島田裕巳official blog

文筆家・宗教学者の島田裕巳の仕事や情報についてお知らせします。

見た物

『ジッポウ』7号に

浄土真宗系の仏教総合研究所とダイヤモンド社が編集している雑誌の『ジッポウ』7号に、「新宗教へ流れる現代人」を書きました。共同体的な新宗教から、真如苑のような「おひとりさま宗教」への展開を跡付けてみました。

ジッポウ 7
ジッポウ 7

秀山祭9月大歌舞伎昼の部

 私が歌舞伎を本格的に見るようになった最初が、2000年2月の「菅原伝授手習鑑」の半通しであった。「車引」は、それ以来、好きな演目の代表になったし、「寺子屋」で、松王丸夫妻が実は子どもを犠牲にしたのだと知ったときには、本当に驚愕した。物語を何も知らないまま見たからである。そのとき、松王丸をつとめたのが、今回と同じ幸四郎だった。そのときは、「車引」と「寺子屋」のあいだに「賀の祝」が入っていたが、今回は、「引窓」と「六歌仙」の踊りが入っている。けれども、初代吉右衛門生誕120年を記念しての秀山祭であるだけに、相当に内容は充実したものであった。

 とくに今回注目したのが、これもまた大好きな演目である「寺子屋」だった。「寺子屋」のおもしろさは、なんといっても松王丸と源蔵という二人の男の対決にあるわけで、それは「勧進帳」にも通じるものをもっているが、今回は、幸四郎と吉右衛門の兄弟共演ということで、さらに注目度が上がった。この二人、必ずしも仲が良くないという噂も流れている。その真偽は不明だが、そうした噂が流れるのも、二人の共演がとくに最近はなくなっているからである。私は二人が同じ舞台に立つのを見たことがない。最近では、「先代萩」の床下で共演しているものの、ほとんど絡むところがなく、本当の意味で共演とは言えない。どうも、1990年4月に「引窓」で共演して以来、ないらしい。いったい二人が共演するとどうなるのか、それは十分注目に値することだった。

 実際に「寺子屋」を見て、やはり兄弟の関係というものは複雑だと実感した。私自身には男の兄弟がいないので、その点がよくわからないのだが、兄と弟の対抗関係と親密さの微妙なバランスがやはり舞台の上に出ていたのではないだろうか。たとえば、いつもなら幸四郎の松王丸は、大げさなところが目立つのだが、今回はそれがなかった。抑制が効いて、それが悪くないのだ。吉右衛門にしても、芝居のうまさが表に立ってしまい、一人で芝居をしているという感じがなかった。物語のなかで、松王丸と源蔵は血がつながっているわけではないが、菅丞相を媒介にしての複雑な関係が見事に表現されていたのではないだろうか。

 さらに、複雑な思いにかられたのが、自分には子があるからこそ、小太郎を犠牲にすることができると語る場面だった。幸四郎には、染五郎という跡継ぎがいるものの、吉右衛門にはいない。しかも、初代の吉右衛門もまた、跡継ぎがおらず、だからこそ当代の吉右衛門が押さないときに跡継ぎとなり、初代のところに引き取られたのだった。おそらく、二人のこころのなかには、そうした経緯が去来したことだろう。跡継ぎの問題が注目を集めているなか、この場面一つでも見る価値がある。

7月大歌舞伎昼の部

はっきり言えば、劇作家としての泉鏡花には才能がない。7月歌舞伎座での公演で4つの作品を見て、そう思った。たしかに、それぞれの作品は、泉鏡花の幻想的で、伝奇的な特異な世界を描き出している。しかし、演劇としての盛り上がりには欠けている。仮に、玉三郎という人間が存在しなかったとしたら、今回の4つの作品が歌舞伎座の舞台にあがることは永遠になかったであろう。実際、玉三郎が出演せず、演出に回った2つの作品には無理があった。笑三郎と歌六は、「山吹」で精いっぱいの演技を見せているものの、「夜叉ヶ池」ともなれば、役者の力量のなさが如実に現れてしまっていた。

海老蔵が出た「海神別荘」も作品としてはもの足りない。いっこうに劇的な場面は訪れず、演劇を見せてもらえないまま終わってしまったという印象が強い。あるいは、改作を施せば、もう少しましな作品になるかもしれない。海のなかに嫁いできた美女が、見目麗しい公子と出会い、そのとりこになって、極楽のような日々を送る。ところが、ふと、美女は地上に残してきた家族のことが気になる。自分が幸福な生活を送っていることをなんとか知らせたいと思う。だが、公子はそれを許さない。美女は、策略をめぐらし、たとえば博士を利用して、なんとか地上に戻る。それを知って、地上に急ぐ公子。だが、間に合わない。戻った美女は、海の中に戻れない。しかも、体は蛇になっていて、人間から追われる。絶望し、自ら命を絶つ美女。それを悲しげに見つめつつ、人間はなんと愚かだと嘆く公子。そうした展開にすれば、もっと見られるものになるかもしれない。

だが、そんな問題のある作品でも海老蔵は輝いていた。今回、とくにその輝きを感じさせたのが彼の声だ。演技にはつたない部分はあるにしても、声の美しさが圧倒的で、欠点を欠点として感じさせない。その声は、「天守物語」でも生かされていたが、今まで以上に朗々と響き渡り、観客をここちよくさせる力をもっていた。その片鱗はもちろんすでにあったものだが、今回、それは大きく開花したのではないか。それは、海老蔵が今獲得しつつある自信が支えになっているのかもしれない。顔の美しさと姿のよさ、そして声の輝き。海老蔵はますますとんでもない役者になりつつある。

7月大歌舞伎夜の部

 待望の「天守物語」である。映像で新之助時代の図書之助は見たことがある。1999年3月歌舞伎座での公演をNHKが収録したものである。そのときの図書之助は、限りなく純粋ですがすがしかった。新之助のもつ魅力の一つをいかんなく表現している、まさにはまり役だと思った。それを実際の舞台で見たいものだと、映像を見てからずっと思ってきた。

 映像から7年も経った海老蔵の図書之助は、その月日の間に海老蔵がいかに成長したかをはっきりと示していた。美しさやすがすがしさはそのままに、よりたくましく、せりふも所作もはるかに安定していた。声の美しさは、まさに絶品で、舞台の上でこれほど美しい立役の声を聞いたことがないと思わせるほどだった。

 ただ、舞台を見る前から一つ懸念していたことがあり、それが残念ながら的中してしまった部分があったことも事実である。公演前の記者会見で、海老蔵は、かつての舞台のビデオを見て、「なんとお恥ずかしいものをお見せしていたのだろう、と思いました」と語っていた。たしかに、以前の図書之助には、見ていて恥ずかしくなるようなところがあった。純でいたずらに一途で、その切迫した思いが、恥ずかしさを呼ぶほどだったのだ。

 けれども、それが新之助の図書之助のたまらない魅力でもあった。その海老蔵が恥ずかしいといった図書之助の姿は、今回はなかった。それほどたくましく成長していたのである。しかし、それによって失われたものもあった。恥ずかしいと思わせるほどの一途さが、今回はなかった。それは仕方がないことかもしれない。とは思いつつ、新之助の図書之助を実際に見られなかったことを残念に思った。そこが舞台の難しさでもあると、つくづく思わずにはいられない。同じ舞台はやはり二度とめぐってこない。成長には、失うものが伴う。その残酷さを今回は強く感じた。

 

『ランティエ』8月号に

 『ランティエ』8月号は、「男を磨く夏休み教養主義復活宣言!」が特集されていて、それぞれの人間が映画、本、音楽のお勧めを10ずつ選んでコメントしています。私も、映画についてお勧めを10本紹介しています。

『ランティエ』の連載が

 『ランティエ』3月号に連載のアート情報が掲載されました。たまたま表紙は、海老蔵の信長です。いわゆる宣伝写真で目新しいものではありませんが、ちょっとうれしくなる写真であることはたしかです。

海老蔵の『信長』

 12日木曜日に、新橋演舞場で海老蔵主演の『信長』を見てきました。海老蔵の舞台を見たのは、昨年6月の博多座ですから、およそ半年見ていなかったことになります。すでにポスターのものすごい目は見ていましたが、海老蔵はやはり信長が似合うという舞台でした。

 舞台は前半と後半にわかれ、途中30分の休憩が入りますが、天下人に上り詰めていくまでを描く前半部がとくによかった。後半の演技が悪いというのではありません。それはあくまで脚本と演出の責任で、最後の本能寺の変の立ち回りは、十分に堪能させてくれました。歌舞伎ではないにもかかわらず、花道を使っていて、そこを引き上げてくるときの海老蔵の信長はぞっとする魅力を備えています。場面ごとに、服装も大きく異なりますが、どれもまたよく似合う。立ち回りでは、涙が出てきました。

 そんな海老蔵は、今回の脚本も演出も生かしきれていなかったのが残念です。とくに、後半に問題があって、本来なら信長は正気のつもりなのに、それが周囲には狂気に見えるという形でなくてはならないはずです。それを信長が狂気に陥ったかのように描くのはどうでしょうか。もっと歌舞伎の荒事の要素を盛り込むべきで、最後の場面も、たとえば、殺される信長が踏み板を蹴破って、地獄へ落ちていき、それとともに本能寺が崩れ落ちると、太陽が昇り、そこに海老蔵のシルエットが浮かんで、日蝕に変化していき、暗転といった手法は考えられなかったのでしょうか。せっかくフロイスが日蝕の話をする場面が出てくるのですから、それを生かすべきです。脚本では、秀吉の人物設定が間違っています。あれでは、とても信長を引き継いで天下人にはなれません。
 
 ほかの役者では、小田茜が一番です。久しぶりの舞台で、時代劇ははじめてということですが、舞台の上でかなり大きく、立派に見えのは見事です。なにより、信長の妹ということで、海老蔵に対抗できたのは大手柄でしょう。これから、舞台女優として花開かせて欲しい逸材ではないでしょうか。将来は、マクベス夫人など演じられるようになりそうです。

 逆に、純名りさは、彼女におされたのか、何度もせりふをかんでいました。ちょっとあせっていたようにも見えます。あとは、新七の森蘭丸が凛としてよかった。もっと狂言回しとして使うべきだったのではないでしょうか。

3度目の「ラマンチャの男」

昨日帝国劇場で「ラマンチャの男」を見ました。実は、相当前のことになると思いますが、2度ほどこの作品は見たことがあります。同じ帝国劇場と、もう一度は大阪ではなかったかと思います。映画もあり、そちらも2度見ています。

主演はもちろん松本幸四郎です。歌舞伎の舞台を見るようになってからは、幸四郎の出る舞台はあまりおもしろいと思えないし、第一、声が通らないので、避けてきました。歌舞伎のときの幸四郎とラマンチャのときの幸四郎と、いったい何が違うのか、それを確かめたいという思いもあって、今回UCカードの貸切ということで見に行ったのです。
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能「身延」、狂言「宗論」について

今回、福神研のメンバー、鈴木祐弘師が解説される横浜能楽堂での「宗論」と「身延」の公演に行ってきました。鈴木師のお話では、日蓮の登場する謡曲には、ほかに「現在七面」と「鵜飼」があるとのことでしたが、今回の「身延は」はほとんど上演されることのない珍しいものだったようです。

「身延」の前に、浄土僧と法華僧の争いを題材にした狂言の「宗論」が演じられました。歌舞伎では、「連獅子」の間狂言として演じられることが多いものですが、狂言として見たのは、はじめてか、あるいは相当昔に一度見たかもしれないという程度です。改めて狂言を見て、歌舞伎のものよりかなり違うのだということを認識しました。歌舞伎では、二人の僧侶がほとんど同じ役割を果たしていますが、狂言では浄土僧が法華僧に対して宗論を仕掛け、やり込めようとする構成になっているのですね。たしかに、こうしたほうが、狂言としての面白さが出てくるように思います。あるいは歌舞伎でも、狂言に近づけたほうがいいかもしれません。

「身延」は、身延で説法をしている日蓮のもとに、実は亡霊である里女があらわれ、法華経による功徳によって成仏させてもらうことを願うものですが、全体にまったく劇的な部分がありませんし、里女が舞うときにも、ほとんど動きがないというシンプルで、静かな曲になっています。どうもこういう作品は、演じる側も大変なようで、そのままやったら退屈以外の何者でもないものをいかに見られるようにするかで苦労があったようです。里女にしても、本来は老女で杖をついて出てくるので、さらに動きが少ないとか。終わったあと、シテの中森寛太さんがその苦労を語っていましたが、ほとんど演じられない理由もそこにあるようです。

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御ひいき勧進帳

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「勧進帳」はよく上演されますが、「御ひいき」の方はあまり上演されません。それで国立劇場まで出かけていったのですが、まあなんというのでしょうか、人間国宝が二人出ているものの、あまり楽しめる舞台ではありませんでした。

雀右衛門さんは、とても元気で、足取りもしっかりしているのですが、ただの「女暫」で、妙な公家が出てくる以外、「女暫」の省略版という感じです。昨年海老蔵の襲名興行で見た「暫」のはつらつとした演技が記憶にあるだけに、もちろん比べるのが間違ってはいますが、物足りなさを感じます。本舞台の上の雀右衛門が女ではなく、男に見えたのも、つまらなさの原因でしょうか。

次の気比神宮の場は、いったい何なのか、おもしろさがまったくわかりません。お目当ての「安宅関」の場も、意外に面白くなかった。前にこの場は、市川右近の弁慶で見て、海老蔵がやったらさぞや面白いだろうと思ったことがあるのですが、たしかに富十郎の弁慶はうまいものの、右近の必死さがない分、なんだか中途半端な弁慶の感じがしました。

勉強のために国立に行ってもたいがいいいことはないのですが、今回もそんな感じでした。いっそ若い役者でやったほうがよかったのかもしれませんね。そうなると、かなり雰囲気も違ってくるはず。だいたい、東京の4つの劇場で歌舞伎がかかる現状は、役者の数が根本的に足りなくなるように思います。せめて三つにして、もう少し濃い舞台をしてほしいものです。

冬のソナタ

いまさらなんですが、HDDに録画して、「冬のソナタ」を見ました。途中から録画したので、後半しか見ていませんが、なんだか見終わった不思議なというか、不可解な気分です。

いったいこの作品のどこがいいのでしょう。贈ってもらっている『こころの科学』では、岩宮恵子さんが「解離」という観点から、作品の分析をしていますが、それを読んでも釈然としません。ドラマのつくりが粗雑なのは、韓国だからでしょうし、音楽の挿入の仕方が日本のドラマでは考えられないくらい画一的で、入れ方も、日本なら、こんなことをしたらプロデューサーに怒鳴られるというお粗末なものです。

何よりも理解に苦しむのは、設定や筋の展開ですが、登場人物の気持ちもわからない。兄弟だとわかったときに、そこには複雑なものがあるはずなのに、まったくそれが描かれていないし、チュンサンの母親の気持ちもとても理解できません。これは、文化的な違いなのでしょうか。それとも、設定の無理がたたってのことなのでしょうか。記憶を注入するみたいな話が出てきたときには、正直オウムのことを思い出して、ぞっとしました。

これが純愛なんですか。一人の人のことをずっと思い続けるというのが、最近の純愛ブームの純愛の定義のようですが、それにしても、ユジンもあまりに察しが悪くて、泣いてばかりいるし、チェジュウは女優さんとしては素敵かもしれないけれど、最後にはどうかしていると思えてきてしまいます。ヨン様も、本人の方がはるかに魅力的で、このドラマの中ではただの木偶の坊ですよね。

岩宮さんは、「冬のソナタ」を見ることで、全体性を取り戻す可能性があるみたいなことを言ってますが、それ本当なんですか。どんどんと混乱してくるばかりです。「冬ソナ」っていったい何なんでしょう。

今年の歌舞伎を振り返る

今年の歌舞伎は、海老蔵襲名を中心に動いていったわけですが、途中團十郎の白血病による入院ということもあり、激動の日々でした。私自身は、パリも京都も行かなかったので、襲名に関しては御園座で終わった感じがしています。果たして来年博多座に行くのかどうか、今のところ未定です。もう一度助六を見るのは悪くないかもしれません。

とりあえず、今年のベスト3を上げておきたいと思います。上演順で行くと、

1月歌舞伎座 「高杯」新之助の高足売り
同じく 「二人道成寺」の玉三郎
10月国立劇場 「沼津」の我當

といったところでしょうか。海老蔵の襲名の演目は、どれも力の入って熱演だったとは思うのですが、やる方も、そして見る方も、必死で、余裕がなく、楽しめたかというとそこが怪しいのです。そこが、襲名公演の難しさでしょうか。

あげた三つは、役者本位で考えていますが、素直に今年私の頭の中に残っているものをあげてみました。どう考えてもこの三つなんですよね。関連性はあまりないと思いますが、海老蔵は、高足売りのようななんでもない役をおもしろく見せられる天才だと思います。玉三郎は、あまり好きではないのですが、これだけは菊之助との激しい対抗意識もあって、今までにない演劇体験だったと思います。我當の平作は、とにかく心に残る役どころで、素直に感動しました。

海老蔵の襲名ということにかぎれば、「勧進帳」の弁慶、「助六」の助六がなんといっても強い印象を受けました。「鏡獅子」などは、パリ公演がよかったようですね。その点では、見られなくて残念です。

さあ、来年の歌舞伎はどうなるでしょうか。私は、1月の新橋からスタートします。

王将のお題目

BS2で、坂東妻三郎の『王将』をやっているのを、最後の場面だけ見ました。坂田が、ライバルである関根の名人就任の祝いのために、病身の小春を大阪において東京まで出てきたという設定のようでした。坂田が関根に自分で編んだぞうりを渡すと、大阪から電話がかかってきて、小春が危篤だということを知るのですが、坂田はそこで電話を小春のほうに向けさせ、「お題目を唱えるから」と言って、「南無妙法蓮華経」と唱えだすのです。すると、小春も目を開け、うれしそうな顔をする。でも、もう力が尽きて、臨終ということになるのですが、娘が布団を開けてみると、小春は合掌していて、力尽き、その手が開くとなかから将棋の王将がこぼれおちるという場面です。

この場面を見ただけでも、いい映画だということがわかります。素直に感動しました。題目の使い方がたくみですよね。一度全部を見なければなりません。

島田正吾さん亡くなる

島田正吾さんが亡くなられました。私は島田さんの舞台を一度しか見たことがありませんが、それが2002年、新橋演舞場での一人芝居「夜もすがら検校」でした。この芝居が最後の舞台になったのかと思うと、感慨深いものを感じます。芝居の終わった後の恒例だという挨拶で、99歳の1人芝居について熱く語っていたのをよく覚えています。そのとき、島田さんは96歳で、私はそのちょうど半分の48歳でした。まだ人生半分なのだと思ったことを覚えています。ご冥福をお祈り申し上げます。

250円

近くの古本屋で『相性が悪い!』が250円で売られているのを見ました。たまに、自分の本が古本屋に並んでいるのを見かけると、ついいくらだろうかと値段を見てしまします。けっこう高いときは、少し嬉しいものですが、250円は複雑です。まあ、これも世の中ではあります。

ラフカット2004

昨日、新宿のスペース・ゼロでラフカット2004の公演を見てきました。ラフカットは、私の戯曲を二つとも演出してくれた堤泰之さんがやっている試みで、オーディションで選ばれた若い役者が演じるものです。今回はその10周年ということで、過去の堤作品をオリジナルメンバー(すでに役者を辞めている人も多く、その場合はメンバーが変わっています)と今回オーディションで選ばれた役者が交互に演じるという形態をとっています。

とくにそのなかでも「776」というパチンコ屋の駐車場を舞台にした作品は、私にも思い出深い作品で、今回も出ている役者、3人はその作品を見て、とても印象的だったので、「水の味」にも出てもらったという経緯があります。改めて見て、「776」は名作ですね。役者3人、桑原裕子、吉田慎之介(前はばんせい、なぜか改名していました)、松井基展にも久しぶりに会いました。「水の味」に出てもらった役者では、最近「新撰組」で人気の堺雅人が今のところ出世頭ですが、ほかの役者たちもけっこうがんばっているようです。とくに桑原は大人になりましたね。「水の味」のときは21歳でしたから、特にそう感じるのでしょう。

芝えびさんからのトラックバック

どういうお方かは存じ上げませんが、芝えびさんからトラックバックしていただきました。私と同じ日に国立で、「伊賀越道中双六」をご覧になったとか。サイトでは、以前ご覧になった歌舞伎について書いていらっしゃいます。あの日の国立では、どちらかといえば、あまり歌舞伎を見ていない観客の方が大半のようで、盛り上がりに欠けていたのですが、沼津の段はやはりかなりよかったように思います。もっと多くの人が見てしかるべき舞台だったのではないでしょうか。


先日も、立ち回りの桜月流美剱道の公演で、歌舞伎の写真をとっている二階堂さんにお会いしました。国立ではたまに写真を撮っているところをお見かけするのですが、二人で、沼津の我当はいいということで盛り上がりました。彼も久しぶりに感動したと言っていました。いつかは歌舞伎座にもかかることがあるかもしれませんが、そのときは必見でしょう。

「またの日の知華」を見る

ドキュメンタリー映画を撮り続けてきた原一男監督のはじめての劇映画「またの日の知華」の完成披露試写会が汐留でありました。私も呼ばれて見に伺いました。知人の紹介で、監督とは知り合いになり、それ以来のおつきあいです。この映画、途中で資金不足になり、完成が危ぶまれた時期もありました。そのときには、すこしだけ力になれないものかと、私も動いたことがあるだけに、映画の完成、本当にめでたく感じました。

映画としては、とても不思議な映画です。不思議といっても、謎があるとかそういうことではないし、ファンタジックなわけでもないのですが、こういう映画は見たことがない、そんな思いを抱かせるのです。それは、監督がドキュメンタリーを撮り続けてきたことと深い結びつきをもっているのではないかと感じたのですが、決してドキュメンタリーの手法で撮っているわけでもないし、なのになぜそんな思いを抱いたのか、見終わるまでどう説明していいかがわかりませんでした。

見終わった後、これは原さん映画である以上に、パートナーで今回脚本を書いている小林さんの映画なのではないかという気はしてきたのですが、原さんと話してみて、やはりそうなのだという思いを強くしました。原さんは、これまでのドキュメンタリー映画では一人の人を追ってきたわけで、今回はそれが小林さんという存在にあたるようなのです。小林さんを描くということではなく、小林さんが書いた世界をそのまま映像にしていく。原さん自身も、今回は脚本どおり素直に撮ったと言っていました。

もちろん、監督は脚本を映像化していくものなのでしょうが、ここまで素直に脚本が映像化されるということは、通常あり得ないことのように思います。その素直さが、映画にすがすがしさと美しさを与えているのではないでしょうか。4人の女優さんで1人の女性を描くというのも、もしこれが1人の女優さんで演じたらどうなるのだろうかと、想像がつきにくい分成功しているのではないでしょうか。映像も、とにかく美しい。これだけ美しい映画も珍しいのではないでしょうか。是非ご覧になっていただければと思います。来春公開のようです。

イスラエル映画と四方田氏の講演内容

四方田氏の講演について、メールで複数の方から反応がありましたので、もう少し書いておきます。まず、上演された映画は、1992年にイスラエルで制作された「デスペラード・スクエア」というものでした。これまで、日本でも上映されたことがあるようですが、私ははじめて見ました。そもそもイスラエル映画を見たこと自体、はじめての体験でした。



見はじめて、よくわからなくなったのは、本当にこれがイスラエルの映画なのという点でした。出てくる人たちが、いったい何人でどんな民族なのかがわかりにくいからです。あとで四方田氏の解説を聞いてわかってきたのは、舞台はインドからイスラエルにやってきた貧しい人たちのコミュニティーの話だということです。ただ、亡くなった映画館主の弟を演じているモハメド・バクリという人は、パレスティナ人ですから、そこらあたりの人種的な区別というものは、日本人にはほとんど不可能です。



それで、映画館主の一周忌に、その二人の息子が荒廃した映画館をなおし、映画を上演することになります。ところが、映画館主の妻と、その結婚前に、映画館主の弟とが愛し合っていて、その二人の関係にかかわりのあるインド映画「サンガム」を上演しようとすることで、いろいろな問題が起こってきます。弟は、そのとき久しぶりに村に戻ってきていて、妻と会ったりもするのです。最後は、ハッピーエンドに終わりますが、「サンガム」の映画と、村で進行する物語が重なりあうというところがみそでしょうか。



筋はそれほど劇的ではないにしても、村のなかで何をやっているかよくわからないわき役たちが個性的で、私は、黒澤明の「どん底」とかを思い出しました。実際、監督は黒澤の強い影響を受けているようです。



四方田氏の講演では、イスラエル映画の歴史をたどりながら、シオニズムという思想がどのように映画として描かれているかを追ったものでした。彼は、3月から7月までイスラエルに滞在するなかで、相当の数のイスラエル映画を見たようですが、シオニズムという理想を掲げて入植してきた人々を支える神話として映画が機能していった歴史を的確に教えてくれたように思います。彼も宗教学科で学んだだけに、私などからすると、映画の宗教学的な分析という感じが強くしました。



それにしても、イスラエルについても、シオニズムについても、私たちはあまりよく知らないのだということを印象づけられました。そもそも、四方田氏の話では、イスラエルは多民族国家で、そうなると、いったいユダヤ人という基準はどこに求められているのだろうかと、従来の見方は通用しないようです。少なくとも、アシュケナージと呼ばれる、典型的なユダヤ人がイスラエル国民ではないのはたしかです。
Profile
1953年東京生まれ
宗教学を専門とする
文筆業・
東京大学先端科学技術センター客員研究員
中央大学法学部兼任講師
メール
原稿、講演、取材などの依頼はこちらのメール(shimahiro8@yahoo.co.jp)にお願いします。

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