Dr.本田のひとりごと(77)

ダニエル・マーフィ医師(1944年9月23日―2020年4月14日)
 彼の御霊が、東ティモールの人びとを温かく見守ってくださることを祈って




                 ダン先生、さようなら

                      ‐ 大きく、温かい心をもつ、卓越した医師



#1.Dan_ David et toru  Dili Nov_ 2011
(写真 #1 : ダンさん、デビッド・ワーナーさん、そして徹。2011年11月ディリ。)


 その男は背が高く、がっちりした体格で、まじめだがやさしい笑みを浮かべていた。それは1999年10月のこと。私がダンと初めて会ったのは、インドネシア軍とその手先だったティモール人民兵たちが、「焦土作戦」を行い、東ティモール(かつてのポルトガル植民地)をめちゃめちゃにして去った直後のことだった。病院・診療所を含めまともな建物・家屋は何一つ残っていなかった。80%が焼け落ちるか、単純に打ち壊された。

 私たち日本人チームはオーストラリアのダーウィンから、多少の薬、医療用具、そしてディリ市内にあるバイロピテ診療所に置く、大きな椅子を持ち込んだ。仮作りの外来診療棟でダン先生は、日曜日を除く朝7時から夕方7時まで、一日平均300人以上の患者さんを診察していた。そのため彼は、大きな体を気持ちよくあずけて、仕事をし続けられる、しっかりとした広めの回転椅子が必要だったのだ。流ちょうなテトゥン語(現地のことば)とポルトガル語を操りながら、ダンさんは一人ひとりの患者さんと家族に、やさしく温かい言葉で話かけ、しかし素早く診察し、判断し、指示や投薬をしていた。

#2 Aftermath of scorched-land operation, Dili Oct. 1999 TL
(写真 #2 : 焦土作戦で焼け落ちた民家, 1999年10月ディリ郊外)


 ダン医師は1944年に米国の中西部農業州アイオワで生まれた。彼の父もまた、地域で尊敬される医師で、ちょうどユージン・スミスの「カントリー・ドクター(田舎医者)」という、名高い写真集に描かれているような人だったと思われる。

  学童期から青年期にかけて、ダンが最も打ち込んだのはバスケットボールで、選手としても活躍した。彼の「Breakaway」(離脱者)と題する自伝にも、そのことは詳しく描かれている。

 1960年代の末から70年代の前半、ダンは心身ともにベトナム戦争に「捕まって」しまった。彼はこの道義を欠いた戦争に激しく抵抗した。ニクソン大統領が北ベトナムに侵攻しようとすると、100万人とも言われる若者を中心とするデモ隊が、ホワイト・ハウスを取り囲んで、阻止しようとした。ダンと彼の親しいガールフレンド(後に彼の妻となる)ジャネットは、二人して捕らえられ、一時留置場に入れられた。

 彼はアメリカの海軍から徴兵され、新米の医官としてベトナムでの任務に就くように命令を受けたが、これを無視し、良心的徴兵忌避者となった。ダンの父は、息子が反戦運動に積極的に加わった上に、徴兵を忌避したことを非常に悲しんだ。父はなぜ息子が、国家からの呼びかけに応えようとしないのかが、理解できなかった。確か、彼の父は日米の間で戦われた太平洋戦争に従軍していたのだった。

 ベトナムでの軍務を拒否し、収監される代わりに、裁判所はダンに、カリフォルニアに住む、ラテンアメリカからの移住労働者、刑を終えて出獄した元犯罪者、麻薬常習者、ホームレスの人たちなどへの医師として、社会奉仕することを命じた。こうしてダンは、さまざまな社会的背景を抱え、文化や人種が異なった、貧しい住民に対す医療に関心を持つ、きっかけを与えられることとなった。彼は結果として、スペイン語やポルトガル語をすみやかに習得していった。

 1980年になって、ダンは妻のジャネットと二人の幼い息子を連れて、アフリカのモザンビークに渡り3年間働いた。彼は臨床の仕事も精力的に行ったが、同時に看護教育にも熱心に従事したという。だが、残念なことに、当時アパルトヘイト政権下の南アフリカの軍隊の侵略を受け、またそれに呼応した国内の反乱軍によって、モザンビーク国内は内戦状態となった。小さな子どもたちを抱えたダン一家は、国外退避を余儀なくされる。

 米国に帰国後、ダン一家はアイオワに住む父を頼って合流し、しばらくの間、父の「田舎医者」としての仕事を手伝った。父との協働を通して、ダンは改めて医師としての父に尊敬の念を深め、ベトナム戦争以来疎遠になっていた二人は和解する。ダンは父が、診療圏の地域の、ほとんどすべての農家の、三世代にわたる家族の名前や性格、地域での生活ぶりなどをきちんと把握し、彼らと親しく付き合っていることを知った。ダンは父がどんなに地域の人たちに尊敬され、愛されているかを、思い知らされることになったのだ。

 ダンは以前私に、1974年ポルトガルが民主革命で旧植民地を手放すこととなり、その翌年にはインドネシアが軍事侵攻して、無理矢理東ティモールを併合して以来、彼はこの国に強い関心と同情を寄せてきた、と語っていた。結局1998年になってダンは、米国、オーストラリアのカトリック教会や市民団体の支援を受けて、東ティモールにやってくる。到着するやいなや、彼はディリ市内のモタエル教会の敷地内に付属していた、血と喧騒の修羅場とも言うべき診療所で働くことになった。どうしてかというと、彼が東ティモールに到着するまでに、日一日と首都の社会的・政治的な状況は張り詰め、悪化していたからだ。インドネシアからの独立を求める多くの人々が、鉈や銃によるひどい傷を受け、市内や遠方の農村地帯からクリニックに運ばれてきた。モタエル診療所は、島内でほとんど唯一、住民のために外科的な救急処置もできる医療機関だったのだ。当然インドネシア軍は、ダンや彼の医療チームが負傷者のためにやっていることを喜ばなかった。モタエル教会は長年に渡って、侵略者に対する非武装的な抵抗のシンボルのような場所だった。従って、クリニックで行われる医療活動は当然内外の注目を集める。海外からの特派員やジャーナリストたちも、数多く引き寄せられ、そこに運ばれてきた非人道的な暴力の犠牲者の様子を伝えた。1999年8月、国連の管理下での、独立を問う住民投票が行われた時期に、ダンはビザが切れたことを理由に東ティモールから放逐された。その後、オーストラリアを中心とする多国籍軍が乗り込むと、ダンも待ちかねたように東ティモールに戻り、今度はバイロピテに診療所を開いた。

 1999年の私の訪問のとき、忘れられないエピソードとなったことが一つある。彼が私を連れて、バイロピテから退院したが、なお回復過程にある患者を保養する、賄い付きの寄宿舎に案内してくれた時のことだ、そこには一人の10代の娘さんが暮らしていて、彼女は瀕死の粟粒結核から、ダンによって救われたのだった。ダン先生は彼女を優しい眼差しで見つめ、少女もまた、はにかみながら、ダンと一緒にいることをどんなに幸福に感じているかが、よくうかがえた。

#3 Dr_ Dan and a girl cured from miliary TB 1999
(写真 #3 : 粟粒結核から救われた少女とダン医師。1999年ディリ市内。)


 ある年の秋に私がバイロピテを訪ねると、ダンさんはすぐに私を診察室に招き入れ、一冊の分厚い医学書を書架から引き出すと、栞(しおり)の挟んであるページを私に示し、この男を知っているかと問う。それは、森鴎外の立派な肖像写真であった。鴎外を紹介しているのは、権威ある結核の専門書である、Lippincott社の「Tuberculosis」(多分、2004年版)。写真のあるページを含め、森鴎外のライフ・ヒストリーが詳しく紹介され、彼が書いた「假面」という劇作品のことにも触れてある。鴎外が近代日本の生んだ最も偉大な文学者の一人であるとともに、官職としても陸軍軍医総監まで登りつめた人であることにも言及されている。
 問題は、彼が若き日にドイツに官費留学し、結核菌を発見した偉大な細菌学者・ロベルト・コッホ博士を、1887年北里柴三郎ともにベルリンに訪ね、入門を許され、この大学者の下で1年間ほど結核菌のことも学んでいることである。皮肉なのは、彼が帰国してすぐ、自身結核を発症したらしいことだ。しかも、彼はたぶん日本で最初に抗酸菌染色の方法を習得した人であり、顕微鏡下で自身の喀痰検体の結核菌を確認したようなのだ。
 私が「假面」を図書館の鷗外全集で読んだのはだいぶ以前のことなので、忘れていることも多いが、劇に出てくる医師はみずからの身を蝕む菌に慄然としながら、そのことをずっと、家族にも、親しい友人にも隠し通していく。そして、医院を訪れたある青年の患者が結核であることを診断され、自殺まで思い詰めたとき、「実は自分も若き日にそうした体験をしたが、ひたすら隠忍自重して、『假面』をかぶって生きてきたのだ。君も諦めず生き続けよ」という意味の励ましを医師は青年に与え、帰らせる。
 明治のこの時代、結核は不治の病であり、しかも社会的なスティグマの非常に強い病気だった。実は鷗外は最初の妻を何らかの理由で離縁し、その後この離別された妻は結核のため死んだとされている。つまり、鷗外から結核を移された可能性も否定できないのだ。こうしたこと全体が、結核学の教科書にとって大きな教訓であり、鷗外という当時最高の知識人、すぐれた医学者すら、亡くなるまで感染の事実を隠し通さざるを得なかった明治の社会を、現代の光に照らして振り返ようと、この章の著者は読者に呼びかけているのだ。
 鷗外の死因はかつて萎縮腎とされていたが、最近は腎結核による慢性腎不全と肺結核ということに定まったようだ。

 ダン先生は、つねづね、彼にとって東ティモールで一番大事な仕事は、この、世界でも指折りの結核の蔓延国の人びとの結核を、できるだけ多く、早く発見し、家族も含め治療に結び付け、地域社会全体に啓発と教育を行うことなのだと言っていた。

#4 Dan at ease reading Japanese Zen book after a busy consultation 2007
(写真 #4 : 多忙な診療の後、くつろいで日本の禅の本に読み入るダン医師)


 2006年4月に、東ティモールは再び危機に瀕した。今回インドネシアは直接には関係なく、国内の異なった軍や警察のグループが互いに対立し、銃を向け合うこととなった。多くの兵士と警官と市民が命を落とした。背景には異なる地域間、出身部族間の利害の衝突があったと言われるが、解明されていないこともあるようだ。数万から十万以上という人びとが、数か月にわたって国内避難民となり、ディリでは、コモロ国際空港に向かう道路の周辺や、市の郊外のメティナロなどに避難民のキャンプがいくつもできた。シェアも、バイロピテ診療所と協力する形で、ささやかな医療支援活動をキャンプでさせていただいた。この時も、ダンさんの救援活動における的確な状況判断やリーダーシップに感心した。

 4歳くらいの男児が、そんな混乱を極める時期のある日、バイロピテの救急外来に運ばれてきた。対立する武装グループ間の銃撃戦に挟まれ、それを逃れるため家族ごと家を捨て、ディリ近郊のダレの山の中を1か月近くもさまよっていたという。子どもがクリニックに到着したとき、彼はショック状態で、熱も40℃以上あった。血液の検査で、すぐに彼が、熱帯熱マラリアと三日熱マラリアに重複感染していることが判明した。
 こういうときのダンの判断と処置は迅速だ。医師はすぐにリンゲル液の点滴を開始し、Artemetherの注射も投与した。2日するとこの子は解熱し意識がもどり、少しずつ食事や飲水もできるようになった。あと1−2日遅れていたら、また当時ダンだけが入手していたArtemetherの注射液がなければ、この子を救うことはできなかったことだろう。

#5   In 2007 Dili a boy with two malaria
(写真 5 : 二つのマラリア感染で重体に陥った4歳の男児。バイロピテ2006年6月。)


 2011年11月、私たちSHAREはデビッド・ワーナーさんを、2009年日本に招聘したのに続いて、東ティモールに招いた。私にとって、デビッドはダンと並ぶ、プライマリ・ヘルス・ケアの師匠(メンター)と言える。デビッドには、アイレウとディリの2か所で、ワークショップ、講演、そしてプロジェクト地の視察、助言を2週間近くかけて行っていただいた。保健教育教材の開発や使い方、住民へのアプローチの仕方を含め、それは東ティモールの人たちにとっても、現地のシェアのスタッフにとっても、たいへんに実りの多い、学びの機会となった。

 ディリのワークショップと講演会では、ダンが2回にわたり親切に通訳の労をとってくださった。ある意味で、私にとっては長年の夢がかなった瞬間だった。ダンは診察室にもデビッドの「医者のいないところで」(Where There Is No Doctor)を置き参照していたし、モザンビークでも東ティモールでも、草の根のヘルス・ワーカーたちにこの本を勧めていた。ベトナム戦争時代のつらい体験を知っているという意味でも、二人は多くの価値観を共有していたのである。

#6 David at Dili work shop 2011
(写真6 : ディリのワークショップでのデビッド・ワーナー。ひょうたんベビーを使った、下痢と脱水症の仕組みの説明。)


 彼の人生の最後の数年間、ダンはバイロピテ診療所を継続させるために大きな労苦を払うこととなった。これまで彼を財政的に支えてきたオーストラリア人のグループが、方針の違いのためか、運営から脱退し、ダンは財政的援助を絶たれたのだと聞く。なんとか政府からの支援が入り、入院病棟を基本的にやめ、そしてスタッフの献身的な努力により、なんとか続けられてきたが、ダンにとって、臨床の仕事だけでも大変だったの、それに加えてのこの負担は容易でなかったと推察される。この心労が彼の死期を、あるいは早めたのかもしれない。しかし、ダンは最後の息を引き取るまで、前向きで、なにくそという気持ちを失わなかったのではないかと信じたい。

 私としては、バイロピテの人びとが結束して、ダン先生の衣鉢を継ぎ、引き続き島のもっとも貧しい人たちのために、医療を提供してくれることを祈りたい。

 バイロピテ診療所の以下のWebsitesをよろしければ訪ねてください。そして、支援を寄せていただければ、職員たちも、ダン先生の霊も喜ぶことでしょう。

■ http://bairopitecliniclanud.com/?fbclid=IwAR1kLwlY30mZj7-z4BKgGGdjX9zHNFb-iqGD-biz7bbn1Rpn2t60AVYnLeA

■ https://www.facebook.com/pages/category/Health---Wellness-Website/Bairo-Pite-Clinic-Lanud-1864674177164833/

#7 Dr. Dan’s funeral in Biro Pite Clinic
(写真7 :バイロピテ診療所でのダン先生のお別れ会)


 一人ひとり、彼の弟子だったと思う者は(私自身もそうだが)、彼の医療者としての職業倫理から学び続け、彼の掲げた高い理想の松明を、より若い世代の人びとに引き渡していくことが、どこにいようと、私たちが、ダンから委ねられた務めなのだとしきりに思う。

あなたが教えてくれた愛と団結を忘れずに。さようならダン先生。

本田徹 (SHARE) 2020年5月21日



honda
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Dr. Daniel Murphy (23/9/1944- 14/4/2020)
 May his spirit rest in peace in Timor-Leste.



Farewell to Dr. Dan
- Great physician with a big, warm heart



by Toru Honda (SHARE)


#1.Dan_ David et toru  Dili Nov_ 2011
(Photo #1 : Dan, David Werner and toru in Dili, Nov. 2011)


The man was tall, stout, earnest and smiling. It was October 1999 that I met him for the first time, just after Indonesian military and its subordinate Timorese militias had bolted Timor-Leste (former Portuguese colony) leaving the shambles of their ruthless scorched-land operation. No buildings or houses, including health facilities remained intact. Eighty percent of them were either burnt down or simply destroyed.

We Japanese team brought in from Darwin, Australia, some medicines, medical utensils and a large chair for consultation room of Bairo Pite Clinic, in Dili City. In a makeshift OPD (out-patient department) building, Dr. Dan consulted 300 hundred plus patients on average per day from 7 am to 7 pm, every day except Sunday. So he needed a solid, comfortable chair to sit and work. With fluent Tetun and Portuguese, he kindly and warmly talked with and treated each and every patient.

#2 Aftermath of scorched-land operation, Dili Oct. 1999 TL
(Photo #2 : Aftermath of scorched-land operation, Dili Oct. 1999)


Dan was born in 1944 in Iowa, USA. His father was also a respected country doctor like the ‘Country Doctor’ depicted in Eugene Smith’s masterpiece photographs under the same title.

All through his days of youth, he was literally a basketball boy and devoted his whole energy and passion into this sport. It is vividly chronicled in his autobiography entitled ‘Breakaway’.

From late 1960s up to early 70s, Dan was kind of trapped in Vietnam War and he fiercely fought against this unjust war. President Nixon intended to invade North Vietnam and almost 1 million demonstrators surrounded the White House to stop him. Dan and his close girl-friend Janet (later she became his wife) were both arrested and temporarily put in jail.

Although he was drafted by the US Navy to go to Vietnam as a novice medical officer, he disregarded this order and became a conscientious objector.
His father was deeply sorrowed by the fact that his son was against the War. He couldn’t understand why his son had objected to the call of the nation. I hear Dan’s father was engaged in the Pacific War with Japan.


Instead of going to prison for his aversion to military service in Vietnam, he was ordered by the local court to serve as a volunteer doctor for underprivileged populations in California, like immigrants from Latin America, discharged criminals, drug addicts and homeless persons. That’s how Dan got interested in health care for poor people with different ethnic and cultural backgrounds and he learned Spanish and Portuguese quickly.

In 1980 Dan and his wife and their two sons went to Mozambique, a former Portuguese colony and served there for 3 years. He was not only devoted in clinical work but also very enthusiastic in nursing education. But alas! He and his family were inevitably entangled in the military invasion of Apartheid Government of South Africa and its local proxy. The family was forced to evacuate from the country.

After getting back to US, he reunited with his father in Iowa and stayed there for some time to help him work as the country doctor. This reunion with his dad, deepened Dan’s respect for him and two persons were eventually reconciled. Dan was amazed to see his father remember all the names of three generation families and their major life events in the community and affectionately mingle with them. Dan was proud to know how much his dad was loved and respected by fellow farmers in the area.

Dan said that he had paid serious attention to Timor-Lest since 1974 when Portugal finally gave up its colonial grip on the Island and Indonesia militarily invaded and annexed it in 1975. Finally in 1998, he was dispatched by civic and Catholic groups in Australia and US to Timor-Leste. On his arrival, he immediately started working in a bloody, hectic clinic attached to Motael Church in Dili. How so? Because social and political situation in the capital had already been quite tense and worsened each passing day. Many people were brought in the clinic with severe injuries by machetes and bullets. Motael clinic was practically the only place in the island that could provide emergency medical services for the population. Obviously, the Indonesian military was not happy with what Dan and his team were doing for the victims. The church had long been the symbol of the non-violent resistance against the invaders and the medical activities there naturally drew in many foreign journalists. In August 1999, during the period of UN-supervised popular referendum, he was forcibly kicked out of the country on the pretext of visa expiration.

One memorable episode in 1999 was when he took me to a boarding care home in Dili where a girl in her teens was staying for convalescence from serious miliary TB (Tuberculosis). She was pulled back from the brink of death by Dan. The doctor affectionately smiled at the girl and I could easily understand how happy she was to be with him.

#3 Dr_ Dan and a girl cured from miliary TB 1999


In autumn one year, when I visited Bairo Pite, the doctor immediately invited me to his room, picked up a thick medical book from the shelf and showed me one page. It was Lippincott’s textbook of Tuberculosis and the page he pointed to, was the photo and the life history of Mori Ogai, one of the greatest literary figures in modern Japan.
Mori was not only the eminent novelist and poet but also Japanese Imperial Army’s surgeon general. In 1887 as a Government-sponsored student overseas, Mori visited Dr. Heinrich Hermann Robert Koch, the great microbiologist and discoverer of TB bacteria, with Dr. Kitazato Shibasaburo in Berlin. He studied for one year under Dr. Koch about Tuberculosis and microscopic examination of TB bacilli by acid-fast stain.
Historical irony goes that after returning to Japan in 1888, Mori seemed to have developed TB himself. This important life event for Mori is depicted in his autobiographic drama, entitled ‘The Mask’. Tragic fact was that the doctor in the drama had to conceal that he was infected by TB even to his family or close friends till the end of his life. In real life, Mori lost his first wife by TB, presumably he transmitted the disease to her.

He died at the age of 60 from renal failure due to kidney TB. I think Lippincott editor wanted to show by Mori’s case how long and how strong TB has been associated with stigma. Even the best scientist and medical officer at the time like Mori had no other way but hold back the fact that he was a TB patient.

Dr. Dan always said that the single most important job for him as a doctor was to diagnose as many TB patients on the island, give them and their families proper treatment and educate the whole community.

#4 Dan at ease reading Japanese Zen book after a busy consultation 2007
(Photo #4 : Dan at ease reading Japanese Zen book after a busy consultation)

In 2006, the country was again thrown into the crisis, this time by different military groups antagonizing with each other. Many soldiers, police officers and civilians lost their lives. There seemed to be communal conflicts of interest in the background. Tens of thousands of people were forced to evacuate and swarmed around the routes to the Comoro International Airport and Metinaro Subdistrict. We SHARE alongside Bairo Pite Clinic extended a modest support for displaced persons in the refugee camps. Again, I witnessed miraculous power and leadership of Dan in conducting the medical relief activity.

A boy at the age of 4 was rushed to Bairo Pite on one such tumultuous day. Fleeing from crossfires, the boy spent almost one month with his family outdoors in the hilly area of Dare. When he finally arrived in the Clinic, he was in a shock state and lost his consciousness. His temperature was over 40℃. Blood smear proved that he was doubly infected by both Plasmodium Falciparum and Plasmodium Vivax.
Dan was quick to save the boy’s life. He started IV Ringer’s solution and Artemether injection. Two days later the boy got awake again and started talking and eating.

#5   In 2007 Dili a boy with two malaria
(Photo 5 : a boy in serious condition from double Malaria infection 2006)


In November 2011, we invited David Werner, another mentor on Primary Health Care for me to Timor-Leste to ask him to facilitate workshops, lecture sessions and on-site visits in Dili and Aileu District. It was the superb workshops for both Timorese people and SHRE staff and we learned a lot from him. In Dili Dr. Dan kindly chaired and translated two sessions by David. Dan always referred to David’s ‘Where There Is No Doctor’ and recommended the book to grass-roots health workers in Mozambique as well as in Timor-Leste.

#6 David at Dili work shop 2011
(Photo 6 : David in one of the workshops in Timor-Leste 2011 ‘Gourd-boy doll’ to explain diarrhea and dehydration)


Toward the abrupt end of his life, for a few years, he suffered a lot from financial difficulty keeping Bairo Pite afloat. I don’t know the exact reason(s) why his Australian supporters severed assistance to the Clinic. It was so sad that such a great and heroic doctor like him had to shoulder extra burden of raising fund to keep the clinic up and running aside from his busy clinical work. But I am convinced that he kept his courage and upbeat spirit until his last breath on earth.

Hope Bairo Pite continues to uphold Dr. Dan’s legacy and serve the poor people in the Island.

Please visit the following websites of Bairo Pite and encourage the health workers who wholeheartedly try to follow the path of Dan.

■ http://bairopitecliniclanud.com/?fbclid=IwAR1kLwlY30mZj7-z4BKgGGdjX9zHNFb-iqGD-biz7bbn1Rpn2t60AVYnLeA

■ https://www.facebook.com/pages/category/Health---Wellness-Website/Bairo-Pite-Clinic-Lanud-1864674177164833/

#7 Dr. Dan’s funeral in Biro Pite Clinic
(Photo7 : Dr. Dan’s funeral in Biro Pite Clinic)


Personally, I wanted to talk with Dan about what was really behind the current coronavirus pandemic. He used to have a very keen awareness on global warming, ecological breakdown and unfair distribution of wealth and information in the world.

Individually we who had an honor to be his disciples, will have to learn from his work ethics and pursue the way to pass his torch to young people wherever we reside and work.

With Love and Solidarity, Sayonara Dear Dr. Dan.

(May 17, 2020)



honda
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Dr.本田のひとりごと(76)

honda


デフォー「疫病流行記」、カミュ「ペスト」、ボッカッチョ「デカメロン」、鴨長明「方丈記」などフィクション、ノンフィクションを問わず、古来、疫病に対する人類のたたかいというか、原因のはっきりしない病魔への取り組みとその記録には、いつも、恐怖と勇気のないまぜになったところがありました。

 今回の新型コロナウイルス(COVID-19 )感染の不気味なのは、中国や日本で、多くの健康な医療関係者らが、それなりに防御策を施して患者に接していたにもかかわらず、自ら移されてしまったことです。一般的にこれまでのコロナウイルス感染の場合は、SARSもMERSも、濃厚な接触感染、飛沫感染、人獣共通感染の特徴を有しており、かつ、発病者の隔離、コンタクト・トレーシング(接触者追跡調査)を徹底して行えば、それ以上の波及を防げました。

 しかし今回のCOVID-19については、タクシーや屋形船のような閉ざされた空間の中で共通の空気を吸っていただけで、感染が起きているような事例が繰り返し見られています。その意味で、結核、麻疹、水痘のような空気感染(飛沫核感染)が起こり得ると想定し、徹底した手洗いはもちろんのこと、N95マスクやゴーグル、使い捨ての手袋、防御衣を着ていなければ、医療者も業務での感染を完全には防ぎ得ない、ということになります。おそらく、この新しい病原体が、奥深い洞窟や森林のコウモリの体内から、人類社会の中に入ってくる過程で、かなりの遺伝子変異を起こし、飛沫核感染を起こしえる微生物に変容した可能性が考えられます。非常にハードルの高い挑戦を、生物学や医学が突きつけられたということになります。

 医者や看護師が、病原体の運び屋になってしまうのは、以前から批判されてきたことで、 MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)の院内感染などはその典型例ですが、今回の「大疫病」は、下手をすると病院の診療停止、閉鎖など、医療崩壊につながりかねないリスクを、社会全体として抱えこんだことになります。改めて、私たち医療者が真剣に向き合わなければならない課題の大きさと、不断の感染予防の心がけ、科学的な実践の大切さを教えられました。もちろん、患者さんや一般市民の健康と人権を守るということが、まず大原則としてあった上で、そのためにこそ、自らの身を守らねば、人の命も守れないということが来るのでしょう。


(2020.02.18 文責 本田 徹)

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Dr.本田のひとりごと(75)

写真1TLC(浮世のクリニック)看板
【写真1】TLC(The Lake Clinic – Cambodia)のロゴ


1.Floating World に住む人たちのためのFloating Clinics

 今年2019年6月、カンボジアに数年ぶりで訪問したのは、プレア・ビヒア州でのシェアの母子保健活動を視察し、スタッフや現地の公的機関の保健関係者と話し合うことが主たる目的でした。と、同時に、ぜひ訪れたいと思っていた場所がありました。
それが、’TLC (The Lake Clinic)- Cambodia’ です。   
今日の「ひとりごと」はどちらかと言うと、TLCのお話が中心となります。

 現・シェアカンボジア代表のモーガン・三恵子さんのお連れ合いで、元アンコール小児病院の看護師長だった、 ジョン・モーガン(Jon Morgan)さんと彼の仲間が2007年に開設した TLC - Cambodiaは、世界でも有数の淡水湖トンレサップ湖とその流域の川で暮らす、定住性を持たない、または、定住性に乏しい水上生活者や僻遠の地域の人びとに対する、アウトリーチ的な医療・保健活動を行う、移動クリニック(movable clinic)なのです。

 トンレサップ湖は、アジアの6カ国をめぐる大河メコンとつながっていて、雨期(5−10月)にはメコンの水位が上昇して、トンレサップ湖に向けて注ぎ込み、流域面積  は最大16,000平方キロメートル、深さ10mにも達します。反対に、乾期にはトンレサップからメコンへと流れの向きが変わり、面積は2,700平方キロメートル、深さも0.5mへといちじるしく減少すると言います。こうした自然条件の中で、流域に暮らす百万人ともいう人たちは、主として小規模の漁業や交易に頼った生活を営んでおり、ベトナムなどからの移住民や少数民族の人たちも含みます。近年の地球温暖化やカンボジアでの大規模な森林伐採、そしてメコン河流域で次々と行われているダム建設、架橋工事などが、生態系や湖と河のダイナミックな関係にどのような影響を与えるのか、非常に心配されるところです。

 トンレサップ湖とその周縁に住む人びとは、’subsistence economy’ (ギリギリの自給自足生活)を強いられており、保健や医療のサービスにもなかなかアクセスできないという困難に直面してきました。ジョンさんは、シエムリエップの病院で働く間に、こうした人びとが、救急患者としてアンコール小児病院に運ばれてくると、たびたび助けてあげたりして、 この水上生活の人たちの生活を気遣い、いつか彼らの健康のために働きたいと志すようになりました。 TLCのホームページに掲げられているその、ミッションは、「(医療の)サービスを受けられないでいる人たちに仕える」と明快に謳っています。
“Our Mission: Serve the Underserved”
>>> https://www.lakeclinic.org

 まさにUHCのスピリットそのものですね。


写真2The Lake Clinic of Cambodia   map
【写真2】TLCのクリニック所在地とトンレサップ湖周辺地図



2.Floating Clinicを見学する

 6月27日(木)朝早く、シエムリエップ在住のジョンさん、三恵子さんご夫妻と合流、シェアカンボジア事務所のインターン溝口紗季子さんと私の4人で、TLCの運営する5つのクリニックの一つに陸路で向かいました。添付の地図をご覧いただけると分かるように、このクリニック(Kscarshiros Clinic)は、Strung Sen River沿いの農村地帯を遡って上流へ1時間ほど車でいったところにあります。途中、道に迷ったりしましたが、農家の人たちが親切に正しい方角を教えてくれました。

 川のほとりには一隻の船がもやってあり、船全体が一つのコンパクトで機能性の高いクリニックとなっていました。私たちは案内されて乗船すると、すぐに診療活動の見学に入りました。


写真3浮世のクリニックの船
【写真3】浮世のクリニック(Floating clinic)とStrung Sen川


 TLCの本部はシエムリエップにあり、通常医師1〜2名、看護師、助産師、ロジスティクス(物流・後方支援)担当、歯科医師 (いつもではない)、料理人など6名くらいの編成で、常に2チームがローテーションを組んでいます。彼らは、週2泊3日の行程で、5つのクリニックを、湖の水位によって大小3種類の船ないしボートを使い分けて、巡回していると言います。いまやジョンさんは完全に管理とファンドレージング側に回り、自分では診察はしていないとのこと。この日働いていた医師は、スリランカ系イギリス人の医師と、クメール人の女性医師でした。二人とも優秀で、患者さんの訴えにも温かくていねいに耳を傾けていました。

 看護師、助産師らが電子カルテに問診内容を記録し、 検査所見、治療内容、方針などを書き込んでいた。医療のレベル自体も、日本の一般の病院・診療所 にほとんど遜色ありません。しかも、こうした、質の良い医療が、完全に無料で提供され続けているのは、本当に驚きでした。


写真4子供の診察
【写真4】 医療スタッフと小児患者の診察風景


 東京山谷の、たぶん日本でただひとつの常設の完全無料診療所山友クリニックも、無料という点、また日替わりの医師や看護師たちがやさしく丁寧に接しているという点では、このTLCに負けない自信がありますが、医療機具や薬剤の種類、検査手段などでは完全に負けていると認めざるをえません。それもそのはずで、東京の下町にある無料診療所は、あくまでゲートキーパー役に徹し、難しい病気の治療などは、ネットワークや福祉事務所などを経由して、きちんとした医療機関に紹介すれば役目は果たせます。しかし、湖上のクリニックでは、ある程度自己完結的な医療を提供することを、求められるのも無理ありません。

 TLCではまた、避妊薬なども、正しい使用法の指導や、適切なBirth Spacing(産間調節)教育を行った上で、処方していました。アウトリーチ的な家庭訪問、とくに移動のむずかしい妊産婦、授乳中の母親と乳児などへの訪問サービスにも心がけていました。


写真5 避妊薬と処方記録帳
【写真5】避妊のための薬剤(ピル)と処方記録帳


  このクリニックの面目躍如なのは、徹底的にEcologicalな診療活動を貫いていることです。ゴミは出さない、人間の排泄物も直接川には出さず、衛生的な処理をします。
 また三恵子さん自身も開発に関わったという、ポリ塩化ビニール(PVC)を活用した湖や川の水の浄化装置。美味しいとは言えないが、安全な飲料水として使えると言います。
 水上生活者は、新鮮な野菜などを入手しづらい環境にあり、TLCでは、パネルに野菜の種を撒いて船上で栽培する、Floating vegetable gardenなどの面白い試みを成功させ、これを住民にも広めようとしていました。


浄水器2
【写真6】PVCを利用した簡易浄水製造器


 リフェラル(患者の紹介、転送) の必要となった、重いケースは、ジョンの古巣のアンコール小児病院などに送ることもあるそうです。年間に1万人超の患者さんにこうした、基本的で必須の医療・保健サービスを提供するTLCの活動は、ある意味で、現代の奇跡というべきなのかもしれません。
 さきほども書いたように、ジョンさん自身はいまや、マネジメント側に回り、ご本人が苦手というお金集めに奔走し、会議や現場訪問で活動の現状をしっかり把握し、スタッフにさまざまな助言をしています。主として欧米やカナダの団体が資金面で支えていますが、なかなか運営はたいへんなようでした。 ジョンさん自身も、健康上の問題もあり、そろそろ若い世代に事業を引き継いで、いずれはよりフリーな立場からTLCを見守っていきたいようです。


写真7モーガン夫妻 コンポントム2019年6月
【写真7】コンポントムのモーガン夫妻:くつろぎの時にも熱意があふれるジョンさん


3.結びとモーガン夫妻への感謝

 カズオ・イシグロに「浮世の芸術家」(An artist of the floating world)という比較的平易な英語で書かれた小説があります。太平洋戦争前後の長崎を舞台にした、ある画家一家の物語ですが、常に動いてやまない「浮世」(the floating world)の中で、人間の心に生きる不動のものを求める気持ちが静かに表現されています。
 UHCはある意味で、定めない社会や人生の中で、人が病気になったときは、その人や家族の経済状態、民族、宗教、法的な地位に関係なく、破産を心配せずに質のよい医療にだけはかかれるようにしようという、一種の社会契約、流されそうになった船の<もやい>とも言えます。
 トンレサップに浮かぶクリニックを通して、浮世の民にしっかりとした医療を届けたいという、TLCの人たちの志の高さと発想のしなやかさに、私は深い敬意を覚えます。
 90年代はじめから同志として、カンボジアの人びとの健康のために現地に住み着いて働き続けるモーガン夫妻に、心からの感謝とエールを送って、この回の「ひとりごと」を終わります。
 なお、皆さまのシェアへのいつに変わらぬ応援に感謝しつつ、今回は、TLCへのご支援もお願いいたします。(◜‧̮◝ )

>>> https://www.globalgiving.org/projects/floating-healthcare-in-cambodia/



(2019.11.17 翻訳・文責 本田 徹)



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The Power of String 表紙写真



Dr.本田のひとりごと(74)番外編


 デビッド・ワーナーさんが主宰するNGO・Healthwrightsのニュースレター最新号で特集された、タイのHSF(Health and Share Foundation)によるバディ・ホーム・ケア(Buddy Home Care)に関する最新報告の翻訳です。一部、デビッドの記憶違い(写真1.の取られた場所が佐久の松原湖でなく、名古屋になっていたり、私のことを過大に評価してくださっているところは、少し訂正したり、言葉を補っています。ご了承ください。

 それにしても、「紐の力」(The Power of String)という、チェリーさんたちHSFチームの独創的な参加型ミニ・ドラマが、アメリカや日本のような、子どもの自殺やいじめ、虐待の問題に悩む国にとっても普遍性をもち、ほんとうのケアリング・コミュニティとは何かを、考えさせるよい糧となっていることを、皆さんにもぜひ味わっていただきたいと思います。)


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シエラ・マドレからの手紙(Letter from the Sierra Madre) #84 2019年3月

NGO・Healthwrights

▼homepage:http://www.healthwrights.org

もっとも疎外されている人たちといっしょに生きること

(インクルージョンとは)


「紐(ひも)の力」

バディ・ホーム・ケアの新しい動き ウボン県タイ国
報告者:デビッド・ワーナー


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 私(デビッド)が行なった、2017年5月のタイへの訪問については、私たちのニュースレター「シエラ・マドレからの手紙 81号で書きました。

Newsletter #81 HEALTH SERVICES IN A LAND OF CONTRADICTIONS: Innovations in Thailand to meet health needs of the most vulnerable.

>>>ニュースレター「シエラ・マドレからの手紙 81号<<<

 その時、私デビッドが、最も革新的・独創的な保健活動として紹介したのが、いわゆる「バディ・ホーム・ケア(Buddy Home Care)でした。これは、HSF(Health Share Foundation)という現地の草の根組織が始めた活動です。今号のニュースレター#84ではこの、有望な試みの最新情報を皆さんにお伝えします。

 ニュースレター81号で書きましたように、ウボン県の現地財団HSFによる活動は、もともとは日本のNGOシェアによって始められたものでした。いまやHSFはシェアからは完全に独立し、志あるタイ人たちの共同の事業として運営されています。

 HSFは、親団体だったシェア同様に、堅実な平等主義の精神に基づき、「もっとも不利な人たちを先にしてあげよう」との哲学で活動しています。HSFとシェアの関係は、依然として親密なものです。

 NGOシェアは、本田徹医師たちによって設立されました。彼は包括的なプライマリ・ヘルス・ケアの一人のパイオニアで、アジアやアフリカのいくつかの国々で地域保健活動を続けてきました。

 トオルと私は、さまざまな保健、人権、虐げられた人たちの擁護などの面で、同じ考え方を共有しています。過去20年にわたり、シェアは私を東ティモール、タイ、日本などで開催された、さまざまなワークショップ、セミナー、助言活動などに、招いてくれました。過去に、シェアも参加した翻訳グループが、私とデビッド・サンダースによる「いのち・開発・NGO」(新評論刊・原題 Questioning the Solution, the Politics of Primary Health Care and Child Survival)を日本語で出版しています。そして、今年(2018)シェアは、今やほぼ100ヶ国語に訳されている私の農村ヘルス・ケア手引書 であるWhere There Is No Doctor(邦題 医者のいないところで)の新しい版を翻訳・上梓してくれました。

写真1.デビッドと徹 佐久にて2009年

【写真1】人びとを中心に置くプライマリ・ヘルス・ケアの活動者・本田徹医師が長野県の佐久・松原湖で私と一緒に並んで立つ(2009年)。彼の手に掲げるのは、同年に翻訳・出版された「医者のいないところで」。

 東北タイ(イサーン地方)における地域保健活動は、1990年にシェアの工藤芙美子らによって、包括的なPHCとして開始されました。このプログラムでは、下痢などの、主として貧困から生じる普通の病気の予防と治療に、焦点が当てられました。しかし、3年ほどすると、村人たちの要請もあり、当時もっとも恐れられていた保健問題であるHIV/AIDSに重点が移されていきます。・・・それ以降は、一番疎外され、スティグマ(偏見・烙印)を負わされた住民グループのニーズに応え、彼らのインクルージョン(包摂)そして、エンパワメントの実現に、活動は注力していきます。

 こうしたスティグマを負わされたグループには、例えば、ゲイ、トランスジェンダーの人たち、ストリートチルドレン、セックスワーカー、そして、貧しいラオスや近隣諸国からの移民者が含まれています。これらのグループに属する人たち自身が、今ではプログラムの中で、中心的な役割を果たしています。

さて、バディ・ホーム・ケア活動は、2016年にHSFによって、二種類の、立場の弱いグループへの支援を目的として開始されました。1)困難な状況に置かれた子どもたち、2)慢性的な病気や障害を持つお年寄り、です。バディ・ホーム・ケア活動の狙いは、病気や障害で不利な立場にある人びとのニーズに対して、子どもたちが、地域のケアギバー(介護者としての訓練を受けた保健ボランティア)のバディ(相棒)となって家庭訪問を一緒に行う中で、応えていくというところにあります。

 「バディ」であるケアギバーと一緒に、この子どもたちは、定期的に近隣の高齢で、体の弱った病人の家を定期訪問し、助けてあげています。このプロセスの中で、高齢者と子どもはしばしば親密で互いに支えあうような絆を結ぶようになっていくのです。こうして、自ら弱い立場にある子どもが、ケアギバーと、さらには介助を必要とするお年寄りと、互いに支え合う同志、または「バディ」となっていく。これは、三者のウインーウインーウインの関係ということもできるでしょう。

 私(デビッド)が前回1年半前にタイを訪れてから以降、バディ・ホーム・ケアのプロジェクトはその活動範囲を広げ、気づきを高めていくような参加型の方法で、より多様な地域の人たちにアウトリーチ(接近)していくようになりました。これは、地域住民が互いに気遣いを共有し、インクルージョンを進めていった結果です。

 私は最近、トオルからもらった手紙で(彼は2017年5月の私のウボンへの旅行に同行してくれ、その後2018年8月にフォローアップの現地視察をしてくれたのです)、バディ・ホーム・ケアの新しい展開について知ることができました。

写真2.トムとトオル

【写真2】本田徹医師(写真右手)が、彼の最近のタイ訪問(2018年8月16日)で、HSFのスタッフ、トム(Thom)と並んで、新設のケマラート病院保健活動トレーニングセンターの建物前に立っている。トムはすぐれた教育者であるとともに活動家であり、バディ・ホーム・ケアのワークショップの運営責任者となったり、このニュースレターで紹介するロールプレイの企画や実施を助けてくれたりしている。

写真3.チェリーとトム

【写真3】新設のケマラート病院トレーニングセンターの前に立つ、チェリー(Cherry)とトムの二人は、HSFのリーダーだ。この建物はヘルス・プロモーター(保健ボランティア)の集会の場であり、LGBTの仲間が集って活動し、HIV/AIDSの人たちやバディ・ホーム・ケアの活動やワークショップのためにも利用される。

 私への手紙の中で、トオルは、HSFによる新しい、人びとの気づきを高める活動を紹介してくれています。それは、「紐の力(The Power of String)」という、すこし謎めいた名前のロールプレイ(役割劇)です。トオル医師は、HSFの代表であるMs.チェリーによって作られたこのロールプレイの筋書きを、写真とともに私に送ってくれました。以下のような観察記事は、トオルの手紙、チェリーから届いた補足を合わせ、私がまとめあげたものです。

 「紐の力」というロールプレイを始める前に、「見あげて話す、見おろして話す」というアイスブレィキング(座を和ませる)の余興が司会ニーナさんの導きで行われました。このゲームでは、全参加者がペアになります。それぞれのペアのうち、一人が床に座り、もう一人が彼女・彼を見おろすように立ち、ペアはお互いに話し始めます。こうして、一人が見あげるようにして話し、他の一人が見おろすように話します。次に二人ともが床に腰をおろして、話し続けるように勧められます。つまり、今度は同じ目線の高さでペアは話し合います。それが終わると、まとめの全体討論があり、参加者が座位と立位という違った位置でどう気分の差を感じたか、また話す時の姿勢の動力学的変化(dynamic)が、実際の生活の場での、平等・不平等の感覚の違いと対応するのかどうかなど、グループで討論します。この練習が、次のロールプレイへの舞台を準備することになります。

写真4. 見上げると見おろす

【写真4】アイスブレイキングの練習「見あげて話す、見おろして話す」において、参加者はペアを組み、一人は立ち、相手は座る。立った人は見おろすように話し、座った人は見あげるように話すことになる。次に二人ともが座って、同じ目線で話し合う。これに引き続くグループ討論の中で司会者は、「この話す時の立ち位置の違いは、実際の生活での人間関係をどう反映するのか考えてください。」と問いかける。

 「紐の力」のロールプレイは、10代の妊娠について考えるものです。
このワークショップに参加する人たち(保健分野や福祉分野のワーカーたち、ホームケアのバディたち)は、コミュニティのさまざま異なったメンバーの役を演じます。それらの役には、保健ボランティア、村長、保健・医療機関のスタッフ、教師など、村において、子どもたちに対してある期間、影響力を及ぼす立場の人が含まれます。このワークショップでは、「バディ」たちに、スティグマ(社会的偏見・烙印)がどのように、その烙印を押された人を苦しめるか、を知ってもらうことが目的となります。


 私はトオルから送られてきた、「紐の力」のロールプレイの報告をもとに、それを少し編集して以下に示してみます。

 「このたび私(トオル)は、ケマラート郡で、バディ・ホーム・ケアのワークショップを見学する機会をもちました。テーマと目的は、ティーン(10代)の若者たちの激怒、いじめ、薬物嗜癖・乱用、スマホ依存、そして妊娠などの問題に対して親の気づきを促そうというものでした。こうした問題は、タイだけでなく、アメリカでも日本でも蔓延している、共通のものと私は思います。このワークショップで演じられた、非常に興味深いロールプレイは、まさにティーンの妊娠を扱った、ミニ演劇でした。

 このロールプレイに主演する役者は若者グループのリーダーですが、妊娠した中学校の女生徒役に扮して、大きな輪の中心に座らされています。彼女を取り囲んでいるのは、(参加者でも役者でもある)20名ほどの村人たちです。ドラマの中での彼らの職業や女生徒との関係は多岐にわたり、村長、彼女の父親、母親、祖母、祖父、姉妹たち、兄弟たち、伯母、学校の先生、福祉局の役人、ヘルス・センターの職員などなどです。

 第一場では、少女を囲む面々は非常に彼女に対して批判的で、「お前は村にとっても、家族にとっても、学校にとっても恥さらしだ。」と言った発言が飛び交います。一人がこうした不親切で、凍りつくような発言を投げかけるごとに、少女の体は、ビニールの紐で巻かれ、非難者の手に紐の端が握られます。最終的には、彼女の体は20本以上の紐でがんじがらめにされてしまいます。

 少女の顔は、いくら芝居の上とは言え、緊張で引きつり、絶望的な表情のように見えます。

写真5.ぐるぐる巻きにされた少女

【写真5】 ロールプレイの第一場では、妊娠した女子生徒に対して、少女を取り囲む全員が批判的である。誰かが彼女に残酷で叱責するような言葉を投げかけるたびに、少女の体に紐が巻かれ、批難した人の手に紐の端が握られる。最後には20本以上もの紐で彼女の体はぐるぐると巻きつけられてしまう。

 ところが、第二場では、人びとは少しずつ心を和らげていきます。彼らの言葉も、チェリーの表現によると「ネガテイブからポジテイブへ」と変化していくのです。

 ……彼女を取り巻く人びとの態度も、穏やかで受容的なものになっていく。例えば、「もし赤ちゃんが生まれた後、学校に戻りたければ、大丈夫よ。」(学校の先生)とか、「妊婦健診のクリニックにいらっしゃいね。」(保健センターの助産師)などの言葉をかけてあげるようになります。

写真6.紐を解かれた少女

【写真6】ロールプレイの第二場では、妊娠した中学生を取り囲む人びとはだんだん理解をもち、親切になっていく。一人がやさしい言葉をかけてあげると、そのたびに紐が一本取り除かれていく。

 すべての紐が取り除かれた後で、少女と「村人たち」(ワークショップの参加者がそれぞれ演じている)は集まって、第一場を演じて互いに心に感じたことを話し合い、次に第二場を演じてどのように彼らの心持ちが変化したかを語り合った。

写真7.まとめのグループワーク

【写真7】ロールプレイのまとめに、参加者はそこから学んだことを話し合い、各グループで模造紙に結論を書いた。(写真に出ている模造紙を囲む4人の若者は皆このプロジェクトの「バディ」である)

 トオル医師は以下のように語っています。

 「私にとってこのロールプレイの鑑賞は、本当に心から感動すべき体験だったのです。私のぎこちない英語が、このミニ・ドラマの香りをすこしでも伝えているとよいのですが。・・・」

 一方チェリーは、今回の活動のサマリーとして、次のような結論を書き送ってくれました。

 「この活動は村の人たちに、ティーンの妊娠について、ときに否定的であったり、ときに支援的であったりして揺れている、彼らの真の気持ちを自由に表現してもらうよい機会になったと思います。」

 「彼らが吐くむごい言葉は、少女を傷つけ、安らぎを与えません。こうした態度は、ゆっくり聴いてあげる態度に戸を閉(た)ててしまい、子どもらと一緒に問題を解決していくことをむずかしくします。こうして、参加者は否定的な気持ちを肯定的な気持ちと比べてみて、後者のほうが少女にとっても、自分たちにとっても、より受け入れやすいものであることを悟ります。」

 「ティーン世代に対してより多くの否定的な感情のあるところでは、より多くのスティグマ(偏見)と差別が生まれ、最悪の場合、彼らを自殺に追い込むのです。」

写真8. 心ないことばで凍り付く少女の心

【写真8】これら底意地の悪い言葉すべてが、家族や先生や福祉カウンセラー、村長などから一斉に投げかけられると、若者リーダ−のように、ただ妊娠した中学生役を演じているだけの女性でも、みじめで、心かき乱される状態になってしまうものなのだ。

 こうした子どもたちの問題を解決していくためには、HSFは近隣のコミュティにまで、働きかけをしていかねばならないのでしょう。

 バディ・ホーム・ケアに従事する、大人のケアギバー(保健ボランティア)と子どもの相棒は、彼らの支援を必要としている、立場の弱い人たちに対して、裁くことなく、支援的な態度で接し、スティグマや差別を生む言葉に対して、鋭敏でなければならないのでしょう。否定的な態度は、妊娠した少女に対して、彼女にとって必要な保健サービスを受けることを、拒ませてしまう結果を生じやすいのです。

 結論として、私(デービッド)はこう考えます。「紐の力」の活動は、一人の人間の健康と福祉は、その人自身の身体と精神の健康状態だけに依存しているのではなく、彼女を取り巻く周囲の人びとの態度や接し方によるところが大きいのだということを、如実に私たちに気づかせてくれるのです。

 よいヘルス・ケアを提供するためには、ケアリング・コミュニティ(気づかい合う地域)が必要です。HSFチームの活動は、さまざまな意味において、こうした支えあいのケアリング・コミュニティを創っていくための助けとなることでしょう。


(2019.4.5 翻訳・文責 本田 徹)



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