日蓮宗 法明教会

当教会の信徒さん向けの法話と時折やや専門的な小考を掲示いたします。

2006年11月

28日記事の功徳廻向に関連して

功徳廻向の問題に関連して。

経力を強調することは、大乗経の特色のようですが、

『大般涅槃経』

「一闡提(不信の者)を除き、其の余の衆生は是の経を聞き已(おは)らば、悉く皆能く菩提の因縁を作る。法声光明毛孔に入らば、必定して当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし」
(菩薩品第十六)

「在々処々の諸行の衆生、(大般涅槃経の)声を聞くこと有る者は、有(あ)らゆる貪欲、瞋恚、愚癡悉く皆滅尽す、・・・是の大涅槃因縁力の故に、能く煩悩を滅して而も結自ずから滅す。・・・是の経を聞き已(おは)らば、亦無上菩提の因縁を作り、漸く煩悩を断ず。」
(菩薩品第十六)

などの文が有ります。

読誦の声あるいは読誦三昧で発せられる光明によって、聞く者が菩提に近づく因縁となり、貪欲、瞋恚、愚癡を除く事が出来る功能が有ると云う趣旨の文です。

これらの経文にもとづけば、追善廻向での法華経の読誦唱題が霊にとどけば解脱の因縁となると言い得ましょう。

悟りの高い菩薩になると、
「分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん」(無量義経十功徳品第三)

と云う救済活動を行うことが出来るとあります。

また『大智度論』にも
「答えて曰わく、是の菩薩は不可思議神通力を以てカナエ(大なべ)を破り、火を滅し、獄卒を禁制し、光を放ちて之を照らせば衆生の心楽しむ、乃ち為めに法を説くに、聞いて則ち受持す」
(昭和新纂国訳大乗経大智度論4・123頁)

とあります。

これらの文によれば、至心の供養廻向を行う施主の意を憐れんで、施主に代わって、大菩薩が説法教導してくれる場合もあると言い得ます。

日蓮聖人が『法蓮抄』

「されば経文に云く『若し能く持つこと有るは即ち仏身を持つなり』等云云、天台の云く『稽首妙法蓮華経一帙八軸四七品六万九千三八四一一文文是真仏真仏説法利衆生』等と書かれて候。
 之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放って大地をつきとをし三悪道無間大城を照し乃至東西南北上方に向つては非想非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字
なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそねんごろに語らせ給うらめ、」
(昭定950頁)

と教示されていますが、この教示は上掲の涅槃経や大智度論の文にもよっているのではないでしょうか。

功徳の移譲が出来ないと仮定しても、経の功徳力や仏菩薩の救済活動があるとすれば、読経唱題しての追善廻向は霊の救いに有益であると言い得ましょう。

廻向の問題

藤本晃博士の著書「功徳はなぜ廻向できるの?」を読んで。

藤本博士が、

「厳密に自業自得ならば、廻向功徳すなわち他の人の善行功徳で救われる道理がないのに、いかなる根拠があって、廻向功徳によって餓鬼がすくわれるのか?。(取意)」

について平易に論究している本です。

「他人の心に功徳が移る暇も法則もありません。」

「善行為を行った心はすぐに消えて、でも。それが原因で新たな心がすぐ生まれて、その新たな心には、功徳がきちんと刻み込まれています。結果として生まれた新たな心は、直前の善行為という原因によって『功徳をもって生まれたこころ』なのです。」

「そのような特徴をもつ心のエネルギーである功徳を、物質のように『ハイどうぞ』とだれかにあげることも、だれかから『あなたの功徳をちょうだい』と受け取ることも、できません。」

と論じ、ではなぜ餓鬼が施の功徳廻向によって救われたのかと云うと

「他人の善行為を喜んだその人の心に、善行為に共鳴した善い心が生まれ、その功徳が生まれる」
からとし、

「 (『餓鬼事』の餓鬼たちが廻向によって救われたのは)その先祖や餓鬼たちは、自分のためにおこなわれた(自分に廻向された)その布施という善行為に気づいて、それに共鳴して、その善行為を人間といっしょに、すなおに『よいこと。すばらしいことだ』と喜んでいたのです。・・・餓鬼はけっきょく、自業自得の因果の法則のなかで、自分の善行為である『随喜』によってすくわれていたのです。」

と、施主の功徳を譲られて餓鬼は救われたのではなく、施主の善行為を随喜した功徳で救われたのである、と解釈すべきと論じています。

ただし、このように解釈すると藤本博士が言われているように
「こちらが廻向しても気づいてもらえなかったら、相手には当然、功徳は生まれません。『助けてくれ』とこちらに心が向いている餓鬼には廻向が奏功して、人間界のこともなにもわからないほど低いレベルの地獄にいる生命に廻向しても受け取ってもらえないのは、そういうわけでもあります。」

と云うことになり、地獄や畜生に堕ちた衆生は追善廻向では救えないのか?と云う問題が起きます。

『餓鬼事』と云う仏典を未だ詳しく調べていませんが

『餓鬼事』にある「舎利弗母」餓鬼事には、
「そこで長老(舎利弗)は、その女餓鬼を指定して、その全てを仏を上首とする四方の比丘サンガに布施した。その女餓鬼はそれを随喜して、天界にうまれて、全ての望みが叶えれれた者となった」

とあって、施主の布施の善行を餓鬼が随喜する事が救われる条件のようにも読み取れますが、
「随喜して」と云う条件を記さないで、施主が餓鬼の為めにと指定して施しすと即座に餓鬼が苦境から救われた、と記している事例が多くあります。

もし、供物を施す施主の善行を餓鬼が随喜する事が救われる必須条件としたら、他の事例の場合にも「随喜して」と必ず記するのではないかと思われます。

餓鬼が施主の善行を必ずしも随喜しないでも、○○の為めにと指定して供物を施す功徳によって、餓鬼が救われると云うようにも解釈出来るのではないかと思われます。

大乗仏典が成立する以前の遺跡から発見された銘文の多くに
「父母と一切衆生の平安のために寄進する」とか「寄進の柱一本の功徳を一切衆生のために」
と云う功徳廻向の文がありますが、それらの文には、自分の善を他に廻施することが可能である、と云う思想がすでにあったと云えましょう。

また、
大乗仏典の『摩訶般若経』にも
「阿耨多羅三藐三菩提に廻向するは、是の功徳を持って、一切衆生を調えんが為め、一切衆生を浄めんが為め」
(昭和新纂国訳大乗経大智度論4・175頁)
との文があります。

この文中の「一切衆生 」の語句を「他者」とか「亡き肉親」と換えれば「是の功徳を持って、亡き肉親を調え浄められる」との意になりますので、この経文からも「自分の善を他に廻施することが出来る」との思想が出てくると思われます。
                        
龍樹菩薩の『宝行王正論』にも、

「このようになされた福徳や、自らがすでに行った、またまだ行っていない(福徳)によって、生きとし生けるものがことごとく無上の菩提心をおこしますように」(中央公論社刊。大乗仏典14・311頁)

とあって、「修した福徳の功徳をもって、他者に道心を起こさせる」と云う思想が見えます。これも「自分の善を他に廻施することが出来る」との思想といえましょう。

こうした思想を承けてだと思いますが
『大乗義章』には
「釈して云はく、『仏法は自の業は、他人果を受く、また他の業は、自己報を受くることなし』と雖も、彼此互相助縁無きに非ず。
相助くるを以ての故に、己が善を以て、彼に廻施することを得。」

(大乗義章第九聚法第四、廻向義)

とあって、互いに助けの(救済の)縁となることが出来るから功徳を廻向し与えることが出来ると論じているのでしょう。

自業自得が原則であっても、

「互いに助けの(救済の)縁となることが出来るから功徳を廻向し与えることが出来る」

と云う面があると思われるのですが・・・。

比良山古人霊託

ある本に引用されていた「宝物集(ほうぶつしゅう)」が岩波の日本古典文学大系の一冊に収録されている事をしり、購入しました。

その一冊に『比良山古人霊託ひらやまこじんれいたく)』と云う記録文書も収録されていました。

おもしろい部分を紹介します。

九条道家(鎌倉四代目の将軍の父)が、東福寺(京都五山の一つ。現、臨済宗大本山、聖一国師開山)建立をはじめたころ発病し、慶政上人に加持祈祷をたのみました。
慶政は天台宗寺門派であるが東密の伝受も受けている。

日蓮聖人17歳当時のことです。遊学中の日蓮聖人が東福寺に柱を一本寄進されたと云う伝えがあり、「日蓮柱の碑」が建っています。日蓮聖人もこの霊託の出来事を聞かれたかも知れません)

加持祈祷のさい、道家の家臣の21歳の女房に比良山の大天狗の霊(道家が居住していた法性寺一帯の総支配者的神霊)が憑依しました。憑依した神霊と慶政上人との間に交わされた三度に渡る問答の記録だそうです。

(中世で考えられていた天狗とは、いわゆる鼻高の赤面で高下駄をはいた天狗さんではなく、生前の功徳力が強いと国を護る霊となり、或いは功徳力が負に転じた場合には、祟徳院や後鳥羽院のように強力な怨霊として大魔縁 (天狗)に化す、と云う思想が中世にはあったとの事です。)

(中世においては、天狗は一種の悪魔で、道心がなく、我執驕慢で名利を求める出家人がなると考えられていたそうです。魔縁は、魔が人を惑乱してさまざまの妨げをすること。)

「病の因たる怨霊(執心深き者)のために一日経(法華経書写の行)を行われたが、未開地を開発して荘園とした本来の総領主であった我が為めに一日経を修して欲しい 」
との神霊に対し、
「お望みの通りに善根を修するから守護神と成って貰いたい」
と云うと、

「功徳には軽重無し。ただ誠有るを以て尊しとす。もしその心に真実がなければ、その益ははなはだ小さい。気の毒に 苦患は耐え難いだろうと思って修すれば、外からの害敵から護るものである。
いかなる功徳も他の人たちを煩わせて修するのでは、喜ばしくない」
と答えています。

仏事が修された後の問答で、神霊が道家の病因の諸霊の正体を説明し、道家は(発病当時は47歳)七十余歳までは存命するが、准后(じゅんこう道家の妻)はさほど存命しないだろう」
と予言します。
(実際には、道家は13年後60歳没。准后は当時より12年後に61歳没であった)

また、
道家が災難に遭わない為めに特に注意すべきことは、
「心正しく間違ったことをしないで、仏前における読経礼拝などの勤行につとめ、興行見物を控えれば、順当でない災難は受けないであろう」
と注意を与えています。

また、
慶政上人の問いに応じ、道家の関係者などの 将来や転生場所について答えます。

二代将軍北条義時と北条政子、後高倉院、その妃北白川女院、後堀川院(86代天皇)については「これを知らず」と答え、

道家の祖父九条兼実(かねざね)と近衛基通(もとみち。清盛の婿)慈円僧正は天狗道に入っている。

道家の息子九条教実(のりざね)は、「罪有る人だから地獄に居るかもしてない。(摂政や関白の座にあったことを罪深いと考えている)

「道家の娘の藻璧門女院(そうへきもんのにょいん。後堀川院の中宮)は天狗道に堕ちて居て、常に蓮台野の辺りに住している、仲間の天狗達のイジメにあっている 」との答えに

慶政が「藻璧門女院の為めに随分、仏事を修しているが役にたっていないのか?」
と問うと

「仏事を修しても皆以て真実の心がない、ただ名目だけのものであるからだ。それでも遠く仏縁にはなる。真実の功徳を修せば天狗達もいじめるのを止めるであろう」
と答えています。

また、慈恵大師良源、三井寺長吏の隆明(りゅうみょう)については「得脱したのか見ることが出来ない。慈円僧正は非常に威勢のある天狗として愛宕山に居住している」と答えています。

また天狗の世界について説明した後、「驕慢心、執着心の深い 者がこの道に来る」と述べています。

明恵上人については
「都率天(とそつてん)の内院に上生された。近ごろ真実に出離得脱した人はこの外には無い」
と答えています。

道家とも交流のあった法相宗の貞慶(じょうけい)の死後について尋ねると
「誰人か知らない。もっと智力のある天狗の仲間なら、そのようなことは分かるであろうが、我は学問におろそかであったから知らないことが多い。」
と答えています。

慶政が
「近頃は念仏者の数が多いが、彼等は出離得脱しているのか?」
との問には、
「正法を誹謗する者がいかでか出離しようか。皆悪道に堕ちるのである。総じて厭離穢土の心が無くして、どうして仏国土に往生出来るだろうか」
と答え。

法然房は無間地獄に堕ちたり」と述べ、
親鸞門下の「善念房は無間地獄に堕ちるであろう。性信房は畜生道におちなければ魔道にでも堕ちるであろう」と語り、

さらに
善念房と性信房は同じ考えであるが、性信房の言葉を信じる者が少なく徒衆が多くない。それにくらべ善念房は人皆これを信じ徒衆が極めて多いので謗法の罪がより重い。故に善念房は阿鼻地獄に堕ちるのである」

などと答えています。

(編者が「その著作『閑居友』を見るに、慶政自身はいかなる行であっても誠心を以て修行すれば往生できるという諸行往生の思想の持ち主であったようである。しかし、迷うこともあったのであろう。そこで専修念仏の法然などの転生を問うたのであろう(取意)」と 記しています。

冬は必ず春となる

必ず春となる

三十代前半のK子さんが入院手術しました。       ゛

毎月のお母さんの命日には、ご両親、それから過去帳にのっている祖霊の供養に、弟さんと一緒にお参りし、また自宅でも読経唱題していた人なのに、いかに因縁が重いといっても、いかなる理由で、いじわるくも大病にかかってしまったのだろうと、御守護神にわけを聞かせて欲しいと云う気持でした

「両親と早く死別したり、何という悪い運勢を持っているのでしょうね。信仰もせずとも何事もなく幸せに暮している人もいるというのに・・」
との言葉に、私も
「本当にそうだね」
というより外ありませんでした。

一月ちょっとで退院し、お礼参りに見えました。

信仰している人が不運で、神仏を尊ばなくとも幸運な人がいるのは、因果の理からも納得できないという疑問は、釈尊の時代からあった疑問で、その疑問に対しては、

因果の理は此の世だけのことでなく、三世にわたって考えなければいけない。現在、悪をなしていても幸運な人は、過去世の善業が現在、実っているのであって、現在なしつつある悪業の報いは、必ず将来において時期がくれば悪報をうけなければならない。

善行をなしても不運な人は、過去世の悪業の報いが現在あらわれているのであって、現在の善行の善報は将来、時期がくれば必ずあらわれる、と説明されている事などを話しました。

「私もいろいろ考えましたが、過去世から今日までの業が各自、ちがうのだから、他の人の運勢は、私とは別のもの、比較してはならないと思います」
との言葉に、「信をたもち続けてくれるな」と、安心しました。

『仏教説話文学全集』に紹介されている『生経巻四』というお経の話があります。

釈尊がハラナ国にて説法されていた時のこと、幾人かの幼児達が河のほとりで、砂や小石で、仏塔や廟をつくって、遊んでいまし
た。                            

この幼児達は過去の宿業がつたなかったので、この世での福は薄く、おりしも、一天にわかにかき曇り大雨になり、見る間に河か増水し、堤をやぶってあふれ、その激しい水流に、幼児達は河の中に流され沈んでしまいました。
父母達は悲哀にたえず、ただ泣くだけでした。

悲しみにくれる父母達のありさまを聞かれた釈尊は子を失った父母達を呼び
「こども達は、宿業つたなくして、哀れな死をとげたけれども、子供らの善心の報いは決して、むだになってはいない。現在、子供達はみんな天上界に生れ変って、道心をおこし菩薩の行にはげんでいる。
いま、子供達を呼び寄せて、あなた方に台わせてあげよう」
と、釈尊は神通力をもって、天上界の子供達を呼びました。

空から現われた幼児達は花を教らし釈尊に供養し礼拝しました。

釈尊が「お前達は砂を集めて仏塔を立て、真心をもって道を求めた功徳で、天上界に生れることが出来たのだ。これからも、おこたらず修行をはげむがよい」
とのお言葉をかけると

「必ず教えを守って仏道を成教いたします。
お父さん、お母さん、さようなら、けっして心配し悲しまないで下さい」
と、幼児達はいうと、釈尊を礼拝し、再び天上界に登っていったということです。

残念ながら、私には釈尊のように、宿世の因縁とか、将来の善報を具体的に示すことは下可能です。

でも、『開目抄』に引用されています天台大師の
「今生の修福は報、将来にあり」
現在、修している福業、善行の善報は将来において、必ず受けることが出来るとの御教示。

それから『妙一尼御前御消息』
「法華経を信する人は冬のごとし。冬は必ず春となる」
法華経の信仰をつらぬき通し、信行にはげめぱ、必ず春を迎えるとの日蓮聖人の御教示を信受し、信仰をより深く正しくして行って欲しいと思います。

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