峯太郎の代表作は戦前派にとっては言わずと知れた「亜細亜の曙」「敵中横断三百里」、そして戦後派にとっては「シャーロック・ホームズ・シリーズ」だ。
しかし彼の作品はそれだけで語り尽くせないさまざまなジャンルにわたっている。そのほとんどは現在では入手困難だが、それらを読まずして峯太郎の本質は語れない。一部の戦後の評論家は自分の幼少期に読んだ子ども向け小説や戦後に復刻されたものだけを読んで峯太郎を単なる軍国主義御用作家として切り捨てる向きもあるが、それは不勉強だとしか言い様がない。私もまだまだ峯太郎の作品は読み尽していないが、「軍国主義御用作家」の幻影を払拭すべく意外な作品を御紹介していきたいと思う。
最初に取り上げるのは『民族』(同盟出版社、昭和十五年十一月一日発行、二八二ページ)である。これは陸軍将校の親睦団体「偕行社」の機関誌「偕行社記事」に連載されていたというのだから驚く。なぜ驚くかというと、これは日本人が徹底的に悪玉を演じている小説だからだ。
筋書きは以下の通りだ。
自給自足の原始共産制的生活をしていたアイヌ民族の土地に、明治政府の支配
が及ぶ。かれらが共有地としていた土地も国有地と一方的に宣言されて、いまま
でのように気ままに耕作することも漁も許されなくなった。目端の利いたノダラップはいち早くシャモ(大和民族)の手下となり、美しい娘シビチャラにも町に来てシャモの使用人になることを勧める。なぜ今まで通りの生活ができなくなったのか理解できないままシビチャラと父アツシは生活に困り、ノダラップの勧めに従い、シャモの下で肉体労働に従事する。
一方若者シネックルはシャモの侵略に怒り、各地の酋長に呼びかけて反乱を計画するが、日本人の主人は一計を案じて彼らを宴会に招待し、酔わせたところで一気に天井を落して虐殺する。しかしシネックルだけはようやく生き延び逃げることが出来た。途中で結核にかかり日本人に首になった瀕死のアイヌ
に出あう。
日本人の前田はシビチャラに目をつけ、妾にしようと強引に言い寄る。以前からシビチャラに求愛していたノダラップは前田を殴り、シビチャラと逃げようとする。しかし前田は反対にノダラップを射殺し、シビチャラを強奪した。この不祥事に日本人の主人は怒り、前田にシビチャラと結婚して責任を取るように命じ前田は当惑する。
しかしその時にはシネックルがシビチャラを助け出していた。二人は父のアツシをも助けに行くが、父はすでに自殺をしていた。
シネックルはアイヌたちを率いて大反乱を起した。最初は攻勢だったが、巧みな日本人の戦術に翻弄されてアイヌは敗れ去った。
シネックルとシビチャラは遠い土地に逃れて結婚し、ヰボシが生まれる。シネックルは常に日本人を敵とヰボシに教えていた。ヰボシは小学校で非常な秀才として知られ、校長自らがこのまま朽ちさせるのは惜しいと篤志家に頼んで東京の中学校に進学させた。シネックルはシャモの知恵をうんと取ってこい、と命じて進学を許した。しかしヰボシは学問を身に付けたものの「彼等を滅ぼした者は、彼等自身である」と悟り絶望して自殺した。またそれをきいた両親も自殺をした。
ご覧の通り、一人として善玉の日本人は出てこない。みな狡猾で陰険、アイヌの土地を奪う悪玉としか言い様がない連中ばかりである。帝国主義の建前である文明を広め人類全体の進歩を助けるがために植民地を建設するというお題目さえも唱えられない。全く以て文字通りの侵略でしかない。
ではそれを峯太郎は肯定していたのかといえば、そうとはいえない。中に登場する前田のようにシビチャラを情欲の捨て所のように考えるような登場人物を配していることや、結核にかかったアイヌを平気で追いだしていることなどをみても、峯太郎はそちらに組みして描写していたとは決して言えない。
池田浩士は『【海外進出文学】論序説』(インパクト出版会、一九九七
年)でこの作品をとりあげて、「優勝劣敗のこの疑似優生学的な理念」「山中峯太郎がアイヌの滅亡を小説化しながら日本国家の現在の侵略の道を合理化しようとした」と解釈しているのは、いささか恣意的に思える。彼が紹介している粗筋
では、全体の二割ほどしかしめていないエピローグともいうべきヰボシの部分がその殆どを占めているというアンバランスさである。ここに私は池田のまず結論ありきという態度を感じる。
確かに峯太郎は前書きで「自然的現象として、狭い土の上に二本の木が生きて伸びようとする時、どちらかの一本は枯れ、そして他の一本は更に伸びる。生きることは戦いである。…吾ら大和民族は、北にアイヌ民族を、西に熊襲民族を、素質の優劣によって、おのづから征服した。彼れらの亡びた素因は、彼れら自身が劣弱性をもっていたからである。大和民族が彼等を亡ぼしたのではない」とは
述べているが、それだけの字面で論じるならこれほど楽なことはない。この本が出版された当時は支那事変が続いており、おそらく彼の念頭には日本と中国という関係がなかったとはいえまい。しかしかつて孫文の信頼する参謀として革命に参加した峯太郎として、日本と中国が戦っている現状をどう認識していたのか。 おそらく峯太郎は二度の革命に挫折した経験から、中国に対して絶望感を抱いていたのではないだろうか。峯太郎は純粋な気持ちで中国に渡り、命をかけて新中国を建設しようと意気込んでいったにもかかわらず、のちの回顧録に何度もかかれているように、中国の軍閥の軍隊は金さえ払えば簡単に寝返ったり、自分たちの権力争いに汲々として内戦を繰り返していた。そのようなことを繰り返していたところに外国につけこまれ、孫文の理想は実現しないまま亡くなってしまう。その結果峯太郎の心に湧いて出たのが「彼等を滅ぼした者は、彼等自身である」という叫びではないだろうか。
この『民族』という作品を読むと、そんな気がしてならない。単なる侵略礼賛の本ではない、複雑な背景をもった作品であると考えさせられた。
(初出:「山中峯太郎協会報第一号」)