日蓮宗 法明教会

当教会の信徒さん向けの法話と時折やや専門的な小考を掲示いたします。

鈴木泰隆著「本当の仏教第2巻」を読んで。2

第34講~第37講である「2 女性出家希望者に対する釈尊の救済」の中で、


「摩詞波闍波提よ、もしそなたが何らかの法(教え)を知ったとして、その法が貪欲ではなく離欲へと導き、繋縛ではなく束縛からの離脱へと導き、〔悪業の〕増殖ではなく損減へと導き、(中略)維持しがたい状態ではなく維持しやすい状態へと導くのであれば、摩詞波闍波提よ、それは間違いなく法(経典)であり、律であり、師匠〔である私〕の教えであると知らねばならない」(『ブィナヤ・ピタカ(律蔵)』第二巻258~9頁)
との文を挙げ、


《仏教では、「その人を涅槃へと導く教えが正しい教えである」という基本的考えのもと、数多くの教説・仏典が編み出されることとなったのです。(中略)正法か否か、仏説か否かの判断は、教えの内容ではなく導く先に依るからです。(中略)ある教えがあって、それが誰か一人でもよいからその人に、〈涅槃へと歩み行く善い自分〉を形成させる善いサンスカーラを発動させるなら、その教えは誰が説こうとも仏説です。仏教ではキリスト教やイスラームと異なり、古来「八万四千の法門」と呼ばれるほどに聖典の
数が多くなったのには、このような理由・背景があったのです。》(87頁)

と語り、

また、『アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)』の

「なんであれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の直説である」

との文を挙げ、


《「善く説かれたもの」と訳したことばの原語は「スバーシタ」といい、衆生を真理へと導くことば・巧みな救済手段(善巧方便)を指しています。仏教では「衆生を救済する手段」と「釈尊のことば」は、完全にイコールの関係で結ばれています。ですから、たとえそのことばを発したのが、紀元前四、五世紀にインド東北部で活躍した歴史的人格としての釈尊ではなかったとしても、そのことばが衆生を救済する手段となっているならば、それは「釈尊のことば、直説」になるのです。それが仏教という宗教の特質なのです。そうであるからこそ、歴史的人格としての釈尊が入滅した後も、釈尊のことばはこの世に編み出し続けられました。仏教における聖典が「八万四千の法門」という、他宗教に比べて圧倒的な数を誇るようになったのには、このような理由があったのです。》(90頁)と語り、仏説として、いわゆる
「八万四千の法門」が生み出された理由を説明しています。

 

これらの説明は、大乗仏説論擁護の論拠に成りますね。

 

『本当の仏教第2巻』その1。

興山社刊・鈴木隆泰著『本当の仏教第2巻』を一読しました。良書です。

「はじめに─第2巻の焦点─ 」に於いて

「〈自分〉と〈自己〉とは異なります。このことを表すのが「凡夫である私たちの認識対象の範囲内に、真の私である〈自己〉は見出せない」であり、漢訳されて〈諸法無我〉となりました。〈諸法無我〉とは、真の私である〈自己〉などどこにもない、という意味ではありません。」

と提示し、「4 死後世界に関する釈尊の本当の教え」の中の、特に第46講の中で「諸法無我か諸法非我かのどちらか?」を原始仏典などを基にして詳しく語っています。

「4 死後世界に関する釈尊の本当の教え」は第44講~第48講の構成ですが、この部分が有るだけでも此の本を購入して良かったなと思います。

ロボット坊さん

先日のニュースで「葬儀見本市」の模様を報じていました。袈裟をつけ読経しているロボットを紹介していましたが、葬儀・法事の肝心は追善回向に有る事を忘れたアイデアだと思います。

 

葬儀における読経唱題は、読経唱題の功徳を回向するためです。

「総ての衆生を成仏させる為めの最勝のお経である、ああ有り難い」と正信をもって読誦する事によって、功徳が生じ、その功徳を死者に回向する事が出来るのです。

 

ロボットでは「ああ有り難い。最勝のお経で有る」と云う信仰的意識をもっての読経唱題は行えないので、功徳が生じない読経と云えますね。ロボット坊さんの読経では、追善回向が成り立たないと思います。

 

江戸時代の名僧元政上人が「艸山要路(そうざんようろ)」の「誦経第七」に誦経の心構えについて、

「要(よう)す一心専念にして音吐遒亮(おんとしゅうりょう)に文句分明なるべし、いわゆる法音を歌誦して、此れを以て音楽とするものか。智者大師の曰(い)はく『凡そ誦経の時は即ち座下に皆な天龍八部四衆囲繞聴法す、乃(すなわ)ち我れ能(よ)く法師となって仏の正法を伝え四衆の為めに之れを説く観ぜよ。誦経已(すで)に竟(おわ)らば、此の功徳を以て一切衆生、未来世に於いて共に正覚(しょうがく)を成ぜんと願すべし』

と書いていますが、ロボットでは、「音吐遒亮(おんとしゅうりょう)に文句分明」はともかく、「天龍八部等の神霊が私の読経を聞きに集まっているのだ。自分は仏の正法を説いているのだ。読経唱題の功徳によって総ての人と共に成仏したい」と云う意識をいだいての読経は出来ませんね。

 

また、ロボットに坊さんの代わりをさせる目的には、お布施の節約と云う事にも有るようですが、追善の善とは、仏祖三宝に、ほめられ喜ばれる行いです。仏祖三宝がほめ喜んでくれる善行とは、端的に言えば、お題目の信仰を護り広めることです。

僧侶はお布施を頂戴して、お題目を護り広める専従者としての任務を担う事が出来るのですから、僧侶に布施をすることは、仏祖三宝が喜ぶ善行であると云う事になります。

ゆえに、葬儀や法事には僧侶にお布施をする事が必要なのです。

 

餓鬼(浮かばれていない霊)が布施回向によって救われた51話の例を挙げている「餓鬼事経」と云うお経があります。

どの餓鬼も「直接に私に物を施してもらっても、私は直接受け取ることが出来ない。サンガ(僧団)に布施して、その功徳を回向してください」と願っています。

僧団に飲食・生活用品などを布施→布施の功徳を僧侶に回向してもらう→死者に霊が救われる。

と云うのが仏教本来の追善供養の方式なのです。

インドやミャンマーの上座部仏教国では、この基本方式が守られているようですが、読経ロボット坊さんを考案した葬儀業者は追善回向についての仏教本来の基本方式を忘れているのでしょう。

 

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