こんにちは。シェアの西山です。

気仙沼の生活支援プロジェクトK 事務局長の西城宗子さんより気仙沼からのご報告をいただきましたので、皆さんにご紹介したいと思います。

西城さんに伺ったところ、現在、気仙沼では、初めての災害公営住宅の完成に向けて工事が進んでいるそうです。私自身、6月の気仙沼への出張から既に半年近く経っていて、この写真を見てこのような建物が出来ているのかと、気仙沼の変化にとても驚きました。

生活支援プロジェクトKが活動する階上地区では、長磯浜地区、長磯七半沢地区、長磯下原地区、長磯前林地区に一戸建て87戸、長屋タイプ19戸の合計106戸を建設が予定されているそうです。
完成予定は、平成27年3月には一戸建て57戸・長屋19戸、12月までに残りの一戸建て30戸が出来上がる予定ということでした。

仮設住宅での生活が既に3年を過ぎており、同じ気仙沼の中でも災害公営住宅の完成時期に差が出てきています。新しい住居を待つ方たちのガマンの限界に達しないか、本当に心配です。

そのため、生活支援プロジェクトKが担う役割は今後も大きいと感じています。


それでは、西城さんからのお便りをどうぞ。

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気仙沼市の中央を流れる大川を北上していくと、川沿いには桜の木が立ち並び、向こう岸には南気仙沼小学校がありました。
周辺は閑静な住宅街でアパートなども多かったと思います。南気仙沼小学校はPTA活動が盛んで、おやじの会というお父さん方が参加する会があり親睦が深められていました。

現在南気仙沼小学校は、気仙沼小学校に統合されていますが、その跡地を利用して平成25年11月から南郷地区災害公営住宅の建設工事が進められています。

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遠くから見てもかなり大きいなあと感じます。それは気仙沼に10階建てのビルが出現したのが今回が初めてだからでしょう。


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近くで見るとより圧巻です。











もし、震災がなかったら・・・と今更ながら考えてしまいます。
10階建てが2棟と6階建てが1棟の合計165世帯が住むことになります。早い人では27年1月に、遅い人でも3月には全員が入居できることになっています。
敷地内には集会所があります。また1階が駐車場になっています。

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気仙沼市で初めて完成する 災害公営住宅です。













この住宅で皆さんがやっと落ち着いた生活を取り戻すことが出来ますように・・・。

生活支援プロジェクトK 西城宗子
                           



西城さん、ありがとうございました。また、気仙沼からのレポートお待ちしてますね。
皆さま、引き続き、生活支援プロジェクトKの応援をよろしくお願いします。

事務局次長 西山 美希




**応援よろしくお願いいたします**

2014年4月からは、(特活)生活支援プロジェクトKが気仙沼での活動を継続していきます。引き続き、気仙沼の活動の応援をお願いします。
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日本の戦後プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)とUHC(住民皆保険医療)への道  ―若月俊一と深沢晟雄を例に―



下記に掲載するのは、Oxfam International のオンライン上のオピニオンページ 'Global Health Check'の2014年11月11日号に掲載された、Universal Health Coverage(住民皆保険医療)に関する本田の寄稿文(英文テキスト)の日本語訳です。

きっかけとなったのは、外務省主催で、アフリカ日本協議会(AJF)の稲場雅紀さんらが運営を任されているNGO研究会の中で、今年「UHCとNGO」と題しての連続セミナーを開いた際、8月5日の第3回で本田が講師としてお招きいただいたことでした。私は主として、戦後日本のPHC経験が、現在のグローバルなUHCに対して持つ意味について、お話をしました。私が意識していたのは、2011年8月30日号でLancet誌が、'Japan: Universal Health Care at 50 Years'と題して、1961年の日本の国民健康保険制度発足50周年を記念する特集を組んだことでした。大変内容の濃い、良い企画でしたし、これを編むために献身された、日本の研究者たちの努力を多としつつ、どちらかと言うと、戦後日本の、「上からの」医療保険制度や公衆衛生政策の優位性を説くあまり、「草の根からの」PHCの視点を欠いているように、私には思えたのでした。このセミナーに参加されたOxfam Japanの山田太雲さんが、当日の講演の内容をOxfamのオピニオンページに寄稿しないかと勧めてくださったのです。私にとってはたいへん貴重な機会となりました。心より山田さんや稲場さんに感謝申し上げます。拙い議論ではありますが、皆さまにとってご参考になれば幸いです。

なお、Lancet記事を含め、'Global Health Check'への掲載ページについては、下記URLからご覧いただけます。

http://www.globalhealthcheck.org/?p=1705



UHC



健康における公正: 日本の第二次世界大戦後の国民皆保険に向けての歩み − 草の根の視点から

2011年9月1日、ランセット誌は日本のUniversal Health Coverage(UHC)50周年を特集した。1961年に日本は、公式に国民皆保険制度を発足させたのだった。この制度は主として、被用者保険を中心とする社会保険すなわち「社保」、地域・自治体を中心とする国民健康保険すなわち「国保」が、二つの大きな柱となってきた。

いまや日本は、WHO(世界保健機構)からも、OECD(経済協力開発機構)からも、比較的低いコストで、世界でも秀でた、住民の長寿を達成した国の一つとして、高い評価を受けている。いかにしてこのことが実現できたのか? 一つの要因は、保健医療サービスにおける普遍性と近接性を保障した日本の「平和憲法」の存在である。憲法25条はこう述べる、
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

ランセットの特集記事は、ことにも公共政策と健康保険制度面に対して、公正な分析を行い、日本の経験から学びえる教訓を提示している。しかし、ランセットの記事から抜けている大事な要素が一つある。プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)のアプローチに関することだ。この分野の日本の先駆者たちは、健康保険制度の失敗と不備を埋めるために、地域においてPHCを用いて奮闘したのだった。

このボトムアップ型のアプローチには、ランセットの記事は、ほとんど言及していないが、実際はUHC実現のために、非常に重要であり、役立つものだった。戦争で壊滅的な打撃を受けた日本の社会にとって、とくに医師が慢性的に枯渇していた農村では、PHCは決定的に重要だった。

私はPHCにとってのロールモデルとなってくれた二人の人物について描いておく。


若月俊一医師と深沢晟雄(まさお)沢内村村長: 戦後の日本における地域保健とUHC建設のパイオニア

若月医師は、1945年3月、つまり日本帝国軍隊が連合国軍に降伏するほんの数か月前に、当時は長野県の僻地だった、佐久のさびれた病院に派遣された。彼自身は卓越した外科医だったが、赴任初期から、この山間地域でのヘルス・プロモーションや予防活動に深く関わった。1940年代後半から、アウトリーチの保健チームを組織し、農村保健ボランティアを育成し、健診活動を開始した。しかも、農民の日常の健康問題をテーマにしたロール・プレイ(保健教育劇)を住民に見せることで、彼らの健康意識を高める努力をした。1980年代までに、若月のチームと住民の協力により、長野県では、脳卒中と結核という当時死因の大きな部分を占めていた2つの病気を減らすことができ、それに伴って住民全体の医療コストの削減を見た。今日にいたるまで、長野県は、47都道府県の中でも、男女とも長寿日本一を誇っている。

1957年、岩手県沢内村の深沢晟雄は選挙で村長に当選した。沢内村は日本の北にあり冬期間は雪に埋もれ、道路が通れなくなる。しかも実質的に無医村だった。彼は村長になってから、当時最新式のブルドーザーを村で購入し、劇的な除雪活動を行い、村人が病院や学校や商店への通院・通学・買い物に、冬季でも自由に往来できるようにした。彼はまた、無料での妊産婦健診や乳幼児健診を開始した。1960年代初めには、彼は1歳未満児と60歳以上の高齢者の医療費無料化に踏み切る。彼の主導による、こうした村独自の医療政策は、当時の厚生省や県から、国民健康保険法に違反するものとして、厳しく批判された。しかし、彼は屈せずにこう言い放った。「私が乳児やお年寄りのためにしたことが、国民健康保険法の違反になることは承知していますが、私は憲法25条に従って行動しているだけなのです。」

5年のうちに、村人も政治家も、沢内村の乳児死亡率が、千対69.6からゼロに下がったことを知り、驚愕した! しかも、この素晴らしい成果は、同じ岩手県内の沢内村周辺の自治体に比べ、より低い医療費で達成されたのだった。最終的には、国も深沢に倣(なら)い、乳児医療費・高齢者医療費無料化などの施策を導入していくことになる。佐久における若月同様、深沢もまたヘルス・プロモーションと疾病予防の活動の強化に熱心に取り組んだ。彼は村の保健委員会を立ち上げ、村民の活発な参加を促した。彼にとってUHCとは、単に医療費を無料化することではなく、地域の中に、持続可能で参加型の仕組みを作っておくことが重要だったのだ。


英国の医師にして公衆衛生学者のJulian Tudor Hartは、ランセットに発表された彼の有名な論文(1971)「さかさま医療ケアの法則」(The Inverse Care Law)で以下のように喝破した。

「よい医療ケアの確保は、それを必要とする対象の人々のニーズが高いほど、逆に得られづらくなる傾向がある。この法則は、医療ケアが市場経済のお影響に曝(さら)される度合が大きいほど、貫徹されやすく、市場の影響がより小さいところでは、貫徹されづらくなる。」


この法則は私たちに、保健サービスの確保を困難にする基本的な要因について、私たちに改めて教えてくれる。市場経済への楽観的な依存に対しては、地域レベルであれ、国レベルであれ、グローバルなレベルであれ、UHCの確立を目指すために、私たちは明確に反対すべきであるということだ。


グローバル社会の一員として、私たち日本人は、開発途上国の人びとの健康改善のためにもっと貢献すべきだ。私たちの過去のUHCに関する経験は、他の国々や国連機関にとって以下二つの点で重要な教訓を提供する。一つには、国の医療制度を形成していく上で、政府の果たす役割が非常に大きいこと。二つには、しかし、草の根レベルでのイニシアティヴ(自発的行動)が、UHCの質を改善する上で決定的な違いをもたらすということだ。

2014年11月11日
シェア代表 本田 徹

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Below is the article I contributed recently to 'Global Health Check', Oxfam International's online forum on Global Health Issues. (Nov. 11, 2011) I hope the article can help readers understand how Japanese pioneers in PHC and Community Health were instrumental in establishing the UHC in post-war Japan.

The whole article of mine as well as the related Lancet's articles on UHC in Japan will be available from the following URL;

http://www.globalhealthcheck.org/?p=1705



UHC


Health Equity: Japan's Post-war strides towards Universal Health Coverage −From Grassroots Perspective

POSTED BY MOHGA KAMAL-YANNI ON NOV 11TH, 2014 IN UNIVERSAL HEALTH COVERAGE

On September 1, 2011, the Lancet featured Japan's 50th anniversary of Universal Health Coverage (UHC). In 1961, Japan formally kick-started its national health insurance system. The system comprised two main components; an employee-based insurance 'Shaho' and a community-based insurance 'Kokuho'.

Now Japan is lauded by WHO and OECD as one of the best countries in the world when it comes to healthy longevity of its population with relatively low medical expenditures. How was this possible? One key factor is the Japanese 'Peace Constitution' which underpinned universality and accessibility in health care services. Article 25 of the constitution stipulates that:
"All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living. In all spheres of life, the State shall use its endeavors for the promotion and extension of social welfare and security, and of public health".

The Lancet articles presented fair analyses and lessons learnt from the Japanese experiences, especially regarding public policy and health system formation. However there is one important factor that was missed in the Lancet articles- namely the Primary Health Care (PHC) approaches. Japanese forerunners struggled to supplement the health system's failures and shortcomings at the community levels by PHC.

This bottom-up approach has been tremendously important and instrumental than the mention in the Lancet articles. For the war-battered Japanese society, especially in rural areas where doctors have always been a rare commodity, PHC played a critical role.

I will describe the example of two persons who were role models for PHC:

Dr. Toshikazu Wakatsuki, a medical doctor and Mr. Masako Fukazawa, the mayor of Sawaguchi-mura village, who were great pioneers in setting up Community-health and UHC in Post-war Japan.

Dr. Wakatsuki was dispatched to the remote Saku region in Nagano prefecture to work in a forlorn hospital in March 1945 - just a few months before the surrender of Japanese Imperial Army to the Allied Forces. Although he was a gifted surgeon, he got deeply involved from the start in health promotion and preventive activities in the poor and mountainous communities. Since late 1940s, he had helped organize outreach health teams and community health volunteers and jointly started health counseling sessions for poor villagers using role plays pertinent to their everyday health issues and tried to raise health awareness among rural population. By 1980s, thanks to Wakatsuki and local people's joint efforts, Nagano prefecture saw the incidence of stroke and TB, the two major killer diseases at that time, drastically lowered and medical cost to the population considerably reduced. Even to this day, Nagano stays at the top level among the 47 prefectures and city governments in terms of both male and female longevity.

In 1957, Mr. Fukazawa of Sawauchi-mura village, in the Iwate prefecture, was elected as mayor. The village is in northern Japan and is mostly immersed in snow with bad roads and no doctors. He first introduced state-of-the-art bulldozers into the village to remove deep snow from the roads and thus facilitated the transportation of the villagers to clinics, schools and shops during winter. He also started prenatal counseling and toddlers' regular health checkups free of charge. In early 1960s Fukazawa introduced free medical consultation for infants under 1 year old and elderly persons above 60. His do-it-alone measure was severely criticized by the then central and prefectural governments because the national health insurance law did not allow such a policy. But Fukazawa proudly declared "Although I know what I did for the infants and the elderly was against the health law, I know it is in accordance with our Constitution, article 25."

In five years' time, villagers as well as policy makers were astonished to know that the infant mortality rate in Sawauchi was brought down from 69.6 per thousand to zero!. This marvelous achievement was accompanied by less medical costs compared to neighboring villages in the same prefecture. Eventually the Central Government adopted the same policy. Like Dr. Wakatsuki in Saku, Mr. Fukazawa was also eager to strengthen health promotion and preventive activities. He set up a village health committee and asked the villagers for active participation. For him, UHC was not only about making medical services free but also creating a sustainable and participatory mechanism in the community.

As physician and public health researcher, Julian Hart correctly pointed out in his famous article:


"The availability of good medical care tends to vary inversely with the need for it in the population served. This law operates more completely where medical care is most exposed to market forces, and less so where such exposure is reduced."


This law is still valid to remind us of the fundamental factors that undermine the availability of health service. It emphasise that optimistic reliance on market forces must be challenged when establishing UHC both in the community, national and global contexts.

As a member of global society we must contribute to realizing better health for peoples in the developing nations. Our past experiences in UHC could offer important lesson for other countries and UN agencies that governments role in shaping the national health policies is without a doubt of paramount importance. Yet our experiences also shows that grass-roots level initiatives can also make a huge difference to improving the quality of UHC.

Written by Toru Honda, MD, Chairperson, SHARE

honda


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母子感染でHIVに感染し、親をエイズで亡くした少女エーンちゃん(仮名)のお話を前回のブログ「親をエイズで亡くし、17歳で出産したエーンちゃんの話」でお届けしましたが、今日は悲しいお知らせをしなければならくなりました。実はエーちゃんはその後エイズを発症し、9月28日に天国に旅立ちました。エーンちゃんの人生から学んだことを忘れずに、そしてこれからも一人でも多くの人を助けていけるように、エーンちゃんのその後の人生の続きを報告します。

18才の壮絶な人生のその後
HIVを抱え18才で二児の母になり、ご主人と別れたエーンちゃん。その後はご主人は戻ってきたり、離れたりの繰り返しでした。農家の稼ぎでは生活ができないため、ご主人は北部のチェンマイに出稼ぎに行きました。しかし出稼ぎ先ではアルコールに浸り、エーンちゃんと子どもたちへの仕送りはほとんどありませんでした。私がエーンちゃんと再会した時には、薄汚れた服装でやつれていたので、厳しい生活を送っていることが伺えました。仕事を紹介してくれないかとエーンちゃんからHSF(元シェアタイ)事務所に相談の電話もかかってきていました。

エーンちゃんが下した決断
ある時、エーンちゃんは「私がHIVの薬を止めれば、旦那や祖父が自分のことをもっと心配してくれて、変わってくれるのでは。」と思ったのでした。今までは本人曰くHIVの薬をちゃんと(?)飲んでいたそうです。幸運なことに、生まれた赤ちゃんも1才になる長男も出産時や定期検査ではHIVは陰性という結果でした。
 
ある時から、家族の関心を引くために、エーンちゃんは薬を飲まなくなりました。エーンちゃんは薬を飲まなければ体調が悪くなるということは、HIV/AIDSに影響を受けている子どもグループの活動に参加していたので知っています。しかし敢えて「薬を止める」道を選んだのでした。その後HIV陽性者リーダーとスタッフが家庭訪問に行った時には、エーンちゃんは極度にやせ細り、寝たきり状態でした。薬を自ら断った一方で、スタッフを安心させるために、薬は時間通りに飲んでいるという嘘をついたのでした。しかし、エイズを発症しているのは明らかで病院に搬送しました。退院後もHIV陽性者リーダーとHSFスタッフが、毎週エーンちゃんの家庭訪問に行きました。

エーンちゃんとの再会、友だちの励まし
私は9月にエーンちゃんの家を訪問しました。エーンちゃんとよりが戻って出稼ぎ先から帰ってきたご主人が住んでいる家を見て、私は胸が張り裂けそうでした。木造の掘立小屋のような家の周りは草が茂り、ゴミだらけでした。エーンちゃんの家は高床式で2階が住居でしたが、2階の軒先には衣類などの物が積まれたままでした。スタッフが階下からエーンちゃんを呼ぶと、階段の上段に、骨と皮だけになるほどやせ細ったエーンちゃんが出てきました。体重は20キロ減り、顔や手足の骨格が目立ちました。本当に何と声をかけたらよいか分かりませんでした。私は必死に涙がでないように耐えていました。エーンちゃんを訪問する前に、最近エーンちゃんは随分体調が良くなったとスタッフのノイから聞いていたので、会うのをとても楽しみにしていた矢先のことでした。

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エーンちゃんの家の様子

一瞬沈黙が流れた後、家庭訪問に同行していた子どもグループのマイちゃん(仮名)が会話を切り出しました。

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マイ: 「最近どう?」
エーン:「子どもに会いたい。」 (エーンちゃんは寝たきりだったので、子どもを育てられないと判断され、数日前に子どもは子ども保護センターに預けられたばかりでした。)
広本:「ちゃんとご飯は食べてる?」
エーン:「うん。」
(それは明らかな嘘で、家には料理をする台所も煮炊きする道具もなく、炭火から料理をする体力もないのがエーンちゃんの現実です。私を心配させないように、がんばって発した言葉だと思います。)
マイ:「かなりやせたね。何キロやせたの?」
エーン:「20キロ。」
ノイ:「薬は飲んでるの?」
エーン:「うん。」
(この時には体調不良から現実と希望が交錯していたせいか、相手を失望させたくない気持ちで嘘をついていたみたいです。)
マイ:「実は私も薬を飲まない時期があって、入院したことがあったんだ。でもそれから薬をちゃんと時間通りに継続して飲んだから、こんなに元気になったよ。だからエーンちゃんもきちんと薬を飲んだ方がいいよ。そしたらもっと元気になるよ。」
エーン:「うん。」
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同じ年代のマイちゃんは絶妙なタイミングでうまく話を切りだし、時には冗談を言いながら、エーンちゃんと親密に話しました。私はマイちゃんの成長ぶりに感動して、涙が溢れそうでした。私がエイズ孤児のマイちゃんと出会った5年前、マイちゃんは学校で差別を受け、不登校になっていました。そしてマイちゃんは暗い表情をしていました。しかし子どもグループの活動に参加するようになり、友だちをつくり徐々に笑顔が見られるようになり、自分の意見を話せるようになりました。今では友だちに助言ができるようになったのです。私が当初心配していたマイちゃんは、こんな形で同じ立場で苦しんでいる友だちに服薬のアドバイスをしながら、勇気づけることができるようになったのでした。マイちゃんが一生懸命声をかけているのを見て、友だちっていいなと、同じ状況にある友だちの言葉の強さを感じました。
 
エーンちゃんの最期の言葉
エーンちゃんと最後に話したのはスタッフのノイでした。状態が悪化し、県病院に搬送され、病院に付き添ったノイに最期に言った言葉は「私、ちゃんと薬を飲んだから、安心してね。」という言葉だったそうです。エーンちゃんの本当のお姉さんみたいに面倒を見てくれたノイに喜んでもらうために、エーンちゃんが最期に伝えた言葉でした。

子どもグループの活動の意義
その後、エーンちゃんの子どもを今後誰が育てるのか、家族で話していますが、引き取り手がいなくてもめています。エーンちゃんと同じ子どもグループに所属している中高生の子どもたちは、エーンちゃんが亡くなったことを受けてか、将来医療従事者として働くために進学したいと意欲が芽生えている子どももいます。その子どもたちもエイズで親を亡くし、祖父母や親せきに育てられていますが、農家で収入がほとんどないため、進学を諦めるか親と一緒に出稼ぎに行っている子もいます。彼らの未来を願って、シェアでは同じ立場の仲間が心身ともに支え合うことができるように、HIV陽性者の支援を行っています。是非、ご寄付のご協力をよろしくお願いいたします。

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寺院内の火葬場で関係者が花と線香を捧げている様子


最後に、エーンちゃんのご冥福を心よりお祈りします。



広本充恵

タイ事業担当 広本 充恵


**応援よろしくお願いいたします**
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「1杯、2杯、3杯、4杯・・・。毎日こんなにたくさんの油を食べてるなんて!」
自分が毎日料理をするときにだいたい使う油を、フライパンにいつものように目分量で左端のボトルから注いだあと、スプーンで何杯分あるのかを数えていくと、悲鳴にも近い声があがりました。
先日、東ティモールに出張した際に行った、シェアの東ティモール人スタッフを対象に「生活習慣病と食」をテーマに行った研修の様子です。
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【写真】学校保健プロジェクトコーディネーターの山本(真ん中)の発案でやってみました。

東ティモールに多い病気は?と、シェアの東ティモール人スタッフに聞くと、「下痢、マラリア、寄生虫、栄養不良・・・」といった答えが返ってきます。
たしかに保健指標からは、5歳未満児の半数近くは栄養不良で低体重であり、5歳から14歳の子どもの死因の上位は、肺炎、下痢、マラリアといった、予防可能な感染症です。シェアが東ティモールで現在行っているのも、子どもたちがこうした感染症を予防するための学校での保健教育活動です。

その一方で、高血圧や肥満、糖尿病などの病気も増えてきています。
まだ「低栄養」ばかりが注目されていて、栄養が過多で引き起こされる病気や予防方法については、情報が少ない状況にあります。

まずはシェアスタッフが「自分の体を知ることから始めよう!」と体重や身長、腹囲を計って自分の体重の目安を計算したり、昨日の食事内容や食べ方を思い出して、どんなところに問題があるのかを見つけ、目標を立ててみました。
毎日運動するとか、代表的なおやつの揚げドーナツを食べないといった無謀な(?)目標から、皆が毎日必ず飲む砂糖たっぷりのコーヒーを、砂糖スプーン3杯から1杯にする、といったできそうな目標までいろいろ出てきました。

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腹囲の測定でも、大騒ぎ。隠れメタボもたくさん!?
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シェア東ティモール人のスタッフは看護師などの保健医療職は一人もいないので、病気や体の仕組みについてまだまだ知らないことが多かったり、標準体重を計算するのに手間取ったりと、研修はあっという間に時間が経ってしまいましたが、スタッフがとても興味深そうに、熱心に質問して取り組んでくれました。
東ティモールでの今後の保健課題にも対応していけるよう、また今後も研修の続編をやっていきたいと思っています。

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東ティモール事業担当 吉森悠

**応援よろしくお願いいたします**

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