植村昌夫は「シャーロック・ホームズの愉しみ方」で、モリアーティ教授が大学を追われてから「army coach」になったという記述の解釈について、チャーチルの自伝とヘンリー・ジェイムズの「Owen Wingrave」を引用して、「陸軍士官学校受験予備校」(p258)と訳すべきであり、これまでの翻訳は「全部だめである。大間違いのコンコンチキである」(p241)と述べている。
 

いささか品のない表現には辟易するが、なかなか日本国内では調べにくいだろう専門用語をきちんと調べようとしたことについては、評価に値する。植村はチャーチルの伝記では「crammer」と呼ばれ、ジェームズ作品では「coach」と呼ばれているものと、モリアーティ教授の「army coach」は同一であると推論しているが、直接「army coach」という表現を見つけられなかったのは、残念である。はたしてその推論が正しいかどうか、また植村の「予備校」という表現が正しい翻訳かどうか、さらに文献を調べてみたい。


一番直接「army coach」がなにものかということを簡単明瞭に解説しているのが「An Entrance Guide to Professions and Business (専門職とビジネスマンになる方法)」(一八九八)である。ちょうどまさしくモリアーティ教授が「army coach」をしていた時代の直後の文献である。このなかでこうかかれている。


サンドハーストやウールウィッチ士官学校に入学できるようになるには、男の子を二年間は特別なArmy coachのもとに通わせなくてはいけないと、一般に広く信じられている。しかし必ずしもそうではない。多くの一流パブリック・スクールでは、陸軍に入隊希望の生徒には特別クラスを編制している。そして一生懸命勉強して、忍耐強くそのクラスの授業について行くことが出来れば、かならずや自分の学校から士官学校へ直接進学することができるだろう。また中等学校の多くでも同じような質の高い教育が行われているから、子どもたちは入学試験にうかるだけの能力を身につけることが出来る。(p3)


とある。ここではっきり「Army coach」という言葉が出て来る。つまり、「Army coach」とは士官学校入学希望者のための補習を行う教師のことだということは、はっきりした。ちなみに入学試験は必修科目が数学、ラテン語、フランス語もしくはドイツ語、英作文、地図作図であり、さらに選択として高等数学、フランス語かドイツ語で必修でとらなかったほう、ギリシャ語、英国史、科学、地理学、絵画のうちから二科目だった。「army coach」の授業料は一年で少なくとも二百ポンドはしたとかかれている。
 

なお、本書には軍人になったときの俸給額もかかれている。植村は、十九世紀末の英国で陸海軍の将校になるには「第一に身分的に中流より上の階級であること、第二に金銭的には陸海軍からの俸給に頼らずに暮らせる余裕があることだ」(p255)と述べている。実際にいくらかを本書で調べてみると、「subaltern(準大尉)」で年収が、歩兵で九六ポンド、騎兵、砲兵、工兵で一二二ポンド。王立騎馬砲兵隊で一三七ポンド。輜重兵兵站部で一八二ポンドに召使いと馬一匹。インド軍のほうがずっと報酬がよくて、三五〇ポンドももらっていた。「西インド連隊は報酬や休暇でさまざまな利点があるので、生活に余裕の無い方に向いている」(p7)とかいてある。ということは、「生活に余裕の無い方」も将校を目指すこともあるというわけで、植村が述べているように、「俸給に頼らずに暮らせる余裕」がなければ絶対に駄目だと言うわけでもない。実際、この本では軍人恩給についても言及していて、恩給は年額二十から五十ポンドはもらえ、「十八歳で入隊して、その後四十歳ほどのまだ若いときから、一生安楽に暮らせる年金がもらえるのである。他にこんな仕事があるだろうか?」(p10)と述べているのだ。もし「俸給に頼らずに暮らせる」人だったら、こんな額の年金を目当てにするだろうか。


「army coach」は士官学校を目指す少年の補習を指導する教師であるということは間違いないということはわかった。では、その教師は植村のいうように「予備校」といわれるような学校組織に属していたのか、それとも家庭教師だったのか。


植村はジェイムズの「Owen Wingrave」を引用して、「コイル氏は専門の「コーチ」であって、将来陸軍将校になろうとする若者たちに訓練を与えることを職業にしているのだった。一度に三人か四人の生徒しか取らず、その生徒たちに対して彼の職業上の秘密でもあり財産でもあるところの、絶妙の教育を施すのだ。その施設は大きなものではなかった」(p253)と書き、ここからコーチすなわち予備校教師という翻訳をしている。


同じような小規模の受験対策校の描写が、マリー・アデレード・ベロック・ローンズの「Good Old Anna」という小説にもみられる。ここにはオーランド・ロビーという「Army coach」が登場する。彼は父親の司教が残した家で「Robey's」(「ロビー校」または「ロビー塾」とでも訳すべきか)を経営しており、「将来の将校や行政官の仮の我が家」になっていると書いてあるところからみると、ここは全寮制のようだ。そして前述の本で述べてある通り、二年間学ぶとかかれている。


植村の「予備校」という訳語選択は、どうしても現代の日本語では代々木ゼミナールのような大規模校を連想してしまうが、ジェイムズやローンズの描写では、むしろ「私塾」といったほうが相応しいような小規模な印象を与える。もしこれが「予備校」と呼ぶべき程の大規模施設であったなら、それなりの学校の名前がついているはずだが、ここでもたった一人の先生の名前がついた「ロビーの塾」とでもいう程度の、しかも個人の住宅でも間に合うほどの規模でしか行われていないようだ。植村も「代々木ゼミナールや駿台のような予備校が昔のイギリスにあったのか? ああいう大規模なのはもちろんありません」(p250)とはいっているが、それでもあえて予備校という言葉を選択しているのには理解が苦しむ。


ジョージ・マンヴィル・フェンの「Sappers and Miners (工兵)」という少年小説では、父親が息子に向かって、「おまえはただちに家を出て、army tutorのところへいけ。我が家ではそんな反抗的な態度は許さない」と書いている。「go to an army tutor」というのは、やはり上述の「ロビーの塾」のような全寮制をひいているところなのだろう。


さらに実在の「army coach」の勤務先を調べてみると、


セオドア・リドリー・バーネット(一八七七年生まれ)というマンチェスター大学卒業生の経歴をみてみると、


1902~1903 デュースベリー・グラマー・スクール化学科主任

1903~1904 Army Coach、クローマー町オーヴァーストランド

1904~1905 リンカーン・グラマー・スクール科学科主任

1905~ ロンスデール町カークビーのグラマー・スクール校長 (現在のQueen Elizabeth Schoolか)


また、同じマンチェスター大学卒業生のアーネスト・ベイジル・フォークナー(1880年生まれ)をみると、


1905 サマーセット州ウエリントン、カウンティ・スクールの上級科学主任

現在 トンブリッジの「イートン・ハウス」"Army Coaching Establishment" の科学教師兼、トーンブリッジ・スクールの副科学主任。


とある。バーネットの場合はただ「Army coach」とかかれるだけで施設名は記載されていないが、フォークナーは「イートン・ハウス」という施設名が挙げられ、さらに「Army Coaching Estabilshmet(アーミー・コーチの機関)」と明記されていることから、この「イートン・ハウス」は比較的規模の大きな組織であったことがうかがわれる。それにくらべると、バーネットの場合は前述のロビーと同じような、教師一人だけのささやかな私塾レベルではなかったかと想像される。


さらに例を挙げると、イギリスの作家ハロルド・ヴァリングス(Harold Vallings 1857-1927)も army coachの経験がある。彼は上述のフォークナーが奉職したトーンブリッジ・スクールを一八七四年に卒業した後、サンドハースト士官学校に入学、軍人となるが脊髄の病気のために二年間で退役してarmy coachとなった。元軍人でarmy coachになったのは、植村の本で言及されているチャーチルを教えたジェイムズ大尉と同じである。(なお、ジェイムズ大尉の学校は「ジェイムズ大尉をはじめとした有能の士のやっている学校」(p148)とあるので、複数の教師がいる大きな学校のようだ。)しかしヴァリングズはarmy coachとしての就職先は書かれておらず、彼も個人営業だったかもしれない。


インド陸軍のハリー・ロス大佐(1869年生まれ)の経歴をその回想録からみると、


ウインザーのビューモント・カレッジ 1880-6

ウルフランズ・アーミー・コーチ・スクール 1886-8

ロイヤル・ミリタリー・アカデミー、サンドハースト 1889-90


とある。彼はパブリックスクールであるビューモント・カレッジに通ったあと、ウルフランズ・アーミー・コーチ・スクールに二年間通った。最初に言及した手引書どおりの経歴をたどっている。このウルフランズ・アーミー・コーチ・スクールはきちんと名前がついているところをみると、大規模な施設であった可能性が否定出来ない。


このように、army coachの教育施設としては、学校の名前がつくほどの或る程度の規模があるもの、教師が一人で生徒が数人の私塾程度のものがあることがわかった。では家庭教師はどうか。植村は「「黒板に向かって問題を解いている」のだから、アリバイがあるのだ。家庭教師や個人教師ではなくて、学校の教師である」(p246-7)といって、家庭教師説を否定している。しかし、エラスムス・ウェンツェル・ノルティエの書いたサー・ヘンリー・ティムソン・ルーキン将軍の伝記によると、


やがて時がたって職業選択の時期が訪れた。しかしルーキンには一つの道しかなかった。彼は軍人になりたかった。彼には二つの選択肢があった。ウールウィッチかサンドハーストである。これらの士官学校の入学試験は非常に難しかったので、ルーキンの父親はウールウィッチ出身のウィンター氏というArmy coachを雇い、試験準備をさせた。しかしルーキンはサンドハーストの入試に落第して、非常に落ち込んだ。


とある。この場合は「appointed」という単語が使われているが、どうもウインター氏のもとに息子を送り込んだのではなく、むしろウインター氏を家庭教師として呼び寄せたと読み取れるのではないだろうか。ここで前述のarmy coachの授業料を思いだしていただきたい。少なくとも年に二百ポンドはかかるといわれている。これだけの収入があれば、当時だったら十分メイド一人を雇って中流家庭を維持出来る収入である。さらにこのウインター氏はウールウィッチ士官学校出身の元将校なのだから、数十ポンドの年金が国から与えられていた。これだけの収入があるのだから、一人の生徒の元に家庭教師として毎日通うだけでも、十分生活が出来たのは明白だ。だから家庭教師説を頭から否定するのは、慎重さに欠けると言わざるを得ない。


また、これは余談かもしれないが、植村は本書の中で軍人の教育について「卒業して少尉に任官してから家庭教師や個人教師について数学なんか勉強するはずがない。そんな間抜けなやつが軍人では、大英帝国が亡びてしまう。軍人は命がけの商売である。数学なんぞできなくて一向に差しつかえない。いざというときに卑怯な振舞をしなければよいのだ。日露戦争で機関銃の恐るべき威力が実証される前だから、チャーチルなどはナポレオン戦争時代と同じようにサーベルを振りかざして騎兵突撃をする訓練ばかり受けたはずだ」(p245-6)と書いている。はたしてそうだろうか。


日本の士官学校では、本科に入ったあとは軍事学が中心になるが、築城学や交通学も含まれていて、物理学や数学が要求されるのは言うまでもない。予科においては専門学校程度の学力をつけるのを目的としていて、当然数学の授業もあった。当時学生たちのあいだでこっそりと歌われていた替え歌の一つに「シンコステータの三角が やっとすんだと思ったら 座標原点放物線 これが解析か」というのもあったほどである。また、日本の陸軍士官は任官した後にさらに陸軍大学校入学試験というさらなる難関が待ち構えていて、これに受験を希望する少尉中尉らは、日常業務を連隊長から免除されて、必死で受験勉強に取り組んでいた。その受験科目の一つには数学も入っていたのは言うまでもない。明治時代にはそれら受験生士官向けの「兵事雑誌」という受験雑誌さえあったほどだ。こういう陸軍大学校制度はアメリカやドイツに習ったもので、イギリスでも一応キャンバーリーのスタッフ・カレッジという施設はあったが、あまり活用はされなかったようだ。


しかしこれだけでは、当時の軍人が数学を学んでいたという証拠にはならない。そこでもう一つ証拠をあげておくと「性別と数学教育における国際的展望」という本の一節にこうある。「ウールウィッチ士官学校、ワッツ・アカデミー、そして王立サンドハースト士官学校などでは、青年たちが実用的な数学と科学を学んでいた」(p24)とかかれている。また天文学者のジョン・ナリエン(1782-1860)は1814年にサンドハースト士官学校の数学教師に任命され、一八二〇年には数学教授に昇進し、目の病気の為に一八五八年に辞職するまでその地位についていた。さらに数学者のサー・ジェームズ・アイボリー(1765-1842)もサンドハースト士官学校の数学教授に任命されている。このように、サンドハーストで数学教育が行われていなかったという事実はなかったといってよかろう。


だから植村の、「army coach」はすでに任官した士官に数学を教える教師ではなく、軍人志望の受験生の補習を行う教師であるという指摘は正しいものの、「予備校」という表現はいかがなものかとおもわれる。むしろ「私塾」か大規模なものであっても「補習校」ぐらいが語感としては適当ではないか。さらに「家庭教師」を頭から植村は否定しているが、家庭教師であってもおかしくない記述がみつかったこと、職業として家庭教師でも十分維持出来るということから考えると、あながち家庭教師を否定することもないのではないかとおもわれる。


参考文献

植村昌夫「シャーロック・ホームズの愉しみ方」平凡社、2011年

Ed. Jones, Henry An Entrance Guide to Professions and Business, Methuen, London, 1898.

Lowndes, Marie Adelaide Belloc, Good Old Anna, 1915.

Register of graduates up to July 1st, 1908, University of Manchester Publications.

Fenn, George Manville, Sappers and Miners, 1896.

Memoirs of Colonel Harry Ross, Indian Army 1892-1924. The National Archives.

England Football Online (http://www.englandfootballonline.com/TeamPlyrsBios/PlayersW/BioWelchR.html)

Nortier, Erasmus Wentzel Timson, Major General Sir Henry Timson Lukin (1860-1925); The Making of a South African Hero (http://scholar.sun.ac.za/bitstream/handle/10019.1/3103/Nortier,%20E%20W.pdf?sequence=1)

ホーン、パメラ、子安雅博訳、「ヴィクトリアン・サーヴァント」英宝社、2005年

Ed. Forgasz, Helen J. et.al. International Perspectives on Gender and Mathematics Education, Information Age Pub Inc, 2010.

Narrien, Johnの項。Dictionary of National Biography, 1885-1900, Volume 40, by Anges Many Clerke, (http://en.wikisource.org/wiki/Narrien,_John_(DNB00))

比留間弘「陸軍士官学校よもやま物語」光人社、昭和五八年