントは、百万人規模の人間の殺戮を担った《極悪》をなした人物の《鬼畜》のイメージと、実際に目の前にいる、どこにでもいる凡庸な小官僚のイメージの差異に愕然とする。そして、国家・民族による大量殺戮、《絶対悪》としてのファシズムは、《鬼畜》のような人物によって担われるのではなく、自分が何を行ったのかについて思考することを停止した、いかにも凡庸な、どこにでもいる個々人によって担われるものであり、思考能力を欠如させた平凡で陳腐でうすっぺらな《悪》の総和によってなりたっているという、絶望にも似た結論にたどりつく。
『ザ・ニューヨーカー』にこの裁判の傍聴記を発表したアーレントは、ユダヤ人社会から総批判をあび、旧くからのユダヤ人の友人がアーレントから離れていく。その原因のひとつは、ナチス・ドイツの、あるいはアイヒマンの《極悪》を、どこにでもある陳腐な《悪》と評したことが、あたかもアイヒマンを擁護しているとみえ、ユダヤ人のアイヒマンに対する憎悪の民族感情を逆なでしたことだ。もうひとつは、ユダヤ人を強制収容所に送りこんだナチス・ドイツに加担したユダヤ人リーダーがいたという事実にアーレントがふれたことが、ユダヤ人を貶めるものだとして優越的な民族感情の逆鱗に触れたのだ。
   映画は後半で、アーレントのもとから去ってゆくユダヤ人の友人との葛藤と、アーレントの傍聴記に反発する俗悪な大学当局から辞職を勧告されたことに対して果敢にたたかうアーレントの姿が描かれる。大学当局から辞職を勧告されたあと、学生にむかって講義する場面がこの映画のひとつのクライマックスだ。アーレントは学生にむかって言う。ナチス・ドイツによる、人類史において稀にみる《極悪》としての大量殺戮は、ひとにぎりの悪の権化のような人物によって担われたのではなく、思考能力を欠如した、ありふれた人間のうすっぺらで凡庸な悪の総和によって担われたのであり、この《極悪》に抵抗し、超えていくためになしうることは、ねばり強く思考すること、思考することをやめないことだ、と。そして学生から熱い拍手を受ける。
   わたしたちは、このあたりからこの映画にちぐはぐな印象を受ける。たしかにアーレントがアイヒマンにみた凡庸な悪、そして巨大な残虐非道はありふれた小役人のような陳腐な悪の総和からなっているという洞察には知のきらめきを感得することができる。だがそれは《往きがけ》での知のきらめきだ。映画制作者は、アーレントの知のきらめきが旧くからのユダヤ人の友人との離反をもたらし、大学当局の俗悪な対応をもたらし、孤立してもなおファシズムを超えようとする自説を曲げないで果敢にたたかうアーレントの姿を描きたかったのかもしれない。けれど、自説を貫くことによって友人たちと離反することも、大学当局から辞職を勧告されることも決定的な孤立ではない。孤立にはちがいないが、友人を離反することもされることも、また辞職を勧告されることも、ひとびとはみんなやってきたし、日常茶番時のことだ。その意味では映画制作者には、孤立を嵩上げしようとする通俗的な甘さがあるようにおもえる。
   問題はアーレント(あるいは映画制作者)が《極悪》としてのファシズムを超えるイメージを持ちえたかどうかだ。つまり、思考することを停止した凡庸な悪を自身が超えられるかどうかだ。そして、結論からいえば、アーレントには超えられないとおもう。それをあらわしている場面が、映画の結末ちかくで出てくる。アイヒマンの絞首刑が執行されたというニュースを聞いたアーレントが「当然だ」とつぶやく場面だ。どうして当然なのかがよくわからない。アーレント自身によってもよくわかっていない。ここでアーレントは気づかないで、自ら思考を停止して通俗化し、凡庸な悪そのものと化しているのだ。知はほんとうはこの問題に答えなければならないのに、知識人アーレントは自分を棚に上げ、回避しているのだといっていい。つまり、アイヒマンの《絶対悪》に対峙しているアーレントは、自らを無意識のうちに《絶対善》の立場におき、ちょうど自身を《絶対善》の立場に置いたそのとき思考停止し、《絶対悪》に転化しているのだ。あるいは、自身を《凡庸な善》の立場に置いたそのとき《凡庸な悪》に転化しているのだといっても同じだ。
   アーレントがいま、わが国の知識人のあいだでどう評されているのかわたしは知らない。懲りずに奴隷根性を発揮して欧米の知にあこがれ、後追いし、知的に上昇して競り合いを演じている陳腐な姿が想像される。アーレントがアイヒマンの《極悪》と対峙し考察した《凡庸な悪》という言いぐさはわるくないのだ。だが、それはアーレントの《凡庸な善》がそう言わせているだけだ。自身の《悪》もアイヒマンの《悪》も貫いて超えていくイメージはない。わたしたちは、はるか彼方の西欧の《戦争犯罪者》の《極悪》の根底に考察をめぐらせる以前に、数百万のひとびとが死んだ日中戦争、太平洋戦争の《絶対善》と《絶対悪》に思考をめぐらせるべきだ。現に敗戦後、国際裁判により戦争指導層が有罪になり《戦争犯罪人》として処刑されている。また東南アジアの戦争の現地では報復として大勢が処刑されている。アーレントのようにいえば、その処刑は「当然だ」ということになるのかどうかだ。わが国の知識人がアーレントの言いぐさを口真似するとき、それはただ、時代情況から身をそらした知ったかぶりにすぎないのだ。
   わたしたちの体験にそくしていうならば、連合赤軍事件があり、オウム真理教事件がある。かれらがなした《極悪》にたいして死刑という判定がくだされ、わたしたちはそのことが「当然だ」と言い得るのかどうかだ。これは、人は人を裁けないといったヒューマニズムのことを言っているのではない。もっと日常にひきよせて、微細な自己や他者の《悪》や《罪》についてどう考えるか、《罰》がくだされたとして、それは「当然だ」と言い得るのかどうか、ほんとうは何もわかっていない。思想としては、公的なすべての処刑・殺戮を正当化するどのような根拠もないと言えるだけだ。

映画『カッコーの巣の上で』について 続・最後の場所2号の抜粋

▪️ 映画『カッコーの巣の上で』について
   映画『カッコーの巣の上で』(一九七五年公開)は、六三年にアメリカでベストセラーになったケン・キージーの小説が原作。ケン・キージーはのちに、ヒッピー・コンミューンの創設者になる。映画監督はプラハの春を経験し、アメリカにやってきた、当時新進気鋭のミロス・フォアマン。父母はナチス・ドイツによって殺されたとウィキペディアにある。
   ジャック・ニコルソン演じるマクマーフィが、刑務所での強制労働をのがれるため気ちがいのふりをして、精神病院に連れてこられるところから映画ははじまる。マクマーフィはどこか野蛮で、あけっぴろげでずる賢く、表面だけ鷹揚な病院長や精神科医よりはるかに人間味にあふれている三十歳代前半の魅力的な男として描かれている。そして、結末でマクマーフィはこの病院の《ルール》に反抗しつづけたために、罰として脳の一部を切除される手術をうけ、植物状態にされることになる。     
   この映画は強烈な印象をあたえる。ひとつは、人間が精神病院にはいり、醒めた目でその内部でだけ流通する《ルール》に異議をとなえ、《ルール》から逸脱したならば、かえって精神に異常をきたし、廃人にされてしまうのではないかということだ。また、精神病院から出る(治る)ということは、この《ルール》に馴致し、疑問をもたず、廃人になったときではないかと思わせる。もうひとつは、この病院の《ルール》を巫女のようにつかさどる婦長ラチェッドを打倒し超えてゆく論理を、いまだ誰ももっていないのではないかということだ。誰ももっていないというのは、入院者の誰もという意味と、この映画をみている誰もという意味だ。婦長ラチェッドは《ルール》を恣意的に変更したり、つくったりしている、いわば《ルール》そのものであり、入院している人間の生存を包括し牛耳っている絶対的な存在だ。だから、入院者が《ルール》に違反したとき、いいかえればラチェッドの恣意にふれたとき、ラチェッドにあやまらなければ生きていくことそのものが危うくなってしまう。
   マクマーフィは入所するとまず院長の診察(面接)をうける。面接は世間話をするだけで友好的におこなわれ、マクマーフィはまだ彼らが生殺与奪の強制力をもっていることを知らないため、労働を強いられる刑務所よりもちょろいものだというふうにあなどる。それから、日課として、効用もわからない薬をのまされ、なんのためにするのかわからない五、六人によるグループセラピーがはじまる。そんな日々がくりかえされるうちにしだいにセラピーメンバーの、婦長ラチェッドにもくもくと服従する、幼児的に退行したようにみえる人となりが見えてくる。そして、グループセラピーの司会をやり、全体をいつも監視している、祭司のように振る舞う婦長ラチェッドに反抗の気分をもつようになる。マクマーフィの奔放な言動はしだいに、グループセラピーの仲間たちの好奇心を呼びさまし、巻きこんでいく。
   ある日、退屈なグループセラピーなどはやめて、みんなで野球のワールドシリーズをテレビで観ようとマクマーフィが提案する。ラチェッドは民主主義的に多数決で決めることにする。みんなはワールドシリーズを観たいのだが、ラチェッドに遠慮して観戦に賛成することをためらう。ためらいながらもセラピーグループのメンバーは賛成し、いったんは賛成多数となるのだが、ラチェッドはこの病棟にはほかにも患者がいるから、その患者たちも入れて改めて決をとろうといいだす。遅れて聾唖のインディアンの大男チーフが賛成にまわり、ふたたび賛成多数になるのだが、ラチェッドは、採決は時間切れだから観戦の案は否決されたと言う。
   しばらくしたある日、マクマーフィは病院のレクリエーション用のバスを乗っ取り、みんなを乗せて外界に遊びにくりだす。マクマーフィは女友達をよび、クルーザーを “チャーター” し、釣りをし、酒を飲み、狂喜して遊ぶだけ遊んだあと意気揚々と病院に帰ってくる。マクマーフィの処分がラチェッドや院長たちによって審議されるが、処分は猶予されることになる。また、ある日、グループセラピーのメンバーのチェズウィックが、自分の煙草は自分のものなのに、なぜ自分の自由にできないのかとラチェッドに抗議する。ラチェッドは、煙草でカード賭博をやりマクマーフィがすべてを巻き上げているから、煙草を与えないのはチェズウィックのためだという理屈を行使する。チェズウィックは納得せず、そこから反ラチェッドの小さな暴動に発展する。暴動は警備員たちによって鎮圧されるのだが、首謀者のマクマーフィとチェズウィック、チーフは《罰》として電気ショックを受けさせられる。婦長ラチェッドはなぜか機嫌がよかった。そして、病院から出るためにはラチェッドたちの《許可》が必要であり、一生ここから出られないこともありうることを知るようになったマクマーフィは、これまで聾唖のふりをしていたチーフに、ここから脱出しようともちかける。
   脱出の計画はクリスマスの夜に実行されることになる。ラチェッドたちが帰った深夜にマクマーフィは女友達に酒をもってこさせ、夜勤の警備員に酒を飲ませてたらしこんで眠らせたあと、マクマーフィたちも酒を飲み、どんちゃん騒ぎをする。そのあと脱出するはずだったが、若い患者ビリーが女友達に好意をもっていることを察したマクマーフィは、ふたりを個室に入れて行為が終わるのを待っているうちに自分も眠りこんでしまう。夜があけラチェッドや警備員たちが出勤してくると、マクマーフィたちは泥酔したまま眠っていた。そして、個室のベッドには裸のビリーと女友達が寝ていた。ラチェッドはビリーに、このことを母に告げると言うと、直後にビリーはグラスの欠片で首を切って自殺してしまう。ビリーにとって、母にこのことを告げられることはなぜか恐怖だったのだ。ラチェッドもそれがビリーの病根であることをよく知っていたことになる。怒ったマクマーフィがラチェッドの首を絞めて殺そうとすると警備員たちに拘束される。マクマーフィは精神が凶暴であるということになり、ロボトミー手術をされて廃人になってしまう。病室から廃人になって戻ってきたマクマーフィをインディアンの大男チーフは枕を口に当てて窒息死させる。殺すということが友情の証しであり、マクマーフィの魂を自分のなかに取りこむことであった。そして、水道とシンクを床から怪力ではずし持ちあげて、それで壁を打ちやぶり、ひとり(マクマーフィの魂とともに)、自由に向かって精神病院から逃走してゆく。水道とシンクを床からはずして持ちあげられた者はここからズラかることできるというマクマーフィの言葉を実行したのだ。
   この映画はじゅうぶんに興味をひきつける。だが、聾唖のふりをしたインディアンの大男が壁を破って逃走することに自由を象徴させている結末に、わたしは不満だ。原作者も映画の制作者もほんとうの自由とはなにかを構想することにおいて結末で飛躍しているのだ。つまり、婦長ラチェッドとラチェッドに象徴される秩序と秩序の守護者を打倒し、超えてゆく必然性の像をつくり得ていないといっていい。
   映画制作者を駆り立てているのは、自身と近親を蹂躙し、二十世紀を翻弄し席捲したロシア・ファシズムとドイツ・ファシズムを超えようとする意思であることは明白のように思える。《ルール》を恣意的につくり、警備員を配して人間を監視し、密告を奨励し、違反するものはロボトミー手術によって脳の一部を切除するという倒錯した強固な蒙昧性・閉鎖性は、ふたつのファシズムに共通するものであり、司祭のようにふるまう婦長ラチェッドの存在は、そのファシズムを象徴し、映画制作者の思想を凝集させた存在だ。いっぽうで、映画原作者を駆り立てているのは、ふたつの巨大なファシズムが霧となって社会に撒布されたように、管理が緻密になり、規範が社会のすみずみまで浸透し、人間が人間を隔離し、収容し、追放し、処分する、六〇年代アメリカの乙に澄ました市民社会の秩序を超えようとする意思であり、精神病院の婦長ラチェッドの存在は、市民社会の息詰まる秩序を象徴し、原作者の思想を凝集させた存在だといっていい。その意味では、原作者と映画制作者の、時代のもっとも険しい意思がまれに出遭ったところで生まれた映画だという気がする。
   どこが不満なのかといえば、《ルール》そのものと化したラチェッドの存在を存在たらしめているもの、あるいは、ラチェッドに生殺与奪の規範力を賦活させている秩序をささえているものは(それが強大な国家的な制度としてあらわれようと、小さな共同体のうえに霧のように撒布されてあらわれようと)架空の《観念の共同性》であり、喋る意志を封じたインディアンの大男が壁を打ちやぶっただけでは打倒することも超えることもできないということだ。いいかえれば、野性人マクマーフィもインディアンの自然人チーフも、そのままではラチェッドに象徴される秩序に包括されてしまうだろうということだ。もっといえば、マクマーフィもチーフも積極的にか消極的にか、いずれはラチェッドになってしまうかもしれない。それだけではない。ラチェッドもまた、はじめからラチェッドであったわけではなく、かつてマクマーフィであったかもしれないのであり、ラチェッドは一瞬にしてマクマーフィに転落することがあるかもしれないのだ。
そしてまた、この映画を観ているわたしたちが、マクマーフィの脳の一部を切除する秩序の側の勝者として君臨するラチェッドに暗い反抗の気分をもち、ラチェッドの人格を疑い、マクマーフィや大男チーフにシンパシーをよせたとしても、現実の秩序のメカニズムのなかではわたしたちもまたラチェッドの分身だということはありうるのだ。もちろん、マクマーフィやチーフの分身だということもありうる。意地悪なみかたをすれば、映画制作者たちの集団の内部にもラチェッドがいてマクマーフィ、チーフがいる。いうまでもなく、ヒッピー・コンミューンの内部にも。
   わたしはこの映画を深読みしているのだろうか。映画制作者たちは、この映画は娯楽作品であり、秩序の側に立つものはいつも勝利し、秩序に反逆するものはいつも無惨に敗北するという赤裸々な現実の断面を描きだし、勝者ラチェッドにたいする嫌悪の感情と、敗者マクマーフィたちにたいするシンパシーの感情を観客から引きだせばそれでじゅうぶんだと言うかもしれない。そして、観客もまた、これは娯楽作品であり、インディアンの大男チーフが壁を破り、走り去ってゆく姿に、秩序と抑圧から解放された像を感得すればじゅうぶんだと言うかもしれない。その意味では、この映画はうまくいっているのだ。だから、ここから先はわたしの独白だということになる。

ユダの《裏切り》をめぐって 3号からの抜粋

▪️ジュドの《裏切り》をめぐって

《よく知られているように、ジェジュの死は、ジュドの裏切りによって媒介される。人間心理の陰惨さに通じていた原始キリスト教は、迫害からくる被害感によって、裏切りの暗い心理をよく知っていて、それをジュドという架空の人物に負わせる。ぼくは、ジェジュを裏切るジュドの心理のなかに、人間の負わされている秩序からの被害心理をよみとり、それを造型化しようとする文学者の、甘ったれた根性を信じない。ジュドという人物はユダヤ教の象徴であり、マチウ書の作者の真意は、まず何よりも、原始キリスト教を迫害し、秩序にうりわたしたユダヤ教という周知の公式を造型することであった。》(『マチウ書試論  1 』)

   ジェジュに神との約定による死が近づいている。あるいは、生き急ぎ、死にたがっているジェジュ。そしてジェジュとその一党はユダヤ旧教の強固な秩序から追跡され、ジェジュ殺害の計略が迫っていた。ジェジュは使徒に、わたしの名のために家や兄弟姉妹、父、母、子、畑を棄てるものは幸福であり、永遠の生命を受け継ぐだろう。新しい世界が生まれたとき、わたしについてきたものは十二の栄光の座に就くであろう。それはとても困難で、神にはできるが、人にはできないであろう、などと説いている。
   マチウ書二十六章の十四に挿入されたジュドの裏切りは唐突だ。いきなり、ジュドなる使徒がジェジュ殺害の策略を練る大祭司や長老たちのところに出向いて、ジェジュを引き渡せばいくらくれるかときりだす。大祭司たちは銀貨三十枚を支払う。時が近づき、ジェジュと十二人の使徒が過越の食卓についているとき、ジェジュは、このなかにわたしを裏切ろうとしているものがいる、それはおまえだとジュドを指さし、そして言う。「おまえは生まれてこないほうがよかったのだ」と。一同がゲッセマネというところに移動し、使徒たちが寝静まったころ、大祭司たちから遣わされた、剣や棍棒をもった大勢の人々がジュドに引率されてやってくる。逮捕されてユダヤ旧教の法廷に引き渡されたジェジュは、神の子をかたり、神を冒瀆したかどにより死刑判決が下されると、ジュドは自分の犯した《罪》を後悔し銀貨三十枚を投げ捨て、首をくくって死んだとマチウ書に書かれている。
   わたしたちは、ある強い思考パターンに馴らされているために、この裏切り者ジュドの強い伝染力をもった《極悪》の像、《罪》の像を打ち消すことは困難な気がする。そして、この像はほんとうは作為されたものではないかという疑いをもつ。また、ここには、マチウ書の作者の、あるいはジェジュの人間に対する侮蔑、悪意のようなものを感じないわけにはいかない。
   ジェジュが、いっさいの所有を棄てたものは幸福になり、永遠の生命を得るだろうなどと言っても、信じるほうがおかしいのだ。家や畑を棄てたものが幸福になれるとしたら、それは信じることを信じる、あるいは、思考することをやめて飛躍するという夢うつつの心的状態でしかなりたたない。けれども、人間はいっさいを棄てて神になろうとすることをやめることもできないし、そのことを誰も止めることはできない。生身の人間である使徒はいつも信と不信のあいだを揺れ動き、神の子であるジェジュは旧約聖書の言葉にしたがって殺害され復活することを約定づけられた生を人形のように生きている。いっさいを棄てようとしている使徒たちは、父や母や子から地上に引き止められ、ある場合は背信に遭い、警察に通報されたりしていた。ジェジュもまた、使徒の背信に遭い、警察にいつ通報されてもおかしくない状態におかれ、使徒たちに対する逆の信と不信のあいだを揺れ動いていた。教団の内部で信と不信をめぐる陰湿な激しい争闘があり、反逆する原始キリスト教の共同性と支配的なユダヤ教の共同性のあいだで血で血を洗う激しい争闘があった。つまり、いつでも内部に向かってと外部に向かって根深い相互不信、相互に猜疑することが潜在していて、それが《裏切り》として顕在化することは日常のことであった。
《裏切り》は、教団からみれば、個々の心のなかで不信が兆すことから、近親者と親しげに話すこと、異教徒と親しげに会話すること、金銭を受け取って内部の秘密を通報することまで、さまざまなバリエーションで存在した。そして、心のなかで小さな不信が兆すことが、金銭を受け取って秘密を漏らすことと同等かそれよりも重い《罪》であることはありえたのである。なぜなら、いっさいを棄てたものが幸福になるという信の共同性に対して背いたか否かが《罪》の基準だからだ。ジェジュがユダヤ教の法廷で死刑を言い渡されて処刑場にひきたてられようとしているとき、群衆のなかのひとりの下女がピエルを指さして、「あの人はジェジュと昨夜いっしょにいた人だ」と言ったときピエルは「わたしはジェジュを知らない」と否定したという挿話は、心のなかに兆した不信がジュドの裏切りと同等の《罪》であることを示そうとしている。
   ジュドやピエルはじっさいに存在したのかといえば、無数に存在したのだ。信の共同性のもとにある個々の人間は、父であるか母であるか息子であるか娘であり、また身体的な自然性を断ち切れないない存在であり、その意味では天上の信の共同性に対して誰もが背信、不信であらざるを得ない存在だ。いいかえれば、天上の信の共同性に対して誰もが《罪》であらざるを得ない存在であり、誰もがジュドでありピエルであり、またジェジュであらざるを得ない。あるいは、個人のなかに、ジュドがいて、ピエルがいて、ジェジュがいるともいえる。そして、個々の人間が《罪》を背負っているとすれば、神にはできるが人間にはできないという、その人間であるがゆえであり、個々の人間に過失や罪があるからではなく、ただ、信の共同性を至上のものとする共同の観念にのみ根拠をおいている。だから、信の共同性が終わったところ、消滅したところで《罪》もまた消滅する。おまえは生まれてこないほうがよかったなどというジェジュのふざけた物言いもまた根拠を消滅させる。
   ユダヤ教の大祭司のところにとつぜん行って、銀貨三十枚とひきかえにジェジュを売り渡し、十二人の使徒との過越の晩餐のときジェジュに「わたしはジェジュを裏切っていない」と嘘を言い、大祭司たちから遣わされた群衆を引き連れてジェジュの逮捕を先導するジュドの《極悪》の像は、なぜか先験的な強迫性をもってわたしたちに迫ってくる。だが、その像は、わたしたちが長いあいだ馴らされてきた思考のパターンによるものであり、思想の問題として、ほんとうは打破すべきものだ。
   ジュドの《極悪》の像は、天上の信の共同性に違背し、信の共同性の禁制に触れたことからやってくるというところにだけ本質をもっている。問題は、ジェジュを売り渡したことにあるのではなく、《おまえは生まれてこないほうがよかった》というふうにジュドの抹殺に向かっていっせいに共同性として熱狂することだ。いいかえれば、原始キリスト教の絶対善の共同性が、ジュドのありふれた小さな悪をとらえて《おまえは生まれてこないほうがよかった》というように絶対悪の共同性に変質することが問題なのだ。ほんとうはジュドは、少し税をごまかしている程度の人の好い民衆のひとりだったかもしれない。《極悪》の像にしたてたのはマチウ書の作者であり、ジェジュだ。
   マチウ書には、ジュドがなぜ大祭司のもとに行き、ジェジュを売り渡すことになったのか書かれていない。マチウ書の作者にもジェジュにも、ジュドがなぜ裏切ったのかが分からないから書かれなかったともいえるが、マチウ書にとってはジュドの《裏切り》の強い像を描けば充分だった。ジュドが大祭司のもとに行き、ジェジュを売り渡す約束をしたあと舞いもどり、過越の食卓についているとき、ジェジュは十二人の使徒たちに言う、「このなかにわたしを裏切ったものがいる」と。つまり、ジュドが大祭司のもとに行き、銀貨を受け取って裏切った場面を見てもいないのに、ジェジュはそれを《察知》する。ピエルが三度ジェジュを否認する挿話もそうだ。使徒たちと過越の食卓についているジェジュがピエルに、「あすおまえは鶏が鳴く前にわたしを三度否認するだろう」と言って、ピエルの裏切りを《予知》する。ジェジュがなぜ《察知》または《予知》したのかといえば、ユダヤ旧教の共同性に取り囲まれ迫害されつつある原始キリスト教の共同性が崩壊の危機にひんし、個々の信徒の自己不信、相互不信がきわまり、個々の精神がそのことに堪えられなくなって、過度に敏感になっているからだ。そして、ジェジュは神との約定として、異教徒から迫害され、信徒たちの背信に遭い、十字架にかけられて殺害されることが既に決められているからジュドとピエルの裏切りを《予知》するのだが、それだけではない。《まむしの血族》たるユダヤに通じたジュドの行動を《察知》し自死に追い込むことによって、また、ピエルの背信を《予知》することによって、原始キリスト教の共同性を崩壊の危機から救出し、その共同性の《垂直性》を一次元上昇させ飛躍させようとしているのだ。その意味でジュドは、ユダヤに通敵する不信・背信を象徴する架空の人物として、ピエルは原始キリスト教に対して心のなかで不信をくすぶらせるものの象徴として虚構されたのであり、そのことによって、個々の信徒の内面への支配を確立しようとしたのだ。そして、のちに原始キリスト教がローマ帝国の国教となり、政治権力とむすびついたとき、もっとも過酷に異教徒と不信の徒を、絶対善の名のもとに殺戮することになる通路を踏み出したのである。
   わたしたちはいったい何に当面しているのだろうか。直截にいえば、《裏切り》ははじめから存在しないのではないか。二〇〇〇年前に原始キリスト教が《裏切り》と《罪》という虚構をつくって以降、わたしたちの思考は馴らされ、翻弄されてきたのではないか。ジュドはいったいなぜ、銀貨を受け取り、ジェジュの居場所をユダヤの大祭司に教えたのか。わたしたちは、あるいはジェジュたちは、事実をつなげ推論をまじえて、《罪》がどこにあるかを詮索し裁こうとする。だが、真に到達することは永遠にないだろう。なぜなら、ジュドを問題にしているのに、そこにはジュドはいないし、はじめからジェジュたちにとってジュドの他者性は存在していないからだ。そして、なぜそんなことをしたのかはジュドに聞いてみなければわからないのだ。はたしてそのことが、生まれてこないほうがよかった、つまり死に値することなのか。むしろ、ジェジュを裏切ったのはジュドではなく、原始キリスト教の共同性であり、ジュドは《裏切り》《寝返り》を象徴する人物として原始キリスト教が必要としたのだ。因果を逆にすれば、極悪の像にまつりあげられたジュドは原始キリスト教の共同性から裏切られたのだともいえる。
   ジュドがユダヤ教の大祭司にジェジュの居場所を告げたのは、銀貨三十枚のためではない。それは誰にもわからないのだ。銀貨三十枚のために通敵したと推論したのはジェジュたちであり、マチウ書の作者だ。わたしたちは、自分が他者を裏切ったという感情や意識、あるいは自分が他者から裏切られたという感情や意識を無化すべき課題に当面しているのだ。また、それらを無化しうる最終的な場所をもとめているのだといっていい。

吉本隆明はオウムを “擁護” したのか?

《2015年の初夏に『宗教問題』という雑誌の編集者に質問を受け、答えたものを以下に掲出します。》

   一九九五年九月五日。オウム真理教による地下鉄サリン事件から約半年が過ぎ、麻原彰晃以下の教団幹部もおおむね逮捕きれ、世間がやや落ち着きを取り戻していたそのとき、産経新聞の夕刊に衝撃的な記事が掲載される。「麻原被告を高く評価 犯罪は否定、宗教は肯定」―。
  
   そんな見出しで、宗教学者・弓山達也氏のインタビューを受けたのは、「戦後最大の思想家」とも呼ばれた、評論家の故・吉本隆明氏(一九二四~二〇一二)であった。
「僕は今でも(略)麻原さんの存在を重く評価していると思います」「麻原さんはマスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「僕は現存する仏教系の修行者の中で(麻原)は世界有数の人ではないかというくらい高く評価しています」。こうした吉本氏の発言に批判が殺到。「吉本隆明はオウムを擁護している」と指弾された。
 
   ただサリン事件前にオウムを擁護した文化人は山のようにいたが、吉本氏のように事件後に “擁護” の声をあげた文化人は少なく、また吉本氏はその後もこれらの発言に対して謝罪や撤回などをしなかった非常に珍しい存在である。いったい吉本氏の “擁護発言” の背後にあった思いとは何だったのか。生前の吉本氏と交流のあった菅原則生氏に聞いた。(聞き手・本誌編集部)


ーー本題の前に、吉本隆明さんと菅原さんのご関係について教えていただけませんか。



菅原 私は一九七〇年代の学生運動のひとつの党派だった共産主義者同盟叛旗派というグループのメンバーでした。ここのリーダーと吉本さんは六〇年代から親交があり、叛旗派で主催した講演会などに、吉本さんはよく来ておしゃべりしていました。そんな流れの中で、いつのまにか書店に吉本さんの本が並ぶのを心待ちにするようになっていました。それから失業していたころ、迷惑も顧みずにご自宅へうかがうようにもなりました。吉本さんと交流があったというよりも、私はただ吉本さんを困らせていただけだったのかもしれませんが。

ーー菅原さんご自身は、いまから二十年前のオウム事件というものをどのようにながめておられたのでしょうか。

菅原 一九七〇年代の学生運動の最も過激な部分を、一次元おし進めてしまったという感じを持ちました。彼らの中に自分の一部分を見たようでもあり、動揺しました。
 
   ご存じの通り、一九七〇年代の学生運動は、連合赤軍というものを生み出し、殺人を含む陰惨な内ゲバに終始し、ひとつの終幕を迎えました。そこで行われたのは、「生きるということを捨てることが生きることだ」という倒錯、錯乱でした。
 
   連合赤軍には「世界同時革命」という途方もない理想があって、それを実現するために武器をとり、命を捨てるという選択がなされた。オウム真理教もまた「自分たちの教義にもとづいた国をつくる」という考えがあり、そのために信者たちが命を投げ出してサリンをまいたわけでしょう。他者を殺すというのは、自分を殺すという心の作用を同時に伴っていると思います。そこにどうも共通するものがあるような感じがします。
 
ーー吉本さんも、またそういう風に考えていたのでしょうか。
 
菅原   吉本さんは一九二四年の生まれで、戦争のまっただ中に青春を送った人です。そして、自分は現人神を信奉し、戦争をやれやれという “軍国青年” だったと、ことあるごとに言っています。つまり吉本さんもまた、戦争中に倒錯してしまったということになります。
   あの太平洋戦争というものを、国を挙げて、民衆がこぞってなぜやってしまったのか、また結果として何をしたのか、いまだに結論が出ていないと言っていいと思います。敗戦後、国際法にのっとってということですが、あからさまな報復として、欧米列強によって戦争指導層が処刑され、それで何ごともなかったように時が過ぎてきたといってもいい。本質的な議論は避けられていた感さえある。それをあやふやなままにしてきたことが、現在の安保法制に対する左右両端の論調をうさんくさいものにしていると言ってもいいと思います。
 
   仲間の大半を「総括」と称して殺してしまった連合赤軍の事件もまた、なぜあんなことをやってしまったのかについての思想的な解明は、当事者によっても、われわれ同時代人によっても、いまだなされてはいないのです。そしてオウム真理教も同じです。
   いずれもあれだけの大事件なわけですから、法的な死刑ということだけですむはずがないのです。背景にどのような思想や宗教理念があり、時代状況があるのかを捨象して、行為事実だけをとらえて断罪するということの根底にあるものは、意識的にせよ無意識的にせよ、法や国家を絶対善だとする理念です。けれども吉本さんによれば、法や国家もまた一種の宗教であり、そして宗教の最終的な形態だということになります。
 
  マスコミや識者、知的大衆というのは、法や国家を絶対善だとする立場をとっています。つまり「絶対善だという宗教」を信奉しているのです。そして法や国家が絶対善だという理念は、本当はファシズムと地続きであり、いつでも絶対悪としてのファシズムに転換するのです。

 連合赤軍のときもオウムの時もそうでしたが、マスコミや職者は彼らを「凶悪な殺人者の集団」ととらえ、精神に半ば障害をもった人物のように描き、そういう世論を形成して襲いかかりました。けれども吉本さんの考えによれば、事態は逆です。無自覚なのでしょうが、凶暴で無責任なのはマスコミや識者の方なのです。なぜなら吉本さんの戦争体験によれば、連合赤軍もオウムも、人間性の地獄の表出であったとしても、それもまた人間性の範囲内だったのです。このことが識者には理解できないのです。
 
   まさにその点において吉本さんはオウムを擁護しているように見え、マスコミから袋だたきにあったのです。そして麻原の宗教観をちゃんと評価した方がいいという吉本さんの発言は、「凶悪な殺人者の宗教観を評価するもヘチマもない。オウムを擁護するのか」という短絡と狂信にさらされたのです。

ーー単純に “オウム擁護” と言い切れるものではないということですか。

菅原 吉本さんは同じ記事の中で、地下鉄サリン事件に関しては「まったく肯定すべき余地がない」と言っています。単なる “オウム擁護” のような文脈だったとは、私は思っていません。また、マスコミは被害者の立場に同情を寄せていないという視点から吉本さんを批判しました。しかし彼らの言う “同情” とは、実は “同情のふり” にすぎないわけです。

■それは “洗脳” だったのか

ーー太平洋戦争、連合赤軍、そしてオウムにはある共通した何かがあると、吉本さんは思っていたのでしょうか。

菅原 先ほど言ったように、「命を投げ出してもなさねばならない理想や大義がある」という考え方の下に、人々が急進的な行為に突き進んでいった。その意味で、その三つに共通性はあると思います。
   そして、もう一つ指摘しておきたいのは、そこにあったのは実は “洗脳” ではないということです。
 
   後世、および外部からは安易な指摘がなされるわけです。太平洋戦争では皇国史観や大東亜共栄圏というイデオロギーに、連合赤軍では共産主義や毛沢東主義に、そしてオウムでは麻原の宗教観に、人々が “洗脳” されて、あのような大きな動きが生まれていったと。しかし本当はそれは正しくありません。

 たとえば一九七〇年代という時代において、一部のイデオローグが若者たちを共産主義思想で “洗脳” し、意のままに操っていたなどという話は事実と異なる。当時の若者たちは、自分たちが置かれた時代状況の中で、自分たちなりにさまざまなことを考え、自分の意志で闘争に参加していったのです。個人の意志という側面が必ずあった。太平洋戦争にしてもそうでしょう。当時の日本国民は、西欧列強がアジアを植民地化し、日本を経済封鎖し、それで日本国家が存立の危機にいたったので、それに対して大東亜の解放や鬼畜米英といったことを、それぞれに正しいと信じて戦っていたのだと思います。アメリカからは「日本国民は戦争指導部に洗脳されていた」と見えていたかもしれませんが。また共産党によれば、兵士たちはだまされ、犬死にだったということになります。
 
   オウムでも、本当にそれが “洗脳” だったのだとしたら、それは単に「一部の詐欺師と、大勢の愚か者の集団」ということになってしまう。そんな馬鹿なことはありえないのです。

 そしていま問題になっている「イスラム国」(ISIL)の問題にしても、これと同じような構図があるのではないかと感じます。世界中から戦闘員として集まってくる人たちを、西欧や日本では、何かに取りつかれ、洗脳されている人々と見たいのでしょうが、そんなこともないのです。
こうした現象はある意味で、「オウムの世界史的展開」と言っていいのかもしれないと感じています。

ーーただ、なぜ太平洋戦争にしても連合赤軍にしてもオウムにしても、きちんとした総括がなされてこなかったのでしょうか。

菅原 誰もがそれをやっていかなければいけないわけですが、「洗脳する者がいて洗脳される者がいた」ということにすれば自分を棚上げできるし、精神のおさまりがつくのだと思います。そして、それが多数派を占めます。何ごともなかったように時代が過ぎてゆくということに対して異をとなえ、自分をえぐり出していくことは、孤立無縁であり、誰にとっても生きることを難しくしてしまうからではないでしょうか。“軍国青年”だった吉本さんは、「戦争に負けた時は自分が死ぬ時だ」と思いつめていたけれども、一九四五年八月十五日、絶対的な存在だった天皇が敗北宣言をして敗戦になった。納得がいかず「自分だけでも戦い続けよう。兵士たちも戦い続けるはずだ」と思っていたけれども、兵士たちは武装解除し、黙々と故郷に帰っていった。そして自分が生きているのは卑怯なのではないか、最も醜悪だったのは自分ではないかという絶望体験になった。それから古本さんはその体験をもとに、戦争とは何か、国家とは何か、人間とは何かを客観視しようとして、何十年とやってきたわけです。

■村上春樹の “浅さ”

菅原 ここに興味深い文章があります。今年四月に「世界でもっとも影響カのある百人」に選ばれたのを受けて、共同通信が作家の村上春樹にインタビューしたものが新聞に掲載されたのですが、その中で彼はオウム事件にも言及しています。読んでみます。
〈彼ら(注・オウム真理教の信者たち)が十代のころに「ノストラダムスの予言」について書いた本が出て、それをテレビなどが盛んに取り上げた。“一九九九年に地球は滅びる” という不安があり、さらにそこに「スプーン曲げ」に代表される超能力信仰みたいなものが刷り込まれていった。(略)そんな素地があるところに麻原彰晃が現れて、超能力っぽいことを少しやってみせると、すぽんとはまっちゃう。入間の心をクローズドサーキット(閉鎖回路)に引き込み、外に出られなくし、精神の抵抗力を失わせてから、サリンを散布させる。麻原が信者に与えたこのような物語はいうなれば悪しき物語です。僕たちはそれに対抗する力を持った物語を書いていかなくてはならない〉。
 
   この村上の認識は間違っています。これだと結局「麻原が詐術のように洗脳して若者をだまし、信者にして操っていた」という埋屈になってしまう。こんな馬鹿話ですむわけがないのです。ようするに村上はどこまでも外側から浅く表面的になぞっているだけで、オウムを生んだ自分の住む社会と正面から向き合うことをしていない。国家から小さなユートピア集団まで、なぜ共同性は閉じられてしまうのか、倒錯が起こるのかは、そんな簡単なことではないのです。
 
   さらに唖然とするのは、世界を「善い方向」に導くには「体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きする。これが意外と効きます」などと誇っていることです。本気なんでしょうか。早寝早起きをしたらオウムやISILの問題は超えられるんですか。私は村上の初期の十年ほどは熱心な読者だったんですが、社会を語る人間としては通俗的な正義派に過ぎない。そういうことがよく表れているインタビューだとおもいました。



ーー吉本さんはそうではなかった、と。

菅原 通俗的な正義や心情的な倫理は嘘だと考えていたと思います。これは晩年の話ですが、吉本さんは、東日本大震災の後に「一度の失敗で原発をやめてしまえというのは間違いだ。経済効率ではなく、本体よりもお金を注ぎ込んででも万全の防御をつくったうえで原発を続けるべきだ。すべてやめてしまえというのは、猿に戻ることと同じだ」といった発言をしました。少なからぬ人々が吉本さんに反発し、吉本批判をやり、そのもとから去っていくこともありましたが、吉本さんは最後まで態度を変えようとはしませんでした。ここには人類の発生と人類の未来をを見すえた、鬼気迫る普遍的な視線があります。オウム事件において「麻原を宗教家として評価しよう」と語ったことは、それと同次元の発言だったと思います。

ーーそうした吉本さんの姿勢の源にあったものとは何だったのでしょう。

菅原 やはり戦争体験だと思います。どこかで自分の自分に対する認織を決定的に誤ってしまったという痛恨の認識だと思います。そして、どこかで無名の大衆を敵にしてしまったという痛恨の認識だと思います。
 
   吉本さんを評するとき、よく「大衆に寄りそう思想家」という言い方がされますが、そんな甘っちょろいことではないのです。村上春樹の言い分は通俗的正義派として大衆に受け入れられるでしょうし、吉本さんの言い分はむしろ嫌悪されるかもしれません。しかし、その大衆は “知的大衆” であって、本当の大衆ではありません。
 
   吉本さんの思想には、国家から小集団まで、人間のさまざまな集団は、追い詰められれば徒党を組み、倒錯し、錯乱に至ることから免れえないという根本的な考えがあります。それは吉本さん自身も免れえないということです。「本当のことを言えば世界は凍る」とはそのことです。知的大衆や識者、あるいは村上春樹などは、「自分は賢いので、そんなことにはならない」と言うでしょう。ただ真の大衆とは、それを免れえないということを内臓で分かっていると思います。その大衆に寄りそいたいと、吉本さんは言っていたのだと思います。
 
  吉本さんはサリン事件の後に「麻原を宗教家としてきちんと評価しないといけない」と発言し、「あんな極悪人を評価する必要はない」と感情的に批判された。しかし例えばある殺人を犯した人が、ご近所では温和なお父さんとして知られていた、などという話は珍しくもなくあることです。その場合、その犯人に「温和な面もあった」という事実は、彼が「殺人をした」という理由で、語ってはいけないものになるのでしょうか。むしろその殺人事件がなぜ起こったのかを理解する際に、重要なキーともなる事実なのではないのでしょうか。たとえ偉大な知識人であっても、ある日、錯乱するということはありえるのです。以前に著名な経済学者が女性のスカートの中をこっそりと撮影したということで世間から追放されてしまいましたが、そのことによって彼の学問的な業績は空無だということにはならないと思います。
 
   そうやって法に違反したということで、社会はその人物を嫌悪し、隔離し、追放し、何ごともなかったようにしたいのです。

■階層化社会への懸念

ーーオウムの総括は、これからでも可能なのでしょうか。

菅原 オウムに限らず、まだこれからだと思います。たとえば二〇〇八年に、東京・秋葉原で、ひとりの青年による連続通り魔事件がありました。たくさんの人が亡くなった東日本大震災の直後に、その青年に死刑判決が下りたという小さな記事が、新聞の片隅に載りました。あるとき、私はある有名大企業に勤めている若い友人に「あの事件をどう思うか」と聞いたのです。すると「自分は努力したが、犯人は努力を怠って派遣社員にしかなれなかった。その結果だと思う」という答えが返ってきました。その応えは無残です。
 
   その青年は数人を無差別殺傷した段階で、精神的には死んでいるのです。また、この殺傷行為は一青年の責任に本当に帰せるものでしょうか。ある時代のある環境の下に生まれたことは彼の責任ではないし、時代環境に一青年が押しつぶされてしまったことは彼の責任だと言えるのでしょうか。単に時代環境のせいだと言っているのではありません。人間の地獄は時代環境と個人の意思の錯合で、どちらにも還元できないものです。万人がそれを分離できないから苦闘しているのです。彼を死刑にしなければならないのは、ただ国家という支配秩序に背いたからであり、見せしめとしか考えられないのです。
 
   もう一つ無残なのは、立派な大学を出た前途有望な若い友人の「自分は努力したが、彼は努力を怠った」という言い方です。ここには政治と経済と文化の支配層の、人間を蔑む幼稚な本音があります。社会では上昇と失墜の冷酷な乱気流が激しく渦巻いています。この乱気流は次第により激しくなっていくでしょう。支配層が法的な禁圧を強化するだけではどうすることもできないのです。
 
   私がここで述べたことのオリジンはすべて吉本さんの著作の中にあります。だから、もっと知りたいなら吉本さんの本を読んだらいいと思います。究極のことが書かれています。また、私を吉本亜流だという人も出てくるでしょう。そんなことはもう、気にならなくなりました。

「狂気、渦、自己慰安」からの抜粋

   外側からみたとき、すべての国家は奇妙で不可解だ。海の向こうの半島ではあまりにも幼稚な独裁者が神のように振る舞い圧政を布いているかとおもえば、超大国の知性も節度もあるようにみえる大統領が特殊部隊を送りこんで敵対する宗教的な自爆も辞さない武装集団のリーダーとその家族を暗殺し、その場面を首都の司令部でドラマを観るようにリアルタイムで観劇していたり、隣の大陸では支配下におかれた辺境の異民族の青年が交通違反をおかした程度のことで射殺されたりしている。けれど、視点をずらして国家の内側に入ったとき、国家の狂信性、宗教性に自身もまた知らず識らずのうちに巻きこまれて奇妙な熱狂のなかに紛れこんでゆく。ここで思想の《うず潮》は、国家を外側からみることと内側からみることの中間、交点に横たわっているのに、誰もが目を背けている。そして現在、国家と国家は互いに互いを誤解し、敵対し、グループをつくって軍事同盟を結んで、危うい均衡を保っている。つまり、ここ一世紀、なにも変わっていないのだ。
   問いは具象的であったほうがいい。問題は、数十年前、極東アジアの列島の、ありふれた温厚で優しい青年たちが隣国やアジアの果てまで行って、なぜ残忍な殺戮をおかしたのか、殺戮されたのかだ。わたしたちの世代にひきよせていえば、どこにでもいる温厚で優しい青年たちがユートピアを夢みて北関東の山中を疾走しているとき、なぜ十数人の仲間を殺戮してしまったのか、殺戮されてしまったのかであり、身体と心の統一と制御を目的とした温厚な青年たちのヨガの集団がなぜ無残な殺戮にいたったのかだ。これらの問題は根柢が明らかにされないまま、個人の法的な事実・罪に還元され、ある者は死刑囚と呼ばれて、時代はなにごともなかったように先験的な自然過程のように過ぎていこうとしている。為政者は法的規制を強化すればすむとおもっている。けれど、もっと大規模で陰惨な事態にわたしたちは遭遇することになるのかもしれない。
   人間を殺傷することを強い、殺傷されることを強いる、人間にはなしえない神のような超越的な規範力をもった国家は、はたして民衆によって支持されているのだろうか。ここでの国家を、ユートピアをめざす小集団や趣味の小集団と読みかえ、民衆をその構成員と読みかえてもいい。また殺傷を、追放や蔑みと読みかえてもいい。為政者が、国家の命運は民衆の命運であるかのように主張するとき、不可解なことに民衆はあたかもその主張に同調し支持しているようにふるまっている。とりわけ、対外的な敵と対峙し、敵に追いつめられたとき、支配層よりも過剰に国家を支持することになるかもしれない。そして、知識(人)は戦前、戦中がそうであったように、もっとも包括的な共同性としての国家に、つまり殺傷を強い、殺傷されることを強いる国家と国家の理念に知らず識らずのうちにほとんどすべてが思考停止して吸収され、あるいは、みずからすすんで吸収されることは明らかだ。かつて反逆の言葉をもてあそんだ青年が現在、国家と行政の中央委員会の枢要の位置に貌をみせているように。

続・最後の場所1号からの抜粋

   二〇世紀の社会主義を僭称したファシズムはおびただしいひとびとを殺傷(粛清)してきたが、その要因となったとおもわれる、一国における社会主義(神聖労働者国家)の防衛と建設という経済的・政治的な環境条件をすべて捨象したあとに残る、共同性が個人を殺傷しようとする精神の如実な動機は、つきつめれば、《遊び》を作為のある犯罪行為だというように《架空の観念》に一瞬のうちに同致して(吊り上げられて)了解する精神の荒廃(倒錯)にあるのではないか。そして、現代社会のもっとも中心にある病巣は、この精神の荒廃(思考停止)ということそのものだとおもえるのだ。
   昨年、理工系の最高の英知を集めたかにみえる科学研究所で、若い女性が画期的な発明をしたというので、当初マス・コミは持ち上げて大騒ぎをやっていた。こつこつと築いてきた研究が世間から評価されるのはすがすがしくてよいことだと思っていたら、暗転して、どこからか、その発見には捏造されたデータが使われていると云われだし、ありえないことにその研究所のノーベル化学賞をとった族長が若い女性研究者を悪意のある犯罪者のようにみなし、なんらかの処分が必要だという記者会見をおこない、さらに輪をかけてマス・コミはその女性研究者のデータの捏造には作為と悪意があるというキャンペーンを張りはじめた。ひどかったのはNHKで、通俗小説みたいに、女性研究者には人格的な欠陥があるということをにおわせる特別報道番組までつくった。その後、その新発明された細胞を再現するための実験が、犯罪者にするように、監視カメラのもとでおこなわれることになった。いったいマス・コミは、また、科学研究所の族長や取り巻きの有識者(審問官)たちはなにをやりたいのだろうか。その新発明の実証が不十分で不足があり、功をあせったというのなら、周りの科学者がそれを補い、諭せばいいだけの話を、立ち直ることが二度とできないほどに女性研究者を冷酷に打ちのめして、それでいったいなにが得られるのだろうか。ここにあるのは、個人の行為を架空の共同性の次元で切り取り、個人の行為にありもしない作為や悪意を貼りつけて歪んだ人間像をつくり、いっせいに個人の隔離・殺傷に向かっていく現代社会の精神の荒廃、精神の病巣以外のものではない。また、最高の英知を集めた集団が、かえって、もっとも貧弱で劣悪な共同性しか組みえないという一般性のあらわれ以外のものではない。わたしたちは、女性研究者に悪意や作為があったという審問官たちの意見を、かりに女性研究者に作為があったとしても、認めない。人間だから作為や悪意があっても(なくても)あたりまえなのだ。問題はまったく別次元のことであり、架空の観念の共同性が人間像を歪曲し、個人の隔離・殺傷にいっせいに走りだす視えない精神の荒廃が問題なのだ。
   現代社会をおおい、浸透するこれら思考停止という精神の病巣の喉もとに噛みつくように、予期することのできない狂乱がつぎつぎに起こったとしても、現代社会は精神の荒廃のうえに精神の荒廃を塗り重ねていく以外になすすべはないようにみえる。つまり、精密な武器によって、あるいは、宗教の別名としての法と国家を強圧化することによって、人間を隔離し、処分し、殺傷する以外の方途を人類はいまだ持っていないのである。

続・最後の場所2号からの抜粋

▷95年3月20日午前8時、オウム真理教の一団が通勤客で混み合う地下鉄に猛毒サリンをまき、多数の死傷者を出した。こう書いただけで、当時のおぞましい情景が浮かんでくる。なにがおぞましいのかといえば、ひとつは、ありふれた仏教の修行者の青年たちが、それをまけば死傷者が出ることがわかっていながら、見ず知らずの通勤客にサリンをまくという、人間がなしうる限りで最も《極悪非道》な行動をなぜ起こしたのか、そしてそのなぜがわからないことがおぞましさを増幅させたといえる。もうひとつは、《極悪非道》の行動を起こした青年たちを、精神に異常性をもった人間だとみなして、一刻も早く社会から除外し抹殺してケリをつけようと、マスコミや識者が警察権力といっしょになって連日連夜キャンペーンをやったことだ。
   この事件は70年代の連合赤軍事件、新左翼の内ゲバ殺人に連なる、不可解で重い事件だ。三島由紀夫の割腹事件をくわえててもいい。戦争世代ならば、これに戦争の悪夢の体験をあげるにちがいない。そして現在でも、《ある帯域》に入れば万人が取り憑かれ、狂気におちいり、《極悪非道》な行動に走ることはありうるのだ。彼らは精神に欠陥があるのでもなければ、何者かに洗脳されているわけでもない、ありふれた青年たちなのだ。この観念の《ある帯域》の内実はなにかということが考察に値する一級の課題だ。
   誤解をおそれずにいえば、吉本さんにとってほんとうに超えるべきなのは、《極悪非道》の行動に走った青年たちよりも、《国法》に違反した青年たちを精神に異常をきたした者とみなし、速やかに抹殺しようとして《狂暴な世論》をつくりあげた、《国法》を絶対善の自己至上物とする最終的な宗教であり、すました市民社会の倫理であった。
▷現在、米欧の主要都市でISによる自爆殺傷事件が続発している。これは、数十年前の戦争期の日本の、自死を前提とした《特攻》と似ていることを誰も否定できない。そして、進んだ文明を自任する欧米列強は、この遅れた文明の《極悪非道》を、人類が築いてきた文明を蹂躙するものであるとみなして、有志国連合をつくり、シリアとイラクに展開するISに対する空爆を開始した。また、日本のマスコミは、いちはやく空爆を支持するという声明を出した日本の政治支配層といっしょになって、これらの《極悪非道》の殺人者集団を、洗脳され精神に異常をきたした者のようにみなして、速やかに殲滅するべきだという論調をくりひろげ、戦闘機が次々と巨大艦船から発進する様子を嬉々として伝えている。たんに、野蛮で凶悪な殺人者の集団が、人類の達成した文明を破壊していると捉えることは思考の停止だ。問題は、人類の最高の達成である宗教と国家と文明を体現していると自称し自任する欧米の文化と政治の指導層が、歴史の現在を把握できずに、圧倒的に優勢な精密武器によって《極悪非道》の殺人者たちを劇画のように殺戮すればすむと考えていることであり、それ以外の方途をもたずに狂信状態に陥っていることだ。欧米の政治指導層もまた 、精密誘導ミサイルによって他者の肉体を殲滅しようとする精神構造において《極悪非道》の極致なのだ。
   わたしたちができることは、人類のもっとも進んだ文明を自任する西欧の《国家》群 に、内側からと外側からと、刻々と崩壊が迫り、死が迫っている歴史の現在を、考察することだけだ。

「浄土からの視線」あとがき



   前川とともにわたしが吉本さん宅を訪問したのは、亡くなる一年と三カ月ほど前だった。たしかに吉本さんはまだまだ元気なようにみえた。このとき吉本さんの健康がどのような状態にあり、難儀をおして応対されていたのか、それともその日はいくらか快い状態だったのか、誰でも分け隔てなく和ませてしまう不思議な能力をもった前川のような珍客がたのしみだったのかは、わたしにはわからない。なにも持っていないわたしと前川のために時間をとって応対されたことに感謝するばかりだった。前川に云わせれば「吉本さんは俺のことが好きなんだ」ということになる。そのとおりだとおもう。そして、それ以外にはないとおもう。
   酔いが早くまわっていた前川は前半によくしゃべり、後半は吉本さんの熱のこもったおしゃべりが展開された。わたしは要領をえない質問を吉本さんにし、吉本さんはその質問を汲んで迂回した喩えによって答えた。わたしの記憶に残るのは、ひとつは、《死んでもわからないことがある》と云ったことと、もうひとつは《美空ひばりの最後の舞台をテレビで見ていて、これが芸術家だとおもった。あなたの問題はイメージに置き直すことによって解決できる》と云ったことだ。とりわけ、ふたつ目の喩えはわたしのなかで強い反響をおこした。現在もその周辺について考えをめぐらせている。
   おしゃべりが三、四時間つづき、午後七時を過ぎて話が途切れたところで誰からともなく、このくらいにしましょうということになって、わたしたちは玄関に向かった。吉本さんはわたしたちを送るために玄関まで這って出て来られた。わたしはお礼を云い、玄関を後にした。そのとき頭のなかでは美空ひばりの話が余韻をひいていた。つづいて前川も出てくるのかとおもって後ろを振りかえると、前川はあがり框に座りこんで、またなにかを吉本さんに話しはじめた。吉本さんは床に手をついたまま笑顔で頷き、その背後で立っていた多子さんがにこやかに笑っていた。多子さんの顔の左上あたりの壁に裸婦の小さな額がかかっていた。前川がなにを話していたのかはわからない。その光景がなぜか強い記憶として残っている。それがわたしが視た最後の吉本さんの姿だった。そして、その《黄金風景》ともいうべき光景がわたしになにごとかを語りかけてくる。

   吉本さんはいつもわたしに謎をもたらした。しかもその謎はわたしを圧倒してきた。謎というのには説明がいる。その振る舞い、言葉をおもいだすたびに熱い感情がこみあげてくるのだが、その振る舞い、言葉がわたしとって、ながいあいだうまく像を結ばなかったというほどの意味だ。そして、その熱い感情がこみあげてくる由来をどうしても解きたいと考えてきた。この本はその謎を解くために書かれたといってもいいし、書かれることによって少しずつ謎が解けてきたといってもいい。
   一九七六年の六月に三上治主催の吉本講演会がおこなわれ、わたしは政治党派の一員としてこの講演を妨害するために壇上にいた。その前年まで『文藝』で『初期歌謡論』が連載され、また『春秋』では『聞書・親鸞』が連載されていた。わたしはいつのまにかそれらが書店に並ぶのを待つ熱心な読者になっていた。その著者である吉本さんと壇上で対面したとき、わたしは狂気そのものだったのである。わたしは打ちのめされ、その後、ただ茫然とするほかなかった。そして四カ月ほどして初めて吉本さんを訪問した。千駄木駅を降りて団子坂をのぼり、吉本さん宅へ向かうとき、わたしはいったいなにをしようとしているのか、はたして受け容れられるのか、不安だった。けれど、吉本さんの前に座卓を間にして座ったとき、不思議な安堵感のなかにいた。わたしは懺悔しに行ったわけでも、謝りに行ったわけでもない。むしろそんなことをされたら、迷惑だったにちがいない。そのときの吉本さんの前に座っていての安堵感と、わたしにそう思わせた吉本さんの振る舞いが、謎のひとつだ。ほかにもある。
   わたしは定職もなく時間があったから、いい気になって、これといった用件もなく(用件をつくって)吉本さん宅を訪問した。あるとき、先客があって、それならと帰ろうとしたら、二階から吉本さんが「あがってきていいですよ」というのでわたしはあがっていった。編集者がふたり、吉本さんと座卓をはさんで打ち合わせをしていた。吉本さんはわたしをすぐ横に座らせて、編集者に友人の誰某ですと紹介した。もちろん、わたしは天にも昇るほどにうれしかった。だが、時が経つにつれてその言葉が謎に変わっていった。吉本さんのその言葉によってわたしは心のなかに豊かさ、高揚を感じていても、あたりまえだが現実は少しも豊かにならなかった。そればかりではない。わたしは吉本さんのその言葉を他者に云おうとしたことがあった。けれど、もしそれを云えば、わたしはただの自惚れ症、夜郎自大症にすぎないということになる。つまり、言葉にしたときまったく別の意味となって伝わってしまうことがわかっていた。そして、わたしはしだいに息苦しくなっていった。また、わたしのことを吉本エピゴーネン、吉本に懺悔した者だという陰口が聞こえてきた。すべてに対して、違う、という無言の声を発したとしても、それらの通俗的な貶めを打破する論理をわたしはもてなかった。
   わたしどもがやっていた同人誌『最後の場所』に原稿料も払えないのに原稿をお願いしたときも同じだった。なにも云わずに承諾し、そして、四百字三十枚ほどの『都市に関するノート』という文章を寄せていただいた。一週間ごとに催促の電話をくださいと言われて何度か電話をした。そして、できたから取りにきてくださいと言われて取りに行った。帰り道、原稿を抱えて、誰かに告げたい嬉しさで心はみちていた。現実は、うまくいったかにみえた就職もままならず、世間の冷たさと生活の労苦に直面して貧しかったけれど、心のなかにはひとつの誇り、熱い感情が灯っていた。けれど、その後、長い目でみれば、吉本さんの行為(好意)に応えることはできなかった。
   初めて吉本さん宅を訪れてから七、八年したころ、『試行』に『横光利一論』を投稿したあとしばらくしてわたしは(いい気になって、評価を聞こうとして)吉本さんを訪問した。そのとき吉本さんはただ「後にも先にも決定的な横光論を書いてください」と云って、本棚から横光全集十数巻をおろし、わたしの前に置いた。わたしは持ち帰ることができなかった。なぜわたしは持ち帰ることができなかったのか、そんな問いをひきずってきた。そして、答えがみつからないのに応じて、吉本さんの振る舞いが謎のようにみえた。いいかえれば、わたしはわたしを理解していない度合いに応じて、吉本さんの振る舞いがわたしを圧倒し、熱い感情がこみあげてくるのに、それがどこからやってくるか解らなかったのである。
   いったい吉本さんはなにをわたしに差しだしたのだろうか。この問いはおそらく、すべての読者、あるいはじかに会ったひとにとっての問いにどこかで普遍化できるものだ。なぜならば、ここには吉本さんのもとに迷いこんできたすべてのひとに対する吉本さんの関係のしかたの標準があり、また、吉本さん自身の自身に対する問いがあるようにおもえるからだ。
   美空ひばりについて書いたこんな一文がある。

《芸能家も芸術家も、どんなに他人の評価をもとめたり、評価を拒否したりしても、ほんとはただ表現したいという無意識だけが、その必然なのだといえる。子どものときから歌うことで肉親の生活を支えたい、金銭を得たいとひたすらおもってきた美空ひばりでも、その歌唱を偉大にしているのは歌いあげたいという無意識だということは疑い得ない。それがなければ得たいとおもうものを手に入れたあと、修練の必要などなかったはずだ。だが彼女は疲労しても、生活の心労がどんなに重なっても、修練を手離すことがなかったと推測する。これはほんとの天才だけが演ずる悲劇なのだ。彼女の死にはこの悲劇の影があった。》(「美空ひばりⅡ」一九八九年初出、『情況としての画像』所収)

   後年になってみれば、ここで《疲労しても、生活の心労がどんなに重なっても、修練を手離すことがなかった》と云い、《その歌唱を偉大にしているのは歌いあげたいという無意識だ》と云っているのは、吉本さんが自身のことを美空ひばりに重ねているのだということがわかる。いかんともしがたい《生活の心労》が身辺につぎつぎ押し寄せても、なにかに取り憑かれたように《歌いあげたい無意識》にかりたてられて修練し、最後の舞台で、壊疽して歩けなくなってしまった脚をスカートでかくして歌いあげている美空ひばりの姿、その歌唱に芸術性、無償性、永遠性を視ている吉本さんもまた、晩年は歩くこともできず、目もほとんど見えなかった。その労苦がどれほどなのかわたしの年齢では想像することもできない。そして、時代と情況への発言を、自分に対する問いを、《ただ表現したいという無意識》を、おそらく死の間際まで決して手放さなかった。
   歌うのは、まわりから良い評価を得たいから、肉親の生活を支えたいからではなく(そうであってもいいわけだが)、ただ《歌いあげたい無意識》によっているのであり、そのことが美空ひばりの歌唱を偉大にしているというときの《歌いあげたい無意識》はどこからやってくるのだろう。わたしたちは《歌いあげたい無意識》の、無意識が無意識を駆り立てる累乗がただ永遠性、普遍性に接続されていることを自己察知しているからだ、と云いうるだけのようにおもえる。《生活の心労》が波のように押し寄せても、誰にも伝わらない自己の自己だけによるその察知が、そうさせているのだと云えるだけだ。また、その歌唱が芸術性、無償性、永遠性をはらんでいることが、その歌唱を偉大だと万人に感知させているのだし、偉大だという感知はそれ以外からはやってこないということになる。
   ここでの《歌いあげたい無意識》とは、吉本さんの言葉に云い直せば《自己表出》のことだ。 そして、わたしたちは吉本さんの《ただ表現したいという無意識》あるいは《自己表出》に触れているとき、圧倒され、熱い感情がこみあげ、慰安されていると感じているのだ。
   かつて二十代半ばに、吉本講演会を妨害しようとして壇上にあがり、それからわたしが吉本さんのまえに初めて迷い込んだとき、わたしはなにも持っていなかった。持っていたのは、いったい自分はなにをしてきたのかと自分を疑い、傷ついた《なにごとかをいわねばならないまでにいたった》心だけだった。いいかえれば、未分化で不安定な《自己表出》だけだったし、生活の心労がつぎつぎやってくれば消えてしまうものだったかもしれない。自分にはわからなかったが、このころわたしは吉本さんにいちばん近づいていたのではないか。このとき吉本さんは、吉本さんのもとに迷い込んだわたし(あるいは、わたしに象徴される読者)に対してなにをかんがえていたのだろうか。もちろん、吉本さんに聞いてみなければそんなことはわからない。聞いても吉本さんは答えないだろう。

《「出」(還相)にあるときに自由や自在の意味は、別の視野にさらされる。それはひと口にいってわたしに視えているところのものが、他者に客観的に、けっして視えないのに、わたしがそれを言葉にすることができない状態とでもいうべきものである。そのときわたしたちは「遊びたわむれる」(遊戯)という状態にある。これは別の云い方をすることができる。 客観的な自然の事物が、わたしにだけ視えるところの視野のもとに観察される状態というように。》(『教理上の親鸞』)》

   これは、わたしが想像しての話になる。初めてわたしが吉本さんのまえに座ったとき、おそらく《吉本さんに視えているところのものが、わたしに客観的に、けっして視えないのに、吉本さんがそれを言葉にすることができない状態》だったのである。つまり、わたし(あるいは、わたしに象徴される読者)は、自分で自分が視えていないのに吉本さんからは《視えるところの視野のもとに観察》されている状態だった。《それを言葉にすることができない》というのは、言葉がみつからないということではない。言葉にすれば逸脱、嘘の感じがつきまとい、それでは世の有識者のように振る舞っていることになってしまう。親鸞のようにいえば、そこに計らい、作善がはいってしまう。そうではなくて、すべてが視えているのに言葉にできないという《沈黙》の状態にあるとき、その《沈黙》は有意味化されている。いいかえれば、《沈黙》によってはじめて、他者には視えないのに自分にはすべてが視えているという心の状態になっている。
   わたしが云いたいのは、吉本さんとじかに対面しているとき(書物に対面しているとき)受ける、圧倒されている感覚、こみあげてくる熱い感情、限りない安堵感は、そういってよければ、吉本さんのその偉大な《沈黙》、《言葉にできない状態》からやってきているという、そのことだ。そして、吉本さんから差しだされた《沈黙》と交換できるのは、わたしたちの有意味になった《沈黙》のみであり、それ以外ではないのだとおもう。
   自分を理解していないのに応じて、萎縮し、屈折し、遠慮し、吉本さんの励まし(沈黙)を励まし(沈黙)として理解できず、率直に受けとれなかったわたしはだめなやつだったとおもう。
《悲しいもんですよね。いや、ほんとうに思うんですが、自分がしゃべっても、鼻歌をうたっても、やっぱり、なんとなく、悲しいです。悲しみじゃないことは、なんでもないことと同じだって、そういう感じもします》(ほぼ日『ほんとうの考え   言葉』)という吉本さんの《悲しみ》は、自分にはすべてが視えているのに言葉にできない《沈黙》からやってきているような気がする。そして、その《悲しみ》あるいは偉大な《沈黙》は長い年月をかけて、ひとびとの《熱い感情》を介して、岩盤に水がしみていくようにひとびとに伝わり、いつか巨大な姿をあらわすにちがいない。

 『吉本さんを囲んで』をここに収載するにあたり、なにも聞かずに「どのようにでもご自由に使ってください」と云っていただいた吉本多子さんにも感謝したい。ご迷惑だとおもうが、わずかの会話でも、吉本さんと多子さんが表現者として二重うつしになってしまうことをおゆるしいただきたい。
   もう三十年ほど前に『試行』に投稿した『横光利一小論』と題した原稿が、お会いしたことのない畏敬すべきふたりのひとを介してわたしのもとに戻ってきた。吉本さんの書斎の箪笥の上にうずたかく積まれた原稿のなかにあったのだという。限界もよくわかっているからこの原稿はわたしにとってだけ意味があるもので、この束を手にしたとき、懐かしく、いたましい自分に触れたような気がした。そして、吉本さんから最後にとどいた励ましだと解釈することにした。
二〇一四年六月二十五日             菅原記  



『吉本隆明の《奇妙なとまどい》』からの抜粋

▪️《アフリカ的段階》の露出
   いま西欧で起こっているフランスの風刺週刊誌への襲撃事件や、台頭するイスラム国と米欧との狂乱は、あたかも表現の自由をめぐる対立のように、進んだ宗教と後れた宗教をめぐる平板的な対立のように、あたかも先進文明(もっとも進んだ宗教的な制度としての民主主義)と後れた未開・野蛮な文明(王が君臨し、全員にたいする生殺与奪の権利をもつ)との平板的な対立のようにみえるだけで、ほんとうは骨格をもった歴史段階の差異が接する境界で起こっている狂乱であり、それが平板上で相互理解を絶し、殺傷し殺傷される絶体絶命の対立のようにあらわれているのだ。つまり、《超西欧的段階》に移行しようとしつつある西欧が、野蛮・未開・未覚醒としていい気になってさげすみ、しりぞけてきた《アフリカ的段階》から突き上げられ、報復されているのだといえる。
   先日TVや新聞で、フランスの風刺週刊誌への襲撃事件は自由と文明に対する悪辣なテロであり、西欧は団結してこのテロに打ち克とうというフランスの大統領によるアピールのもとで、西欧各国の首脳を先頭に、フランス革命時を超える三七〇万人がフランス全土でデモに参加したと報じていた。また、西欧の全域で要所に軍隊を配備してテロを封じこめようとしていることが報じられた。歴史が大きな節目にさしかかっているようにおもえるのだが、なにかが違うとしかいいようがない。つまり、狂信的で残虐なイスラム新興勢力が、人類の最高の達成である西欧の表現の自由、平等を蹂躙しているという描像では、この現実はまったく捉えられないのだ。奴隷制をしき、ひとりの王が全員の生殺与奪の権力をもち、すべての生産物や土地を所有し(王がもし失政を行い人心を失えば殺害される)、少女を自爆殺傷においやり、TVカメラの前で人間の首を斬り落とす、国家たろうとするイスラム新興勢力を、ただ狂信的で残虐な強盗集団としてかたづけただけでは、この現実を大きく見誤るだろう。残虐、退行にはちがいないけれど、それは外側から平板的にみているだけで、西欧が自分たちを優位に置いて、意識化された歴史から〈歴史になっていない歴史〉として除外した《アジア的段階》や、闇にしりぞけた《アフリカ的段階》は、精神の内在の面からみれば《西欧的段階》よりもはるかに豊かで優位にあるかもしれないのである。いっぽうで、《アフリカ的段階》からみれば《西欧的段階》の外在は、偉大な宗教を世俗的権力に売りわたした、人間性を喪失し精神を病んだ、機能的論理で人間を差別し隔離してきた終末的な社会であり、圧倒的に有利な精密武器と経済力と軍事同盟によって《アフリカ的段階》と《アジア的段階》を何世紀にもわたって蹂躙してきた悪魔にみえているかもしれない。
   けれども、イスラム新興勢力もまた米欧を悪魔とかたづけて無差別自爆殺傷をくりかえし、拉致と殺傷をくりかえすだけでは、西欧を超えることはできない。すくなくともこれらの問題が思想として解けなければ、つまり、精神の内在においてはるかに人間性として豊かであるかもしれない《アフリカ的段階》が、それだけでは《西欧的段階》を超えられないこと、ぎゃくに、《アフリカ的段階》を外在だけとらえて残虐・野蛮として抹殺するだけでは《西欧的段階》は《アフリカ的段階》を超えられないということが思想として解けなければ、人類が西欧で直面し、アジアで直面し、アフリカで直面するであろう(しつつある)困難をくぐりぬけていくのはむづかしいようにおもえるのだ。
   そして、吉本の段階論だけがこの困難を見透していたような気がする。

《ヘーゲルは野蛮や未開を残虐や残酷とむすびつけ、生命の重さや人間性を軽んじている状態にあると解釈している。だが現在のわたしたちは西欧近代と深く異質の仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きした存在として扱っている豊かな世界だとおもっている。文明の世界が残虐で野蛮だとみなしているものは、独特な視点から万有を尊重している仕方だと解することもできる。》(『アフリカ的段階について』九八年刊)

《わたしたちは現在、内在の精神世界の母型を、どこまで深層まで掘りさげられるかを問われている。それが世界史の未来を考察するのと同じ方法でありうるとき、はじめて歴史という概念が現在でも哲学として成り立ちうるといえる。》(同前)

《僕の考えだと、〈アフリカ的段階〉っていうのをいちばん根本のところに設定して、人類のいちばん最初の原始的な段階まで視野をおしひろげて考えれば、人はみんな、おんなじ。平等なんだっていうことが非常にわかりやすく見えてくると思いますよ。
   人はみんな、おんなじ。これは僕の根底にある確信です。》(『ひとり』二〇一〇年刊)

   わたしの伎量ではとてもたちうちできないことがいわれていて、とほうにくれてしまいそうだ。
   いわれていることはふたつあるとおもう。ひとつは、《アフリカ的段階》をどこまでも掘りさげることは、《世界史の未来》あるいは《超西欧的段階》を考察することと同じだという方法が自分の内部で成り立ったときはじめて《歴史》が視えてくる、ということ。もうひとつは、人間はみんな同じであり、平等だ、ということ。そして、このふたつは根底でつながっている。
《西欧的段階》がはるか昔に通過し、忘れ去られた《アフリカ的段階》を《生命の重さや人間性を軽んじている》野蛮・残虐とみなすことは、ぎゃくに西欧の傲慢さであり、《西欧近代と深く異質な仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きした存在として扱っている豊かな世界》だと解釈することもできるというとき、たんに《アフリカ的段階》にもどろうといっているのでもなければ、《アフリカ的段階》に同一化してしまえばいいといっているのでもない。人類の母型としての《アフリカ的段階》を掘りさげることは同時に《世界史の未来》をヴィジョンとしてとらえることと同じだ、あるいは、未来をヴィジョンとしてとらえることは過去の人類の母型をとらえることと同じだという確かな自己察知が得られたとき、はじめて《歴史の哲学》が成り立ちうるのであり、そこでだけ人類の希望が生まれるのだといわれている。また、その《歴史の哲学》は、西欧でもアジアでもアフリカでも世界同時性として問われ、解くことを課されているのだといっていい。もちろん、誰も聞く耳をもっていないとしてもだ。
   人間はみんな同じであり、平等だ、というのも理解するのは簡単なことではない。わたしたちは知らずしらずのうちに人間はみんな同じだということを忘れてしまったのかもしれないし、現実の経験がわたしたちに、人間は平等ではないという無意識を刷りこんできたために、こんな単純なことを理解するのをむつかしくしているのかもしれない。わずか十数年で数百万の人間が殺傷し殺傷された、ついこのあいだの戦争をわたしたちは知っているし、歴史は〈血塗られた歴史〉だったといったほうがいい。だが、吉本の書いたもの、肉声、振る舞いからは、視える殺傷も視えない殺傷もはらんだ《社会》のぶあつい層をつらぬいて、人間はみんな同じだという感情とイメージが滲みでてくる。
   吉本はたんに希望や願望として《人はみんな、おんなじ。平等なんだ》といっているのではない。ここには吉本の《自己表出》が指し示すイメージと感情がある。つまり《この人間が何ごとかをいわねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭を言語の自己表出(selbstausdruckung)として想定することができる》(『言語にとって美とはなにか』六一年初出)といわれるときの、沈黙のうちに長いあいだくりかえし考えられてきた《千里の径庭》があり、この《千里の径庭》によってうみだされた言葉、そのイメージが、数千年の敗北の共同性と覆いかぶさる支配の共同性の錯綜とした織物である《社会》のぶあつい層をつらぬいて、わたしたちの腑に落ちてくるのである。

本の宣伝のようなもの

   7月22日に『浄土からの視線〜吉本隆明・狂気・自己慰安』(弓立社)が出ることになった。
   この本はすでに公開している4つの原稿を加筆・訂正したものに加えて、「狂気、渦、自己慰安」という論考と「あとがき」を足してできあがっている。
   ここで「狂気、渦、自己慰安」の小見出しを抜きだして、宣伝の意味もこめて紹介したいとおもう。

◼︎1  《前衛というのは、ほんとうはないほうがよかった》
◼︎2  六○年の島たちの敗北
◼︎3  吉本の三つの敗北
◼︎4  《千里の径庭》あるいは、大衆までの《距たり》
◼︎5  現実的反射からの離脱、または《自己表出》
◼︎6  《非有機的な身体》について
◼︎7  《視る》ということ
◼︎8  国家の命運、民衆の命運
◼︎9  親鸞の《かわりめ》、吉本の《かわりめ》
◼︎10 《うず潮》とは人間存在の比喩だ
◼︎11  なにごともなかったように《時代は過ぎてゆく》
◼︎12  覆いかぶさる《観念の諸形態》
◼︎13  《連合赤軍なるもの》について、わたしたちの世代は誰も答えていない
◼︎14  狂気の吉本、あるいは吉本の狂気
◼︎15 『心的現象論』あるいは《とりかえしのつかぬこと》
◼︎16  未完の『心的現象論』は終わりのない自己慰安だったのではないか

   うまくいっているとはいいがたいが、自己表出、疎外と自然哲学に拙いけれど挑んでいる。わたしの力量では無謀ともいえるが、この領域について避けるわけにはいかないようにおもえた。そして現在、この領域について自在に分け入ることのできる論者は、大げさにいえば、世界中どこにも存在しないのだ。どうか嗤わずに読んでいただきたいとおもう。もちろん、それが最終ではなく、その先が問題なのだが、なにごとかは云い得ているとおもう。
   この論考では、くどいように同じ事柄について何度も触れている。そこに吉本さんのアクシスがあるようにおもえたからだ。その事柄とは、敗戦後、皇国青年・吉本が動員先から帰京しようとしたとき、食料を背負えるだけ背負って帰郷しようとしていた兵士たち(大衆)に出会ったことだ。わたしの解釈にすぎないかもしれないが、この情景の意味を内在的に、また外在的に問い、自分を客体視しなければ生きられなかった、あるいは、そうするほかにいられなかったのだ。この問いは、わたしが1976年に吉本講演会を妨害しようとして壇上に上ったことと重ねあわせられるようにおもえた。そして、これまでの吉本論では誰も触れなかった狂気と自己慰安の吉本像に触れることができたような気がする。また、吉本さんの狂気に触れなければ、吉本論としてはなにも云っていないに等しいのだとおもう。
 「あとがき」では、わたしたちが吉本さんから受ける、偉大な、謎ともいえる、圧倒される感情、熱い感情について触れた。それは吉本さんの《沈黙》からやってきているのだとおもう。言い当てられたような気がしたとき、わずかに達成感があった

夢の話

   10歳くらいまでよく見た夢。かなり窮屈な暗闇のトンネルを腹ばいになって少しずつ前に進む。息苦しい。ジメジメしている。あてどなく進む。気が遠くなる。力つきそうになる。どのくらい時間がたったかわからない。暗闇が続く。目の前が明るくなったとき、気を失った。

   10歳くらいまでよく見たもうひとつの夢。ボウルの内側の中腹を反時計回りで歩いている。左下が底になる。ボウルの底には水が溜まっている。湖のようでもあり、海のようでもある。歩いている足もとはぬめぬめしている。滑って湖または海に落ちそうで不安だ。波が足もとまで押し寄せる。不安が続く。

   後年になってこれらの夢が何を指しているのかわかったような気がした。前述の夢は、私が母の産道をくぐり抜け、生誕した瞬間をさしている。後述の夢は、母の胎内にいた時をさしている。そう理解しているけれど、正しいかどうかわからない。

夢の話、もうひとつ
    夢をみた。車で五叉路に入ろうとしている。同乗者は思い出せない。信号があいまいだ。ブレーキをかけても、うまく効かない。意思が足に、ブレーキに、車にうまく伝わらない。五叉路に少し入り込んでしまった。まずい。お巡りさんが駆けてきた。警察に連れていかれた。すると、どこかで見たことあるお巡りさんがやってきて、56000円と書いた切符を渡そうとする。ニヤニヤしている。小学校のときの喧嘩友達だ。それで、こちらもニヤニヤし、でも怒りに震え、お巡りさんの首を締めた。目が醒めて、その友達は、20年ほど前、白血病で死んだことを思い出した。
   チビだけど腕力が強く、死にものぐるいで噛みついてくるので、いつも負けていた。彼は母と一間のアパートに住んでいた。 中学校を卒業すると彼は、地元の工場で働き始めた。それ以来、会うことはなかった。それから20年ほどして、帰省したさいに、私の母から彼が白血病で死んだことを聞かされた。
   お線香をあげようと彼の家に行った。彼の母は、彼の病の経緯、幼い子を2人遺したこと、今は自分が育てていることなどを話した。私には力づける言葉もなかった。帰り際、玄関先で振り返ると、老いた彼の母は泣いていた。私の後ろ姿に、息子の影を追っていたのかもしれない。

吉本隆明さんを囲んで③

吉本◻いやいや、どうぞどうぞ(笑)。

菅原◻横超とか、還りがけとか、正定聚とか、非知に向かうとか、解ったつもりになるんですよね。あるとき甘露が落ちてきたように、ああ、こういうかと。でも次の日には、もう解らないんです。ついつい安易な方向に行って、酒場に行って焼き鳥屋に行って………深酒して、しばらくしてまた夜寝る前に蘇って、還りがけというのはこういうことかと解ったつもりになるんです。その繰り返しなんですね。例えば、苦しいですよね、いろいろな権力とか、仕事がリストラされそうとか、嫉妬とか羨望とか、コンプレックスとか、いろいろと苦しいときに、横超という言葉が自分の中にふと浮かんで、その意味が解ったときに楽になるというか、これはすごいと思うんですけど、結局翌日になると嫉妬や羨望などいろいろなことにまみれて苦しんでしまう。その連続なんですけれどね。
横超といったときに相当いろんなことをのみ込んでいる、易行道とか悪人正機といったときに、思想のかたまりをのみ込んでいる、そういうことがあると思うけれど、また楽なほうへ行ってしまう。悪を造る、つまり造悪という方向に楽ですからいってしまう。自分ではそれを繰り返しているという気がするんですが。

吉本◻それでいいんじゃないでしょうかね。というのはそこで、そこでなら自分を許して、自由にしていいんだという、そういう限界を、凡人の限界といえばその通りで、そこのところをまた繰り返し同じ問題が頭に来て、考えを進めるんだけどまたそんなになっちゃうっていうところ、いいんじゃないか、いいかどうか解らないけど、僕はそれでいいと思うんですよね。

菅原◻読んだ本っていうのは、難しいことは忘れるんですが、その中に出てくることで自分の中で何度も引っかかることは繰り返し繰り返し自分の中に入ってくる。
段階論っていうのがありますね。空間的にはヨーロッパとアジアとアフリカという地域に分けられるんですが、それを時間に、歴史的な段階におきかえられるっていう段階論が……。
1976年の6.18の後ですけど、僕は、極東アジアの首都の片隅で右往左往していたにすぎないというふうに自分を俯瞰したときに、その段階論が、アジアということが、僕の中にすっと入ってきたことがあるんですけれど、吉本さんの本にも何度も繰り返しこの段階論というのが出てくると思うんですが、それはとても難しい概念ですよね。
アメリカとイラクの戦争のときにも、この前の『ひとり』っていう本にも出てきましたよね。そういうふうにも考えられるんだって、ああ解ったって思っても………すぐに解らなくなる。難しい概念ですよね。

吉本◻難しいですね。あのー、僕がどうやって本を書くかっていうと、ん~、なんでもいいんですけどね。よく、僕はね、僕は美空ひばりっていうのが好きだったんですよ。美空ひばりの最後の舞台っていうのがあるんですよ。それが平たい舞台の上に階段みたいな、またもうひとつ階段みたいなものが置いてあって。彼女はたぶん足腰が利かなくなっているんだと思うんですけど。そのいくつかある階段に腰を下ろして足が観客から見えないように長いスカートがあるでしょ、あれをはいて、足先以外は隠れるようにして、階段に腰掛けて、たぶん終わるまで立っていられなかった、舞台が終わるまで立っていられなかったんだと思いますけれども、そういう姿勢で歌ったんですよ。
それをテレビで見ていまして、はー、こういうのが芸術家っていうやつだなって思った。
イメージで助けてもらえますね、あなたの問題は、繰り返し繰り返しっていうのは、イメージでいいんですね。誰かのイメージでもなんでもいいんですけど、これだなっていう何か、感情を獲得するようにして。よけているっていうか、問題の難所をよけている、かわしているって言いましょうかね、そんな気が自分でしますけど。イメージに直してしまえばそこの問題は解決するんじゃないかなと思います。
人間の感覚っていうのは他人(ひと)が言うほどそんな簡単じゃない。目だって、見たら見えたってそんなもんじゃないって思ってますけど。それは、なんか人間の感覚の生涯の範囲っていうのを決めていくっていう、だからそこで僕はイメージで、感覚で見えるんだっていう、そういう感じをもちますけどね。
ちっともあなたのおっしゃることに答えられていないし、そんな資格もないと思いますけれど。最後のあれは本当にそういう格好で……。

吉本隆明さんを囲んで②

菅原◻ここにお邪魔をするのは26年ぶりなんですけど。

吉本◻美男子ですね......、前に比べて(笑)。

菅原◻あー、いえ(苦笑)。
僕は井の頭線の高井戸というところに住んでいるんですけれども、ここまでは近いと言えば近いんですけれども、精神的には、まるであれですね、親鸞に会いに常陸から、茨城からはるばる京都に来たような気分ですね。
今の話でいくと、僕も大学に入り、誰かに薦められて吉本さんの『自立の思想的拠点』を読み、それから出たものはほとんど読んで。ところが 6 月18日、あの、三上さんの集会のとき、僕は壇上に上がったほうなんです。その後吉本さんの書いた『情況への発言』を読んで、それでもう、自分の意識の中では一種の敗戦でした。戦争に負けたっていうか、何か解らないというか、何が起きているのか解らなかったです。ただそこからそのことについて、ひたすら考えました。いまでも考えています。それは同じことなんです、あのときと同じこと、同じパターンが、何度も反復しているんです。現在でも反復しています。
三上さんがどうかとかそんなことは僕にとっては関係ないんです。それより、自分が読んでいた人と壇上で向かい合って、まがりなりにも敵対してしまったと。それは僕にとっては大変なショックで、その後でしょうか、ここによく、千駄木でしたけれども、おじゃまして『最後の場所』っていう雑誌を書いていました。それで……。

前川◻『最後の場所』というのに『都市に関するノート』という小文でしたけれども、吉本さんに寄稿していただいているんですよ。それは、彼にとっては嬉しかったと思いますよ。僕が吉本さんに「横超」という酒に字を書いていただいた以上に彼は嬉しかったを思いますよ。自分として6.18の総括を含め、左翼生活の総括を含めて再出発するのに最後の場所として選んだ雑誌だったわけですから、そこに吉本さんが書いてくれるっていうのは、彼にとっては嬉しかったんだと思いますよ。

菅原◻いや、でもね、なんて言うんだろう。その、例えば僕が「吉本さんの本を読んでいます」と、お会いしたこともあるし、ということを他の人に話しますよね。全共闘のころはたくさんの人が読んだだろうけど、ところがその人たちは、もう、あとは吉本さんの本を読んでない人もたくさんいるわけですから、吉本さんに会いましたと言うと、吉本さんに書いてもらったと言うと、それが一種の棘になってくるんですね、関係としての。へぇ、それがどうしたのとか、いろんな反応がありますよね。それは逆に何だろう、これはというか、それはなんかちょっと……。
それは『新約聖書』で、イエス・キリストが自分の名前を語るとあなたはひどい目に遭うだろうという、そういうくだりががありますよね。それに似たことがね、現在でもそうですよね。そういうことっていうのはあるんですよ。だから吉本さんの思想を引き受けるというのはそうとう大変なことだと、思いましたけれど。
それで、6月18日、もう35年前になりますが、品川公会堂であのことがあって、その後、最初に書いたものをお持ちしたことがあるんですが、僕がまだ25、26歳のころですけれど、そのときに書いたのが「アジアの極東の島国の首都で、僕たちは右往左往してきたすぎない」というようなことを書いたんです。今でもそのフレーズは自分の中で残っているんですが、なんていうんですかね、醒めたんです。一気に醒めたんですよね。言ってみれば赤軍と同じようなことをやってきたわけですよね。壇上に上がって、内ゲバみたいなことをやって。それを一瞬、冷めたっていうか、鳥瞰できたっていうか。アジア、それから日本、その一都市で僕らは右往左往してきたっていう、その惨めさというか、それが一気に鳥瞰できたというか。
それは、今でも自分にとって思想的な体験だったと思うんです。吉本さんの書いた『情況への発言』を読んだことのあれですけれども。そのときにこれは大変なことだなと、根本的に日本の左翼っていうのはだめなんじゃないかっていうふうに思いましたね、そのときに。要するに、いつでもなるんですよね、連合赤軍みたいになるんですよね。いつでも、いつでも百人千人を殺めたり、そこまでスーッと、集団の場合、今でもそうですよね。その怖さっていうのはどこから来るのかっていうことを日本の左翼っていうのは、左翼だけじゃなくて日本の知識人っていうのはだれも解らない、そのことに気がついたみたいな気がしたんです。それでですね、そのことで僕は叛旗っていうのは駄目だと、一生懸命つぶしたというか、もうやめよう、みんなやめようと言って。神津さんたちはやめないで、後始末が必要だという。いまでも倫理的な後始末をやっているんだと思うんですよね。

前川◻終わらないんだよ後始末が。僕なんかにいわせると後始末が終わらないなら打ち切るよという感じだけど、あの人たちは終わらないんだよ。あの人たちにはあの人たちの生き方があるんだ。実をいうと先々週かな、2年連続であの人たちの忘年会に行っているんですよ。「横超」も送ったんです。要は年月が過ぎて僕なんかが行っても別に普通にいいだろうということで、いろんな話をしてそれはそれでいいだろうということで行ったんです。確かに感覚的なところで違うんです。
菅原くんの文章というのは反語の文章といってもいいくらいで、大学に入ってすぐ気に入りましてね、なるべく近くにいようと思って近くにおったわけです。正直言って叛旗の中で一番刺激的だったのは、僕は菅原くんが一番刺激的、正直言って。

菅原◻前川、それは言いすぎだよ。

吉本◻あなた、いい男ですね(笑)。独身ですか ?(笑)

菅原◻子どもはいますが……ひとりです(笑)。
それで……同じ叛旗派だったやつで、池尻大橋で親父さんの後をついで30年ほど鉄板焼き屋をやってるやつがいるんですが、その彼が「親鸞は人びとに、経文は読まなくていい、修行もしなくていい、ただ南無阿弥陀仏ととなえるだけでいいと言いながら、自分ではひたすら『教行信証』を書いていたというのはどういうことなんだろう」というようなことを言ったんです。僕も、それはたしかに不思議なことのように思います。大きな矛盾だと思いますが、どう考えたらいいのでしょうか。

吉本◻(身を乗り出すように)それはね、死んでも解らないんですよ。おそらく、死んでも解らないんじゃないでしょうか。
そこがおもしろいと思うんですけど、親鸞は流罪を終えてから、京都に帰ってないんですよ。そこがおもしろいと思いますけれども。親鸞は流罪になってから越後にいたわけですね。越後に行って結婚もしてね、それから一度も京都に帰っていないんですよ、年取るまでは、一度も。だから、法然にも会っていない。
『教行信証』を見れば解りますけど、『教行信証』の最後のところに、自分がとうとう浄土宗のほんとうの信者になれなかったという。どこかっていうとひとつには、自分は妻帯するっていうか、女性との関係ということで言えば自分が最後まで浄土宗の教典がいう意味での禁欲っていうか、僧侶らしさというものを、とうとう守れなかったということ。もうひとつは他人(ひと)の先生みたいな顔、人士というか、他人(ひと)の師みたいな顔をして説くことをやめてない、このふたつが決定的で、自分がとうとう浄土教の本筋にいけなかったということ。
そういう懺悔をやってるんだけど、昔ならば法然っていう名前が出てくるんですけど、法然に対しての懺悔っていうことが出てきているんだけど、刑を終えて解放されてから一度も法然の名前が出てこないです。それから懺悔も法然を媒介にして懺悔するということが出てこない。先生づらすることとそれから妻帯するってことは最後まで収まりがつかなかった、やめていないし、やめられなかった。
それはいわゆるお経で言うと浄土宗のあるいは浄土教の本筋からそれだけでも、言ってみれば反則である。自分は言ってみれば反則したままであると。懺悔は、前はいつでも師匠がいて師匠を仲介にして懺悔するっていう、そういう懺悔を、前にもしている、新潟にいたときでもしているわけですけれども、いつでも法然を媒介にして懺悔するっていう。ところが最後、『教行信証』では法然は出てこないですよ。
釈放されて千葉の房総にただ一人そっちへ直接行っちゃうんですけど、そこへ行く際に一カ所だけ立ち寄ったところがあるんです。浄土教のお坊さんたちは、それはそこに三体の阿弥陀仏の塑像があるからそれを拝みに行っているんだと言っているんですが、それは僕はそんなことはないと思うんですよ。善光寺平に善光寺がありますが。あそこは独立宗教、つまり無宗教、無党派宗教だから立ち寄ったんだと僕は思うんですね。僕はそう理解したんです。善光寺だけは寄って少し長く、数日泊まってますね。それでそのまんま、その後千葉県の房総に行っちゃうんです。房総っていうのは要するに関東の史的集合地から少し外れたところですね。それは常陸風土記を見れば解りますけれどね。それであの人はもう法然も頭になくなっちゃうし、他の人もなくなっちゃうし。自分自身、懺悔するために、先生というのはやめられなかったということですね。
それからいろんなことを言われてますけど、念仏も一念って言って一回やればたくさんなんだって言ったっていわれてますけど。そこは僕は知りませんけど、法然がそういう手紙を出してますね。親鸞に宛ててるわけじゃないけれど、越後庄に集まった人たちに宛てている。お前たちは、勝手に一念、南無阿弥陀仏で一生に一度でいいんだとか、無念義って言ってそんなものはいらないんだって言ったりしているけど、直接自分が行って膝を交えて説きたいけれど、それは間違いだって『一念義停止起請文』っていうのを書いてますけど。いい文章ですけど。もう親鸞のほうは、そんなこと問題にしないって、ただ自分に懺悔するだけって言ったんですけど。
どうしても先生づらして千葉県の民衆に説くことと、妻帯して女性と関係することだけはやめられなかった。そのふたつで浄土宗を失格しているという懺悔を、法然に対してだけじゃなく、誰にともなく懺悔をしている。そのために俺は正定聚にどうしてもなれなかったっていう。
僕は最後のところがよく解らなくって、去年か一昨年、やっと、一昨年くらいに自分なりの解釈を『太陽』っていう平凡社から出ているものの中に書いている。要するに浄土の真宗と親鸞が言っているものは、自分が宗教でもって民衆に近づこうっていうふうに試みてきたけれど、とうとう最後まで近づけないで残った。親鸞は最後まで近づけないで残っている、その残っているというところが浄土の真宗だ、というふうに親鸞は考えているというふうに僕は………。もう時間がないし、何に対して時間がないかというのは曰く言い難いんですけど、これが親鸞の最後の結論であるというふうにして、僕は『太陽』に書いているんですけど。
僕は、これで親鸞の結論はこうだったっていうふうにしちゃえっていう、自分を急かせるものがあってそういうふうに解釈したのですが、それが最後だっていう、意味があると思うんですね。
そこがあれなんですね、どうしても最後に民衆に同化っていう、同一化っていうのがとうとうできなかったっていうのが最後の親鸞なんです。

前川◻僕も正定聚というのは解っているつもりなんですが......。

(吉本さんは前川の正定聚と云ったのを曹洞宗と聞きまちがえたようだ)
吉本◻……隣のお寺は曹洞宗なんですよ。前の和尚が年で亡くなったんです。

前川◻隣のお寺とはつきあいあるんですか。

吉本◻つきあいはないっていうか、つきあわないっていうか(笑)。 和尚が代わったらなおさら綺麗になっちゃって(笑)。

前川◻吉本さん、時間がそうとうオーバーしちゃってるんですけど、最後に菅原くんのほうからなにかあれば。

吉本隆明さんを囲んで①

聞いたひと…前川藤一、菅原則生

《2010年12月21日、上野に住む前川の働きかけでわたしは二十数年ぶりで吉本さん宅を訪れた。以下に掲出した文章は、そのとき吉本さんを囲んで話し合われたものを文字に起こしたものだ。
呑んべえの前川は自身が造った酒「横超」とビールを持参していた。初めから飲みながら吉本さんと話がしたいという前川の願望が実現したかたちになった。そして、わたしにとっては、前川の計らいがなければ吉本さんに会うきっかけはついに訪れなかったかもしれない。わからない。もういちど吉本さんに会って話がしたいという願望がつねに心の何処かにあり、その思いが前川に、吉本さんに伝わったのかもしれない。かつて20代の初めに、講演する吉本さんに中野公会堂で出遭ってしまったことが必然だったとすれば、この日、吉本さん宅を訪れたのも必然だったようにおもわれる。なぜならば、訪問する途次と、吉本さん宅を辞去したあと、わたしは言いようもなく孤独だったからだ。そして、わたしのなかで、切れてしまっていた過去と現在が少しずつつながっていった。
前川は数年前から上野に移り住み、タクシー運転手をやっていた。近所ということもあり、なにかにかこつけては吉本さん宅におじゃまし、玄関先で吉本さんととりとめのない話をしていた。吉本さん宅に伺った後に、高揚した気分でわたしに毎回のように電話してきた。前川のその高揚した気分はわたしにもわかるような気がした。前川によれば当初、長女多子さんからは素姓のわからない怪しい男とみられ、敬遠されたようだ。それでも、前川のあけっぴろげで、あぶなっかしい、遠慮のない、近所の小父さんのようなな性格にしだいに関係はほぐれていったようだ。おそらく、吉本さん宅を訪問する多くはわたしと同じように暗く神経質なひとびとであり、それらのひとびとと前川の資質はちがっていたようにおもわれる。吉本さん、多子さんからみるとそれがおもしろかったのかもしれない。わたしと吉本さんの距離と、前川と吉本さんの距離が微妙にずれていて、そのことが興味深く、また、なにごとかを暗示しているような気がする。吉本さんがこの会話でみせた笑顔は、前川のその資質によるものだったとおもう。
吉本さんにお聞きしたかった主たるテーマは、1976年 6 月18日の三上治主催の品川公会堂での吉本さんの講演会をめぐってのことだった。わたしと前川は叛旗派の一員として、この講演会を妨害するために出かけて行き、壇上に上がり、吉本さんの眼前までつめよっていた。》

前川◻やっぱり僕らからすると全共闘っていうのは結構いろんな思い入れがあります。60年安保は子供として画面で見ていただけでしたから、左翼体験の初めては実質的には60年代後半の全共闘運動で、僕は福岡にいて高校生でしたが、強い印象が残っています。
僕は勉強をそんなにしなかったので大学も無理だと思っていたのですが、偶然青学の文学部に入りまして、叛旗派の拠点だったから、ある意味ほっとしたところもあったんですけどね。そのときに菅原くんと出会いまして、それで彼と自然に親しくなりまして。
僕なんかにとっては全共闘っていうのは開明的な感じがしたんです。あの運動の中で僕なんかが感じたのは「ああ、もうこれで共産党は終わっているな」ということ。ほとんど全国の大学では完全に共産党は効力なしなんだ、新左翼というか全共闘が握っているなというところがあったと思うんですね。
その辺のところで吉本さんの影響力があるじゃないですか、やっぱりすごかったですよね。ほとんどの全共闘の中で吉本を知らなかったら左翼ではないという読まれ方。そういう読まれ方について吉本さんとしてはどう思われますか?

吉本◻はぁー、僕は、あんまりわかんない。知らないし。

前川◻もう、圧倒的に読まれたんですよ。僕は高校のとき最初に吉本さんの本『共同幻想論』を読んだ気がします。その後もう、買いあさりました。まず、わからない言葉が多かったんですけれど、とりあえず何かありそうだという感覚があったので。それからすぐに詩を読みはじめました。やっぱりひかれるんですね。普通にあの当時の全共闘の学生や高校生たちは、吉本さんの詩を含めて、かなりの影響を受けた人がたくさんいると思うんですよ。そういう読まれ方をしてるんですよね。
吉本さんの詩に「武器を取れ」というようなのがあるじゃないですか。吉本さんが武器を取れといえば、幻想的な言葉であったとしても、僕は実際の武器を取りますよというくらいに吉本さんの影響はありましたよね。

吉本◻いや、今あなたがおっしゃったね、僕が書いたね、自分で書いて表現して自分の考えを述べたり、芸術らしき詩を発表したり、それはね、それはちょっと自信があるんですよ。まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。それは俺はちょっと自信がありますね。
表現っていうか、思考っていうか、考えっていうか、そいうものに基づく表現という、書いたものには自信があります。これは今のところ、今もこれからも、もしかするとそうかも知れませんけど、そういうことを認めてくれないまんま終わるし、時代は過ぎてゆくことになるかもしれない、そういうふうに思って書いたもの、とことん書いたものを読んでくれたら大変、あれですね、解る、解ってくれるように思いますけれども。それは今のところありませんから、半ばこれでいいやと。
編集者の人でひとり、編集して、類別して、鑑別して整理してくれている人がおりまして、それが 3 〜 4 人の人の手元にありますが。それは、なんていうか、僕だけの個人的な自信というのでいいんじゃないかな、というふうにあきらめてますけど。
あの、僕の、あれができるのは、どういったらいいでしょうか、時代を読むっていいましょうか。時代を読むっていうことはいつでも考えていないと駄目なんですよね、空白を作らないこと。いつでも考えています、何やってるときでも考えてますけど。結局僕はいちばん能率の悪い物書きで、何か書いて、読みたいやつが読んで読みたくないやつは読まない、そんなことで過ぎてきている。それだけのことですけれど。そこはもう全貌を読んだ人がひとり、編集をやってくれたんですけれど、それは、その全貌を読んでもらわないと、僕自身は物書きとしてつまんないことを書いて、ちょっぴりとお金をもらって、それの繰り返しで、それだけで、それ以上のことはないんですけれど。

前川◻叛旗派の集会で講演されるじゃないですか。あの当時の、1976年の6.18の品川公会堂での三上さんの政治的集会に吉本さんが出るにあたってはどういった感覚で出てきたのか。ただ三上さんとの関係のなかで「あの人は愛嬌があるから」というところなのか、あるいは叛旗派に対してこうなってほしいというのがあって出てこられるのか、その辺のところもお聞きしたいのですが。

吉本◻それは両方じゃないですか。小さく小さく両方。三上くんは愛嬌がある、それだけのことで。神津くんは愛嬌と許容力がないんだよ。だから、だから指導者的ではないんですね。むしろあの人は思想的なほうがよくやれる、これからはやれる人だと思っている。

前川◻前に話した時に立花さんのことが出て、あの3人の中で立花くんの感じがいいと思うよと言っていましたが。

吉本◻あれはいつごろだったかな、万博のころだと思いますね、ずいぶんちゃんとしたことを言う人だなという印象がありますけどね。深く入っていくってことは別にないんですけど、こっちが必死で物書きで、はみ出したことがないからそうなんだろうなと思いますけどね。
叛旗派っていうと今もふたつあるじゃないですか、神津くんのと三上くんたちの叛旗派が。

前川◻実質的にはもうないですけど。

吉本◻叛旗派っていっていいものかどうか解らないけど、ま、解体したわけですけれども。でも広告なんかを見ると、ふたつありますよね。三上くんたちのと神津くんたちのと。ああ、いまだに分かれて喧嘩しているんだな、とそういう感じで。

前川◻今は喧嘩するということもなく、関係的にいうとお互いに見て見ぬふりというところでしょうかね。逆に、菅原くんみたいにその辺のところはある程度断ち切っているというグループも当然ありますけどね。

菅原◻グループじゃないんですけど、グループはなにもつくってないんですけどね。たまに会ってお酒を飲む程度ですが。

吉本◻要するに、より文筆的なのとより政治的なのと、こういうふうに、ふたつあるという印象がある。神津くんは物書きだから、これから頑張ればいいのに、と思うけど。だけど一度政治的なことに触れた人というのは遠慮がちなんですよね。物書きになることに対しても遠慮がちだし、政治的なほうに対しても遠慮がち、遠慮がちというのはいらないんですけどね。僕から見てるとそういう感じ、遠慮がちっていうのはいらないんだよ、いらないときなんだよっていう、現代はそういうときなんだよという、そういうこと、なんとなく遠慮がちという感じですね。三上くんたちもそうですよね、なんでそんなに遠慮するのかという感じですね。もっともっと言いたいことは言い、やりたいことはやりっていう。もっと率直に。
60年のとき僕らがいちばん影響受けた、この人は指導者だなっていう、島くんっていうのがいる。この人はものすごくやるときは潔かったですよね。もちろん共産党なんてつぶれちゃって、つぶしちゃってもかまわないからやるときはやるから。僕らに対しても何かあれはあったんでしょうけど、呼んでね、闘争なんかに参加してくれなんてことは一度も言わないんですね。むしろ参加したら面倒くせえっていう気配のほうが強くて。学生運動は、この闘争は、自分たちだけでやります。ただ、見といてという。僕の考え、感じ方では、ただ見ていてくださいっていうような、なんとなく見守って、どういうようにやるかっていうのを、どういったらいいでしょうね、「好意的に見守っておいてください」という意味合いに僕には取れましたけど。あの人はいったんそう決めて。
内部的にはいろんなことがありましたし。共産党からの妨害もひどくて、どっかへ飲みに行って、それを写真に撮られて、写真をどっかへ持っていかれて、あいつらはこういうところへ出入りしていた、なんてやられた。

前川◻共産党っていうのはいつまでたってもそういう精神がありますね。

吉本◻いつまでたっても直らない。あれは直らない。どうすれば直るか何度も考えてみたけど、駄目ですね。あれは直らない。病気。直らない。だから別に当てにしたこともないし、何かやったって、いいことやったって、何を書いたって、議会で言ったって、一対一で言ったって。あんなの問題にならないばかりで。まぁ現実問題としては何か協力をお願いするみたいなものはやらなきゃいけないし、しょうがないでしょうから、そんなことに隔てを置くことはないわけだと僕は思いますけれど。

前川◻僕も普通に共産党系の組合と仲良くやってますよ。

吉本◻それは結構なことですよ。どっかに刺激要素がないと、凍りついてそのままになりますよね。だから刺激はあったほうがいいですね。乱暴な刺激でもいいしおとなしい刺激でもいいし、どっちでもいいから刺激があったほうがいい。なけりゃどうしようもない。
だけど感心なことには、今、若い人はぞくぞくとバカなやつが、ぞくぞくと集まっていく。どうやって集めるのかね。よく集まるもんだと感心してますよ。僕はビックリします。ビックリして感心しますよ。
あの人たち、共産党の、なんていうか仲介によって変な、和解のためにっていって、宮沢賢治賞っていうのを僕にくれるっていう……。それはあの宮沢賢治研究会というのを作って、そこへ行って説得して、そういうのを仕組んだんですよ。相手の人は知らないけど、仕組んだんですよ。僕の知り合いは宮沢賢治研究会の文化面を受け持っている天沢退二郎っていう、あの人は宮沢賢治研究会のあれなんですよ。かわいそうに、あれなんだね、共産党っていうのは変な意欲はあるんですね。俺にそれをやってくれっていうから。相手の思想はどうだっていうのは関係、興味もないけど、僕の場合には宮沢賢治が子供の頃から好きなんで、天沢くんと入沢くんといって工業大学の先生してる詩人がいるんですけど、ふたりいるんですよ。あそこへ行ってやるんだって、そういうあれはないんですよ。おとなしいんですよ。ふたりともおとなしい人で。それで共産党っていうのはおさえるのはなかなかうまくおさえている。
僕はなんで花巻まで行ったかっていうと、副賞の一百万円(いっぴゃくまんえん)が欲しかったんですね。うちのは病院に、入院と退院を繰り返してますからね。今は 2 階で寝ていて、退院しているかと思うと、昔、高校時代にスポーツをやっていたから、ちょっと良くなると動くんですよ。またすぐ倒れて腰を打って、それでまた入院して入退院を繰り返しています。
花巻では向こうも仏頂づらしてるけど、俺も仏頂づらして会員には挨拶ひとつしないで、天沢くんとだけお互いに遠くで顔も見えないところで挨拶だけして、それで帰って来て一百万円貰って入院費に使っちゃいましたよ。それだけのために花巻に行きましたけどね。くれるっていうのを貰わないというのは馬鹿げたことですからね。天沢くんとだけ遠くでお互いに顔も見えないところで挨拶だけして帰ってきて、お金は使っちゃいましたけどね。
天沢さん、入沢さん、ふたりとも優秀な詩人です、「わが出雲」っていうのを書いた人ですけど。手間をかけて全集を作って、それも大変だったと思うけど、いい詩をたくさん書く。だけど、やっぱり政治勢力がかぶさってくるとおとなしくしている、っていうことはいたしかたないことで。


前川◻6.18の品川公会堂の三上さんのことがありましたが、その後『試行』に吉本さんが、あの場でのいろんな情況というのは結構意味があることだと書いていらした。あのとき『試行』の中では三上を支持するとか、神津を支持するとか、どっちがということには触れていなかった。そういうことではないんですよね。

吉本◻それは全然そういうことはないんです。いまでもそうです。ふたりとも来ますよ、違う日に(笑)。

前川◻あの公会堂に、僕たちは叛旗派として介入したほうなんですよ、その後にそれなりにリアクションがありました。一番のリアクションはたぶん菅原くんにあったわけですよ。菅原くんがその後の叛旗派解体の中で主導的な位置にあったのは間違いない。僕はそのように見ていました。僕はあの後消耗しまして、別れた奥さんとふたりで静かにしていました。

吉本◻僕が三上さんから、おしゃべりに来てくれないかと言われて行きましたが、あの人が僕に、何も言わないけどひとつだけ言ってくれたのは、なんかみんな、うちの奥さんが弁護士かなんかの試験を受けて弁護士になるっていうのが不服らしいんだ、とそのとき言ってました。民事の弁護士さんなら関係ないじゃないですか、いいじゃないですか、どういう影響があるってわけじゃないわけだしいいじゃないですかっていうおしゃべりをしましたが、それ以外は話はしませんでしたけどね。叛旗派っていうのはあれだったと思いますよ。何でもかんでもケチをつけようとすればケチをつける、そういう時期だったとおもいますけれど。
三上くんがおしゃべりをしに来てくれないかと言うから、いいですよって言って行きましたけどね。何派とか関係なく行っただけで。神津くんと対立関係にあるって、その場へ行って、えって思ったくらいでね。まぁ僕も別に被害を受けたわけではないし、ももを切られたわけでもないし、おとなしいもんで。神津くんが講演をさせまいとして止めてたみたいな、そのくらいのことで、それだけで格別なことでもないし。

前川◻あのとき面白かったのが吉本さんが話しだしたら、結局みんな静かになったんですよ。叛旗のグループもみんな、吉本さんの話だから、介入はしたけどとりあえず聞こうよと、そういうことになりましたね。(つづく)



吉本隆明追悼その3 問われ続けた《革命とは何か》③

    統一国家が成立する前、今から千数百年から二千数百年前、小規模な国家または国家以前の国家が日本列島に群立していた。それらの国家群はそれぞれに《法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣》を、つまり《観念の諸形態》をもっていた。そして、大多数の大衆からみて出自のよくわからない、秘儀に包まれた《観念の諸形態》をもった国家が横合いからやってきて、それらの小規模な国家群の上に覆いかぶさり、《観念の諸形態》を吸収し、交換しながら統一国家を形成していった(現在のアメリカ国が日本国に覆いかぶさり、さらにそれらが沖縄に覆いかぶさり、軍事と経済と国際関係において圧服している姿を想定すれば部分的にわかりやすいかもしれない)。そのとき、大衆は《本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らが所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚》したのであり、歴史の現在も、形を変えながら、その反復・再現のただなかにあると云っていいのである。『共同幻想論』、『南島論』は、その《交換された法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣》をあたかも《自らのものであるかの如く錯覚する》という《大衆の総敗北の構造》を叙述することをモチーフとしたものだ。
     強調したいのは、それらの叙述の背景には《大衆の総敗北の根柢》が悲しげな像としてあったということであり、逆説とみえようとも、吉本の本に生涯にわたって関心をもたないであろう《大衆》との対話があったということだ。たとえば、道端に書物『共同幻想論』が落ちていたとしよう。多くの通行人が通り過ぎ、何日も雨風にうたれて朽ち果て、クズ同然になってしまった。わたしならばその書物が巨大な思想の書であること知っているから持ち帰って大事にするだろう。だが、吉本にとっては自分の本に関心をもたない大多数の通行人(大衆)との距たりこそが問題であり、その距たりを超えられるか否かが、超えなければならないのに超えがたいということ自体において自分の思想がつねに試されていることに覚醒していることが、自身が《真の知識人》であることの条件だったのである。そしてもしここで、通行人よりもわたし(菅原)のほうが吉本に近い、あるいはわたしのほうが優位だと考えれば、わたしは宗派になって閉じられてしまうほかはないのである。

《たとえ、情況は困難であり、発言することは、おっくうであり、孤立を誘い、誤るかもしれなくとも、わたしの知らないわたしの読者や、わたしなどに関心をもつことのない生活者のために、わたしの考えを素直に云いながら行こうと決心した。》(『敗北の構造』あとがき)

     知っている読者よりも知らない読者、知らない読者よりも《わたしなどに関心をもつことのない生活者のために》書いていくんだということの意味が、あるときわかったようにおもったとき、わたしのなかでしずかな戦慄が走った。そして、《革命とはなにか》がわかったようにおもえた。

◆『国家と社会の寓話』をめぐって

     2005年に公開された『中学生のための社会科』におさめられた『国家と社会の寓話』と題する比較的短い論考は、まとまったものとしては、おそらく吉本が自身の手で書いた最後のものであり、文字どおり渾身の力をふりしぼり、全霊を傾注したものだとおもえる。その圧縮度の高さ、抽象性がそのまま具象性になった、削ぎ落とされた寓話に衝撃のようなものをおぼえる。

《イエスは、帰っておまえの所有物を売って貧しい人に施せ。そして私について来いという。その人はこれを聴いて悄然と立ち去る。富んでいたからだ。そんなことをいわれたら弟子たちに従える者などいない。イエスはいう。人間にはできないかもしれないが神にはできるのだと。………中略………これは人間が利己心を捨て得ない存在で、『聖書』のいうように「神」だけにしか私的利害の問題を放棄できないからだろうか。これが 二千年前も、二千年後の現在も「社会」が孕んでいる疑問である。わたしが現在いえることは、個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべきで、そのほかが「国家」とか「社会」とか「公共機関」と偽称することを許すべきではないということだけだ。》 (『国家と社会の寓話』)

     大は偉大なる世界的な宗教宗派、国家、その中央委員会を牛耳る政治党派から、小は群小の政治党派、ユートピアをめざす集団、どこにでもある小サークルのことが云われている。つまり、《桎梏となる共同幻想をうみだしてしまった 3 人以上の社会》のことが云われている。それらの閉じられた《社会》では《人間にはできないかもしれないが神にはできるのだ》ということばがまことしやかに耳元で囁かれている。ここでの《神》を、《国家》《党》《首脳》《有能な者》などに読み替えることができる。また、《本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態》とも読み替えることができる。そして《人間》はあるとき、それらの《神》の前で歪み、萎縮し、いじめられ、人間以下になり、あるときは逆立ちして神になって、他者を威圧し、蔑んだりしているのだ。《これが 二千年前も、二千年後の現在も「社会」が孕んでいる疑問》なのであり、人間は、ということは、わたしたちはまだこの疑問を解いた《 3 人以上の社会》を体験したことがないのだ。
     わたしたちはかつて、60年安保ブントの流れをくみ、吉本の影響をうけた三上治を指導者とする弱小の政治党派《叛旗派》を形成していた。正確に云えば、70年に大学に入学し、馴染めずに学内をうろついていたわたしは、叛旗派に漁(すなど)られたのだ。政治活動を志していたわけではないし、吉本の本を読んだこともなかった。学生会館の部室には赤いヘルメットが乱雑に置かれ、吉本全著作集が転がっていた。共産党系の生まじめで清潔な善良さとも、革共同系の思いつめた廃疾の雰囲気とも違って、下駄履きのルーズさがあった。そこに吉本の影響をみることもできたけれど、ただのファッションにすぎなかったとも云えた。しばらくして、なんの説明もなく、姿の視えない首脳部から指示が下りてきて、小グループに分かれて火炎瓶を持たされた。《私的利害の問題を放棄》することなどできるはずもないのに、そうすることを強いられたのであり、また、自ら倒錯して神になったり、できないで獣になったりしていた。精神の変調をきたす者がいたり、公安警察が遠巻きにいつも監視していた。陽だまりのような憩いがなかったといえばうそになるが、そんな惨澹たる事柄が76年の 6 月まで続いたのである。
     その間、わたしは指名手配され、そののち10か月ほど独房にいた。国家から追跡されているとき、吉本に何度か公衆電話から電話したことがあった。わたしは左翼についての疑問や、自身の不安を喋った。吉本はうなずき、聴き、意見を云った。わたしは十円玉を握りしめて続くかぎり意見を聴きたかった。すさんだ、みすぼらしい、見知らぬ若年者からの電話を、吉本は自分から切ることはなかった。独房では初めてまとまった時間に吉本を読み、漱石、太宰を読み、ヘーゲル、マルクス、ドストエフスキーなどを読んだ。中身はあまり憶えていないけれど、いずれも重く、深かった。隔絶された密室は読書に適していたし、そのことにおいて楽しく、貴重な時間だった。また、独房の前を通り過ぎるとき窓からわずかに見えた友の顔が今も浮かんでくる。
《革命とはなにか》について誰も語れず、《私的利害の問題を放棄》することに一様に疑いをもち、心理的にも外在的にも内ゲバに終始し、誰もが疲弊の極に達していた75年、暗黙のうちに《私的利害の問題を放棄》することを強いていた政治党派の指導者・三上が、皮肉なことに、《私的利害の問題を放棄》していない点を首脳部内部で追及され、叛旗派を離脱した。そのとき三上は逆上したにちがいない。だが、これは三上が自ら投じたブーメランが自分に戻ってきたのかもしれなかった。三上たちがつくった、《人間にはできないかもしれないが神にはできる》を黙契とする政治党派において、三上の有能な下僚たちの潜在的な三上に対する愛憎が顕在化し、その黙契を実行したにすぎないのかもしれなかった。
     もしもこのとき三上が下僚たちの追及の言い草を根柢から覆すことができたら、つまり、スターリンらによって追い込まれたレーニン派や追放されたトロツキー派が成しえなかったことができたら、日本の政治思想は決定的に旋回したにちがいない。逆に云えば、下僚たちが《私的利害の問題を放棄》できない三上を離脱させないで、包括し、論理を組み換えることができたら、同じように日本の政治思想は決定的に旋回したにちがいない。いずれにしてもそれは、あらゆる宗派(党派)をひとすじの道をたどって超えること、《本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らが所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造》から解き放たれることだった。もちろんそれは、誰も成しえなかったのであり、すべてを見通していた吉本だけが、その政治思想の旋回の契機を、76年 6 月18日、自らの思想と肉体によって提起したのである。
     わたしたちは脇道に逸れ、たくさんの道を歩んでしまったけれど、現在そのことが成されても遅くはないのである。なぜならば、そのことによってしか76年 6 月18日で止まってしまった時間(思考)をふたたび動かすことはできないからであり、自らが自らに対して折りあいがつかないのである。また、そのことが現在でも情況の切実な課題だからである。
《(私的利害を放棄することを)人間にはできないかもしれないが神にはできる》という共同幻想が覆いかぶさった閉じられた《 3 人以上の社会》においてわたしたちは、あるときはあたかも《神》のように、あるときは神の意に従う《下僚》として、あるときは地上に住む《人間》として知らず識らずに振る舞っている(下僚は 、人間ではなく神に仕え、神と人間の仲介者または通訳官として振る舞っている)。ここでわたしたちは、意味もなく他者から崇められたり、蔑まれたり、また、他者を崇めたり、蔑んだりしている。つまり、奴隷が奴隷の主人になったりしているのだ。そして時として、《神》になれなかった《人間》を有能な《下僚》たちは威力をもって追放してしまうかもしれない。 いうまでもなく、これはかつての政治党派の問題ではなく、現在の《社会》が孕んでいる問題なのだ。
     先の『国家と社会の寓話』からの引用で吉本は、《社会》という概念をふたつに使い分けている。ひとつは、《(私的利害を放棄することを)人間にはできないかもしれないが神にはできる》という共同幻想がかぶさった《社会》であり、また《本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態》がかぶさった《社会》であり、《公共性》を偽称する《社会》である。つまり、歴史の現在までの閉じられた《社会》であり、《たれにでもわかる愚劣な人物たちが牛耳っているこの社会》である。もうひとつは、《人間にはできないかもしれないが神にはできる》という共同幻想から解き放たれた、《自由な意志力》の集まりだけからなる《社会》である。そして、前者から後者への《社会》の移行、たったそのことが《革命》なのだと云っている。だが、この不合理にみちた脆弱そうにみえる現存の閉じられた《社会》は絶望的といえるほどに強固だとも述べている。

《ちょっと昔の話になりますが、ロシア革命のときにロシアが経験した混乱というものがあります。レーニン派とスターリン派の分裂からロシア革命の解体がはじまったんですが──……中略……レーニンは引退してスターリンに実務的な地位を譲りました。それで、心臓が弱い人だったから、自らを養っていたんです。奥さんが看病していました。レーニンの奥さんには、しかし、党の役職がちゃんとあった。役職をないがしろにして、自分の旦那さんの病気の世話ばかり焼いてるということで、スターリンに文句つけられたんですよ。レーニンはカンカンに怒って、そこでもってロシア革命っていうのは、壊れていっちゃうわけです。どっちの言い分が通りやすいかというと、スターリンの言い分のほうが通りやすいんですよ。つまり、「私(わたくし)」の問題は二の次にして、共産党や国家のために働くということは第一義的なものです、というほうが、通りがいいんですよ。……中略……いま、日本でもそうですよね。それは戦争中も、さんざんやったことです。命を捨ててがんばれ、みたいな、そんなことでやらされたという体験がある人から見りゃ、バカなこと言うな、ということになっちゃうんだけど、そういうのが、いつだって通りはいいんです。……中略……私的なことを捨て、公に奉仕すべきだという、それを結局やられちゃった、ぼくらの戦後のいちばんの後悔はそれです。そういうのはだめなんだってことについて、もう一歩がんばるには、ちょっとぼくら、幼稚だったです。……中略……要するに、簡単に言えば、個人個人が自分が当面してる、いちばん大切なことを、いちばん大切として生きなさい、という、それだけのことですよ。公にどんなことがあろうと、なんだろうと、自分にとっていちばん大切だと思えることをやる、それだけです。しかしそれは、人間に対する、透徹した信念を持ってないとダメなんだけど……ぼくはダメなやつだったわけですけど、しかしそこからは徹底して、これまできたんです。》(ほぼ日『ほんとうの考え     私』)

     震災直後の2011年 4 月、糸井重里のインタビューにこたえたものだ。レーニンとレーニンの奥さんとスターリンの寓話は、まるでかつての叛旗派の内部でおこったことのようだ。もちろんその通りでもあるのだが、これは、閉じられた《 3 人以上の社会》が《二千年前も、二千年後の現在も》孕んでいる問題であり、万人が体験したものであり、体験しつつあるものなのだ。吉本が力をふりしぼって語った《公にどんなことがあろうと、なんだろうと、自分にとっていちばん大切だと思えることをやる、それだけです》ということ、たったそれだけが《革命》なのであり、たったそれだけが困難なのである。そして、ただひとりの《革命》を《自己表出》をたずさえて《ぼくはダメなやつだったわけですけど、しかしそこからは徹底して、これまで》やってきたのである。
     而して、依然として、吉本の本に生涯にわたって関心をもたないであろう、主人公としての大多数の人びととの距たりのなかに《革命》の課題は横たわっているのである。

吉本隆明追悼その3 問われ続けた《革命とは何か》②

◆《主人公としての公衆》とは何か

     この『情況への発言』で吉本は《主人公は身銭を切ってやってきた公衆だ》ということばを、比較的短い文章のなかで10箇所以上でつかっている。つまり、そのことばこそが《真の知識人》として第一義に伝えたいことがらであり、吉本だけが視えているのに、ほかの誰にも視えていない決定的なことがらなのだ。そして、そのことばはわたしにとって、惹きつけられ、ときおり像を結ぶのにすぐに消えてしまう謎のようなことばだったと云っていい。

《人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。》(『マチウ書試論』)

     おそらく幾世紀にもわたって滅びないであろう美しいこの一節は、敗戦の打撃をひきずりながら、自身も集団と個人をめぐる惨憺たる諍いのさなかに(あるいは敗北のさなかに)いた青年期のある時期、原始キリスト教団をめぐって義とはなにか、真理とはなにかをみずからに問いつづけるうちに、一瞬にして自身を含めた世界が客体視(俯瞰)されたときのものだ。云い換えれば、自己の歴史的現存と出遭ったときのものだ。このとき吉本は、自己表出の高まりと飛躍のうちに、瞬時にこの世界が視えたのだ。そして、視えてしまったこの世界を掘り下げ、拡張し、展開し、後にひとつの革命論を紡ぎ出したのだとおもえる。
     不思議なことに人間は、現実の世界で《狡猾な秩序》をたくみにぬって歩きながら、意志の世界では《革命思想を信じ》たり、また、現実の世界で《不合理な立法》に虐げられながら意志の世界では《革命思想を嫌悪》したりできる矛盾した存在である。おそらくこのことは、わたしたちにほとんど当てはまるとともに、吉本自身の自画像もいくぶんか含まれていたにちがいない。そして、意志の世界で宗派(党派)をつくり、逆立ちした義をたがいに主張しては他者を中傷し貶め、あるときは殺戮にまで発展するのに諍いをやめようとしない。主張された義や意志に真理などあるわけはない。問題は、宗派と宗派がぶつかったとき、云いようもなく人間は歪み、狭隘になり、逆立ちしてしまうことだ。《関係の絶対性》とは、国家から小集団にいたるあらゆる宗派が、ある契機とぶつかったとき、人間に覆いかぶさり、拉し去り、倒錯を強いる共同観念のことであり、吉本の自己表出の高まりは、倒錯を強いられているただなかで《関係の絶対性》の像を捉えたのである。逆に云えば、《関係の絶対性》は吉本をして、誰にも伝えられない自己表出の深まりへと向かわせたのである。この《関係の絶対性》は戦争期に吉本を拉し去ったものでもあった。そして、この像の意味を問うことは《革命とは何か》を問うことでもあったのである。
     ここでわたしは、《人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る》という一文に注目したいとおもう。
《革命思想を信じる》者たちを新約的世界の信奉者、《革命思想を嫌悪する》者たちを旧約的世界の住人と読むこともできるし、前者を、現実にいちども抵触したことのない戦後知識人、後者を、とうの昔に知識を放棄した大多数の大衆と読むこともできる。また、前者を、人々に目の前にある現実の改変を呼びかけ、啓蒙を働きかける政治党派、後者を、働きかけられれば働きかけられるほどそれを嫌悪する大衆と読みかえることもできる。つまり、《革命思想を信じる》者たちを、かつて吉本講演会で壇上に上って騒いだわたしたち叛旗派と読みかえることもできるし、誤解をおそれずに云えば、戦時中に皇国青年として振る舞い、戦後には徹底した労働争議を企て、60年安保闘争に敗北覚悟で一兵卒として参加した吉本自身の像と読みかえることもできる。そして、《革命思想を嫌悪する》者たちを、吉本講演会に《身銭を切ってやってきた聴衆》と読みかえることもできるし、敗戦期に吉本が動員先から東京に帰還するとき出会った、食料を背負えるだけ背負って《総武装解除》されて帰郷する兵士たちと読みかえることもできる。

《太平洋戦争の敗戦ということですけれども、そこでの敗北をとってみても、その時の考え方では、天皇制自体が戦争をやめよということで、勢力を温存しようとしても、支配者がそれを温存しようとしても、大衆は徹底的に戦うだろうと考えておりました。また自らもそういうふうに戦うだろうと考えていました。しかし事態は全く異うので、そこで戦うだろうと考えていた兵士たちは、食料不足の焼け野原ですから、その中でまっさきに軍隊がヤミ貯蔵していた食料をもう背中いっぱい背負えるだけ背負ってなんらの反応も示さないで武装解除されて、郷里に帰るというようなのが、そのときの大衆の敗北の構造であったわけです。……中略……大衆というものはそういうものだということは、よくよく承知になったほうがよろしいと思います。これは、大衆に対する不信ではありません。》(『敗北の構造』)  

     多くの皇国青年が体験したであろうことを、吉本だけが宿命のように記述している。支配者が戦争をやめよと言っても、大衆は徹底的に戦うだろう、また自らも戦うだろうと考えていたが、大衆はそうではなかった。ここで、食料を背負えるだけ背負って帰郷しようとしている兵士たちは、吉本を《嫌悪》したのだ。この現実に直面したとき20歳前後の吉本には太刀打ちする術はなかったし、息の根を止められてもおかしくはなかったのである。このとき初めて吉本自身に戦争の《敗北》が訪れたのであり、この兵士たちとの背反の画像の意味を反復して問うことが、のちの吉本思想の核心を形づくったのだ。
《なんらの反応も示さないで武装解除されて、郷里に帰る》兵士たち、すなわち《不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪する》大衆とは、その存在様式そのものが自己矛盾ではないのか。その自己矛盾のなかにおかれた大衆が、過去、現在、未来にわたって歴史の主人公であることは疑いようがない。大衆が《不合理な立法》から抑圧されればされるほど、その《不合理な立法》にますます加担するのはなぜか。《不合理な立法》を至上物とするこの社会はなぜ強固なのか。そして、本来的に思想が革命的であればあるほど大衆から《嫌悪》されるのはなぜか。答えはひとつのことに収斂するはずだ。もちろん、大衆は遅れているからでもなければ、知識のある者が高みに立って大衆の蒙を啓くことで解かれるものでもないし、時代が進んで大衆の蒙が徐々に啓かれれば解かれるというほど生易しい問題ではないのだ。この問いに答えられなければ、思想はおそらく生きられないのである。

《わたしが大衆とはなにかとかんがえるとき、父や少年時の私塾の教師といっしょに岩淵五郎のことを個的な原像としておもいうかべていたのはたしかである。わたしは思想の力によってこれらの原像にうち克ちたいという願望を手放さないできた。それが叶わぬうちにかれはこの世界から消えてしまった。かれはわたしが解かねばならぬ、そして解きがたい存在の象徴として、わたしの前から去ったのである。》(『岩淵五郎』〔『追悼私記』より〕)

      吉本はほかにも大衆の《個的な原像としておもいうかべていた》人びとのことを『背景の記憶』に収められた小論考などで、戦前・戦中期にわずかにあった自由や遊びの雰囲気とともに、親愛の情をこめて書いている。たとえば、少年期に正月になると百人一首のかるたとりをした隣の家の小母さんや同い年の女の子であり、私塾に通うようになって訣れた、きのうまで原っぱで共に遊んでいた近所の学童たちのことであり、近い未来の死 のことを考えていた米沢時代の学生寮で生活を共にした友のこと、《称名の宿屋》の主人夫婦のことなどだ。これらの小論考で大衆の《個的な原像》は、限りない親愛感をこめて描かれているのだが、その親愛の情のなかに同時に〈悲しみ〉もまた滲出している。この〈悲しみ〉は吉本の現在性または未来性からやってきている。それがこれらの小論考が単なる追憶に終わらないゆえんなのだ。つまり、《ふつうの生きかた》から訣れ、逸脱し、しだいに《書く》ことにのめりこんでいくことは、敗戦期に《なんらの反応も示さないで武装解除》された兵士たちと自身が背反したように、ついには大衆の《個的な原像》と背反してしまうのではないか。思想が本来的であればあるほど、いとしい大衆の《個的な原像》から自身が《嫌悪》されることを避けることはできないのではないか。おそらく避けることはできないのである。その自身の自己矛盾が〈悲しい〉のであり、大衆の《個的な原像》の自己矛盾が〈悲しい〉のだ。そして、打ち克たねばならない《大衆の原像》は依然として打ち克ちがたく、解かねばならないのに解きがたいのである。解けたと云ってしまえばうそになってしまうのであり、それはたしかにあるのだが、不断の自問自答のうちで自己表出が高まるとき、瞬時にあらわれる像のことのようにおもえる。

《頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。》(『最後の親鸞』)

     この《〈非知〉に向って着地すること》ということが、《大衆の原像》に打ち克ったということを指しているようにみえる。そんな《最後の課題》は、はたして達成できるのか、あるいは達成できたのか、いずれにしても吉本の精神的な格闘の主戦場はここだったといっていい。

《妻帯し、子を産み、この現世の不信と、造悪と、愛燐は、あたかも衆俗と同じようにひき受け肯定されるべきものとなる。これは〈非僧〉である。なにが〈非俗〉なのか。俗とおなじ現世の〈あはれ〉と〈はかなさ〉と〈不信〉とを、いわば還相の眼でもって生活するところに〈非俗〉の真髄があった。》(『和讃』)

《非僧》はそれほどむつかしいことではない。思考停止してそのまま《俗》になってしまえばいいからだ。だが《非俗》であることは真に困難なことだ。衆俗から自身に向けられた《嫌悪》の意味を解くとことと同じだからだ。具象化していえば、敗戦時に遭遇した、故郷に帰ろうとする兵士たちにどんなことばをかけることができるのかということであり、兵士たちから自身までの距たり、あるいは自身から兵士たちまでの距たりを測れるのかということである。もちろん、兵士たちにかけられることばなどないし、兵士たちまでの距たりは無限に遠いのである。けれども、思想はそれら衆俗または兵士たちの像をつかまえなければならない。つまり、《食料をもう背中いっぱい背負えるだけ背負ってなんらの反応も示さないで武装解除されて、郷里に帰る》兵士たちの実存と沈黙の底をてのひらに載せてしまわなければならない。そのことを可能にするのは、《現世の不信と、造悪と、愛燐》を衆俗と同じようにひきうけ、外側からみても衆俗そのものとして振る舞い、自身がひそかにやっている自問自答のことはおくびにも出さずに、ほかの誰からも視えない心の中に宿る《還相の眼でもって》生活する《非俗》という沈黙の心的な境位の持続のほかにはありえないようにみえる。意識的また無意識的にわずかでも衆俗より優位に立ったとき《非俗》は崩れ、思想は泡沫になってしまうのだ。そして、《非俗》の境位の持続ということが《〈非知〉に向って着地すること》のようにおもえる。
     ここでの《還相の眼》とは親鸞の《浄土の慈悲》にかかわる考えであり、衆生(万人)を救済できるのは、いったんは死んで彼岸に往き、仏に成って、此岸に還ってほどこす大いなる慈悲をもってしかありえないというときの、いわば、いったんは死んでこちら側に還ってくるときの視線のことだ。この視線のことを吉本自身が次のように解説している。

《還相にあるときに自由や自在の意味は、別の視野にさらされる。それはひと口にいってわたしに視えているところのものが、他者に客観的に、けっして視えないのに、わたしがそれを言葉にすることができない状態とでもいうべきものである。》(『教理上の親鸞』)

     他者には視えないのに、世界のすべてがわたしにだけは視えているというのは、他者からはけっしてうかがい知れない自己表出が飛躍的に高まっている状態、自身を含めた世界を俯瞰している状態を指しているようにみえる。吉本に即していえば、誰も踏みこんだことのない《未到》の地点に自分は佇っているという覚醒した心的な状態を指しているようにみえる。また、それを言葉にすることができないというのは、誤解をおそれずにいえば、もっとも伝えたい人びと、つまり、吉本の本を生涯読まないであろう《大衆の原像》に届かない、あるいは伝わらないという不安をあらわしているようにおもえる。そしておそらく、吉本自身がかつてどこかで、いったんは死んで彼岸に往って、こちら側に還ってきたのだ。云い換えたほうがいいかもしれない。《この現世の不信と、造悪と、愛燐》を衆俗と同じようにひき受け、日々のこととして、あたかもいったんは死んで彼岸に往って、こちら側に還ってくることの繰りかえしが生活だった、というように。
     吉本は『敗北の構造』で自身の 3 つの《敗北》のことを挙げている。ひとつは先述の敗戦時の敗北であり、ひとつは労働争議での敗北であり、もうひとつは60年安保闘争の敗北である。労働争議の退潮局面では同僚に職場上のことでも話しかけるとそっぽをむかれ、通常の会話さえできず、眼を逸らし去っていってしまう状態だったと述べられている。彼らは吉本を《にくくてしかたなかったのではないか》とも述べられている。60年安保闘争の後は、敗北についてかなり見通しがついていたとはいえ、デマゴギーが飛びかい、もの書きの世界から追放されて、数年間は《自分なりの拠点をつくっていくことで大変真剣だった》。そしてそれらの敗北は、敗戦時に体験した《大衆というものは、どっかちがうぞというようなこと》、《奴隷じゃないのか、その解放感も奴隷だし、そのちぢこまりかたも奴隷である》ということの再現だったと云っている。
《敗北》とはなんなのだろう。戦いにたずさわった者たちに等しく敗北は訪れるのに、吉本だけが深く敗北しているようにみえる。《不合理な立法》によって立つ有能な者たちは、威力を伴った冷酷な権力を行使し、個人を追跡し、職を奪い、追放し、勝利するかもしれない。そして、衆俗や知識人はきのうとは打って変わって、奴隷のように《不合理な立法》に加担し、追放する者に同調するかもしれない。それらは敗北にはちがいない。だが、吉本の敗北は少しちがっていた。おそらく《なぜ、愚劣な社会が国家として現存し、たれにでもわかる愚劣な人物たちが牛耳っているこの社会は亡びないのか?    なぜ、一見すると脆弱そうにみえるこの不合理な社会はこれほど強固なのか?》(『カール・マルクス』)という、永続的ともおもえる解きがたい自問自答の前に佇ったとき、底しれぬ《敗北》はしずかに訪れたのだ。そして、果てのない自問自答と、誰にも伝えられない自己表出の深まりは、自身を《敗北》の底までつれていったのだ。

《奇妙といえば奇妙なことですが、本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らが所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造が、いわば古代における大衆の総敗北の根柢にある問題だということができます。》(『敗北の構造』)
《その錯誤の根本になっているのは、統一国家をつくった勢力の巧妙な政策でもありましょうけれども、ある意味では大衆が、自らの奴隷的観念というもので、交換された法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣というものを、本来的な所有よりも、もっと強固な意味で、自らのものであるかの如く振舞う構造のなかに、本当の意味での、日本の大衆の総敗北の構造があると考えることができます。》(前同)

     ここで吉本は、戦後十数年を経て孤立と自己表出の深まりの果てに、云い換えれば、自身の《敗北》の底の底まで降りていったとき、なぜ大衆は《不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪する》のかの答えの端緒に出遭ったのである。また、敗戦時に遭遇した故郷に帰ろうとする兵士たち、父や私塾の教師、隣の家の小母さんなどの大衆の《個的な原像》、その向こうにある架空の《大衆の原像》に打ち克つことの、前人未到の端緒に出遭ったのである。敗戦以降、たびたび体験した、知識人も大衆も奴隷ではないのか、奴隷の主人になりたがる奴隷ではないのかという惨澹たる行動様式の起源に《古代における大衆の総敗北》があることを、逆に云えば、敗戦時の大衆の敗北は《古代における大衆の総敗北》の反復・再現だったことを発見したとき、カール・マルクスが《先行する諸形態》を発見したときのように、吉本のこころは高鳴ったにちがいない。吉本の思想はここで一次元飛躍し、変容し、拡張されて、世界思想を視野に入れたのだとおもえる。
     (つづく)

吉本隆明追悼その3 問われ続けた《革命とは何か》①

    
◆ふたたび1976年 6 月18日、三上治主催の吉本隆明講演会について

     その日、わたしたちは《真の知識人》の思想とその肉体のおそろしさを全身で体験したのだ。そして、その時からわたしたちのあてどない精神の彷徨が始まったのだと云っていい。
      おそらく吉本は、連合赤軍事件から 4 年、存在根拠を失い、惨状をていしつつあった新左翼の諸党派残党に対する憤りを抱えてこの講演会に臨んだのだとおもう。いいかえれば、《身銭を切って参加した主人公としての聴衆》に《真の知識人》としての考えを披瀝することと同時に、叛旗派に象徴される新左翼残党にみずからの思想とその肉体をもって対峙することを、秘められたもうひとつの動機として講演会に臨んだのだとおもう。もっと違う云いかたのほうがいい。《身銭を切って参加した主人公としての聴衆》に《真の知識人》としての考えを公開すること、そのこと自体が同時に、三上治と叛旗派を含めた新左翼残党の存在根拠を砕くことになるという秘められた動機をもって講演会に臨んだのだ。そして、《主人公としての聴衆》を前に《真の知識人》がみずからの思想と肉体をさらすことが政治思想的にどんな決定的な意味をもつのかを伝えたいという儚い希望をもって講演会に臨んだのだとおもえるのだ。そして問題は、あれから現在までに、その決定的な政治思想的な意味は理解されたのかということなのだ。わたしの知るかぎり、理解したと表明した者はいないし、理解された兆候も存在しない。もし理解したというひとがいたら、わたしはぜひそのひとに会って話を聴きたいとおもう。
『情況への発言』によれば、この年の 5 月、吉本は《埴谷雄高の『死霊』の出版記念と高橋和巳の追悼》のための講演を依頼されて、北海道、東北、京都を巡っていた。
     北海道大学では、会場からの質問なるものは、講演趣旨とはかかわりのない、吉本自身に向けられたものであった。《わたしは当惑と矛盾を覚え、そもそもこの集会へ参加したこと自体が、場ちがいなのではないかという疑念をもつようになり、この内部矛盾は、北海道から東北へ、東北から京都へと拡大するばかりだったのである》。
      東北大学では処分反対闘争中の学生たちが深夜に宿に電話をかけてきて《われわれは苦しい局面にたっている。吉本さんは本日の講演で20万円もらったそうではないか。われわれに付き合うのは当然だ》といったという。さらにそのあと宿に押しかけてきたのだが、講演会主催の責任者が対応し帰してしまった。《なぜ、わたしを起こさなかったのか、わたしが応対して帰したろうに、と翌朝、責任者に告げた。責任者の事なかれ主義の善意こそが、誰が集会の主人公であるかを、明瞭につつき出すことをさまたげている》として、吉本はその責任者に対しても怒りの矛先を向けている。
    京都大学では赤軍派の残党が会場に押しかけ、開会が遅れていた。だがここでも主催者はそのことを吉本に告げずに、臭いものに蓋をし、善意の過保護を押しつけた。

《極左スターリニストと毛沢東主義者は、理論的に公衆の前で粉砕されねばならなかったのだ。あるいは同時に、口さきで「わけのわからないオシャベリ」をやって、いい気になっている知識人吉本は、赤軍派残党の迫力と暴力の前に、しおらしくおびえてこそこそ彼らに席を譲らねばならなかったのだ。もちろん京都の公衆が、どちらの光景を眼にすることになったかは、やってみなければわからない。だがやらせてみれば、その結果はどうであれ、聴衆が現在の政治思想的な縮図を、もっとも切実に考える契機を把みえたことは疑われない。》(1976年 9 月10日『情況への発言』)

     すでに京都まで来て吉本は、横合いから不意打ちのように政治的な主張を持ちこんで講演を妨げる新左翼諸党派の残党に対して、みずからの思想とその肉体をもって公衆の面前で立ち向かうことを心に決めていた。だが、またしても主催者の善意の過保護により、その対峙の機会は回避されてしまった。そして 6 月18日、品川公会堂での三上治主催の講演会でその機会はやってきたのだ。

《三上治の属していた政治党派の内部で、充分に決着がつけてなかったらしく、講演会は叛旗派の面々の妨害により、中断せざるを得ない混乱に終始した。わたしは、あまり馬鹿馬鹿しいので、壇上に駈け上って騒いでいる連中には降壇してもらって、じぶんの喋言りたいと思って用意してきた情況論は、喋言ることにした。わたしのお喋言りを妨害する奴を、わたしは許さぬ、なぜならば集会の主人公は、身銭を切って講演を聴きに来た公衆であり、それ以外の何者でもないという原則を持っていたからである。……中略……ただ、叛旗派の連中が、わたしに対する挑発を慎重に避けたので、わたしは予定通りのお喋言りが出来たにすぎない。もちろん、挑発があれば、すくなくとも壇上からは、独力で、実力をもって妨害者を排除する決心であった。……中略……集会の主人公は身銭を切ってやってきた公衆であり、その公衆の問題意識の所在でも、高低でもなければ、その公衆が、どういう党派に属するか属さないかといった内訳でもないということである。この原則が確立されるまでに、まだたくさんの道を歩みつづけねばなるまい。》(前同)

     北海道から東北、京都を巡るなかで高まってきた、《独力で、実力をもって》新左翼残党に対峙するという意志が実現される機会が、東京でついにやってきたというべきか。吉本はこの日、みずからの行動に執着し、大きな思想的な重量をかけていたのだとおもう。なぜならば、眼前に《現在の政治思想的な縮図を、もっとも切実に考える契機》が出現しようとしており、《真の知識人》としてこの機会は避けて通れないものだからだ。また、すでに関係妄想に支配され、ちまよっていた叛旗派の暴力を前にして《しおらしくおびえてこそこそ彼らに席を譲らねば》ならないとしたら、自身が営々と築いてきた思想はそこでお終いになるからだ。もちろん、そんなことはなかったのだ。吉本は壇上に毅然として立っていて、《叛旗派の連中が、わたしに対する挑発を慎重に避けた》というよりもむしろ、わたしたちは壇上で騒いだだけで、吉本の身体には一指も触れることができなかったといったほうがいい。《しおらしくおびえてこそこそ》席を譲ったのはわたしたちだったのだ。わたしは吉本の眼前まで詰め寄っていた。だが、金縛りにあったように身体が思うままに動かなかった。
     ところで、叛旗派はその半年ほど前の指導者・三上治の離脱を機に揺れ動いていた。わたしたちはずっと以前から政治党派としてやることがなくなっていたのだ。できることは〈考えること〉だけだったが、誰にもその膂力はなかった。そして、個々のメンバーは、生理的または社会的な成熟とともに、切実な〈飯の種〉の問題に直面していた。ところが、おかしなことに〈飯の種〉の問題は隠然と遠慮がちに囁かれるだけで、私的な事柄は党派的・宗派的な共同観念の前に抑え込まれ、またはみずからが私的な事柄を抑え込み、自己嫌悪(自己強迫)に陥っていた。いわば、みずからが解決すべきことが党派的・宗派的な共同観念に預けられ、委譲されていたのである。解決するのにこれほど簡単な問題はないのだともいえるし、これほど難しい問題はないのだともいえよう。だが、〈職業革命家〉(生活費の一部を支給される活動家というほどの意味)としての数人の叛旗派首脳たちに、この問題を政治思想として解決することなどできるはずもなかったのである。なぜならば、この問題を解決することは即座に党派の解体につながり、首脳たちの存在の根拠である党派的・宗派的な共同観念の外に出ることを意味したからだ。また、同じことだが、切実な〈飯の種〉をめぐって誰もが真剣に生きているのだという認識を欠落させていたからだ。
     指導者・三上治の離脱はそんな、自己嫌悪と被害感で集団として鋭敏になっている局面でおこった。わたしは首脳ではなかったから、どんな論争があったのか知らない。後で聞いた話を綜合しての現在からの推測にすぎないが、おそらく三上は有能な統率者たちから〈いじめ〉られたのだ。三上はけっして有能な統率者とはいえなかった(それは三上の美質なのだが)。その点につけ入られたのだ。有能な統率者たちは三上の「奥さんが司法試験の勉強をしている」ことに狙いをつけ、その私的な事柄を宗派的な共同観念から見た自己倫理の問題として問いつめたのである。三上は答えようがなかったとおもう。だが、これは問いつめるほうがおかしいのだ。答えなど最初からないのだから。連合赤軍が北関東の山中を疾走していたとき、化粧していたとして、女性兵士を追及し、なじって死に至らしめたことと違わないのだ。そして、有能な統率者たちは現在でも、日本国やさまざまな国のもろもろの集団において、有能ではない者とのあいだで同じ〈諍い〉をやらかしているのではないか。
     ここで、有能な統率者といっているのは、揶揄の気持ちを込めてのものだ。そして不思議なことに、カフカの『城』のように、誰が首脳部を形成しているのかも明瞭ではなかったのである。
     現在、わたしはこの頃のことをいくぶん客観的に見ることができるようになっているけれど、当時はほとんど関係妄想の虜になっていた。おそらく叛旗派首脳よりも過剰にだ。〈飯の種〉をどうするかを巡る自己嫌悪(自己強迫)はそのまま狂おしい関係妄想としての他者嫌悪となって、離脱した指導者・三上治に向かって奔騰していた。有能な統率者たちのリードに乗せられたともいえるし、そのリードよりも過剰に三上を追跡したともいえる。そして 6 月18日、関係妄想は「三上に加担する吉本」にまで拡大し、聴衆の目の前で《全情況の課題の尖鋭な反映》としての劇をわたしたちは演じたのである。
      6 月18日の数日前、叛旗派首脳の神津と立花が「これから吉本さんに会いにいく」というので、機関紙『叛旗』の作業で事務所にいたわたしは便乗してついていった。団子坂下の交叉点脇の喫茶店でわたしたちは落ち合った。神津が言外に「講演会に出ることは内ゲバの一方に加担することになるので遠慮してほしい」ということを言い募っていたが、吉本は一貫して譲らず、「どちらに味方するわけでもない。一知識人として講演するだけだ。主人公は聴衆であることが第一義に重要なことだ」と、意が伝わらない苦心を抑えつつ終始言い続けた。
     どういうことかといえば、吉本だけがすべてをお見通しだったのであり、わたしたちは侏儒のように空騒ぎをしたにすぎないのである。わたしたちは 6 月18日、吉本の思想とその肉体によって、壇上で《理論的に公衆の前で粉砕され》たのであり、息の根を止められたのだ。このとき三上治もまた例外ではなかったのである。そしてまた同時に、わたしたちはこの世界の根源を理解する契機の前に等しく立たされたのだ。(つづく)

追悼その2 死の吉本さん

死の吉本さん
~ハルノ宵子さんの「連れてっちゃったよ」をめぐって~

『猫びより』の7月号でハルノ宵子さんが父・吉本隆明さんの死について「連れてっちゃったよ」と題して触れている。数々の追悼の文章が公けにされたが、もっともわたしのこころに響いたのは、このハルノ宵子さんの文章だ。けれんみのない、つきはなしたような、戯画化した文体から受ける印象は、まずなによりも、宵子さんのこころばえが〈自由〉だということだ。これは驚嘆に値することだと思う。
     この〈自由〉または〈遊び〉の感覚は、誰よりも父・吉本さんと同型のものだということをわたしたちは知っている。そして、その〈自由〉は、なにものにも依存しない意思によるものであり、多くの断念や諦念、放棄、孤独との内的なたたかいの果てにもたらされたものだと思う。なにものにも依存しないということは、どのような権力(共同的な観念の威力)も持たないということであり、言い換えれば、どのような権力(共同的な観念の威力)にも従属しないということであり、それは〈社会〉とのかかわりをもつかぎり、ほとんど不可能に近いものだ。だが、もし理想としての〈人間的な解放〉というものがあるとすれば、万人がその地点に向かって収斂することだと思える。
   
      離乳もそこそこのころ母猫に放置され、カラスにズタズタにされて傷ついていたフランシス子は《生涯だれも受け入れなかったが、父のひざには乗って眠っていた》という。また、とつぜん飼い主に捨てられたシロミも《 私に対してとは違う『愛』を父に求めていた》。そして《父には、傷ついた魂を引きつける『何か』があったのだと思います》と宵子さんは書いている。数行の文章で吉本さんの真髄のようなものをほとんど言い当てていると思う。たしかに吉本さんには「傷ついた魂を引きつける『何か』があった」のだ。そこでなら慰藉されていると実感でき、永遠につながっていると実感できる「何か」があったのだ。もしかすると、フランシス子は吉本さんに自分と同じ「傷ついた魂」をみいだし、吉本さんもまたフランシス子に自身と同型の「傷ついた魂」をみいだして、ふかく相互に慰藉されていたのではないかという空想にかられる。
     人間はいったいなにに傷ついているのか。ひとことでいえば、剥き出しの共同観念(冷酷な類)に傷ついているのだ。皮肉なことに、共同観念は、みずから負担になることを知りながら人間がつくりだしたものであり、また人間は知らず識らずのうちに共同観念の側に立っているだけでなく、自身が共同観念(の威力)となって個人を冷酷に打ちのめしたりしている。そして、共同観念の秘儀に熟達したものが管理者とその下僚になり、熟達しなかったものは管理される者になっていく。
     この社会は、共同観念の秘儀に熟達した、だれがみても愚劣で通俗的な人物たちが牛耳っており、テレビではピントはずれのコメンテーターがしらじらしい反抗の物言いや人間的な物言いでお茶をにごしている。そんな愚劣な社会は思いのほか強固で、張り巡らされた視えない支配的思想(宗教の最後のすがたとしての法=共同観念)と管理システムは不変なもののように見えることがある。そう思いしらされたときわたしたちは、この社会から弾き出され、追放されて傷ついているのだ。そしてまた、永遠の課題の前に佇んでいるのだ。つまり、この社会は〈人間を至上物とする社会〉ではなく、〈宗教の最後のすがたとしての法を至上物とする社会〉であることを思いしらされ、そのとき〈革命とはなにか〉〈人間的解放とはなにか〉という問いと答えにもっとも近い場所に佇んでいるのだとも云えよう。
    誤解を惧れずにいえば、わたしたちは、敗走し、孤立し、永遠の課題のまえに佇っているとき、吉本さん(のことば)にもっとも近づいているのであり、吉本さん(のことば)に惹きつけられているのだ。なぜかといえば、吉本さんもまたその場所に佇んでいたからだ。

「連れてっちゃったよ」にはもうひとつ、驚嘆すべきことが書かれている。

《父が亡くなる4、5日前のことでした。父の病室に入ると、その日は興奮気味らしく、父は手をミトンで拘束され、目を見開いたまま、何やらうめいていました。「ヤレヤレ」と思いつつ、私は洗濯物などを回収しながら「早くうちに帰って来てね。シーちゃんもさびしがってるよ」と言うと、父は大きな声で振り絞るように「◯×△□※!」と叫びました。入れ歯が入っていないので聞き取れず、「え?   何だね?」と聞き返すと、父は再び「◯×△□※!」と、同じ言葉を叫びました。気にかかっていたものの、それっきりそのことは忘れていました。父が亡くなって2週間ほどたった頃です。父の祭壇の前で猫たちと一緒にグダグダとうたた寝していた時、いきなり殴られたように「ガツン!」と、あの時の言葉と、その意味が降ってきました。それは『どこだって同じだよ!』でした。……中略……病院ではなく家で死ぬためにはーーなどと、そろそろ自分の身がアブナクなってきた「団塊の世代」が言い出した昨今の生ぬるい風潮に、父はまた最期に、見事に水をぶっかけて逝っちまいました。》

     祭壇の前で猫たちとうたた寝していた時、「いきなり殴られたように」降ってきた『どこだって同じだよ!』ということばは、誰よりもまず宵子さん自身のその時の自己問答(自己表出)があって、亡くなる4〜5日前の吉本さんの自己問答(自己表出)とつよくシンクロナイズしたものであり、たしかに吉本さんはそう言いたかったのだと思える。ことばが霊感のように、または運命のように「降ってくる」ことがある。そのとき、ことばは一挙に理解されている。そして「降ってくる」のは〈偶然〉ではなく、〈必然〉だったのである。 
     宵子さんがいうように、戦中派にとって「家で死にたい」とか「畳の上で死にたい」、「近親者にみとられて死にたい」というのは考えることだけでも愚かなことだったにちがいない。家族と別れ、わずかな食糧と銃器を担いで兵としてアジアの南方の果てまで赴き、敵の銃弾に斃れ、あるいは味方の誤射や流れ弾を受け、あるいは病気で力尽き、国内では住宅街までが無差別の空襲にさらされ、無数の「内臓をむきだしにした死体」が路上に転がっていた。そのようにして幾百万の人々が死んだ。吉本さんのつくりだした語彙に沿っていえば、「いつ、どこで、どのように死ぬか」はだれにも分からないし、「関係の絶対性」だけが「人間の情況」を決定したのである。このことは戦争の時代に限定されたものであって、平和の時代には当てはまらないと考えるとすれば、それは思考停止というほかはないのだ。吉本さんによれば、「いつ、どこで、どのように死ぬかはだれにもわからない」、「自分の死は自分のものではない」、「人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである」というテーマは、戦後、考えに考え抜かれ、拡張されて、人間の存在様式にまで普遍化されるべきものだったのであり、じっさいに普遍化されたのである。そして、永遠にかかわるそのテーマは、吉本思想のもっとも奥にある命題だったように思える。

《死をどんなに緻密にしていったとしても、まだ死の怖れや不安にたちもどってしまうときに、わたしたちがいつも佇んでいる場所は「人間は死ぬ」と「私は死ぬ」とが差異をひらいている場所だとすれば、その場所がぼんやりした不確かな場所であるところに佇んでいるのだ。……中略……死は、死がある不確実さにみえる距離からすれば、たしかに不可避的にやってくるもののようにみえるが、死をたしかに「私」の目の前にすえているときには、何日、どこで、どのようにして、到来するか、まったくわからない不確実な、あいまいなものになってしまう。》(『死の位相学「  触れられた死」』)
《西欧の思惟もわたしたちのあいだの習性も、死を主題にのせながら死に触れることを回避するという共通点のほかに、死について論議する方法はないのではないか。そんな結論になりそうな気がする。西欧の思惟は自己の死を包括させながら一般的な論理のなかに走り込んでいる。わたしたちのあいだでは、情念や感覚の死が切実そうな表情で論じられているのだが、ほんとうは自己の死が棚上げされていて、切実さの表情を虚偽にしている。》(『新  死の位相学「あとがき」』)

    近親者の死に立ち会い、知人の訃報に接したことがある。そのとき、つまり他者が死ぬとき、わたしたちは感情を揺さぶられ、生の側にとどめたいと呼びかける。また、他者は今、内在的にどんなことに出遭っているのだろうと自分の身に置き換えて想像したりするのだが、他者の死に触れることはとうていできそうにないし、そんなことは無意味だという厚い壁にはねかえされてしまう。死は感情や情緒の問題ではないのに、どうしようもなく情緒の円環または循環に陥りそうになる。死とはなにか。それが解らないということが、死への不確かな怖れを過剰に増幅させているのではないか。また、それが解らないということは、世界が解らないということに等しいのではないかという焦燥に駆られる。
     わたしたちは幾多の他者の死を外在的に体験してきた。この世と訣別するとき、縁のあった人びととの永遠の別れが後ろ髪をひくのだろうか。また、癌にかかり何度も肉体を切り刻まれて長いあいだ管につながれて延命していた他者をみたことがある。健康にみえた老人が朝起きたとき、老衰で息をひきとっていたという話を聞いたこともある。それらの体験からわたしたちはあいまいな未来に不可避的にやってくる「私の死」に向かって不確かな覚悟を決めている。だが覚悟のとおりになることはありえない。わたしたちは「私の死」を体験できないからであり、覚悟と「私の死」には断絶があるからだ。つまり《「人間は死ぬ」と「私は死ぬ」とが差異をひらいている》からだ。この差異の中心に楔を打ち込むことができれば死への(過剰な)怖れを超えられるように思えるのだが、《死に触れることを回避》する方向に逸れてしまうことになる。そして、その《差異をひらいている場所》に、過去から現在にいたるまでさまざまな宗教(共同観念)がかぶさり、怖れやすりかえ、倒錯、短絡、飛躍、虚偽などの精神の遅滞と循環をもたらしてきたのだといえよう。
     おそらく「生の終わりにやってくる死」という考えや、「死に向かってどのように覚悟するか」という考えに誤りがあるのだ。

《仏教には、一度極楽浄土に往って、そこからまた還ってきて、人の世界のなかに入ってきて、そこで慈悲というのを行なうのがほんとうの慈悲なんだ、という言い方をしている親鸞のような偉いお坊さんがいます。大なり小なり、追いつめる場所はそこなんだというふうに、ぼくもかんがえております。つまり、死は一種の〈分布〉で、時間的にも空間的にも死の向こうへ考え方が往って、そしてまた、その考え方がこちらに還ってくるというような、そういうことをやることによって、死は点だ、あるいは線だ、あるいは境界だという考え方を、もう取り払うところまでいくというのが理想だとおもいます。》(『新  死の位相学「〈死〉の構造」』)
《親鸞は「一念義」といっていいほどで、「生死は不定」で、いつ誰がどんなふうに臨終を迎えるかはまったくわからないことだ。一念で終わることもあれば、臨終に称名の余裕などないこともありうる。それゆえ臨終の念仏をとくに大事だというのも、念仏はたくさん称えるほうがいいというのも間違いだ。ただゆとりがあれば、仏恩に報いるために何遍でも称名すればいいと説いたのです。》(『今に生きる親鸞』)

「生の終わりにやってくる死」という考えによれば、死は終末にある点であり、境界である。しかし、それは「往きがけの眼」からみた死だ。「往きがけの眼」からみた死(覚悟された死)は、体験できない「私の死」から逸脱した死というほかはない。そうではなくて、《浄土に往って、そこから還って》きた「還りがけの眼」からみたとき、死は点でも境界でもなく分布であり、そのときはじめて、古今東西の死をめぐる宗教、つまり《「人間は死ぬ」と「私は死ぬ」とが差異をひらいている》不確かな場所にはまりこんで不確かな怖れをおそれる循環を超えることができる。ほんとうの死(浄土)は、現在の生と肉体の死とのちょうど中間にあり、その死(浄土)への不断の往き還りによって獲得した「還りがけの眼」からみたとき、生が照らしだされ、はじめて「体験できない私の死」に触れ、捉えることができるのであり、もし捉えることができるとすれば、その「還りがけの眼」をもってしかありえないのだと、吉本さんは繰りかえしそう云っている。そして、もし「私の死」を考察し捉えることができたとしても、死への恐怖は残るだろう、親鸞は癌かなにかの難病で苦しみながら死んだ、そんな親鸞が好きだとも述べている。
    浄土(現在の生と未来の肉体の死との中間にある場所)に往って還ってきたとき、世界はどのように視えるのか。還りがけの心的な境位を吉本さんは次のように述べている。

《還相にあるときに自由や自在の意味は、別の視野にさらされる。それはひと口にいってわたしに視えているところのものが、他者に客観的に、けっして視えないのに、わたしがそれを言葉にすることができない状態とでもいうべきものである。……中略…… 客観的な自然の事物が、わたしにだけ視えるところの視野のもとに観察される状態というように。》(『教理上の親鸞』)

「他者にはけっして視えないのに、わたしにだけは視えている」というのは、いったいどういう状態なのだろうか。ある痛切な経験をしたとき、内省に内省を重ねて普遍的な認識にたどり着いたという状態とは、おそらくまるで違っている。その状態は、「降りてきた」「向こうから訪れてきた」としか云い得ないものだ。つまり、ひとつひとつの経路をたどってその状態になったのではなく、ある飛躍があって結果としてその状態になっていた、としか云い得ないものだ。この霊的な状態ともいうべき状態は特異なことだろうか。そうではない。心は身体(脳)を基底とし、その基底にどこまでもつながれているようにみえるけれど、その基底から切り離されて、あたかも、結果的にはつながれていないようにみえる心的状態はありうる。それが人間であるということの決定的な特徴(しるし) だからだ。
《客観的な自然の事物が、わたしにだけ視えるところの視野のもとに観察される状態》とは、誤解をおそれずにいえば、霊的になった精神が、自分を含めた世界を一瞬にして、または、ある持続する時間のもとで客体視している心的状態といえるように思える。そして、わたしにだけ視えているところのものを《わたしがそれを言葉にすることができない状態》とは、いわば、満ちみちてきた「自己表出」がことばとして表現されるわずかに手前の状態を指しているのだと思える。いわく云いがたいのだが、「自己表出」が自身のなかで満ちてきて、ことばとして外に表現されるかされないかは、ある視点からはおそらく同じことなのだ。
    吉本さんの「還りがけ」の心的状態についてのこの叙述は、とても興味深いものだ。なぜならば、この心的状態は、死に瀕した人間が、死の床にいる自分と、周囲にいる近親者を上方から客体視しているという、誰もが通るあの場面と相似のように思えるからだ。つまり、「還りがけ」の心的状態は、臨死の心的状態に通じているのではないかということだ。
   もうひとつ、「他者からはけっして視えないのに、わたしにだけ視える」という孤独な「自己表出」の高まり、あるいは「還りがけの眼」が、たとえば、

《自由な意志は選択するようにみえる。だが、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。》(『マチウ書試論』)
《個体はなお〈じぶんがいまこう心でおもっていることをたれも知らないし、また、たれも理解することはできない〉という心的状態になることができる。》(『心的現象論序説』)
《死は存在の共同幻想への出会いである。》(1979年12月「情況への発言」)
《市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。》(『カール・マルクス』)
《人間は新技術を開発する過程で危険極まりないものを作ってしまうという大矛盾を抱えているのです。それでも科学技術や知識というものはいったん手に入れたら元に押し戻すことはできない。どんなに危なくて退廃的であっても否定することはできないのです。》(『反原発で猿になる!』)
     
    などの表現の根柢にあり、「他者からはけっして視えないのに、わたしにだけ視える」という吉本思想の根柢にある逆説を理解しなければ、これらの既視感をともなったような透徹した表現は理解できないのではないかということだ。

   吉本さんが亡くなる4~5日前に、大きな声で振り絞るように叫んだ「◯×△□※!」は『どこだって同じだよ!』だったのだと思う。それ以外には考えられないし、それはわたしたちの腑に落ちることばだ。そして、ハルノ宵子さんにそのことばが降りてきて、わたしたちがそのことばを読んでいることに、〈偶然〉ではなく〈必然〉を感じる。僭越ないいかただが、折々にもらした吉本さんのことばを宵子さんは耳でしっかり聞きとっていて、いつしか吉本さんの最大の、もしかしたら唯一の理解者になっていたのではないか。
 《病院ではなく家で死ぬためにはーーなどと、そろそろ自分の身がアブナクなってきた「団塊の世代」が言い出した昨今の生ぬるい風潮に、父はまた最期に、見事に水をぶっかけて逝っちまいました》というのがおもしろい。吉本さんの、したがって宵子さんの『どこだって同じだよ!』は、かつての政治の季節にことばをもてあそび、大騒ぎをやらかしたわたしを含めた「団塊の世代」の生ぬるい現在に《水をぶっかけた》のであり、「私の死」を意識しはじめ、それにつれて思考停止しつつある「団塊の世代」の無意識の根っこに、痛烈な批判となってたしかに届いているのだ。
    吉本さんから影響を受けたと自認し公言もしてきた「団塊の世代」の名のある人士が雪崩を打ってと云いたいほどに、情けないことになっている。ここで持ち堪えなければ後はもうないのだとでもいうほかない。彼らがいっせいに反原発・脱原発を云い出した無意識の根っこには、いかほどに大層な形而上学を並べ立てたとしても、形而下での「私の死」への漠然とした、不確かな恐怖心があり、その上に放射能の恐怖心がかぶさっているのだと思える。そしておそらく「私の死」への不確かな恐怖心を考察することは「人間的な解放とはなにか」を考察することと同義であり、その意味では、彼らは「人間的解放とはなにか」を、単独の個人にたちかえって考えたことが一度もなかったのだ。彼らが吉本さんに唾したとしても、その唾は自分の貌に落ちてくるのだし、どちらが思考停止しているかは、地球が自転しているのと同じほどに明瞭なのだ。

追記
  『飢餓陣営』38号に浮海啓さんが『〈魂〉は暁闇の彼方へ』という渾身の追悼文を寄せている。それには、亡くなる半年ほど前に吉本さんを訪問したとき、吉本さんは「死ぬのが怖くなくなりました」と浮海さんに語ったと書かれている。死を迎えつつあった「猫ちゃん」が寝ている吉本さんに寄ってきて、《やさしく、いたわるように、静かに、ゆっくりと》耳の後ろから首にかけて舐めたのだという。《果てしない慈しみを吉本さんは感じとられたようである》と浮海さんは書いている。それからしばらくして「猫ちゃん」は死んだ。吉本さんの落胆の様子は宵子さんの「シロミ介護日誌」にも触れられている。そうして、「死ぬのが怖くなくなった」という境地に至ったというのである。今のわたしにはとうていその境地はわからない。ただ、死への恐怖心は、もう終わりだということからと、もうひとつ、生誕のときの母親とのあいだにあった恐怖心の反復としてやってくると、吉本さんは『死を迎える心の準備なんて果たしてあるのか』で述べている。だとすれば、「怖くなくなった」のは、その「猫ちゃん」(フランシス子)が吉本さんにとっての母親(の代理)のような慈しみの存在だったからだろうか。

『村の家』について


    江藤淳の『昭和の文人』を読む。わたしの病んだ精神がいつも帰っていく作品のひとつ、中野重治の『村の家』に、江藤もまた吸い寄せられるようにして言及している。保守派の一級の文学者の感性が、いわば一級の左翼の文学的な感性にはからずも感応しているようにみえる。
   江藤の戦後左翼にたいする批判の要諦は、彼らの出自への嫌悪、隠蔽、すりかえ、そのことによる感性の気づかれない自殺に向けられている。けれど中野重治はまるで違っていたのだ。
   獄中転向し、帰省してきた息子・勉次にたいし、生活の労苦や人としての道義を口説くようにせつせつと言い募る老父・孫蔵。「たとえレーニンもってきても日本の天皇のような魅力を人民に与えることはできぬ」「すべては遊びじゃがいして。お前らア人の子殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ」「お父つぁんは、そういう分筆なぞは捨てべきじゃとおもうんじゃ。どうしるかい?」。押し黙っていた勉次はしばらくのち「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います」とひとこと答える。ここで江藤は、より多く、老父・孫蔵の口舌に涙腺をゆるませ、かつ、正面から老父を描いた中野重治に瞠目している。そして更に江藤を揺り動かしているのは、戦後の昭和22年に書かれた『五勺の酒』だと思われる。この作品は、中野と思しき人物が、戦時中世話になった中学校長と出会い、酒を酌み交わすというという設定で、天皇に親愛の情を持ち戦争を肯定してきたこの元中学校長をして、戦後民主主義にたいする慨嘆を述べさせるという体裁をとっている。反天皇の硬質な左翼と目された中野重治のこの作品は、江藤にとって謎と映り、そして限りない親近感を覚えたのではないか。
   この『五勺の酒』を数年前に読んだとき、わたしもまた眼から鱗が落ちる想いがしたのと同時に、中野重治の奥深さを感じた。そして、『村の家』から『五勺の酒』に至る中野重治の思考のプロセスのうちに、現在でも生きている思想の普遍性があるように思われるのだ。
   ここから江藤が導いている結論にたいして違和を述べるのは、ひとまず控えることにする。なぜならば、江藤はここで、戦後の根源的な思想課題に触れていることはたしかだと思われるからだ。
   ところで、わたしにとって『村の家』とはなにか。20代の半ばにこれを読み、人知れず涙したことがある。
    『村の家』が繰り返しわたしを惹きつけるのは、「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います」と老父に告げるときの、いわば永遠あるいは不可避性に向かって孤独に打ち震えている勉次の立ち姿にあるように思われる(江藤は勉次のこのひとことを「父親に対する再度の裏切りにほかならない」という)。
    この場面は『新約聖書』の「預言者は故郷に受け入れられない」というくだりに似ている。故郷ナザレに帰ったイエスが辻堂で知恵を説いていると、人々は「あれは大工の子、マリアの子ではないか。このような知恵をいったいどこから得たのだろう」と口ぐちに言い、イエスのことばを理解しようとしなかった云々という、理念が最初に蹉跌する普遍的な経験を言い当てたあの箇所にだ。
   そしてもうひとつ、漱石の『こころ』の中盤に忘れえぬシーンがある。老父が病に倒れ、故郷に帰った「私」は、『村の家』と同じように老父から、生活苦と世間というものについてせつせつと口説かれ、学業を終えた身で漫然としていないで、まっとうな職業に就くようにと責められる。そして、病が進み死が近づきつつある老父を看病している「私」のもとに「先生」から一通の手紙が届く。開封する前から尋常ならざる不安に取り憑かれていた「私」は、老父になにも告げず、老母を振り切り、その手紙を懐にして東京行きの汽車に乗り込む。知られているように、その手紙は「先生」の遺書であり、Kと先生とお嬢さんをめぐる三角関係の経緯が書かれているのだが、汽車に乗り込む「私」に言いようのない狂気を、ということはそのことを描写している漱石に狂気を感じるのだ。
   本来的に云えば、すべての理念は「故郷」や「近親者」、さらには「娑婆苦」を背負った大多数の人々の前で挫折するものだ。そしてそのことが理念の終わりであり、始まりでもあるのだ。『村の家』の中野重治は、その理念の終わりと始まりが反復する場所に立っていることになる。
   この場所はわたしたちにいくつかの圧縮されたイメージをもたらす。ひとつは、その場所が大いなる欺瞞の上に成り立っており、欺瞞に気づくことと気づかれないことのあいだには決定的な差異があるということ。あらゆる善なる行為はこの欺瞞に気づかれない点で嘘に嘘を重ねることであり、気づかれたとき、わたしたちの存在は悪そのものに近似しているようにみえるということ。
   ふたつ目は、ここでことばは絶対的に〈通じない〉のだということ。世の賢明な前衛たちはここでことばは〈通じる〉ものだと思いたがっているのだ。アジア的専制の遺構がどこからともなく強力に復活する日本では、この前衛たちの迷妄はとりわけ強調されていいように思われる。
『村の家』から『五勺の酒』に至る過程には潜在的なモチーフが秘められていたのではないか。倫理的な罪障感を伴う転向をはるかに超えて、現実との私的な暗闘の果てに、同時代に中野重治だけが密かに培ったモチーフが。それは、〈理念の生活よりも生活の生活のほうが優位だ〉あるいは〈生活の生活よりも理念の生活のほうが下位だ〉というモチーフであり、いわば、内在的で密かな価値転倒が起こっているのだ。そしてそれは、誰が裁かなくても自らを有罪とする資質・倫理が現実に届いたとき起こった転倒の理念だと思う。
   かつて、大学を除籍になって10年以上経った頃、繰り返し見た夢がある。夢の中でわたしは何年も行っていない大学の授業に出ようとしている。とにかく卒業しなければともがいている。けれど体力も気力もなく身体が動かない。取らなければならない単位数と自分の年齢を考えると気力が萎えてくるのだ。卒業すれば、親が喜ぶということもあったかもしれない。だがおそらく、そんなことではない。この社会で生きていくうえで大多数の人々が黙々と困難を乗り越えていくのに、わたしにはそのことができなかった、というわたしの固有の挫傷を象徴する夢だと解したいのだ。
『村の家』の世界は、なぜかこの挫傷の夢の世界に似ているように思われる。
(2000年8月のノートより) 

吉本隆明さん追悼その1 浄土からの視線②

浄土からの視線❷
                             
   1970年7月17日、共産主義者同盟叛旗派の政治集会が中野公会堂で行われた。その年大学に入学したわたしは友人に誘われて、なんの動機もなく参加した。勇ましい赤いヘルメットの赤色学生たちが壇の前に陣取り、会場は満員の聴衆の熱気でむせかえっていた。壇上では果敢なアジテーションが続いていた。トイレに行こうと席を立った。廊下の隅に灰色の労務服を着た、他を寄せつけない異風の壮齢の男が床に座って、メモを読んでいた。公会堂の掃除の人のようにみえたが、たしかにわたしはその孤独な風貌に一瞬惹きつけられたのだ。トイレから戻ると、メインの発言が始まろうとしていた。登壇したのは、その異風の男、吉本さんだった。いま手許にある『敗北の構造』によれば、吉本さんの講演は『「擬制の終焉」以後十年』というテーマで行われている。45歳だった。講演の内容はそのときほとんど理解できなかったが、聴衆が静まりかえったなかで、照れたように大きな身振りで頭を掻きながら、声を搾り出すように抑揚をつけて話す姿が記憶に残っている。いつしかわたしは叛旗派の一員になっていた。そして、書店に行けば、知らず識らずに吉本さんの本をさがす悲しい心事が身についていた。
     1976年6月18日、品川公会堂で三上治主催の吉本さんの講演会が行われた。

《三上治に依頼されて六月十八日に、「情況の根源から」と題する講演に出かけた。わたしは、依頼されればどこへでも喋言りに出かけるわけではない。三上治は、六十安保闘争以後に、公私ともに孤立によくたえて政治運動をつづけてきた、ほとんど唯一の知人であり、わたしはそういうのに依頼されると無条件で出かけてゆくことにしてきた。ところで、事は、三上治の属していた政治党派内部で、充分に決着がつけてなかったらしく、講演会は叛旗派の面々の妨害により、中断せざるを得ない混乱に終始した。わたしは、あまりに馬鹿馬鹿しいので、壇上に駈け上って騒いでいる連中には降壇してもらって、じぶんの喋言りたいと思って用意してきた情況論は、喋言ることにした。わたしのお喋言りを妨害する奴を、わたしは許さぬ、なぜならば、集会の主人公は、身銭を切って講演を聴きに来た公衆であり、それ以外の何者でもないという原則を持っていたからである。……中略……集会の主人公である聴衆は、当日の混乱を眼の前で視ることができたはずだ。かれらが、その目撃したものから何を受け取ったかは、それぞれの恣意に属している。しかし確かに云えることは、現在、政治党派が直面している問題の縮図を、完全に視てとったということである。これよりも切実な体験も情況も存在しない。……中略……集会の主人公は身銭を切ってやってきた公衆であり、その公衆の問題意識の所在でも、高低でもなければ、その公衆が、どういう党派に属するか属さないかといった内訳でもないということである。この原則が確立されるまでに、まだたくさんの道を歩みつづけねばなるまい。》(1976年9月『情況への発言』)

     連合赤軍事件から4年、叛旗派もまた孤立し、誰もビジョンを描くことをできず、行き場を失い彷徨っていた。みな一様に病んでいた。昨日の友は距離を起きはじめ、目を合わせれば背けられ、家族を持った者は生活の襞が深まり、家人からは不審をつきつけられていた。多くは大学を退学処分になり、裁判を抱え、定職に就くこともままならなかった。政治党派としての存立根拠を失い、内部では〈他者に倫理を強いる倒錯した倫理〉が蔓延していた。〈連合赤軍なるもの〉に紙一枚まで接近していたのである。そして、4~5人の上層部の〈職業革命家〉のあいだで対立が激しくなり、指導者・三上治が叛旗派を離脱した。後で知ったのだが、きっかけは〈三上治の奥さんが司法試験を受けようとしている〉ことだった。だがわたしたちはすでに、もうひとりの指導者・神津陽のリードのもと〈逃亡する指導者・三上治〉を追跡しはじめていた。まるでスターリンの共産党がトロツキーを追跡したように。それから半年、わたしたちは、吉本さんが〈公私ともに孤立によくたえて政治運動をつづけてきた、ほとんど唯一の知人〉と云う三上治が主催する吉本さんの講演会を〈妨害〉しに押しかけ、〈壇上に駈け上って騒い〉だのである。わたしは吉本さんの眼前までつめよっていた。そのとき吉本さんは〈下がれ!   主人公は聴衆だ!〉と激しい口調で云った。何が起こったのかわからなかった。朦朧として、そのあとのことはよく憶えていない。それから、誰とも会わずにアパートにひと月ほど閉じ籠っていた。やってしまったことの〈罪障感〉の底に沈み、〈いったいわたしは何をしてきたのか〉と自問していた。吉本さんの敗戦直後の心理に倣って云えば〈上半身と下半身が捻れてしまったような感覚だった〉。叛旗派は終わった、そして、新左翼を含めた全左翼は無効だと考えていた。
    しばらく経った 9月、先に引用した『情況への発言』が『試行』に掲載された。〈これよりも切実な体験も情況も存在しない〉ということばがわたしに突き刺さった。わたしは慰藉されたと思った。それと同時に、〈考えるということをして〉きた、すべてを見透した認識のおそろしさをはじめて知った。語意矛盾のようだが、わたしたちにとって〈絶対的な批判者〉にして〈絶対的な擁護者〉としての吉本さんの姿が、そのとき僅かにわかったように思えた。
     吉本思想に近づき、読み込んでいくと、避けようもなく、或る視えない壁に当面するように思える。まるで遠い別次元からの透徹した断言に当惑をおぼえるのだ。その壁の前で、新約聖書の〈あなたは今夜、にわとりが鳴く前に三度わたしを知らないと云うだろう〉とイエスがペテロたちに云った一節にしたがうように、わたしたちは吉本思想を知らないと云い、見限ることもできるだろう。わたしが壇上に上って講演を〈妨害〉したように。だが、吉本思想のほんとうの姿は、あまえた情緒や倫理からは視えない壁の向こう側に、孤独に、誰からも理解されずに佇んでいるように思える。
     1976年6月18日の品川公会堂で出現した〈これよりも切実な体験も情況も存在しない〉情景は、以後、わたしのなかで〈反復〉をくりかえし、現在に至るまでわたしをとらえて放さなかった。そして、これからもわたしをとらえて放さないだろう。
     1976年9月、『試行』が出たあとしばらくしてわたしは、心境を綴った手紙を吉本さんに送った。秋も深まった或る日、吉本さん宅をはじめて訪れた。千駄木駅を降り、団子坂を上り、左に折れた路地の奥に吉本さん宅はあった。奥さんが出てこられ、「気がすむまで話していっていいんですよ」ということばに促されて2階に上った。吉本さんの背後の窓の磨りガラスが西陽にあたってきらきら輝いていた。
     爾後、わたしは同人誌『最後の場所』を発刊し、7~8年にわたって吉本さん宅をいくたびか訪れた。
     
《慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、 念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すえとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。》(『歎異抄』第四条)
     
   わたしたちは、あるときは切迫した息遣いでしゃにむに、あるときは余裕の息遣いで〈選択〉をくりかえし、ときおり躓きながら日々を過ごしている。また〈狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信〉じたり、〈不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪〉し、日々を過ごしているのかもしれない。けれどあるとき、遠いところから事象が到来し、わたしたちは恢復しそうもない〈挫傷〉を抱えこまされ、息の根を止められてしまうかもしれない。そのとき気づくのだ。この世界には〈自由な意志の選択〉の外に、〈人間の情況を決定する関係の絶対性〉があることを。云い換えれば、〈善いこころをもっているから殺さない〉という地平の外に、〈人間は業縁があれば百人・千人を殺してしまうことがありうる〉という地平があることに気づくのだ。
 〈聖道の慈悲〉とはここでの〈善いこころをもっているから殺さない〉という地平にあたっている。そして〈浄土の慈悲〉は〈人間は業縁があれば百人・千人を殺してしまうことがありうる〉ことに気づいた地平にあたっている。わたしたちは〈善〉なるこころがいつしか息ぐるしくなり、嘘がつきまとうようになり、終わりまでまっとうできないことを知っている。〈善いことをすると浄土には往けない〉と親鸞は云う。なぜならば、善いことをすると無意識のうちに〈自力〉が入り、〈業縁〉が視えなくなってしまうからだ。さらに、〈善人が浄土に往けるなら、悪人はなおさら浄土に往ける〉と云う。悪人は〈業縁〉のただなかにあって、無意識のうちに〈他力〉であるほかにない存在だからだ。無限に遠いところから〈絶対他力〉であるほかない人間存在を視ている親鸞の視線は、おのずから〈浄土の慈悲〉になっているということができる。
    彼岸の浄土に往き〈仏になりて〉、此岸に還り、万人を利益(救済)するというときの〈仏になりて〉ということを親鸞は、正定衆、不退転の位に就くことだと云う。また、吉本さんは生と死の中間に往くことだと云う。わたしも畏れずにおぼつかないことばで云ってみたいと思う。〈仏になる〉とは、眼には視えない〈業縁〉または〈関係の絶対性〉のただなかに佇んでいる自身も含めた万人の〈悲しみ〉を俯瞰し、凝視することだ。〈仏になる〉とはたんに心的な境位のようにみえる。だが、その境位は〈往相〉がそのまま〈還相〉である境位であり、思想が激しい奔騰をくりかえしている場所なのだ。
     吉本さんは、自分は〈皇国青年だった〉と随所で述べている。これは自分を卑下し、反省し、否定しているわけでもなければ、開き直って肯定しているわけでもない。〈往きがけの道〉として、アジアの極東の国でその時代に避けようもなく〈皇国青年だった〉と云っているのであり、同時に〈還りがけの眼〉から、父や母、特攻隊で死んでいった友人たちと同じように〈皇国青年だった〉自身の悲しみを掌に載せているという、二重の含みをもった表現になっているのだ。ふりかえってみれば、戦争期の自身がそうであったように、〈往きがけの道〉として〈貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪する〉矛盾のなかに置かれた歴史の主人公たる大衆のいいようもなく悲しい存在様式を、〈還りがけの眼〉から掌に載せることを、吉本さんは戦後間もなくの時期から一貫して目指してきたように思える。

《公にどんなことがあろうと、なんだろうと、自分にとっていちばん大切だと思えることをやる、それだけです。しかしそれは、人間に対する、透徹した信念を持ってないとダメなんだけど……ぼくはダメなやつだったわけですけど、しかしそこからは徹底して、これまできたんです。》(ほぼ日『ほんとうの考え』)
     
    大震災のひと月ほど後のインタビューに答えたものだ。いいようもなく単純なことが、だがもっとも困難なことが云われている。わたしたちはこのことばが、巨大な知が現実に着地した瞬間のものであることを知っている。〈自分にとっていちばん大切だと思えること〉とはなにか。それがわかればこの世界の矛盾は半分は解けてしまうだろう。また、無限の相対化にさらされた個人が意志した〈大切だと思うこと〉が、ほんとうに大切なことかどうかは、長い時間を経たあとにしかわからない。〈大切だと思うことをやるだけ。それだけです〉という簡潔なことばは、〈往きがけの視線〉と〈浄土からの視線=還りがけの視線〉が、ぴたりと重なった表現になっているということができよう。
    アジア大陸の東の果ての島々から成るわが国では、観念の特殊アジア的専制、宗教的遺制が衣をかえ、正義の相貌をして、繰り返し復活してきたのであり、その正義は通俗的な〈善〉や〈人間性〉の看板を掲げ、公共性の貌をまとって私たちの前に立ち現れるのだ。さまざまな正義の貌をまとった極東アジアの島国の観念的遺制に抗うには〈透徹した信念〉が必要であり、それを成しえた思想は古今東西、存在しなかったのだ。吉本さんを除いては。つまり、個人が〈公になにがあろうと、自分にとって大切だと思えることをやるだけ〉ということはそのまま世界思想に値するのだ。
    わたしたちはここで、親鸞思想と吉本思想がしだいに重なっていく感覚を覚えている。親鸞と吉本さんが入れ代わり、また離れ、戯れているようにみえるのだ。親鸞思想が吉本さんを介してわたしのなかで蘇るのを感じている。同時に、吉本思想がひとつのまとまりとなって、わたしのなかで〈浄土からの視線〉として、少しずつ生きはじめたのを感じている。
     集会の主人公は公衆であるという〈原則が確立されるまでに、まだたくさんの道を歩みつづけねばなるまい〉(1976年9月『情況への発言』)との記述のとおり、わたしたちはたくさんの宿題を抱え、たくさんの道を歩んできた。そして、巨きな山の麓までようやく辿り着けたと思う。おそらくは〈南都北嶺のゆゆしき学生〉には視えない悲しみの〈大衆の原像〉がようやく朧げながら像を結ぼうとしている。わたしはもういちど吉本さんにお会いしたいと思っていた。そんなやさきの3月16日未明に訃報は届いた。
     おそれていた時が来たとは云うまい。激動のときに〈じぶんの身ひとつで、吹きっさらしのなかに立つような孤独な感じだが、誤謬も何もおそれずに公言〉(『大情況論』あとがき)しつづけてきた吉本さんの考えを聞くことができなくなってしまったと嘆くこともするまい。
     眼もほとんどみえなくなり、歩くこともままならなくなった老苦のなかにあった晩年に 〈最近の僕のいちばんの関心事はうちのネコさんとどうつきあうかです〉(『ひとり』)と述べた、名もなき大衆に徹した、世界最大の思想家が死んだ。だが、吉本さんの、銀河系の終末からの視線ともいうべき〈永遠からの視線〉は、わたしたちのなかで生きつづけるのである。

吉本隆明さん追悼その1 浄土からの視線①

浄土からの視線❶
                                                                          
  
    2010年12月、暮れも近くなった21日、わたしはタクシー運転手の友人・前川とともに吉本さん宅を訪れた。わたしが訪問するのは26年ぶりのことだった。伺うみちみち、かつて吉本さん宅にいくたびか向かったときの孤独と高揚が蘇っていた。
    かつてわたしは、扉を叩けば開かれるのか、いつも〈訪問することの不安〉を感じていた。吉本さん宅に近づくごとに〈自己卑小感〉がせりあがってくるのを覚えていた。だが、吉本さんは扉を開いてくれたのである。今から考えれば、なにものかに取り憑かれた青年期の夢のような時間だった。初めて訪問してから7~8年経った頃、わたしは「横光利一論」を『試行』に投稿した。それを読んだ吉本さんは、本棚から横光利一全集10巻を降ろし、わたしの前に置いた。「これを持ち帰って、後にも先にもこれだと云われるような決定的なものを書いてください」と云った。わたしはたじろいだ。持ち帰ることができなかった。家までの道のりを、重い全集を担いで帰ることが途方もないことに思えた。わたしのなかで小さな挫折感があった。それは青年期の終わりだったのかもしれない。または、吉本さんが突きつけた〈途方もなく遠い道のりを、重い荷を担いで歩けますか〉という試練の前にわたしは躓いたのかもしれない。それから長いあいだ遠ざかっていた。そして、怠惰に疲れると本棚からひっぱり出して吉本さんの本を読むことをしていた。
   
     友人は自身が造った日本酒を持参していた。吉本さんもそれをすこし飲んだ。酔いが回った友人は「吉本さん、こんなに元気なら、あと10年は長生きしますよ」などと放言し、吉本さんもにこやかに上機嫌のようにみえた。
     わたしは黙して1時間ほど聞いていた。26年ぶりの吉本さんの前でどう振る舞っていいかわからなかった。わたしはうわずった声で口を開いた。「吉本さんの書いたものには、新約聖書の〈イエスは人びとに平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来た〉という一節と同じように、読む者に受難をもたらす要素があるような気がします。さまざまな人とわたしもまたずいぶん離反してきたように思います」。間を置かずに吉本さんは断言した。「ぼくの考えを理解した人は、過去から現在に至るまで誰ひとりとしていない」と。わたしは一瞬、息をのんだ。そのことばがそれからわたしの脳裏で反復している。おそらく、わたしはまた吉本さんのことばに躓いたのだ。
     誰よりも吉本さん自身が〈ほんとうのこと〉を云ったために、多くの人と離反してきた。そして、〈ほんとうのこと〉に共鳴し、その狂気を読みこんだわたしたちは、内面のおくに重い十字架を背負ってしまったといえる。だが、その被害感は裏面で誇りや優越感をまとっていなかったか。その誇りや優越感は他者から見て、驕りや冷たさ、拒絶する意志として映っていたのではないか。この他者を、近所の人びと、万人にまで拡張したらどうなるか。つまり、わたしの被害感は〈往きがけの道〉でのものであり、〈還りがけの道〉では無限の相対化を受けることになるのだ。そして、〈還りがけの道〉において初めて吉本思想は姿を現すようにみえる。
     表現は初めから理解されることや伝わることを求めているわけではない。だが、理解されたいという儚い希望をもっているに違いない。〈まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり〉(『歎異抄』結文)。そらごとに陥らずに、吉本さんの〈ひとついたましきこと〉に辿りつけたらというのがわたしの儚い希望だ。

《人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することもできる。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。》(『マチウ書試論』)
     
   いうまでもなく、29歳の青年・吉本の、戦後の激動と、自身の敗北に敗北を重ねた孤独からつかんだ思想の宣明、なにものにも依存せず、世界の外に自身を置き、単独で全情況に立ち向かおうとする宣明である。以後の吉本さんの営為はこの思想の宣明の深化と展開だったようにおもわれる。そして、この宣明以降、吉本さんの思想の立ち位置は、擬制の知識人からは視えないのに、吉本さんからは彼らの理念の挙動が視えるような位置に移ったのである。過去も現在も、前衛として西欧思想の諸家の言説を援用しながら擬制の思想を標榜し、大衆に向かって蒙をひらこうとする識者たちは、その底では「狡猾な秩序をぬって」渡りあるいているのであり、いっぽう大衆は「不合理な立法をまもることを強いられながら」革命思想を嫌悪している(これは大衆不信ではなく、むしろ、父や近所の人びとの延長としてのそんな大衆に共感を寄せていると吉本さんは述べている)。つまり、過去も現在も、前衛としての知識人たちは大衆の現実といちども激突することなく擦れ違ってきたのである。そしてこの構図は、アジアの極東、古代から連綿とつづく宗教と習俗の遺制を未だひきずる、四方を海に囲まれた島嶼国家という地域性と歴史的段階により多く起因しているように見える。
     では〈関係の絶対性〉とはなにか。誤解をおそれずに云えば、吉本さんの全思想の基底に流れるものだ。どこを切り取っても〈関係の絶対性〉から受けた〈悲しみ〉が沁み出てくるように思える。

《悲しいもんですよね。いや、ほんとうに思うんですが、自分がしゃべっても、鼻歌をうたっても、やっぱり、なんとなく、悲しいです。悲しみじゃないことは、なんでもないことと同じだって、そういう感じもします。》(ほぼ日『ほんとうの考え』)
 《人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。》(『共同幻想論』の序文)
     
   吉本さん、なにがそんなに悲しいのですか?   そう訊きながらわたしもまた悲しみに誘われていく。この〈悲しみ〉が指し示すものが〈関係の絶対性〉にあたっている。別様に言うこともできる。先の大戦の時代、青年・吉本は〈自由な意志〉が選択するように皇国青年として戦争にのめりこんでいった。だが終わってみれば、数百万の自国民が死に、アジアでは東亜の解放の大義のもと残虐の限りを尽くしていた。そのことを〈上半身と下半身が捻じれてしまったような感覚だった〉(『学問のススメ』)と述べている。この絶望的な敗北の底に落ち込み、〈じぶんの発想の底をえぐり〉だしたとき辿り着いた概念が〈関係の絶対性〉であり、遠いところから有形無形の事物が殺到したとき万人を拉し去るところの当のものだといえる。〈共同幻想〉もまた〈関係の絶対性〉の一態様だということになる。
     だが、この〈関係の絶対性〉という概念を掌にのせ、俯瞰する視線を手に入れたとしても、一個の存在がそこから自由になるわけではない。依然として存在は〈関係の絶対性〉の前に、あるいはただなかに佇み、矛盾の中に置かれ、無限の相対性に晒されているというほかないからだ。ただ、この概念を基底に置かない理念は泡沫にすぎないということができるだけだ。そして、思想は現実を前にして〈悲しい〉表情をするほかはないようにみえる。

     23歳の1973年の元日、わたしは現住建造物放火未遂の廉で東京拘置所の独居房にいた。静かで穏やかな元日だった。いつものようにラジオからは昼のニュースが流れていた。「今日の未明、東京拘置所で連合赤軍の森恒夫が……」と言ったところでニュースは突然遮断された。なにが起こったのかすぐに察知した。静かな、底知れぬ動揺が長く続いた。わたしのいた房の窓の向こうの棟に連合赤軍の面々がいることは知っていた。その棟には死刑かそれに次ぐ刑が目される人びとが拘留されていた。
      西欧からみてアジアの東の果ての島国の首都で、孤立し行き場を失った〈革命戦士〉たちは、権力当局から追われ、または、みずからがつくりだした妄想の追跡者から追われるように北関東の山中を亡霊のようにさまよい、隠微な猜疑心はさらなる猜疑心を呼ぶ倒錯と禁圧を深めていった。その果てに14名の同志を〈革命〉の名のもとに粛清した。当時、マスコミや識者たちは〈精神異常者の集団〉や〈偏執狂の殺人集団〉というレッテルを貼り、彼らの〈病的な資質〉のせいにしてすまそうとした。だがわたしにはそうは思えなかった。なぜなら、同時代性のなかにいて、しだいに危機に傾斜し、転がりこんでいく彼らの心的な挙動を一挙に了解できたからだ。また、〈向こうの棟で森恒夫が自殺し、わたしはこちらの棟にいる〉ことと、〈森恒夫がこちらの棟にいて、わたしが向こうの棟にいる〉ことは交換可能のように思われたからだ。
     1972年6月発行の『試行』で吉本さんは述べている。

《きみたちは〈連合赤軍〉なるものを、絶対的に擁護するだけの論理を展開して、権力とマス・コミの流布している論理と倫理を、はね返し得なければ、すくなくとも、表現者としては〈死〉であることを忘れるべきではない。》(『情況への発言』)
     
   ここでの、連合赤軍なるものを〈絶対的に擁護〉するという宣言に(のちのオウム真理教事件、現在の原発についての発言にも)、なにものにも依存せず、孤立を恐れずじぶんの考えを公開してきた吉本さんの真髄をみることができる。では、連合赤軍をなぜ〈絶対的に擁護〉しようとしているのだろうか。殺人や彼らの理念を擁護しているのではない。《この〈アジア〉的な共同性への先祖帰りは、なによりもまず〈政治イデオロギー〉的なくだらなさの極致をさしている》(前同の『情況への発言』)として彼らの理念をこきおろしている。吉本さんが擁護しているのは、彼らが国家から追われ、逃走し、粛清に至り、拘置所につながれている一連の過程の根柢に〈関係の絶対性〉を、存在の究極の〈悲しさ〉を視ているからであり、また、自身の〈皇国青年〉だった戦争期とその後の精神の惨劇と同型のものをみているからであり、その限りおいて彼らを〈絶対的に擁護〉しているのだ。そして、そう宣言する吉本さんは彼らのすぐそばで、彼らと同じように、ちみどろの内的なたたかいを闘っているようにおもえる。云い換えれば、自身を情況に晒し、〈交換〉しているのだ。

《またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにていは候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべ し」と……》(『歎異抄』第十三条)
   
   唯円は親鸞の無限に遠いところからみている透徹した視線の前でたじろいでいる。まず、親鸞の〈わたしのことばを信ずるか〉という問いに〈仰せのとおり信じます〉と答え、〈ならばわたしの云うことに背かないか〉との重ねての親鸞の問いに〈つつしんで背くことはありません〉と答える。親鸞はさらに問う。〈たとえば千人殺してみなさい。さすれば往生は疑いないだろう〉と。〈仰せではありますが、わたしの器量では一人さえ殺せるとは思えません〉と唯円は答える。〈それならば、どうして親鸞の云うことに背かないと云ったのか〉と親鸞は叱責する。ここで、唯円の〈自由な意志の選択〉はことごとく躓いている。だが、唯円は間違っていたとは言いきれない。わたしもまた唯円のように答えるだろうからだ。そして、親鸞は唯円に、永遠に残るようなおそろしいことばを語る。〈親鸞のことばに背かないと誓い、往生のために千人殺せと云われたのだから、殺すべし。けれども、一人でも殺せないのは、殺すべき業縁がなかったからだ。殺さなかったのは、器量がなかったからでも、こころが善だからでもない。また、殺したくないと思っても、業縁があれば百人・千人を殺してしまうこともありうるのが人間という存在だ〉。
     人間は誰でも〈業縁があれば百人・千人を殺してしまうこともありうる〉というのは、万人にあてはまる公理だ。この万人にあてはまるということが決定的に重要だと思える。〈いや、わたしはどんな場面でも決して殺すことはしない〉と宣言することもできる。〈自由な意志は選択〉するからだ。だがそれは、ただ覚悟性でしかありえない。そして嘘がつきまとうように思われる。親鸞は人間という存在の、ということは万人の存在の、根柢にある〈悲しみ〉を無限の遠い距離から、凝視しているのだ。そのまなざしは〈浄土からの視線〉とでも云いうるものだ。
〈業縁〉(吉本さんによれば〈機縁〉)とはなにか?    鼻のうえに蝿が止まったこと、ぬきさしならない三角関係、日常のなかに潜む過失や愛憎の深まり、または経済恐慌、失業、宗派的な対立、戦争や天変地異……。それらの複合かもしれない。その〈業縁〉は個人の〈自由な意志〉の彼岸からやってくるように見える。そして〈業縁〉に当面した個人の〈自由な意志〉は無限の相対化に晒され、云いようもなく卑小な存在だと思い知らされるのだ。では、無限の相対化に晒された個人(の意志)はどこに向かうのか?     誤解をおそれずに云えば、すべてを削ぎ落とした後に残る、存在するだけでなにごとかであるところの、存在の価値の根源に向かうのだ。ここでは万人の存在の価値は等価だ。そして、個人の〈自由な意志〉がちょうど途絶えたところで、あるかなきかの儚いひとすじの希望としての〈自由〉があらわれるように思える。
     わたしはここまで来て、吉本さんの〈人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである〉というときの〈関係の絶対性〉と、親鸞の〈人間は誰でも業縁があれば百人・千人を殺してしまうことがありうる〉というときの〈業縁〉は同義だと云いたいらしいのだ。

     2011年2月初旬、連合赤軍・永田洋子、獄中で脳萎縮死という訃報が新聞の片隅に掲載された。20代の初め、東京拘置所で彼らとすれちがったことがわたしのなかで蘇った。永田さんと面識はなかったが、いたましいその死を思った。わたしは考えてきたような気がする、彼らとわたしたちの差異は何かを。彼らは妄念に囚われ、わたしたちはわずかに聡明だったのか。彼らは境界を超えて仲間を殺戮した、わたしたちはわずかに人間性を残していたのか。たしかに賢い答えかもしれない。だがそれは嘘だ。その延長線上に答えはない。答えはあるとすればひとつだ。〈業縁〉または〈関係の絶対性〉が彼らの意識と行動の傾斜にそのとき加担したのであり、わたしたちのそれに加担しなかったのである。
(つづく)

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