本に「あとがき」を書く余裕がありませんでした。以下、刊行後ではありますが、本の成立の経緯について書いてみました。

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最初から、中沢新一という一人の人物を取り上げて、本を書こうと思っていたわけではない。亜紀書房の編集者が私のところを訪れたとき、提案してくれたのは、悪と宗教というテーマだった。

そのテーマを提示されたとき、いったい何を書けばいいのか、とっさには思いつかなかった。それで、しばらく執筆を承諾する返事をしないまま、あれこれと考えていた。一応、書けそうだという感触を得て、構想を練ってみたが、そのときはもっと漠然とした内容のものだった。

その構想にもとづいて書き始めたのが、昨年の5月末のことだった。それからなんとか書き続け、4章まで書き進めたのだが、満足できるものにはならなかった。問題は、宗教とかかわる悪について、私のなかにはっきりとしたイメージがわいてこないところにあった。そのなかでは、もちろんオウム真理教の事件についてもふれたのだが、その事件の一番の悪が何なのか、それまでの見方ではそれがはっきりしなかった。

ほかの仕事もあり、どうしようかと考えているなかで、しだいにこれではないかと思い始めたのが、中沢新一氏のことだった。中沢氏と私との個人的な関係については、本のなかでもふれたが、彼とオウム真理教の事件とはどのように関係しているのか、一度それをまとめる必要があるのではと思うようになっていったのである。

その経緯は、10年前に、『宝島30』誌に「私の『中沢新一論』」を書いたときと似ている。そのときも、編集部から依頼されたのは、違うテーマだった。はっきりとは記憶していないが、オウム真理教事件とメディアとの関係といったことではなかったかと思う。だが、その号が、雑誌の休刊号になると聞いたので、この際書いておかなければならないことで、中沢氏のことを取り上げた。編集部の方も、いきなりそんな原稿が送られてきて、驚いたのではないだろうか。

今回の本で書いたことは、その「私の『中沢新一論』」の延長に位置するもので、基本的な考え方、中沢氏への疑問はそのときと変わっていない。ただ、その時点では、『へるめす』の連載で、中沢氏がオウム真理教の問題についてまとまったことを述べるような様子を見せていた。今回、有田芳生氏から送ってもらった中沢氏と林真理子氏との幻の対談を読んでみると、やはり中沢氏が『へるめす』の連載で、オウム真理教の事件についてまとまった考えを述べようとしていたことが確認された。

ところが、連載のなかで、それは書かれることはなかった。なぜ書かれなかったのか、本人は理由を語っていない。今回の本のなかでも問題にしたオウム真理教の元信者、高橋英利氏へのサリン事件の被害者が万単位に及んだらどうなるかといった問い掛けをしていたことが明るみに出たからか、あるいは「私の『中沢新一論』」が出たためなのか、それとも中沢氏が怪情報を流していたことが暴露されたためか、おそらくはこの一連の『宝島30』での報道がきっかけになっていたと思われるが、中沢氏によるオウム真理教論は書かれることがなかった。

中沢氏が、オウム真理教の事件について、何か言いたいことをもっているのは、その後の対談などでの発言からも明らかだ。事件直後にも、世間で言われている以上の意味があるという言動をくり返していた。いったいその意味とは何なのか。オウム真理教の事件の全貌が必ずしも解明されたとは言えない状況のなかで、彼が語ることには大いに意味がある。なぜそれを語らないのか。「私の『中沢新一論』」以来、そのことが私のなかに疑問としてずっと残ってきた。

私は、今回の本を書くまでに、オウム真理教の問題については、1997年の『宗教の時代とは何だったのか』(講談社)からはじまって、2001年の『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)、そして、2006年の『オウムと9.11』(メディアポート)と都合3冊本を書いている。

本を書くなかで、事件の本質がしだいに明らかになってきたように感じてきたが、一方で、解明されていない、あるいは解明しきれない謎があるとも感じてきた。その謎は、中沢氏の思想と結びついているのではないか。本を書くごとに、かえってその思いは強まってきた。その意味で、今回の本を書かれるべくして書かれた本だとも言える。

これまで私は30冊以上の本を書いてきたけれど、今回の本を書くという作業は、これまでとは明らかに違った。この本は是非とも書き上げなければならないという強い思いをもちながら書いたことは、これまでなかった。『オウム』には、それに近いものがあった。けれども、今回の方がはっきりとしていた。本が売れようと売れまいと、どう評価されようと、そんなことはいっさい関係がない。とにかく、書き上げなければならないのだと思いながら、私は書き続けた。その意味で、この本は私にとって特別な本なのである。

中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて