だいぶ以前になりますが、あるお年寄りが「仏壇には、おじいさんや御先祖のご位牌もあるのに、長男が死んでから、長男の嫁は長男のご位牌だけ名指ししてにお供えをする。」と嘆いていました。ごくごく親しかった亡き人に気持ちが向くことは人情ですね。

しかし、供養を欲している霊は親しかった直接縁者だけで無いことを忘れて欲しくありません。

私には二親と親の親族がいます。父にも母にもそれぞれ二親とその親族がいるので、少し遡ったところでも膨大な親族縁者が居るわけです。

「餓鬼事経」の「戸外鬼事」の

【塀の外に、あるいは交差する十字路に、彼ら(餓鬼たち)は立つ。自分の〔縁ある〕家に帰ってきて、戸口の側柱に、彼らは立つ。(中略)憐憫の心ある人びとは、浄らかな、最上の、時期に適った飲食物を「これが親族のためになりますように。親族が幸せになりますように」と〔亡き〕親族のために〔比丘たちに〕布施する。そして、そこに集まり到来した彼ら親族の餓鬼たちは、たくさんの食物や飲みものに恭しく随喜する。「彼らのお陰で私たちが富楽を得る、あの私たちの親族が長生きしますように。私たちのために供養がなされた一方、施主たちもまた、かならず果報を受けるでしょう」と。(中略)「彼(餓鬼・先亡者)は私に与えてくれた。彼は私のためにしてくれた。私の親族、友、仲間である」と、過去のおこないを憶念して、餓鬼(先亡者)たちのために施物が与えらるべきである。(中略)このように、自分の親族としての義務が説かれた。】(藤本晃訳の略)

との偈文について、「餓鬼事経釈」が次のようないわれを書いています。

【釈尊やお弟子を歓待供養した夜中、ビンビサラ王は一晩中、恐ろしいうめき声に悩まされ、翌日、釈尊に前夜の声を報告しました。釈尊は「王には餓鬼に生まれているずっと昔の昔の親族が大勢居ます。彼らは昨日の供養を自分たちのために回向してくれると喜び期待していた。しかし王はお布施をしたのですが回向してやらなかったので、餓鬼の親族たちは、がっかりし悲しんでうめき声をあげていたのです。」と教えました。王は改めて釈尊とお弟子を招き供養して、親族の餓鬼たちに回向しました。釈尊が神通力で、回向によって救われた王の親族たちの姿を王に見せてやったので、王は安心した。(取意)】

と云う注釈です。

この話は、幾世代前からの親族の浮かばれていない霊たちも供養してやるべきだと云う教説です。

日蓮宗では、多くの無縁霊や先祖霊が存在するとの考えに立って、お盆やお彼岸に施餓鬼会が行われます。

施餓鬼供養の根拠とされている「救抜焔口餓鬼陀羅尼経」お経があります。異訳に「面燃餓鬼陀羅尼経」と云うお経があります。おおよその内容は、

【阿難が釈尊の教えを瞑想していると夜半に、口の中で火が燃え、喉は針のように細く、頭髪がぼさぼさ、爪や歯は長く鋭い焔口餓鬼が現れ「三日後にお前さんは命が尽き、この餓鬼界に生まれるだろう」と告げた。

阿難が「餓鬼界に落ちるのを防ぐ方法は?」と問うと

「数限りない餓鬼および多くの婆羅門や仙人たちの一人一人に一石(いっこく)の飲食を施し、私の為めに三宝に供養すれば、お前さんは天上界に生まれることが出来るでしょう」 との答え。

焔口餓鬼が云うような大布施を、とうてい出来ない阿難は驚き急いで釈尊に助けを求めると、

釈尊は「一つの器に水、餅・飯などを盛って、教えた陀羅尼を七遍唱えて施せば、四方に数え切れない無数の餓鬼に前に、それぞれ四石九斗の飲食が現れ餓鬼達は腹一杯になり、その後餓鬼の身を捨て天に生まれることが出来るであろう。さらに善男子や善女人がそのように施せば、施主である善男子や善女人は無量の福徳を具えることができ、寿命は延長し、善根が具わり、夜叉、羅刹、もろもろの悪鬼神もむやみに害を加えることが無いであろう。

もろもろの婆羅門や仙人たちに施しをしようと思うならば、一つの器に山のように飲食を盛り、教えた陀羅尼を十四遍となえ供えれば、天界のご馳走を数限りない大勢の婆羅門や仙人に供養したことになる。そして供養を受けた婆羅門や仙人は施主が、「健康で寿命を延べ、心が清浄になり、一切の怨敵によって侵害されないよう」との誓願をしてくれるであろう。また、仏法僧の三宝にくようしようと思うならば香華や飲食に陀羅尼を二十一遍となえてお供えしなさい。そうすれば施主の善男子や善女人は常に諸仏に憶念(おも)われ、称賛され、諸天善神がつねに擁護してくれるであろう。」と説法なされた。阿難や聴衆たちは心から信奉して供養を実践した。】

と云うものです。

餓鬼に施しを行うと、無量の福徳が具わり、健康維持と延命の糧(かて)となり、悪鬼神の悩害から護られ、また三宝に供養すれば諸仏・諸天善神の擁護を受ける功徳があると云う教説です。

原始仏典の「餓鬼事経」の「福田鬼事」に

「施物は種のごとく、それより果を生ず。餓鬼のため、施主のためには、それは種子なり、畑なり、餓鬼はそれを享受し、施主は福によりて増長す。」(南伝大蔵経25・1頁)と有る「布施行は餓鬼(亡き者たち)と施主両方の救いとなり、施主には福徳の果報が生じる」との考えと同じです。

「地蔵本願経」にある

「若し能く更に、身死して之後七七日の内に、衆善を廣く造らば、能く是の諸の衆生をして永く惡趣を離れ、人天に生ずることを得て、勝妙の樂を受け、現在の眷属も利益無量なるべし」 (下巻・利益存亡品第七)と、供養を受けた亡き人と共に施主も無量の利益をえることができると云う経説や日蓮聖人の「中興入道消息」に「過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月の如く浄土をてらし孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事水すめば月うつりつづみをうてばひびきのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云、」との、供養した遺族も長寿の報を受けると云う教説につながる思想です。

 

追善供養は私たちの除災得幸のタネ・糧に 成ります。

ごくごく親しい特定の肉親の霊だけの供養だけで亡く、数多くの先祖霊の事も想ってください。