谷の下にある鍾乳洞で、夏は涼しく冬暖かいため、元々は村の人々の憩いの場だったそうです。
チビチリガマからの帰り、海を背にとぼとぼと畑の合間の道を歩いて宿に向かっていました。
見通しの良い交差点に出たところ、横断歩道で登校中の小学生たちの安全を見守っている中高年の男性(Bさん)が子どもたちと笑顔で挨拶を交わしています。私もおはようございまーすと言いながら歩道を渡り切ったところで、何の気なしに「今、チビチリガマに行ってみました。」と話しかけたんです。
そうしたらすかさずBさんが、「それは貴重でしたね!シムクガマも見ましたか?」と仰ったので、私がまだだと答えると、交通整理も終わる時間なのでよければ今から案内します、歩いて10分程で行けますが畑道を通るので朝とはいえ2人で行くほうが安全だと提案してくださりました。
とても紳士的な方で、歩きながら地域の歴史などを話してくださり、また私の素朴な質問にもひとつずつ丁寧に答えてくださいました。
以前は学校の先生か、何か教えてらした方なのかなと思いましたが、あまり深くは訊ねませんでした。
とてものどかで緑が豊かなさとうきび畑の小径🌿
ガマへ近づく林道。
案内して頂かなければ分からないぐらい細いですね。
ガマ内部です。黙祷と合掌を。
全長約2.5m 呑み込まれそうな、落ち着くような不思議な感覚です。
入ってみるとひんやりしています。
このガマに避難された1,000人の住民の方々。
英語を話す比嘉さんとおっしゃる方が米兵と交渉することにより、全員の命が助かった。
チビチリガマとシムクガマとの対照的な結末は、「生死を分けた」「奇跡のシムクガマ」などとして語り継がれていることを、Bさんから聴き知りました。
当時の想像を絶する恐怖や悲しみ、怒り、混乱…。自死を強いられ亡くなられた方々はもちろんですし、助かった方々の苦悩と経験は、今現在も続いているという事実を忘れてはならないと改めて思います。家族、親戚、知人同志の複雑な感情などについても考えます。
Bさんはこれより奥も、以前は入られてみたことがあるそうです。
今は水路も狭く低いので、かなり厳しそうです。
行き止まり感が迫ってきます。
読谷村には かつて、通称「像の檻」といわれる楚辺通信所Sobe Communication Site1945〜2007年がありました。
現在はアンテナを含め撤去され米軍基地内に。土地は沖縄(日本)に返還されいるとはいえ基地の影響を多大に受けている事実も見過ごせません。
公共施設を含めてあまり高さのあるビルや家屋の建設は認められていなかったという話を聞いて、確かに周りを見回すとその通りでした。
さらに、海側はおもにさとうきび畑が広がっていますが、国道を挟んだ反対側は基地の跡地や米兵の高級住宅などの白っぽい建物が目立ちます。地域住民の方々の集合住宅等は老朽化が目立つ箇所も多くその対比が。。。せめて外観を塗り直したり最低限の補修などに予算を使って手を入れたらいいのに…と思ってしまいます。
私は県外からの移住者なので、あまり立ち入ったことはいえません。
ウチナーンチュの方々のプライバシーは堅く守られるべきだと思っています。
その上で、沖縄、日本、世界中で歴史的に起きている・起こった出来事に向き合い、知り、伝えることは、戦争を繰り返さない為の自覚や自分の行動の一歩として、重要だと改めて感じました。
不思議なご縁で、案内してくださったBさん、貴重なお時間をありがとうございました。
「風化させてはならないから、多くの方に知って語り継いでほしい」と、冷静で穏やかな話し方の中に、筋の通った信念を感じました。
連絡先の交換すらしなかったので、まさに一期一会でしたが、またいつかあの交差点でお会いできたら、お声をかけさせて頂きます。それまでどうぞ、お元気で!
今日は終戦。戦後76年。
日曜日だったので、黙祷してから映画を観てゆっくり過ごしました。「ユダヤ人を救った動物園アントニーナが愛した命」(2017年)と、「ソ満国境 15歳の夏」(2015年)の2本。ソ満国境は、田中泯さん(「命の停車場」で吉永小百合さんと共演されています。)が渋くて重みがありますね。
今もなお、世界では争いや飢え、コロナ感染のこともそうですし、戦争禍にあるといえます。
いつものごとく色々と考えすぎてしまい、なかなか先に進めなくなってしまっていましたが、ようやく更新します。尻切れとんぼのようなちっぽけな記事ですが、世界の片隅から,平和&公平な社会を願い続けて…⭐︎