映画感想「猟人日記」

Story
伝説のビート作家、アレグザンダー・トロッキのノワール小説を、ユアン・マクレガー主演で映画化したサスペンス。1940年代後半のイギリス。貨物船の雑役人として働くジョーは、裸同然の女性の水死体を発見する。以来...(詳細こちら

【評価】★★
【エロ】★★★★
【文学性】★★★
【役者】★
【感動】
【娯楽】
映画館で見た、二本立てのうちの一本です。

チラシを見ると、
伝説のビート作家トロッキ
禁断のポルノ小説、完全映画化
運命の無慈悲さや、人生の虚しさが心をえぐる意欲作。

だと。
寡聞にして知らないんですが、「ビート作家」って何ですかね?
「ビート」って、「ビートたけし」の「ビート」じゃないよね?
そもそも「伝説」の「作家」なら、どうやって原稿依頼とかするんだろう?
いやいや、ひょっとしたら「ビート作家」ではなく、「伝説のビート。作家トロッキ」なのかもしれない。
というより、そもそも「ビート」って何なのよ?

まあくだらないツッコミはおいておきまして、この映画ですが、まあ要はエロ映画ですね。
ただ、「エロ映画」と言っても、アダルトビデオばりに、全部が全部アンアンやってるわけじゃない。
それなりにストーリーはあるんですよ。
まあエロだけど、それなりの文学性というか、そういう感じがあるんですよ
1950年代のイギリス。
運河の貨物船の住み込み船員として、ジョー(ユアン・マクレガー)は働いています。
ある朝、若い女の水死体を発見。船長のレズリー(ピーター・ミュレン)とともに死体を引き上げます。
下着一枚の水死体。当然、マスコミなどは、殺人事件として報道します。
いきなりネタバレしておきますと、その若い女の水死体、じつはジョーが関係しているんです。
その若い女は、キャシー(エミリー・モーティマー)といい、じつはジョーの恋人だったのですが、ふとしたはずみで喧嘩になり、ジョーが運河に女を突き落としてしまうんです。いわば、事故によって転落し、その女は死んでしまうのです。
映画の所々に、時系列に逆らう形で、この女との過去の日々の情景などが挟みこまれます。

で、ジョーはその事件を気にしながら運河で船員として船上で働いています。
事件は、配管工の男が逮捕されます。
憂愁さをたたえているジョーは、船長の妻エラ(ティルダ・スウィントン)などと肉体関係をもったりします。
ちなみに、貨物船には、船長、その奥さん、ジョーの3人が生活をしています。
船長が甲板で船を動かしている時に、船室でエラと狂おしいおセクスなんかしたりしています。
あるいは、船長が飲みに行っている時に、ジョーとエラは船の側で青姦とかしちゃったりします。
ジョー役のユアン・マクレガーって、スターウォーズとかに出ていたと思うんですけど、そんな彼、異常にモテモテなんですよ。
マクレガー君、ひたすらおセクスばっかやってるんです。
ある意味ダークサイドに堕ちまくった役ですね。(笑)
で、やがて船長に不倫がバレるんですが、船長は船から出て行きます。
エラと船長の子供が、船に乗り込んでくるんですけど、その子供に見せつけるようにおセクスとかしてんの。
子供、絶対にグレますよ。

で、マクレガー君は船をのっとるわけですけど、なんとエラの妹というデビ夫人そっくりな女が、夫を亡くして身寄りがないということで、船で生活するようになります。
当然、このデビ夫人みたいなエラの妹とも、路上で駅弁ファックをするマクレガー君。
デビ夫人みたいな女に勃つというのが信じられませんね。
マクレガー君の性欲は底なしです。

で、そういう船員マクレガー君のおセクスライフの合間合間に、事故で殺してしまったキャシーとのおセクスの日々が挟みこまれていきます。

やがて、エラは挙動不審なマクレガー君の動きから、自分の妹と不倫していることを感づきます。
マクレガー君は、やがてエラとも別れ、陸上で生活をするようになります。
その下宿のおかみさんとも当然のように不倫おセクス。
ですが、マクレガー君、自分の殺してしまったキャシーの裁判が気になるらしく、傍聴席で裁判を聞いたりします。
自首すりゃええのに、ウジウジと悩むマクレガー君。
意を決して、怪文書などを書いてみたりしますが、裁判には何の影響も与えません。
かわりに、何の罪もない配管工のオッサンが有罪判決を受けてしまいます。

最後に、マクレガー君は、事故現場となった運河に立ち寄り、キャシーから貰った手鏡を投げ捨て、去っていくのでした…。


とまあ、ひたすらおセクスばっか。
まあ、そういう意味でエロ映画ですね。

映画って、やっぱり一つの表現手段でしかないわけです。
で、表現手段って、それぞれのメディアに適したものがあるんです。
例えば、文学。
文字で書く文章の一つの利点は、登場人物の心情が描ける、というところにつきると思います。
つまり、心の動きを逐一表現できるという点が、文学というメディアの利点の一つなんです。
登場人物の行動と同時に、心の動きを描くことができるのが、文学という表現の利点です。

これが、映画や演劇ならどうでしょうか。
その人の行動と心の動きというのは、実は同時に描くことができません。
その人が人を殺しながら、でも「ああ、こういうことをしてしまって、僕は後悔するんだろうなぁ」なんていうことを、一つの画面に描くことはできません。
もちろん、すぐれた俳優は、表情なりセリフなりで、そういうことを表現することができるのでしょう。
ただ、それは俳優の個人的な力量に負うところが大ですが。
また、演劇では、こういう時に、いきなり舞台を暗転させ、俳優にスポットをあてて、俳優はいきなり「ああ〜」みたいに独白をすれば良いのでしょう。(いわゆる「ダイアローグ」という表現方法ですね)
でも、文学のリアリティ、行動とともに心理描写の同時性を確保することはできません。
「行動」と「心理」は、映画や演劇では両立させることが困難です。
とは言え、「ナレーション」や「ダイアローグ」などの表現方法によって、その両立は試みられてきてはいます。
ですが、やはり対話をしながら、二人の心が揺れ動く、というような、繊細で微妙な心理表現は、映画や演劇などでは表現しづらいものがあります。
すぐれた映画監督や演出家は、そういう表現困難な心の動きを、視覚化して伝える工夫をするものです。
ですが、いずれにせよ、心の動きは、映像化することが困難なのです。
そう考えると、映画や演劇とは、心の動きを描くのには適していないメディアだと思うんですね。


あとは、個人的にはキャシー役のエミリー・モーティマーは萌えでしたね。
カワイイです。
こういう女の子から結婚を迫られたら、何の問題もなくゴールインですわ。
でも、純情そうにみえて、配管工とも関係があったりして、意外と性的には奔放で、マクレガー君と倒錯したおセクス連発ですよ。うらやましいなぁ。


で、この映画なんですが、ひょっとしたら原作は面白いのかもしれません。
女を事故とはいえ、殺してしまった罪を心に抱えるマクレガー君。
その罪を消すために、狂ったようにおセクスをして、女の記憶を忘れようと思う。
だけど、やはり忘れられない。
また、無罪なのに罰を受ける配管工も気の毒。
でも、自分は捕まりたくない…。
そういう心の機微が、きっと原作では描かれているんだろうと思います。
なってったって、「ビート作家」ですからね。(苦笑)
だけど、それを映像化するとなると、やはり心理描写は描き得ないわけで、
狂ったようにおセクスするマクレガー君しか描けないじゃないですか。
見ようによっては、単なるおセクスキチガイのお話になってしまいますよ。

なんというか、優れた文学作品は、優れた映画にはなりづらいよなぁ、と思いました。
それは、一にも二にも、文学と映画というメディアの特性によるものです。
文学を映画化するさいの限界のようなものを感じた映画でした。


題名なんですが、原題は「Young Adam」だそうです。
「Adam」って、アダムとイブのアダムであると同時に、「原罪;悪に走る性向」とあるので、そういうニュアンスがあるんでしょうね。
でも、邦題の「猟人日記」は微妙な感じですね。
どういう思考経路をたどったら、「Young Adam」から「猟人日記」になるんでしょうか。
ちなみに「猟人日記」は、ツルゲーネフの短編集に同題のものがあります。内容は、「一八五二年に二二編で刊行、八〇年に三編が追加され、全二五編からなる。ハンターの見聞録のかたちで農奴の悲惨な生活と高貴な魂とを描き、農奴解放に大きな影響を及ぼした」(livedoor 辞書)とあります。
微妙に誤解を与えるので、もう少し邦題を考えた方がよかったと思うんだけどね。