この「変わり種Jazz」というカテゴリは、Jazzを聴き始めたばかりのリスナー向けというよりも、ジャズの世界をより深く理解するためのマニアックでマイナーな作品を紹介するカテゴリです。一風変わった作品、マイナーなプレイヤーによる味のある作品、マニア受けする作品を紹介していきます。
今回取り上げるのは、J.J. Johnson & Kai Winding作品。あるいはKai Winding & J.J. Johnson作品と表記されることもあります。J.J. Johnson【ウィキペディア:J.J. ジョンソン】は、ご存じの通りモダン・ジャズ期を代表するトロンボーン奏者。 ジャズ愛好家に「トロンボーン奏者と言えば?」と質問すると、7〜8割の方は「J.J.」と応えるのではないでしょうか。
トロンボーン奏者は、戦前のニューオリンズ・ジャズやスウィング・ジャズ期は花形プレイヤーとして活躍していました。ルイ・アームストロングの音源や映像を参照すると判りますが、トランペット/クラリネットと並び、彼らと一体となりトロンボーンはフロント・ラインを形成。スライドを伸縮させて音階を変化させるトロンボーンは、トランペットやサックスには出せない中間音を出すことができる点が特徴とされ、が故にハーモニーを構成する重要な役割を担っていたとされております。
ところが、モダン・ジャズ期に入りアドリヴ重視型のスタイルが全盛を迎えると、スライドを前後させて音階を決める機能性が災いし、トロンボーンはモダン・ジャズには不向きな楽器と見なされるようになります。その固定観念を破り、モダン・ジャズ期の1940年代後半に新世代トロンボーン奏者として台頭したのがJ.J.ジョンソンでした。
J・J・ジョンソンは1924年インディアナポリス生まれ。9歳でピアノを弾き始め、14歳の時にトロンボーンに転向。18歳になった1942年にプロ・キャリアをスタートさせ、Snookum Russell【英語版wiki】バンドの同僚だったFats Navarroの影響で人気サックス奏者レスター・ヤングのようなスタイルで演奏するようになったそうです。
1942〜1945年まではBenny Carter Orchestraに所属。1945〜1946年にはCount basie Orchestra。名門ビッグ・バンドで腕を磨きつつ、ジョンソンは当時流行の兆しを見せていた新しいジャズであるBe-Bopスタイルにも目を向けるようになります。そのきっかけのひとつは、1946年にビ・バップ世代の大物トランペッター、ディジー・ガレスピーがジョンソンにかけた言葉だったそうです。
ディジー曰く、
「トロンボ−ンにだって(スウィング・スタイルとは)違う演奏が出来るはずだ。新世代の中からこの壁をぶち破るヤツが出てくるべきなんだ。J.J.、キミこそが選ばれし者だ!」
これをきっかけにビッグ・バンドからスモール・ユニットでの演奏へと軸足を移したJ.J.は、ニューヨークのクラブで演奏するようになります。Max Roach、Bud Powell、Sonny Stitt、Charlie Parker、Miles Davisらとレコーディングを経験し、モダン・ジャズの最重要トロンボーン奏者のポジションに上り詰めます。
一方、Kai Winding【ウィキ:カイ・ウィンディング】は同じくトロンボーン奏者。1922年にデンマークで生まれた白人です。12歳の時、ウィンディン一家はアメリカへ移住。1940年に高校卒業と同時にプロの道へ。Shorty Allen、Benny Goodman楽団、Stan Kenton楽団に参加後、Miles Davisの"The Bieth of the Cool"の録音にも参加したキャリアを持ちます。
1954年、Savoy社のプロデューサー、Ozzy Cadena氏【wiki】 は世にも奇妙な黒人と白人のトロンボーン奏者2人をフロントに据えたユニットを組むようにJ.J.Johnsonに提案。そして、J.J. Jonson + kai Winding Quintetが誕生します。
当時の時代背景や音楽性を考えるとこのユニットは異例中の異例。人種的な壁、音楽性の壁があるのは明らかです。ですが、このユニットによるレコードは爆発的な大ヒットを記録。結果として、恐るべき多くの録音が遺されております。
トロンボーン奏者がフロント、それも2人。しかも黒人と白人。この点を考慮して「変わり種Jazz」として紹介いたします。
今回は、"K + J.J."【1955】という作品を紹介するとしておりますが、英語版wiki:J.J.Johnson Discographyの中段にあるWith kai Winding as co-leaderの項目をチェックして頂くと解るのですが、このユニットは短期間に膨大な量の録音を遺しております。ですので、"K + J.J."【1955】のみならず、多作品収録曲も併せて紹介いたします。
J.J. Johnson & Kai Winding "Jay and Kai"【1954】
J・J・ジョンソン & カイ・ウィンディング 「ジェイ・アンド・カイ」【1954】
"What is This Thing called Love"。
J.J. Johnson & Kai Winding "K + J.J."【1955】
J・J・ジョンソン & カイ・ウィンディング 「K+J.J.」【1955】
"Out of This World"。
他のジャズ作品からはあまり感じられないほのぼのとした心地よさ。もっさりとしたトロンボーン独特な音が作り出すハーモニー。面白いスタイル。
J.J. Johnson & Kai Winding "Trombone For Two"【1956】
J・J・ジョンソン & カイ・ウィンディング 「トロンボーン・フォー・トゥ」【1956】
"It's Sand,Man"。
このユニットが大人気だったのも理解できます。Bass:Paul Chambers、Piano:Dick katz。
J.J. Johnson & Kai Winding "Jay & Kai +6"【1956】
J・J・ジョンソン & カイ・ウィンディング 「ジェイ・アンド・カイ+6」【1956】
このセッションは更に異色の構成。というのも、J.J.とカイの他に、なんと6人のトロンボーン奏者を招請(うち2人はBass Trombone)。タイトルの「+6」はその意。計8人のトロンボーン奏者が参加しました。この録音時、世界は深刻なトロンボーン奏者不足に陥ったものと思われます。参加メンバーの詳細は英語版wiki:Jay and Kai+6を。
"A Night In Tunisia"。
トロンボーンが集団になると他の構成のビッグ・バンドの音とあまり変わりがなくなるという不思議。
ジョンソンとウィンディングは1954年から1956年の2年間、精力的に活動し多数の録音とクラブでのツアーを成功させます。グループを友好的に解消した後も、しばしば再会セッションを実現。1958年には英国ツアーを敢行し、1960年にはImpulse!社からスタジオ録音盤を発表、1967年にはSarah Vaughanのバックを務め、1968-1969年にはCTI社で2枚のスタジオ盤を新録。1980年代前半には日本のジャズ・フェスに度々登場したそうです。
1980年代に日本のTV番組(?)で演奏するJ.J.とカイ。"It's Alright with me"。
この曲は「K+J.J.」【1955】にもスタジオ録音版が収録されております(youtubeにはありませんでした)。この映像の凄さは、Pianoが何気にTommy Flanaganであること。
同じ曲ですが、やはり日本で開催されたAurex Jazz Fes 1982でのライヴ映像。やはりピアノはフラナガンですのでほぼ同時期の収録と思われます。
2人は人間的な相性もきっと良かったのだと思います。
ウィンディングは1983年脳挫傷により死去。J.J.は2001年、ガンの闘病中に自殺してしまいます。
最後にいくつかJ.J.単独の音源を。
Fujitsu Concord Jazz Fess 1981より"Autumn Leaves"。
夜釣りに来たおっさんのようなファッションに身を包んだJ.J.の冒頭のインタビューがあまりにも素晴らしいので一部を引用いたします。
「(若手ミュージシャンに望むことは?)自分のスタイルを見つけ、特徴のある演奏をすることだよ。私たち皆、体の中にそれぞれちがう音を持っているから、それを引き出すことだ。その音がどうしてほしいのか聴こうとしなければね」
他のジャズメン、あるいは別分野のクリエイターたちも、このJ.J.発言の趣旨と同じことを述べていた記憶があります。抽象的なことを言っているようにも思えるのですが、個性とはまさに個々の音楽家の体内に宿るInner Voiceをかたちにすること。誰かの演奏をマネているだけでは決してビッグにはなれないということなのでしょう。たとえオスカー・ピーターソンの演奏を完全にコピーできたとしてもそれは外形的な装飾にすぎず、個性でもなんでもないということに。
元日本代表のオシム氏が「サッカーの日本化【japanize】が必要」と言ったことがあります。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、J.J.やオシム氏の発言を勝手にミックスしてしまうと、和製ジャズマンに必要なことはJapanizedと固有のInner Voiceを持っているか否かだと思えます。日本人のInner Voiceはアメリカの黒人のものとは全く異なっていても構わないはず。Japanizeは「さくら」や「八木節」のような邦楽を取り上げればそれで良い訳ではないはず。
と、私のようなInner Voiceのかけらすら持ち合わせていない凡庸な人間が偉そうに言っても説得力のかけらもない訳ですが。個人的には和製ジャズメンには期待しています。
1994年カーネギー・ホールで開催されたVerve社創設50周年コンサートから。"Tea For Two"。
Trombone:J.J.、Tenor:Joe Henderson、Piano:Herbie Hancock、Guitar:Kenny Burrell。Vocalは当時人気のあったソウル/R&B系シンガー、Vanessa Williams。
2013年の記事はこれが最後になります。2014年最初の記事は元旦22:00の「Jazzを読む【2】ジャズ入門書についての二、三の事柄」になります。
最後になりますが、2013年も残念ながら偉大なジャズメンがこの世を去りました。
8月5日 ジョージ・デューク氏 【George Duke/1946-2013/ウィキ/ピアニスト】
11月25日 チコ・ハミルトン氏 【Chico Hamilton/1921-2003/ウィキ/ドラマー】
12月10日 ジム・ホール氏 【Jim Hall/1930-2013/ウィキ/ギタリスト】
12月23日 ユセフ・ラティーフ氏 【Yusef Lateef/1920-2013/ウィキ/サックス・フルート】 [2014/14追記]
偉大なジャズメンがこの世を去ってしまうのは大変残念なことではあります。が、死は必然的なもの。誰も避けることができません。一方で、音楽家が遺した作品は永遠です。「ジャズメン死せども、作品は死なず」です。
またジャズメンではありませんが、12月5日に南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデラ氏【1918-2013/ウィキ】が逝去されました。個人的に大変思い入れのある方で、獄中にいたマンデラ氏の半生記を高校時代に読み、その後27年に渡る政治犯としての拘束から1990年釈放された瞬間をTVで目撃しました。私の世代にとっては冷戦の終結とベルリンの壁崩壊、湾岸戦争と並びマンデラ氏の出獄は歴史的事件でした。暗い話題の多かった時代の中で、極めつけのポジティヴな思考は大変感銘を受けました。
マンデラ氏の関連で言うと、1985年にBruce Springsteen、Bob Dylan、Jackson Browne、Keith Richards、Ringo Starr、Bonoらのロック・ミュージシャンとRun D.M.C、Afrika BanBaataa、George Clinton、Gil Scott Heron、David Ruffin、Eddie Kendricksらのソウル/Hip-Hop勢に加え、ジャズ界からはMiles Davis、Ron Carter、Herbie Hancock、Tony Williams、Stanley Jordanらが参加した南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策に異を唱える音楽プロジェクトArtists United Against ApartheidによるSun City【英語版wiki】が思い出されます。
USA For AFRICAによる"We Are The World"ほど話題にはなりませんでしたが、音楽的な先鋭性もあって、かつマイルス御大も参加しておりましたので当時はよく聴いておりました。「サンシティ」とは南アフリカにあった白人向けリゾート地のことで、黒人は入場禁止。差別政策の象徴として批判を浴びていた施設です。日本人は「名誉白人」だからオッケーなんていう話しがありました。ブルーハーツが「平成のブルース」で皮肉っていました。
Artists United Against Apartheid "Sun City"【1985】
冒頭、マイルスのトランペットでスタート。ブルース・スプリングスティーンが元テンプテーションズのスター・ヴォーカリスト、デヴィット・ラフィン、エディ・ケンドリックスと3人で歩きながら唄うシーンは素晴らしく、ブルースの真ん中に陣取らない慎み深さも特筆すべき。U2のボノが中央でかっこつけてポーズを決める下品さと比べるべくもありません(注:個人的な好き嫌いです。Stingもそうなんですが、彼らの過度なチャリティ・アピールに毎度毎度ウゲーなんです)。
5:12辺りにコンガを叩くシーンがチラリと登場しますが、彼はRay barretto。Lou Donaldosonの"Blues Walk"でコンガを叩いた人物です。6:30に踊るハービー。
全体的に格好良く、「ウィー・アー・ザ・ワールド」では無視されたジャズメンが第二次マイルス黄金のクインテットのメンバーを中心に多数参加している点も見逃せません。同じく無視されたHip-Hop陣もこちらでは好調。
マンデラ氏の死去に際しアメリカの新聞は、彼以外の政治家に皮肉を込めて「歴史上初めて思い起こされるべき政治家が亡くなった」と報じたそうです。微力かもしれませんがジャズメンもマンデラ氏の運動に貢献したことを是非とも指摘させて頂いた上で、マンデラ氏の恐るべき生涯に最大級の敬意を個人的に表させて頂きたいと思います。
もしかすると半世紀前に実現していた黒人と白人が肩を並べて演奏するJ.J.とカイの姿は、マンデラ氏の理想とするものだったのかもしれません。
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J. J. Johnson & Kai Winding
J.J. Johnson
Kai Winding