現在書店で入手することができる山中峯太郎の本は、おそらくこの三一書房の「少年小説体系」の第三巻、「山中峯太郎集」であろう。

これは数ある山中作品のなかから、「敵中横断三百里」、「亜細亜の曙」、「黒星博士」、「見えない飛行機」、「団子二等兵」を収録した貴重な本である。しかし今回このホームページを開設するにあたって読み返してみたところ、あることに気がついたのでここに書き記しておく。

それは「敵中横断三百里」(昭和五年発表)を読んでいたときのことである。私はつぎの文章にひっかかった。

中尉は中国語でたずねかえした。(p.14)

またつぎのページでも

一人の中国人がゆうゆうと出てきた。(p.15)

はたしてこの当時、「中国」という言葉をつかっていたのだろうか?私は疑問に思って初版の復刻版を取り出してみた。すると驚いたことに、

中尉は支那語で尋ね返した。(p.20)

一人の支那人が悠々と出てきた。(p.23)。

とあるではないか。これらの作品が出版されたのは言うまでもなく戦前である。戦前には戦前の言葉づかいがあり、それはひとつの文化であることは言うまでもない。このごろは「支那」という言葉に対して、「差別的」や「侮蔑的」というレッテルがはられてあまりつかわれないようだが、それが正しいかどうかは別にしても、そのような議論がされるのは現代の発言や著述に限られるべきであろう。このような戦前の「支那」と書くのが当たり前の時代に、当たり前に「支那」と書いた文章を後代の人間が勝手に改変するのは著者と時代に対する認識不足であるとしかいいようがない。

言葉と言うものは単なる道具にしかすぎない。たとえ一見耳ざわりのいい言葉に言い換えたとしても、その発言者の精神が曲がっていたとしたら、その飾られた言葉は醜い言葉でしかないのである。たとえ「支那」という単語に侮蔑的な要素があったとしても、もし編集者が、かつて孫文の右腕となって第二、第三革命を支えた山中峯太郎を本当に理解していたとしたら、このような字づらの粉飾は行い得なかっただろう。命をかけて「支那」を憂い、助けようとした山中のいう「支那」という言葉に侮蔑の意味があろうはずがないではないか。

同時代の作家でも江戸川乱歩などは、今からみればかなり差別的な表現を作品中で使っているが、現代の出版物でもこれを出版当時の状況を考慮してそのままにしてある、と必ずことわり書きをしてある。このような一文をいれれば良かったのに、どうして三一書房は作品を改変してしまったのだろうか。(改変は見てのとおり、単語だけではなく漢字も変えているのだが、ここで指摘するにとどめる)

このような改変は「敵中横断三百里」だけでなく、その他の作品にみなみられる。「団子二等兵」では一部で「支那」、一部で「中国」とかかれていて一部混乱がみられるが、ほとんどは中国に改悪されている。全集ものは読み物だけではなく、その資料性も高く評価されるべきものである。しかしこのような恣意的な単語改変や漢字の読み下しがあるようでは、三一書房版は研究資料としては全くつかいものにならないとしか言い様がない。この出版社は「近代庶民生活誌」等の歴史資料の出版でも有名であるが、このような編集方針であるならば、これら資料もその価値が疑われて当然なのではないだろうか。責任編集が山中峯太郎の伝記を執筆した尾崎秀樹氏であるならなおさらである。この再読を通して、私は改めてきちんとした山中峯太郎全集の必要性を痛感させられたのであった。

追記:

「思い出の少年倶楽部時代」(尾崎秀樹著、講談社、1997年)を読んでいたところ、かつて「少年倶楽部」の編集者だった人々の座談会『「少年倶楽部」の思い出』という一章があり、山中峯太郎に関して次のような発言があった。

『丸尾 ぼくは、以前校正部にいたでしょう。あれは『亜細亜の曙』のときだったけれど、原稿の中の漢字をいくつか、かなに開いて載せちゃったんですよ。そしたら電話で怒ってきてね、「なんということだ!」っていうわけ。そんな思い出あるんです。でも、いい人だったですよ。』(p.366)。

漢字をかなに変えただけで怒った峯太郎は、三一書房版をみてどう思うだろうか??