山中峯太郎の現在では入手困難な作品を紹介するこのコーナーで、以前『民族』(同盟出版社、昭和十五年十一月一日発行、二八二ページ)を御紹介した。
これは戦前に峯太郎が書いたアイヌ民族を主人公にした小説で、征服民族と被征服民族の軋轢と悲しみを描いたものである。もともと陸軍将校向けの雑誌である『偕行社記事』に連載されていたとは思えないような、日本人の行動を非難する内容であったのは驚きであり、深く中国独立運動に関わっていた峯太郎ならではの葛藤が見いだされる名作であった。
その『民族』が、戦後になって全面改稿されて全く新しい小説、『コタンの娘』(新々社、昭和二十二年一月三十日発行、一八一ページ)となって発行された。そのあらすじはほとんど同じだが、主張する内容は全く違う。このような形での改稿は珍しいのではないだろうか。大東亜戦争を挟んだ七年間に、峯太郎の心はどう変化したのだろうか。
『コタンの娘』の前書きに峯太郎はこう書いている。
この本は、かうして書いた
「世界聖典全集」を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。
ヰボシ君と私は、その後、かなり親しくなった。アイヌ民族の事情について、さまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。その話を材料にして私は「民族」を書いた。しかし出版すると発売禁止になった。今度それを書き改め、前には書けなかつたことを、思ふとほりに書きたしたので、名まへも改めたのである。
山中峯太郎
『偕行社記事』には連載できたのに、それが単行本になって発売禁止になるというのは一寸見には奇妙なことに思えるかも知れないが、案外軍隊は内部向けには柔軟な態度だったらしい。戦況が烈しくなってきたころ、江戸川乱歩の作品は時局に合わないということでみな絶版となってしまったのは有名な事実だが、先日海軍軍人向けの小説のアンソロジー『くろがね』には江戸川乱歩ら探偵小説作家の作品が数多く採録されているのである。また発行禁止処分を行うのは警察の特高警察課だが、民間警察は軍隊には司法権が及ばないというのは「ゴーストップ事件」などで御存じの通りである。
この前書きによれば峯太郎が本当に書きたかったのは『コタンの娘』のほうであり、『民族』では書けなかったことがあったというのである。はたしてそれは本当であろうか。私はその内容から見て、昭和十五年の峯太郎が言いたかったことと、昭和二十二年の峯太郎が言いたかったことは違っているように思える。『民族』は『民族』なりに峯太郎の心境が吐露されているし、日本の置かれた立場が激変したときに書かれた『コタンの娘』はその時の峯太郎の本当の心であったと思う。
以下『民族』のあらすじと『コタンの娘』のあらすじを比較してみよう。
「自給自足の原始共産制的生活をしていたアイヌ民族の土地に、明治政府の支配が及ぶ。かれらが共有地としていた土地も国有地と一方的に宣言されて、いままでのように気ままに耕作することも漁も許されなくなった。目端の利いたノダラップはいち早くシャモ(大和民族)の手下となり、美しい娘シビチャラにも町に来てシャモの使用人になることを勧める。なぜ今まで通りの生活ができなくなったのか理解できないままシビチャラと父アツシは生活に困り、ノダラップの勧めに従い、シャモの下で肉体労働に従事する」。
ここまでは基本的には両者ともあらすじにしてしまえば一緒である。しかし基本的な違いは、『民族』に登場する日本人は横暴であるのに対して、『コタンの娘』に登場する日本人は温和でアイヌに対して親切であるということだ。どうも私には前者の日本人とアイヌの関係が、日本人と中国人の比喩であったのに対して、後者ではそれがアメリカ人(進駐軍)と日本人の比喩であるかのように思えて仕方がない。
「一方若者シネックルはシャモの侵略に怒り、各地の酋長に呼びかけて反乱を計画するが、日本人の主人は一計を案じて彼らを宴会に招待し、酔わせたところで一気に天井を落して虐殺する。しかしシネックルだけはようやく生き延び逃げることが出来た。途中で結核にかかり日本人に首になった瀕死のアイヌに出あう」というのが『民族』のつづきだが、『コタンの娘』では、若い酋長シネックルは日本人の侵略に怒るのは一緒だが、日本人が親切なために他のアイヌでシネックルに同調するものがいない。むしろシビチャラが日本人の村に行ってしまったことに対する私怨であるかのようである。だから当然反乱や虐殺もない。シネックルは単身日本人の村に忍び込むのでる。
さらに『民族』では「日本人の前田はシビチャラに目をつけ、妾にしようと強引に言い寄る。以前からシビチャラに求愛していたノダラップは前田を殴り、シビチャラと逃げようとする。しかし前田は反対にノダラップを射殺し、シビチャラを強奪した。この不祥事に日本人の主人は怒り、前田にシビチャラと結婚して責任を取るように命じ前田は当惑する。しかしその時にはシネックルがシビチャラを助け出していた。二人は父のアツシをも助けに行くが、父はすでに自殺をしていた」。
ところが『コタンの娘』では、親切な前田とシビチャラは相思相愛の仲になっているのである。前田の上司はきちんと結婚をするようにと命じ、前田も喜んで承諾する。それを聞いたノダラップはシビチャラを強奪しようとするが兵隊に阻まれ、シビチャラを撃って自分も自殺した。しかし弾は幸いシビチャラに当らなかった。その晩前田とシビチャラの結婚式が行われた。ところがその晩にシネックルが村に忍び込んできて騒ぎになるが、兵隊に捕まって縛られた。明け方になってシネックルを不憫に思ったシビチャラが縄を切ってやるが、シネックルはそのまま嫌がるシビチャラをさらって村に逃げ帰った。
しかしシネックルは自分が間違っていたことに気が付いた。「おれたちアイヌはシャモよりも、智慧と力の二つが、よほど足りない。だが、それよりも根本的には道義の低いのが、おれたちアイヌの実に大きな欠陥ではないか。このために、おれたちは人間的に負けたのだと思はずにゐられない」(一二九ページ)。といい、「神国エゾが亡びてしまふなどとは、今までのおれならば、考へもしないことだ」(一三〇ページ)、「神の民であると、うぬぼれてばかりゐて、神のこころを行はない者の国は亡びる」(一三一ページ)といっているのはまさに終戦後の日本を連想させるではないか。そしてシネックルは自分の胸を突いて自殺をする。
『民族』ではシネックルはアイヌたちを率いて大反乱を起し、最初は攻勢だったが、巧みな日本人の戦術に翻弄されてアイヌは敗れ去った。しかし当然『コタンの娘』ではそのようなことはない。そのままヰボシの物語となる。そのヰボシの物語が『民族』と比べてかなり長い。
『民族』ではシネックルとシビチャラは遠い土地に逃れて結婚し、ヰボシが生まれる。シネックルは常に日本人を敵とヰボシに教えていた。ヰボシは小学校で非常な秀才として知られ、校長自らがこのまま朽ちさせるのは惜しいと篤志家に頼んで東京の中学校に進学させた。シネックルはシャモの知恵をうんと取ってこい、と命じて進学を許した。しかしヰボシは学問を身に付けたものの「彼等を滅ぼした者は、彼等自身である」と悟り絶望して自殺した。またそれをきいた両親も自殺をした。
しかし『コタンの娘』ではシネックルは死んでしまい、シビチャラは名前の解らないアイヌの男と再婚をする。しかしそのときすでにシビチャラは前田の子を妊娠しており、その子がヰボシであった。十五年後ヰボシは秀才であり校長が手を尽くして東京の中学校に進学させるのは一緒である。しかしそこでヰボシは自殺をしなかった。どういった巡り合わせか、ヰボシが進学した中学校の教師が、ヰボシの本当の父親の前田だった。しかし二人ともそれに気が付くことはなかった。ヰボシは日本は神の国であるという教育をひとりよがりだと批判し、危険思想の持ち主だと判断されて退校になってしまった。北海道に戻り小学校の校長にこの話をすると、校長も絶交を言い渡した。ヰボシは村に帰り友達に、「枯れてはならない芽のおれたちだ。長いあひだの戦争に敗れて、今もまだ打ちひしがれてはゐるが、伸びなければならない芽だ。おれたちの胸には、アイヌの血が流れてゐる。アイヌ民族の脈が打ってゐる。この血と脈を枯れさせ亡びさせてはならない、おれたちは若いんだ。アイヌが栄えるのも亡びるのも、おれたち自身が、これから伸びるか枯れるかにある。日本人に頼ってゐてはならない。やけになってもならない」(一七九~一八〇ページ)といい、また「……日本人は威ばつてゐる。うぬぼれて威ばつてゐるものは、おそらく大きく伸びられないだらう。おれたちは日本人の長所にも短所にも、よく気をつけて行かなければならない。日本語を習つても、日本人の短所までを習つたら、オテナが戦争に負けた上に、おれたちまで日本人に負けてしまふんだ。負けるのは、もう今までで十分ぢやないか。アイヌが立ちなほるか亡びてしまふか。これから、おれたちの手でやらうぢやないか」(一八一ページ)といっている。このアイヌを日本人、日本人をアメリカ人におきかえたら、まさに当時の世相そのままである。
昭和二十二年の峯太郎が次世代の青少年にかける希望と信頼がかいま見える文章であり、これが戦後のさらなる少年小説での活躍につながるのであろう。
(初出:「山中峯太郎協会報第十一号」)