就活と大学生の学力低下に関する社会学的想像力に富む話情けは人のためならず

2007年01月13日

25の補足として――ギャルゲー批評を考える2

サブカル研究から(少なくとも表向きは)撤退することを決めるきっかけとなった、あの発表からもうそろそろ一ヶ月近く経過した。今ざっと眺め返してみると、それは本ブログで1年くらい前に、まだのほほんと記事を書いていた頃の「ギャルゲー批評を考える」に記した第3番目の見解だったのだ(第1と第2は今見ると笑ってしまうくらいお粗末な代物で、棄却しても差し支えない)。では、結局のところ25ページ(本文は18ページ)に及ぶ暴走気味のレジュメで何を主張したかったのか、言葉足らずだったところを補足しておきたい。そしてそれに先立って、少しネタばらしのようなことをしておこうとも思う。
おそらくは、このレジュメを一読しただけでは何が言いたいのかよくわからないのではないだろうか(そもそも、大学の演習で使っただけのレジュメを一読した人は極少数なのだが…)。参加者から質問が出なかった一つの原因はここにある(だが、言うまでもなく最大の理由はページ数の多さによる)。このレジュメの混迷ぶりが何に起因しているのか、なぜかくも枚数が膨大になったのか、そもそも僕がいかなるスタンスでこのレジュメを作成したのか、についてまずは語らなければならない。
まず、混迷ぶりの原因は言うまでもなく、参加者の水準を見極めた結果と大学における「学問」という規制である。「美少女ゲーム」について知識の皆無な参加者を相手に、どこまで踏み込んでいいのかということと、何をもって「美少女ゲーム」を語ることが「学問」足りうるかということでの苦悩である。もっとも、後者については二十世紀学という緩い「学問」のおかげであまり悩まずに済んだのだが。ただし、枚数の膨大さにおいては、後者の理由が比較的大きい。つまり、大学という場において「美少女ゲーム」を語ることは、今後の進路において有益ではないことは目に見えているため、この一回だけにしようと予め決めていたことにある。
そして、レジュメを執筆する際、いかなるスタンスに立ったか。もっと言えば、具体的には誰の著作から大きな影響を受けたか、ということだ。参考文献は確かに40以上あるが、「思想」的に大きく関係してくるのが、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』と永山薫『エロマンガ・スタディーズ』であることは、微かではあるが感じ取っていただけただろうか。

さて、ここから補足に入っていくわけだが、まずレジュメの構成に関して。一で『解説にあたっての用語の定義、先行研究(「波状言論派」と暫定的に命名した批評家たちの理論)の紹介』を行い、二(+おまけ)で『「波状言論派」が前提にしているだろう「歴史」』を少しだけ詳しく追っていき、三で『「波状言論派」の批評および批評的態度の検討・批判』を行い、四で『「美少女ゲーム」の批評に関する些細な実践(もちろん、この節はTINAMIXからの影響をかなり受けていることは言うまでもない)』を試みて、五で『とりあえずの結論』に至るということだった。
そもそも、タイトル(そういえば、タイトルについては参加者から質問が出たのだった)にある「インタラクティブ」が何を意図しているのかということだが、一般的に「ヴィデオ・ゲーム研究」の中で言及される「インプット/アウトプットの相互作用」はもちろんのこと、「歴史」の「相互作用」の中で生まれてきたジャンルであるということ、「美少女ゲーム」が様々な要素の「相互作用」として醸成されている、ということ、の三点を含意している(もっともこれら三点は、他のジャンルにも当然当てはまることなのだが、それこそ分析が膨大になるので割愛した)。そして特に、僕が強調したかったことは、三点目である。レジュメの核に当たる三節と四節で、この意識が明確に出ているはずだ。18ページの内容をたった一行に要約してしまうとするならば、

「「美少女ゲーム」批評という割には、「テキスト」批評偏重ですよね」

ということだ。それを回りくどく書いているだけだと思っていただいても問題ない。あくまでも僕の目線は、「美少女ゲーム」(「美少女ゲーム」に括弧が付いているのは、『美少女ゲームの臨界点』において言明されているところの、という意味を込めてである。彼らの「美少女ゲーム」という言語ゲームを受け容れる気はさらさらないことも付け加えておく)に関する「批評」に向けられている。
もちろん、「物語」を丹念に読み解くことがダメだというわけでもなければ、『美少女ゲームの臨界点』という仕事を否定するわけでもない。むしろ、かなり重要な著作だと思っている。だからこそ、テキスト偏重という姿勢に落胆したのだし、「『美少女ゲームの臨界点』の臨界点」が透けて見えるのだ。たとえば、テキストから「オタク男性」のセクシュアリティを読み取ることなど困難だろう。「テキストの受容=プレイヤーのセクシュアリティ」を等式で繋ぐ根拠とは何なのか。そもそも「オタク男性」とは誰なのか。これらは聞き飽きた問題であっても、やはり定義づけが必要である。「美少女ゲーム」をプレイする人=「オタク」としても良いのだろうか。発売されるソフトの8割以上をこなしているユーザーと稀代のヒット作しかプレイしないユーザーを同一のカテゴリに含めても良いのだろうか。
定義が共有されなければ、議論は知らず知らずのうちにずれていく。だからこそ、このレジュメにおいては、「オタク」という言葉を極力使わず、「プレイヤー」や「ユーザー」という、よりニュートラルな言葉を用い、かつ彼らを括弧に入れて、作品それ自体を語っていくという姿勢を採ったつもりである。
では、美少女ゲームを語るとはどういうことか。先ほど書いたとおり、美少女ゲームはそれ自体様々なコンポーネントを持つ、いわば「マルチメディア」である。従って、テキストはテキストのみではなく、他の要素(CGや音楽、声優、システムなど)からの影響を絶えず受けている。ならば、テキスト以外の側面から語ることも必要ではないか。むしろ、「テキスト」も「美少女ゲーム」の一構成要素に過ぎないのであり、そこばかりを徒に特権化することには疑問を抱かざるを得ない(これに対しては、「確かに一要素に過ぎないが、テキストが占めるウェイトは大きく、分析でここに重点が置かれるのは妥当である」という反論もあるだろう。もっともであるが、だとしても、他の要素を半ば無視するテキスト分析は問題であるような気がする。付け加えれば、テキスト以外の要素は「文字言語」ではないため、批評という形での文章化が難しいので、自然とテキスト重視になるものとも推察される)。
だからこそ、僕が問題提起として四節で実践したのは、「システムからの要請」を中心とした分析だった(そして、クリックによる「指先の感情移入」論の発展形であった)。それはたとえば、主人公の性格付けが美少女ゲームというジャンル的規制(ないし、サブジャンル的規制)を強く受けざるを得ないというものだ。冬コミの批評本にあった「『To Heart2』の活かしきれなかった主人公の性格」などは、そもそも批評としてナンセンスである。「活かしきれなかった」のではなく「そもそも矛盾している」のである。もし本当に女の子が苦手という設定ならば、女の子と出会い、結ばれることをシステムとする美少女ゲーム(少なくとも「ハートフルラブコメディ」)の主人公としては破綻している。「活かしきれなかった」と感じるのは、そのような性格付けがそもそも不適だからである。その他、主人公の性格付けとして「外に出たくない」「コミュニケーションが取れない」などはほとんどの場合、不適である。逆に、「相手のことを気にかける」「ヒマ人」「恋愛に鈍感」などは、システムの都合上、大変有効である。
「指先の感情移入」とはクリックによる文字表示のことである。美少女ゲームを読むことは、小説を読むこととはかなり異なった体験である。後続の文章がすでに現前している小説と、後続の文章がクリックにより初めて登場する美少女ゲームとでは時間性において大きな違いがあるだろう。より時間的同期が期待できるのは、美少女ゲームの方であろう(「テキスト表示速度」というシステムがしばしば、かなり細かくプレイヤーのニーズに合わせられるよう設計されていることからも明白である。それに対して「AUTO」機能は実際のプレイにて、どれほど利用されているのであろうか。これに関して統計資料などがあればいいのだが…)。
以上のように、テキスト以外の側面を分析する手法が徐々に確立されていけば、美少女ゲームの批評もさらに広がるであろうし、今まで無視されてきたような作品群がテキスト以外の面で再評価されることも起こりうるのではないだろうか。

個人的には、「ある作品のテキスト表示それ自体を詳細に論じた評論」や「ある作品で声優の演技がテキストにいかに作用するかの評論」「背景グラフィックが作品に与える印象についての評論」などがあれば、是非とも見てみたいものである(僕が知らないだけで、世の中にはすでにたくさんあるかもしれないが)。

sharan428th at 04:03│Comments(0)アニメ・ゲーム | 思考

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