こんにちは。カンボジア事務所インターンの溝口です。

カンボジアでは6月に入ってから、新型コロナウイルスの影響で自粛していた活動を段階的に再開し始めました。村での乳幼児健診が段階的に開始され、保健センタースタッフや女性子ども委員会、そして村の保健ボランティアさんと共に活動を行なっています。

さて、カンボジアブログで度々出てくる「保健ボランティアさん」ですが、「保健ボランティアさんは一体どういう人たちなのか?」というお声をいただきました。そこで今回は、この「保健ボランティアさん」について、そしてシェアとの関わりについてご紹介します。

保健ボランティアさんとは…
Village Health Support Groups (VHSG)と呼ばれ、カンボジア全国の各村に2名が配置されています。主な役割は、保健センターが村々で行う保健サービス提供をサポートし、村での保健を守るための活動を推進することです。活動の一例として、保健センターが村での予防接種を行う際には、保健ボランティアさんを通じて村人たちに予防接種の開催日時を伝えたりしています。

保健ボランティアさんは村の中心人物や、村の組織から選ばれることが多く、中には村長さんがその役を担うこともあるそうです。任期は定められておらず、代替の保健ボランティアさんを見つけることで退任が可能となります。
基本的には無給ですが、トレーニングや会議に参加した場合に、日当が支払われることがあります。


2020-05-05 4.32.46 PM
(写真1: 保健センターで開催された保健ボランティア会議。
中央奥はファシリテーターをする保健センタースタッフ。)


実際にシェアの活動に関わっている保健ボランティアさんをみると、年齢や性別も様々です。親子2代で保健ボランティアをしている方もいます。シェアの活動では、乳幼児健診と離乳食教室のスケジュールを保健ボランティアさんと共に決めています。前日になると、保健ボランティアさんは、2歳児未満の子どもたちがいる家庭を一軒一軒まわり、「明日はシェアと一緒に子どもの身長・体重を測るよ!離乳食教室もあるよ!」と呼びかけてくれます。また、前回の乳幼児健診で低体重と診断された子どもたちのフォローアップができるよう、必ず参加するように養育者に対して呼びかけを行います。

乳幼児健診当日、朝早くから保健ボランティアさんは会場入りし、子どもたちがやってくるのを待っています。いよいよ乳幼児健診が始まると、子どもたちの身長・体重の記録を取っていきます。乳幼児健診と離乳食教室の間には、保健ボランティアさんが事前に自分で決めた保健に関するトピック(手洗いや、母乳の与え方など)についてフリップなどを使い、参加したお母さんたちに伝えます。活動終了後に「今日は緊張しちゃって大きな声が出せなかった〜!」と振り返る保健ボランティアさんもいますが、お母さんたちの中から質問が上がることもあり、保健教育の大切さが伝わってきます。


2020-05-05 3.45.04 PM
(写真2:乳幼児健診寺に保健教育を行う保健ボランティアさん(中央奥))


シェアでは毎年、ダイアリーと呼ばれるノートを保健ボランティアさんに配布しており、乳幼児健診の日程や、自分の村の2歳児未満の子どもたちの情報を書き込めるようにしています。新しく村で誕生した子どもについてもこのダイアリーに記載されており、シェアが情報を把握する上でとても役に立っています。

2020-05-05 4.32.55 PM
(写真3: ダイアリーに村の2歳児未満の子どもの情報を書き込む保健ボランティアさんの様子。)


また、四半期に1度のペースで保健ボランティア会議に保健センターや、州・郡保健局とともに参加しています。この会議は、村マップやダイアリーを使って、村ごとの2歳児未満の情報をアップデートしたり、活動の問題点や解決方法を書き出し、話し合ったりしています。シェアでは今後、この保健ボランティア会議の場を利用して、保健ボランティアさんのオーナーシップを伸ばしていきたいと考えています。

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(写真4: 昨年シェアと作成した村マップを使い、低体重児の子どもがいる家庭に印をつけている様子。)


文責:溝口(NGOシェア・カンボジア事務所 インターン)

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みなさん、こんにちは。シェア東京の海外事業担当の巣内です。日本では新型コロナウイルスの新規感染者が、ふたたび増えてきている状況です。私たちの活動する東ティモールでは、6月27日に非常事態宣言が解除されました。今回はこの3ヶ月間、現地に残り、対応に奮闘してきた現地代表の吉森から、東ティモールの中の新型コロナウイルスの状況やシェアの対応について、3つのポイントで、インタビューをしていきます。



<<感染状況や暮らし編>>

Q1. 東ティモールはこれまで24症例のみで、全て輸入症例で市中感染は起きていませんでしたよね。新規感染も2ヶ月以上出ていないようですが、東ティモール政府はどのように対応されてきましたか?

政府は3月半ばから入国規制し、国境管理を強化しました。非常事態宣言は6月末まで3カ月間発令され、6月末にようやく解除されました。最初のうちはPCR検査も国内でできずオーストラリアに送っていましたが、やがて国内で一日100件以上の検査が可能になりました。隔離と検疫施設の設置と、医療従事者の感染予防能力の強化で、感染疑いの追跡調査などのケースマネジメントもできるようになりました。

経済対策としては、1世帯に給付金200ドル、電気代の補助15ドル×2回、税の優遇、雇用を守る補助金など提供された他、コロナ対策に従事する医療者への手当増額なども行われました。


Q2. 非常事態宣言が3ヶ月あったのですね。日本でも人々の暮らしや経済面で大きな影響が出たというニュースがありましたが、現地の住民の方の暮らしにはどのような影響が出ましたか?


非常事態宣言の特に最初の2カ月は外出規制で、市場や商店、漁業など多くの経済活動ができなくなり、多くの人たちが野菜売りなどの日銭で暮らしているため困窮しました。もともと人口の3分の一は国際的な貧困ラインを下回るため、暮らしが厳しくなったことは間違いありません。近所では、家の敷地を道路まで広げて畑を作って食料を確保する家も多く見かけました。

現在、どのくらい栄養不良などの影響が出ているか、国連を中心に調査が実施されています。学校は3カ月休校し、人々の楽しみのひとつである、多くの家族親戚が集まる冠婚葬祭も禁止されました。


Q3. 東ティモールの方の暮らしにも大きなダメージがあったんですね。その中で、東ティモール人特有の反応などありましたか?


新規感染者が出ていた時も、批判の標的になるのではないかと警戒する外国人もいたが、目立ったケースは聞いていません。疑心暗鬼にならず、連帯して危機を乗り越えていこうという雰囲気が感じられたのは、度重なる危機を乗り越えてきた国民だからなのでしょうか。

ほっこりしたのが、新規感染増加中の最中に、聖なる山に全国の長老が集まり、動物の内臓を使って東ティモールがコロナから守られる未来を予言し、精霊にコロナ退散を祈願したことです。3密の集会で一瞬心配しましたが、このあと多くの人たちが「お祈りされたからきっと大丈夫だね」と励ましあって心の支えにしていました。カトリック国でもありながら、森羅万象に宿る精霊を敬う、昔ながらの伝統信仰が息づいているこの国ならではのみんなの反応に、私も帰国せずにこの国でコロナに立ち向かう勇気をもらいました。


Q4. シェアは健康や保健医療サービスに関する活動をしていますが、サービスへの影響はありましたか?

病院や保健センターは閉鎖せずにサービス提供を続けていましたが、外出を控えた住民が医療機関の受診を控えたため、全国的に、特に4月には予防接種や妊産婦検診などの受診率も低下しました。自宅出産も増えているようです。一方でシェアの活動地では、必須保健サービス、特に予防接種を強化したので、他の地域よりも影響が少ないと保健省やWHOから報告を受けています。


市場を消毒する保健省の職員
市場を消毒する保健省の職員

手洗いをするディリの住民
手洗いをするディリの住民



<<シェアによる新型コロナウイルスへの対応編>>

Q1. 新型コロナウイルスへの対策は、まさにシェアのフィールドだと思いますが、シェア東ティモールはどんな活動をしていますか?

感染者が出た当日に隔離施設の準備が始まったのですが、まずそれを手伝いました。最も人口が多い首都の市街地や、インドネシアに隣接するアタウロ島で、感染予防を行うスタッフや車、船を提供し、住民への啓発や消毒を行うサポートをしました。

また、集会が禁止されて母子健診を開催できなくなったので、助産師が家庭訪問をして予防接種をする活動も支援しました。感染状況が少し落ち着いてからは、シェアスタッフも一緒に訪問し、予防接種の記録などのサポートを行いました。


Q2. かなり保健行政と共に行動していたようですね。そんな中で、シェアだからこそできたなと感じる活動はありますか?

はい。シェアはアタウロ島に唯一常駐している保健NGOなんです。そして日頃から感染症の予防啓発活動をしています。そのため、今回もアタウロ郡の保健センター長など関係者から「いますぐ手伝ってほしい、シェアしかいない」という電話が何度もかかってきて、そうした要望にいち早く対応することができました。

アタウロ島はほぼ電気供給がないので、テレビがない家も多いです。住民には世界で起きている状況の深刻さが伝わっていませんでした。だからシェアは保健省や警察と一緒に島中を回って、コロナことを伝え、隣接するインドネシアの島民との交流を控えるように啓発活動を続けました。

この時、車で行けない沿岸の村に行くのに、保健の船が大活躍しました。保健サービスを届けるための船で、今年1月に日本から到着して3月に始動したばかりのヤマハ製の船です。ディリ市内から島をつなぐフェリーも停止だった期間は保健省の要請で予防接種のワクチンや医薬品も運ぶことができました。

これまで20年に渡り、東ティモールで保健行政とともに活動してきたこと、そして、現地の人々のニーズをしっかりと見極められ対応したことが、シェアだからこそできた部分だと思います。


Q3. 自分たちも感染する可能性がある中での活動は、不安もあったでしょうか?

感染が広がっている中で、県保健局長や対象地域の長などから電話がたびたびかかってきて、保健の団体として必要とされ続けることに、スタッフの安全管理や迅速な実施の判断には気が張る場面も多かったです。

ちょうど同時期にデング熱のアウトブレイクもあり、NGOとして地域に赴いて、保健スタッフや住民に直接声を聴き、必要とされている支援や活動を丁寧に実施していくことを心掛けました。

感染対策としては、東京の本部ともよく情報を共有し、感染の段階に応じて、できる活動の範囲を取り決めた指針を用意しました。保健局にも共有して、組織としてどこまでできるのかを理解してもらいました。


Q4. 新型コロナへの対応をする中で、これまでの活動の成果を感じられたことはありますか?

シェア東ティモールでは、長年、感染症を予防するための保健教育や資源が限られた中でできる衛生対策などを進めてきました。学校再開に向けて行った衛生環境の調査からは、これまでの学校保健活動で普及活動をしていたTippy Tapを村の中で見ることができました。聞くと、学校で生徒や教員が作っているのが、地域にも伝わっていたようです。

また、事務所の近所では、シェアが昔に作った「手洗いの歌」を歌っている子どももいて、どこで覚えんだろうと感心しました。


家庭を訪問して予防接種を行う保健スタッフ
家庭を訪問して予防接種を行う保健スタッフ

村で見つけたTippy Tap
村で見つけたTippy Tap



<<日本の皆さまへのメッセージ>>

Q1. 最後に、新型コロナウイルスのように全世界が共通に直面する課題が起きている時代に、日本の皆さまにメッセージはありますか?

日本国内でも、各地で今までにない苦労や苦しさがありますよね。そんな時に、海外はどうなんだろうかと、気にかけている人たちも多くいるということも、また事実だと思います。

日本も、国や国民が経済的に厳しくなる中で、日本の皆さんからいただくお金を使い、NGOがわざわざ海外で支援を続ける必要があるのか、という批判的な見方もあるでしょう。でも世界中がつながっているからこそ、ここまで爆発的な感染となりました。今回のように、このコロナ対策だけでなく、世界各地で起きている紛争や環境問題、農業、保健などいろいろな分野でお互い協力していかないと、日本だけの問題では済まない世界になっています。

ぜひ皆さんも世界で起きていること、シェア東ティモールの活動のことを、回りの方にも広げていただいて、みんなで協力し合って、一緒により良い世界を作っていけたらと思います。

現地で実施している活動は、皆さまからのご寄付、外務省のNGO連携無償資金や民間の助成金などに支えられ、継続をしています。私もここ東ティモールで、日本の皆さんからいただいた募金や皆さんの税金を大事に使い、必要な医療サービスから誰も取り残されないように、しっかりと届けていきます。シェア東ティモール事業をこれからも応援していただけますよう、どうぞよろしくお願いします。


マスクを付けて、手洗いをするディリの子ども
マスクを付けて、手洗いをするディリの子ども


東ティモール現地代表の吉森から、最新の現地の状況や、新型コロナウイルスの時代に私たちが向かっていく先についてもお話してもらいました。現地の活動は続きます。そこに暮らす住民も、新型コロナウイルスをはじめ、様々な感染症の課題に日々直面しています。現地の社会に入り込み、保健行政と共に歩む、シェアの活動スタイルもよく伝わってきました。私たちは日本と海外で活動する組織だからこそ、世界に目を向ける大切さをもっと日本の社会に伝えていく必要があるのだと考えさせられました。吉森さんありがとうございました!

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こんにちは。在日外国人支援事業を担当している山本です。
新型コロナウイルス感染症の影響で、シェアも在宅勤務を続けてきましたが、緊急事態宣言が解除となった6月から、少しずつ事務所での勤務も再開し始めました。


リモートでの“妊産婦訪問”を再開

その、在宅勤務中心だった5月末、女性普及員(Female promoter。ネパール人保健ボランティア)とともに、間もなく産後3か月になる双子の赤ちゃんのお母さん宅に“リモート訪問”を行いました。
産後間もないお母さんと赤ちゃんたちに対して、私たちが新型コロナウイルスの感染源になる可能性を避けるため、対面での訪問活動はしばらくお休みすることにしています。
しかし、何か他の方法で妊産婦さんたちと繋がることはできないかと、女性普及員たちとのリモート会議の際に話し合い、決めました。
ネパール人の皆さんは、普段から、Facebookのメッセンジャーなどを活用した、母国の家族や友人とのビデオ通話は慣れているようです。
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リモートでの会話の様子
(山本にはこのように見えている。お母さんは赤ちゃんにカメラを向けてくれている)


産婦さん側からの写真トリミング済み

リモートでの会話の様子
(お母さんのスマホ画面。上下少しトリミングしています)



家族の支えもあり、産後の経過や手続きは順調

今回リモートでつながったお母さんには、昨年の夏、妊婦訪問でお世話になりました。
※妊娠時の訪問の様子を紹介したブログはこちら
このお母さんは、上のお子さんが1人いる、出産経験者です。そして、出産直前にネパールからお母さん(産婦さん)のお母さん(赤ちゃんたちのおばあちゃん)が来日し、育児を手伝ってくれています。そのためか、産婦さんは穏やかで、特に困りごとはなく、気になることは、「最近赤ちゃんが寝てくれないこと」ぐらいでした。
この産婦のお母さんは、新型コロナウイルスの影響で、ネパールへの帰国が延期となっているそうですので、しばらく強力な助っ人がそばにいてくれるのは心強いことだと思います。
出産までは順調だったのか聞くと、腹痛が起きた後、2か月ほど入院となりそのまま出産を迎えたようです。病院を急遽移動しないといけないという話も出たそうで、悲しんでいた時に病院のスタッフが優しくしてくれたそうです。

産後の手続き、入管や大使館での手続きなども全て済んでおられました。外出自粛の影響で、1カ月健診は、2カ月健診に変更となり、自治体の保健センターによる赤ちゃん訪問も延期となるなど影響があったようです。予防接種は病院と相談しながら順調に実施できていました。病院、保健センターと繋がれていることが確認できて安心しました。


久しぶりの活動を終えて
 
活動の後の振り返りの時、女性普及員から、妊産婦さんを対象とした活動は久しぶりだったので、緊張し、何を聞こうか戸惑ったという感想が聞かれました。そして、産前産後の話を聞けて、そして手続きや健診なども問題なく進んでいたことをみんなで喜びました。
母子健康手帳をその場で確認できないなど、直接対面できないことによる限界はありますが、リモートという手段を通じて繋がり“訪問活動”を本格的に再開できたらいいなと考えています。
幸い、女性普及員の皆さんはzoomなどでの会議には慣れている様子ですので、計画している勉強会なども進めていきたいと思っています。





在日外国人支援事業担当
山本 裕子



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カンボジア事務所インターンの溝口です。

今回は、以前のFacebook投稿で少しお知らせした、国立栄養プログラムとパイロット事業についてご紹介します。

シェアはこれまで、地域や州レベルだけでなく、国レベルの保健省関係者と連携を図ってきました。国立栄養プログラムがおよそ2ヶ月に1回行っている栄養関係のプロジェクトにかかわっている団体などで実施する栄養ワーキンググループ会議や、Growth Monitoring Promotion Guideline作成委員会会議に参加してきました。

そして、昨年2019年の7月には、世銀をはじめとする国際援助機関の支援のもとで、Cambodian Nutrition Projectが立ち上がり、そのパイロット事業がいよいよ始まりました。

この事業は、母子保健を対象とし保健サービス提供の強化や、コミュニティレベルの予算や管理における透明性、保健事業のマネジメントや持続可能性の確保が含まれています。シェアが長年行なってきた地域保健の課題に取り組む動きが、カンボジア国として始まりつつあると考えています。

事業開始にあたり、5月18日、19日の2日間に分けてプレアビヒア州保健局でワークショップが開催され、シェアもオブザーバーとして、このワークショップに参加しました。


図1
(写真1: ワークショップにはプレアビヒア州にある保健センターのスタッフや、シェアスタッフが参加しました。新型コロナウイルス対策で、一定間隔を空け、参加者はマスクの着用が義務付けられました。)


ワークショップでは、主に保健センタースタッフを対象に、栄養不良の区分や定義、保健センタースタッフが中心となり行う5歳未満児の現在の栄養状態を把握するためのスクリーニング調査、調査報告の方法に関する説明が行われました。

シェアがともに活動を行っている4保健センターでも、その後すぐに5歳未満児の身長、体重測定を含むスクリーニング計画が立てられ、すでに6月8日から保健センターによるスクリーニングが開始され、シェアもオブザーバーという形で参加させて頂くことになりました。

今後、この国立栄養プログラムやパイロット事業がどのように動いていくか、とても注目をしています。特に、シェアがプレアビヒア州の活動地域で行なってきた保健サービス提供の強化や、自治体に対する保健・栄養活動、それに関する自治体の予算への働きかけなど、パイロット事業と重なる部分について協調し、シェアとしての関わり方を考えていきます。



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文責:溝口(NGOシェア・カンボジア事務所 インターン)


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皆さんは、「新しい船の出航」と聞くと、どんな景色を想像するでしょうか。

船と岸をつなぐ色とりどりの紙テープが風になびく様子?

シャンパンを船べりにぶつけて祝杯をあげる船員たち?

シェア東ティモール事業では今年、離島の保健活動に使うボートを輸入しました。電気や道路が未整備のアタウロ島で、医薬品や冷蔵保存が必要な予防接種ワクチンなどを運ぶ船です。


アタウロ島に到着したボート
アタウロ島に到着したボート

現地で初めて新型コロナウイルスの輸入感染例が報告されたのが、3月半ばでした。実はその直前のギリギリのタイミングで、取り扱い研修や航海の安全を祈願する進水式を終えて、ボートを本格始動することができました。

今回、進水式は2回実施することになりました。1回目は本島の首都ディリで保健省や海上保安警察など、省庁関係者を招き、スピーチが中心となるお披露目会のような式典と、2回目が船の本拠地となるアタウロ島で島民と伝統行事も含めて一緒に行う式典でした。


関連ブログ:日本から保健の船が無事に到着!難しい業務を担当したスタッフに話を聞きました。


※この事業は、皆さまからのご寄付と、外務省日本NGO連携無償資金協力や民間助成金の資金をいただいて実施しています。


ヤマハさんによる、船の取り扱い導入研修

まず、首都ディリ港のコンテナから船を取り出し、取り扱い研修を実施してくれたのが、現地代理店を通じて購入した船の製造元である、ヤマハ発動機株式会社さんでした。これから船の操縦や維持管理を担当する当会の船頭に、船の装備の説明や船外機の正しい使い方などをひとつひとつ丁寧に研修していただきました。

ヤマハ製の船外機は、東ティモールでも多くの漁師が使っています。新しく船頭として雇用したアグストさんも、これまで使っていましたが、日本のヤマハの技術者に教わるのはもちろん初めてで、真剣なまなざしで実地研修を受けていました。


船外機の部品を一つ一つ確認しながら、定期点検のポイントなどを学びました
船外機の部品を一つ一つ確認しながら、定期点検のポイントなどを学びました


初航海のアタウロ島で迎えてくれたのは・・・

研修を終えた翌日には、エンジンの調子を確かめながら、アタウロ島へと向かいました。浜も見えてきて、もうすぐ着くとほっとした頃、突然たくさんの黒い影が辺り一面に現れました。

およそ50頭以上はいる、イルカの大群でした!!!

スピードを落とした船が浜に向かうところをイルカたちが先導するように、時々背中を見せながらゆっくりと泳いでいます。世界でも有数な海洋多様性豊かな東ティモールの海にはイルカやクジラもおり、私も何度も海でイルカは見ていますが、こんなにも大群のイルカが船に寄り添うように長い時間ゆっくりと泳ぐ姿は初めてでした。


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同乗していた島出身の船頭や看護師たちは「迎えに来たんだ、この船が島に来てくれるのを待っていたんだね」と言ってくれました。東ティモールには現地語で「Lulikルリック」という言葉があります。神聖な守り神や祖霊、精霊と訳せるでしょうか。

アタウロ島民の健康を守るために保健の船をぜひ支援してほしい、という強い要望を受けたのが2年前のことでした。岩石海岸や険しい地形のこの島で、船が傷つかないように維持管理を任せられる人材を見つけられるだろうか、部品供給や燃料の予算確保は。安全な航海が続けられるだろうか。

大概のことには楽観的な私も、この船については不安が尽きず、ディリ港の海に浮かぶ他の船を見るたびにさまざまな思いが頭をよぎり、ため息が続く日々もありました。この日たくさんのイルカに迎えられた時、きっとこの船はアタウロ島のルリックによって守られる。大丈夫。そう確信しました。


メディアの取材を受ける船頭のアグスト(中央)
メディアの取材を受ける船頭のアグスト(中央)


アタウロ島での進水式典

式典の朝「おはよう。本当に来たね。ありがとう。」と声をかけてくれたのは、ヤシの葉で作った冠をかぶったシプリアーノさんでした。島の語り部でもあり、前プロジェクトで一緒に学校保健活動を実施した、頼りになる教育局学校巡回指導員でもあります。会場には船を模した手作りのケーキが置かれていました。シェアが頼んだものではなく、住民が準備してくれたのでした。


学校巡回指導員でもあるシプリアーノさん
学校巡回指導員でもあるシプリアーノさん

住民による手作りケーキは船の形でとてもかわいい
住民による手作りケーキは船の形でとてもかわいい

航海の安全を願う儀式は浜辺で行われました。地元の言葉で「私たちの島に船がやってきた」と歌う地元の伝統グループの踊りに誘導されて、浜に向かいます。プロテスタントとカトリックの信者がいるため神父も同席し、海に浮かぶ船の近くで牧師が静かにお祈りを捧げてくれました。

ディリからは県知事や県保健局長、本事業を支援いただいた日本大使館の担当官の方などが参加してくださいました。15年間アタウロ島で助産師として勤務し、いまは約30万都市の首都の保健サービスを統括するアグスティーニャ県保健局長が、住民のためのこの船を大切に使ってくれるようにと心を込めて語りかけるスピーチがありました。保健スタッフやワクチンを運ぶ船をぜひ島にと要望した一人でもあり、輸入関税を負担してもらえるよう保健省との様々な調整役を買ってくれました。


タイスで歓迎を受ける県保健局長
タイスで歓迎を受ける県保健局長

式典の翌週にはさっそく、中心地の保健センターから医者や看護師を乗せて、船でしかいけない沿岸の村でのモバイルクリニックを行いました。岩石海岸に船が近づかなくても良いように、住民が木の小舟で迎えに来てくれました。アタウロ島の人々やルリックに守られて、長くいつまでもこの船が島民の健康を支えられることを願ってやみません。


YouTube動画でボートや式典の様子をご覧ください。



文責:東ティモール現地代表 吉森悠

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Boa tarde!みなさんこんにちは!東ティモール事務所フィールドオフィサーのライムンドです。今日は私の故郷である東部ビケケ県の伝統的なお葬式について紹介したいと思います。ビケケ県は首都ディリから公共交通手段のバスで行くと8時間くらいかかります。


1.別れは突然やってくる

5月3日、私の妻の祖母が亡くなりました。新型コロナウイルス非常事態宣言をうけて、実家のビケケ県に帰省中のことでした。ビケケ県では伝統に基づいて、人が亡くなると行う儀式(Seremonia Fetosan Umane セレモニア フェトサン ウマネ)があります。


自宅に安置された祖母(手前が棺桶)
自宅に安置された祖母(手前が棺桶)


2.お供え物を話し合う Fetosan Umane(フェトサン ウマネ)の儀式

簡単に言うと、故人の女性(娘)側一族と男性(息子、兄弟)側一族が、お葬式に必要なお供え物の品々を持ち寄る儀式です。しかし、何でもかんでもお供え物を持ってくるのではありません。何をどれだけ持っていくかは、伝統で決まっています。ビケケ県ワトゥラリ郡では女性側一族が牛、ヤギ、馬、お金を、男性側一族が米、酒、タイス、豚を持ち寄ります。

お供え物はたくさんありますが、しきたりを守らないと家族が病気や事故などの不幸にあうと言い伝えられているため、みんな精一杯持ってきます。


男性一族からのお供え物の米
男性一族からのお供え物の米


3.女性側一族からのお供え物が少ないと・・・

全ての親族とお供え物が揃うと儀式の始まりです。まずは親族で会議をします。会議というのは女性側が持ってきたお供え物を男性側に差し出し、内容を一つ一つ確認するのです。もしお供え物が少なすぎると、男性側は受け取りを拒否し、追加の要求をすることができます。大変なのは、この話し合いがこじれるとケンカに発展することがあるのです。話し合いがまとまらないとお葬式への出席が許されません。


4.お供え物はみんなで頂きます

持ち寄ったお供え物は調理し、お葬式でふるまわれます。ここでも決まりごとがあり、女性側は牛肉、男性側は豚肉を食べることができません。故人が埋葬された後、残った品々は親族へ返礼品として渡されます。今度はお供えした物とは逆に女性一族が米、酒、豚肉を、男性一族が牛、ヤギ、お金をもらいます。


お墓へ埋葬に行く道中
お墓へ埋葬に行く道中


5.コロナの影響を受けて

私の祖母が亡くなったのは、新型コロナウイルス感染症の非常事態宣言中であったため、お供え物の話し合いは行わず、それぞれの親族が持ち寄れるものを持ち寄りました。私は祖母が亡くなった知らせを受け、翌日に祖母が眠る家に牛と馬1頭ずつと85ドルのお金を持って行きました。

今回持ち寄られた品々は、
・牛4頭
・馬2頭
・豚20頭
・ヤギ4頭
・米100袋
・お金2000ドル
でしたが、通常は牛15頭、馬30頭、ヤギ50頭以上にもなります(牛1頭US$200〜)。いつもよりもお供え物が少なくなりました。


お供え物の豚を運ぶ親族
お供え物の豚を運ぶ親族


6.儀式と一族の結びつき

いかがだったでしょうか?日本のお葬式では豚や牛はお供えされますか?このような儀式はビケケ県に限らず東ティモール全土で行われています。ビケケ県は全国的にも土地が肥沃で家畜が多いため、伝統的な儀式では特に多くの牛や豚などがやり取りされます。

お墓に埋葬され故人を偲ぶ家族たち(東ティモールは土葬)
お墓に埋葬され故人を偲ぶ家族たち(東ティモールは土葬)

お葬式の儀式の話を日本人スタッフにしたところ、「手間やお金がたくさんかかるみたいだけど、それに関してはどうですか」と聞かれました。確かにその通りです。1か月の給与の5倍以上の資金が必要になります。私たちの生活がいっこうに良くならないのは、こういった背景があるのかもしれませんね。

しかし家族が集まって故人を偲ぶことを、私はとても大切だと思います。たくさんお金を使うことが大事なのではありません。この儀式が故人を偲び、親族を敬うことを教え、より一層、一族の結びつきが強くなると考えています。伝統を大切にしつつも、現在の生活様式に合った変化が必要なのかもしれません。

余談ですが馬は基本的に食べません。交通手段として使用します。


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Dr.本田のひとりごと(77)

ダニエル・マーフィ医師(1944年9月23日―2020年4月14日)
 彼の御霊が、東ティモールの人びとを温かく見守ってくださることを祈って




                 ダン先生、さようなら

                      ‐ 大きく、温かい心をもつ、卓越した医師



#1.Dan_ David et toru  Dili Nov_ 2011
(写真 #1 : ダンさん、デビッド・ワーナーさん、そして徹。2011年11月ディリ。)


 その男は背が高く、がっちりした体格で、まじめだがやさしい笑みを浮かべていた。それは1999年10月のこと。私がダンと初めて会ったのは、インドネシア軍とその手先だったティモール人民兵たちが、「焦土作戦」を行い、東ティモール(かつてのポルトガル植民地)をめちゃめちゃにして去った直後のことだった。病院・診療所を含めまともな建物・家屋は何一つ残っていなかった。80%が焼け落ちるか、単純に打ち壊された。

 私たち日本人チームはオーストラリアのダーウィンから、多少の薬、医療用具、そしてディリ市内にあるバイロピテ診療所に置く、大きな椅子を持ち込んだ。仮作りの外来診療棟でダン先生は、日曜日を除く朝7時から夕方7時まで、一日平均300人以上の患者さんを診察していた。そのため彼は、大きな体を気持ちよくあずけて、仕事をし続けられる、しっかりとした広めの回転椅子が必要だったのだ。流ちょうなテトゥン語(現地のことば)とポルトガル語を操りながら、ダンさんは一人ひとりの患者さんと家族に、やさしく温かい言葉で話かけ、しかし素早く診察し、判断し、指示や投薬をしていた。

#2 Aftermath of scorched-land operation, Dili Oct. 1999 TL
(写真 #2 : 焦土作戦で焼け落ちた民家, 1999年10月ディリ郊外)


 ダン医師は1944年に米国の中西部農業州アイオワで生まれた。彼の父もまた、地域で尊敬される医師で、ちょうどユージン・スミスの「カントリー・ドクター(田舎医者)」という、名高い写真集に描かれているような人だったと思われる。

  学童期から青年期にかけて、ダンが最も打ち込んだのはバスケットボールで、選手としても活躍した。彼の「Breakaway」(離脱者)と題する自伝にも、そのことは詳しく描かれている。

 1960年代の末から70年代の前半、ダンは心身ともにベトナム戦争に「捕まって」しまった。彼はこの道義を欠いた戦争に激しく抵抗した。ニクソン大統領が北ベトナムに侵攻しようとすると、100万人とも言われる若者を中心とするデモ隊が、ホワイト・ハウスを取り囲んで、阻止しようとした。ダンと彼の親しいガールフレンド(後に彼の妻となる)ジャネットは、二人して捕らえられ、一時留置場に入れられた。

 彼はアメリカの海軍から徴兵され、新米の医官としてベトナムでの任務に就くように命令を受けたが、これを無視し、良心的徴兵忌避者となった。ダンの父は、息子が反戦運動に積極的に加わった上に、徴兵を忌避したことを非常に悲しんだ。父はなぜ息子が、国家からの呼びかけに応えようとしないのかが、理解できなかった。確か、彼の父は日米の間で戦われた太平洋戦争に従軍していたのだった。

 ベトナムでの軍務を拒否し、収監される代わりに、裁判所はダンに、カリフォルニアに住む、ラテンアメリカからの移住労働者、刑を終えて出獄した元犯罪者、麻薬常習者、ホームレスの人たちなどへの医師として、社会奉仕することを命じた。こうしてダンは、さまざまな社会的背景を抱え、文化や人種が異なった、貧しい住民に対す医療に関心を持つ、きっかけを与えられることとなった。彼は結果として、スペイン語やポルトガル語をすみやかに習得していった。

 1980年になって、ダンは妻のジャネットと二人の幼い息子を連れて、アフリカのモザンビークに渡り3年間働いた。彼は臨床の仕事も精力的に行ったが、同時に看護教育にも熱心に従事したという。だが、残念なことに、当時アパルトヘイト政権下の南アフリカの軍隊の侵略を受け、またそれに呼応した国内の反乱軍によって、モザンビーク国内は内戦状態となった。小さな子どもたちを抱えたダン一家は、国外退避を余儀なくされる。

 米国に帰国後、ダン一家はアイオワに住む父を頼って合流し、しばらくの間、父の「田舎医者」としての仕事を手伝った。父との協働を通して、ダンは改めて医師としての父に尊敬の念を深め、ベトナム戦争以来疎遠になっていた二人は和解する。ダンは父が、診療圏の地域の、ほとんどすべての農家の、三世代にわたる家族の名前や性格、地域での生活ぶりなどをきちんと把握し、彼らと親しく付き合っていることを知った。ダンは父がどんなに地域の人たちに尊敬され、愛されているかを、思い知らされることになったのだ。

 ダンは以前私に、1974年ポルトガルが民主革命で旧植民地を手放すこととなり、その翌年にはインドネシアが軍事侵攻して、無理矢理東ティモールを併合して以来、彼はこの国に強い関心と同情を寄せてきた、と語っていた。結局1998年になってダンは、米国、オーストラリアのカトリック教会や市民団体の支援を受けて、東ティモールにやってくる。到着するやいなや、彼はディリ市内のモタエル教会の敷地内に付属していた、血と喧騒の修羅場とも言うべき診療所で働くことになった。どうしてかというと、彼が東ティモールに到着するまでに、日一日と首都の社会的・政治的な状況は張り詰め、悪化していたからだ。インドネシアからの独立を求める多くの人々が、鉈や銃によるひどい傷を受け、市内や遠方の農村地帯からクリニックに運ばれてきた。モタエル診療所は、島内でほとんど唯一、住民のために外科的な救急処置もできる医療機関だったのだ。当然インドネシア軍は、ダンや彼の医療チームが負傷者のためにやっていることを喜ばなかった。モタエル教会は長年に渡って、侵略者に対する非武装的な抵抗のシンボルのような場所だった。従って、クリニックで行われる医療活動は当然内外の注目を集める。海外からの特派員やジャーナリストたちも、数多く引き寄せられ、そこに運ばれてきた非人道的な暴力の犠牲者の様子を伝えた。1999年8月、国連の管理下での、独立を問う住民投票が行われた時期に、ダンはビザが切れたことを理由に東ティモールから放逐された。その後、オーストラリアを中心とする多国籍軍が乗り込むと、ダンも待ちかねたように東ティモールに戻り、今度はバイロピテに診療所を開いた。

 1999年の私の訪問のとき、忘れられないエピソードとなったことが一つある。彼が私を連れて、バイロピテから退院したが、なお回復過程にある患者を保養する、賄い付きの寄宿舎に案内してくれた時のことだ、そこには一人の10代の娘さんが暮らしていて、彼女は瀕死の粟粒結核から、ダンによって救われたのだった。ダン先生は彼女を優しい眼差しで見つめ、少女もまた、はにかみながら、ダンと一緒にいることをどんなに幸福に感じているかが、よくうかがえた。

#3 Dr_ Dan and a girl cured from miliary TB 1999
(写真 #3 : 粟粒結核から救われた少女とダン医師。1999年ディリ市内。)


 ある年の秋に私がバイロピテを訪ねると、ダンさんはすぐに私を診察室に招き入れ、一冊の分厚い医学書を書架から引き出すと、栞(しおり)の挟んであるページを私に示し、この男を知っているかと問う。それは、森鴎外の立派な肖像写真であった。鴎外を紹介しているのは、権威ある結核の専門書である、Lippincott社の「Tuberculosis」(多分、2004年版)。写真のあるページを含め、森鴎外のライフ・ヒストリーが詳しく紹介され、彼が書いた「假面」という劇作品のことにも触れてある。鴎外が近代日本の生んだ最も偉大な文学者の一人であるとともに、官職としても陸軍軍医総監まで登りつめた人であることにも言及されている。
 問題は、彼が若き日にドイツに官費留学し、結核菌を発見した偉大な細菌学者・ロベルト・コッホ博士を、1887年北里柴三郎ともにベルリンに訪ね、入門を許され、この大学者の下で1年間ほど結核菌のことも学んでいることである。皮肉なのは、彼が帰国してすぐ、自身結核を発症したらしいことだ。しかも、彼はたぶん日本で最初に抗酸菌染色の方法を習得した人であり、顕微鏡下で自身の喀痰検体の結核菌を確認したようなのだ。
 私が「假面」を図書館の鷗外全集で読んだのはだいぶ以前のことなので、忘れていることも多いが、劇に出てくる医師はみずからの身を蝕む菌に慄然としながら、そのことをずっと、家族にも、親しい友人にも隠し通していく。そして、医院を訪れたある青年の患者が結核であることを診断され、自殺まで思い詰めたとき、「実は自分も若き日にそうした体験をしたが、ひたすら隠忍自重して、『假面』をかぶって生きてきたのだ。君も諦めず生き続けよ」という意味の励ましを医師は青年に与え、帰らせる。
 明治のこの時代、結核は不治の病であり、しかも社会的なスティグマの非常に強い病気だった。実は鷗外は最初の妻を何らかの理由で離縁し、その後この離別された妻は結核のため死んだとされている。つまり、鷗外から結核を移された可能性も否定できないのだ。こうしたこと全体が、結核学の教科書にとって大きな教訓であり、鷗外という当時最高の知識人、すぐれた医学者すら、亡くなるまで感染の事実を隠し通さざるを得なかった明治の社会を、現代の光に照らして振り返ようと、この章の著者は読者に呼びかけているのだ。
 鷗外の死因はかつて萎縮腎とされていたが、最近は腎結核による慢性腎不全と肺結核ということに定まったようだ。

 ダン先生は、つねづね、彼にとって東ティモールで一番大事な仕事は、この、世界でも指折りの結核の蔓延国の人びとの結核を、できるだけ多く、早く発見し、家族も含め治療に結び付け、地域社会全体に啓発と教育を行うことなのだと言っていた。

#4 Dan at ease reading Japanese Zen book after a busy consultation 2007
(写真 #4 : 多忙な診療の後、くつろいで日本の禅の本に読み入るダン医師)


 2006年4月に、東ティモールは再び危機に瀕した。今回インドネシアは直接には関係なく、国内の異なった軍や警察のグループが互いに対立し、銃を向け合うこととなった。多くの兵士と警官と市民が命を落とした。背景には異なる地域間、出身部族間の利害の衝突があったと言われるが、解明されていないこともあるようだ。数万から十万以上という人びとが、数か月にわたって国内避難民となり、ディリでは、コモロ国際空港に向かう道路の周辺や、市の郊外のメティナロなどに避難民のキャンプがいくつもできた。シェアも、バイロピテ診療所と協力する形で、ささやかな医療支援活動をキャンプでさせていただいた。この時も、ダンさんの救援活動における的確な状況判断やリーダーシップに感心した。

 4歳くらいの男児が、そんな混乱を極める時期のある日、バイロピテの救急外来に運ばれてきた。対立する武装グループ間の銃撃戦に挟まれ、それを逃れるため家族ごと家を捨て、ディリ近郊のダレの山の中を1か月近くもさまよっていたという。子どもがクリニックに到着したとき、彼はショック状態で、熱も40℃以上あった。血液の検査で、すぐに彼が、熱帯熱マラリアと三日熱マラリアに重複感染していることが判明した。
 こういうときのダンの判断と処置は迅速だ。医師はすぐにリンゲル液の点滴を開始し、Artemetherの注射も投与した。2日するとこの子は解熱し意識がもどり、少しずつ食事や飲水もできるようになった。あと1−2日遅れていたら、また当時ダンだけが入手していたArtemetherの注射液がなければ、この子を救うことはできなかったことだろう。

#5   In 2007 Dili a boy with two malaria
(写真 5 : 二つのマラリア感染で重体に陥った4歳の男児。バイロピテ2006年6月。)


 2011年11月、私たちSHAREはデビッド・ワーナーさんを、2009年日本に招聘したのに続いて、東ティモールに招いた。私にとって、デビッドはダンと並ぶ、プライマリ・ヘルス・ケアの師匠(メンター)と言える。デビッドには、アイレウとディリの2か所で、ワークショップ、講演、そしてプロジェクト地の視察、助言を2週間近くかけて行っていただいた。保健教育教材の開発や使い方、住民へのアプローチの仕方を含め、それは東ティモールの人たちにとっても、現地のシェアのスタッフにとっても、たいへんに実りの多い、学びの機会となった。

 ディリのワークショップと講演会では、ダンが2回にわたり親切に通訳の労をとってくださった。ある意味で、私にとっては長年の夢がかなった瞬間だった。ダンは診察室にもデビッドの「医者のいないところで」(Where There Is No Doctor)を置き参照していたし、モザンビークでも東ティモールでも、草の根のヘルス・ワーカーたちにこの本を勧めていた。ベトナム戦争時代のつらい体験を知っているという意味でも、二人は多くの価値観を共有していたのである。

#6 David at Dili work shop 2011
(写真6 : ディリのワークショップでのデビッド・ワーナー。ひょうたんベビーを使った、下痢と脱水症の仕組みの説明。)


 彼の人生の最後の数年間、ダンはバイロピテ診療所を継続させるために大きな労苦を払うこととなった。これまで彼を財政的に支えてきたオーストラリア人のグループが、方針の違いのためか、運営から脱退し、ダンは財政的援助を絶たれたのだと聞く。なんとか政府からの支援が入り、入院病棟を基本的にやめ、そしてスタッフの献身的な努力により、なんとか続けられてきたが、ダンにとって、臨床の仕事だけでも大変だったの、それに加えてのこの負担は容易でなかったと推察される。この心労が彼の死期を、あるいは早めたのかもしれない。しかし、ダンは最後の息を引き取るまで、前向きで、なにくそという気持ちを失わなかったのではないかと信じたい。

 私としては、バイロピテの人びとが結束して、ダン先生の衣鉢を継ぎ、引き続き島のもっとも貧しい人たちのために、医療を提供してくれることを祈りたい。

 バイロピテ診療所の以下のWebsitesをよろしければ訪ねてください。そして、支援を寄せていただければ、職員たちも、ダン先生の霊も喜ぶことでしょう。

■ http://bairopitecliniclanud.com/?fbclid=IwAR1kLwlY30mZj7-z4BKgGGdjX9zHNFb-iqGD-biz7bbn1Rpn2t60AVYnLeA

■ https://www.facebook.com/pages/category/Health---Wellness-Website/Bairo-Pite-Clinic-Lanud-1864674177164833/

#7 Dr. Dan’s funeral in Biro Pite Clinic
(写真7 :バイロピテ診療所でのダン先生のお別れ会)


 一人ひとり、彼の弟子だったと思う者は(私自身もそうだが)、彼の医療者としての職業倫理から学び続け、彼の掲げた高い理想の松明を、より若い世代の人びとに引き渡していくことが、どこにいようと、私たちが、ダンから委ねられた務めなのだとしきりに思う。

あなたが教えてくれた愛と団結を忘れずに。さようならダン先生。

本田徹 (SHARE) 2020年5月21日



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