日蓮宗 法明教会

当教会の信徒さん向けの法話と時折やや専門的な小考を掲示いたします。

お盆法話(令和2年度)

石原慎太郎氏と曽野綾子氏との対談集『死という最後の未来』(幻冬舎)を購入しました。

特に、【 第二章「死」をどう捉えるか】の

「お釈迦様は輪廻転生があるなどとは言っていない」

「霊魂は不滅なのか」

「目に見えない何か、はある」

等の項目に惹かれたわけです。

 

「お釈迦様は輪廻転生があるなどとは言っていない」と云う項目の中で、

石原 そういった考えは、仏教にはないですな。お釈迦様はまったくそのようなことは言っていない。仏教での来世は平安時代末期に浄土宗の法然が、人々の恐怖を救うために言い出したんです。極楽というものがあって、南無阿弥陀仏と唱えれば救われると。今でいえば一種のセールス。釈迦自身は、来世とか輪廻転生とか、天国とか地獄などとはひとことも言っていないんです。だから僕は、死は「最後の未知」だと思っていて、何とかそれを知りたいわけです。】

と語っていますが、影響力大の石原慎太郎さんですから、このような軽率な断定を語って欲しく有りませんね。

お経の中で最も古いお経と見られている『スッタニパータ』の「第四章」にも、

「あらゆる人びとは、あらゆる方位の世間的存在へと輪廻転生しつづけていくのである。いまもしも、その矢をさえ引き抜いてしまうならば、もはや輪廻転生することはあるまい」

との句をはじめとして「迷いの者は輪廻する」と教示が幾つもあります。

 

また、お釈迦様は在家の信徒には「施・戒・生天」を説いたと指摘されています。「施しを行い、戒めを守って生活すれば死後、天上界に赴ける」と云う趣旨の説法をした云うことです。

 

石原慎太郎さんは

【石原 僕は、(幽霊体験を)ハッキリ認めるんですよ。霊というのは、人間の想念なんです。親父が亡くなった時、関西に住んでいる両親の結婚の媒酌をした老婦人の家の縁側にね、突然、親父が現れたというんですよ。ソフト帽をかぶってやってきた。婦人は「まあ」と思いがけない客に、奥にあった座布団を取りに行って、戻ったら姿は消えていたというんです。ハッキリ姿を見だのに、と。この時、あ、潔さん(父親の名)は亡くなったんだな、と思ったというのです。

逗子の家に電話をしてきて、現れたのがちょうど亡くなった時間だったという。あとからその話を聞いて僕は素直に信じたし、とても勇気を与えられました。(中略) 想念というのは、ひとつのエネルギーですからね。親父は恩人に去りゆくことの挨拶に行ったのでしょう。】(「霊魂は存在するか」の項)と、霊的現象を認めているものの、

【石原 そうですか。僕は息を引きとったら、一瞬で魂もなくなると思いますけどね。瞬時にチリ芥になる。】(「霊魂は不滅なのか」の項)

と述べているので、死後に霊体的に存続することや、霊魂としての存続を否定しているようです。幽霊体験など霊的現象は、人の想念と云うエネルギーが起こすものと理解しているようです。

例えば「生き霊の障り」などのように「人の想念と云うエネルギー」で説明がつく現象も有りますが、やはり霊体的に存続すると考えなければ説明の付かない霊的現象が有ると思いますね。

「(臨終と同時に)魂もなくなり、チリ芥になる」と云うような考えは仏教が否定する「断滅論者」の仲間入りすることになると思いますね。

原始仏典の「尼僧の詩」にも、宿命通を得た尼僧が、自身の幾世代にわたる過去世を見通した、と語っています。

大乗論典の『大智度論』には、

「天眼の者は了了に能く見る、是の人の一房より一房に出入するを見るが如く、此の身を捨てて、後身に至るも亦是の如し。」(大智度論巻第三十八)と、天眼を具えた者には、人が死と同時に後身を得ることがありありと見える、と述べています。

法華経にも「諸の世界の中の 六道の衆生の 生死の所趣 善悪の業縁 受報の好醜 此に於て悉く見る (序品)と有って、生前の業(行い)に応じた報果を得ると云っています。

「(臨終と同時に)魂もなくなり、チリ芥になる」と云う事になると、こうしたお盆の供養御回向も無意味な無駄な仏事になりますね。

日蓮聖人が信徒さんの妙一尼御前へのお手紙に、

「亡きご夫君はたいへん大きな功徳を積んでいらっしゃいます。だから今は、大月輪の中か、大日輪の中かにいらっしゃって、何でも明らかに映す天の鏡にあなたがた親子の身を浮き出させて、二十四時間中お守りなさっていることでしょう。(中略)お疑いになってはいけません。ご夫君は必ずや守護神におなりのことでしょう。いやそればかりでなく、いずれあなたがたの所をご訪問くださると思いますよ。」(妙一尼御前御返事)

と書き送っています。現世の肉体は荼毘にふされましたが新しい霊体を持って悟りの世界より見守って居てくれ、こうしたお盆の供養を喜んでくれていると信じる方が、「魂もなくなり、チリ芥になる」と考えるより遙かに心の糧になると思います。

 

予定が狂う

予備として使用していたPCに「実行中のWindowsのサービス終了が近づいているのでバージョン1909への更新を勧めます」との表示が出たので、更新をクリックしましたが、結果は「更新が失敗」でした。

修理店に見てもらったところ「このエラー番号はシステム不具合です。機種が古いため更新不能」とのことでした。

Windows710にアップ後、テレビ受信やDVD再生のソフトが起動しないし、いよいよ寿命が来たようです。

 

また別棟のドアホーン子機の充電器のACアダプターが故障し、「部品供給が出来ない」との事で、親機共々買い替えで38000円の出費となりました。

コロナ流行のように予想外の出来事も起きますが、買い物予定が狂う思わぬ出費も出来するものですね。

大法鼓経の要文

巻の上

○佛、迦葉に告げたまはく『隱覆の説とは、謂はく、如來畢竟涅槃するも而も實には如來は常住不滅なるを言う。般涅槃とは毀壞の法に非らず』。

 

○下劣衆生及び聲聞・縁覚・初業の菩薩は、是の念言を作さく『我、聽受するに堪任せず。如來は已に般涅槃したまい、而も復説いて常住不滅なりと言う。大衆の中に於いて、未だ聞かざる所を聞けり』と。坐從り去りぬ。所以は何かん。彼の人長夜に、般涅槃に於いて。空見を修習し、隱覆清淨を離れたる經を聞きしが故に、坐從り去りにき。

 

○佛、迦葉に告げたまはく『譬えば士夫の年甫(としはじめて)二十にして、百歳の子有るが如し。大法鼓經も亦復是の如し。所以は何かん。如來は涅槃すとも而も復た常住なり。一切無我にして、而も復た我を説く』、彼れら即ち白して言さく。『唯だ佛のみ能く知るところ。世尊の所説の如きを、我等、是の如く受持せん』

 

○爾の時に世尊、復た偈を説いて言はく

 『常解脱は名のみに非らず、妙色湛然として住す。

 声聞・縁覚・菩薩の境界に非らず。』

 

○迦葉、佛に白して言さく『世尊、云何が色にして而も復た常住なりと言うや』。佛、迦葉に告げたまはく、『今、當に譬えを説くべし。譬えば士夫の如し。南方摩頭邏從り來る。人有って彼に問はく、『汝、何れより來れる』。士夫答て言く、『摩頭邏より來れり』。即ち復た問うて言く、『摩頭邏は何方にか在ると為す』。時に彼の士夫、即ち南方を指す。迦葉、彼の人、此に於て信を得ると為さざらんや。所以は何かん。是の士夫自ら彼より來れるを見るを以ての故なり。是の如く、迦葉、我を見るを以ての故に、汝當に我を信ずべし。

 

巻の下

○佛、迦葉に告げたまはく、『汝の般涅槃は、是れ聲聞の般涅槃にして、これ究竟に非らず』

 

○佛、告げたまはく、『聲聞は聲聞の般涅槃を以て。般涅槃するもこれ究竟に非らず。辟支佛は辟支佛の般涅槃を以て、般涅槃するも、亦た究竟に非らず。乃至一切種の功德、一切種智の大乘の般涅槃を得て、然して後に究竟せば究竟と異なること無し』。

 

○迦葉當に知るべし、彼の初の化城は、聲聞・縁覚乘の清淨の智慧を謂ひ、空、・無相・無作の解脱之智とす。真實の大城は、是れ如來の解脱なり。是の故に如來は、三乘を開示して、二涅槃を現じ、又一乘を説きたまう。

 

○迦葉佛に白して言さく『世尊、諸の摩訶衍經は多く空の義を説けり』。佛、迦葉に告げたまはく『一切の空經は是れ有餘説なり。唯だ有此の經のみあって、是れ無上の説にして、有餘の説に非らず』

 

○佛、迦葉に告げたまはく『世間我を破せんが為の故に、無我の義を説く。若し是の如く説かずんば、云何が彼をして大師の法を受けしめむ。佛、無我を説かば、彼の諸の衆生、奇特の想を生じ、未だ聞かざる所を聞いて、佛所に來詣す。然して後に百千の因縁を以て佛法に入らしむ。佛法に入り已って、信心增長し、勤修精進して、善く空法を学せり。然して後に為めに常住安樂の有色の解脱を説く』。

 

○復た次に或は世俗有って『是の解脱有り』と説く、彼を壞せんが為めの故に、説いて『解脱は悉く所有無し』と言う。若し是の如く説かずんば、云何が彼をして大師の法を受けしめんや。是の故に百千の因縁をもって、為に解脱滅盡の無我を説く。然して後に我れ復た、彼の衆生を見るに、畢竟の滅を見て、以て解脱と為し、彼の無慧の人は滅盡に趣向せん。然して後に我れ復た百千の因縁をもって、解脱は是れ有なりと説く』。

 

○迦葉、佛に白して言さく『世尊、若し我(が)、有れば、云何が彼の煩惱・諸垢を生ずるや』。佛、迦葉に告げたまはく『譬えば金師の如し。彼の金性を見て、是の思惟を作さく、「此の如き金性、何に由てか垢を生ず。今當に生垢の本を推尋すべし」と。彼の人、云何が本を得ると為すや不や』。迦葉、白して言さく『不なり、世尊』。佛、迦葉に告げたまはく、『若し壽を盡して思惟し、初因の相を尋ぬるとも、乃至無始の本際を得るやいなや。既に本を得ざれば、亦た金を得ず。若し巧方便して、精勤して懈らず、彼の金垢を除かば、爾(なんじ)乃ち金を得ん』。佛、迦葉に告げたまはく『是の如く、我(が)は客煩惱を生ず。我(が)を見んと欲して、是の思惟を作さん、「今當に我及び垢の本を推尋すべし」と。彼の人、云何が本を得ると為すや不や』。迦葉、佛に白して言さく『不ななり、世尊』。佛、迦葉に告げたまはく、『若し勤めて方便して煩惱の垢を除かば、爾(なんじ)乃ち我(が)を得ん。謂く、是の如く比の經を聞き、深心に信樂して緩ならず、急ならず、善巧方便をもって三業に專精せば、是の因縁を以ての故に、爾(なんじ)乃ち我(が)を得ん』。

 

○是の如く無量の煩惱藏、如來性を翳障し、乃至未だ諸佛聲聞縁覺に遇わず、我(が)非我我所を計して我と為す。若し諸佛聲聞縁覺に遇わば、乃ち真我を知らん。病を治して、いよいよ其の目開けて明かなるが如し。翳とは諸の煩惱を謂い。眼とは如來の性を謂う。如雲の月を覆いて、月、明淨ならざるが如く、諸の煩惱藏、如來の性を覆いて、性、明淨ならず。若し一切の煩惱の雲の覆いを離るれば、如來の性淨きこと滿月の如し。人、井を穿つに、若し乾土を得ば、水の尚を遠きを知り、濕える土泥を得ば、水漸く近きを知り、若し水を得ば則ち究竟と為すが如し。是の如く諸佛聲聞縁覚に値遇して、善行を修習し、煩惱の土を掘り、如來性の水を得ん。瓶中の燈焔の其の明り不現はれざれば、衆生に於いて用無く、若し瓶を壞し去らば、其の光普く?(てら)すが如し。是の如く、諸の煩惱の瓶、如來藏の燈を覆う。相好莊嚴なるも則ち明淨ならずば、衆生に於いて用無し。若し一切の諸の煩惱藏を離るれば、彼の如來性の煩惱永く盡きて、相好照明ならん。

 

○迦葉、是の如く一乘を樂はざる者の為に三乘を説く。所以は何ん。此は是れ如來の善巧方便なり。是の諸の聲聞は悉く是れ我子にして、糞を除くが如き者なることを今始めて自ら知れり。

 

○是の如く迦葉、彼の當來世の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、有我・無我の聲に於いて、有我の聲を畏れ、大空の斷見に入り、無我を修習し、是の如き如來藏、諸佛常住の甚深の經典に於いて、信樂を生ぜず。

鈴木隆泰著「如来出現と衆生利益ー大法鼓經研究」

鈴木隆泰著「如来出現と衆生利益ー大法鼓經研究」を読んでみました。

【「如来法身が一切衆生に内在する」と提示する如来蔵思想では、

衆生が内在する如来法身は「有垢真如」「在纒位の法身」であるが完全態としての如来と本質的に異ならないとされているので、

○すでに如来法身を獲得している凡夫が、さらに成仏を目指して仏道修行をする必要が有るのか(修道論的課題)

○清浄な法身がなぜ煩悩に染汚されるのか(構造的課題)

と云う課題を抱える】と指摘し、

【「大法鼓經」は、涅槃経系経典群の最後尾を飾るにあたり、これまで未解決であった修道論的課題と構造的課題との解決を試みている経典で有る。】と論じ、

【『大法鼓経』における如来法身は、入滅しても不壊である常住な如来を意味している。この法身としての常住如来は、『大法鼓経』の教説を信じる衆生の前に〈出現〉し、説法を通した衆生利益という如来業(慈悲)を顕現できる如来であり、衆生の内にあって、煩悩に覆われ如来業を示現することのできない如来蔵とは峻別されている。『大法鼓経』においては、常住・堅固・寂静・恒常という〈四句〉は、成覚したブッダ如来を表現する場合にのみ用いられており、如来蔵・仏性にはついぞ適用されることがない。すなわち『大法鼓経』では、衆生の内なる如来蔵は如来法身とは見なされておらず、そのため〈常住・堅固・寂静・恒常という四句〉も冠されていない。法身であり、常住・堅固・寂静・恒常であるものは、『大法鼓経』では成覚し、衆生利益の如来業を示現できるブッダ如来のみということになる。そして如来蔵・仏性が如来法身でない以上、「如来法身をす

でに獲得している衆生が、なぜ如来法身の獲得のために改めて修行する必要があるのか」という修道論的課題からも、「なぜ清浄な法身が煩悩に覆われるのか」という構造的課題からも解放されることとなり、ここに『大法

鼓経』は、如来蔵思想が抱え込んできた二つの難問を、どちらも同時に解決することに成功したのである。】(158頁)

 

【『大法鼓経』においても衆生内の如来蔵・仏性は、もはや如来法身ではないにもかかわらず依然として成仏の因と見なされているが、

『大法鼓経』では衆生の内なる法身を放棄したため、法身を介した如来と衆生との〈本質的等質性〉を主張することはできない。そこでまず、『大法鼓経』における如来と衆生との関係を見ることとしよう。

〔もし衆生が福をなせばブッダであり、なさなければ衆生のままである〕との文があるが、ブッダ如来は衆生が成ったものという〈如来と衆生の連続性〉と、衆生は衆生のままではブッダ如来ではないという〈如来と衆生の異質性〉とが同時に確認されている。如来法身が衆生に内在していない以上、〈如来と衆生の等質性〉は無条件には認められず、仏道修行を通した〈連続性〉とともに、現時点での〈異質性〉が強調され、再確認されているのである。】(160頁)

と論究しています。

興味がわいたので、国訳一切経法華部の訳に頼りながら、演習のつもりで、ダウンロードした漢文の『大法鼓経』を読んでみましたが、国訳が無ければ無理でした。

 

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