徒然草

駆け込み消費の反動減のあと回復できるの?

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タイトル通りなのだが,ざっと読むかぎり日銀・政府・民間の多くが消費増税後4~7月ぐらいにかけて景気は悪化しても7月以降は景気は再び回復基調に戻ると想定している印象。で見通しの前提が輸出の増加なんだけど輸出が増えるイメージが湧かない。

円高リスク対応のために輸出のドル建ては半分割ってて,輸入のドル建ては3分の2を超えている現状では円安の影響はドル建て比率が高い輸入のほうが大きいから貿易赤字が拡大しやすい環境にあるし,円安でもアメリカ様を除けば欧州,BRICsと世界経済(外需)もいいとは思えないので輸出が増えるとは考えにくい。Jカーブ効果とかいっても輸出企業が価格を簡単に下げるとは思えない。ということで今年の後半にかけて輸出が回復して内需を埋め合わせるというストーリーはよくわからない。

期待(マインド)に訴えたい日銀やさらなる消費増税を実行したい政府が高めの想定をするのはわかるのだけど民間のエコノミストが今年の後半に回復すると想定しているのはなんか腑に落ちない。

あと最近関心があるのは,円安とリスクオンの関係。巷間言われているように,日銀の緩和継続とアメリカの緩和縮小,日本の経常収支の+幅の縮小を考えると中長期では円安として,上記のように円安で輸出が伸びず景気回復できないとわかってきた場合マーケットも現状の円安でのリスクオン,円安と株高の脊髄反射は改めないといけないはずだが,このリンクはいつまで続くのだろう。

最近の日本株市場は流動性ないしこれからも海外の短期筋に振り回され続けるのだろうけどマーケットも短期筋の為替とか指数の操作に引っ張られずに個別の企業の業績を見てほしいんだけど。マーケットにおいて生き残るには,マーケットに合わせるしかないのだが,昨日大証がトラブって先物が止まってたとき「平和」を強く実感したでござるよ。

ソロスかく語りき

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photo credit: International Monetary Fund via photopin cc

『ソロスは警告する』の第3章「『再帰性』の理論」から印象に残った箇所を引用メモ。

豊穣な誤謬

 私は,誤った考えでありながら成果をきちんと生み出すようなものを,「豊穣な誤謬」と呼んでいる。豊穣だというのは,欠陥が見つかる前に,その考えが建設的な結果を生み出すからである。誤謬だというのは,その考えの現実理解が本質的に不完全だからだ。
 啓蒙主義が採用した思考と現実の二元論などは,さしずめこの「豊穣な誤謬」の好例ということになる。啓蒙主義の理性に対する信頼には前述したように問題もあったが,それでも間違いなく大変な成果を挙げることとなった。だからこそ,啓蒙主義はその誕生から二世紀にわたって支持され続けたのだ。
 「豊穣な誤謬」は,他にもたくさんある。いや,実は,およそ文化と名のつくものは,すべて「豊穣な誤謬」に根ざしている。
 もちろん,私たちは知識を獲得することが出来る。だが,その知識が有益であればあるほど,私たちはその知識を過剰に使用し,それが妥当しない領域にまで拡張しようとする。そうなると,その知識はもはや誤謬である。啓蒙主義に起きたのも,まさにそれだった。啓蒙主義の考え方は,西洋文明に深く染みこんでおり,捨て去ることは難しい。啓蒙主義の伝統に対して批判的な者の文章にも,啓蒙主義の考え方は浸透している。私の著述も例外ではない。
太字は引用者による)

根本的な可謬性の原理

 人は現実について何がしかの洞察を得ることは出来るが,現実を理解すればするほど,理解しなければならないことは増えていく。動く標的のようなこの現実に直面して,人は獲得した知識を適用不能な領域にまで拡張することで,その知識に過大な負荷をかけてしまう。その結果,現実の正しい解釈でさえも歪んだ現実認識のもととなる。

(中略)

 知識を得る方法として,大変な成功を収めてきた科学は「人は誤る運命にある」という「根本的な可謬性」の原理の例外となりそうなものだ。だが,科学的方法は明らかに行き過ぎてしまった。自然科学があまりに成功を収めたせいで,社会科学者たちは自然科学の真似をしようと無理な努力を重ねることになったためだ。
 例として,新古典派経済学を考えてみるとよい。新古典派経済学が均衡概念を使用するのは,ニュートン力学の真似である。だが,参加者の期待が重要な役割を果たす金融市場では,市場が均衡点に向かって収斂していくという主張は,うまく現実に対応してはいないのだ。合理的期待形成学派の場合,こじつけにこじつけを重ねて均衡が勝利する人工的な世界を強引に築き上げたが,その世界では理論が現実をうまく説明するのではなく,現実に合わせて理論が際限なく捻じ曲げられていくだけなのである。これなどは,「根本的な可謬性」の原理の好例であろう。

・ジャーナリスト  Ron Suskind ロン・サスキンド

Karl Rove カール・ローヴ(「政治コンサル」)の発想

 「まず有力側近氏(引用者注:カール・ローヴ)は,私たちジャーナリストが,彼らの言う『現実に根ざしたコミュニティ』に属しているのだと言った。それは,認識可能な現実を真面目に研究して,そこから浮上してくる解決を信じる類の人間だと,彼は説明を加えた。
 私(引用者注:ロン・サスキンド)は頷いて,啓蒙主義の諸原則と実証主義について口にしようとした。
 だが,彼は,私の発言をさえぎって『それは,もはや時代遅れなんだ』と言うではないか。『アメリカは帝国なんだから,われわれが何か行動を起こせば,現実はそこで変化していく。そうやって出来上がった現実を,君のような現実コミュニティの住人は,一生懸命研究するだろう。だが,君が何の結論も出せない間に,われわれはまた行動を起こし,さらに現実を変えていく。それを君はまた研究することだろう。そういうものさ。われわれは歴史の主体であり,君たちジャーナリストや学者は,われわれの行動を研究するだけなのだ』
 当時の私には,この発言の趣旨は,完全には理解できなかった。だが,これが実はブッシュ政権の核心に触れる発言だったことは,今となっては,あまりに明らかだ」

・現実の社会は再帰性(ある社会現象と,その社会現象の参加者の思考との間にある双方向的な繋がり)ゆえに「真実は操作可能で真実の操作のほうが,真実を知らせることよりも優れた手法だ」と主張する政治コンサルのカール・ローヴのような存在が絶えず現れる

再帰性とプロパガンダ

 科学と政治との違いとして2つ,重要なものが特定されている。1つは,政治は真理の探求よりも権力の追求を最大の目的として重視するということだ。もう一つは,科学においては事実という客観的な基準が存在するのに対して,政治においては,事実は参加者の決断に従って変化してくるということである。
 私は「再帰性」のせいで,社会科学はどれも自然科学の基準を満たすことが出来ないと論じた。社会的事象の過程は本来的に不確定なのだから,いくら科学的方法をあてはめても,確定的な予測や説明をもたらす一般化は不可能なのだ。むしろ,私たちは確定的な予測ではなしに,直感や多様なシナリオで満足するべきなのである。
 今にして思えば,私は社会的事象を観察する社会科学者の役割を検討するのに時間を費やしすぎ,社会現象において参加者の果たす役割を十分に分析してこなかったようだ。そのせいで,政治は真理の探求よりも権力の追求を優先させるという,ポパーの「開かれた社会」の欠陥に気づかなかったのだ。

(中略)

 理性的な対話でひたすら相手を説得しようとする「啓蒙の誤謬」の信奉者よりも,事実を無視して,ひたすら感情に訴えるカール・ローヴのほうが,政治的によほど成功をおさめてきた。「テロに対する戦争」が最強のスローガンになったのも,死に対する恐怖という,人間の最も強い感情に訴えたからだった。かつては 珍しくなかった政治家の志―彼らの人格の高潔さを再建するには,たとえ操作可能なものであっても,現実はやはり重要であるということに人々が気づかなければならない。言葉を変えれば,人々は「再帰性」を受け入れなくてはならないのである。


 どんな知識や技術を持っていようが,よく知らない領域に足を踏み入れたなら,人は無意識的無能(わかっていないことをわかっていない)になる。

 ある領域で成功をもたらした知的習慣はあなたの無意識に深く刻み込まれていて,それが別の領域では失敗につながるのである。

「明らか」という言葉―配慮判定のリトマス紙

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不特定多数の人を対象とした文章で「明らか」,「自明」という表現を見かけると萎える。

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photo credit: W2 a-w-f-i-l via photo pin
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一般に,「明らか」「自明」という言葉は説明や解説を加えることで(目的に対して)円滑なコミュニケーションが阻害される場合,コミュニケーションの効率性を高めるために用いられる,とても便利な言葉だ。

しかし,率直に言って違和感を覚えることが多いのも事実。これらの言葉は不特定多数の人を対象とした文章で用いるべきではないし,この言葉を頻繁に使用する人の文章は出来るだけ避けた方が賢明だろう。
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背後に構造がある分野と理論

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社会学って,フィールドワークとかして、個別の生々しいケースを見るのが楽しいんで、下手に具体的な情報をそぎ落として一般化された構造を抽出しようとすると、すかすかになって全然面白くない。理論化して面白い分野って,背後にかなり一般的な構造なり法則が存在する分野だから。例えば物理 

あーたしかに。
盛山和夫『社会学とは何か』、『制度論の構図』などの数理社会学を読んで同じような印象をもった。数理社会学(といっても盛山さんの書いたものだけだが)の魅力は何といっても曖昧になりがちな社会学の中では論理的に一貫していて明晰に語られるところにあるのだけど、一方で社会学で「確かなもの」を追求すると具体的な部分が捨象されて骨だけですかすかになると。

結局のところ、社会学はそもそもの「社会」という対象が理念的に構築されたものであり、その上曖昧かつ複雑なので無理に何らかの仮定をおいて抽象化、一般化してもほとんど何も説明できないし、当たり前の結論になってしまう。

盛山社会学においても、社会学において疑い得ないものとして①社会制度とは経験的な実在ではなく理念的な実在であって人々の主観的な意味世界に根拠づけられている、②社会学の使命はこの主観的な意味世界の探求であり(一次理論「各自が理解している意味世界」二次理論「各自の意味世界に基づいて、人々は実際にどのような行動をとるのか」を分離してその作用を分析)、③最終的に「経験的」ではなく「規範的」な学問たらざるえない、と結論づけている。

背後に一般的な構造がない(と思われる)社会学は一般理論の構築を目指すのは不可能だし、僕の理解するところ社会学には「共通の感覚」はあっても「共通のディシプリン」がない。なので、社会学はケースに合わせて狭い範囲で使えそうなモデルを構築していくしかないということだろう。
 
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