日蓮宗 法明教会

当教会の信徒さん向けの法話と時折やや専門的な小考を掲示いたします。

良い論文を見つけました。

「死後・輪廻はあるか」で検索すると、原始仏典研究学者である森章司氏の論文「死後・輪廻はあるかー原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」が検索され、論文を閲覧できます。
[論文の概要]には、
【 仏教では、原始経典から大乗経典そして密教経典にも、またインド、東南アジア、中国そして日本において書かれた祖師たちのどんな著作にも、当然のように輪廻や解脱しないかぎりは死後にも生が続くということが説かれている。しかしながら現代日本の仏教学者たちの多くは、仏教の説く輪廻や死後は単なる俗説で、それは真の仏教の教えではないと主張する。

 しかしはたして仏教が輪廻や死後の世界を説くのは通俗説であって、第一義ではなかったのであろうか。おそらくこれらの主張の根拠になっているのは、釈迦仏教の基本的な教えである「無記」「十二縁起」「無我」説であろうから、これらを輪廻や死後があるかないかという視点から再考したのが本論である。

 なお本稿は、東洋大学文学部発行の『東洋学論叢』第30号(東洋大学文学部紀要第58集 インド哲学科篇30 平成17年3月30日)に掲載されたものを、発行者の許可を得てここに転載させていただいたものです。】
と記してあります。


冬至星まつり法話

 

道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する天帝とし、その傍らの北斗七星は、天帝(北辰)の命を受けて、人々の行状を見張り、その生死禍福を支配すると考え、そして百邪を除き、災厄を免れ、招福・健康を求めて、北辰・北斗七星を崇めました。

この北辰信仰が仏教では北辰妙見菩薩(妙見菩薩)信仰として継承されたそうです。

中国で作られたお経と云われていますが「七仏所説神呪経」には、て「吾は北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」との妙見菩薩の言葉を説き、妙見菩薩の守護力を讃えています。

 

日蓮宗では「佐渡流罪の中途で宿した地頭の屋敷の庭で日蓮聖人が月天子に守護を請求した時に梅の木に明星が降りてきた」とか「日蓮聖人が伊勢の常明寺に滞在したとき、北辰妙見菩薩が姿を顕した」との伝承が有り、妙見菩薩は守護神として尊崇され、星祭りも行われています。

 

福沢諭吉翁が十二三歳の頃の話です。「年寄りなどのする神罰冥罰なんと云ふことは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見て遣ろうと云ふ野心を起こして、私の養子になって居た叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入って居るか知らぬと明けて見たら、石が這入って居るから、其の石をうっちゃって仕舞って代わりの石を拾ふて入れて置き、又隣家の下村と云ふ屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札で、之れも取って棄てて仕舞ひ平気な顔をして居ると、間もなく初午になって、幟を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイして居るから、私は可笑しい。「馬鹿め、おれの入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでいるとは面白い」と独り嬉しがって居たと云うような訳で、幼少の時から神様が怖いだの仏様が有り難いだのと云うことは一寸ともない。」(岩波文庫『福翁自伝』30頁)

と翁が回顧しています。成年後の福沢諭吉の神仏に対する考えは、どうだったのか知りませんが、

「大智度論」で、菩薩の忍辱行を説明している部分に「菩薩は一切を養育し、之れを愛すること子の如し。もし衆生、菩薩を瞋悩するも、菩薩は之れを愍れんで、瞋らず責めず。譬へば慈父も子孫を撫育するが如し。子孫は幼稚にして未だ識る所有らず、或る時は罵詈し打擲し、敬せず畏れざれども、其の父は其の愚小を愍れんで、之れを愛すること、いよいよ至り、過罪有りといえども瞋らず恚らざるなり。菩薩の忍辱もまた復た是くのごとし。」(巻第十四・昭和新纂474頁)

と菩薩の精神を語っています。

 

大菩薩や高い悟りの神様の場合は、ご神体を傷つける者に対しても怒らないで「愚かな可哀想な者だな」と憐れんで、怒りの罰などは与えないと云う事です。

過日、防犯カメラで撮影された賽銭泥棒の様子を放映していました。また、多くの神社仏閣に油性の液体がかけられたと云う報道もありましたが、「神罰てきめんにくだらないから神は居ない」と考えてしまうのは、早とちり過ぎるということですね。

 

不信心の者に対してはご神体や御護り札とうは、単なる物でしかなく、神霊も感応をしてないから、不信心者が不敬を働いても、神霊そのものを傷つけることは出来ません。ただし、不敬は悪報のタネとなることでしょう。

 

「罪垢(ざいく)の結(けつ)薄(うす)くして、一心に仏を念じ、信浄(きよ)くして疑(うたが)はざれば、必ず仏を見るを得て、終(つい)に虚(むな)しからず」(大智度論巻第九・昭和新纂294頁)とあります。

お題目によって功徳を積み、宿罪を消滅しながら、ご守護をお願いすれば法華経守護の善神は出来る限りのご守護をくださることでしょう。

八幡さま

八幡大菩薩は応神天皇のご神霊で、1446年前の571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。

1248年前の神護景雲3(769)年、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が、皇位を狙い、習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)に「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」との八幡様のお告げが下ったと奏上させました。

天皇は、真相を確認するため、宇佐八幡へ和気清麻呂を派遣します。

宇佐神宮において清麻呂は神護景雲3年(769)7月11日、

「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」

とのお告げを受け、同月の21日に都に帰り着き御所へ報告しました。

野望を阻止された道鏡の怒りをかった清麻呂は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚(あし)の腱(けん)を切られた上、一時大隅国へ流されましたが、その後、道鏡は冠位をはがされ左遷させられたと云う話が有名ですね。

神社は全国で約85000社有るそうですが、そのうち44000社が八幡神社だそうです。

「八幡宇佐宮御託宣集」には

比叡山延暦寺の開祖・伝教大師が入唐祈願の為めに、八幡様の神宮寺において、法華経の講経を行った時に八幡大菩薩が「我れ法音を聞かずして、久しく歳年を歴たり。幸いに和上(最澄)に値遇して、聖教を聞くことを得たり。何ぞ徳を謝するに足らんや、苟も我が所持の法衣有り」と云って斉殿を開き、紫綾七条の袈裟一帖・紫衿の衣一領を取り出し、和上に捧げた。八幡下賜の法衣は山前の唐院に収蔵してあるとの記載や、また、延暦254日の託宣には

「吾は無量劫の中、三界に化生し、修善方便し衆生を導き済う。吾が名は是れ大自在王菩薩なり、宜しく今、号を加えて、護国霊験威力神通大自在王菩薩と曰うべし。古仏の垂跡なり、大悲の菩薩の御身なり」

また、延喜242日(902年)の託宣には、二歳ばかりの少児に託宣して「我れ無量劫より以来、度しがたき衆生を教化しき、未だ度せざる衆生は末法中に在りて、教化をなすこと是の如し。衆生に大菩薩と示現す。我は是れ大自在王菩薩なり。大明神に非ず。我は釈迦の化なり」と託宣下との記載があります。

これらの託宣から、八幡様は仏教と深いつながりがあることが分かります。

日蓮聖人は八幡様について

「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては争か其の影をばをしみ給うべき、我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし、八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり、疑い給う事なかれ疑い給う事なかれ、」(四条金吾許御文)

と教示されています。

法華経誹謗が国中で盛んになってしまうと、八幡様などの「護国の善神は守護を止め天に登ってしまう」と経文に有るように、八幡大菩薩も社殿を去り天に登ってしまっているとしても、お題目の正しい信仰を持った者が参拝する時には必ず八幡様は影現してくれると云うお考えですね。

こうしたお考えの基に、鎌倉の八幡神社の社頭で「真の神ならば法華経の行者を護るべきであろう」と諫暁されたのです。

 

富岡八幡宮の宮司家族の殺人事件が大々的に報じられました。

新聞広告によると「週刊新潮」では「それでも流血富岡八幡宮に参拝する人。例年なら初詣30万人!」との記事を載せるようです。記事の内容は分かりませんが、事件を理由に「八幡様なんか居ない。守護力が無い」と思い込むのは短絡的すぎましょう。

ご神体そのものが神仏では無く、ご神体(像・御幣などの依り代)を通して神仏と感応道交するのですから、拝む側の信仰・真心が問われるのです。

和気清麻呂が聞いた託宣に「銅炎を床座と為すとも、邪幣をば受けじ、此れより以後、汚穢不浄を嫌はず、諂曲不実の者を嫌うなり」との託宣が有ったとの事ですが、報道によると、宮司も金遣いが派手だったようだし、事件を起こした弟も素行が悪かったようで、八幡様の守護を受けられなくて当たり前と云えるようです。

 

 

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