<$BlogTitle ESCAPE$> - livedoor Blog(ブログ) <$OGP$>
Dr.本田のひとりごと(82)



JAIH地方会 マイノリティと健康での5人2014
JAIH地方会 マイノリティと健康での5人 2014年5月、
NGOシェアの主催で開かれた東日本地方会「マイノリティと健康 ― いのちの格差を縮める」の懇親会での集合写真。
左から、冨田茂、沢田貴志、本田徹、陳天璽(無国籍ネットワーク代表)、長純一。(敬称略)



疾走する魂の戦士 ― 長純一さんへ
    本田 徹



君はいつも全力で走り続けてきた。

重い病を得た今も、なまなかの患者とはならず、

自分たちが苦闘の上築き上げようとしてきた、

東北の地の、隅々までとどく医療の仕組みが、

自分にはどう適用されるのか、真摯に知ろうとする。

骨の髄までの、臨床医魂!

その仕組みが、どう働き、どうつながり、

あるところでどう蹉跌するのか、

冷静に見届けることを望む。

そこに注がれる君の視線は、

あくまで熱く、そして冷たいものだ。

自分を突き抜け、自分を越えていくものに、

無念と希望と、心からの贈る言葉を託しながら。

小さな会釈と、いつもの君の はにかんで、

いっぱいの矜持を含んだ笑みと、

優しい、やわらかい、確かな力で握り返す手とで。

信州を、神戸を、石巻を、疾走しつづけた、

勇気ある、いのちの戦士。

まだ休んでなどいられるか、という、

君のつぶやきが、僕の耳朶を打つ。

すこし離れた福島の緑一面の山の村から、

君に、心からのエールを送る。

(2022年6月22日)


---------------------

注)長純一さんが、6月21日の自身の56回目の誕生日に発表された、末期のすい臓がんであるとの、病床からのリアルタイムの動画発表は、多くの友人仲間に衝撃と感動を与えました。同時に、彼が東日本大震災以降、宮城県・石巻の地で確立に取り組んできた包括的地域ケアのシステムについて、消化器疾患を専門とする総合診療医としての彼が、このようながんに罹り、そのシステムの恩恵を受けることになった運命の転変を、素直に感謝し、受容していることに、潔さを感じたのでした。私のつたない詩はそうした彼の勇気ある行動へのオマージュとして、会見後に書いたものです。友人であり、佐久病院の同窓生でもある、長さんの、穏やかな日々を心からお祈りします。
---------------------



***


「Dr.本田のひとりごと」は、引き続きnoteで配信します。

シェアのスタッフブログページ

***




このエントリーをはてなブックマークに追加
Dr.本田のひとりごと(82)


honda


「女の平和」とウクライナ戦争
      
         ― ペロポネソス戦争を鏡として ー




1.不幸で、不当な戦争の始まり

 プーチン大統領の声明により、ウクライナ戦争(彼は「特別軍事作戦」と呼び、「戦争」という表現をロシア国内で禁じています)が始まった2月24日から、この文章を書き始めた4月12日時点で、すでに一カ月半以上が経過し、戦争は国外避難民だけで、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)よると430万人以上を生み、第二次大戦後のヨーロッパで起きた最大級の悲劇となりました。これに、推定することの難しい国内の避難民を加えると、国民の半数近くが、故郷を追われて命からがら、シェルターを求めて移動している可能性もあります。単に失われた人の命の数だけでなく、国土や資産、自然環境、生物界に与えた甚大な被害を思うと、本当に悲しく、暗澹たる気持ちとなります。
もちろん、非は一義的には、明白な証拠提示や外部からの独立調査や検証のないまま、東部の自称およびロシア承認の独立「国家」、ウクライナ領内ドンバス地方の2州の住民が、ウクライナ軍によって多数殺傷されている、という理由を振りかざして、従属国とも言うべき、独裁国家ベラルーシュ側から一方的に軍事侵攻に踏み切った、プーチン大統領とロシア軍側にあることは間違いありません。また、陸上戦で苦戦を強いられ、北部戦線から撤退したロシアの残虐な破壊の跡、ジェノサイド的行為も次々と明らかになるにつれ、この戦争がもともと無理筋で、まったく道義を有しないものだったことが、立証されてきています。


2.ソ連邦崩壊後のNATO(北大西洋条約機構)のレゾンデートル(存在理由)

 ただ、ロシアだけを責めれば済む話なのかというと、私はそうではないと思います。第二次世界大戦の惨禍に学び、また東西冷戦終結後の、ヨーロッパの新秩序形成の過程で、軍事同盟的なものだけで、世界の平和を維持・管理していくやり方を改めるべきだという流れ、つまりゴルバチョフの言う「新思考」も働いていたはずでした。なによりも、ゴルバチョフは、核戦争を絶対に防がなければならないということを、イデオロギーの対立を超えて重視していました。東西融和の流れの中で、1998年から2013年までは、G8という形で、ロシアが、日本を含む西側の「先進国」による、年1回持ち回り開催のサミットに招かれていた時期もあったのです。1991年のソ連邦の終焉とともに、ワルシャワ条機構が崩壊し、NATO(北大西洋条約機構)のみが力を増すという、著しい力の不均衡を生んだことは、不幸のはじまりでした。

ゴルバチョフ氏は2018年出版の『変わりゆく世界の中で』(副島英樹訳・朝日新聞出版)と題する回想録の中で、1990年当時の米国外交の最高責任者、ベーカー国務長官との会談における彼の発言を引用しています。
「もし米国がNATOの枠組みでドイツでのプレゼンスを維持するなら、NATOの 管轄権もしくは軍事的プレゼンスは1インチたりとも東方に拡大しない、との保証を (ソ連が)得ることは、ソ連にとってだけでなく他のヨーロッパ諸国にとっても重要なことだと、我々は理解しています」

当時ベーカー氏も、東西冷戦の終結という果実を大切にしていくため、これ以上のNATOの拡大はしないことが、互いの信義を守るために必要だと考えていたのです。しかし、こうした良識的な意見は、その後ほとんど西側で顧みられず、ロシアを仮想敵とした、軍事的なBuild-upは着実に進められていきます。NATOが軍事同盟として生き延びていくためには、だれに対して同盟するのか、という敵対者、「かたき役」の存在がどうしても必要でした。それがソ連の後継国家ロシアだったのです。もちろん、ロシア国内での民主化の停滞や逆流も、西側の警戒心を搔き立てたことでしょう。いずれにしても、ソ連邦崩壊時16カ国だった、NATOは徐々に拡大し、今や30カ国になり、ウクライナの加入も将来的には約束されていました。バルト三国にとどまらず、ウクライナまでNATOに加盟することになれば、ロシアは直接国境を挟んでNATO諸国と軍事的に対峙することとなり、著しい緊張と不信をロシア側に与えることになるのは、十分予想されることでした。結果、ベーカー氏が東西両ドイツの統一の対価として、ソ連に約束していたことを裏切る状況を、米国とNATOは創りだしてしまったわけです。

NATO東方拡大東京新聞224.9
 図1.NATOの東方への拡大(出典:東京新聞2022年4月9日記事)

 ゴルバチョフは同じ回想録の中で、「もしソ連邦が維持され、すでにソ連と西側の間にできていた関係が保たれていたら、NATOの拡大は起きなかっただろうし、双方は別の形で欧州安全保障システムの創設にアプローチしていただろう」という、口惜しさをにじませる言葉も残しています。
軍事同盟の本来の目的は、敵陣営との間の一種の「恐怖の均衡」、相互抑止力によって、リアルの戦争に進まないようにしておくことのはずです。それができなかったことは、核が兵器として使われ得る21世紀の現代においては、軍事同盟の失敗を意味します。ウクライナ戦争を見ていて強く思うのは、「寸止め」の自制が、対立する両者の間で効かなくなっていることです。

女の平和 岩波 高津訳 カバー
写真2.アリストパネース「女の平和」(高津春繁訳・岩波文庫)カバー


3.現代への啓示としてのペロポネソス戦争とアリストパネース「女の平和」

 そこで、歴史の教訓として想起したいのは、古代ギリシャ世界を2分する大戦争となったペロポネソス戦争(BC431-404年)です。抜群の海軍力を駆使してペルシャ戦争の天王山となったサラミスの海戦(BC480年)を勝利に導き、新興覇権都市国家となったアテナイは、その後海外への植民や侵略を重ねて、領地、属国を増やし、次第にこれまでのギリシャ全体の指導者だったスパルタの地位を脅かすようになります。  
スパルタ率いるペロポネソス同盟と、アテナイ率いるデロス同盟との、熾烈な戦闘と交渉の軌跡は、トゥーキュディデースの『戦史』(久保正彰訳・岩波文庫)に詳細かつ迫真の筆致で描かれています。とくにアテナイの軍事同盟が従属国に課した船舶建造の分担金や上納金は重く、従わなければ、厳しい制裁を受け、ときにはアテナイからの侵略の結果、住民は奴隷として売り払われ、アテナイの息のかかった新しい植民者によって、領土が奪取されてしまうといったことがしばしば起きました。また、両大国のご機嫌をうかがいながら、どちらの陣営に属するか決めかねたり、勝ち馬に乗り換えたりと言った悲喜劇が、あちこちの小都市国家で起きました。
 結局、アテナイがBC415年に始めた二次にわたるシシリア遠征が大失敗に終わり、自慢の海軍も壊滅的な打撃を受け、ペロポネソス戦争の帰趨を決することになります。これ以降、アテナイは往年の輝きを失い、徐々に没落していきます。それとともに、デロス同盟の加盟国が次々とアテナイを見限って脱退していくことになります。

 アリストパネースの最高傑作『女の平和』(リューシストラテー)は、BC411年、つまりアテネにとっての絶望的とも言うべき、シシリア遠征大敗北後の時代背景の中で初演されたのでした。この劇作の原題、リューシストラテーは、主人公の女性の名であるとともに、リューシス(解体)とストラス(軍隊)の合成語で、「軍隊を解散させた女」、の意味になります。
 夫である人を含め、アテナイの男たちがいつまで経っても泥沼のような戦争を止めようとしないことに腹を立てた、リューシストラテーは一計を案じ、仲間の女性たち、さらにはスパルタの女性たち、とくにスパルタ(ラコーニア)の女性リーダー、ラムピトーにも連絡を取り、あることを実行に移します。


ラムピトー 私はね、平和が見えるというのなら、ターユゲトス(スパルタ一の高い山)の頂上にだって行くわよ。
 リューシストラテー 話すわ、これはかくしておくべきではありませんからね。皆さん、わたしたちは、もし男たちに平和をどうしても結ばせようと思うなら、清浄に保たれなくてはなりません。
カロニーケー 何から? 言ってよ。
リューシストラテー あなたがたやる?
カロニーケー やりますってさ、たとえ死ななくっちゃならないったって。
リューシストラテー それじゃ言いますよ、わたしたちは身を清浄に保たなくてはなりません、男から。


 つまりリューシストラテーは、アテナイとスパルタの完全な停戦まで、すべての男との同衾(ひとつ寝)を拒むように女たちに提案するのです。その後もアクロポリスの丘に保管された戦費を、通せんぼして、役人に渡さないなどの秘策を弄して、男どもを途方に暮れさせます。役人の怒りの発言に、女主人公リューシストラテーは、なんとしてでも、軍隊解散者の「名にし負う」ように、役人に倍する怒りの言葉をぶつけます。


リューシストラテー どういたしまして、この不浄者め、あたしたちは戦争の二倍以上の被害者ですよ。第一に子供を生んで、これを兵士として送り出した。
役人 しっ! 過ぎたことをとやかく言うな。
リューシストラテー 第二に歓喜にみちた青春を享楽すべきそのときに、軍旅のために空閨を守っています。それからあなた方は、わたしどもの、ほら、あのことを気にもかけない。わたしどもは、乙女らが閨(ねや)のなかで未婚のまま老いてゆくのがたまらない。


 結局、仲たがいした両国の男どもに逆らって、女たちはアテナイでもスパルタでも、セックス・ストライキの共同ピケラインを布き、断固譲りません。そして、見事に女たちは戦争を終わらせ、リューシストラテーは無血闘争終了の言葉を皆に贈り、「床入り」を勧めます。


リューシストラテー さあ、すっかりうまくゆきましたから、ラコーニアの方、この方たちを(と人質を指し)お連れ遊ばせ、そして(アテーナイ人に)あなた方はこの方々。(と仲間の女たちを指す) 男の方と女の方と、女の方と男の方とが連れ合って、私どもの幸運に感謝して、神々さまに踊りを奉納。これから後は、二度とふたたび過ちを重ねぬように用心いたしましょう。


 現実の歴史は、このように展開しなかったのはもちろんですが、絶対平和主義者だった、アリストパネースの真骨頂は、この作品で遺憾なく発揮されています。


 4.結びとして 

 ペロポネソス戦争から2500年経った今、人類は当時よりすこしは聡明になったのでしょうか? 残念ながら、進歩したのは核兵器を始め、大量破壊的な殺傷能力を有する武器の開発という面ばかりで、理性や他者への共感能力の面では、まったく進歩していない私たち自身は、それこそ途方に暮れるしかありません。
 しかし、真剣にペロポネソス戦争から教訓を引き出し(A.トインビーが勧めてくれたように)、なにより核戦争を防ぎ、互いの価値観や人のいのちを尊重する世界を目指して、微力でも傾けていくしかありません。そのためにも、市民社会のエンパワメントが、一層求められているのだと思います。

 (2022年4月14日)

このエントリーをはてなブックマークに追加
Dr.本田のひとりごと(81)
Dr.Honda’s Soliloquy



honda


タイ国HSF(Heatlh SHARE Foundation) からのうれしい便り
A happy update from our sister organization HSF on Covid-19 activity


 2015年にシェアから正式に独立し、タイ国の財団、現地N G OとなったH S Fのチェリー代表が、昨日12月7日、フェースブックにうれしい便りを寄せてくれました。ぜひ今日はそれを皆さんにご紹介したいと思います。
 HSF that formally became an independent, non-profit, grass-roots Thai organization in 2015 actively continues its health promoting activities, against all odds, widely in Ubon Rachathani Province, North-east ( Isan ).


写真1 参加リーダーたにお話しするチェリー代表

写真1. 新型コロナ感染症についての地域リーダーたちに講話をするチェリー代表
Photo1. Ms Cherry lecturing on Covid-19 to community leaders


 以下、HSF代表 チェリーさん自身のメッセージです。
 Ms. Cherry’s latest post on Facebook is as follows;


-----------------------------

 「今日(12月7日)、H S Fはケマラート郡ケマラート病院のトレーニングセンターで、コミュニティのリーダーたちに集まってもらいミーティングを開きました。私たちはどのようにCovid-19に関する正しい知識を住民に持ってもらい、予防に役立てるべきか、を話し合いました。これらのリーダーたちはキャンペーンを立ち上げ、人びとを勇気づけて新型コロナ感染症に対するワクチン接種を促し、たとえ感染しても死者や重症者を生まないために活動していくことになりますが、そのことはまた、コミュニティの中でのよきコミュニケーションづくりのためにも役立つものとなるでしょう」
  “Today HSF does COVID19 prevention meeting for community leaders at Khemarat hospital, Khemarat district. We have discussed how to prevent and provide COVID-19 knowledge correctly. Those leaders will campaign and encourage people to get COVID-19 vaccinations for decreasing serious and deaths cases with positive communication in their own community.”

▶H S FのフェースブックURL

-----------------------------


写真2. 新型コロナウイルスの模型で説明する病院スタッフ

写真2. 新型コロナウイルスについて模型で説明する病院スタッフ
Photo 2. Hospital staff explaining Covid-19 by viral model


 タイ語の部分は不完全な機械訳ですが、HSFにとって、ずっと以前から取り組んできた、HIV/AIDSに関わる予防・啓発、そして偏見・差別をなくす活動が、今回のCovid-19に対する取り組みでも非常に役立っていることがよく分かります。
 Messages written in original Thai is difficult to understand because of machine translation. However, I can easily grasp that HSF’s long-standing rich experience and activities on HIV/AIDS for social justice is very much instrumental in coping with this new challenge that is Covid-19.

 東北タイにおいても、Covid-19に関する正しい知識や行動の仕方を理解できていないまま、人びとが過度な恐怖感を持ち、職場を離れてしまったり、村の中でコロナをめぐって喧嘩をする、ワクチン接種に抵抗する人が出るなど、さまざまな問題がコミュニティで生まれているようなのです。
 As is often the case in other parts of the world, also in Isan many people often harbor excessive sense of horror, leave the workplace from mental exhaustion, quarrel over the trifle matter on Covid and refuse to be vaccinated for no reason and so on.

 エイズ・ウイルスに対するすぐれた治療薬が生まれ、タイでも草の根の人びとにアクセスが可能となった、2000年代前半まで、知識不足から来る、HIV陽性者への偏見や差別が多く見られたのでした。この時の経験を生かし、今回の Covid-19に際してもHSFのスタッフや村の協力者、ボランティアたちは、ユニークで親しみやすい参加型のトレーニングを通じて、問題を一つひとつ解決し、正しい知識や行動の仕方を人びとの間に浸透させて行こうと努力しているのです。
 Until early 2000s when newly developed anti-viral drugs against AIDS became broadly available and accessible to grass-roots populace in Thailand, there were wide-spread bickering and stigmatization against PWHAs in the community due to lack of proper knowledge and communication. HSF has learned a lot from this experience. Facing this new pandemic challenge, HSF people, their friends and health volunteers in the community are doing their very best to assuage and solve the Covid-related painful problems one by one through dialogues and role-playing activities with the villagers.

 改めて私は、H S Fの人たちの、ケマラートでの出色の働き、勇気ある実践に敬意を深くしたことです。
 I once again express my deep respect and solidarity with people in HSF for their courageous and ingenious endeavor in Khemarat.


写真3. ケマラート病院トレーニングセンターチェリーとトム2018

写真3. 完成したケマラート病院トレーニングセンター H S Fチェリーさんとトムさん 2018年
Photo3. Khemarat Hospital Training Center. Ms. Cherry and Mr.Tom in 2018


 なお、2019年にデビッド・ワーナーさんが、タイのH S Fの活動について書いてくださったレポートを紹介しつつ、関連の記事を、この「ひとりごと」で書いております。ご参考にしてください。

▶David Werner: The Power of String ( Letter from Sierra Madre #84 HealthWrights)
▶ひとりごと(74)番外編「紐の力」(The Power of String by David Werner)

(了) 2021年12月8日
このエントリーをはてなブックマークに追加
Dr.本田のひとりごと(80)



「海城発電」と日清戦争期の人道活動の試練
 
        ― 新作劇の発表に寄せて


写真1.テアトロ 21年7月号カバー
(写真1)総合演劇雑誌「テアトロ」 2021 年 7 月号表紙




1.文学好きの言われ少々

 「文学老年」の私が、物語好きになったきっかけは、古い話ですが、都立の小石川高校時代に「国語」を教えてくださった、飯田万寿男先生という方の影響に遡(さかのぼ)るように思います。この先生は国文学に関して古典から現代文学に至るまで、実に該博な見識をお持ちの人で、その授業には 心底惹(ひ)き込まれました。文学を鑑賞する際の視点が新鮮、かつ独創的で、いつも目からウロコが落ちる思いをしました。古典では、高校生にも文章がわかりやすく、この年頃の少年少女の心を占めていた恋愛のことを指南してくれるものとして、伊勢物語を詳し く解説してく れ たように記憶します。ま た近現代の日本の文学では、北陸出身の泉鏡花と中野重治を勧めてくださり 、飯田先生独自の好みがどこにあるかも窺(うかが)い知れました。先生は、耽美的で幻想に満ちた日本の伝統文化を表現する天才であった鏡花を読むことを勧める一方、詩的でありながら社会批判の精神をきちんと前に出した表現者としてふるまっていく代表として、中野重治を読むことも教えてくれました。重治という卓越した詩人の、「お前は歌うな」で始まる有名な「歌」は、黒板に大きく全体を書いて、解説してくださったことを鮮明に覚えて います。

 泉鏡花は、高校の学力レベルでは、擬古文の語彙や難解な漢字表現についていくのがむずかしかったのですが、なんとか辞書や注に頼りつつ、「照葉狂言」とか「高野聖」などにはまっていきました。後年になって、名作「高野聖」をクメール語に訳して、カンボジアの人々に紹介し、今や広く市民に読まれるようになったという、ペン・セタリン先生の熱意とご努力を知り、「上には上がいるものだ」、と感嘆したこともありました。思い出したように、鏡花を読み直すことはその後も時々あったのですが、彼の膨大な作品群の中で、私に理解がなかなか 及ばず、とても気になっていたのが「海城発電」という、 日清戦争終結直後の明治 29 年( 1896 )1月発表 の 不思議な小説でした。



2.異色の「嫌戦小説」としての泉鏡花作「海城発電」

 この「海城発電」は、どちらかと言うと、耽美と幻想の世界が評判だった鏡花の作品としては異色の、反戦というほど正面切ったものではないとしても、「嫌戦小説」といえる性格のものでした。「海城発電」とは、当時の満州、現・中国東北部遼東半島にある海城市からロンドンに向けて発出された、英国人新聞特派員の至急電報という意味で、発電所とは関係ありません。
 「海城発電」は、当時の日本が「文明国家」として欧米列強に認められ、不平等条約改正を急ぐねらいで、日本赤十字社を設立し、明治19年(1886) 赤十字条約(別名ジュネーブ条約)に加盟した後、赤十字看護員を派遣する初体験となった日清戦争の、「暗部」を描いた小説です。内容は、そのほとんどが、赤十字看護員の神崎愛三郎という人を、軍属つまり軍に従って兵站(へいたん)業務に携わる軍夫たちの長・海野(百卒長という職名)が厳しく尋問する場面の描写に終始しています。一体神崎の戦場での行動のなにが問題となったのでしょうか?
 実は、「勝って来るぞと勇ましく」とは無縁の世界が、この戦争には隠されていたということを、作家は伝えようとしているのです。日清戦争終結翌年の正月、総合雑誌「太陽」の創刊号と言う晴れ晴れしい場所に、時あたかも国民がまだ戦勝の高揚から覚め切っていない中で、日本軍属が清国女性に対して犯した重大な人道の罪をあばくという、冷や水をぶっかけるような小説を書くのは、作家としてなかなか勇気のいることだったと思います。事実、この作品はその後長く、鏡花の全集からは「抹殺」されると言う「憂き目」にあっています。

 主人公の日赤看護員・神崎愛三郎という人の出身や背景については、原作ではなにも触れられていません。しかし、私は、愛国主義・好戦主義一色に染まっていた当時、敵も味方もなく、人道医療救援を何より大切な行動基準として、戦場で挺身したこのような人物のモデルは、戊辰戦争で辛酸の限りを嘗(な)め、そこから立ち直ってきた奥州越列藩同盟の子弟がふさわしいと考え、神崎を没落会津藩士の息子としました。ここからは、私の創作です。
 NGOの活動は、シェアの場合も含め、ある意味で、「赤十字の精神」を継承させてもらっているところがあります。つまり、人種や宗教、貧富、社会的ステータスなどの違いで、苦境にある人々、難民などを差別せず、人道の精神で接し、救うように最大限努力するということでしょう。
 私も、ささやかではありますが、エチオピアやルワンダ、東ティモール、神戸などでの緊急支援活動に参加した経験のある者として、神崎の気持ちは痛いほどわかります。それにしても、軍の思想と赤十字の精神との厳しい対立を、ここまで描き込んだ、鏡花の筆の冴えと勇気に敬意を持ちます。


写真2.蹇蹇録 著者肖像写真
(写真2)「蹇蹇録」と陸奥宗光肖像写真 (岩波文庫)
「出典:国立国会図書館デジタルアーカイブ」




3.陸奥宗光と田中正造 — 東学農民戦争をめぐって

 今回この作品を書くにあたり、近代における日本と周辺国との関係などいろいろ歴史の勉強をし、文献を読み込んだのですが、その中でも感動したのは、陸奥宗光という幕末から明治にかけての武士、政治家・外交官の残した文章でした。
 日清戦争の顛末(てんまつ)に関する優れた記録である「蹇蹇録」(けんけんろく)、妻・亮子に当てた書簡集などには特に心を打たれました。もちろん、彼の立場や主張にすべて賛同するわけではないのですが、明治10年(1877)の西南戦争後、土佐立志社の政府転覆計画に加わった廉(かど)で入獄し4年を過ごし、その後、特赦を受けて英独2国への留学を果たし、ヨーロッパ先進国の憲法や政治制度について、宗光は真剣な学びを続けます。この集中した勉強が、後のち、条約改正交渉、朝鮮王朝へのアメとムチの政策、清国との戦争準備・遂行など多方面にわたる、宗光の国家運営責任者としての辣腕を養い、支えていくことになります。しかし、こうした八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍は非常な激務となり、結核を病んでいた彼の体力を奪い、死期を早めた面がありそうです。迫り来る死を予期したからこそ、後世のために「蹇蹇録」を書き残して置かねばならないと、鬼気迫る思いで執筆に励んだ宗光の姿勢には、敬服せざるを得ません。近現代に書かれた政治家の著作として、これほど率直で、臨場感に溢れ、文章の格調の高いものは、他に類がないのではないでしょうか。
 陸奥宗光は、幕末維新の志士であり、坂本龍馬の愛弟子で、長崎の海援隊の中心メンバーでもありました。彼の愛妻・亮子に送った手紙を読むと、細やかな心遣いと愛情の深さに打たれます。これほど高潔で私心のない、優秀な人物は、今の日本の政治家や外交官にいるのか、すこし寂しくなるほどです。

 「蹇蹇録」(けんけんろく)では、政略家、外交交渉家としての辣腕、透視力に感心する一方で、朝鮮半島の国と人びとに対する侮蔑的な態度、大日本帝国が「大陸」にのしていくための、手段として「半島」経営を考えていく、徹底して功利主義的な考え方に驚かざるを得ないところがあります。これはその時代の人間の限界でもあるし、宗光自身が置かれていた立場がしからしめたものでもあったのでしょう。あるいは、獄中で真剣に原書を勉強し、翻訳まで行った、英国の哲学者・経済学者ベンサムの影響もあったかもしれません。
 陸奥は息子の一人を、足尾銅山の所有者・古河市兵衛に養子として与えていますし、足尾の資源調査にもかかわっています。その点では、NHKの大河ドラマで今をときめく渋沢栄一もまた、古河に協力する、陸奥の盟友の一人でした。ですので、古河はもちろん、渋沢にも陸奥にも、その後の銅山開発、採掘、有毒な鉱滓の河川への直接投棄によって、環境が広範に汚染されたり、農民が田畑を失って流亡化するような事態が起きても、反省したり、真剣に対策を取る行動にはつながらなかったように見受けられます。
 西南戦争後、反乱の一派として、獄につながれ4年を東北で過ごした間、古河の継続的な支援を受け、留守を預かる妻・亮子一家の生活に不安がないよう宗光は腐心しています。その面からも、終生彼は古河に恩義を感じていたのでしょう。
 このへんのところが、足尾銅山の公害が起きたときに、陸奥と田中正造の立場を分けることともなったのだと思います。
 もう一つ、宗光と正造の立場・意見をくっきりと対立させるのは、東学農民戦争への評価です。宗光は東学の叛徒を鎮圧、征伐すべき対象としか見ていませんでしたし、日清戦争遂行の邪魔を除くためには東学農民への徹底した「流血の弾圧」も辞さなかったと思います。この点は、侯爵井上馨も同様でした。しかし、東学農民、特に、指導者の一人である全琫準(チョン・ボンジュン)などは、若い日の陸奥や渋沢がそうであったように、西欧などの帝国主義の国々を攘夷し、東学という新しい宗教思想に基づいて、国の独立を守りたいとする志の強い人たちで、その意味では、両者が理解し合えた可能性はあったのかと思います。しかし日本側にそのような態度で臨んだ人は、例外的に田中正造がそうであった程度です。東学党の指導者、全琫準について、正造の日記には次のように記録されています。

 
 「全琫準(ぜん・ほうじゅん)、字(あざな)ハ祿斗(ろくと)。謀略ニ富ムトイヘドモ公明正大ヲ以テ自ラ改革ノ業ニ任ゼント欲ス。然レドモ祿斗ノ志ハ宗教ヲ以テ根本的ノ改革ヲ試ミント欲ス。但シ朝鮮ノ国教ハ儒教ヲ以テ人心ヲ圧政セルヲ以テ、祿斗ガ刷新ノ宗教ヲ忌ミ叛心アリト誣(し)ヒテコレヲ捕ヘントス。部下コレヲ怒リ遂ニ兵ヲ挙ゲザルヲ得ザルニ至ル。祿斗一人兵を挙グレバ一人ハ全党ニ関スルヲ以テ東学党全体兵ヲ挙グルニ至ル。故ニソノ首領ハミナ死ヲ倶(とも)ニシテ日本兵ニ斃(たお)サル。朝鮮百年ノ計ハ精神ヨリ改革セザレバ不可ナリ。軍隊知ラズ、コノ新芽ヲ蹂藉(じゅうせき)ス。惜哉(おしいかな)」(明治二十九年)


写真3.チョンボンジュン 捕縛後の写真(中央)1895
(写真3)全琫準 - 捕縛後の写真(1895)
「出典:ハンギョレ新聞社」



4.戯曲「海城発電 ― 四つの国の物語」(総合演劇雑誌「テアトロ」2021年7月号)

 今回発表した戯曲では、鏡花の原作に基づく、看護員神崎と百卒長海野(うんの)の対決を描く第二幕に続いて、第三幕では、農民戦争の指導者・全琫準と討伐側の指導者・日本陸軍少佐、南小四郎の二人の独白を、交互に語らせると言う手法を、私は取りました。
 鏡花の原作「海城発電」を下敷きに、明治・大正・昭和の三代、日本、朝鮮、清国、ロシアの四ケ国にわたる、より大きな構想の物語として、拙いながら劇の台本を書き上げました。 
 その理由の一つは、今日あまりにも韓国にたいするバッシングやヘイトスピーチ的な言動が日本社会に横行していて、これは難民など外国人一般に対する私たちの社会の冷淡さともつながるものですが、そのへんのナラティブ(話法)を少しでもより共感的、相互理解的なトーンに変えたいな、という思いが切にあったことです。
 私にとってはその意味でのロールモデルは、江戸時代に日韓理解のため朝鮮通信使の実現に献身した雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)、明治以降朝鮮の優れた文化・工芸の紹介に努めた柳宗悦(やなぎ・むねよし)です。

 こう言った発言をする一方で、私は北朝鮮で起きているはなはだしい人権侵害の状況を座視できないと考え、尊敬する小川晴久教授のNGO「No Fence」などを支持する立場であることもはっきりさせておきます。

 最後に、この「ひとりごと」の結びとして、平成天皇が平成13年のお誕生日に、韓国との関係について記者団の質問に答えた次のお言葉を引用させていただきたいと思います。


(宮内庁HPより)
 「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

 しかし,残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。

 ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」


(了 2021年6月17日)

このエントリーをはてなブックマークに追加
Dr.本田のひとりごと(79)

honda



さようなら斉藤さん、

 あなたは温かくて、とにかく面白く、まためっぽう人を面白がらせる人でした。





上野・丸幸ビルの玄関でたまさか会うと、いま読んでいる本のことなど、
 熱っぽく、すこしはにかんで、でもノンシャランに、話してくれました。
 「年会費を払うことも忘れずに」と、いたずらっぽいタメ口で。


最後のメールでは、熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』という本を紹介しつつ、
 今はこれをしっかり勉強している、とおっしゃっていた。
 

斉藤さん、
 お送りした山谷の卵せんべいがうまかったと言ってくれたあなたからの、
 最後のメッセージは、ほとんど私には了解不能なレベルの、
 詰屈な長い引用がしてありました。
 「おっと。これはちゃんと本を読んでから、ご返事しよう」と思っているうちに、
 あなたは先に逝ってしまった。


あなたとは、アフリカのトマト缶やケチャップの工場が、
 いかに世界的なヘゲモニーの戰爭と、つながっているかについて、
 ルモンドの記事をめぐっても、やりとりをしたのでした。


そして、たしか2004年立岩真也さんの『不動の身体、息する機械』が出たとき、
 真っ先に「絶対読みなよ」と勧めてくれたのもあなたでした。
 この本をもう半年早く読めていたら、ある在宅ALS患者への、
 私のかかわり方も変わっていたかもしれないと、あとでホゾを噛んだのでした。


希代の読書家で、思いやり深かったあなたに、
 満腔の感謝を捧げつつ、さようなら。
 いまはどうか、にぎやかに、彼岸で、
 楽しい座談をしながら、天使たちを抱腹させつつ、
 ゆっくりおやすみください。



注1)斉藤龍一郎さんは、元アフリカ日本協議会(AJF)の事務局長で、12月19日肝細胞がんのため逝去されました。シェアと同じ東上野の丸幸ビルに事務所があり、本田とは時々意見を交わす仲でした。
注2)ALSは、筋萎縮性側索硬化症という神経難病の英語略称。


(2020.12.22 ほんだ とおる)

このエントリーをはてなブックマークに追加