「法華経は自力難行道だ」と主張する浄土門系に対する了義日達上人の返答を紹介します。
○衆生の根縁は千差であるが、大別すれば信行根と法行根との二つである。(中略)
信行根といは、教えの聴聞を通して信を生じて解を発する人。
法行根とは、教を聞いて思を生じて解を発する人である。
大小乗の教えを受ける全ての者の行は、この信法二行のどちらかに属する。
故に天台玄義には「教を禀󠄁(う)けて行を立てるに信法を出でず。鈍者は聞に因って解を得、故に信行と名づく。利者は自ら推して解を得、故に法行と名づく。二行は四教に通ず」(大正33巻793c)
とも、また「教門に於いて道を得るを名づけて信行と為し、観門に於いて道を得るを名づけて法行と為す」(大正33巻784b)と」説明している。
(已上は、愍諭繋珠論巻之四・11右~11左の趣旨)
譬喩品には「汝じ舎利弗、なお此の経に於いて信を以て入ることを得たり、況んや余の声聞をや。其の余の声聞も仏語を信ずるが故に此の経に随順す。己が智分に非ず」(開結168頁)と説いてあるように、舎利弗たちは、明らかに信行に得悟したことが判る。
迹門流通の初め法師品第十には「妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜せん者には、我れ亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く。」(開結305頁)と説き、(中略)本門流通の首の分別功徳品第十七には「能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量あることなけん。若し善男子・善女人あって、阿耨多羅三藐三菩提の為の故に、八十万億那由他劫に於て五波羅蜜を行ぜん。・・・是の功徳を以て前の(一念信解の)功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばず。」(開結438頁)と説き、仏滅後の流通を説くに、ことごとく信心得道を明かしている。(中略)
況んや提婆品には「妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ず」(開結348頁)と説き、随喜品には、五十展転随喜の功徳は八十年の布施に勝れることを明かしている。
これらの経説はひとえに、滅後末代の衆生の為めに慇懃に法華信受の修行を勧示しているのである。
是の様な経説を無視して、「法華経は自力難行だ」などと毀訾する事は、自を損し他を害して無窮の罪を犯すことになる。
(已上は愍諭繋珠論巻之四・15左~16左の趣旨)
追記
一音日暁上人が『法華安心録』に於いて「問う。念仏門の師は十住論によって、自力の行を以て難行道とせり。法華の得度も自力に由るや」との質問に対して、「法華経は自力難行道では無い」と論じている箇所を紹介します。
○答、天台大師が法華文句の十に「経に大力有って、終に大果を感ず」(大正34巻141b)と言い、妙楽大師が法華文句記の十に「行浅く功深き、以て経力を顕す」(大正34巻344c)と補釈し、また
伝教大師も法華秀句の下に於いて「妙法の力にて即身成仏す」と述べているように、法華経の成仏得脱は経力に依ること大なのだから「自力難行道」では無い。
十住論は法華が易行道であることをかえって証している事を知るべきだ。十住論の五には〔仏法に無量の門有り、世間の道に難有り易有り、陸道の歩行は即ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如く、菩薩の道も亦た是の如し。或いは勤行精進する有り、あるいは信の方便を以て易行にして疾く阿惟越致地に至る者有り(已上論文)〕と述べて、水道の乗船を易行道と言っている。
薬王品には「渡りに船を得たるが如し」云々と説き、譬喩品には「汝じ舎利弗すら尚を此の経に於いては信を以て入ることを得たり。己のが智分に非ず」云々と説かれている。
智慧の第一の舎利弗すら信を以て成仏すると授記を受けている。「一を挙げて諸を例せり」で、舎利弗以外の者の成仏も皆な信力に由っている。吾が宗祖も亦た信心肝要と云へり。まさしく易行である。
(中略)十住論の文を根拠にして、法華を判じて難行と判じることは大間違いである。
(已上・法華安心録23右~23左の趣旨)